文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

福島 "The Happy Island" by天才詩人(コントラ)

2011-10-31 (月) 20:32 by 文学極道スタッフ

福島 "The Happy Island" (改稿後新コラム)

日本において日本語で詩を書き続ける選択肢はありえない。詩人はぜんぶ負け犬だ。その負け犬、いかいか的に言えば自らのどぶねずみ的な醜態を、自覚した上で、ゼッケンくんみたいにそれを戯画化していく。せいぜいその程度の抜け道しかないだろう。しかし俺は天才なので、その道は選べなかった。海外でのうのうとしやがって気楽なやつだといわれるかもしれないが、すくなくともおれはどぶねずみではない。いや、どぶねずみかもしれないが、少なくともどぶに住まねばならないという不幸は免れている。さっき、暇つぶしに福島市のホームページをざっと見てきた。外国メディアの報道で、福島市内はもはやチェルノブイリ周辺と同じかそれより悪い状態だというのが明白なのにもかかわらず、市当局ウェブサイトには市民に正しい情報を伝えようする誠意がみじんもない。日本酒3合飲んだら発ガン率は1.6倍だから、放射能これだけ浴びたのと変わらないとか、人をナメきった情報ばっかりだ。(注1)暗に、放射能はたいした問題ではないですよ、と言いたいにしてももっと頭をつかったお茶の濁し方があるだろう。ふざんけんな。さかんに議論されているので繰り返したくないが、あまたの政府機関を擁する福島市を閉鎖するとなると、東北以北への大動脈が遮断され、日本の経済活動に甚大な支障をきたすと言われている。YouTubeにある無数の映像ではNGOの活動家がインタヴューに対し、これだけ放射能汚染のレベルが高いのにもかかわらず、復興プロジェクトのすぐそのわきに、学校やオフィスの平和な日常生活が営まれているのは、シュールで不気味だ、と話していた。日本政府は見てみぬふりをする。市民は、何事もないと自分に言い聞かせながら、「そのまま」の日常を維持しようとする。ある南米出身の友人によれば、彼が関わるボランティアグループが福島入りしようとしたとき、地元のひとに「わたしたちはこのままでいいんだから」と現地入りを拒否されたという。この話の信憑性はよくわからないが、似たような話はよく聞く。地元の公開質問会などでも、手をあげて質問しにくい雰囲気があり(株主総会かよ)、母親が、うちの子のリンパ腺が・・と切り出せば、医者から「お母さん、あまり神経質になりすぎないように」とつっこまれる (なかには、こんな非常識な発言まで出回っている。注2)。たいへんな親日家である(しかし日本に行ったことはない)、ある南米出身の友人と福島のことを話していたとき、彼がいきなりヘンなことを言った。「これだから日本の文化はすばらしい。人々は生と死を超越した美学をいまでも生きてるんじゃないか」。思わず唖然としたが、福島市民の昨今の平静を、武士道や割腹自殺のメンタリティと結びつける、オリエンタリズムのコピーのそのまたコピーみたいな流言は、わりと見かける。南米の革命家エルネスト・ゲバラの有名な言葉に、Prefiero morir de pie que vivir de rodillas (腰をかがめて生きつづけるよりも、堂々と立ったまま死んだほうがいい)というのがあるが、福島の場合はまったく逆で、彼らは「座ったまま」死を待つ道を選んでいる。ともあれ、21世紀になっても、外国人(とくに非アジア人)のイマジネーションのなかで、日本人の行動が謎のベールに包まれてつづけている、というのは、自覚しておいて損はないだろう。

だが、底なしに冷徹な眼を持つ俺にいわせたら、福島の現状は日本の伝統的美学とかカミカゼ特攻隊とかとは、はっきり言って何の関係もない。そこに見ねばならないのは、戦後のアメリカ占領時の洗脳で、手塚治虫の漫画にでてくるロボットのごとく人造人間に改造された日本人、歴史的記憶を空白に還元され、東西冷戦下のマシュマロのような甘い繭のなかで消費立国として完成してしまった日本の、『現在』もとい「終わりなき日常」へのおそるべき執着である。日本は江戸時代からポストモダンだったと真剣に議論する学者もいるが、戦後のアメリカによる洗脳政策のトラップから抜け出せない現状を考慮して言えば、1945年以後の日本のポストモダンとは、白痴と同義である。そこには過去への視点や、未来へのヴィジョンなどあるはずもなく、社会学者ジェームソンがいみじくも「現在へのノスタルジー」と呼んだ世界にしがみつくほかはない。いまから考えたらあまりにも遠い昔だが、戦争終結後数年のあいだ、一部の知識人たちは、日本に革命が起きることを本気で期待していたという。だが、彼らの考えた「民主主義」「民衆」主義革命はあまりに頭脳的にすぎた。日本では、明治以降のトップダウン型近代化政策を経て、大正時代には文学や芸術のモダニズムが花開き、自己と社会、個人主義、そして日本の文化アイデンティティを自問した白樺派や、前衛芸術集団MAVOのようなグループも現れた。しかし、戦後になって、東西冷戦下の日本が直面した数々の社会問題―管理教育、環境汚染、家庭崩壊―に対処するとき、日本人は、おきまりの「民主主義」の未発達、産業化にともなう社会の「非人間化」、アーバナイゼーションによる自然景観の喪失とか、あまりにナイーヴな思想の枠組みを持ち出すことしができなったし、今回の福島のケースでも政府を「犯罪者」と呼んだり(それは感情の吐露としては正当だろう)、被災者の生きる「権利」「人権」を持ち出すくらいしか言葉を紡げず、日本人の思考がまったく進歩していないことを暴露している。大事なことだが、日本人は20世紀の初頭の大正時代に「モダン」を背負う主体として、すでに存在していた。何年前だったか、民主党のキャッチフレーズが『日本をあきらめない』だったが、われわれが諦める諦めないかとか、「歴史」はそんなおチャラけた発想とはまったくの別の次元で人々をインスパイアする。哲学のアポリアのひとつに、「誰もいないところで倒れた木は音をたてるか」というのがあるが、日本人は自らの歴史を、まさにその「木々」のように扱ってきたのである。

