37 : 海を見たことがない女の子のために ケムリ '07/12/31 13:25:23
海を見たことがない女の子は、大抵のところウィンドウ・ショッピングを愛しているし、そうやってよく晴れた四月の午後をやり過ごしたあと、雑貨屋で大した役にも立たない小物を買って帰る生活に満足している。ライトグリーンの水性ペンとか、小さく折りたたむことが出来る切れ味の悪いつめきりとか。そういうわけで、海を見たことがない女の子の机は、いつもそういったものでごちゃごちゃしている。
海を見たことがない女の子は、無言電話がそんなに嫌いじゃない。ねえ、あなたコーヒーと紅茶、どっちが好き?とか、オールド・ファッション・ドーナツにチョコをつけるのは許せる人なの?とか、ひっきりなしに話しかけてみたりする。そういうわけで、ぼくには一日に四回、彼女の家に無言電話をする習慣がある。最近はやっと、オスのパグを一匹手に入れて街を出る算段まで話が進んだところだ。彼女はそういう架空の可能性を真冬のりすみたいにあっちこっちに埋めて、そのまま忘れてしまう。男たちは、その小さな可能性を、小さな懐炉みたいに大事に抱えて、海への道を歩いている。
海を見たことがない女の子には、身寄りは一人もいない。彼女はいつも二ヶ月遅れで家賃を払い、しょちゅう電話料金を払い忘れる。そういうわけで、ぼくは電話が通じなくなると彼女にアパートに出向いて、中身がぎゅうぎゅうに詰まった郵便受けから電話料金の請求書を引っ張り出して払い込みに行く。彼女のアパートの前の桜並木を、ポケットに請求書を突っ込んで歩く時、ぼくはちょっとだけ幸せなきもちになる。多分、春になって冬篭りの巣穴から、子ども達を連れて出て行く母熊はこんな気持ちなんだろうな、とか思ったりもする。
海を見たことがない女の子が住むモスグリーンの外壁のアパート。その前には、道路を覆い隠すような桜並木があって、この季節にはちょっとした眺めになる。そこを歩いていくとペットショップとコーヒー豆屋が並んでいて、ぼくはいつもそこでマンデリンを買い、なんだか難しい名前の猫と遊ぶ。ぼくは眠れない夜、シルバーの毛色の大きな猫の名前を思い出そうとして、布団に入ることにしている。メイン・クーン。このとても綺麗な猫のことを彼女に教えてあげよう、そう思うのは中々幸せな夜のやり過ごし方だ。
もちろん、彼女のことが好きなのは、ぼくがいつまでも海に向かって歩いているからだと思うんだけれど。それを言えば、ぼくたちはいつだって海を目指すしかない街に生まれついた。海への道は、いつも途方もないくらい良く晴れて、男たちは真昼の酒場でビールを何杯か煽って歩き出す。一息で飲み干されたグラスと硬い口ひげには真新しい泡だけが残って。その時、彼女はいつもオレンジ・ジュースとミルクを良く混ぜて、一息で飲み干そうとするんだけれど、いつもちょっとだけグラスに残って悲しい顔をする。だから、ぼくたちはもう振り返らない。
海を見たことがない女の子のために、ぼくたちに出来ることはなにもないっていうことを、認めたところから男たちはいつも歩き出す。彼女は、今夜も電話を待ち続けて、そしてベッドに入って浅く眠るだろう、そう考えるだけで歩ける道のりもあるっていうことを、ぼくたちは許されることが出来るのだろうか。海を見たことのない女の子の眠りはいつも、とても浅い。その柔らかな淀みのなかに、幾つかの可能性が消えていく。パグ犬の甘噛みとか、メイン・クーンのふさふさした銀色の尻尾とか。
海を見たことがない女の子のために出来ることは何もない。
だから、男たちは歩き出す。
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稲村つぐ :
まず、負荷なく読めていく文章には脱帽。小道具の一つ一つ、それらを詰めていく作業、そして人物の歩かせ方も上手し、十分、楽しめるものです。
ただ、肝心のバッグについての縫製がやわいようです。
「男が海に向かう」ということを、海を見たことがない女の子に、「何かしてあげたい」という動機や、「何も出来ない」という答えに結びつけるには、
5、6連の描写があっても、まだまだ薄いと思います。
それに「海」というメタファが、語感自体のリリカルな枠を抜け出していない。素材として活かされてもいなければ、特に手がけられたものも感じない。
中村かほりさんの「rebirth」に、「群青だった、」というリフレインがありましたが、そのとき私が感じた空虚さを、再び目にしたという気がします。
きれいな贈り物を頂いたけれど、手に抱えても胸を打つものがない。そんな不思議な困惑が残りますね。 ('08/01/01 15:27:21 *1)ケムリ :
作品の真ん中に空白を置いて(それは、機能しないメタファという意味で)それを描写で「囲い込む」手法に凝っていた時期がありました。
この作品の場合、「海を見たことがない女の子」は完全に空白であって、海―女の子、の間にある意味性、なににすりかえられているのか―なにをすりかえられているのか、つまり「何のことを語っているのか」っていうものを徹底的に空白にしてある。構造的には(いや、中村さんが「空白」として書いたかはわかりませんが)まさに、「rebirth」と同じような気がします。そこを騙し切ってやろうといきまいたわけですが、どうも上手くなかった。
