最新情報


全文検索モード

PR

  • Amazon.co.jp グッドデザイン賞ストア

記事検索フォーム

検索したいキーワードを入力し、検索条件等を指定して検索を実行します。 [リセット]

キーワード:   対象:   親記事のみ
検索条件: 全ての語を含む  いずれかの語を含む  大/小文字を区別しない
検索範囲: 現行ログ  過去ログ(#1)  全てのログ

本文を表示しない  permanent URI を付記  

最後に「検索完了」と表示され、ページの読み込みが終わるまで、少しの間お待ちください。

現行ログ検索結果 (投稿者)

  1. 61 : [返信]  園里 ('16/04/10 18:01:03)

    そもそも「うしろ背」というタイトルが気になります。「後ろ」の「背中」あるいは「背表紙」でいいのかな。「後ろ」にモノがある、という言い方で「背中」を問題にするのは、自分があるということを認識している、人の意識が作った言葉だと思う。

    ねむのきさんの視点を足掛かりにして、1、2、6連の何が違うのかを単語を中心に考えてみると、これらの連だけ「うしろ背」と「ひとたち」が出てくる。つまり「うしろ背」はつねに「ひとたち」と関係してくる。

    3、4、5連には「胸」があって「眉」があって「肩」があって「膝」があって「帽子」をかぶって「コート」を着て「靴」を履いてる人物が出てくる。「背中」だけないけれど「うしろ背」の意識はどこかにある。ここで思うのは、ほぼ全方位対応なんですよ。上下横前後全部ある。小さい点をあらゆる角度から旋回するように書かれている。「小さい点の旋回に/羽根の白さが落ちていく」それはつねに意識されてる。<平面/鋭角>とか<乾いてて熱いところ/湿ってて寒いところ>といった対句表現が多いのも特徴。

    「羽の白さ」というのは何か。これが「うしろ背」じゃないかな。「うしろ背」は作品の中でかなり意味を上積みされて、具体的に何とは指しえない何かになってるけれど、あえて言語化してみると、意識としての「背中」の問題が、どこかで他者的にパッと舞った「うしろ背」(背表紙的な何かかもしれないし、「ひとたち」の背中かもしれないし)を見て交感したところにこれらの言葉はあるような気がする。

    最後は「うしろ背にまたたく光がまぶたを開く」という、全身鎧のように構成された言葉の裂け目として「まぶた」が出てくる。意識と視線の共感作用を、外界への足掛かりみたいなものとして捉えているのかもしれない。

    で、蛇足。天使の翼も悪魔の翼もだいたい背中から生えるのは意識を問題にしているからなのかも。生物学的にみたら腕部が変形しないとおかしい。

  2. 37 : [返信]  園里 ('08/03/19 20:25:53 *1)

    どうも、こんにちは。

    思ったんですが、この場所は通常掲示板に比べて流れが遅いので、本来だったら過去ログに埋もれていっただろう作品でも、掘り起こせますね。やれるとなると掘り起こしてしまいます。

    前置きはさておいて、頑張ってみます。どうしても流れを追ってから発言する形になりますが、受ける印象としては、やはり一貫して、いままで発言した方と似たような印象を受けるところがあります。
    もうケムリさんが同じようなことを書いてあるように読める部分があるし、考えている可能性もありますが、とりあえず言うだけ言ってみます。

    さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。ここまでは一応理詰めですし、経過からみて同意を得られると思いますが、ここからどんどんフィーリングが入ります。何しろニュアンスの話なので、よろしく。では、どこがどのように違うのか。

    一応ストレートに入ります。ダーザインさんもちょっと違った形で書いていますが、極限的にいえば、言語で作品を構成する以上、すべての作品は自己表現と受け取ってしまう部分がある、本人がからっぽだと言い張ったとしても、というのが基本にあります。それを逆に利用したんだと思いますが、からっぽな部分はからっぽだとしか感じない賢さみたいなものは、どんな読み手にも、基本的にある気がする。

    では何故、そこに意味が生まれてくるのか、といったところで、やっぱり文体が出てくるわけです。
    たとえるなら、下衆な言い方になりますが、一人の女性を女の子と呼ぶか、女と呼ぶかだけでも、その認識のありようは大分違う。選び方の手つきがある。手つきがある以上体もある。私としてはそれを文体と呼びたいわけです。たとえそれが作られたものであるにしても、読み手はそれを一方的に形作ってしまう。そして、その強度(認識の確かさや、一貫性)を読み取ってしまう。で、その強度が、ある視点、読者からすると、不足している部分があるのではないかと。