いぜん田中君とのバトルでも書いたとおり、俺はアメリカに住んで数年になるが、年が経つごとにこの国が嫌いになる。アメリカ人はスニッカーズやナチョスなどのジャンクフードで肥えさせられた家畜であり、鼻の前に人参をぶらさげられた豚のように、株式市場の成長とか、または神の意志のもとで、たえまなく「先」へと駆り立てられている「動物」である。だが、言いえて妙だが、『未来』を志向しているだけ、彼らは日本人よりもましなのだ。『未来』を志向するということは『危機管理』を怠らないことだ、と言い換えることができる。彼らは公私両方のレベルで、危機にどう対応するのか、誰を責任に問うのかを、いちおう了解していて(制度上、了解したことになっている)、自国が世界一洗練された危機管理システムを持っているとうことに、疑問をはさまない。アメリカが国連決議を無視してイラクに侵攻するのも、原爆を落とすのも、それが『危機管理』だというなら、ほとんど精神異常者の過剰防衛だが、そうした「危機管理」政策を公の場で、非難する人は少ない。それらはアメリカという国の「危機管理」のゆえに必要だと承認された以上、「民主主義」手続きで選んだ自国政府の政策を非難すると、人格矛盾をさらけ出してしまうからだ。民間や市政レベルで、廃墟と化したイラクやアフガンから難民を受け入れサポートすることはあっても、戦争の大義や外交関係はドライに割り切る。精神異常者や変態も、異常ななりに一貫してはいる、ということだ。一般化しすぎたが、少なくとも、「人殺しは倫理的に否」という子供でもわかる論理から、韓国や中国への戦後補償とか、国家と国家の問題にまでワンステップで飛躍してしまう戦後日本人の知力とは、横浜商科大学と河合塾くらいの偏差値の違いはある。戦後、ごく最近まで、日本人の多くは、国家さえもがマシュマロのように溶けてなくなってしまうことを望んできたが、予備校を卒業しても学歴には何の足しのもならない。だがしかし、おれはどうしてもアメリカがきらいだ。いま上で素描したような、日本の親米保守派が大好きそうなリアリスティックな防衛論に共感する、多くのアメリカ留学「経験組」のようになってしまうのには、俺は、あまりに経験を積みすぎていた。俺はアメリカ合州国に住む以前に、東南アジアや中東、中米、南米諸国などを時間をかけて歩き回り、多くの市井の人々や、ちょっぴり偉い人たちと出会い、彼らの多くが、心の底から親日的であり、アメリカ合衆国なんかよりも日本に、今後の世界を背負う覚悟決めてくれるのを期待しているのを、知ってしまった。俺はこれらの人々を鏡として、自分が日本人である、とういことの本当の意味を学んだ。パレスチナで、イランで、または南米コロンビアやミャンマーで出会った多くの人々の期待を裏切るわけにはいかないのだ。世界第二の経済大国は世界に対してそれなりの責任を負わねばならない。

