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2010年・総評その2

Posted By 文学極道スタッフ On 2011-06-06 (月) @ 20:54 In 未分類 | Comments Disabled

2010年・総評その2

    (文)浅井康浩

【エンターテイメント賞】 ゼッケン

「文学極道」という場所は、投稿サイトの性質上、「投稿する人」と「返信する人」のコミュニケーションが生まれますが、「芸術としての詩」を投稿する、という以上、どうしても「投稿する人」の作品にかける戦略や、効果などに焦点があたりがちになってしまいがちです。それはともすると、「投稿する人」の「自分の作品が優れていることを確認する場」になったり、「批評が作品に貢献するだけの一方通行なコミュニケーション」という、第三者からみた場合、あまり健全でない事態に陥ってしまう可能性を孕んでいます。
そのような投稿者たちのなかで、つねにレスポンスに対して、「評価」を軸にした、ともすればギクシャクしがちな対話ではなく、「コミュニケーション」に軸を置いて、レスポンスしてもらったことにたいする感謝の気持ちをベースにやりとりをする対話とケアを続けてきたこと、また「芸術としての詩」のサイトにおいて、一年を通して、エンタメ作品ばかりを投稿しつづけた志の高さは、「男前」というほかありません。

>ジャンキーの古月さん、こんにちは
>右肩さんって本名ですか? そうじゃなければ右肩という名づけ、フェチの人だろうなと思います。

ここらへんの相手のふところへの飛び込み具合。

>おじいちゃん、さっきしてたでしょ!
>事実を蒸し返して落ち込ませるだけじゃなく、次の、とりうる事態に対してもプレッシャーをかけるとは、やるな、と思いました。岩尾さん、こんにちは。つぶす気か!

ここらへんのツッコミ。

コミュニケーションのための、タメ口、前置き、自分フォローなど、とりあえず一例ですが、ゼッケンの作品とその返信には「愛」という名のコミュニケーションが溢れています。

あー、こういう愛に溢れた人って、どっかで見たことあるわ〜、と思ってたらゼッケンさんのほかにいました。アメリカに。
ジョニー・デップが。

ジョニー・デップは、「ファンにサインする際に態度が丁寧な映画俳優」で3年連続1位になった人で、ファンとのコミュニケーションは「穏やかで気さくにサインをしつつ、ファンに話し掛けて親しくなろうとする」「プレミア会場でもレストランでも、映画のロケ中でもほとんど、最高に気前良くサインしてくれる人物」で、まるでゼッケンさんをアメリカ人にしたような感じの俳優です。

もちろん、相手へのコミュニケーションへの心遣いだけでなく、出演する作品への意気込みも、デップはゼッケン作品の特質とクロスオーバーしたりします。

「目的の途中変更」
アンパンマンの着ぐるみを着て、子供に夢を与えるはずが、なぜか拉致され、折檻される男「折檻夫婦」
取材の為にラスヴェガスに向かったはずが、トランクに積んだ大量のドラッグでラリりまくるジャーナリスト「ラスヴェガスをやっつけろ」

「本当にしたいことはあるのに、現実はその逆のことをしなければならない」
野球がしたいのにグラブがないために、ボールの代わりに石を投げるピッチャー「がんばれベアーズ」
両手がハサミであるために、愛する人を抱こうとすると逆に傷つけてしまう男「シザーハンズ」

「夢見る変人」
即身成仏を夢見て、頭髪を剃りおとし頭蓋骨を削られる男「水晶」
アラスカでオヒョウという魚が空を泳いでいく夢を見る変人「アリゾナ・ドリーム」

「最低な自分」
卵子同士をつかって人工授精を行い逮捕されそうになっている生物学部教師「したく」
性転換者の問題作品にするはずが、ただの女装趣味の男の話になった映画を撮った史上最低の映画監督「エド・ウッド」

二人について相違点があるとすれば、ジョニー・デップは、クセのある設定の人物を演じつつ、クセのある設定からはみだしてしまう「イノセンスさ」や「フラジャイル」「ピュアさ」をもっているのに対して、ゼッケンは、どうしてもクセのある設定がそのまま「おかしみ」へと結びつくだけで、設定からはみだしてしまうものの気配がしない、という点だろうか。
クセのある設定そのものがドラマを作るのでなく、そのクセを普遍化させつつ、より読み手に訴求力のあるエモーションを感じさせるための設定からはみでる「何か」を、これからのゼッケン作品には求めたくなってしまいます。

【レッサー賞】 朝倉ユライ

黒木みーあさんが朝倉ユライさんのことを「わたしの中でときめかせたい人トップ10に入る」と言われていたのが印象的でしたが、自分は、「朝倉ユライ」というクレジットを見ただけで、レスを読む前から幸せな気持ちになってしまいます。

作者と作品に対する真摯な向き合い方、発言そのものがはからずももってしまう攻撃性に対する敏感さ、そして、作品そのものに対するリスペクトの姿勢。
そのどれもが、尊敬するに足る資質だと思っています。

個人的には、進谷作品の「ぱぱぱ・ららら」に書かれた返信が、なによりも美しかったことを書いておきます。

【レッサー賞】 右肩

年間大賞の中で、創造大賞にも、抒情にも、実存にも「右肩」というクレジットがなく、レッサー賞にだけ彼の名前があることを不思議に思われた人も多いのかもしれません。
けれど、右肩氏がレッサー賞に選ばれたことを不思議に思う人はいないと思います。

右肩氏の、なによりも相手に自分の意図を間違いのない言葉にして届けようとする姿勢は、文学極道の中で、光っていたと感じています。

そして言葉選びの厳密さ。
たとえば、「浅井康浩は男か女のどちらかである」という仮定を立ててみます。
こうした言葉に対してのアプローチに、右肩氏はおそらくこう答えるように思います。
「男か女かの二者択一しかないように思えるけれども、
浅井が、男でもあり女でもある(両性具有者や性同一性障害者)である可能性もあるし、男でもなく女でもない(クラインフェルター症候群など)可能性もあるのではないか」と。

そのような視線から眺められた批評は、しんじつ、信頼することのできる言葉となって、それぞれの作品の返信となって現われているように感じます。


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