なにがしてあげたい、という動機、何も出来ないということ、それらを象徴する「海」。こういう小綺麗で無意味なものを置いて、その穴を囲いこむように書く。要するに、「何かしてあげたい」という動機や「何も出来ない」ということも実は、内容なんて何もないんです。この作品。書いている本人も何のメタファだかなんて考えていないし、リリカルな語感以上のものではないものを「さもなんか大事なもののように」見せよう、というのが主題です。5連目は、「説明されたような気になるが、実は全然説明されてない」っていう詐欺師レトリックを上手く機能させたかったんですが、ぼくは相変わらず女の子を口説くのが上手くならない。一言で言うと、モテるための詩作なんですが、中々難しいですね。あなた、良く喋るけど中身が空っぽじゃないって言われたような気分です。時々、自分はホントに身詰まりの悪い、夏場のカキみたいな人間だと思うことがある。いや、空っぽなのはいいんですけどね、それがバレちゃどうしようもない。あ、詩の話です。
別の場所にこの作品を投げた時、「言いたいことはよくわかる」というようなレスが結構ついて、ぼくはしてやったりと思ったんですが。流石に、空っぽなのがバレバレなのは僕の負けって感じですね。
なんていうか、読みやすくて、小奇麗で、読んだ後にはちょっとした情感以外のなーんにも残らない、スナック菓子みたいな作品が書きたかったんですが。ぼくはまだ、嘘つきとして技量が足りないようですね。稲村さんが指摘しているような場所は一つも書かず、しかもその不足を感じさせないものを書きたいんですが。(というのも、動機や答えというのは現実的なものだと思うんですよ。この、サラっと読めて消えていって欲しい世界に、そんな筋道立ったものは入れたくなかった。ただ、なんとなくの心地よい情感だけが残って欲しかったわけです)と言うか、読み手がそれぞれ勝手にこの穴の中に意味を挿入して、「なるほどそういう意味か」って納得して楽しむような作品でもありたかったんですよね。すっからかんの作品が書きたいですね、人の心にさらっと触れて、安っぽく情感を残していくような。かなり描写手法は最適化出来たとは思うんですが、やっぱり嘘をつくってのは難しい。特に、構造読解が出来る人相手には苦しい作品ですが、もう少し練習してみたいです。ありがとうございます。
動機や答え、もっと言うと「語るべきこと」みたいなのって、実はもうすっかり何もないんじゃないかと思うんですよ。だから、それをどう回避していくかが、割と詩のキー・ポイントかもしれないと思う。もちろん、銃弾飛び交う最前線に身を投げていくような作品も、出来るのであれば良いと思うんですが。ぼくはインドア派のなまっちろい男なので。結局、文章というのはたった二語、「なにを」「どのように」ということなんですが。「なにを」はちょっとぼくには荷が重いし、カンボジアで地雷撤去したりする元気もないので、「どのように」の方でそれを隠したいんですよね。いや、なんか喋りすぎですけれど。 ('08/01/01 20:50:28 *6)ひふみ :
私はホント基本的なことしか書かんので、不要だったらすまん、とか先に謝っておきます。
詩と明示ないし暗示されていない場でみかけたら「散文」とは思っても、「(散文)詩」とは、私は思わなかったろう。というのがひとつ。これ説明いります?長くなるし、トライしてエラーしてるとこでもあるから及び腰。それと被るところで、冗長であり、文構造、連単位のリフレインである。連ひとつで一編になりえる。結びの二行と結ぶことができる。並列。最終連以外は並び替えても(読み手としては)何の問題もない。もとい、最終連すらその位置はベストだから、という観点からではなく、一般的な詩の流れとしてはこのような表現は最後が多いからそれに倣った。という印象である。
例えば、特徴的な文体というのは書き手の手癖であり、文学との交渉や言葉による伝達を行う内についた訛りのようなものであるが、この詩の文体を感覚的に評せば甘く、(もしあるとすれば)中庸という軸から少し軟化させた文体である。
少し引用するね。>なんていうか、読みやすくて、小奇麗で、読んだ後にはちょっとした情感以外のなーんにも残らない、スナック菓子みたいな作品が書きたかったんですが。
これについて。顔のない表現、最小公倍数に当たる表現を軸にその最小公倍数で割れるあんま多くない数で彩る。そういう構造。女の子の数を3とすると6.9.12の表現を混ぜる。みたいなね。読み手の範囲を広くとれるけれど、引きつけられる読み手の範囲がせまくなりやすい。というのがこの手の難点。情景描写の形をした詩もよくこれに該当する。
単純に引用したのに一番近くて身近なのは「女の子達のおしゃべり」だと思う。濁もあるけれど、基本的にとりとめないその場かぎりのものが多いよね。
言葉の指し示す範囲、という意味での公倍数を上げてみたけれど、もうひとつ、話それ自体を読み解くのに便利な公倍数、要素というものも上げてみようと思う。
例えば人間の大半に通ずる普遍的な色恋、その時代によって増減する萌え等、といった要素。この話の面白いところは、そういった要素も努めて読み手に自由に設定できるようにしているところ。ざっと読むと色恋だから、あくまで努めて。
茫漠な隠喩。完結にいっちゃうとこれか。読み手が筋道だって受け取れる何を指し示しているのか、の範囲がかなり広い。
語るべきことを空白にするなら逸らすのにまだ手管がいるかもしらんね。技によって戦うなら、この詩はもっと丁寧に「軽く」しなきゃいけないと思う。 ('08/01/05 09:59:52)ケムリ :
>結びの二行と結ぶことができる。並列。最終連以外は並び替えても(読み手としては)何の問題もない。もとい、最終連すらその位置はベストだから、という観点からではなく、一般的な詩の流れとしてはこのような表現は最後が多いからそれに倣った。という印象である。
