最新情報


発起人バトル

View Mode :  Normal+- / DynamicHTML+- / Thread / Lapse  // mobile / printer-

24 : まだ、目を覚まさない。  ケムリ '07/05/10 08:23:52

 ルーシーはまだ目を覚まさない。窓の外には、漢字圏の目立つ数十ヶ国語の
看板、ジャンク基盤のごった煮配線みたいに詰め込まれたビル群、空をみじん
切りにする電線が、腐った焼き網みたいに乗っかっている。俺はブラウンの目
を黄色く腫らして、黒い髪を後ろで縛って、チャンの肉まん屋から流れてくる
匂いを追いかけている。

 チャンはこの街に住み着いてそろそろ一年になる、痩せた小さい男で頬骨と
目玉だけがやけに飛び出している以外は、どこにでもいるイエローとしか言い
ようがない。彼は、店の裏手のゴミ箱を漁るカラスを憎み、それ以外の大抵の
ものを愛している。こういう話だ。「ねえ、知りすぎるってのはね、よくない
んだ。知らないものならみんな愛することが出来る」

 ルーシーはまだ目を覚まさない。曲がりくねった道にはぽつりぽつりと花を
売る子ども達、うっかり繋がったラジオからは爆撃警報が鳴り止まない、俺は
正義って単語が出る度に指を一本一本折っていく、足の指まで使ってまだ足り
ない。結局、俺達に出来るのはカウントすることだけで、それだってハシシュ
に火をつける頃には忘れている。

 俺の洗濯物は一つ残らず盗まれた。12色集めた無地のティーシャツは今、道
に立つ子ども達の発育不良の肋骨の上で色づいている。それは、勿論ちょっと
した眺めで、ひょっとしたら悪いのは俺じゃないのかもしれない。いずれ酒に
顔を紅潮させた男どもが現れ、子ども達は一人もいなくなる。ひょっとして、
みんな戦争でも始まると思ってたのかもしれない。

世界の終わりは、路地裏から二十四個の目でこっちを見ている。
悪いのは俺だけだと言っている。

 ルーシーはまだ目を覚まさない。パンを焼き始めるなら、少なくとも今じゃ
ない。道路に溢れていた声が、俺の小さな窓から飛び込んで来て責め立てる。
十二色くらいじゃ描ききれないことがたくさんある。耳からぶどう酒を注ぎこ
んでくれよ、出来ればそうしてくれよ。ルーシーはまだ目を覚まさない。ラジ
オからは百四十二回目の正義が叫ばれ、俺は背骨までヘシ折られた。ルーシー
はまだ目を覚まさない。もう一回言うよ、ルーシーは・まだ・目を・覚まさな
い。

 ルーシーが目を覚ましたら、俺はこの窓から飛び出して、電信柱に突き刺さ
って子ども達を笑わせよう。子ども達は電柱によじ登って、二人くらい感電死
させながら、俺のシャツとサイフとパンツまで持っていくだろう、世界の終わ
りは窓の外からこっちを見ている。二十四個の目はそこになくとも、決して混
ざり合わない色合いでこっちを見ている。ルーシーはまだ目を覚まさない。悪
いのは俺だけだと言っている。

ルーシーは、まだ目を覚まさない。

>> permanent URI: http://bungoku.jp/pbbs/20070510_245_24p

  • ケムリ :
    酷評罵倒、お願いします。
    正直行き詰っているので。  ('07/05/10 08:26:49)

  • リップヴァンウィンクル :
    手前勝手な感想として、この詩は俺を射抜いてくれない。あっという間に、自身が悪いと頭を抱え込んでしまう。目覚めの悪い夢の雄弁な口実。目覚めることを気に止めず誰にも知らせうることもなく一気に我が魂の酩酊を書き殴ってみたらどうか。言葉は悪いが批評病のようです。俺は音楽をやってる端くれで、いつも自分じゃ酔っ払ってる。たまにはそんなんもいいですよ。危険ですがね。でもそんな危険な酩酊感のあるクリエイターは俺をいつも魅了する。ところであなたの批評にはハートがある。皮肉ではなく。非常に愉しい。ただ詩となるとまるで堅物となってしまう。半減どころの騒ぎじゃない。どうにかして欲しい。  ('07/05/11 07:13:02)

  • 一条 :
    これは、ケムリさんの数ある作品の中でも、自分のもっとも合わない作品の一つ。「ルーシーは、まだ目を覚まさない。」ってのが、ぼくの中では、もうどうしようもない、そこになにをうわずみしようが、回復できない。「世界の終わり」にしてもそう。文体や技術に関して、それをケムリさんが誰からどんだけ盗もうがパクろうが、そんなのはどっちでもよくて、ケムリさんは、ケムリさんの「感性」に従うしかない。その「感性」に従って出来た作品がこれなら、ぼくは、ケムリさんの「感性」に駄目だしせざるをえない。あるいは、これが、ケムリさんの「感性」ですか、とくだらない問いかけをするしかない。  ('07/05/11 13:44:58)

