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58 : 悪魔の子ども ケムリ ('12/02/10 23:26:55)
悪魔の子どもが生まれたって、言わないで欲しいんだ。カシミールで毛皮を売っている彼の、その柔らかい頬に浮かんだ笑顔みたいな、そういうところで生きていこうよ。僕はスリーポイントシュートもあまり上手くないし、タップダンスも上手に踊れないけど、いつまでも林檎の皮を剥いているみたいな顔をして生きていたいよ。
ねぇ、そんなに人生に期待をしなくなったんだ。そういうことはおきてしまったんだろうし、おきてしまうだろうことだったんだ。それはそういうことだ、と思うことにした。そうじゃないと、自分も他人も許せなくなっちゃうからさ。いいかい、キー・ポイントはこういうところだ。君の身の上に起きたことはぼくの身の上にも起きるかもしれない。だから、君は独りじゃないよ。
向き合うべきだ、と思うこともある。例えば、リビアだかどっかその辺りで罪もない市民が撃ち殺されたとか、名前もそんなに有名じゃないアフリカ大陸のどこかで、今日も小さな女の子が飢えて死んだとか。そういうことを悲しむのは、歳を経るとずいぶん簡単になった。だから、僕はムガベさんを責めたとしても、君のことは責めないよ。ハロー・ハロー・聞こえますか。どこまで生きても寂しかったんです。だから、色んなことがそれでいいと思えるようになりました。
悪魔の子どもが生まれたって、風の噂で聞いてしまったんだ。それはきっと生まれたんだろうと思うし、君の空っぽの子宮の中を吹き抜けているその風には、ぼくだって覚えがある。誰も責められない、それどころかどこにおいていいかもわからないような荷物が、突然背中に乗りかかるんだ。ぼくだってそれくらいのことはわかる。だから、君のことを僕は責めない。出来ることなら、世界中の誰のことも責めたくない。そういうことは、サダムさんに任せておきたい。カダフィさんはきっと、煙草の値上がりを気にしたりはしてないだろうから。少なくとも、ぼくは煙草の値上がりを気にしたり、税金が上がって落ち込んだりするような人のことを責めたりしたくない。
空っぽの冷蔵庫しかない部屋で生きてるみたいだよね。ドアを開けて、溢れた光の中でさ、何かが何度か羽ばたいたんだ。そういう夜を、みんな越えていくんだ。空気の粒がぶつかりあう音が煩くて、眠れない夜だってある。でも、君は夜を越えたんだろ。悪魔のことは誰かがきっとどうにかしてくれる。大量破壊兵器だって見つからなかったけど、世界は結構なんとかなったじゃないか。君は新聞の一面をみて、ちょっと気の重い月曜日で生きていこう。ぼくもそうするよ。
君は独りじゃないよ。だから、ぼくも一人にしないで欲しいんだ。だって、ぼくはフリースローが入ったことがないくらいの男の子で、踵の潰れていない靴の一足も持ってない。きっと何かが間違ってたんだ、やるべきことをやらずに過ごしたんだ。寝過ごした日曜日の午前中に、ロケットは発射されてしまった。そんなことはわかってるんだ。悪魔の子どもは生まれてしまった、なにもかもがどうしようもなく掛け違ってしまった。そんな風になるべきじゃなかった、でもそんな風になってしまった。だから、君も独りじゃない。ぼくの好きなタイプの神様は、空気と同じ色をしているから誰にも見えやしない。彼の肌の色はよくわからなくて、でも彼は悲しくて、悲しくて、気がくるってしまったんだ。遊園地のメリーゴーランドで、いつまでも独りくるくる回っている。でも、これだけは大きな声で言わせてくれ。彼は、君のことが、大好きだった。
気持ちよく晴れた昼下がりのことを考えよう。悪魔の子どもが生まれたとき、君はもう独りじゃなくなったから。いいかい、ぼくは牡羊座のあいつは好きじゃないから、まるで正しい人間みたいな顔をして、石を投げるんだ。泣きながら、笑いながら、いつまでも君は白人ではなく、黒人ではなく、ぶぅん、と鳴る冷蔵庫のうなりの中で、君たち、いつまでも空っぽの子宮で、どこまで生きても寂しかったんです。彼はいつまでもくるくる回りながら、それでも君たちのことが好きです。ねぇ、君は夜を越えるんだろう。ロケットは行ってしまった、津波が何もかもさらっていった。でも、ハロー・ハロー・ハロー、聞こえますか、聞こえますね、ぼくも独りじゃない。ハロー。11 : [返信] ケムリ ('06/04/19 00:54:16)
ダーザインさんの感覚では、これでも「泥臭い」の範疇に含まれるんですか。ぼくには「丁度いい加減」だと思うんですよね。普段のダーザインさんの作品は、ソリッド過ぎて触れられないことが多い。
草原の千の舌が
湿気った夜風にざわめき
これ、いいですね。凄く良い。37 : 海を見たことがない女の子のために ケムリ ('07/12/31 13:25:23)
海を見たことがない女の子は、大抵のところウィンドウ・ショッピングを愛しているし、そうやってよく晴れた四月の午後をやり過ごしたあと、雑貨屋で大した役にも立たない小物を買って帰る生活に満足している。ライトグリーンの水性ペンとか、小さく折りたたむことが出来る切れ味の悪いつめきりとか。そういうわけで、海を見たことがない女の子の机は、いつもそういったものでごちゃごちゃしている。
海を見たことがない女の子は、無言電話がそんなに嫌いじゃない。ねえ、あなたコーヒーと紅茶、どっちが好き?とか、オールド・ファッション・ドーナツにチョコをつけるのは許せる人なの?とか、ひっきりなしに話しかけてみたりする。そういうわけで、ぼくには一日に四回、彼女の家に無言電話をする習慣がある。最近はやっと、オスのパグを一匹手に入れて街を出る算段まで話が進んだところだ。彼女はそういう架空の可能性を真冬のりすみたいにあっちこっちに埋めて、そのまま忘れてしまう。男たちは、その小さな可能性を、小さな懐炉みたいに大事に抱えて、海への道を歩いている。
海を見たことがない女の子には、身寄りは一人もいない。彼女はいつも二ヶ月遅れで家賃を払い、しょちゅう電話料金を払い忘れる。そういうわけで、ぼくは電話が通じなくなると彼女にアパートに出向いて、中身がぎゅうぎゅうに詰まった郵便受けから電話料金の請求書を引っ張り出して払い込みに行く。彼女のアパートの前の桜並木を、ポケットに請求書を突っ込んで歩く時、ぼくはちょっとだけ幸せなきもちになる。多分、春になって冬篭りの巣穴から、子ども達を連れて出て行く母熊はこんな気持ちなんだろうな、とか思ったりもする。
海を見たことがない女の子が住むモスグリーンの外壁のアパート。その前には、道路を覆い隠すような桜並木があって、この季節にはちょっとした眺めになる。そこを歩いていくとペットショップとコーヒー豆屋が並んでいて、ぼくはいつもそこでマンデリンを買い、なんだか難しい名前の猫と遊ぶ。ぼくは眠れない夜、シルバーの毛色の大きな猫の名前を思い出そうとして、布団に入ることにしている。メイン・クーン。このとても綺麗な猫のことを彼女に教えてあげよう、そう思うのは中々幸せな夜のやり過ごし方だ。
もちろん、彼女のことが好きなのは、ぼくがいつまでも海に向かって歩いているからだと思うんだけれど。それを言えば、ぼくたちはいつだって海を目指すしかない街に生まれついた。海への道は、いつも途方もないくらい良く晴れて、男たちは真昼の酒場でビールを何杯か煽って歩き出す。一息で飲み干されたグラスと硬い口ひげには真新しい泡だけが残って。その時、彼女はいつもオレンジ・ジュースとミルクを良く混ぜて、一息で飲み干そうとするんだけれど、いつもちょっとだけグラスに残って悲しい顔をする。だから、ぼくたちはもう振り返らない。
海を見たことがない女の子のために、ぼくたちに出来ることはなにもないっていうことを、認めたところから男たちはいつも歩き出す。彼女は、今夜も電話を待ち続けて、そしてベッドに入って浅く眠るだろう、そう考えるだけで歩ける道のりもあるっていうことを、ぼくたちは許されることが出来るのだろうか。海を見たことのない女の子の眠りはいつも、とても浅い。その柔らかな淀みのなかに、幾つかの可能性が消えていく。パグ犬の甘噛みとか、メイン・クーンのふさふさした銀色の尻尾とか。
海を見たことがない女の子のために出来ることは何もない。
だから、男たちは歩き出す。37 : [返信] ケムリ ('08/01/01 20:50:28 *6)
作品の真ん中に空白を置いて(それは、機能しないメタファという意味で)それを描写で「囲い込む」手法に凝っていた時期がありました。
この作品の場合、「海を見たことがない女の子」は完全に空白であって、海―女の子、の間にある意味性、なににすりかえられているのか―なにをすりかえられているのか、つまり「何のことを語っているのか」っていうものを徹底的に空白にしてある。構造的には(いや、中村さんが「空白」として書いたかはわかりませんが)まさに、「rebirth」と同じような気がします。そこを騙し切ってやろうといきまいたわけですが、どうも上手くなかった。