実は、連ごとにカットアップしてるんです、この作品。最初はもう少し終始する物語の流れがあったんですけれど、そこから中心になる部分を引っこ抜いて、さらに残ったのをシャッフルしてこの形にしてある。というわけで、見事に読まれきっていてどうしたもんかという感じなんですが。というのも、これは元々短編小説にするために書き始めたストーリーで、そのままストーリーという状態で出すには「詩」の括りは苦しかったし、かといってプロット状のものを作品として提示するのも憚られたので「書き込み」以外の形でなんとか詩として成立させられないか、という苦肉の策だったわけなんですが。>茫漠な隠喩。完結にいっちゃうとこれか。読み手が筋道だって受け取れる何を指し示しているのか、の範囲がかなり広い。
僕は小説も書く人なんですが、ここだと思うんですよ。小説が「何か」についての技術だとしたら、詩はきっと違う。積み重ねた説得力の力技を競う場だとしたらそれは大きく小説の枠組みに劣るし、何かを吐露したりあるいは発表したりする場だとしたら、「論文」や「論考」に大きく劣る。じゃあ、詩ってなんだろうってことの一つの(あくまで一つの)回答がこの形かな、と思うんですよ。中心になるものではなく、力技。何も意味しないままで何かを意味すること、そういう身振りなのかな、と思うんですね。まぁ、そういうわけでそういうことが出来る力技を色々試してみたんですが、いかんせん不足のようで練習がまだまだ必要な感じがしています。俺がこういう形の詩に求めるものってのは、「誰にとってもすわり心地の良い椅子」なんですよね、見る人のお尻の形によって、自在に形を変えて、とにかく居心地のよさだけを与える詩作。ただ、そうすると必然的に茫漠とした作品が仕上がるので、そこは小細工で「軽く」していく。まぁ、バレちゃってるんですが。もう少し手管を尽くせるんじゃないかな、と思うところもあります。あくまで、一つの方向性として。
あと、もう一つは「詩は意味するものである」という考え方。
何か「軸になるもの」があり、それを伝えるための手段である一つの信仰、「私」の物語と詩を不可分にしている作者信仰とでもいうか、そういうものが僕は徹底して嫌いなのもあります。作品の中心に「作者」って名前の空白があるとしたら、そこに座るのは読者でいいと思うんですよ。中心の穴は、読者のためにっていう感じの。まぁ、能書きだけは達者なんですが。そういう形のものも書いていけたらな、と思ってます。 ('08/01/07 16:44:21)ひふみ :
このレスポンスひとつにどれだけ時間かけたか知ったらきっと驚くんだぜ?
まぁ、そんなのはどうでもいいや。本題。手元の辞書の「詩」の一節「選び抜かれた言葉で表現されたもの」と同様の印象、特徴といったものがあれば「詩」とするってのが「現代詩」だと思ってる。古めの日本文学を主に学んだ人間からすると詩としては甚だ不自然なものも詩になるのが現代詩。ちなみに、ただの分析情報提供ですと断っとくね。間違いを指摘しようとか、心情吐露とか、義侠心とか、そんなのはない。
んで、一般というか世間というか、まぁ、そんな感じなところに溢れてる「詩」は「それなりに選んだ言葉で表現されてるけど特に目を見張るとろこのないもの」が多数派だと私は推測してる。これはそこらの人に「詩を書いて〜」てやってみれば分かるんじゃないかな。辞書的な詩の定義に当てはまるけれど、他人に向けての表現としては精度が低いものが沢山出てくると思うよ。
詩は既に十二分に偏見と無関心に侵されてると思うんだわ。明確に線引きはできんけど、読む人にも書く人にも何かしら偏見はある。その偏見を無くそうとか思わない。だけど、書く人には、そうね、偏見を利用しろ、と言いたいね。何を書くにしても、偏見、先入観、固定観念といったものは自分にも相手にもついてまわるのさね。なら利用しちゃいましょう。
そういった柔軟さが足りないんだ、この作品は。能書きのために根本の部分を上手く使おう。どうせ汚れるなら汚れを利用しなって。まんま作者信仰になりそうな自身の近況を引用したレスポンスと類似する力業を作品で使うのも、長い目で見れば、作者を空白にするに有効な手だてのヒントになるものじゃまいか?と思うのですよ。 ('08/01/11 08:25:05)ケムリ :
>そういった柔軟さが足りないんだ、この作品は。能書きのために根本の部分を上手く使おう。どうせ汚れるなら汚れを利用しなって。
もし、俺がここで作品を書く動機がカネや名誉なら、俺は躊躇い無くそれを駆使するだろうし、作者(=俺)の神格化に物凄い労力を払うと思う。もっと言えば、自分の作品の価値を明らかに貶める『意図の開陳』みたいなことも、絶対にしないでしょうね。例えば、この作品にだって巧く作者信仰に結びつくようなレスを付与して、自己批評の形で価値の向上を図ることだって出来ただろうし、多くの作者がその生い立ちや性格、ある種の構築された神話の一形態、創作物と作者の完全な癒着を起こしているように、それが多分クレバーなやり方なんだろうと思うんですよ。それは、ホントに。
というのも、俺は文章でメシを食いたい人だし、もしなんかで俺の文章が売れたら、俺が「文学極道のケムリ」であることは死ぬ気で隠すと思うんですよね。やっぱ、作者ってのは信仰させて、客を騙し切ってナンボですから。大体、上記のようなレスをつけて、通常の(批評、ではない)賞賛を受けようなんて土台不可能だろうと思います。まぁ、言い方は悪いけど、自分で自分の作品に泥ぶっかけてるわけですよ。まぁ、『評価を受ける』って一点で言えば、物凄く愚かだと思う。大体、日本人の作品評価基準なんて所謂「シロウト」(作者の死を知らないって意味で)の中では完全に固着化してるわけだから、上手に「汚れ」を使いこなすのが巧い作家だと思うんですよね、それは俺も。