  • 軽谷佑子 :
    「ルーシーはまだ目を覚まさない」必要性がみえない。

    最近のケムリさんの作品は、既視感からくる嫌悪すれすれの文体で書かれていて、
    作品全体のルックスのよさには貢献していると思うんだけれど、読み手にとっては、
    逆にものすごいプレッシャーをかけている、と感じます。
    文章構成はうまいし、ケムリさん独特のリズム(まえにも言及したかと思います)が
    生きているので、読むのにはまったく抵抗がない。それは作品にとって非常にプラスだし、
    まず読んでもらえなければ仕方がないわけだからいいんだけれど、その「読みやすい」
    文体のせいで、かいてあるものが、おそらくケムリさんの中では変わっていないのだと
    思うんだけれど、伝わってこない。もしくは、かいてあるのにそれが非常に希薄にみえて
    しまう、ということが起こっているようにみえる。
    読めるんだけどな、面白くもあるんだけど、だからなんだっていうんだろう、いや、
    ケムリさんが言いたいことはもう少しあるんじゃないか、どうもそんなような気がする、

    この作品は、そのようなことがすごくわかりやすく出ている作品だと思う。
    文の最初にあげたように、「ルーシーはまだ目を覚まさない」ことの必要性がうすい。

    >ルーシーはまだ目を覚まさない。パンを焼き始めるなら、少なくとも今じゃ
    >ない。道路に溢れていた声が、俺の小さな窓から飛び込んで来て責め立てる。
    >十二色くらいじゃ描ききれないことがたくさんある。耳からぶどう酒を注ぎこ
    >んでくれよ、出来ればそうしてくれよ。ルーシーはまだ目を覚まさない。ラジ
    >オからは百四十二回目の正義が叫ばれ、俺は背骨までヘシ折られた。ルーシー
    >はまだ目を覚まさない。もう一回言うよ、ルーシーは・まだ・目を・覚まさない。

    この連の「目を覚まさない」ことの強調は、まったく意味がない。
    目を覚まさないルーシー、という前提が、作品の上から完全に滑り落ちていて、
    いわゆるシュールな光景にもなっていないし、せいぜい文を整えるための踏み石で
    しかなくなってしまっている。
    「ルーシー」をとっかかりにして描写される、語り手やその周りの人々の風景も、
    かいてある(ことばとして表に出ている)以外のことがみえてこない。書かれてある
    ことばの裏側で、読み手が自由にイメージできる部分がほとんど失われていて、それは
    ある意味すごいことだと思うんだけれど、少なくともわたしの考えでは、あまり魅力的
    ではないな、と感じる。
    (ここまで書いて、思ったんだけれど、もしかしてそれが狙いなのかな、消費することの
    できる文章、文体の構築、)

    寄せ集めでも、他人の文体の真似でも、書いている本人はひとりしかいないのだから、
    そのひとりがみえなければ作品の意味がないと思う。
    もう少しネクタイ緩めてもいいんじゃないかなあ、なんて。  ('07/05/11 18:19:57)

  • 流離いジロウ :
    そうそうたるネームによる評のなかで、僕なんかの言葉に何の意味があるか、さっぱり自信がないですが、ケムリさんにはいろいろ貰ったものがあるので、僕なりに思ったことを書きます。わざと、言い回しに気を使いません。

    壇一雄が、太宰治の晩年の書き物を指して、二日酔い、と吐き捨てました。曰く、晩年、戯作者であるところの書き手の姿勢に張りを失って、実体(ほんとの顔)と仮面(書かれたものの内部に顕わされる話者としての僕)の間の境界がぐらぐらしてしまうその状態を、太宰が死んだ後で、壇が揶揄して回想する下りです。有名なエピソードだと思いますが。

    ケムリさんの作品には、どこか戯作的なティストがあって、「書き手の真顔」と、「書かれている記述に表出された書き手の像=演劇的存在としての話者=仮面の僕」との間の、その距離感が、実に特徴的なんじゃないかな。それはケムリさんの作品の魅力(の一部、他にもいい所は勿論、当然、あります)であり、別の人たちからの「借りもの」みたいだという評を招く理由になってるんじゃないか。そんなことを思います。

    そして、若干ですが、ケムリさんの作品は、二日酔い、っぽいんですよね。戯作であるからには、道具立てされた書きものの背後に、しっかりとした書き手の足場が密かに組まれていて、それが安定しているからこそ、書かれたものの内部のもろもろ(イメージでも、意味でも、何でもいいですよ)が、舞台上で生き生きと活躍しはじめる、という構造があるように思うんですけど。
    ケムリさんの作品では、真顔の作者がどこに立っているのか、足場がぐらぐらしたまま、とても危うい均衡を保ちつつ、舞台の上に言葉が投げ込まれ、作品世界が編まれていく。なのに、書かれた世界には不思議な調和があって、破綻もしていない。この矛盾は、おそらくケムリさんの筆力が支えちゃってるんでしょうね。まじでそれ、凄いし、羨ましかったり、する。
    普通なら、読めない代物になると思うんです、そんな状態で作られた作品なんて。或いはそういう構造そのものが、別の上位レイヤーから俯瞰すると、まさに戯作そのものであって、そのはらはら感を、もしかして、あなた演出してる?、って思ったりなんかしています。