言うまでもないが、世界が日本で注目するのは経済だけではなく、日本のアニメや漫画は世界の若者の共通言語となりつつある。5年ほど前に、ダーザインから、アニメはもはやサブカルチャーじゃない、れっきとした「文化」だという批判を受けたが、俺も、過去数年間現代美術の研究者として修行を積むなかで、アニメや漫画こそ、コンテンポラリーアートの最前線を思考していくうえで、欠かせないな出来事だというのを、人力車なみの遅れに恥入りなら認知してきたし、それが日本とアウターナショナルとの界面を交わらせていく「アツい」場になりつつあるのを、これも遅ればせながら覚醒させられた。じじつ、明治以降の、日本の現代美術史は、たいてい息のつまるような守旧的なヴィジョンで覆われており、フランスの印象派からキュビスム、フォーヴィズム、抽象表現主義までのモダニズムの運動を、アカデミックに骨抜きにしただけの作品しか生まれてこなかった。アニメの話はダーに任せて矛先を変えると、閉鎖的な日本の現代美術の流れにあって、例外的に「アツ」いのが、藤田嗣治である(1886-1968)。27歳でフランスに渡った藤田は、浮世絵や日本画を参照したハイブリッドなスタイルを独自に確立して、パリで超売れっ子になったが、それには飽き足らず、自らの足で中南米やアジア大陸を旅行し、貪欲にインスピレーションを吸収しようとした。女たらしで派手な生活をしたせいで日本の画壇からはさんざん叩かれ、無視されてきたが、彼の伝記を読むと、自分の祖国について、そして世界のなかの「日本」という問題について、彼が恐ろしく先鋭な意識で思考していたのが手にとるようにわかる。個人的には俺のアイドルだ。ポスト冷戦の90年代以降、アニメや漫画にインスピレーションを受けて、製作する現代美術家が増えているが、批評家のサワラギノイが言うように、彼らは、アウターナショナルな文化のすりきりに自らを投じていった藤田の軌跡をなぞっている、とも言えるわけだ。急に文学極道の話になるが、ダーザインのようにアニメや美少女に強い人間(もとい、変態)がトップにたったのはとてつもなく大きかった。俺は、ダーの20倍くらいは頭がよいが、世界レベルの政治や経済、カルチャーのフローを最先端までくまなく見据える彼のアンテナには敬服するほかない。俺は「詩」に興味は無いので、詩はもうどうでもいい。ただし、「詩」という元来メソメソした道教の陰陽論でいう、とことん「陰」(それは放射能がたまりやすい雨どいの下や、人の近寄らないくぼ地に住みたがる)であるメディアを武器にして、どこまで「アツい」ものができるのか(たぶんそれは無理だ)にちょっとだけ興味がある。

福島市は、一刻も早く全面閉鎖して、市民はすべて放射能の影響を受けない場所に避難すべく、手続きに移るべきだろう。日本には「未来」がなければならない。すくなくとも、アメリカの暴虐によって疲弊した世界のために、日本は未来を選び取らねばならない。その「未来」はアメリカが描く未来よりも、すくなくとも数倍くらいましだろうから。(予備校は、柔軟さが強みだろう。嫌になったらいつでもやめられるし、またもどってこれる、ケムリくん、おかえり)

俺のいうことが絵空事に聞こえるならば、お前はドブネズミだ、いや、お前はアフロだ。いますぐアウターナショナルに自分を放擲して3年くらい帰ってくんな。

(注1)http://shinsai.city.fukushima.fukushima.jp/wp-content/uploads/2011/10/329068e2cf1fcc9ba99b6e3bf98973ea6.pdf

(2)http://www.youtube.com/watch?v=6pZQbEIGkxA

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爆裂酩酊ポエム道byダーザイン

2011-10-30 (日) 01:31 by 文学極道スタッフ

2011年09月22日

 今日も2件履歴書を出す。某衣料品店の販売とバックヤード、某大学の非正規事務。どうせ年齢で面接もしてもらえないのだろうがね。私はエクセルに難があるので10月からのその手の職業訓練も申し込む。

 職安の公務員様の中に一人30前後の可愛い子がいて、以前から
「凄い美人さんですね」とか、髪を切ったら
「ショートにしても可愛いですね、抱っこしたい」とからかい赤面させるなどしていたのだが、今日は
「淋しくしているので君みたいな可愛くて優しい子とご飯を食べに行きたいという希望を持っているのですがダメでしょうか」と伺い、断られる。

 銀行に寄って窓口に可愛い子がいるので見とれていたら、何か御用ですかというジェスチャーをされたので窓口に行き、
「君があんまり綺麗だから見とれていただけです」といって笑わせ、夕食の予定を聞くが既婚者。

 帰りに駅の近くを歩いている一見して作業所とかデイケア帰りの集団とわかる人たちの中に一人可愛い子を見つけたので、彼女が一人でバスに乗り込むのを確認し、後を追ってバスに乗り込み口説こうとしたら、どこかで見たような乗客がいる。ご近所さんかもしれない。女の子はよく見ると10代の子供のようにも見える。しばし躊躇し諦める。

 今夜はこれから24歳女児のところに行く。口説き落とすのは無理っぽいが諦めていない。

 女がいない人生なんて馬鹿げておりろくなことない。
 もう手当たりしだいだ、ギャハ

2011年09月25日

 自転車で転んで骨折し発熱しているのだが、寝ていてもしょうがないので夕方、現在最も集中的に執着しているショップ店員20歳女児に「青の果て」と前の詩集を渡しに行く。

 若干うざいオバサン客がいて
「この子素人で何も解んない、最近随分値上がりしたわ」とか、
自分のインカローズの白い縞が増えたので捨てたほうがいいのかしらとか意味不明のことも言うので、
「最近は以前より品質の良い物が並んでいますからね。そのインカローズはとっても素敵だしお似合いですよ、AAAなど以外はみんな白い縞があります。それはお見受けしたところとても良い石なので大事になさってください」といってなだめる。
「私似合わないのにピンクが好きなのよ」と仰るので、
「とてもお似合いですよ、それに桜色は気持ちを優しく穏やかにしてくれる効果があるのでとても良い石です。どんどん身につけてください」と。