ただ、俺は作家志望の気の弱いお兄ちゃんではなく、文学極道のケムリで、俺の作品は評価されるため、と言うより叩かれるために出すほうがいいと思うんですよ。少なくとも、ここでは。だって、何でもありで利用し尽くしたら、俺が普段エラそうに語ってるリクツとの整合性が失われてしまうわけじゃないですか。
文学極道ってのは、作品構造のハラワタまで引っこ抜いて見せ合う場であって欲しいわけです。それが、結果的に作品評価を下げるとしても。「明日凄い作品を書く」ことが大事で、「今日の作品」は永久に、明日のためにある。鍛錬場に信仰を、少なくとも発起人が持ち込んではいけないでしょう。柔軟では無いってのが、ケムリとして書く上で大事なことなんだと思うんですね。
まぁ、それはそれとして。
「ケムリ」って名前と断絶されたら、俺は平気で嘘をつきまくると思うんですけどね。その程度には俺も、結構あざといです。でも、この場ではこういう姿勢でいるのが、一番(俺としては)信頼に足る読み手である道かな、と。
結局、この場で賞賛されても今んとこ、カネにはなりません。名誉にも、狭い村で多少の自尊心を満たすってこと以上には、ならない。要するに、賞賛って飽きるんですよね。ものすごーく尊大なことを言うと、俺は褒められるのには相当飽き飽きしてるわけです。だから、「それを言っちゃ身もフタもない」って感じに作品を追い込んで、カネや名誉以外のものをいただいているつもりだったり。っていうのも、ここはやっぱり「稽古場」なんですね。全力で、手管を尽くして評価を取りに行くってのは、いずれ飽きます。それなら、むしろ叩きやすいように作品を開ききって、叩かれて鍛えたい、とかそんな感じでしょうか。もちろん、ケムリってネームクレジットを打たれた作者の神性とか、作品の神話的価値とかはドン底になるわけだけれど。やっぱ、鍛錬ってのはそういうものじゃないですか。
詩ってのは、ある種の手品に近いものだと思うんですよ。そりゃあ、タネ明しをすればするほど魅力は失われる。でも、手品師同士の技術比べじゃないですか。そこにはやっぱり、「これは所詮手品である」っていう、突き放した態度が必要になるのではないかな、と。俺は、詩も小説も気の利いた嘘と同義だと思ってますから。その程度に過ぎない、と。だから、この場に限っては「タネも仕掛けもない奇跡です」ではなく「これこれこういうタネなんですが、いかがなモンですかね?』と、やるわけだし、自分の作品が「奇跡」だと信じてる人には「ああ、こういう仕組みね…」ってやっちゃうわけで。他人をそういう風にザクザク刻む以上、自分だけ特権ってわけには、いかないかなぁ、と。
なんか、「アウシュビッツ以後詩を書くことは野蛮である」って言ってる人いるじゃないですか。アレって要するに「ケツ拭いた手でメシ食うなよ」って意味だと俺は思うんですが。何でこれが、詩や理性に対する批判になるのか全然わかんないんですよね。詩は詐術。安い心と馬鹿な読者を安っぽく煽り、作者を信仰させる技術、そういう面については俺はとことん突き放して物事を見てます。「天才詩人の代表格?ヒトラーじゃね?」ってくらいには。でも、文学極道っていう場で俺が率先してそれをやるのは、『巧い詩を書こう』『皆で上達しよう」っていうのに反すると思うんですよね、そういう感じです。超長いな。 ('08/01/15 06:42:10 *7)ダーザイン :
この作品は、ただ一言、圧倒な傑作だと。文句付ける所など何一つないし、解説する必要など全くないし、詩情においても読者が想起するケムリさんのリアルのようなものにおいても、自分の作文法をエクソダスしていく道筋においても、ケムリさんが自己解説したってその解説を超えて迫る強度があるので、正直ケムリさんがレスレスで言っていることの方が解りません。手管だ手管だといきまいても、その手管を作品が超えて行っちゃっているんだから。
ここには一日平均1万10000を超えるアクセスがあって、そこで創造大賞に選ばれた人間が、一私基準に過ぎないといっても無理。選ばれし者には選ばれし者の恍惚と不安(笑い)、歴史の存在論的行運、弁証法上の理由があります。
小説が売れたときにダッシュして隠すのは別段結構です。実際、手帳プロパーの人の俺への嫌悪感は凄いそうなので。で、手帳プロパーの人は小説メディアの選者だったりする場合があるし。
俺も小説は断じて売る気だが、文学極道のダーザインであること(いずれ貴殿らに引き継いで引退するだろうから「文学極道のダーザインであったこと」に変わるかもしれないが)、は絶対に捨てない。文学極道のダーザイン(キチガイ扱い)のまま、売ってやる。そうでなければ、俺にとっては光の王を世に出す意味は全然ないんだ。ダーザインでいられないなら、文学極道者でいられないのなら、ウイニーで共有した方がましだと思うくらいだ。マジ ('08/01/16 00:28:19 *2)ひふみ :
んーむ、「文学極道」と「文学極道の」を尊重すると書けることに縛りが多い。
流れの調整という点でレスポンスを見直した方がいいかもしれない。意図の開陳が速くて他の人がレスポンスしづらくなってる可能性がある。かくいう私がそうだった。それは「文学極道のケムリ」にとって本意ではないよね、と思うんだ。 ('08/01/18 09:40:40)コントラ :
なかなか良い作品だと思う。後日。 ('08/01/23 02:59:05)園里 :
どうも、こんにちは。
