はい、えーっとですね。月間選評を今回書いててですね、なんかデジャヴに襲われてしまいまして。
優良作品にたいする評づけってのは楽しいんですが、どうも低劣ポエムになると、常連さんたちを相手に辛気臭くなるのもちょっとな、と。
おんなじようなことを一年間やりつづけるのも、もっと辛気臭いな、と。
なにが優良で、なにがそうでないのか、ってのはある程度は理由づけしてきたんだけど、浅井がテクストごとに批評をくわえているだけで、どうも「文学極道」としての場を活かしきれてないなー、という反省もあり、ちょっとやりかたを修正していきます
批評のやりかたについて、いままで「現在において」という言葉を多用してきたのだけれど、ここの部分をもっと尖鋭化していきたいな、という思いがあります。
とりあえず、この場は「文学極道」なので、ここでのターニングポイントを挙げてゆくと、
「一条」→「ケムリ」→「New order」っていう流れがあると思っていて、
「現在」っていう潮流に一番相性がいいのが「New order」さん。とりあえず、
bungoku.jp/ebbs/pastlog/321.html#msg6033
を読んだらわかるのが、「ポスト・フクシマ」をどう「現代詩」の視座で位置づけてゆくか、という問題意識。
この作品をひとつのターニングポイントとして、プレモダン(New order以前)/モダン(New order以後)に分けちゃう。
で、その「モダン性」というものを中心に据えて、選評を書いていこう、とそう思ったわけです。
モダン/プレモダンでこの場を一括しちゃうのは、相当荒い、ってか暴論にすぎないんですが、ここらへんを細かくやっていくと、どうしても長くなっちゃいますんで。
で、New order以後、っていう考えにしても、モダン自体が常に古びてゆく性質上、モダンとは何かってのは、倒錯した考えなんで、厳密ではなくザックリです。
ちなみに、New orderさんの作品も、そのテクストはモダンでも何でもなく、おそらく池沢夏樹あたりの「世界文学」の方法論をアレンジして、この「ポスト・フクシマ」に出してきたと思っていて、だけど、その方法論が有効なのはなんでか?ってのが、課題としてまずあります。
ここらへんからは、ダラダラ書いてもあまり意味がないし、投稿された作品のほとんどが、そこのポイントで話ができるほど、レベルが高くないんで、とりあえず、投稿作を読んでいきます
今月もまた、はしゃいでるだけの作品がおおいですねー
6649 : 愛の唄 ◆YAPoo/LC/g ('13/01/23 12:05:45) [Mail]
bungoku.jp/ebbs/20130123_164_6649p
「TV」だとか「資本主義がフィクション」だとかは、とっくに半世紀以上前にもいわれてきまして、それが現在でも有効か、っていう議論はちょっと受け入れられない。
さまざまのメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっている、っていったのは1960年代のマクルーハンなんだけど、こんときですね、TVが主題となりえたのは。マクルーハンは、電子メディアの発達で世界が「地球村」になる、って予測した人なんだけど、現在メディアで顕著に現われてるのは、アバター内での空間が現実の空間のなかに出現しはじめている、っていうことで、ちょうど、ウチとソトが逆転しちゃうっていう、メディアを一方的に受容してゆくTVなどの機器では捉えきれなくなってきている。そんななかで、「愛」を買う、だとかは、とっくにメディアの中で現実化しているんで、書く意味がちょっとわかんない。
で、はしゃいでるってことをいうと、これもですね
おちんちんマン 二階堂本館 ('13/01/11 16:22:03)
bungoku.jp/ebbs/20130111_848_6622p
あまりにはしゃぎすぎちゃって、なぜ「書かれてはいけないか」ということじゃなくて、
「禁忌」そのものを独立した事象と考えず、基本的な公的な秩序を維持するためにこそ「禁忌」は必要とされ、秩序と相対化する形で現われる、だからこそ、「秩序」についてその公共的信念がある「力」においてコントロールされていると感じた時にこそ、「禁忌」にたいする個人的解釈を社会的信念の中にあてはめることで、「秩序」そのものの公正さを取り戻してゆく、というスタイルこそが、「タブー」「禁忌」を扱うことの積極的な意義となるということがすっぽり抜けちゃっている。
タブー、っつーか、そのことの可能性について書いた人がダグラス、っていう人で、『汚穢と禁忌』のなかで、こんなことをいってます。