    もう一度いいかえるなら、誰でもいいんですが、ゴッホとルノアールの絵では、デッサンのラインからして素人でもその違いがわかると思うのです。
    私たちは思った以上にそういった細かい手つき、ニュアンスを読み取っていると思います。

    これを細かく言ってみると、言語に関わらず、人間個人の創作物だと認識できる作品は、そこに社会的構造が認められる以上、与えられた印象を構成し、その社会的ルールによって、構成を読み手の中の経験で再現し、もう一段個人的に深めたその構造との関わり方、自己ルールを作る。このルールは意外と変幻自在なもので、言語作品では一行目からそれを形成、修正しつつ、次の文章と照らし合わせる形でカスタマイズ、認識、読解の効率化を図っているように感じる。つまり、作品は社会的ルールによる記号性と、その上に乗った読解用自己ルールの二段構造になっている。その差を利用する部分も、言語による印象操作にはある思うんです。思いっきり既存の考え方の、下手な言い換えに過ぎない(誤解つき)のはわかると思うんですが、とりあえず。

    で、その自己ルールの部分、一応作品を読み終わった段階で、最終的に残ったそれが一般的に言われている作品の印象というものではないかと。だから周囲の情報が変わるにつれて、ころころ読み手の印象も変わってしまう。意識的であるにせよないにせよ。そういう定義のもと、続きを読んでください。そうしないと話が進みづらいような気がします。そのプロセスのどこかで不和が生じているから、作品として十分に受容されない。それはどこか。

    それは、借り物の文体が混じっていて、その文体と書き手の文体とのセッションが十分ではないため、読み手の中で形成に不和を起こしている。
    その部分を感じるために、そこを補いつつ読んでしまうからだ思うんです。
    単純に言えば、作られた文体をものにしきっていない。
    作品から取れば「大抵のところ」とか、そのタイプのゆるい認識の囲いが女の子に対して繰り返される部分がほとんどだと思いますが、役者が甘いように感じるんです。周囲の影響を可能な限り外して読んでみたとしても、自分が十分なくらい出ているように感じる。役を演じている自分のようなもの。というより、よほど努力しても出てしまうものだと思います。そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。その文体が持つ精度を自分のものにしきっていないし、その過程をすっ飛ばして、自然に演技ができるタイプではないと思うのです。

    これでも言い切った気がしないので、もう一度言い換えてみます。そういった作品の構造が産み出す空洞はむしろ、そのような文体を際立たせるためにある。つまり、モチーフがあればデッサンのラインだってある、なぜモチーフをデッサンする必要があるかといえばそのラインをみたいからだ、と。これはケムリさんも自ら述べていますが、「信仰」もある意味、こうして生まれた気がします。ただ、さきほど語った認識法としての理由から、それは本人が選ぼうと選ぶまいと、多かれ少なかれ、そう読まれてしまう部分がどうしても出てくる、というのを論証することが、私のしたかったことです。ここで適当なことを言いますが、思うに、その囲いが十分に読み手一人分、感性のスペースを確保していれば、その構造は有意義な場になる。その中にいることができる。「あ、これってなんか好き、住める」ってことになる。無論安住させない方向、「動かす」方向もあるとは思いますが、この手のやり方はどちらかといったら「住む」方向だと思うんです。

    まあそれはそれとして、その一番手っ取り早くて無理がない方法が、自分の文体を突き詰めることではないかと。住めるかどうかは別として、とにかくひと一人分のスペースが空く。たとえ自分の臭いを消す方向に走るにしても、それには自分の臭いみたいなものをよく知ってなきゃいけないですし……。確信は持てませんが、方向性としては嫌いではないけれど、そういう個人性みたいなものを、完全に捨てることはできないのでは、と。むしろそこは保持して、それはそれとして、深めていかないとまずい気がする。それが十分に感じられない。指向はできても、双方向にはならないかもしれないから、そのことは十分に考えてみたほうがいい…のかな、これも借り物のセリフになるので、どうせなら、さらにダーザインさんの発言を借りて言い換えてみるなら、自己解説はできても、自己解脱はできないんじゃ、とか。自分で言っていて正直、ワケわかんないよゾーンに突入している感じなんだけど。