思ったんですが、この場所は通常掲示板に比べて流れが遅いので、本来だったら過去ログに埋もれていっただろう作品でも、掘り起こせますね。やれるとなると掘り起こしてしまいます。
前置きはさておいて、頑張ってみます。どうしても流れを追ってから発言する形になりますが、受ける印象としては、やはり一貫して、いままで発言した方と似たような印象を受けるところがあります。
もうケムリさんが同じようなことを書いてあるように読める部分があるし、考えている可能性もありますが、とりあえず言うだけ言ってみます。
さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。ここまでは一応理詰めですし、経過からみて同意を得られると思いますが、ここからどんどんフィーリングが入ります。何しろニュアンスの話なので、よろしく。では、どこがどのように違うのか。
一応ストレートに入ります。ダーザインさんもちょっと違った形で書いていますが、極限的にいえば、言語で作品を構成する以上、すべての作品は自己表現と受け取ってしまう部分がある、本人がからっぽだと言い張ったとしても、というのが基本にあります。それを逆に利用したんだと思いますが、からっぽな部分はからっぽだとしか感じない賢さみたいなものは、どんな読み手にも、基本的にある気がする。
では何故、そこに意味が生まれてくるのか、といったところで、やっぱり文体が出てくるわけです。
たとえるなら、下衆な言い方になりますが、一人の女性を女の子と呼ぶか、女と呼ぶかだけでも、その認識のありようは大分違う。選び方の手つきがある。手つきがある以上体もある。私としてはそれを文体と呼びたいわけです。たとえそれが作られたものであるにしても、読み手はそれを一方的に形作ってしまう。そして、その強度(認識の確かさや、一貫性)を読み取ってしまう。で、その強度が、ある視点、読者からすると、不足している部分があるのではないかと。
もう一度いいかえるなら、誰でもいいんですが、ゴッホとルノアールの絵では、デッサンのラインからして素人でもその違いがわかると思うのです。
私たちは思った以上にそういった細かい手つき、ニュアンスを読み取っていると思います。
これを細かく言ってみると、言語に関わらず、人間個人の創作物だと認識できる作品は、そこに社会的構造が認められる以上、与えられた印象を構成し、その社会的ルールによって、構成を読み手の中の経験で再現し、もう一段個人的に深めたその構造との関わり方、自己ルールを作る。このルールは意外と変幻自在なもので、言語作品では一行目からそれを形成、修正しつつ、次の文章と照らし合わせる形でカスタマイズ、認識、読解の効率化を図っているように感じる。つまり、作品は社会的ルールによる記号性と、その上に乗った読解用自己ルールの二段構造になっている。その差を利用する部分も、言語による印象操作にはある思うんです。思いっきり既存の考え方の、下手な言い換えに過ぎない(誤解つき)のはわかると思うんですが、とりあえず。
で、その自己ルールの部分、一応作品を読み終わった段階で、最終的に残ったそれが一般的に言われている作品の印象というものではないかと。だから周囲の情報が変わるにつれて、ころころ読み手の印象も変わってしまう。意識的であるにせよないにせよ。そういう定義のもと、続きを読んでください。そうしないと話が進みづらいような気がします。そのプロセスのどこかで不和が生じているから、作品として十分に受容されない。それはどこか。
それは、借り物の文体が混じっていて、その文体と書き手の文体とのセッションが十分ではないため、読み手の中で形成に不和を起こしている。
その部分を感じるために、そこを補いつつ読んでしまうからだ思うんです。
単純に言えば、作られた文体をものにしきっていない。
作品から取れば「大抵のところ」とか、そのタイプのゆるい認識の囲いが女の子に対して繰り返される部分がほとんどだと思いますが、役者が甘いように感じるんです。周囲の影響を可能な限り外して読んでみたとしても、自分が十分なくらい出ているように感じる。役を演じている自分のようなもの。というより、よほど努力しても出てしまうものだと思います。そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。その文体が持つ精度を自分のものにしきっていないし、その過程をすっ飛ばして、自然に演技ができるタイプではないと思うのです。
これでも言い切った気がしないので、もう一度言い換えてみます。そういった作品の構造が産み出す空洞はむしろ、そのような文体を際立たせるためにある。つまり、モチーフがあればデッサンのラインだってある、なぜモチーフをデッサンする必要があるかといえばそのラインをみたいからだ、と。これはケムリさんも自ら述べていますが、「信仰」もある意味、こうして生まれた気がします。ただ、さきほど語った認識法としての理由から、それは本人が選ぼうと選ぶまいと、多かれ少なかれ、そう読まれてしまう部分がどうしても出てくる、というのを論証することが、私のしたかったことです。ここで適当なことを言いますが、思うに、その囲いが十分に読み手一人分、感性のスペースを確保していれば、その構造は有意義な場になる。その中にいることができる。「あ、これってなんか好き、住める」ってことになる。無論安住させない方向、「動かす」方向もあるとは思いますが、この手のやり方はどちらかといったら「住む」方向だと思うんです。