 まるで俺は石売り屋の店員みたいじゃないか。実際のオバサンとの会話は10分近く続き、髪形や服装なども褒め称えて気分良く帰っていただく。

 さて、オバサンを口説きに来たわけではもちろんなくて、店員さんを口説きに来ているのだが、オバサンへの対応で点数を稼げただろう。

 オバサンが帰ってから20歳女児に約束の詩集を渡し、
「普通の人間は泥と塩をこねて、その辺の職人さんが作っているんですけれど、貴女は神様が直接天使の羽から作ったんです」と褒め称えて笑わせる。
 神様も忙しいからね。
(ちなみにこの台詞、他所でも使っているが(ギャハ)、この子をゲットしたいというのはマジだ。とってもお洒落で現代的な子なので間違いなく彼氏がいると思うが、そんなこと関係ない。彼氏なんてものは取り替えるためにあるんだ。

 PDF写真詩集のことは既に頼んでいるモデルさんがいるので確実な話ではないと昨日から説明している。実際に綺麗なモデルさんと可愛いコスプレイヤーさんに以前から許可を得ている。だがレイヤーさんは見た目は最高級に可愛いが性格が幼稚すぎる腐女子なので対応が面倒くさい。20歳女児より年上なのに、まるでガキなんだよ。イタリア人は腐女子など相手にしない。
モデルさんは物凄い美人だし、人柄も悪くないのだが、この人は性格が大人すぎて口説ける対象ではない。

 そんなわけで、彼女が「青の果て」を読むまで待ち、
「やはり、だいじな詩集なのでなので世界で一番可愛い君にやってもらいたいからモデルさんは断りました」といって話を進めようと思う。

 でもその前に、電通とか広告代理店、大企業にダメもとでスポンサーになってほしいという文面と共に「青の果て」他、がんがん送りつけます。

 俺にあるのは筆力だけ。仕事も見付からないし、能力を生かすしかない。今までやらずに諦めたり面倒くさくて実行しなかったことをがんがんやる。

 ちなみにショップ店員20歳女児と初めて会話したのは何ヶ月も前だが、のっけから世界一可愛いと褒め称えた。
「誰にでもそんなこと言っているんじゃないですか」と至極もっともなことを仰るので
「いや、俺は相撲取りに可愛いなんて言わないよ」とお答えした。俺一言も嘘ついていないよね。

 熱発しているのに歩いたので疲れ、冷たくて美味しい水が飲みたくなり、帰りに近所のスーパーに南アルプス天然水を買いに行く。熱でふらふらする。
 一番優しい笑顔の女子高生バイトのレジに並ぶ。でももうご近所の女子高生は口説かないよ、ご近所さん相手だとどうしても遠慮が入り、イタリア人的に振舞えない。

 さて、風呂に入ってくる。脱臼・骨折で左肩が周らないのでどうしても自力では右肩周辺が洗えない。

 可愛いお嫁さんが欲しいっす。

2011年09月29日

 脱臼・骨折でTシャツやスエットは着脱に困るので、 前がボタンなどで全部開く服しか着られない。
 リラックマの前を開けられる着ぐるみを持っているのだが、暖かくて肌触りが良く、寒い季節の室内着、寝巻き代わりにちょうどいい。 北海道はもう一桁の低気温になる。

 21時過ぎに、りらっくまを着てビールを買い足しにスーパーに行き、ちっちゃくて可愛い女子高生女児(この子の笑顔はじつに優しい)に、
「君がコリラックマで俺がリラックマで、一緒に銀行強盗しようぜ」という趣旨の戯言をいう。
 なかなかシュールな口説き方ではないか。さすが俺様芸術家(酔っ払い)。
「いやいやいや」と笑われ、勿論断られる。笑い

 まあね、これも社会貢献ですよ。震災や不景気で暗い世の中、笑い話のネタを提供するのも世の中の為です、ギャハ

2011年10月30日

 24日から職業訓練、営業基礎科なるものに通っている。ひとり美女がおり即効迫っているが相手にされない。
 今日は総合病院の事務方の面接を受けてきた。面接官三人全員女性。手慣れた人たちで本性を暴くような質問を次々としてくる。
 まずは過去の職歴の辞めた理由すべて、何故ここに応募したのか、そういう当たり前の質問の後、
 「友人はあなたのことをどんな人だと思っていますか」という質問を受けた際に、馬鹿正直に
 「ああ、最近友人に、お前はイタリア人か?」と言われましたと迂闊な混じれ酢をしてしまう。
 「どういうシュチュエーションでそう言われたのですか?」と言う問いに、
 「綺麗な女性を褒め称えたときです」と正直に答えたら笑われる。
 「イタリア人みたいだといわれてどう思いましたか?」と更に問われ、
 「褒め称えて何が悪いのかまったく解りません」と更に正直に答える。