    いろいろ、ぐだぐだ書きましたが、僕は、ケムリさんの作品の、その二日酔いっぽいところに、たまらん傷ましさみたいなものを正直感じて、辛くなる。文学作品として、結構、まじめにそこに感動してしまったりも、する。だから、この作品もそうですが、ケムリさんの殆どの作品を、好きです。でも一部の作品は、猛烈に不快。もし、どうしても、自分の感覚として行き詰っている感があるのであれば、戯作者としての張りを確立して「真顔」の置き場所を固定してしまうか、戯作的アプローチをやめるか、或いは弁証法的(笑?)な別の解決策を明確に持ち込むかが、必要なのではないですかと、モニタの向うで僕は考え込んでいます。

    失礼しました。こんな駄文が、どこかをかすって、ケムリさんの参考になることを、祈りつつ。  ('07/05/11 20:08:15 *5)

  • ケムリ :
    ケムリは、現在頭を抱え込んでます。
    技術以上のものが現実として求められた時、創作と人生が繋がったものとして語られた時、ぼくは往々にしてこういう状態になります。

    ええと、すいません。ちょっと猶予をください。
    でも、ありがたい。本当にありがたい。これがあるからこそ、極道はありがたいんです。本当にありがとう。  ('07/05/11 22:06:57)

  • 中平 :
    はじめまして。
    ものっそいアホなレスかもしれませんが、この作品の元ネタはTMGEの「世界の終わり」でFAでしょうか。
    もしそうだとしたらこの作品、もちろん作文技術の面では相当上質な「二次制作」でしょうが、文極の発起人の一人と言う立場であり、一人の詩人であるケムリさんの作品としては、正直どうかと。
    技術のサンプルってんなら話は別ですが。


    創作においてパクりまくるってのは良い事なんでしょうが、それが前提として存在し、脱却も破壊も無しに本家の傘の下に基づいて世界観コネコネするだけなら、いくら綺麗にまとめてもそれは制作であって、創作ではないですよね。
    ヤオイか、面白けりゃ良いってんならそれオレンジレンジじゃねぇか、と。


    骨子換えて胎盤奪ってんなら創作でしょうが、何というか、ケムリさんの紅茶はケムリさんが入れるべきだと思いますよ。
    それが安いダストティーでも。意味分かりませんね、はい。

    きっと的外れな意見でしょうが、その点気になりました。
    勘違いならすみません。  ('07/05/13 21:23:29)

  • ケムリ :
    さーて、フルボッコにされてみたわけですが。いや、酷いっすね。発起人なら賞賛レスで埋め尽くされてみろよ、って感じなんですが。

    とりあえず、なんです。「何を求められてるのだろう?」ってのが、最近のぼくの問いかけでして。この作品や、フォーラムに出した幾つかの作品についてもそれはもちろんそうで、軽谷さんの指摘にもあるとおり消費される作品を目指しています。この作品は、全てが「特に無し」で埋め尽くされている。詩の本来の目的が意味性にあるなら、この作品は多分ゼロです。なーんにもない。空っぽの土台の上に物を積んで積んで、そういうわけで。一番の問題が、それがモロバレだっていうことなんだと思うんですね。

    例えば、ドーナッツの穴みたいなイメージなんです。ぼくは今回、穴として「ルーシー」を置いた。そこから書き始めて、そこ以外を埋め立てた。その中心の穴以外に、イメージの広がりを極力捻じ伏せた。読み手に「誤読」させない作品を目指した。イメージを遊ばせる広さ、とは良く言いますけれど、それって解釈のブレや読み手に作品を放り投げるような無責任さだとぼくは感じてしまうんです。だから、ぼくは近作では常に真ん中に穴を置いて、その回りを埋め立てるように書いている、これって非常に楽なんです。言いたいことは何もないから、その回りを埋めて空白を残す。すると、読み手が勝手に中心を捻じ込んでくれる。でも、良質な読み手ほど「実は何にもないじゃない、何書いてるんだよ」って看破してしまう。これって、どうなんでしょうか。今回は「ルーシー」でやりましたが、「海を見たことがない女の子」でもイケるし、何にもなくてもいける。

    サクサク、書けるんですよね。何せ、手ごろな穴を一つ見つけて、その周囲をカッチリ埋めれば作品でござい、って顔になりますから。埋め立て方法については、ぼくは結構手持ちがありますし。中心を書かず読み手に伝える、っていう基本技術を逆手にとってやったぜ!みたいに最初は我ながら面白いと思ってたんですが、ひょっとしてコレって凄い空しい創作なんですかね?

    足場の曖昧さ、っていうのは非常にわかるんですが、確かな足場などないってのがぼくの基本スタンスで、当然ながら言いたい事ってあんまりないんですよ。意味はオカズで中心は何?って言われたら、「特に無し」としか答えられない。もちろん、書き始めた頃はあったんですけどね、それもなんだかどうでもよくなってしまった。書くことが主で内容が従なんです、正直な話。「単なる技術サンプルだろ?」って言われても反論出来ない。じゃあ、書きたいことがあるかって言われたら、何にもない。二十歳のガキに、そんなに伝えたいことなんかないし、「自己表現」や「ナルシズム」みたいな動機も随分薄れてしまった。自分を書く必要がなければ自分の考えを書く必要もないんです。これは、「じゃあ書くなよ、黙ってろ」で一喝されるレベルの愚痴ですが・・・。うん、じゃあ書くモチベーションが無いかと言われれば、そういうの抜きで書きたいわけなんです。手段が目的化するって、こういう状態なのかなぁ。  ('07/05/14 01:01:26)