なにがしてあげたい、という動機、何も出来ないということ、それらを象徴する「海」。こういう小綺麗で無意味なものを置いて、その穴を囲いこむように書く。要するに、「何かしてあげたい」という動機や「何も出来ない」ということも実は、内容なんて何もないんです。この作品。書いている本人も何のメタファだかなんて考えていないし、リリカルな語感以上のものではないものを「さもなんか大事なもののように」見せよう、というのが主題です。5連目は、「説明されたような気になるが、実は全然説明されてない」っていう詐欺師レトリックを上手く機能させたかったんですが、ぼくは相変わらず女の子を口説くのが上手くならない。一言で言うと、モテるための詩作なんですが、中々難しいですね。あなた、良く喋るけど中身が空っぽじゃないって言われたような気分です。時々、自分はホントに身詰まりの悪い、夏場のカキみたいな人間だと思うことがある。いや、空っぽなのはいいんですけどね、それがバレちゃどうしようもない。あ、詩の話です。
別の場所にこの作品を投げた時、「言いたいことはよくわかる」というようなレスが結構ついて、ぼくはしてやったりと思ったんですが。流石に、空っぽなのがバレバレなのは僕の負けって感じですね。
なんていうか、読みやすくて、小奇麗で、読んだ後にはちょっとした情感以外のなーんにも残らない、スナック菓子みたいな作品が書きたかったんですが。ぼくはまだ、嘘つきとして技量が足りないようですね。稲村さんが指摘しているような場所は一つも書かず、しかもその不足を感じさせないものを書きたいんですが。(というのも、動機や答えというのは現実的なものだと思うんですよ。この、サラっと読めて消えていって欲しい世界に、そんな筋道立ったものは入れたくなかった。ただ、なんとなくの心地よい情感だけが残って欲しかったわけです)と言うか、読み手がそれぞれ勝手にこの穴の中に意味を挿入して、「なるほどそういう意味か」って納得して楽しむような作品でもありたかったんですよね。すっからかんの作品が書きたいですね、人の心にさらっと触れて、安っぽく情感を残していくような。かなり描写手法は最適化出来たとは思うんですが、やっぱり嘘をつくってのは難しい。特に、構造読解が出来る人相手には苦しい作品ですが、もう少し練習してみたいです。ありがとうございます。
動機や答え、もっと言うと「語るべきこと」みたいなのって、実はもうすっかり何もないんじゃないかと思うんですよ。だから、それをどう回避していくかが、割と詩のキー・ポイントかもしれないと思う。もちろん、銃弾飛び交う最前線に身を投げていくような作品も、出来るのであれば良いと思うんですが。ぼくはインドア派のなまっちろい男なので。結局、文章というのはたった二語、「なにを」「どのように」ということなんですが。「なにを」はちょっとぼくには荷が重いし、カンボジアで地雷撤去したりする元気もないので、「どのように」の方でそれを隠したいんですよね。いや、なんか喋りすぎですけれど。37 : [返信] ケムリ ('08/01/07 16:44:21)
>結びの二行と結ぶことができる。並列。最終連以外は並び替えても(読み手としては)何の問題もない。もとい、最終連すらその位置はベストだから、という観点からではなく、一般的な詩の流れとしてはこのような表現は最後が多いからそれに倣った。という印象である。
実は、連ごとにカットアップしてるんです、この作品。最初はもう少し終始する物語の流れがあったんですけれど、そこから中心になる部分を引っこ抜いて、さらに残ったのをシャッフルしてこの形にしてある。というわけで、見事に読まれきっていてどうしたもんかという感じなんですが。というのも、これは元々短編小説にするために書き始めたストーリーで、そのままストーリーという状態で出すには「詩」の括りは苦しかったし、かといってプロット状のものを作品として提示するのも憚られたので「書き込み」以外の形でなんとか詩として成立させられないか、という苦肉の策だったわけなんですが。>茫漠な隠喩。完結にいっちゃうとこれか。読み手が筋道だって受け取れる何を指し示しているのか、の範囲がかなり広い。
僕は小説も書く人なんですが、ここだと思うんですよ。小説が「何か」についての技術だとしたら、詩はきっと違う。積み重ねた説得力の力技を競う場だとしたらそれは大きく小説の枠組みに劣るし、何かを吐露したりあるいは発表したりする場だとしたら、「論文」や「論考」に大きく劣る。じゃあ、詩ってなんだろうってことの一つの(あくまで一つの)回答がこの形かな、と思うんですよ。中心になるものではなく、力技。何も意味しないままで何かを意味すること、そういう身振りなのかな、と思うんですね。まぁ、そういうわけでそういうことが出来る力技を色々試してみたんですが、いかんせん不足のようで練習がまだまだ必要な感じがしています。俺がこういう形の詩に求めるものってのは、「誰にとってもすわり心地の良い椅子」なんですよね、見る人のお尻の形によって、自在に形を変えて、とにかく居心地のよさだけを与える詩作。ただ、そうすると必然的に茫漠とした作品が仕上がるので、そこは小細工で「軽く」していく。まぁ、バレちゃってるんですが。もう少し手管を尽くせるんじゃないかな、と思うところもあります。あくまで、一つの方向性として。
あと、もう一つは「詩は意味するものである」という考え方。
何か「軸になるもの」があり、それを伝えるための手段である一つの信仰、「私」の物語と詩を不可分にしている作者信仰とでもいうか、そういうものが僕は徹底して嫌いなのもあります。作品の中心に「作者」って名前の空白があるとしたら、そこに座るのは読者でいいと思うんですよ。中心の穴は、読者のためにっていう感じの。まぁ、能書きだけは達者なんですが。そういう形のものも書いていけたらな、と思ってます。37 : [返信] ケムリ ('08/01/15 06:42:10 *7)
>そういった柔軟さが足りないんだ、この作品は。能書きのために根本の部分を上手く使おう。どうせ汚れるなら汚れを利用しなって。
もし、俺がここで作品を書く動機がカネや名誉なら、俺は躊躇い無くそれを駆使するだろうし、作者(=俺)の神格化に物凄い労力を払うと思う。もっと言えば、自分の作品の価値を明らかに貶める『意図の開陳』みたいなことも、絶対にしないでしょうね。例えば、この作品にだって巧く作者信仰に結びつくようなレスを付与して、自己批評の形で価値の向上を図ることだって出来ただろうし、多くの作者がその生い立ちや性格、ある種の構築された神話の一形態、創作物と作者の完全な癒着を起こしているように、それが多分クレバーなやり方なんだろうと思うんですよ。それは、ホントに。
というのも、俺は文章でメシを食いたい人だし、もしなんかで俺の文章が売れたら、俺が「文学極道のケムリ」であることは死ぬ気で隠すと思うんですよね。やっぱ、作者ってのは信仰させて、客を騙し切ってナンボですから。大体、上記のようなレスをつけて、通常の(批評、ではない)賞賛を受けようなんて土台不可能だろうと思います。まぁ、言い方は悪いけど、自分で自分の作品に泥ぶっかけてるわけですよ。まぁ、『評価を受ける』って一点で言えば、物凄く愚かだと思う。大体、日本人の作品評価基準なんて所謂「シロウト」(作者の死を知らないって意味で)の中では完全に固着化してるわけだから、上手に「汚れ」を使いこなすのが巧い作家だと思うんですよね、それは俺も。
ただ、俺は作家志望の気の弱いお兄ちゃんではなく、文学極道のケムリで、俺の作品は評価されるため、と言うより叩かれるために出すほうがいいと思うんですよ。少なくとも、ここでは。だって、何でもありで利用し尽くしたら、俺が普段エラそうに語ってるリクツとの整合性が失われてしまうわけじゃないですか。
文学極道ってのは、作品構造のハラワタまで引っこ抜いて見せ合う場であって欲しいわけです。それが、結果的に作品評価を下げるとしても。「明日凄い作品を書く」ことが大事で、「今日の作品」は永久に、明日のためにある。鍛錬場に信仰を、少なくとも発起人が持ち込んではいけないでしょう。柔軟では無いってのが、ケムリとして書く上で大事なことなんだと思うんですね。
まぁ、それはそれとして。
「ケムリ」って名前と断絶されたら、俺は平気で嘘をつきまくると思うんですけどね。その程度には俺も、結構あざといです。でも、この場ではこういう姿勢でいるのが、一番(俺としては)信頼に足る読み手である道かな、と。
結局、この場で賞賛されても今んとこ、カネにはなりません。名誉にも、狭い村で多少の自尊心を満たすってこと以上には、ならない。要するに、賞賛って飽きるんですよね。ものすごーく尊大なことを言うと、俺は褒められるのには相当飽き飽きしてるわけです。だから、「それを言っちゃ身もフタもない」って感じに作品を追い込んで、カネや名誉以外のものをいただいているつもりだったり。っていうのも、ここはやっぱり「稽古場」なんですね。全力で、手管を尽くして評価を取りに行くってのは、いずれ飽きます。それなら、むしろ叩きやすいように作品を開ききって、叩かれて鍛えたい、とかそんな感じでしょうか。もちろん、ケムリってネームクレジットを打たれた作者の神性とか、作品の神話的価値とかはドン底になるわけだけれど。やっぱ、鍛錬ってのはそういうものじゃないですか。