 看護婦全員を口説く馬鹿者だと判断されてアウトだろう。
 (実際は、医療福祉業界に長くいたので看護士には幻想を抱いておらず、まったく萌えないのだが)

 他にも様々不手際があった。転職だから素人なのに何でも出来るような誇大な自信を見せたこと、
 「介護の仕事をまたやる気はあるか?」と問われた際に、あの1年半は打てば響く人間相手のやりがいを感じていたのに、正規職員との格差しかその瞬間思い浮かばず
 「もう嫌だ」とネガティブなことを言ってしまったことなどなど。

 何せ拙者はコントラさんの20分の一の脳みそしかない阿呆である。
 女を口説くのは、口説くということを純粋に楽しんでいる。何せ文無しなので口説き落とせたらマズイ、笑い

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by 天才詩人(コントラ)

2011-10-29 (土) 08:03 by 文学極道スタッフ

新コラム。よく読んどくように。

日本において日本語で詩を書き続ける選択肢はありえない。詩人はぜんぶ負け犬だ。その負け犬、いかいか的に言えば自らのどぶねずみ的な醜態を、自覚した上で、ゼッケンくんみたいにそれを戯画化していく。せいぜいその程度の抜け道しかないだろう。しかし俺は天才なので、その道は選べなかった。海外でのうのうとしやがって気楽なやつだといわれるかもしれないが、すくなくともおれはどぶねずみではない。いや、どぶねずみかもしれないが、少なくともどぶに住まねばならないという不幸は免れている。さっき、暇つぶしに福島市のホームページをざっと見てきた(注1)。外国メディアの報道で、福島市内はもはやチェルノブイリ周辺と同じかそれより悪い状態だというのが明白なのにもかかわらず、市当局ウェブサイトには市民に正しい情報を伝えようする誠意がみじんもない。日本酒3合飲んだら発ガン率は1.6倍だから、放射能これだけ浴びたのと変わらないとか、人をナメきった情報ばっかりだ(注2)。暗に、放射能はたいした問題ではないですよ、と言いたいにしてももっと頭をつかったお茶の濁し方があるだろう。ふざんけんな。さかんに議論されているので繰り返したくないが、あまたの政府機関を擁する福島市を閉鎖するとなると、東北以北への大動脈が遮断され、日本の経済活動に甚大な支障をきたすと言われている。YouTubeにある無数の映像ではNGOの活動家がインタヴューに対し、これだけ放射能のレベルが高いのにもかかわらず、復興プロジェクトのすぐそのわきに、学校やオフィスの平和な日常生活が営まれているのは、シュールで不気味だ、と話していた。日本政府は見てみぬふりをする。市民は、何事もないと自分に言い聞かせながら、半睡状態のままの「日常」を維持しようとする。そこに俺は、戦後のアメリカ占領時に歴史的記憶を空白に還元され、東西冷戦下のマシュマロのような甘い繭のなかで消費立国として完成してしまった日本の、『現在』もとい「終わりなき日常」へのおそるべき執着を見てしまう。日本においてポストモダンとは白痴と同義である。そこには未来へのヴィジョンなどあるはずもない。数年前だったか、どっかの政党のキャッチフレーズが『日本をあきらめない』だった。この「日本」は「日常」と置き換えてもいいだろう。そもそも「あきらめるか」「あきらめないか」そんな時限爆弾みたいなスイッチを抱きしめながら生きる日本。そんな人生にいったい生きる価値があるのか、と俺は聞きたい。