まあそれはそれとして、その一番手っ取り早くて無理がない方法が、自分の文体を突き詰めることではないかと。住めるかどうかは別として、とにかくひと一人分のスペースが空く。たとえ自分の臭いを消す方向に走るにしても、それには自分の臭いみたいなものをよく知ってなきゃいけないですし……。確信は持てませんが、方向性としては嫌いではないけれど、そういう個人性みたいなものを、完全に捨てることはできないのでは、と。むしろそこは保持して、それはそれとして、深めていかないとまずい気がする。それが十分に感じられない。指向はできても、双方向にはならないかもしれないから、そのことは十分に考えてみたほうがいい…のかな、これも借り物のセリフになるので、どうせなら、さらにダーザインさんの発言を借りて言い換えてみるなら、自己解説はできても、自己解脱はできないんじゃ、とか。自分で言っていて正直、ワケわかんないよゾーンに突入している感じなんだけど。
とりあえず、やってみました。ええ、くどいうえに、長い。 ('08/03/19 20:25:53 *1)ひふみ :
うん、何度読んでも筋が通ってる。園理さんのレスポンスの話ね。コントラさんのも、こっちのも、筋が通ってる。ま、自己解釈ができるなら筋も通せるわな。
んじゃ、役者不足ですがやりますか。
この詩に限らず、こういった詩、ないし、文作品という枠で話します。
軽く仮定義すると、「何も言っていないのを何か言っているように思わせる」作品。ある種の読解力が備わっている読み手が相手だと無力な奴ね。私みたいな奴からすると、どうして書いたのか、くらいしか話にならない奴。>小説が「何か」についての技術だとしたら、詩はきっと違う。積み重ねた説得力の力技を競う場だとしたらそれは大きく小説の枠組みに劣るし、何かを吐露したりあるいは発表したりする場だとしたら、「論文」や「論考」に大きく劣る。じゃあ、詩ってなんだろうってことの一つの(あくまで一つの)回答がこの形かな、と思うんですよ。中心になるものではなく、力技。何も意味しないままで何かを意味すること、そういう身振りなのかな、と思うんですね
まぁ、「何も書いてないけれど何か書いているように思わせる」技術とでも言い換えましょうか、従来の詩が主に作者の思想や生き方から信仰されたのとは逆の、技術や手段の信仰とでも言えば良いかね。つまり、題材や思想に価値を置かず、どう表現されたかに価値を置く。そのロジックについての話は横に置いときますか、長いし。
こういう作品は、文学極道では珍しくないんでないかな。F.yあたりだと個人的な何を書いてあるかが分かりやすいけれど、作品としての特徴が乏しいってのが多いんだけれど、文極だと個人的な何かは(特に含めて)書いてないけれど、作品としての特徴が富んでいるってのが多いと思う。
ちょいと脱線すると、ケムリさんの文学極道のロジックはそれなんだけれど、それに対して通せる筋はふたつあって、ケムリさんのロジックを発展させるか、別のロジックを実践して対峙するか、なんだよね(そうしようとする事も含む)。だから園理さんのは筋が通ってると私は判断した。>さて、どうも空疎な印象を受ける、手がけられたものを感じない、その理由をいつも通り、いくつか自己解釈をする形で追ってみると、大まかな意味での作品構造より、もっと細かい、全体を統御する文体の、微妙なニュアンスにあるのではないかと考えます。構造は空洞であることを指向していて、それでいて深い印象を与える作品との相違点を考えてみると、そこにしか思い当たらない。
詩それ自体を是として、空疎な印象を受けることはいわば失敗とし、では、失敗の原因は。うん、論理的。そっから先をどう拾うか、なんだけど。
コミュ学的な分類で拾ってみよう、文学部とかでもやるのかな?かいつまんで言うと、言語には習慣的な約束(決まり)があって、その上で人間はコミュニケーションを成立させている。日常では気づき辛いけれど、細かな差違で話している人自体の捉えられ方がかわってくる。女性と女では意味は同じだが、意図に違いがあり、思われる人柄にも違いが出てくる、という感じにね。>そして、役者としてみると、役と役者である自分の文体、その間に必要なセッションが、どんな形にしても十分ではない。役の作り込みが足りない。
というのは、(段階は考察してないけれど)話者の意味と意図とで食い違いがあるか、過不足がある可能性の示唆と捉えていいんじゃないかな、と。つまり、作者の方で空白であったとしても、登場人物には何かしらある、ないし、何かしらあるように思わせる定義、(仮の)意図の存在が不可欠なんだけれど(そうでないと話者が語る必然がなくなるからね)、それが作りきれていないので、ひとつの表現にある意図と意味が同調しない。
しかし、私らは文体という言葉を広義で使ってるな。
とりあえず、ある程度自覚的に描けるようになると、文体ってのはおおまかには使い分けることが可能なのですよ、意図に合わせて変えられる。例えば、友達と恋人の前では態度が違う、というのを文で表現(創作)できるようになる。自分の文体というものが、使い分けることが出来る物である以上、どのように突き詰めるかが問題だと私なんかは思うわけですが、たぶん、園理さんのいう「自分の文体」の定義は異なっていて、もっと本質的なものだと思う。
つまり、デッサンされたもの(基礎的な文体)のデッサンってのは「物を正確に描写する」で、「どうデッサンしようと、書くのが個人である以上違いは生じる」ということだろうと思う。デッサンには作者の無意識的な意図が生じる、と仮定する他ないかな。哲学的な言い回しすると、見本となるデッサンはあっても個人が模写したものである以上は完璧なデッサンは存在しない。しかし、個人性を突き詰めたデッサンは可能であり(可能であるとし)、それは基礎的な文体(ないし文章能力)として、題材(題材を作る能力)となり、鑑賞者(読み手)の立ち位置を確保する。うん、小難しい。