詩ってのは、ある種の手品に近いものだと思うんですよ。そりゃあ、タネ明しをすればするほど魅力は失われる。でも、手品師同士の技術比べじゃないですか。そこにはやっぱり、「これは所詮手品である」っていう、突き放した態度が必要になるのではないかな、と。俺は、詩も小説も気の利いた嘘と同義だと思ってますから。その程度に過ぎない、と。だから、この場に限っては「タネも仕掛けもない奇跡です」ではなく「これこれこういうタネなんですが、いかがなモンですかね?』と、やるわけだし、自分の作品が「奇跡」だと信じてる人には「ああ、こういう仕組みね…」ってやっちゃうわけで。他人をそういう風にザクザク刻む以上、自分だけ特権ってわけには、いかないかなぁ、と。
なんか、「アウシュビッツ以後詩を書くことは野蛮である」って言ってる人いるじゃないですか。アレって要するに「ケツ拭いた手でメシ食うなよ」って意味だと俺は思うんですが。何でこれが、詩や理性に対する批判になるのか全然わかんないんですよね。詩は詐術。安い心と馬鹿な読者を安っぽく煽り、作者を信仰させる技術、そういう面については俺はとことん突き放して物事を見てます。「天才詩人の代表格?ヒトラーじゃね?」ってくらいには。でも、文学極道っていう場で俺が率先してそれをやるのは、『巧い詩を書こう』『皆で上達しよう」っていうのに反すると思うんですよね、そういう感じです。超長いな。15 : [返信] ケムリ ('06/10/20 00:21:58)
ダーザインさんの作品としては、構成がいただけないように思います。
パーツの一つ一つが、個人的な思いいれのあるものであるのは十分解るのですが、それが読み手には恐らく、ダーザインさんほどの明晰さで結実しない。ガチャガチャしているように思えてしまうんです。ワンピースの少女という要素も、ただそこにある記号、としかぼくは受け取れなかった。勿論、機能はわかります。ダーザインさんのコメントも読みましたし。しかし、それは一つの思考の順路記号としてしか機能していないに思えます。
強烈な要素がもつれあい過ぎて、詩のトータルの形が解らない。一つの世界性にまで高まっていない。「ネオベネチア」という単語は、これだけの要素を収斂させる特異点には届かなかったのではないでしょうか。そんな風に思います。
最後の2連、これはお見事、という他無い程上手に決めているんですが、その前の要素が余りにも大きすぎる。この程度で一つの詩作品になる程度のものじゃないんじゃないか、抑えこめていないんじゃないか、そんな気がします。26 : [返信] ケムリ ('07/07/18 08:45:45)
うん、とても上手で、退屈です。
ある程度書けるのは当たり前、という土俵に立ったとき、実に攻撃力に乏しい作品だと思う。ただ評価されるのではなく、ずば抜けるためにはここから何があるのか、っていう場所だと思うんですよ。表現の錬度、文体の流麗さ、独自性、作品の構造、それらはあって当たり前、その上で何をもたらすか、っていうのが二つ目のスタートラインだと思うんですが。そうしてみたとき、巧いけどそれだけだなぁ、とぼくは思ってしまう。
「良く書ける書き手」からの脱却。もちろん、みんなここで苦しんでるんですけれど、まさにそこかなぁ、と。ほどほどに挿入されるイメージと描写、手馴れた文体、表現、そのいずれも読み手を引きずり込むものではない。例えば、書きなれた人なら「上手だなぁ」と思うだろうと思うんです。でも、経済学部で好きな作家は赤川次郎っていうヤマモト君が読んだら、「これはなんなの?」って聞くんじゃないかなって気がする。もちろん、驚くほど自分を棚に上げた批評ですが。36 : いつか遊園地へ(せかいの終わりに) ケムリ ('07/11/03 22:47:47 *1)
廃墟になった遊園地(笑)の、メリーゴーランド(笑)の上で
ゴースト(笑)たちが手をつなげた日
水の出ない噴水(笑)の回りに子ども達がいつしか集まって
砂浜に置き忘れた回路が回り始める
星をつなぐひとたち(笑)のために。
ステンドグラスを通りぬけたひかりを浴びて
レストランの真ん中ではっかの煙草(笑)を吸った
テーブルの落書きを見ているうちに
あなたはきっと綺麗になる 何もかも忘れて
切実な夜(笑)のために。
回らなくなった観覧車(笑)が
影を伸ばすためだけに、両足で立ちつづけた
恋しい気持ち(笑)が忘れられないぼくらは
深夜の遊園地(笑)に行きたくて せかいの終わり(笑)を描く
描かれたゴースト(笑)たちに。
世界が終わったら(笑)、ぼくは猫を連れて
廃墟になった遊園地(笑)に向かうだろう
そこでぼくらは、旧い夢(笑)たちと
星空のしたでテーブルを囲んで、一つずつ星くずに名前をつける(笑)
描けないゴースト(笑)たちに。
ゆびさきを遊ばせて(笑)、小さく触れ合おう(笑)
錆びたコーヒーカップ(笑)の上で
自転をやめた星(笑)の上で、繋がってしまった大陸(笑)に
ゴースト(笑)たちの喧騒の中で、もう一度
子ども達は静かに歌い始める。そして、あなたは綺麗になる。
透明な羽ばたき(笑)が、耳をくすぐって
作り物の花(笑)が、夜風の中で泳いでいく
骨になったぼくたちの、風通しのよいろっこつを
ほこり混じりの風が通り抜けていく
世界の終わり(笑)に、猫を連れて。
あなたは綺麗になる、せかいの終わりに
ゴースト(笑)のざわめきの中で
造花の群れ(笑)の中で乾いていくぼくたち(笑)の
一つずつ星屑に名前をつける(笑)
いつか、遊園地へ36 : [返信] ケムリ ('07/11/13 00:03:03)
>あさん
いやー、その通りなんだけど、ぶっちゃけ忘れた(笑)
あと、せかいの終わり(笑)のどっちがより効率的に作品をぶち壊すかも判断に悩んだ。まぁ、それを避けるために「世界」を「せかい」にしたり小細工してるんだけれど、ほとんど無意味ですねこれ。もちろん、一個や二個そういうものが入りこんでも、作品内部でそれが昇華されてれば問題なかったりするんですが、(笑)が題名につくってことはこの作品は非常に「負けてる」わけですね。>稲村さん
ノーストレスで読めて、消えていく消費される作品を書いてみたい、と思ってた時期がありました。そういうわけで、表面上は整っているがなんか薄っぺらい、そんな作品だと思ってます。ただ、俺の場合この読みやすさとポップさは否定的だけでなく、肯定的にも利用したいな、と思うフシもあり、なんか色々悩んでたりします。そこを厚くする、作品世界を広げていく、っていうのは手段としてはよくわかるんですが、この流れを崩さずにやるってのが難しくて、結局この四行短文を並べる手法は放棄したわけだったり。
何か他人を効率的に殴る手段を見つけたら、とりあえず自分も殴ってみるのがフェアな態度だと思ったり思わなかったり。36 : [返信] ケムリ ('07/11/19 05:11:12)
(笑)、付けすぎるとそれ自体が解体されて意味を失いますね。確かに書いててそれは非常に思いました。題名に一発つけた方が効果的かもしれない。
36 : [返信] ケムリ ('07/11/27 03:20:09 *7)
おう、確かにこれはヘタです。
あと、(笑)はあれなんですよ、他人をこの方法で罵倒したならば、俺は俺の作品をこの方法で読まなければならない、そういう義務感です。他人に与えた痛みは、読みは、自分にも与えなければならないってことで。(笑)は詩的効果ではなく、真逆。この作品のヘタっぷりを明らかにするためのものです。スイーツ(笑)みたいな「消尽する読み」を試してます。詩的語彙がどこまで生き残るか。ちょいとログ辿って、経緯読んでください。的外れです。一度、「悪しき見本」として出した後に、書き加えられたものです。俺は他人の作品を裁く立場に立つ以上、自分の作品を痛めつけることを躊躇しない、という表出でもあります。特権的立場に置いて、他人だけを裁く人間なんて大嫌いだ。俺は他人に与える痛みを自分でも受容するってことです。
それともう一つ。回路は「周る」ものではなく「回る」もんです。通常の範囲として、ですね。日本語をご存じない、第三国の人間ならやむを得ないミスとは思いますが。「周る」にする意味は感じられない。三連目についてはその通り、ポップの範疇に回収される「陳腐さ」を狙ってます。ただ、その狙い自体がつまらないことははっきりしていて、正直「悪い見本」として出してるわけです。もっと言えば、この作品はフォーラムの単純なポイント狙いの悪しき見本なんです。20ポイント近く入ったわけですがね、こういうのは認めないよ、って意味で。まったくもって、ゴミです。整えられたゴミ、その通り。