いぜん田中君とのバトルでも書いたとおり、俺はアメリカに住んで数年になるが、時が経つごとにこの国が嫌いになる。アメリカ人はスニッカーズやナチョスなどのジャンクフードで肥えさせられた家畜であり、鼻の前に人参をぶらさげられた馬のように、株式市場に、または神の意志の前で、絶え間なく「先」へと駆り立てられている。だが、言いえて妙だが、『未来』を志向しているだけ、彼らは日本人よりもましなのだ。この『未来』は『危機管理』と言い換えることもできる。彼らは公私両方のレベルで、出会いうる危機にどう対応するのか、誰がその事態に責任をもつのか、いちおう了解していて(制度上、了解したことになっている)、危機管理では自国が世界一洗練されたシステムを持っているとうことに、疑問をはさまない。アメリカが国連決議を無視してイラクに侵攻するのも、原爆を落とすのも、それが『危機管理』だというなら、ほとんど精神異常者の過剰防衛だが、そうした「危機管理」政策を公の場で、非難する人は少ない。それらはアメリカという国の「危機管理」のゆえに必要だと承認された以上、「民主主義」手続きで選んだ自国政府の政策を非難すると、人格矛盾に陥ってしまうからだ。民間や市政レベルで、廃墟と化したイラクやアフガンから難民を受け入れサポートすることはあっても、戦争の大儀や外交関係はドライに割り切る。精神異常者や変態も、異常ななりに一貫してはいる、ということだ。一般化しすぎたが、少なくとも、「人殺しは倫理的に否」という子供でもわかる論理から、韓国や中国への戦後補償とか、国家と国家の問題にまでワンステップで飛躍してしまう日本人の知力とは、横浜商科大学と河合塾くらいの偏差値の違いはある。戦後、ごく最近まで、日本人の多くは、国家さえもがマシュマロのように溶けてなくなってしまうことを望んできたが、予備校を卒業しても学歴には何の足しのもならない。だがしかし、おれはどうしてもアメリカがきらいだ。いま上で素描したような、日本の親米保守派が大好きそうなリアリスティックな防衛論に共感する、多くのアメリカ留学「経験組」のようになってしまうのには、俺は、あまりに経験を積みすぎていた。俺はアメリカ合州国に住む以前に、東南アジアや中東、中米、南米諸国などを時間をかけて歩き回り、多くの市井の人々や、ちょっぴり偉い人たちと出会い、彼らの多くが、心の底から親日的であり、アメリカ合衆国なんかよりも日本に、今後の世界を背負う覚悟決めてくれるのを期待しているのを、知ってしまった。俺はこれらの人々を鏡として、自分が日本人である、とういことの本当の意味を学んだ。パレスチナで、イランで、または南米コロンビアやミャンマーで出会った多くの人々の期待を裏切るわけにはいかないのだ。世界第二の経済大国は世界に対してそれなりの責任を負わねばならない。
言うまでもないが、世界が日本で注目するのは経済だけではなく、日本のアニメや漫画は世界の若者の共通言語となりつつある。5年ほど前に、ダーザインから、アニメはもはやサブカルチャーじゃない、れっきとした「文化」だという批判を受けたが、俺も、過去数年間現代美術の研究者として修行を積むなかで、アニメや漫画こそ、コンテンポラリーアートの最前線を思考していくうえで、欠かせないな出来事だというのを、人力車なみの遅れに恥入りなら認知してきたし、それが日本とアウターナショナルとの界面を交わらせていく「アツい」場になりつつあるのを、これも遅ればせながら覚醒させられた。じじつ、明治以降の、日本の現代美術史は、たいてい息のつまるような守旧的なヴィジョンで覆われており、フランスの印象派からキュビスム、フォーヴィズム、抽象表現主義までのモダニズムの運動を、アカデミックに骨抜きにしただけの作品しか生まれてこなかった。アニメの話はダーに任せて矛先を変えると、閉鎖的な日本の現代美術の流れにあって、例外的に「アツ」いのが、藤田嗣治である(1886-1968)。27歳でフランスに渡った藤田は、浮世絵や日本画を参照したハイブリッドなスタイルを独自に確立して、パリで超売れっ子になったが、それには飽き足らず、自らの足で中南米やアジア大陸を旅行し、貪欲にインスピレーションを吸収しようとした。女たらしで派手な生活をしたせいで日本の画壇からはさんざん叩かれ、無視されてきたが、彼の伝記を読むと、自分の祖国について、そして世界のなかの「日本」という問題について、彼が恐ろしく先鋭な意識で思考していたのが手にとるようにわかる。個人的には俺のアイドルだ。ポスト冷戦の90年代以降、アニメや漫画にインスピレーションを受けて、製作する現代美術家が増えているが、批評家のサワラギノイが言うように、彼らは、アウターナショナルな文化のすりきりに自らを投じていった藤田の奇跡をなぞっている、とも言えるわけだ。急に文学極道の話になるが、ダーザインのようにアニメや美少女に強い人間(もとい、変態)がトップにたったのはとてつもなく大きかった。俺は、ダーの20倍くらいは頭がよいが、世界レベルの政治や経済、カルチャーのフローを最先端までくまなく見据える彼のアンテナには敬服するほかない。俺は「詩」に興味は無いので、詩はもうどうでもいい。ただし、「詩」という元来メソメソした道教の陰陽論でいう、とことん「陰」(それは放射能がたまりやすい雨どいの下や、人の近寄らないくぼ地に住みたがる)であるメディアを武器にして、どこまで「アツい」ものができるのか(たぶんそれは無理だ)にちょっとだけ興味がある。
福島市は、一刻も早く全面閉鎖して、市民はすべて放射能の影響を受けない場所に避難すべく、手続きに移るべきだろう。日本には「未来」がなければならない。すくなくとも、アメリカの暴虐によって疲弊した世界のために、日本は未来を選び取らねばならない。その「未来」はアメリカが描く未来よりも、たぶん2.2倍くらいましだろうから。(予備校は、柔軟さが強みだろう。嫌になったらいつでもやめられるし、またもどってこれる、ケムリくん、おかえり)
俺のいうことが絵空事に聞こえるならば、お前はドブネズミだ、いや、お前はアフロだ。とりあえずアウターナショナルに自分を放擲して3年くらい帰ってくんな。