  • ケムリ :
    リップヴァンウィンクルさん
    それ、理想といえば理想ですが、難しく・・・ないですか?酩酊しながら書いたものって、往々にして人前に出せるようなシロモノに仕上がらないんです。ぼくはその「魂の酩酊」みたいなものも、技術に置き換えたい。方法の問題として捉えたいんです。感性、みたいな言葉がぼくはあんまり好きじゃなくて、創作の99、9%までは方法の問題だと思い込みたいんです。自分を曝け出したり、あるいは他人の目を意識することをやめて充足するために書くことが、それが創作だとは思いたくない。もちろん、それが受け容れられる人は天才と呼ばれればいいと思うんですが、ぼくは天才じゃない。素のままのぼくになんて、なんの魅力もない。そこからスタートしてて、うーん・・愚痴だ。頑張ります。次は、納得させるものを。  ('07/05/14 01:07:57)

  • ケムリ :
    一条さん
    一条さんに言われると、コタえますね。ただ、ほとんど感性では書いてない、とは思います。違うモチーフで書いてもダメなのか、あるいはこのモチーフが致命的に合わないのか、それとも書き方の問題なのか、あるいは意味性の問題なのか、薄っぺらなのを看破されただけなのか、でも「薄っぺらさ」っていうのは一つの売りでもあると思ってたりもするわけで・・・。
    切り口を変えて方法論はそのまま、そんな作品を近々投げ込んでみるつもりです。よろしければ、そちらも批評ください。なんていうか、「感性」ってよくわからないんですよ。磨けるものなのか、あるいはそうでないのか。そうでないならば切って捨てるべきだと思うし、努力の範疇にあるなら身につけたい。  ('07/05/14 01:12:31)

  • ケムリ :
    かるやさん
    見方によっては、褒めてくれてるような気もするし、かなり看破されちゃってるんですが、ぼくとしては「脱線出来ない」作品を目指してます。中心の「ルーシー」だけは完全に形のないもの、無意味なもの、空白として置いて、その周囲をゴリゴリに埋め立てる。なんていうか、狙いそのものは成功してる感じなんですが、それ自体が魅力的ではないっていう指摘は非常にコタえます。しかし、本質の問題ですが、書いている一人が見えたら、それって面白くないんじゃないでしょうか。ぼくって、基本的にはどこにでもいる二十一のガキですし、自分なんか絶対に見せたくない。この傾向は書けば書くほど強まっているような気がします。創作は創作、俺は俺っていう。
    「書いている一人が見えなければ意味がない」っていう考え方には、ぼくは全く賛同できなくて、詩は個人を見せるためにあるわけじゃない、読者を愉しませるためにある、と思うんです。だから、本当のことを言えば、ぼくは「ケムリ」のネームクレジット付きで書くこともあんまり好ましく思ってない。作品は、ぼくと切り離されて読者に愛玩される対象でのみあって欲しい、なんてことを思ってます。だから、ぼくの答えとしては、「自分が見えるように読者が思える作品を書く努力をします」っていう、非常に嫌味ったらしいものになってしまうんです。ごめんなさい。  ('07/05/14 01:22:25)

  • ケムリ :
    流離ジロウさん
    書き手のスタンスや、あるいは創作の中心軸を持った人を羨ましく思います。書き続ける動機がそこにあるのなら、それは凄く良いことだと思うんです。でも、じゃあ言いたいことがあるかと言えば、ぼくにはない。正確に言えば、「詩の形を取って主張するなら、そんなもん詩になんかするな。論考として表に出せ」なんてネジネジに歪んだ自意識を持ってまして。戯作っぽいっていうのはそのとおりだと思います。詩を書く上で、その内容に対して、明確な立居地をぼくは持ってませんし、もし明確に持っているとしたら詩の形にはせず、論考の形で表に出すと思うんです。

    「何故、詩を書くのか」って聞かれると、凄い困るんですよ。「褒めてくれる人がいて、嬉しいから」くらいのところしか、今のところ答えを用意出来ない。そのレベルでしか動機を持ってない。だから、正直言って技術論以外の場所に踏み込まれると非常にしんどい。巧いとか下手とかそういう土俵で叩かれるなら、それはそれで「傾向と対策」に持ち込んで改善する余地があるんですが、それ以上は正直言って難しい。

    >もし、どうしても、自分の感覚として行き詰っている感があるのであれば、戯作者としての張りを確立して「真顔」の置き場所を固定してしまうか、戯作的アプローチをやめるか、或いは弁証法的(笑?)な別の解決策を明確に持ち込むかが、必要なのではないですかと、モニタの向うで僕は考え込んでいます。

    行き詰まりを感じてるのは、なんというか、やっぱりそういう部分なんですけれど。要するに、「何が良い詩か」みたいな、非常にガキくさいとこでぼくは悩んでるんだと思います。もっと言えば、誰もに求められる作品ってどんなものだろう、みたいな。  ('07/05/14 01:32:54)

  • ケムリ :
    中平さん
    二次創作のつもりは、ありません。「ゲットアップルーシー」と「世界の終わり」はぶっちゃけ好きなんで、イメージの起点と下敷きに使わせてもらいましたが、歌詞と比較して貰えばわかると思うんですけれど、ほぼ別物に仕上がってると思います。(中心になる記述が、歌の方には全くありませんし。実は、ぼくは同じ轍を過去にも踏んでて、「パクリ野郎」と罵られても反論出来ないマネをした前科があるので、割とナーヴァスになってます)