それと、俺は正直意図的に、文学極道の狂信者を演じてます。そういう役回りは、恐らく必要なんでしょう。教義のために教祖を殺す気はアリアリです、もし俺の意に添わなければ、俺はダーザイン氏でも真正面からぶったたくでしょう。狂信者ってのはそういうもんです。自意識過剰なクソガキと違い、俺には目的意識と方法論がある。それだけです。だから、「気に入らなければ失せろ」って位置に立ち続ける限り、「俺が文学極道の意思だ」というところに立つ限り、俺が論議で負けることは有り得ないし、邪魔な人間は容赦なく排除する。本当に、それだけなんですよ。場を守ることを一義とするだけでいいんですよ、俺は。そのための手間と努力は惜しまないし、屁みたいな罵倒をする人間や、あるいは根拠も無く自分を高みに置くような人間は、どんどん攻撃する。罵倒ってのはね、誠実でなきゃいけないんですよ。少なくとも、何か一つの拠り所に関して。誰でも言えるものは罵倒じゃない、文学極道の文脈ではね。そういう人間は、必要ない。おまえは不要な人間だよ、死んでいい。それだけなんだとね。36 : [返信] ケムリ ('07/11/29 17:07:00 *10)
場を守ること、方法の問題と目的を明確にしていくこと。それは全て同義だと俺は考えているよ。いい作品を作って、持ってきて、場を維持できるならそれもいいし、場が成熟して落ち着きを取り戻したらそういう方向にシフトしようかとも思っている。相田みたいのが消えればね。俺だって、好き好んで一番嫌われる役目をやってるわけじゃない。むしろ、俺がゴチャラゴチャラ言わなくても、ほっといても場が適切に維持される状況になるなら、俺の仕事は四分の一くらいになるわけで。もっと、作品一つ一つに入念に評を入れられるから、確かに望むことなんだけれど。現実的に、厳しいだろ。俺は厳しいと思っている。参加する人間が場の狙いと目標を理解し、ある程度適切に「使って」くれればいいんだけどね。内心では賛同できない面も多いが、ここはそういうルールだ、と。そういう評価を受けるために「利用する」でいいと思っている。ただ、今のところそういうことが出来ない方が多いから、俺は当分この独裁を続けるよ。
〜した方がいいんじゃないか、〜しろ。言うのは簡単だ。人を呼び寄せるのは、投稿者を探すのは、ダーザインさんが既にやってたがね。俺は、場の整備と意思を明確にすることを選んだ。それだけだよ。投稿者としては、そういう役目でよかったと思うけれどね。実際、そういう人がいて、人気を博してくれれば俺も嬉しい。あんた、やらないか?相田みたいなのが全滅した時のために考えておくよ。当分は、強硬路線を崩す気はないけれど。俺だって疲れるんだ。そういう風に維持できるようになったら、すごくいいね。ただ、自由投稿掲示板スタイルっていうのは、投稿された作品を一度『選別」するのと違い、猛烈に手間を要する。常に、投稿者以上の勢いで場を管理する人間が言葉を発信し続けないと、よくある「死滅した掲示板」になる。あっという間。これはホント。実際、クソポエムが濁流のように流れて行く掲示板と、文学極道の違いは口うるさい発起人と献身的な管理者がいるかいないか、だけなんだよ。それに、何度と無く文学極道が酷いことになったのは、見て来ただろ。見たことがないならログ辿ってみな。一ヶ月単位で、誰かが批評を精力的にやってないとガラリと場の雰囲気は変わるから。だから、俺はこんな疲れる姿勢でいなくて済むようになるのを待ってるよ。ケムリはうぜえがうるせえから従ったフリしとくか、投稿者諸氏に求める姿勢はこれだけだ。ぶっちゃけちまえばね。まぁ、俺はズンドコ嫌われて行くだろ(笑)、普通にうざいだろうと思うしな。だから、仕事量で信頼を得たいと思っている節もある。でも、信用するかしないかは、皆自由だ。36 : [返信] ケムリ ('07/12/04 20:37:35 *2)
いや、シンプルに。
アク禁とか、したくないんですよ。気に入らないなら出てけ「でも詩を投稿してもいいよ、ちょっと配慮してくれれば」みたいなね。だから、ギャースカやってるわけで。「な、ウザイだろ?そろそろ察してくれよ」みたいなね。ただ、放置しておくとグッチャになるのも結構過去ログを見たらわかると思うので、バランスの加減がまだわかってない。どこまでやかましくして、どこまで黙ればいいのかわからない。批評を濁流のようにつけて押し流す方法に、そろそろ切り替えたいとは思ってますけれど。
言ってくださってることに関しては実にその通りで、一通り終わったのでそろそろ静かにしていこうかと思ってるんですが。(あきらめる人は諦めただろうし)
とりあえず、疲れてます(笑)なんというか、こんなゴリゴリのやり方も長くは持たないし、もうじき落ち着くかと。いや、投稿していただいている方に心配してもらって申し訳ない。ありがとうございます。36 : [返信] ケムリ ('07/12/28 12:51:04 *1)
ひふみさん
(笑)は俺の提案じゃなくて、まぁ最近2ちゃんで流行ってたのでちょっと持ってきたわけですが。実は、これ自体「アイロニー」や「脱構築」で語れてしまう批評の作法の一つなわけです。形自体は違えど、50年以上前から形式化されている読みだし、考え方の本質としちゃ物凄く古いものかと。
ポストモダン批評ってのは、早い話「いちゃもん」と「いちゃもんのいちゃもん」だと俺は思ってるんですが、「テクストに対して色んなイチャモンをつけてみて様子みてみようや」ってやってるうちに、手段自体が目的化されてなし崩し、ってのが批評の現在だと思うんですね。そんで、そういう「作法」から使えそうなものを片っ端から持ってきて、見世物やってるのが俺なわけです。俺は、「批評」ってのがなんだかよくわからないんですよ、だから他人の創作手法やあるいは批評手法に該当する概念を知識から持ち出して、交通整理する。名前をつけて技術に還元する。これがここ暫く、俺がやっている「批評」なんですが、批評と呼びえるかは微妙なところですね。哲学やらカルチュラル・スタディーやら文学理論やら政治理論やらポスコロやら、あらゆる分野から知識を持ち出して来てますが、結局「俺はモノサシ一杯持ってるけど、こういうのどうだい?」ってのが俺の正体です。>その読み方が一にして全、その読み方だけで全てを網羅できるというものでない限り、きりがないよ。
それは、同意するけど同調しない。例えば、色んな読み方があるわけです。それこそ「マルクス主義的読み」や「ポストモダン的読み」…、色んな作法がある。懐かしの疎外論や二元論的読み、あるいは作者=天才のロマン主義的読み、最早何がなんだかわからない無限に脱構築されていく現代的読み、色々あるわけです。それらをもうこの際「何が正しい」とか放棄して、並列にガチャガチャ並べて片っ端から使ってみる。そういうことをしてるわけですね。きりがないのは確かですが、読み方の「作法」を覚えることは有益であるという立場に立つので。まぁ、おべんきょが好きなんです、俺はね。
それで、読みの経路を何故イチイチ示すか、それも不必要なほどやるかっていうと、俺は文学極道が「お習字教室」だと思ってるからです。それは、俺にとっても投稿者にとってもそうです。だからこそ、できる限り読みの筋道は明確にして、このような目線からこう読めると提示する、「読み手のサンプル」なわけです。それも、親切なサンプルであるべきだ、っていうね。だからこそ、きりがないことを承知の上で、一つの読みを無数に提示していくというのが俺の批評観です。ついでに、この作品におけるそれのように、その読み自体を破壊するようなやり方も提示してみる。(この作品の場合、つけ過ぎで狙い通りの効果が消尽してますよね)というのも、あらゆる作品を評価できる目線っていうのは存在しないってのが俺の考えで、結局は場当たり的に使えるモノサシを増やしていくしかないってのが根底にあります。
つーわけで、これからも新しい読みを適用するごとに全て形にしていきたいと思うんですが、こういうアイロニーの読みみたいに何でもサクっとサンプル化出来るわけでもないので、中々難しいところですね。とりあえず、ある種の作品を消し去るのに定型的で非常に便利だったから、とりあえずやってみたわけでして。理論を適用することと、こんな風にわかりやすく形にすることは大分違う気がします。もっとも、「理論」なんて大げさなものでもないんですけどね、大半はみんなが無意識にやってることに名前をつけて整理しただけなので。
それで、多分これからも(時間と労力が許す限り)「こんな風に読んでこんな評価です」って愚直に説明する物好きでありたいと思うんですね。(笑)の効果の程度に関しては、こんなもんただのお遊び程度かと思ってます。適用出来ない作品は無限にある。でも、そんなお遊びで他人を攻撃するなら、やっぱ「自分の作品もこんなひどいことになるねぇ」ってのは見せとくべきかなぁと思うわけですね。これは、風刺というよりは自戒です。こうね、ヒヒョーとかやってると「自分だけは例外」みたいな感覚がふつふつ湧き上がって来る昨今ですが、俺もその程度だと理解しておくことは大事だと思うんですね。これは、俺のマゾヒズムの問題ですが。