秩序を実現するためには、ありとあらゆる素材から一定の選択がなされ、考えられるあらゆる関係から一定の組み合わせが用いられる(略)従って無秩序とは無限定を意味し、その中にはいかなる形式も実現されてはいないけれども、無秩序のもつ形式創出の潜在的能力は無限なのである。
我々は、無秩序が現存の秩序を破壊することは認めながら、それが潜在的創造能力をもっていることをも認識しているのだ。無秩序は危険と能力との両者を象徴している
禁忌を「能力」の側から眺めてみると言うのはどのようなことかってことだけど、ここではとりあえず、「チン↑ポム」についてだけ簡潔に書いておきます
chim-pom.syncl.jp/?p=gallery
チン↑ポム(笑)もう、この「↑」っつーだけでふざけてんなー、ってのがわかるんですが、デビュー作の名前もなかなかで「エリゲロ」(笑)
エリィちゃんが延々ピンクのゲロを吐き続けるという作品であったことからも表層的にわかるんだけど、アートがもつ境界線を「キレイ/キタナイ」という軸において、「アート≠キタナイ」ではないという「公的な価値」に挑む、っていうポーズ。実際、ドイツ人キュレーターに「アートじゃない」と展示を拒否されてますねー。
まぁ、そんな「チン↑ポム」なんだけど、その後は「禁忌」「タブー」の取り扱いが、境界線そのものよりも、より「歴史性」「場所性」の問題にシフトしている、っていうことが見て取れます。ここ重要で、
ヒロシマの空をピカッとさせる
chim-pom.syncl.jp/?p=custom&id=13357616
気合い100連発
www.barks.jp/news/?id=1000072504
「広島」という「場所」で空をピカッとさせることの「禁忌」について、そして「禁忌」を「危険」とみなす社会的通念と対峙した時に、どちらが正当か、という二分法の文脈ではなく、対話によって、あたらしい可能性を想像してゆくスタイルをとってゆく
あるいは、大震災後の福島で、「被災者」がみずから「放射能最高」「もうちょっと浴びたい」と言ってしまう状況の、中央/地方の「禁忌」の捉え方の乖離について。
禁忌というものが、効果をもちうる場面とはどのようなものか、にスポットを当てれば、さまざまな方法があることを、ふざけつつも真面目に、いや、どっちかっつーとフザケながら、禁忌を、書かれることで「タブー」そのものを露わにするのではなく、境界領域のなかで、潜在力を持つものとして扱うスキルを見せつけてくれてます。これホント上手。
見習ってほしいですねー。
次は、
色のない虹 ほかけ
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6632
あー、百万回書き直し、とかいわれてますね。
でも、この人の作品はほとんど予定調和の構造だけでできてるんで、何回書き直しても同じようなものしかできないです。書き直しても上手になんかなれない典型ですね。
結実しない恋愛については、さまざまな書き方があるんだけど、
>針の穴を通すように生きることは難しい
なんて達観しちゃえる、いいかえれば、「私」⇔「あなた」のそれぞれに向かう恋愛のベクトルのすれちがいを、ステレオタイプな意味での結末に身を委ねられるほど、考えることに怠惰な作者は、おそらく何を書いても、おなじようなものしか書けないでしょう。
次行きましょうか。
6628 : 車窓の詩 安部孝作 ('13/01/14 01:00:48)
bungoku.jp/ebbs/20130114_976_6628p
6593 : ロマンス 黒髪 ('13/01/02 09:28:49)
bungoku.jp/ebbs/20130102_629_6593p
6617 : THE BOOK AFTER GUTAI ('13/01/10 15:46:38) [Mail]
bungoku.jp/ebbs/20130110_794_6617p
ありますねー。毎月、絶対あるんだよね、このアクションだけが書かれてるの。
七三キロにえぐられる ぐにゃりぐにゃりと 鐘がなり 平たく 延び縮みした思いが 頭をぶちつけ 眼より飛ぶ まどろみからはみ出す黒枝の 茂みの青い光をかきむしる
底に湧く赤い蟹の群れが屍肉を啄み咀嚼し 残った緑の輪廻群が浮き上がって月光を浴び赤児が生きることを是認するように呻くから 羊水の代りに下水が夜の底に流れ込んでいき 下水に浸された輪廻が幾億回も交叉して 創りだされていく怪物
輪廻の渦に巻き込まれ溺れかけてる 赤恥のクラッシュ
書いてる本人の脳みその中は、映像まで浮かんで、こりゃすげーぞ、みたいに思ってるのかもしれませんが、これほど、恥ずかしい文章ってそうそうないですねー