    なんていうか、ゼロからは中々出て来ないので、ぼくはこの手のやり方をよくやります。でも、それがマズイなら、止めます。読者にマイナスの評価を与えるなら、二度とやりません。(個人的には、下敷きにする創作を無視すると、古典や半古典的な名作のかなりの割合が消失するとは思いますけれど)何故、あからさまに出典がわかる書き方をするかっていうと、敬意の問題だと思うんですよね。例えば、ルーシーは空白だから、メリッサでもアイリーンでもいいんですよ、サムだっていい。他の連想させるような部分も全部置換することも可能なんですが、正味な話それはやりたくなかった。こういうのは個人的な思い入れで問題があるのかもしれませんけれど・・・。あと、「世界の終わり」ってモチーフは、うんざりするほど書いて来たものでもあるんで、使いたかったっていうのもある。

    とりあえず、当面そういった表現は全て置換した上で、絶対に出元を特定出来ないように書こうと思います。ありがとうございます。  ('07/05/14 01:42:39)

  • 浅井康浩 :
    こんばんは、ケムリさん。


    >何せ、手ごろな穴を一つ見つけて、その周囲をカッチリ埋めれば作品でござい、って顔
    >になりますから。埋め立て方法については、ぼくは結構手持ちがありますし。中心を書
    >かず読み手に伝える、っていう基本技術を逆手にとってやったぜ!

    思ったことを。
    ルーシーの不在という出来事が、自分の中では、中心の穴という場所を占めなかった。

    >ルーシーはまだ目を覚まさない。

    というくり返しは、はなしのとっかかりであり、ほとんど意味のない呼吸のようなものとして
    感じられた。

    自分が、中心に感じたのは、この作品のもつポストコロニアルな感じ。
    都市の猥雑さ。

    >窓の外には、漢字圏の目立つ数十ヶ国語の看板
    >ジャンク基盤のごった煮配線みたいに詰め込まれたビル群、
    >空をみじん切りにする電線
    >爆撃警報が鳴り止まない
    >俺の洗濯物は一つ残らず盗まれた
    >世界の終わり


    「場所に潜んでいる自然の力を最大限に誘起せよ」とは、原広司の言葉ですが、
    書かれている場所の雰囲気は醸しだせているんです。そこまでは問題はない。けれど、
    その地場のもつ猥雑さのもつエネルギーが、「俺」に作用するときの表現が、
    全編をとおして稚拙なものになっているのが、なんとも残念です。

    >彼は、店の裏手のゴミ箱を漁るカラスを憎み、それ以外の大抵のものを愛している
    >耳からぶどう酒を注ぎこんでくれよ、出来ればそうしてくれよ
    >ラジオからは百四十二回目の正義が叫ばれ、俺は背骨までヘシ折られた
    >世界の終わりは、路地裏から二十四個の目でこっちを見ている。

    要は切迫感がなく、非常にだらけた感じになって無残すぎます。
    地場からのポスコロ的なエネルギーはたしかに感じられるのに、
    「俺」はその影響をほとんど遮断してしまい、身体的な衝動や行動としてあらわすのでは
    なく、知的でこねくりまわした場違いな表現にして延々と述べてゆくだけ。何をいってるんだ、こいつは。

    猥雑な地場の影響を受けた作品として思い出されたのは、谷岡亜紀さんの短歌で、

    >黄昏の世界がおれに泳がせる50mプール32秒で

    >おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく街にやさしい歌が溢れても

    >こころもち顔を赤らめ「東京!」とおれはお前の名を今日も呼ぶ

    という作品と比べるとき、
    地場になんらかの影響を受けることで、行動を促されてしまう切迫感がこの作品には圧倒的に足りないのだと思います。

    >ぼくは近作では常に真ん中に穴を置いて、その回りを埋め立てるように書いている、

    とのことですが、これを読む限り、真ん中の穴が周りに書かれた事柄に侵食されてしまい、
    本来は、周辺にあるべきものが、真ん中の主題の空白に代わって居座ってしまっているように感じる。
    ケムリさんは、体質なのか、作品の中で、書こうとしなくても、全体の濃い雰囲気が、もわっ、って出てきてしまうので、空虚な主題というものは、似合わないと感じています。  ('07/05/14 02:12:53)

  • 流離いジロウ :
    再レス、というか補足させてください。

    書き方が悪くて申し訳ありません。やっぱり僕は、己れの詩作品でしっかり例示できていないから、駄目なんですよね。だから伝わらない。やっぱりこうコメント、今後はあんまり書かないように、自粛します。

    >詩の形を取って主張するなら、そんなもん詩になんかするな。論考として表に出せ

    ここ、全くその通りで、僕も完全に同じ意見です。
    僕が「意味」といっているのは、多分に現代においては、断片化された意味なんですよね。論考にまとまるような体系だったものは、スローガンだったり、多くの場合政治的な言説であったりするので、むしろ僕はそういうのに、完全に食傷気味の人種です。

    僕にとってのいい詩(そしてそれが具体例として己れの作品で具現化できていないのが、無念ですが)は、分裂した意味の切れはし、体系化されることによって馴致されていない「生々しい意味の切れはし」のはざ間を、ひとつの生の体験としてトレースする作品です。書き手が直接、ダイブする見世物のようなものであってもいいし、書き手が黒幕となって読み手をダイブさせるようなものであってもいいと思っています。

