2011年7月分月間優良作品・次点佳作発表
2011年7月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。
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文学極道の発起人・スタッフによるブログ
2011年7月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。
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6月分選評雑感・優良作品
(文)織田 和彦
毎日、暑いですね。皆様、体温管理にはお気を付けください。
未曾有の大震災、放射能汚染、終わりなき政治的迷走を目の当たりにする中、私たちは、被災した/しない、にかかわらず、人間と自然、集団と個、国家と個人、といった問題を、考える、のではなく、感じてしまう、ことを避けられない状況に直面しています。
投稿作品の言葉の中にも、そのようなぼんやりとした疑念や不安が影を落としているようです。しかし、それを詩として提出する方法は人それぞれであり、表現された言葉の行先もさまざまですが、根底にはいまだに治癒しきらない湿った傷跡が見えるような気がします。その中で、ゼッケンさんと摩留地伊豆さんの、諧謔によって現在をブレークスルーしようとする姿勢が、とても知的な振る舞いに思えました。
byりす
◆陽の埋葬 - 田中宏輔
「死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した」
(文中引用)
この作品を読んでまっ先にジャン・ジュネを想起したのですけれど、かつて、ケイト・ミュレットが「性の政治学」において、ジュネの文学を、彼の性的指向性を踏まえたうえでラディカル・フェミニズムと接続させて語っています。
翻ってこの作品が、既存の文化の体系や社会構造と、個の軋轢を、たとえばゲイの視点から何かを語りかけているのか?というと案外そうでもなく、そのフレームは、振り向けようのない個人の暗澹たる情念を吐露し、「胡桃ぐらいの大きさの白い球根」「写真のような天使」といったシンボルに比喩的な何か託し、そこで書き終えられています。
「もっとはやく死んでくれればよかったのに。」これは作中亡くなった父親に向けられる話者の言葉ですけれども、父親が比喩的に秩序を体現するものであるとするならば、この言葉は話者にとってとても不幸です。
その「不幸」を埋めるためのささやかな行動やイマジネーションも「幸福」にたどり着かぬまま終わってしまう。作品の主題はどこにあるのか?それは、あなたにとって「幸せ」とは何か?この疑問形の問いかけの中にあるような気がしました。
◆木曜日 - ゼッケン
昔話の単なる後日談と思いきや、展開はさらに、
「鬼なんて、ホントは、いたのかい?」
などと桃太郎の話そのものをばっちりと否定していくところがノリになっています。多分、宝物も、実際問題ショボかったんじゃないのかい?などと。悪もんの鬼を、さっぱりと退治してくるという、気持ちのスカッとする良い話をシラケた目で見つめるゼッケンさんは、やっぱり根性までが歪んでしまっている。
早めに病院へ行くように。
◆怪人ジャガイモ男、正午の血闘(Mr.チャボ、少年よ大志を抱け) - 角田寿星
「こんな世の中 守る価値あるんですか」
上のフレーズはチャボ邸でのミーティングの様子をあらわすものですけれど、世の中というのは自明の前提の上に存在するのだ!という子供っぽい幻想を語るところから始められています。聞きしに及ぶところによると、作者は、脚本家・金城 哲夫氏をリスペクトしているそうですから、思想的な系譜も似てきます。
チャボ邸でのミーティングは、与太おやじの愚痴へ傾きかけた日暮れころ、胃袋を満たす方向へ向かい。人間であるよりも、我々は動物なのだということを確認する場面で落ち着きます。そこはやっぱり、プライオリティ的にも、認識論的にも存在論的にも大事なことです。
「価値があるから守るのではなくて、守るから価値が生まれるのだ」
という卑俗な結論を導くために、胃袋的な問題を持ち出す辺りがとてもチャーミングな作品になっています。
◆憎悪 - Q