なんにせよ、本掲示板の方でも非常に良い読みを展開してくださっているようで、感謝します。これからも、是非。36 : [返信] ケムリ ('07/12/29 07:55:41 *4)
>ちなみに、これ、「んなもんあったら苦労しねー」といった意味合いの叫びが言外に含まれてます。
その通りだと思うんですが。「いつか到達するさ!」と虚勢を張ってないと、「ポストモダン的虚無主義」とか「逃走論かよ」みたいな感じで空しいので、まぁ実際それはないとしても、日々馬鹿馬鹿しいことを繰り返して頑張るのが大事なんじゃないですかね。スギゾ型人間なんて大嫌いなんで。いっぱい色んな読みをみんなでやって、なるべく色んな読みに耐える強靭な詩作品と、どんな作品も消尽させる読みの攻撃力と、その両方を磨いて行くことが大事なんじゃないですかね。もちろん、作品と読みの関連性はこういう敵対関係に限らないんだけど、そういうものあるね、って感じで。文学極道の目標は二個あると思うんですよ、高い平均点を目指す底上げの問題と、それを突破した人には永久に「この辺が足りない」「この辺はこうやったら消滅する」みたいに課題を押し付け続けることと。この辺、ダーザインの考えた枠組みは優秀だと思うんですよね。
まあ、到達点などないと認めながら到達しようとする、みたいなね。そういうの、マゾっぽくて素敵ですよね。挨拶不要の文学極道、いいじゃないですか。28 : [返信] ケムリ ('07/07/23 05:41:25)
どうにも、そのなんというか。飾り立てた個人性というか、そういうものにしか見えません。
表現がコリコリに凝ってるのはわかるけれども、結果としてぼくにはどの表現も魅力的には見えないっていうのが一番の問題なんです。表現の一つ一つから飛躍して行けないから、結局この作品のスタートライン、「私」しか見えない。すると、ぼくにとってこの作品は単なる飾り立てた自己露出に見えてしまう。飛躍の部分が不親切なんですよ、個人的には繋がっているのかもしれないけれど、読み手には繋がりが見えない。「思考の中で勝手に飛躍してる書き手の表象」っていう、一番面白くないものだけが見える。もちろん、思いっきり掘って解釈していけば読めるんだろうし、それを要請してるのがこの作品なんだと思うんですが、それをやる必要性は読み手には全く無いわけで。単なる凝った日記、にしか見えないわけです。だって、
薄く目が覚めた布団の中で
素早く朝へ馴染む意識に
僅かな驚愕を抱いた日
最初の三連からして、アイロニー全開で読むと「だからどうした」のレベルになってしまう。でもまぁ、それはまぁそれとして、一番の問題は日常から飛躍する、その飛躍の担保として日常を描いている筈なのに、地から飛躍の部分があまりに不親切で読み手に届いてないことだと思うんですね。結局、書き手の自意識しか見えない。そんで、その理由の一番の原因を端的に言うと、表現の凝り方のベクトルがそもそも間違ってんじゃね?とぼくには思えてしまう。表現は、シニフィエをより明晰に結像させるものでもいいし、シニフィアンとしてそれだけで価値を持つもの、でもどちらでもいいんだけれど、読者の中でどちらの機能も果たせないとそれはどれほど凝っていても意味がない。でも、こういう作品ってまぁぼくの印象による分類だと、多いんですよ。一条さんは「特殊な訓練」と言ってるけど、ぼくは「コードの共有」だと思う。要するに、この作品を読むための条件が何か必要なんじゃないか、とさえ思えてしまうんです。24 : まだ、目を覚まさない。 ケムリ ('07/05/10 08:23:52)
ルーシーはまだ目を覚まさない。窓の外には、漢字圏の目立つ数十ヶ国語の
看板、ジャンク基盤のごった煮配線みたいに詰め込まれたビル群、空をみじん
切りにする電線が、腐った焼き網みたいに乗っかっている。俺はブラウンの目
を黄色く腫らして、黒い髪を後ろで縛って、チャンの肉まん屋から流れてくる
匂いを追いかけている。
チャンはこの街に住み着いてそろそろ一年になる、痩せた小さい男で頬骨と
目玉だけがやけに飛び出している以外は、どこにでもいるイエローとしか言い
ようがない。彼は、店の裏手のゴミ箱を漁るカラスを憎み、それ以外の大抵の
ものを愛している。こういう話だ。「ねえ、知りすぎるってのはね、よくない
んだ。知らないものならみんな愛することが出来る」
ルーシーはまだ目を覚まさない。曲がりくねった道にはぽつりぽつりと花を
売る子ども達、うっかり繋がったラジオからは爆撃警報が鳴り止まない、俺は
正義って単語が出る度に指を一本一本折っていく、足の指まで使ってまだ足り
ない。結局、俺達に出来るのはカウントすることだけで、それだってハシシュ
に火をつける頃には忘れている。
俺の洗濯物は一つ残らず盗まれた。12色集めた無地のティーシャツは今、道
に立つ子ども達の発育不良の肋骨の上で色づいている。それは、勿論ちょっと
した眺めで、ひょっとしたら悪いのは俺じゃないのかもしれない。いずれ酒に
顔を紅潮させた男どもが現れ、子ども達は一人もいなくなる。ひょっとして、
みんな戦争でも始まると思ってたのかもしれない。
世界の終わりは、路地裏から二十四個の目でこっちを見ている。
悪いのは俺だけだと言っている。
ルーシーはまだ目を覚まさない。パンを焼き始めるなら、少なくとも今じゃ
ない。道路に溢れていた声が、俺の小さな窓から飛び込んで来て責め立てる。
十二色くらいじゃ描ききれないことがたくさんある。耳からぶどう酒を注ぎこ
んでくれよ、出来ればそうしてくれよ。ルーシーはまだ目を覚まさない。ラジ
オからは百四十二回目の正義が叫ばれ、俺は背骨までヘシ折られた。ルーシー
はまだ目を覚まさない。もう一回言うよ、ルーシーは・まだ・目を・覚まさな
い。
ルーシーが目を覚ましたら、俺はこの窓から飛び出して、電信柱に突き刺さ
って子ども達を笑わせよう。子ども達は電柱によじ登って、二人くらい感電死
させながら、俺のシャツとサイフとパンツまで持っていくだろう、世界の終わ
りは窓の外からこっちを見ている。二十四個の目はそこになくとも、決して混
ざり合わない色合いでこっちを見ている。ルーシーはまだ目を覚まさない。悪
いのは俺だけだと言っている。
ルーシーは、まだ目を覚まさない。24 : [返信] ケムリ ('07/05/10 08:26:49)
酷評罵倒、お願いします。
正直行き詰っているので。24 : [返信] ケムリ ('07/05/11 22:06:57)
ケムリは、現在頭を抱え込んでます。
技術以上のものが現実として求められた時、創作と人生が繋がったものとして語られた時、ぼくは往々にしてこういう状態になります。
ええと、すいません。ちょっと猶予をください。
でも、ありがたい。本当にありがたい。これがあるからこそ、極道はありがたいんです。本当にありがとう。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 01:01:26)
さーて、フルボッコにされてみたわけですが。いや、酷いっすね。発起人なら賞賛レスで埋め尽くされてみろよ、って感じなんですが。
とりあえず、なんです。「何を求められてるのだろう?」ってのが、最近のぼくの問いかけでして。この作品や、フォーラムに出した幾つかの作品についてもそれはもちろんそうで、軽谷さんの指摘にもあるとおり消費される作品を目指しています。この作品は、全てが「特に無し」で埋め尽くされている。詩の本来の目的が意味性にあるなら、この作品は多分ゼロです。なーんにもない。空っぽの土台の上に物を積んで積んで、そういうわけで。一番の問題が、それがモロバレだっていうことなんだと思うんですね。
例えば、ドーナッツの穴みたいなイメージなんです。ぼくは今回、穴として「ルーシー」を置いた。そこから書き始めて、そこ以外を埋め立てた。その中心の穴以外に、イメージの広がりを極力捻じ伏せた。読み手に「誤読」させない作品を目指した。イメージを遊ばせる広さ、とは良く言いますけれど、それって解釈のブレや読み手に作品を放り投げるような無責任さだとぼくは感じてしまうんです。だから、ぼくは近作では常に真ん中に穴を置いて、その回りを埋め立てるように書いている、これって非常に楽なんです。言いたいことは何もないから、その回りを埋めて空白を残す。すると、読み手が勝手に中心を捻じ込んでくれる。でも、良質な読み手ほど「実は何にもないじゃない、何書いてるんだよ」って看破してしまう。これって、どうなんでしょうか。今回は「ルーシー」でやりましたが、「海を見たことがない女の子」でもイケるし、何にもなくてもいける。
サクサク、書けるんですよね。何せ、手ごろな穴を一つ見つけて、その周囲をカッチリ埋めれば作品でござい、って顔になりますから。埋め立て方法については、ぼくは結構手持ちがありますし。中心を書かず読み手に伝える、っていう基本技術を逆手にとってやったぜ!みたいに最初は我ながら面白いと思ってたんですが、ひょっとしてコレって凄い空しい創作なんですかね?