    とりあえず、やってみました。ええ、くどいうえに、長い。

  3. 37 : [返信]  園里 ('08/03/26 18:07:56)

    とりあえず、拾ってもらったことに感謝します。

    途中だいぶはしょってから一つ訂正すると、論理性って実はあんまりないと思います、私。
    筋もあんまり通っていない。実は。
    指摘されたとおり「文体」に限らず、基本的定義が曖昧なんですよね。また、それをそろえることも、環境的に不可能に近いのでは。
    だからいちいち個人的な定義をつけているんだけれど、それも頼りない。困ったもんです。
    論理性は、そういう風に自己完結しているから、破綻がないようにみえるだけだと思います。
    ちょっと自己批判風にやってみましょう。一人演劇でせつないけど。

    >からっぽな部分はからっぽだとしか感じない賢さみたいなものは、どんな読み手にも、基本的にある気がする。

    これが思い込みその1。
    論証も反証もありません。

    >ゴッホとルノアールの絵では、デッサンのラインからして素人でもその違いがわかる。

    これも同じ理由から。
    というか、誰かから私にはたぶんわからないと言われると、反論のしようがない。

    >借り物の文体が混じっていて、その文体と書き手の文体とのセッションが十分ではないため、読み手の中で形成に不和を起こしている。

    これも仮定にすぎない。

    >自分の文体を突き詰めることではないか。

    これもね。

    こういうこと、やってしまいがちなんですよね。
    自分の影みたいなものを投影して、そこから仮定に仮定を重ねている部分が多々ある。
    その思い込みにどう個人的説得力を付与しているのかをみせているにすぎない。
    と、思っています。
    そこのところ、いちいち説明していても長くなるだけだから、いつも説明不足になるんだけれど、だから余計に、

    >参加者からの意見や異見はあった方がいい。

    にも絡めて言いますと、一人前の文章理解力を備えた個人が正確に拾えているかどうかもわからないような文が目の前に現れたら、そういったあやふやさに関する鋭い(そしてとりあえずの)ツッコミは、そういうのを放っておかれても、ほとんど何にもならないと思うから、したほうがいい……というか、お互いでやらないと困るんじゃ……みんなやりがちだと思うし。
    そういう距離感が直接見えるのと見えないのとでは、安心感が違いますし。

    駄目かな。前提としては、かなり甘えた発言になるんですけどね。

  4. 38 : [返信]  園里 ('08/02/17 17:57:06)

    なるほど、面白いですね。

    正直、最初はひふみさんのおっしゃることがうまく頭の中に入ってこなくて(なにしろ私の発言も曖昧だったから、なんの「余地」だったかという、そこから考える羽目に……)結構考えていたんだけれど、どうも一理あるんじゃないかと思います。というか、本当に発言の内容が分かっているのかが不安になってきたので、ちょっと確認を。

    まずひふみさんの場合、第一行からの発話者(「クレーンに〜」と語り始める声)と、発話者がいると思われる世界がそういう古典詩歌的?な関係(自己表現=世界という関係)を結んじゃうと、表現としての批評的な個人が確保され得ない、そのあたりがグチャグチャになっちゃうと「読まれるもの」として発話者が語りかけているはずの「他者」(曖昧な設定になりますが……)のほうを向いていない、世界に語りかけてその波紋を自分で見ているだけだよね?という、そういう意味で理解したんですけれど、それでだいたいOKでしょうか?腑に落ちるまで時間がかかったけれど、その線でいけば分かるかな……、という感じです。おそらく、あるタイプの読み手(あるいは書き手)にとっては、この手の表現は既存の文法、社会的関係としての前提を慎重に解体した上で、やっと成り立つ関係になる。その認識の上でさらに「読まれるもの」を志向するひふみさんとしては、逆にそういった基本的約束を保持したうえで読み手に語りかけるものとして、コントラさん作中の語り手に在り方として不満を持った……というふうに考えたんですが……どうなんでしょう。なにか勘違いしているように思えたら、教えてくれるとうれしいです。