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すばらしくひどいものたちへ

2011-10-27 (木) 19:29 by 01 Ceremony.wma

 先日、彼女にドブネズミと言われたいかいかです。下水管からこんばんわ。詩を書いている奴なんて、どこかしら根暗ちゃんで、どこかしらうじうじしていて、もうやだね、みたいな。そんなろくでもない奴らが、寄り集まって、やれ技巧だ、やれセンスだ、やれ上達だなんていう場は醜悪極まりなくろくでもない以外に言葉が無い。すばらしくひどくてろくでもないものちが、寄り集まって、すばらしくひどくろくでもないものを作ろうとしているのかもしれないと思ったら、俺は心底わくわくする。この時代では、無意味であることが許されない。「知らない」と身振りすることが許されない。常に「発言」することや「知っていること」を強要されている。
 という、めんどくさいことはどうでもよくて、とりあえず、なんだかよくわからないけど、ドブネズミなんていわれたからには、綺麗に着飾ってより醜悪さを爆発させなきゃと思う今日この頃です。とりあえず、ひどいよお前ら。俺を誉めろ、俺をたたえろ。
 そこで、いかいかさんは考えました。一生懸命メルヘンチックに考えた結果、古参はとりあえず生贄になって、比較的若い人ががんばってほしいという投げやりな感じになっちゃいました。墓石君に、破片君、yukoさん、黒埼立体さん、藤崎原子さん、雛鳥むくさんetc、と、文学極道で、黒沢、ケムリ、右肩、浅井、一条、そして俺とか、ゴミクズです、と言ってやってくれる人が出てきてほしいなぁ、と。俺が2chにポエム板に書き込んだとき、全員に喧嘩売りました。詩を書いている奴全員に対して喧嘩売るような形で登場しました。2chポエム板は今の極道よりもひどい状況で、ろくでもないスレとろくでもない作品とろくでもない名無しとコテとレスばかりで、本当にろくでもない奴が拙い文章を晒してもうめたくそでしたよ。それはもう、ありえないほどにね。そして、何人かの人と仲良くなり、そして盛大に決別したり、自然消滅しました。そんな詩ポエム板にシバン派といわれるものが存在していて、ダーザインやボルカさんとかは知ってると思うけど、もしシバン派のメンツで極道に書き込んだら余裕で優良作品と年間各賞を総なめできる水準にありましたよ。でも、自然消滅したし、皆、詩を書かなくなっていきました。
 めでたしめでたし、なわけねーだろ。ここで終わりたくなければ、必死こいて素晴らしくひどくろくでもないものを作ろうぜ。ちなみに、何気に皆の詩読んでるよおれ。いらつきながら読んでます。レスしてなくても読んでたりします。作品読んで、わざわざ過去作もそのつど読んで、HNを検索して日記とかサイトとかまで目を通して読んでます。もう軽いストーカーかっていうぐらい読んでます。だから、書いてください。だって、感動したいじゃない。感動できる作品を読みたいじゃない。それを読むために、下水管でドブネズミやってゴミを毎日丁寧に読んでるんですよ。じゃんじゃんもってこい。そして、皆、仲良くしる!罵倒と怒号が鳴り響いても仲良しです!を合言葉に。
 
 

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ロリコン魂炸裂と現代詩の状況

2011-10-25 (火) 23:23 by ダーザイン

@ロリコン魂炸裂
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 拙者はうつ病持ちなのだが、このところずっと調子良くてダウナーに成ることはなかった。基本的にやる気のない人生だが、どうにか仕事をしてきたし(現在は失業中)、お前はイタリア人かと疑念を抱かれることはあっても、暗い奴だと思われることはない。

 だが久々に拙い。最近露骨にうつが出ており、症状として眠い。(秋はいつもマズいんだ)淋しくなり(美少女限定)多少不安になる。よって、美少女女子高生とかを抱っこよしよしっつーか、抱っこよしよしされたくなるのだが当てが無い。

 近所の高校の美白クイーン山本さんがスーパーのバイトを辞めて拝めないのが辛い。あれがいなくなると、あれのことしか思い出さない。金色ルチル交じりの石英で作られた天使のように可憐なな美少女だ。拝むだけでいいからと、泣いて土下座して頼みたいところだ。

 そのスーパーでバイトをしている女子高生は全員可愛いくて、他の子には褒め称える程度のちょっかいを出してきたのだが、一目見た瞬間に萌死にしそうになった肝心の山本さんは
「あっち行って、こっち来ないで」
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 オーラを出していたので声を掛けられなかった。汗。常時他の子にばかり声をかけてきた。通常の漏れはイタリア人の流儀で母子で歩いている可愛い子を見かけたら