「病」という言葉が頻出しますけれども、私たちが一般的に思い浮かべるような意味合いではなく、ポジティブな意味合いで使われています。たとえば今回の東北の地震で、世の中の多くの人たちが思ったように、禍を禍としてとらえるのではなく。新しい一歩として、色んなことをもう一度足元から考え直してみよう。行動してみようといったことです。
「病」を「契機」という言葉に置き換えても良いかもしれません。
家族や地域の絆。先人の経験。エネルギーや文明のあり方といったように、それは強い波及性を持っているわけです。
「小鳥は空へ落ちる、
魚は海へ落ちる、
動物は森へ落ちる、」
(文中引用)
ここでも「小鳥は空へ舞い」「魚は海へ潜る」「動物は森へ帰る」などが、本来は”正しい”日本語であるわけですけれども、「落ちる」という動詞がもたらす一般的な意味合いを逆説的に使い。自明性からの自由という行間が、主題として籠められています。
◆ほとりのくに - 泉ムジ
独特のイメージが靄のように広がっていく作品です。夢と現実の狭間で一連の動作が起こっているような不思議な感覚があります。かといって読後。なんだかよくわからないといった印象はなく。主題がはっきりと主張され、作品の輪郭も明確です。
「最高権力者」「眠り」「秩序」「強姦」「倫理」「カラス」キーワードとなりそうな単語をざっと拾い上げていくと、何かしらイメージの中で、社会と精神世界を行ったり来たりさせるような仕掛けがあるような気がします。
特にトリックスター的な役割をになっている「カラス」の性格付けに、この作品の持つ味わいが凝縮されています。
◆まんどらごら - ゼッケン
「マンドラゴラは根っこが人のかたちをしていて
引き抜くと悲鳴をあげる」
のっけからイタい感じで始まります。正確にいうとマンドラゴラは、スペインで今流行っているツバサのついた乗り物なのですけれども(大人はあまり乗りません)、作者は野菜に対する強迫神経症の持ち主であり、大根を蹴飛ばすと悲鳴をあげると本気で思っているアダルトチルドレンです。なので、親が子供を見守るような視線が読者に要求される、やや、小難しいテキストになっています。
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2011年6月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。
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2011年5月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。
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2010年・総評その2
(文)浅井康浩
【エンターテイメント賞】 ゼッケン
「文学極道」という場所は、投稿サイトの性質上、「投稿する人」と「返信する人」のコミュニケーションが生まれますが、「芸術としての詩」を投稿する、という以上、どうしても「投稿する人」の作品にかける戦略や、効果などに焦点があたりがちになってしまいがちです。それはともすると、「投稿する人」の「自分の作品が優れていることを確認する場」になったり、「批評が作品に貢献するだけの一方通行なコミュニケーション」という、第三者からみた場合、あまり健全でない事態に陥ってしまう可能性を孕んでいます。
そのような投稿者たちのなかで、つねにレスポンスに対して、「評価」を軸にした、ともすればギクシャクしがちな対話ではなく、「コミュニケーション」に軸を置いて、レスポンスしてもらったことにたいする感謝の気持ちをベースにやりとりをする対話とケアを続けてきたこと、また「芸術としての詩」のサイトにおいて、一年を通して、エンタメ作品ばかりを投稿しつづけた志の高さは、「男前」というほかありません。
>ジャンキーの古月さん、こんにちは
>右肩さんって本名ですか? そうじゃなければ右肩という名づけ、フェチの人だろうなと思います。
ここらへんの相手のふところへの飛び込み具合。
>おじいちゃん、さっきしてたでしょ!
>事実を蒸し返して落ち込ませるだけじゃなく、次の、とりうる事態に対してもプレッシャーをかけるとは、やるな、と思いました。岩尾さん、こんにちは。つぶす気か!
