Normal DynamicHTML Thread Lapse
■ 記事をチェックし編集キーを入力した後に、必要な処理を選んで実行してください。 ■ 返信の付いた親記事は管理者以外削除できません。
どうも、こんにちは。思ったんですが、この場所は通常掲示板に比べて流れが遅いので、本来だったら過去ログに埋もれていっただろう作品でも、掘り起こせますね。やれるとなると掘り起こしてしまいます。前置きはさておいて、頑張ってみます。どうしても流れを追ってから発言する形になりますが、受ける印象としては、やはり一貫して、いままで発言した方と似たような印象を受けるところがあります。もうケムリさんが同じようなことを書いてあるように読める部分があるし、考えている可能性もありますが、とりあえず言うだけ言ってみます。さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。ここまでは一応理詰めですし、経過からみて同意を得られると思いますが、ここからどんどんフィーリングが入ります。何しろニュアンスの話なので、よろしく。では、どこがどのように違うのか。一応ストレートに入ります。ダーザインさんもちょっと違った形で書いていますが、極限的にいえば、言語で作品を構成する以上、すべての作品は自己表現と受け取ってしまう部分がある、本人がからっぽだと言い張ったとしても、というのが基本にあります。それを逆に利用したんだと思いますが、からっぽな部分はからっぽだとしか感じない賢さみたいなものは、どんな読み手にも、基本的にある気がする。では何故、そこに意味が生まれてくるのか、といったところで、やっぱり文体が出てくるわけです。たとえるなら、下衆な言い方になりますが、一人の女性を女の子と呼ぶか、女と呼ぶかだけでも、その認識のありようは大分違う。選び方の手つきがある。手つきがある以上体もある。私としてはそれを文体と呼びたいわけです。たとえそれが作られたものであるにしても、読み手はそれを一方的に形作ってしまう。そして、その強度(認識の確かさや、一貫性)を読み取ってしまう。で、その強度が、ある視点、読者からすると、不足している部分があるのではないかと。もう一度いいかえるなら、誰でもいいんですが、ゴッホとルノアールの絵では、デッサンのラインからして素人でもその違いがわかると思うのです。私たちは思った以上にそういった細かい手つき、ニュアンスを読み取っていると思います。これを細かく言ってみると、言語に関わらず、人間個人の創作物だと認識できる作品は、そこに社会的構造が認められる以上、与えられた印象を構成し、その社会的ルールによって、構成を読み手の中の経験で再現し、もう一段個人的に深めたその構造との関わり方、自己ルールを作る。このルールは意外と変幻自在なもので、言語作品では一行目からそれを形成、修正しつつ、次の文章と照らし合わせる形でカスタマイズ、認識、読解の効率化を図っているように感じる。つまり、作品は社会的ルールによる記号性と、その上に乗った読解用自己ルールの二段構造になっている。その差を利用する部分も、言語による印象操作にはある思うんです。思いっきり既存の考え方の、下手な言い換えに過ぎない(誤解つき)のはわかると思うんですが、とりあえず。で、その自己ルールの部分、一応作品を読み終わった段階で、最終的に残ったそれが一般的に言われている作品の印象というものではないかと。だから周囲の情報が変わるにつれて、ころころ読み手の印象も変わってしまう。意識的であるにせよないにせよ。そういう定義のもと、続きを読んでください。そうしないと話が進みづらいような気がします。そのプロセスのどこかで不和が生じているから、作品として十分に受容されない。それはどこか。それは、借り物の文体が混じっていて、その文体と書き手の文体とのセッションが十分ではないため、読み手の中で形成に不和を起こしている。その部分を感じるために、そこを補いつつ読んでしまうからだ思うんです。単純に言えば、作られた文体をものにしきっていない。作品から取れば「大抵のところ」とか、そのタイプのゆるい認識の囲いが女の子に対して繰り返される部分がほとんどだと思いますが、役者が甘いように感じるんです。周囲の影響を可能な限り外して読んでみたとしても、自分が十分なくらい出ているように感じる。