足場の曖昧さ、っていうのは非常にわかるんですが、確かな足場などないってのがぼくの基本スタンスで、当然ながら言いたい事ってあんまりないんですよ。意味はオカズで中心は何?って言われたら、「特に無し」としか答えられない。もちろん、書き始めた頃はあったんですけどね、それもなんだかどうでもよくなってしまった。書くことが主で内容が従なんです、正直な話。「単なる技術サンプルだろ?」って言われても反論出来ない。じゃあ、書きたいことがあるかって言われたら、何にもない。二十歳のガキに、そんなに伝えたいことなんかないし、「自己表現」や「ナルシズム」みたいな動機も随分薄れてしまった。自分を書く必要がなければ自分の考えを書く必要もないんです。これは、「じゃあ書くなよ、黙ってろ」で一喝されるレベルの愚痴ですが・・・。うん、じゃあ書くモチベーションが無いかと言われれば、そういうの抜きで書きたいわけなんです。手段が目的化するって、こういう状態なのかなぁ。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 01:07:57)
リップヴァンウィンクルさん
それ、理想といえば理想ですが、難しく・・・ないですか?酩酊しながら書いたものって、往々にして人前に出せるようなシロモノに仕上がらないんです。ぼくはその「魂の酩酊」みたいなものも、技術に置き換えたい。方法の問題として捉えたいんです。感性、みたいな言葉がぼくはあんまり好きじゃなくて、創作の99、9%までは方法の問題だと思い込みたいんです。自分を曝け出したり、あるいは他人の目を意識することをやめて充足するために書くことが、それが創作だとは思いたくない。もちろん、それが受け容れられる人は天才と呼ばれればいいと思うんですが、ぼくは天才じゃない。素のままのぼくになんて、なんの魅力もない。そこからスタートしてて、うーん・・愚痴だ。頑張ります。次は、納得させるものを。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 01:12:31)
一条さん
一条さんに言われると、コタえますね。ただ、ほとんど感性では書いてない、とは思います。違うモチーフで書いてもダメなのか、あるいはこのモチーフが致命的に合わないのか、それとも書き方の問題なのか、あるいは意味性の問題なのか、薄っぺらなのを看破されただけなのか、でも「薄っぺらさ」っていうのは一つの売りでもあると思ってたりもするわけで・・・。
切り口を変えて方法論はそのまま、そんな作品を近々投げ込んでみるつもりです。よろしければ、そちらも批評ください。なんていうか、「感性」ってよくわからないんですよ。磨けるものなのか、あるいはそうでないのか。そうでないならば切って捨てるべきだと思うし、努力の範疇にあるなら身につけたい。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 01:22:25)
かるやさん
見方によっては、褒めてくれてるような気もするし、かなり看破されちゃってるんですが、ぼくとしては「脱線出来ない」作品を目指してます。中心の「ルーシー」だけは完全に形のないもの、無意味なもの、空白として置いて、その周囲をゴリゴリに埋め立てる。なんていうか、狙いそのものは成功してる感じなんですが、それ自体が魅力的ではないっていう指摘は非常にコタえます。しかし、本質の問題ですが、書いている一人が見えたら、それって面白くないんじゃないでしょうか。ぼくって、基本的にはどこにでもいる二十一のガキですし、自分なんか絶対に見せたくない。この傾向は書けば書くほど強まっているような気がします。創作は創作、俺は俺っていう。
「書いている一人が見えなければ意味がない」っていう考え方には、ぼくは全く賛同できなくて、詩は個人を見せるためにあるわけじゃない、読者を愉しませるためにある、と思うんです。だから、本当のことを言えば、ぼくは「ケムリ」のネームクレジット付きで書くこともあんまり好ましく思ってない。作品は、ぼくと切り離されて読者に愛玩される対象でのみあって欲しい、なんてことを思ってます。だから、ぼくの答えとしては、「自分が見えるように読者が思える作品を書く努力をします」っていう、非常に嫌味ったらしいものになってしまうんです。ごめんなさい。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 01:32:54)
流離ジロウさん
書き手のスタンスや、あるいは創作の中心軸を持った人を羨ましく思います。書き続ける動機がそこにあるのなら、それは凄く良いことだと思うんです。でも、じゃあ言いたいことがあるかと言えば、ぼくにはない。正確に言えば、「詩の形を取って主張するなら、そんなもん詩になんかするな。論考として表に出せ」なんてネジネジに歪んだ自意識を持ってまして。戯作っぽいっていうのはそのとおりだと思います。詩を書く上で、その内容に対して、明確な立居地をぼくは持ってませんし、もし明確に持っているとしたら詩の形にはせず、論考の形で表に出すと思うんです。
「何故、詩を書くのか」って聞かれると、凄い困るんですよ。「褒めてくれる人がいて、嬉しいから」くらいのところしか、今のところ答えを用意出来ない。そのレベルでしか動機を持ってない。だから、正直言って技術論以外の場所に踏み込まれると非常にしんどい。巧いとか下手とかそういう土俵で叩かれるなら、それはそれで「傾向と対策」に持ち込んで改善する余地があるんですが、それ以上は正直言って難しい。>もし、どうしても、自分の感覚として行き詰っている感があるのであれば、戯作者としての張りを確立して「真顔」の置き場所を固定してしまうか、戯作的アプローチをやめるか、或いは弁証法的(笑?)な別の解決策を明確に持ち込むかが、必要なのではないですかと、モニタの向うで僕は考え込んでいます。
行き詰まりを感じてるのは、なんというか、やっぱりそういう部分なんですけれど。要するに、「何が良い詩か」みたいな、非常にガキくさいとこでぼくは悩んでるんだと思います。もっと言えば、誰もに求められる作品ってどんなものだろう、みたいな。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 01:42:39)
中平さん
二次創作のつもりは、ありません。「ゲットアップルーシー」と「世界の終わり」はぶっちゃけ好きなんで、イメージの起点と下敷きに使わせてもらいましたが、歌詞と比較して貰えばわかると思うんですけれど、ほぼ別物に仕上がってると思います。(中心になる記述が、歌の方には全くありませんし。実は、ぼくは同じ轍を過去にも踏んでて、「パクリ野郎」と罵られても反論出来ないマネをした前科があるので、割とナーヴァスになってます)
なんていうか、ゼロからは中々出て来ないので、ぼくはこの手のやり方をよくやります。でも、それがマズイなら、止めます。読者にマイナスの評価を与えるなら、二度とやりません。(個人的には、下敷きにする創作を無視すると、古典や半古典的な名作のかなりの割合が消失するとは思いますけれど)何故、あからさまに出典がわかる書き方をするかっていうと、敬意の問題だと思うんですよね。例えば、ルーシーは空白だから、メリッサでもアイリーンでもいいんですよ、サムだっていい。他の連想させるような部分も全部置換することも可能なんですが、正味な話それはやりたくなかった。こういうのは個人的な思い入れで問題があるのかもしれませんけれど・・・。あと、「世界の終わり」ってモチーフは、うんざりするほど書いて来たものでもあるんで、使いたかったっていうのもある。
とりあえず、当面そういった表現は全て置換した上で、絶対に出元を特定出来ないように書こうと思います。ありがとうございます。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 14:08:43)
一条さん
方法論としては、さほどメジャーじゃないけれど、じゃあぼくしか使わないかと言えば、そんなことはないと思うんです。実存、とかそういうものがあるとして、そこに接続されない薄さ、手先でコネ回しただけの薄っぺらさ、そういうものは常にあると思う。でも、じゃあぼくは問い返したいんだけれど、一条さんはどうやって書いてますか?
書き続けるなら、それは勿論向上を目指さなければならない。向上ってのは何か?ぼくにとっては、イコールで「認められること」で、ぼくがぼくに対して満足出来る作品を書くっていうのは、とっくに捨ててしまった。
詩の良し悪しを「好き嫌い」の二元論に依存した時に、じゃあ「もっと認められたい、たくさんの人に読まれたい」って欲求を抱えたら、何を掲げて努力すればいいんだろう?って思うんです。方法の問題ではないのなら、方向性がゼロになってしまう。各自、点で勝手に(例えば、人生とか伝達とか)そういうものを掲げて、その方向性に従って書いているんだと思うんだけれど、ぼくはその部分に技術と読者を置いた。逆に言えば、それ以外を切り捨てた。
ぼくは、詩に限らず良い作品を書くための努力は常に惜しまないつもりなんです。でも、疑問なんですよ、みんな「一体どうやって努力してるんだろうか?そんな曖昧な方向に向かって、何故走れるんだろ?」って。ああすればいい、こうすればいい、百人に訪ねたら、百通りくらいの「上達の方法」は出てきて、百通り以上のダメ出しが出ると思うんですが、一体のそのうちどれが信に値するものなんだろう。文体は書き続ければ練りこまれて行く、表現と語彙は増やしていくことが出来る、この二つ以外に確かなことってあるんだろうか?って思うんです。例えば、個人性をモロに出す作品を書く人の場合、魅力的な人間はそのまま魅力的な詩に繋がると思うんです。こういう方向で、資質と方向性が一致した人は、時に神がかった作品を書くわけで。でも、小器用な指先以外に何もない、少なくともあると思えない。それでもよいものを書きたい、そう思ったとき、人はどうすればいいんだろうか?って最近思うんですよね。
感性ってなんだろう?