    何故、現代において意味は分裂した切れはし、とならざるを得ないか、これを考えだすと一生掛かるでしょう。自分でもよく分かりません。これは、単に好みの問題かもしれませんが。

    僕がケムリさんの作品を指して戯作的といったのは、読み手のほうにダイブさせる(或いは虚構の話者を作品の中でダイブさせる)を主眼に置く手法を使う人なんじゃないかなというのを、思ったのが前提にあって、さらに二日酔い、っぽいといったのは、そこの黒幕としての境界位置みたいなのが何となくぐらぐらしていると、僕が勝手に感じたからです。真顔が、覗いているのはいいんだけど、そこを、どう出すって所なんでしょうか(覗き方が僕には中途半端で、快適ではない時が稀にあるという意味です。要するに微妙なバランスなのだろうと)?或いは、完全に見えなくして隠してしまうか?、真顔を。

    へんな事をいって、ごめんなさいでした。  ('07/05/14 09:29:13 *8)

  • 軽谷佑子 :
    書いている一人、っていうのは確かに作者なんですが、
    なんというか、詩の中に話者としてあらわれる、という意味ではなくて。
    ことば悪かったな。
    >自分なんか絶対に見せたくない。
    わたしだってヤですよ。どこにでもいる二十二のガキですもん。
    自作へのレスでも再三言ってますが、
    あの、
    >ぼくと切り離されて読者に愛玩される対象でのみあって欲しい
    とか、ドーナツ的な手法、というのはとてもよく理解できたし、
    再確認したところでもあるんだけれど、ただ、決してアノニマスにはなりえない
    書き方だと思うんですね。中身はなくても楽しめる、消費できる、という文章は。
    「個人の思いを」「感性を」という主張が大多数(だと思う)膨大な詩群の中にあってかなり目立つ、
    現実にケムリさんの文章は目立つほうだと思うんだけれど、なんだ、どこかから怒られそうなのを
    あえて引き合いに出すと、丘さんやfiorinaさんの作品の中にケムリさんの近作が混じっていたら
    (優劣ではなく)間違いなくケムリさんのが一番目立つでしょう。個人の思いやら叙情やらがほとんど前に
    出てこない、人工的な組み立ての文章。
    たぶんケムリさんがその方向を突き詰めれば突き詰めるほどその傾向は強まると思うんですね。
    散文形式をとっているから余計に強く感じるのかも知れないけれども。

    で、文章からはもちろんケムリさんはかけらも見えなくて、皆とりあえずカッコいい文章
    として読むじゃないですか、そして読んだ後に「これを書いた人は」って考える。
    これは名があろうがなかろうが関係ないと思うんですけど。
    そのときケムリさんがそこにいたとして、俺なんも考えないで書きましたよ、だってそうじゃないですか、
    そのほうが楽しいでしょう、とは言わないと思うんですね。
    (もしそうだったならあれです、この下は読み飛ばし。笑)
    読者を愉しませるために書くためにケムリさんがなにをどうしたいのか、というのは
    詩の中に本人顕現、以前の問題としてあるものだと思うんですね。でそれは多かれ
    少なかれ作品の中に出てくるとわたしは考えているんですが、なんかそういうものまで
    一所懸命塗りつぶしているようにみえて、それはどうなんかなあ、と思ってるわけです。

    なんか、わたしすっごいヤなこと言ってんじゃないかという気がしてきましたよ。
    自分のことを棚にあげてから喋る、っていうのは常套だと理解はしてるんですが。
    文章わかりにくいし。  ('07/05/14 11:24:25)

  • 一条 :
    ケムリさんが、ここで説明しているようなことって、目新しいことでもなく、そういう意味では、その手法すら薄っぺらいと言えなくもない。例えば、ロブグリエの「新しい小説のために」は、40年前に刊行されてますし。「創作の99、9%までは方法の問題だと思い込みたい」というのなら、現時点でそれは何%達成できていて、なにをすれば100%になるのか、ということが明確にわかっていないと駄目だと思うんですね。ケムリさんが標榜していることは、そういうことなんですよ。技術や方法で全てを置き換える、ってことは、非常に厳しいことで。ただ単にそういうふうに「思い込みたい」という状態で、そんなもん作品に反映しても、中途半端な薄っぺらいものしか出来ないのは当然なんじゃないかな。「二十一歳のガキに伝えたいことなんてない」って言葉も同じで、じゃ、いったい、何歳になれば伝えたくなるの、と、「方法の問題」に置き換えることが出来るんですね。  ('07/05/14 13:17:00)

  • ケムリ :
    一条さん
    方法論としては、さほどメジャーじゃないけれど、じゃあぼくしか使わないかと言えば、そんなことはないと思うんです。実存、とかそういうものがあるとして、そこに接続されない薄さ、手先でコネ回しただけの薄っぺらさ、そういうものは常にあると思う。でも、じゃあぼくは問い返したいんだけれど、一条さんはどうやって書いてますか?