根元論や、超基礎的な練習法みたいな話なっちゃうんだけれど、つまりは、創作作品というものはそもそも二次的な存在であるが、一時的な存在になることが可能であり、その手段の一つとして線の探究と確定、物事の正確な描写が挙げられる、という感じになるんだよね。風景詩を例に取ると、風景の描写で描く前の風景を思わせるのでなく、そこに風景があるように思わせる、という次元にまで文体を高めろ、という感じに取れるのだけれど、どうなんだろ。
というわけで、まぁぐたぐたになりつつ拾ってみました。正確に拾えてるとは思わん(笑)。他の(発起人含む)参加者からの意見や異見はあった方がいいね。そうでないと、文学極道としての意義が足りない。つっても私は役者不足なんだけど、どーにも看過して良いとは思えなかった。
そんな感じです。園理さん、訂正とかあったらよろしう。 ('08/03/24 17:07:52)園里 :
とりあえず、拾ってもらったことに感謝します。
途中だいぶはしょってから一つ訂正すると、論理性って実はあんまりないと思います、私。
筋もあんまり通っていない。実は。
指摘されたとおり「文体」に限らず、基本的定義が曖昧なんですよね。また、それをそろえることも、環境的に不可能に近いのでは。
だからいちいち個人的な定義をつけているんだけれど、それも頼りない。困ったもんです。
論理性は、そういう風に自己完結しているから、破綻がないようにみえるだけだと思います。
ちょっと自己批判風にやってみましょう。一人演劇でせつないけど。>からっぽな部分はからっぽだとしか感じない賢さみたいなものは、どんな読み手にも、基本的にある気がする。
これが思い込みその1。
論証も反証もありません。>ゴッホとルノアールの絵では、デッサンのラインからして素人でもその違いがわかる。
これも同じ理由から。
というか、誰かから私にはたぶんわからないと言われると、反論のしようがない。>借り物の文体が混じっていて、その文体と書き手の文体とのセッションが十分ではないため、読み手の中で形成に不和を起こしている。
これも仮定にすぎない。>自分の文体を突き詰めることではないか。
これもね。
こういうこと、やってしまいがちなんですよね。
自分の影みたいなものを投影して、そこから仮定に仮定を重ねている部分が多々ある。
その思い込みにどう個人的説得力を付与しているのかをみせているにすぎない。
と、思っています。
そこのところ、いちいち説明していても長くなるだけだから、いつも説明不足になるんだけれど、だから余計に、>参加者からの意見や異見はあった方がいい。
にも絡めて言いますと、一人前の文章理解力を備えた個人が正確に拾えているかどうかもわからないような文が目の前に現れたら、そういったあやふやさに関する鋭い(そしてとりあえずの)ツッコミは、そういうのを放っておかれても、ほとんど何にもならないと思うから、したほうがいい……というか、お互いでやらないと困るんじゃ……みんなやりがちだと思うし。
そういう距離感が直接見えるのと見えないのとでは、安心感が違いますし。
駄目かな。前提としては、かなり甘えた発言になるんですけどね。 ('08/03/26 18:07:56)ひふみ :
自己省察に入られても困る(笑)。
園理さんの提示を取り入れて主な問題点をあげると、
「意味と意図とで食い違い、ないし過不足が生じている可能性がある」
辺りで良いと思うのだよね。その原因や解決策を幾通りか挙げられるとしてね。
説明すっと長いんだよなぁ、この詩に限っても長くなるので端折る。>駄目かな。前提としては、かなり甘えた発言になるんですけどね。
文学極道の現状を考えると、駄目じゃないけれど厳しい、と思うよ。 ('08/03/29 10:13:02)胎 :
文体も中身も村上春樹っぽい
だからこんな女の子、現実にはいないです
世界はもっともっと、汚い女子でいっぱい
男子が作り上げた女子ってこんななのかーと思いました
良い子チャンな作品なので、眠って、起きたら忘れてしまいそうです ('08/09/30 06:53:24)POGE :
ロマンティックあげるよ。
うまいです。 ('09/02/09 12:16:47)常悟郎 :
こんにちは
拝見いたしました
ぐだぐだ言って読む作品じゃないですね
内容はオモシロくて歩くようにすらすら読めましたよ
こういう揶揄の効いた皮肉った文は好きだけど…ただ「りす」は「リス」にして欲しかったなぁ 小さいことだけど(笑)
「海を見たことのない女の子……」が 追うように沢山出てくるので 途中で 息抜きに何か面白いアクセントの文があっても……と思いましたが… ('09/10/31 18:03:46)田中宏輔 :
女の子といっても、いちおう自立している女性でしょうか。
「可能性」をめぐる描写に、とりわけ惹かれましたが
男がただ歩くしかないという対比的な描写にも、なにか思い切りのよい
すがすがしい雰囲気を感じました。
ただ、一点だけ、気になりました。
「しょちゅう」は「しょっちゅう」でしょうか。 ('10/01/10 07:20:28)キメラ :
久々覗いたが、過去ログ行っちゃってるが、2603 : 光 KiMERAは俺じゃないぞ。
盲目もたいがいにしれな。 ('11/10/24 09:23:55)明日花ちゃん :
おお、初めて覗いた。
書き込んでもいいのかな?