ここらへんのツッコミ。
コミュニケーションのための、タメ口、前置き、自分フォローなど、とりあえず一例ですが、ゼッケンの作品とその返信には「愛」という名のコミュニケーションが溢れています。
あー、こういう愛に溢れた人って、どっかで見たことあるわ〜、と思ってたらゼッケンさんのほかにいました。アメリカに。
ジョニー・デップが。
ジョニー・デップは、「ファンにサインする際に態度が丁寧な映画俳優」で3年連続1位になった人で、ファンとのコミュニケーションは「穏やかで気さくにサインをしつつ、ファンに話し掛けて親しくなろうとする」「プレミア会場でもレストランでも、映画のロケ中でもほとんど、最高に気前良くサインしてくれる人物」で、まるでゼッケンさんをアメリカ人にしたような感じの俳優です。
もちろん、相手へのコミュニケーションへの心遣いだけでなく、出演する作品への意気込みも、デップはゼッケン作品の特質とクロスオーバーしたりします。
「目的の途中変更」
アンパンマンの着ぐるみを着て、子供に夢を与えるはずが、なぜか拉致され、折檻される男「折檻夫婦」
取材の為にラスヴェガスに向かったはずが、トランクに積んだ大量のドラッグでラリりまくるジャーナリスト「ラスヴェガスをやっつけろ」
「本当にしたいことはあるのに、現実はその逆のことをしなければならない」
野球がしたいのにグラブがないために、ボールの代わりに石を投げるピッチャー「がんばれベアーズ」
両手がハサミであるために、愛する人を抱こうとすると逆に傷つけてしまう男「シザーハンズ」
「夢見る変人」
即身成仏を夢見て、頭髪を剃りおとし頭蓋骨を削られる男「水晶」
アラスカでオヒョウという魚が空を泳いでいく夢を見る変人「アリゾナ・ドリーム」
「最低な自分」
卵子同士をつかって人工授精を行い逮捕されそうになっている生物学部教師「したく」
性転換者の問題作品にするはずが、ただの女装趣味の男の話になった映画を撮った史上最低の映画監督「エド・ウッド」
二人について相違点があるとすれば、ジョニー・デップは、クセのある設定の人物を演じつつ、クセのある設定からはみだしてしまう「イノセンスさ」や「フラジャイル」「ピュアさ」をもっているのに対して、ゼッケンは、どうしてもクセのある設定がそのまま「おかしみ」へと結びつくだけで、設定からはみだしてしまうものの気配がしない、という点だろうか。
クセのある設定そのものがドラマを作るのでなく、そのクセを普遍化させつつ、より読み手に訴求力のあるエモーションを感じさせるための設定からはみでる「何か」を、これからのゼッケン作品には求めたくなってしまいます。
【レッサー賞】 朝倉ユライ
黒木みーあさんが朝倉ユライさんのことを「わたしの中でときめかせたい人トップ10に入る」と言われていたのが印象的でしたが、自分は、「朝倉ユライ」というクレジットを見ただけで、レスを読む前から幸せな気持ちになってしまいます。
作者と作品に対する真摯な向き合い方、発言そのものがはからずももってしまう攻撃性に対する敏感さ、そして、作品そのものに対するリスペクトの姿勢。
そのどれもが、尊敬するに足る資質だと思っています。
個人的には、進谷作品の「ぱぱぱ・ららら」に書かれた返信が、なによりも美しかったことを書いておきます。
【レッサー賞】 右肩
年間大賞の中で、創造大賞にも、抒情にも、実存にも「右肩」というクレジットがなく、レッサー賞にだけ彼の名前があることを不思議に思われた人も多いのかもしれません。
けれど、右肩氏がレッサー賞に選ばれたことを不思議に思う人はいないと思います。
右肩氏の、なによりも相手に自分の意図を間違いのない言葉にして届けようとする姿勢は、文学極道の中で、光っていたと感じています。
そして言葉選びの厳密さ。
たとえば、「浅井康浩は男か女のどちらかである」という仮定を立ててみます。
こうした言葉に対してのアプローチに、右肩氏はおそらくこう答えるように思います。
「男か女かの二者択一しかないように思えるけれども、
浅井が、男でもあり女でもある(両性具有者や性同一性障害者)である可能性もあるし、男でもなく女でもない(クラインフェルター症候群など)可能性もあるのではないか」と。
そのような視線から眺められた批評は、しんじつ、信頼することのできる言葉となって、それぞれの作品の返信となって現われているように感じます。
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