    書き続けるなら、それは勿論向上を目指さなければならない。向上ってのは何か?ぼくにとっては、イコールで「認められること」で、ぼくがぼくに対して満足出来る作品を書くっていうのは、とっくに捨ててしまった。
    詩の良し悪しを「好き嫌い」の二元論に依存した時に、じゃあ「もっと認められたい、たくさんの人に読まれたい」って欲求を抱えたら、何を掲げて努力すればいいんだろう?って思うんです。方法の問題ではないのなら、方向性がゼロになってしまう。各自、点で勝手に(例えば、人生とか伝達とか)そういうものを掲げて、その方向性に従って書いているんだと思うんだけれど、ぼくはその部分に技術と読者を置いた。逆に言えば、それ以外を切り捨てた。
    ぼくは、詩に限らず良い作品を書くための努力は常に惜しまないつもりなんです。でも、疑問なんですよ、みんな「一体どうやって努力してるんだろうか?そんな曖昧な方向に向かって、何故走れるんだろ?」って。ああすればいい、こうすればいい、百人に訪ねたら、百通りくらいの「上達の方法」は出てきて、百通り以上のダメ出しが出ると思うんですが、一体のそのうちどれが信に値するものなんだろう。文体は書き続ければ練りこまれて行く、表現と語彙は増やしていくことが出来る、この二つ以外に確かなことってあるんだろうか?って思うんです。例えば、個人性をモロに出す作品を書く人の場合、魅力的な人間はそのまま魅力的な詩に繋がると思うんです。こういう方向で、資質と方向性が一致した人は、時に神がかった作品を書くわけで。でも、小器用な指先以外に何もない、少なくともあると思えない。それでもよいものを書きたい、そう思ったとき、人はどうすればいいんだろうか?って最近思うんですよね。

    感性ってなんだろう?
    何故、定義出来ない曖昧なものを掲げて、人は批評したり批判したり、あるいは創作したり出来るんだろうか?そんなものの、一体どこに根拠があるんだ?そんなに曖昧なものなのか?良い物と悪いものの間に線は引けないのか?じゃあ、努力はどうやって介在すればいい?・・・みたいな、今更感満点の、ガキ臭い葛藤を抱えてるわけですよ。  ('07/05/14 14:08:43)

  • ケムリ :
    浅井康浩さん
    非常にわかりやすい評で、かなりダメージ受けました。
    ポストコロニアムって文脈に接続する気は全然なかったんですけれど、でも味付けにそういうものを使おうとしたのは事実で、これは単純に「塩味が濃すぎた」みたいな問題だと思うんです。もっと言えば、描写が引き込む文脈を御し切れなかった。書き手が思う以上に、描写が意味性を引き込んでしまって、要求されるものを大きくしてしまった。その文脈を、影響を受けている主体の「俺」がまるで背負いきれてない、そんな感じに受け取りました。地場っていうのは、描写が引き入れた文脈の総和、みたいな解釈でいいと思うんですが、確かにこれは御しきれてないかもしれません。

    浅井さんが、実体の無いイメージ、既存の文脈に接続されない、余計なものを引き込まないイメージを多用する理由が、少しわかったような気がします。ぼくの場合、実体の無いイメージを愉しませるだけの筆力がないので、どうしても既存のイメージを引き入れて「切り貼り」することになる。それが、どうしてもぼくの思惑からハミ出していっているような感じがしました。もちろん、言われて初めて気づいたんですけれど。少し、イメージの使い方と描写が引き込む意味性について、考え直してみます。ありがとうございます。  ('07/05/14 14:19:55)

  • ケムリ :
    >そのときケムリさんがそこにいたとして、俺なんも考えないで書きましたよ、だってそうじゃないですか、
    >そのほうが楽しいでしょう、とは言わないと思うんですね。

    「それを語ってしまったら、意味がなくなりますよ」とかって逃げるかもしれないですね。中心にネジ込むものは、読者が取捨選択していい、そのための中心の穴なわけで。なんていうか、狙いとしては、完成させるのは読者、っていう方向性なんですよ。誤読させ得ない土台を一つ用意して、中心部を空にしておく、その上でそこに何を入れて貰えるか。だから、ぼくは個人性を滅茶苦茶隠してます。徹頭徹尾人工的に書こうと思っている。

    >読者を愉しませるために書くためにケムリさんがなにをどうしたいのか、というのは
    >詩の中に本人顕現、以前の問題としてあるものだと思うんですね。でそれは多かれ
    >少なかれ作品の中に出てくるとわたしは考えているんですが、なんかそういうものまで
    >一所懸命塗りつぶしているようにみえて、それはどうなんかなあ、と思ってるわけです。

    一生懸命、塗りつぶしてるんだと思います。ぼくの場合、読者を愉しませる、読んでもらうっていうのが至上として一つあって、そこに至る方法論は本当になんでもいいんです。散文に逃げたのだって、「書きやすいから」の一点に尽きてしまう。ただ、「自分の抒情」を表に出す、自己露出的な作品は、もう書きたくないんです。だからこそ、ぼくはそこを完璧に塗りつぶしてしまいたい、と思っている節があります。もちろん、それが良いことなのかは確信がないんですけれど。イヤなことなんて書いてませんよ、自分のスタンスに自信を持てないからこそここに放り込んだわけで、全否定はむしろありがたいです。  ('07/05/14 14:38:14)