いいや。書いてしまおう。
私はラーメン好きだけれど
あんまり太い麺は好きくないです。どちらかというと細い麺が好きでちぢれたりしないやつ。でも一時期すごく太麺が流行ってしまったとき、私の欲するラーメンは中華街くらいしかなくてとても困ってしまったのだけど。
言いたいことはそれくらい。でも
3連の誤脱字に限っては「しょちゅう」だけでないし、それ以降をきちんと読めていないと思う。
誰かに立証して貰いたいことがあるけれど、近く立てていくしかないのかもしれない。
日常会話又は日常的な生活環境が自分の身に起こる常識的且つリアルな範囲の中で成立している、またはしているという感情をある程度理解していると仮定した時、芸術などの、人間生活に支障を来たすベクトルにあまり存在していないカテゴリにおける「逸脱行為」(文学の世界では一般的に必要な文法を踏み外す行為)は比例されていく?ううん。これでは誤りだ。比例ではなく、影響を及ぼすかもしれない。という部分をもっときちんと理解できていたら、社会や芸術全体が有意義で深い理知を獲得することが出来るかも。憶測ばかりの私、萎える。
そんな文献あるかな?
あまり本を読まないから知らんけど。
実際にそんなことがあった。
特に誤字脱字を気にしている訳でもない。時と場合によって違う。最低限、自分の火の粉を自らにかける事も必要だと思う。完璧なものになんてこれっぽっちも震えらんない私の好みかもしれない。これは詩として書いているのだからいくら簒奪しようが追想して闇の中で泣かれようが、遊んでしまおうが一向に構わない。でも無意識無頓着と言う部分で、え、ちょっと待てよ。俺らを置いていくなよと思う。つまりはこの詩から読み取るにこの書き手はお客をきちんとこの世界に連れて行きたいと言う部分を揃えているはずで、そんなのどうでもいいとか、好きでやってるんだから勝手にしたいとか、とりあえず、黙っといてくれる?とか思う私の詩とは書く意識が違うから、それは私の価値観の中で脱字の使用が適切であるとは言えないと判断した。
追記すると、私には誤脱行為が次第に増え、より自由な生活を送ることが出来ている、はず。逆に誤字脱字を制限することで良いものが書けず自由になれない身を味わうこともあった、はず。
あ、でも詩、書いてないや。芸術は金にならないから早いとこ放棄したい。
長たらしい文章を続けても、最後まで読んでいないのですみません。
インフルエンザになりました。
どうか私か私らしき人には近づかんといてください。 ('14/01/31 13:47:49)文学非道 :
とにかくこちらが赤面したくなるほどひどい雑文です。
一億円かけてもいい。
この雑文の書き手は生来、作家などには金輪際なれないし、
この雑文をほめたダーザインも永久に小説書きなどにはなれない。
きみたちには才能が決定的に欠けている。
それはともかく、才能以前に、ちゃんと日本語くらい書いてください。
あーだ、こーだ、能書きをいう以前の問題として「てにをは」がなってない。
たとえば三連目。
しょちゅう → しょっちゅう
ぼくは電話が通じなくなると彼女にアパートに出向いて
↓
ぼくは電話が通じなくなると彼女のアパートに出向いて
でしょ。投稿者は校正すらしていないのか。
読者は日本語の基本的な使い方の間違いすら指摘してやれないのですか。
それはそうとして、この詩、恥ずかしいのはそればかりじゃない。
これ、リアルにストーカーの心情を綺麗ごとにまぶした詩じゃないですか。
気持ち悪い。
この「海を見たことがない」女性がいかほどにこの書き手を嫌っているか、
おぞましく思っているかがよくわかる。
こんな詩、ここならともかく、世間の人たちが読むとでも思っているのですか?
あー、気持ち悪い。 ('14/06/18 07:42:53)lalita :
これじゃ、一人の若者も鼓舞できしんし、一人の女の琴線にも触れれんよ。 ('15/04/02 15:31:29)たま :
いい作品だと思います。
難しくなく軽やかで読みやすい。
ひねってなくストレート。
対象者は若い女の子雑誌。
大人向けではなく若い女性向け。
ネットではこういった作品はあまり見たことありませんね。
ネット向きではない気がします。
よく頑張っている印象です。 ('16/01/03 02:50:49)
- ealis 3.0.10 + BUNGAKU GOKUDOU -