アクションをどんどん重ねていっただけでは、読み手は、まずもって興味を示しません。
これらは、アクションとテンションの区別がつかない典型的なオナニー作品といってもいいかもしれません。
テンション、って何?って話は、単純にいえば「読み手」に続きを読みたい、という思いのことなんだけど、それを生みだすための技術はさまざまで、そのなかに「人物にとってのリスク」ってのがあるんだけど、安藤元雄の「水の中の歳月」なんかは、「私」は作品中で指一本も動かしていないのに、読み手は、つねにハラハラさせられる、っていう構造。
これ、現代詩の中のテンションの極致だと思ってるんだけど、「指を動かしたら破滅かもしれない、でも指を動かさないと状況が打開できない、で、どうする?」ってゆう作品。
現代詩文庫に載ってるから、読んだうえで、次の作品を書いてもらいたいですね。
このアクション/テンションって括りをひとまずカッコにいれて、さらに文学理論によって構築されてきた「書き方」を一度、脇にどけて何もない空間から、手さぐりしてゆこうとする作品が
エチュード 1 右肩 ('13/01/12 03:15:16)
bungoku.jp/ebbs/20130112_909_6626p
構造的なものは、作品内のレスで挙げてるんだけど、
>それ、を聞いている。
という「現在進行形」を中心にして、周囲のざわめきを多層的に把握しようとする右肩さんの感性、あるいは、生成する瞬間をたえず照準をしぼって、環境を重層的に把握する紅月さんの感性
bungoku.jp/ebbs/pastlog/353.html#20121225_549_6574p
この二つの作品は、「現在」からみて、とても重要な作品となっています
構造的には、読んだところスッカスカで、短く切り込まれた単語が連結されてひとつのクラスターをつくってる。
これって他の人でもよく見る形なんだけど、ほかの作品では、この構造的にスッカスカなのは、受容美学における「空白」「不確定箇所」を読者が埋める、っていう行為を誘発しやすい。この構造をもっとゆるゆる〜って感じにすると、caseさんが黒髪さんへのレスでいうような
さまざまなコンテキストに勝手にくっついちゃう。愛とか夢とかもそうですよね。これに人称代名詞と指示代名詞をうまくつかって、リスナー個々人の個人的体験を投げ入れやすい作品にする方向でつくられてるのがJ-Popの歌詞ですよね。「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま」というサビで「ラブストーリーは突然に」なんて、まさにリスナーの個人的体験が放り込みやすい作りになってる。
って箇所になるんだけど、通常の「現代詩」なら、このゆるゆる感を許容しません。
で、何がいいたいかと言うと、右肩、紅月の構造は、受容美学の側から読むことを拒否している、ということがまずあります。
で、彼らの短いクラスターは、「空白」「不確定箇所」ではなく、「コード・シンボル」みたいなものとして「読者」ではなく「作者」に作用するのではないか、っていうふうに思っています。
そこがどうも新しいのではないか。
いや、これって「文極」以外の「現代詩」の世界ではむしろ当然、って感じなのかな?手帖だとか。ちょっとわかんないんだけど。
:朝、寝起きでトイレに入ろうと リンネ ('13/01/21 22:19:23)
bungoku.jp/ebbs/20130121_150_6646p
これ、困った作品ですよね。やたら面白い。
でも、ロダンの「考える人」と「小便小僧」のパスティーシュでは、批評性がどうもガクッと落ちるんですよね。空間ごとの展示にしてもホワイトキューブになのか屋外なのか、によっても作品の潜在的批評性ってのは左右されるし。この彫刻美術の歴史性ってのも俯瞰するとどうも批評の力が弱い。まぁ、このあたりは織り込み済みでやってるんだとは思うんですが。
あと、触れておきたいのは
水かがみ Touko Kamiya ('13/01/14 17:22:55 *1)
bungoku.jp/ebbs/20130114_998_6634p
遡及 zero ('13/01/22 03:39:11)
bungoku.jp/ebbs/20130122_153_6648p
くらいかな。
そんな感じですかね。
ちょうど、手元にあるロータスもなくなりましたし、とりあえず、ここでおしまいということで。
www.yutaka-trd.co.jp/fo-lotus.html
なにかあれば、下記の浅井のメールまで送ってください
rsb87919@nifty.com