  • ケムリ :
    >僕がケムリさんの作品を指して戯作的といったのは、読み手のほうにダイブさせる(或いは虚構の話者を作品の中でダイブさせる)を主眼に置く手法を使う人なんじゃないかなというのを、思ったのが前提にあって、さらに二日酔い、っぽいといったのは、そこの黒幕としての境界位置みたいなのが何となくぐらぐらしていると、僕が勝手に感じたからです。真顔が、覗いているのはいいんだけど、そこを、どう出すって所なんでしょうか(覗き方が僕には中途半端で、快適ではない時が稀にあるという意味です。要するに微妙なバランスなのだろうと)?或いは、完全に見えなくして隠してしまうか?、真顔を。

    なるほど。この作品からも、ぼくの「真顔」が見えるとしたら、それはぼくの稚拙さです。完璧に隠すつもりで書いていますので。もちろん、そうでない作品も結構あるんですけれど。この作品は、ぼくとは完全に遊離したものであると思ってます。それでも、その中に「真顔」がチラつくとしたら、それは単純にぼくの筆力の不足じゃないかな、と思うんです。
    例えば、浅井さんの創作物からは、書き手としての浅井さんの「真顔」はちっとも見えないわけで、ぼくとしてはそのくらいにソリッドにやって行きたいと思ってるんですが、中々に難しい。多分、見えたり見えなかったりするのはぼくが自分のスタンスに揺らいでいる一つの証左だと思います。そういう意味で、その指摘は非常に正しいのかもしれない、と思う。

    ただ、何でこうも真顔を隠したがるかと言えば、真顔って出て来るんですよね。我ってそうそう殺しきれない。少なくとも、ぼくはスタイルをいきなり変えたんで、未だに我がニョコニョコ顔を出します。そのアンバランスさが、結局色んな人に指摘されている根源の一つかもしれない。結局、ハンパはダメで、やるなら確信もって突っ込んで行けってことなのかもしれませんけれど、それが出来ない小心者なんですよ。あるいは、チラリズム的にその間を行ったり来たりする、そういう確信犯も面白いのかもしれません。色々、考えてみます。ぼくは今のところ、トータルでみるとかなりどっちつかずです。  ('07/05/14 14:43:22 *1)

  • 一条 :
    前のレスは、言葉が足りなかったかもしれないけど、ケムリさんの努力が足りないんじゃないの、って言いたいわけです。この作品「まだ、目を覚まさない」ってのが、ケムリさんの方法論にのっとって書かれたのは間違いないんだし、その上で、全然出来てないじゃん、と。でも、他の方のレスを読むと、そういうふうに読み取ってもらえてるようだし、それは、あくまでぼくの感覚ですよ。ケムリさんならご存知だとは思うけど、さまざまな方法論を自分に課して、それをどのように言語で実現するか、ってのが「物書き」の本来の楽しみ、だとするアンチ・ロマンな一群もいるわけで、ぼくは、ケムリさんの方法論を否定しているんじゃない。ま、それを方法論として掲げてしまうとこに、ケムリさんのセンスのなさをかぎつけてる、といえなくもない、ってどこまで罵倒する気だ、おれ。

    ぼくが、どうやって書いているか?ってのは、どうなんでしょ。いや、ほんと、なんも考えてないですよ。ただ、書き散らかしているだけで。こういう説明が卑怯だというのなら、もうちょっと考えてみますが、ほんと、なんも考えてない。

    >感性ってなんだろう?
    「人が世界や外界の事象(もの・こと・情報)に感覚というフィルターを通じて出会い、関係性や意味性を生み出し、創造性を展開していくという、その固有の形式や能力」、これインターネットで引っ掛けてきましたが、おおむねこんなもんでしょう。トゥーサンなんかは、最近は、「身体感覚」っていうキーワードをやたら使うようになった、あのトゥーサンがですよ。で、ぼくは、「身体感覚」ってのは、いかにもベタ過ぎて、「言語で実現すべき」ことを補完する手段として、「身体感覚」が使われるのは、なんだかなーと思ってしまう。ただ、それが彼の実感(これまた否定されそうなコトバだ、)なら、それは否定しえない。ぼくは、根拠はないけど、ベケットとトゥーサンは確実に接続されていると思っているので、トゥーサンに現れた「身体感覚」という現象が面白くてしかたないのはたしか、ま、ちょっと逃げた回答になりましたが。要するに、ぼくは、ケムリさんにケムリさんの感性を磨けとは言ってないし、たぶん互いに了解できないだろう「感性」という言葉で、あれこれ語り合っても仕方ないですね。  ('07/05/14 14:55:24)

  • ケムリ :
    なるほど、「方法論として掲げること自体にセンスが無い」ってのは、なんというかわかる気がします。しかし、ベッコベコにされてみたい欲求みたいなのがぼくにはありまして、なら方法論まで開陳して、丸裸になってベコベコにされちまえ!的な。いやもう、予想の範疇を越えてベッコベコになってて、嬉しい限りと言えば語弊があるなこの野郎、って感じなんですが。

    アンチ・ロマンの方法論とはまた違うんですよね、巧く言えないけれど、メタロマン的というか・・・うーん。とりあえず、リベンジする動機が出来るというのは素敵なことで、結局ウジウジしてるヒマがあったら書こう、くらいのとこに落ち着こうと思います。  ('07/05/14 22:48:44)

   Key

選択
この親記事をトップに移動しない  

- ealis 3.0.10 + BUNGAKU GOKUDOU -