    それに対してコントラさんの場合ですが、書き手としての認識論というより作品内外での現象論といった語り口で、「出会い」こそが大切なものだとおっしゃっている。その通りだと私も思うのですが、その「出会い」が「設定としての語り手に感情移入して世界観を体験する」読み手だけに限定していいのか、ということは、問題設定として、きな臭いけれど面白いところだと思います。結局立場の問題になりそうだし、個人としての志向は別にしても、どっちを向いてもそんなのばっかりだから、そこを問題にしてきたんじゃないの?とひふみさんはおっしゃっているように思える。結構鋭い所をついていると思うんですが……どうなんでしょう。そう考えると、どっちの言い分もわかるんですよね。どっちももっともなことを言っているように思える。だから何、といわれてしまうと困りますが……落ち着いてきたところで、個人的に分かりづらい部分をはっきりさせたいのと、そもそも前提として共有している部分がどこまでなのか、というところを確認したくて。どうなんでしょう?

  5. 38 : [返信]  園里 ('08/02/27 20:09:18)

    確認しました。お二方とも返答ありがとうございます。
    話を蒸し返してしまって申し訳ない。


    まず、コントラさんへ。

    確かに
    >著名な芸術家の作品より好きな人のツラの変化の方が感動したりする
    という部分に対する発言は、十分に掬い取ってなかったです。
    少し言い換える形になるけれど、感動の質として別物だと。
    同レベルで比べられる話ではない。

    >もう書くだけ
    とりあえず、書くほうの身としての話ならわかる気がします。
    なんとなく、ですけど、ようするにこういうことは気になる人が気になる人に話せばいいのであって、書き手を巻き込む必要は基本的にない。これはこちらが反省するべき点かもしれません。

    ただ、なんというか、
    >読者をしっかり想定できていない
    という批判という感じに受け取られてしまった部分から思ったんですが、私の文章と説明が下手なことがあるにしても、基本的なところで誤解だと思います。まず、初めに話の内容に対する確認だと、とりあえず断っているし、確かに最後に疑問を入れましたが、そこに「読者をしっかり想定できていない」という判断は、私個人としては入れてないつもりです。なにしろ本人が想定しなくったっていい場合もあると思っているし、そういうことが言いたかったわけではなくて、流れの中で疑問点をあげただけ、というところをわかっていただきたい。判断ではないつもり。

    次に、ひふみさんに対するレスでの横槍の部分で、細かい部分をまた付け加えることになるのを許して欲しいのですが、
    >この作品が面白くないというコメント
    と言う部分も、ひふみさんの文章をそのコメントに還すのはちょっと無理があるし、勿体無いのではないかと思います。
    とりあえず直接そう書いてある部分はないみたいだし(余地がない、とは言っているけれど)そもそも何も引っかかってこない作品には何も言わないだろうし(言えないし)引っかかってきたのなら、それなりに興味が沸くから、ついつい余計なことをいっちゃうわけで、それはちょっと荒っぽいまとめかたに思えます。という、これもはっきり言って余計なお世話なんだけれど、それはいくらなんでも、あんまりなケリのつけ方ではないかと。


    では、次にひふみさんへ。

    とりあえずオーケーでよかったです。
    物事を無駄にこじらすのは、どうやら得意分野みたいなので、気をつけたいです、本当。


    えー、乱筆失礼しました。

  6. 38 : [返信]  園里 ('08/03/05 18:27:57)

    うーん、つまり全然気にならない、その辺割り切ってるので、今のところ話にならないという感じでしょうか。絶対気になると思ったんだけれど。

    どうも、内容云々というより、出だしでズッコケちゃった印象を受けます。
    ひふみさんのロジックからではなくて、コントラさんのコラム欄あたりからのロジックでつなげていって、どっこい、かならずしも気にならない話ではないはず、というところを論証できるのかどうか、という方向で試していたら、違う結果が生まれたかもしれません。でもちょっと思いつきだけですね。いままでの経過はそれで追えても、繋がっていかない。

    失礼しました。
    とりあえずここでストップさせてください。

  7. 38 : [返信]  園里 ('08/03/16 18:54:38)

    う、ご馳走さま。
    軽く一方的だったのはたぶん、そう、酔っ払っていたせいです。
    許して。


検索完了 (結果まとめ)

指定された範囲に、 7 件見つかりました


- ealis + BUNGAKU GOKUDOU -