何故、定義出来ない曖昧なものを掲げて、人は批評したり批判したり、あるいは創作したり出来るんだろうか?そんなものの、一体どこに根拠があるんだ?そんなに曖昧なものなのか?良い物と悪いものの間に線は引けないのか?じゃあ、努力はどうやって介在すればいい?・・・みたいな、今更感満点の、ガキ臭い葛藤を抱えてるわけですよ。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 14:19:55)
浅井康浩さん
非常にわかりやすい評で、かなりダメージ受けました。
ポストコロニアムって文脈に接続する気は全然なかったんですけれど、でも味付けにそういうものを使おうとしたのは事実で、これは単純に「塩味が濃すぎた」みたいな問題だと思うんです。もっと言えば、描写が引き込む文脈を御し切れなかった。書き手が思う以上に、描写が意味性を引き込んでしまって、要求されるものを大きくしてしまった。その文脈を、影響を受けている主体の「俺」がまるで背負いきれてない、そんな感じに受け取りました。地場っていうのは、描写が引き入れた文脈の総和、みたいな解釈でいいと思うんですが、確かにこれは御しきれてないかもしれません。
浅井さんが、実体の無いイメージ、既存の文脈に接続されない、余計なものを引き込まないイメージを多用する理由が、少しわかったような気がします。ぼくの場合、実体の無いイメージを愉しませるだけの筆力がないので、どうしても既存のイメージを引き入れて「切り貼り」することになる。それが、どうしてもぼくの思惑からハミ出していっているような感じがしました。もちろん、言われて初めて気づいたんですけれど。少し、イメージの使い方と描写が引き込む意味性について、考え直してみます。ありがとうございます。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 14:38:14)
>そのときケムリさんがそこにいたとして、俺なんも考えないで書きましたよ、だってそうじゃないですか、
>そのほうが楽しいでしょう、とは言わないと思うんですね。
「それを語ってしまったら、意味がなくなりますよ」とかって逃げるかもしれないですね。中心にネジ込むものは、読者が取捨選択していい、そのための中心の穴なわけで。なんていうか、狙いとしては、完成させるのは読者、っていう方向性なんですよ。誤読させ得ない土台を一つ用意して、中心部を空にしておく、その上でそこに何を入れて貰えるか。だから、ぼくは個人性を滅茶苦茶隠してます。徹頭徹尾人工的に書こうと思っている。>読者を愉しませるために書くためにケムリさんがなにをどうしたいのか、というのは
>詩の中に本人顕現、以前の問題としてあるものだと思うんですね。でそれは多かれ
>少なかれ作品の中に出てくるとわたしは考えているんですが、なんかそういうものまで
>一所懸命塗りつぶしているようにみえて、それはどうなんかなあ、と思ってるわけです。
一生懸命、塗りつぶしてるんだと思います。ぼくの場合、読者を愉しませる、読んでもらうっていうのが至上として一つあって、そこに至る方法論は本当になんでもいいんです。散文に逃げたのだって、「書きやすいから」の一点に尽きてしまう。ただ、「自分の抒情」を表に出す、自己露出的な作品は、もう書きたくないんです。だからこそ、ぼくはそこを完璧に塗りつぶしてしまいたい、と思っている節があります。もちろん、それが良いことなのかは確信がないんですけれど。イヤなことなんて書いてませんよ、自分のスタンスに自信を持てないからこそここに放り込んだわけで、全否定はむしろありがたいです。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 14:43:22 *1)
>僕がケムリさんの作品を指して戯作的といったのは、読み手のほうにダイブさせる(或いは虚構の話者を作品の中でダイブさせる)を主眼に置く手法を使う人なんじゃないかなというのを、思ったのが前提にあって、さらに二日酔い、っぽいといったのは、そこの黒幕としての境界位置みたいなのが何となくぐらぐらしていると、僕が勝手に感じたからです。真顔が、覗いているのはいいんだけど、そこを、どう出すって所なんでしょうか(覗き方が僕には中途半端で、快適ではない時が稀にあるという意味です。要するに微妙なバランスなのだろうと)?或いは、完全に見えなくして隠してしまうか?、真顔を。
なるほど。この作品からも、ぼくの「真顔」が見えるとしたら、それはぼくの稚拙さです。完璧に隠すつもりで書いていますので。もちろん、そうでない作品も結構あるんですけれど。この作品は、ぼくとは完全に遊離したものであると思ってます。それでも、その中に「真顔」がチラつくとしたら、それは単純にぼくの筆力の不足じゃないかな、と思うんです。
例えば、浅井さんの創作物からは、書き手としての浅井さんの「真顔」はちっとも見えないわけで、ぼくとしてはそのくらいにソリッドにやって行きたいと思ってるんですが、中々に難しい。多分、見えたり見えなかったりするのはぼくが自分のスタンスに揺らいでいる一つの証左だと思います。そういう意味で、その指摘は非常に正しいのかもしれない、と思う。
ただ、何でこうも真顔を隠したがるかと言えば、真顔って出て来るんですよね。我ってそうそう殺しきれない。少なくとも、ぼくはスタイルをいきなり変えたんで、未だに我がニョコニョコ顔を出します。そのアンバランスさが、結局色んな人に指摘されている根源の一つかもしれない。結局、ハンパはダメで、やるなら確信もって突っ込んで行けってことなのかもしれませんけれど、それが出来ない小心者なんですよ。あるいは、チラリズム的にその間を行ったり来たりする、そういう確信犯も面白いのかもしれません。色々、考えてみます。ぼくは今のところ、トータルでみるとかなりどっちつかずです。24 : [返信] ケムリ ('07/05/14 22:48:44)
なるほど、「方法論として掲げること自体にセンスが無い」ってのは、なんというかわかる気がします。しかし、ベッコベコにされてみたい欲求みたいなのがぼくにはありまして、なら方法論まで開陳して、丸裸になってベコベコにされちまえ!的な。いやもう、予想の範疇を越えてベッコベコになってて、嬉しい限りと言えば語弊があるなこの野郎、って感じなんですが。
アンチ・ロマンの方法論とはまた違うんですよね、巧く言えないけれど、メタロマン的というか・・・うーん。とりあえず、リベンジする動機が出来るというのは素敵なことで、結局ウジウジしてるヒマがあったら書こう、くらいのとこに落ち着こうと思います。21 : オマージュとしての習作 「とり」 ケムリ ('07/01/19 01:12:30 *2)
今、そらへと開かれたろっこつ
前触れもない口付けのように、ふりつもる羽根
のう、の中心の路地裏は灯りを消して
微かにしみる電線の揺れを残して、飛び立っていく
姿をけしていったもののために。格子の向こうには未だ朝は
訪れず、わたしは古い靴を履いてさかみちを登っていく。すべ
てのでんせん、がひそやかに揺れて、羽ばたきの音色からこぼ
れたものだけが、ぴりぴり、と耳たぶを引っ張る。空がこれほ
ど区切られていることなんて知らなかった。とり、とりは電線
のふるえ、だけを残して。
飛び去ったあとの
せきりょう、と名づけたくて仕方ないこと
いみ、の中で飛び回ること
きおく、と名づけられたそれを、いま、のくびきから外すこと
振り返るとき、もう手を繋げないと気づくこと
さかみち、は空へとつづくしかなく、けしてそらには続かないこと
よるとひるを糾って、わたしはとりを追う
わたしはかつて、とよぶべき時間もこれまで、とよぶべき時
間も、ひとしくこのさかみちに立って、ふるい靴をずっと履き
替えずに、電線で区切られた空をにらみながら。いつまで、に
は常にふるえだけが残り、わたしはただ歩いていく。ろっこつ
を開くように、わたしは歩いていく。とり、とりはふるえだけ
を残して。言葉にすればかすみ始めるような、遠い日のうたげ
の残り香を嗅ぐように、とり。とりはふるえだけを残して
窓を開ける頃に、眠りにつく子ども達がいるよ
旧い時代のおり、のように朽ち始めた格子を
遮るもののない朝日のなかに、とり、とりの影がよぎる
ふるえの中に伸びたさかみちの、先に
ふるえの中に静かに浮かんだおり、のようなきおく。
飛び立っていったとり、の軌跡のこと。
みしらぬとり、としか語れないこと。
ふるえのなか、死んでいくきおくを反芻すること
ただ、まえぶれもなく
羽根だけを洗う
いま、さかみちに立って
開かれたわたしのろっこつに
とりよ
とりよ
とり、としか語れないものよ
静かに
舞い降りてくれよ21 : [返信] ケムリ ('07/01/19 01:21:29)
流離いジロウ氏の「にじゅう年の熱帯の鳥」オマージュ。
21 : [返信] ケムリ ('07/01/21 16:09:51)
勝手な宿題を出してしまってすいません。いや、なんと言ったらいいんだろう。このモチーフは、是非ぼくも書きたかったんです。レスの内容からして、「とり」というモチーフのいちばん重要な場所は外してなかったようで、ほっとしてます。
>思い切って言ってしまうと私の詩に力があったのか、たまたまケムリさんの資質と私のそれとが部分的に似ているのか
この両方かな、という気がします。だから、勿論あの作品は良い作品だったけれど、ぼくがオマージュを書きたかった理由のもう半分は親和性にあったような。結局、通底するものが似てた気がするんですよ。
「技術」については、ぼくが初めて文学極道を訪れた時、全く同じことを考えていました。「無題」って詩を投稿したときに「推敲はしたくない」って叫んでましたし(笑)そんなぼくが、いまや「技術第一主義」を標榜するんですから、面白いものです。でも、技術っていうのは、まず「最低限これだけ」っていう、とにかく日本語としてダメって作品もたくさんあるから、言葉をある程度上手に使いこなせること。そして、その先は独自性も技術の範疇に包まれる気がします。表現を工夫すること自体が既に技術なわけですし。なにしろ、ある程度書けている人には何をいわんや、です。伝達には技術が必要であるけれど、それは「伝えるべきこと」をどうやって伝えるか、の二次的なものである気がします。大事だけど、それだけじゃない、でも大事。くらいのところでしょうかね、ぼくとしては。「小声で囁く」とか「大声で叫ぶ」とかそういう程度のものだけど、狭い部屋の中で大声で叫んだら煩いだけだよ、みたいな。>高いレベルの抽象化と、言葉と表裏一体での結像化