役を演じている自分のようなもの。というより、よほど努力しても出てしまうものだと思います。そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。その文体が持つ精度を自分のものにしきっていないし、その過程をすっ飛ばして、自然に演技ができるタイプではないと思うのです。これでも言い切った気がしないので、もう一度言い換えてみます。そういった作品の構造が産み出す空洞はむしろ、そのような文体を際立たせるためにある。つまり、モチーフがあればデッサンのラインだってある、なぜモチーフをデッサンする必要があるかといえばそのラインをみたいからだ、と。これはケムリさんも自ら述べていますが、「信仰」もある意味、こうして生まれた気がします。ただ、さきほど語った認識法としての理由から、それは本人が選ぼうと選ぶまいと、多かれ少なかれ、そう読まれてしまう部分がどうしても出てくる、というのを論証することが、私のしたかったことです。ここで適当なことを言いますが、思うに、その囲いが十分に読み手一人分、感性のスペースを確保していれば、その構造は有意義な場になる。その中にいることができる。「あ、これってなんか好き、住める」ってことになる。無論安住させない方向、「動かす」方向もあるとは思いますが、この手のやり方はどちらかといったら「住む」方向だと思うんです。まあそれはそれとして、その一番手っ取り早くて無理がない方法が、自分の文体を突き詰めることではないかと。住めるかどうかは別として、とにかくひと一人分のスペースが空く。たとえ自分の臭いを消す方向に走るにしても、それには自分の臭いみたいなものをよく知ってなきゃいけないですし……。確信は持てませんが、方向性としては嫌いではないけれど、そういう個人性みたいなものを、完全に捨てることはできないのでは、と。むしろそこは保持して、それはそれとして、深めていかないとまずい気がする。それが十分に感じられない。指向はできても、双方向にはならないかもしれないから、そのことは十分に考えてみたほうがいい…のかな、これも借り物のセリフになるので、どうせなら、さらにダーザインさんの発言を借りて言い換えてみるなら、自己解説はできても、自己解脱はできないんじゃ、とか。自分で言っていて正直、ワケわかんないよゾーンに突入している感じなんだけど。とりあえず、やってみました。ええ、くどいうえに、長い。
放棄された埋立地を 一体の透き通った者と 連れ添って歩く 雑草に覆われはじめた アスファルト面のそこここに 立ち昇る無の陥没 ...
シルビアは恋人の兄のマルコスに「デブだ」とからかわれても、黙って 顔をそむけるだけだった。雨上がりの日曜日。表通りのアスフ ...
とかげの足音を拾っていくと 「かげろう」と呼ばれる庭で行き詰まった 兄さん あれは生き別れの兄さん いいえ 姉さんだった ...
― 楽あれば苦あり 苦あれば楽あり そう呟いて生活を、な 描き続けた。ずっと、ずっと。 まぁ、はっきりと解ったんだ ...
風の強い夜だ 下弦の月のまわりに 虹色の光の輪を作っていた薄雲が通り過ぎる 窓辺に焼きついた油色の日々が ガラス板から流れ落ち ...
はじめに くらやみがあって (ここまでくるのにながい夜をくぐってきた 一枚いちまい重ねられていく 生まれるまえは まったくの ...
傷のある胸のなかにも響く、潮騒があった。閉じた目を開くと、淡い光につつまれた海があった。数年前に、女と漂流した海辺に、わたし ...
そのうしろ背の壁に 白い顔が浮かびあがっている まっすぐ見ている眸に 群れのひとたちの歩き出しに くすむ羽をすぼめている 行 ...
口の中に微かに鉄の味がある コートの袖口が擦り切れている 錆びたドラム缶からはいだして 月下の廃工場を後にする 奏者を失って久 ...
それでも朝は来るので わたしはまた生まれてしまう 約束されていないことなので 途方に暮れている わたしは手を持たないので ...
悪魔の子どもが生まれたって、言わないで欲しいんだ。カシミールで毛皮を売っている彼の、その柔らかい頬に浮かんだ笑顔みたいな、そ ...
庭の隅で、年若いお母さんが しゃがみこんで、おもちゃのシャベルで 一心に穴を掘っている ときどき、自分は何をしているのだろう、 ...