「お母さんはちょっと席をはずしてください」と言って娘さんを口説こうとするほどなの漢なのだが、何故か哀しいことに究極萌美少女の前に出ると手も足も出ないの。

 他にも近所のコンビニにAKBの全員よりも可愛い子がいて、こりらっくまの着ぐるみを着させて抱っこしたいのだが手も足も出ない。

 こんなことを書いている時点でキッパリとイカレテいると同時に美少女萌病な。求職のための職業訓練が月曜から始まっており眠いとまずいんだが(営業系諸々の訓練5ヶ月。無論仕事が見付かればそんなもの途中でやめる)。

 散文詩集「青の果て」のことは、持ち込んだ棒出版社にどうなっているのか聞きたいところだが一月も経っていないのに催促の電話はしにくい。すぐ次へ次へ行きたくなるのは短気でいけない。だが今、電子書籍やPDFに興味が移っている。

 佳子のイメージモデルをokしてくれている美人ショップ店員二十歳がいるし(たまらなく可愛い)、最近、はっと驚くような美女モデルさんも見つけたし、文章だけより写真付きの方が面白いんじゃないのかなと。

 全国の萌え美少女・萌え美人の皆様、私の佳子のモデルになりませんか? 漏れなく抱っこよしよしして差し上げます。ギャハ
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@@一銭にもならない芸術、現代詩

 金になる芸術とならない芸術がある。才能と努力だが、それ以前にジャンルとしてあらかじめ誰も儲けられないジャンルがある。それが現代詩だ。書店は詩集を置いてくれず、商業詩誌からの依頼原稿をあげても原稿料が貰えず、ほとんどすべてに近い現代詩人が自費出版しており、現代詩だけで食べている人は一人もいない。
 商業詩誌の新人賞の賞金はたったの10万円。そんなものを商業といえるだろうか。21世紀新鋭詩文学グランドチャンピオン決定戦の賞金も選者持ち寄りで10万だ。

 何故そのようなことになったかというと、現代詩はつまらなくて売れない、すなわち商業価値がない状態が長く続いたからだ。10年や20年というスパンではない、もっと以前から、現代詩は支離滅裂で意味不明、難しくてわけが解らなければ偉いという風潮に毒され、現代詩人の作詩意図は「どんな解釈もすり抜けてやる」といったもので、読者に何某かの感銘を与えるという意識はまったくなく、そもそも詩人仲間内以外の読者を想定しておらず、仲間内で学術用語を並べ立ててほめ合っている有様だ。

 そのような詩を正常な一般の方が読んでくれるわけがなく、出版という商業からは鼻つまみ者扱いで除外された。

 だから、私たちの戦いは二重だった。私は「人様に捧げる言葉の花束」という意識を持ち、ちゃんとした美しい日本語で読者を震撼させ、感動していただける詩を書こうと努力してきた。私の詩は東野圭吾さんの小説を読んでいる二十歳の美少女にもちゃんと理解できる(携帯小説しか読まない人には漢字が読めないとか言われてダメだが、笑い)。

 そしてあるときから現代日本最大の詩人に私自らが成らなければならない、美と神秘の魔術師として名を轟かせねばならないという強い意志を抱いて散文詩集「青の果て」(佳子シリーズ7部作)を書き始めた。己の才能を信じ、まず自分自身が前述した現代詩の状況を突破しようと挑戦してきた。「青の果て」で私は現代日本最大の詩人になったと傲慢に確信している。現在、完成した「青の果て」の原稿は商業として成り立っている出版社に読んで頂いているがまだ返答はない。そこがダメなら他をあたるし、見つからなければ電子書籍、PDFでもいい。とにかく自費は極力避け、ちゃんと自分が書いた文章でお金を稼ぐ。他の芸術ジャンルでは当たり前のことをやろうとしているだけだ。

 もうひとつの戦いはまともなメディアを作ることだった。先述した言語遊戯に明け暮れていた商業詩誌に関わる気になれなかった私は、7年前、志を同じくする詩人たちと共に芸術としての本来的な詩を取り戻す為に「世界性」・「人様に捧げる言葉の花束」の旗を掲げ、新しいメディア、新世紀詩文学メディア「文学極道」を打ち立てた(21世紀のルネサンス)。トップページに「程度の低い者出入り禁止」という趣旨のことが書いてあるにもかかわらず最近は低迷も見られるが、この7年間、特に最初の数年は時代を代表する綺羅星のような詩人たちがいっせいに集まり、文学極道は瞬く間に現代詩の頂点になった。一条、コントラ、りす、ケムリ、軽谷佑子、ミドリ、光冨郁也、浅井康浩、宮下倉庫、泉ムジ、いかいか、黒沢、ひろかわ文緒、佐藤yuupopic、、、

 だがここも商業と結びつける道はまだ見えてこない。

 突破したい。

 必ず突破しなければならない。

 私個人も、文学極道も、一銭にもならないという在り方を超え、正当な報酬のある地平へと。

 まずは私自身が突破者と成りたい。

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