そう。これなんです。これが出来ていないと、良い作品にはなりにくい。文学極道でもキーポイントになり得る概念だと思います。(全く違う方向性で切り込んでくる人もいますけれど)勿論、この先にも工夫の余地はありますけれど、これがないと、ぼくの言葉で言えば読み手に「灯らない」。羨ましがられても、この作品はオマージュに過ぎないわけで、原作は十分それが出来ていましたよ。むしろ、ぼくが羨ましがりたいくらいです。ついでに言うなら、ぼくはこれこそが『技術」だとも思います。
身内褒めですけれど。文学極道は、読む価値のある作品が次々出て来る場です。そりゃあ、争いは耐えないし内ゲバもしょっちゅうだけど、力のある場ってのはそういうもんじゃないですかね。だから、思いっきり寛いで遊んで行ってください。出来が悪ければ叩かれるし、良ければ評価されます。評価に対して真摯であることだけが参加条件だと思ってますので。「にじゅう年の熱帯の鳥」については絶賛しましたけれど、次が酷ければ当然ぼくは罵倒します。でも、それも楽しんで行って欲しいと思ってます。これは誰もに言いたいことですけれど。罵倒してくれる読み手って、考えようによっては凄く親切な読者ですから。罵倒を正面から受けて、思いっきり痛い思いが出来るのもここの良さで、罵倒を受け流してる人は勿体無いなぁ・・・とか思うくらいに。
最後に。
一条さんって書き手の「黒い豆」とか「鴎」って作品が凄まじいので、是非一読をお勧めします。既に断筆してしまった書き手ですが、ぼくはこの人は本当に凄いと思う。21 : [返信] ケムリ ('07/05/10 08:11:38)
「借り物くさい」っていうのは、実にそのとおりで、それを隠し切れないぼくの大問題です。ぼくは、オリジナリティーの書き手じゃないし、才ある書き手でもないことを、結構強く実感してまして、ぼくの詩作に対する基本姿勢は「パクリまくる」に尽きるんです。そして、もっと言えば現在既に認知されている感覚、要するに抒情、哀愁を持って来て、そのまま使う傾向は多分にあります。先鋭ではなく歌謡曲的な、って言い訳をすることも出来るかもしれませんけれど。
カリッカリの現代詩の難解さ、あるいは解釈を要請するような書き方に、ぼくは凄く嫌悪感があって、どんな読み手にも等しく伝達されるような文章を目指しています。ただ、やっぱり凡庸さは後ろを追って来る。「小器用にまとめただけ」って批判を結構食らってて、特にこの作品はオマージュって立居地からしても、その批判を逃れられないと思ってます。自己陶酔的言い回しも含めて、やっぱり既存の定型「コレどっかで見たことあるぞ」って感覚からは離れられていないのかもしれない。歌謡曲的な感覚を与えることに関しては、「それでいい」とぼくは思ってるんですが、それが作品への入り込みを阻害するならば、直さなければならないと思ってます。ありがとうございます。21 : [返信] ケムリ ('07/05/10 08:14:08 *1)
お褒めに預かってることにも感謝を。
レスがついていることに全く気づかず、放置していて申し訳ありませんでした。それにしても、田崎さんはキツい。かなり、痛いところをつかれる。凡庸な作品を小手先でゴマかしてる人間は、そこ突かれるとかなり堪えます。
ガリレイさん
ぼくに関しては、「解釈」をあまり求めてないんです。愉しんでいただければ、それでいい。もちろん、「解釈して愉しんで」もらえればそれも嬉しいんですけれど。もし、ガリレイさんがこの作品を「解釈」して、それがぼくの意図から大きくずれていたとしても、それはぼくの書き方が悪いわけで、ガリレイさんが悪いわけではありません。読んでいただいて感謝します。17 : 花を齧る ケムリ ('06/10/20 00:14:08)
ささくれた平原に、とろけていく連なり。
輪郭をたわわに広げたあなたが、両腕で深く折りかさなっていく。
女の子の吐息から始まった音楽、白い鳥が空気の中で磨耗していくことに似た
大気へと螺旋が貫いていき、ぼくはいつもロケットの打ち上げを寝過ごした。
あなたが生まれたときには、きっと誰も痛まなかった。
えいきゅうに滑らかなかかとで踏みつけていくんだよ。
細く病んだ食道を、削れた永久歯で、花びらが通り抜けていく。
まだ埃にさえ痛んだことがない、滑らかな虹彩の海の中へ。
冷蔵庫開け放して、溢れた光と匂いの中で、粒子の羽ばたきを数えていた。
背中に触れてはいけないことなんて、ずっと知らないままで。
乳歯を噛み砕こうとしていたら、いつかあなたはまるみさえ帯びたままで
花を齧る夜のためだけにしか、もういない。
そうしつ、と繰り返すことが歌であるなら。
平原は蔦に覆われたがっている。
腐っていく生殖器へ、誰かがそっと種を植え付けた。
とろけていく歓びの中にだけ、あなたはそっと足を降ろす。
くろい水のなかに、やわらかいつちふまずが落ちていくのがわかるよ。
えいえんに汚れないつまさきを、黒くよごれる余地さえない親指のつめで
あなたは平原のなかを歩く。
海はいちご色に滑らかで、窓辺には一枚のシャツがはためいていた。
どこまでから、どこまでが、さかみちをあるく曖昧さで。
花を齧る。薄橙のグラデーションのなかへ、永久歯が削れていく。
手折れた分水嶺のほとりで、背中を丸めたまま。
砕けた花びらは、肋骨の隙間から風の中へと消えていく。
そしてあなたは生みつづける。やわらかな巻き毛の子どもたちを。
平原に幾筋かの川が流れ、羊歯の卵細胞が泳いでいく。
雨降りのたびに草原は広がり、あなたの輪郭は薄れていく。
子どもたちは笑いながら去っていく。
花を齧る、肋骨を風に泳がせて17 : [返信] ケムリ ('06/10/24 23:56:31 *1)
>ケムリさんの作品の「あなた」は、語り手と"溶けくっ付いた"、あるいは語り手を"依り代"にした、半人間みたいな印象があります。
どう応えたらいいのか、非常に悩んでいます。言っちゃっていいのかな、いいよね、だってぼくはもう「書き手」じゃないしね。発起人だし。(めでたいかは、わかりません。ぼくにも)こっから先「俺の悲劇ショー」になる可能性があるので、鬱陶しかったら読まないでください。
その通りなんです。いや、Toatさんの感覚は正しい。綺麗事なんです。目指すところは「いろいろあったけれど、結局何もかも上手く行った」とかそういう地平なんです。でも、死んだ人について書くってのはそういうことだと思ってます。こう、Toatさんが指摘してくれる作品、というかぼくがずーーーっと「劣化コピーだろそれ」と言われながら書いて来た作品は、基本的にほとんど同じもので、読み手を前提にしたオナニーショウです。(そうじゃないものもありましたけれど)
ぶっちゃけた話、死んだ人の考えてたことなんて解らないわけです。ぼくが一方的に依存してただけかもしれないし、こっちが思うほど向こうにはぼくの存在なんて重くなかったかもしれない(これは、人間関係ってものに必ず言えることだと思うんですが)そういう意味で「あなた」はぼくの中にしか居ないし、まさにその通り、ぼくが自己療養のために都合よく作り出した「半人間」です。そうは見えないように書いてたつもりなんですけどね。嘘っぽいし綺麗事だし、かっこつけなんです。もうね、そりゃ認めざるを得ない。でも、死んだ人間にはリアリズムってもう無いような気がします。そういうわけで、ぼくが精神的に健康であるために、好き勝手に書いてます。ズブズブに一体化させてね。だって、本当にそうであったかなんて今更確認出来ないんだから、それでいいと思いませんか?
基本的に、ぼくは「世界に対して提言する」とか「リアルな生を」とか「人間を描く」とかクソ食らえってタイプです。勿論、表現の技術としてのリアルさは必要なものだと思うんですが。そうじゃなくて、ぼくが書きたいものを書いて、その世界観の中で遊んでくれたら、それも好き勝手に解釈して、勝手に自分を投影して楽しんでくれたらなぁ、と思ってます。だから、たまにToatさんのような読み手が出て来ると困ってしまう。楽屋裏ですよ、そこは(笑)ぼくにとって「あなた」は「他者であり他者じゃない」ってところからぼくの一連の連作は続いているわけで、レゾンディトゥールに踏み込まれてしまった感じです。結構、途方に暮れていたり。>人間同士が癒着しているような生温さ
多分、リアルな「死」みたいなものを全面に出していけば(というかこのコメントを書いた時点で果たされてしまうので、今までは禁じ手にしてたんですが)そういう印象は多少なりとも消えると思うんですけれど、ぼく的にそれはどうも、好きじゃないんです。人を殺せば盛り上がる昼ドラみたいで。昔、巽さんという方に「CMのようだ」と評されたことがあるんですが、そういうものでいいと思ってます。だから歌謡曲的なんです。それも全然否定出来ません。
とはいえ。ぼくはそれ以外の詩を書かないわけではないですし、あるいは「技術」的に「生理的に受け付けない人」の感性をかいくぐることも出来るんじゃないかと思ってます。かいくぐってやるぜ!と誓いを新たにしたところで、今日のところは勘弁してください。人前に出す以上は、ぼくは評価第一主義ですし、「そこはぼくの根幹だからあなたは読まなくていい」ってタイプじゃないんで。褒められたいんですよね、たくさんの人から。本音を言えば。
正直、Toatさんの読みはしんどいです。「下手だ」って言われれば、「頑張ります」でいいんですが。痛いとこをクリティックされっぱなしです。17 : [返信] ケムリ ('06/10/25 01:02:59)
「詩について」と「個人的な話」が混じってました。
ごめんなさい。だめですよね、その辺は分けないと。詩と個人性みたいなものが、どうしてもごっちゃになるんですよ。ぼくだけの傾向ではなく。
なくてもいいと言われると書きたくなるんですが。そのうち、この方向性でかいくぐってやろうと思うので、また罵倒していただければ幸いです。実際、誰かに言って貰わないと、「どう伝わってるか」なんてわからないわけですから。批評とかそういう段階以前に、これが一番大事だとぼくは思ってます。長々つき合わせてすいません。
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