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2016年6月分月間優良作品・次点佳作発表

2016-07-23 (土) 15:27 by 文学極道スタッフ

2016年6月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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熊本地震3ヶ月目・連続震度7と1900回(平川綾真智)

2016-07-19 (火) 13:30 by 文学極道スタッフ

(※この投稿には、損壊家屋などの画像が添付されています。)

熊本地震発生から3ヶ月が経ちました。二回の震度7を含めて熊本では7月14日現在までに1,900回に迫る地震が続いています。去年、日本で一年間に起こった地震の回数は約1,800回だったので未曽有の事態だと言えるでしょう。熊本県内に住むサイトスタッフ数名も被災し家が大規模半壊し生活に支障を来しているなど大変な状況です。けれども報道などを見ていると続いている熊本地震が既に風化して来ている現実に直面させられ危惧を覚えています。もしも、ここに現状を書くことによって少しでも多くの方が熊本地震のことに関心を持っていただけたら、という思いを込めて投稿させていただきます。

4月14日、熊本で前震と呼ばれる震度7の地震がきた日に私は鹿児島にいました。iPhoneからtwitterのリプライを読んでいた時に突然、画面が切り替わり「熊本で地震が起こりました後48秒で地震が起こります。」という表示が出て「ジシンデスジシンデス」と人工音が鳴り響くと同時に、大きな横揺れが来て本棚から本がドサドサ落ちてきました。私は眼病で視野を失っており左目が見えません。左側を、とにかく守りやり過ごしました。とても長い揺れで物が当たらないようにするのに必死でした。外では防災警報のようなものが鳴って注意を呼びかける車が走っていました。SNSやLINEで多くの方から「地震、大丈夫ですか?」というメールをいただき鹿児島では震度4だったらしいとのことや無事であることを発信しました。コメントやリプライには「お風呂場に水を直ぐに貯めてください」というものが多数つきました。この時は冷静さを失っていたこともあり、あまり意味が分かっていませんでした。災害情報を見てみると益城町や阿蘇を震源に震度7の地震が起こったという報道が為されていました。私は10代、20代を熊本で過ごしており大切な場所や友人、知人は熊本に集中しています。今でも頻繁に帰熊しています。真っ青になると同時に、震源地近くには友人が居ることを思い出し電話をかけました。電話は災害時の通信上の問題からか通じませんでしたがLINEだけは通じました。友人は何が起こっているのか分かっていない様子でした。電話むこうからは悲鳴や防災警報、地鳴りなど様々なものが聞こえました。鹿児島も余震で揺れていましたが比較にならない余震が来ているのだ、と分かり、無事を何度も確認すると同時に「お風呂場に水を貯めて」と訳が分からないままに連呼していました。直下型だったためでしょう揺れの前に爆発音のような音が鳴り、ずっと縦揺れが続いているとのことでした。「こんなことが起こるなんて」と友人は、しきりに繰り返していました。お風呂場に水を出すと真っ黒い泥水が出てきて恐怖が増し、すぐに蛇口をしめたとのことでした。その後の大きな揺れで友人は廊下で転倒してしまい車に逃げたとのことでした。大変な非常事態ですが大地震は終わったと思い私はSNS上で自身の無事や友人の無事を投稿しました。その日は眠れない夜を過ごしました。

4月15日その日は佐賀に出張しなければなりませんでした。新幹線が脱線しJRは使用できず福岡空港行きのキャンセル待ちをしていると友人や後輩から熊本城の画像や家の画像が送られてきました。熊本城の惨状には胸が裂ける思いでした。熊本市内では家の家財が散らばったけれども、その日のうちに多くの方が頑張って片付けた様子でした。震源地の近くの友人も市内の実家に避難したとのことでした。佐賀に着きホテルにチェックインする時、ロビーで多くの方がハイになっていたことを覚えています。昨日の地震について、お互い知らないであろう人たちが、いかに揺れたかについて妙な高揚と共に話していました。部屋に入って熊本の友人たちに電話すると皆が非常にテンションが高く普段、寡黙な友人さえも多弁に、その日のことを語ってくれました。地震の時は爆音がしてから揺れて、揺れ始めてしばらくしてからiPhoneが鳴ったこと、カラオケ店で機械が落下して来て危機一髪たすかったこと、など。益城町の友人や阿蘇の友人の無事をメールで確かめてから、その日は眠りにつきました。

4月16日深夜、熊本で本震と呼ばれる震度7の地震が起こります。ドーンという音がしてベッドから跳ね上げられ死を覚悟しました。iPhoneが「ジシンデスジシンデス」とけたたましく鳴っていました。大きな縦揺れでした。とても長く揺れが終わらずホテルの廊下から多くの人たちの叫び声が聞こえてきました。iPhoneには熊本で大地震が発生したことと佐賀での避難所が表示されていました。布団を被って崩れてくるかもしれない天井に備えました。揺れが少し収まったので友人に安否の連絡をしてみると「家が壊れた」というLINEが返って来ました。色んな方から「大丈夫ですか?」というLINEが入ってきました。すべてに返信することは無理な状況だったのでTwitterやFBに、その時の状況を投稿することにしました。イイネの表示が出るたびに、まだ自分が生きていて外と繋がれている不思議な感覚を得たことを覚えています。広島の方から「こんな揺れは初めてで凄く怖かった」というLINEが届き、どこまで揺れているのか分からなくなり大変な恐怖を覚えました。熊本の友人のこと大切な場所のこと、いろんなことを考えると共に自分は今日、生き延びられるのか大変不安になりました。ホテルはハリウッド映画のような大パニックに陥り大勢の人が外へ出ようと必死になっていました。佐賀は、その日最大震度が6弱だったとのことでホテルの高さで更に揺れたということを後から知りました。何度も何度も大きい揺れが来ました。左目が見えない中、深夜の暗闇の中を避難所まで行くことは難しく、その日は駅前の広場に避難して揺れが収まるのを待ちました。

次の日、一睡もできないまま着替えて出張先に向かいました。出張先の建物は損壊していました。現実のことと思えない衝撃的な光景に大変なショックを受けました。担当者の方が涙ぐみながら今日は中止せざるを得ないことを話していました。ホテルに戻る時も何度も縦揺れが来て、その度に死を意識しました。熊本の友人と連絡すると、熊本は道路が壊れ空港が壊れ住居の多くが倒壊/損壊し、皆が食べる物を確保することがやっとな状況とのことでした。お風呂に水を貯めることはトイレ用の水として重要だったんだということも知らされました。家財が倒れている画像が何人からも送られてきました。家具は壁などに器材で固定されていたのに壁ごと倒れていたりするなど大変な惨状でした。数分おきにiPhoneが鳴って縦揺れや横揺れが来ました。早くから地震酔いになり揺れていない間も歩く振動などで鼓動が早くなり物を食べようとしても吐き出してしまいそうになる状態でした。移動の間、阪神大震災経験者の友人や福岡の方を中心とする全国の方がSNS上から声をかけ励ましてくれました。何かあるたびごとにリアルタイムでSNS上に投稿し発信していきました。声が届くたびに、まだ生きていて声を見ることが出来ているんだ、と思うことが出来て頑張ろうと思えました。必死でした。思い出すと今でも恐ろしくなります。

それからは眠れない日々が続きました。スタッフの清水さんは大変な被害を受け、一時、県外に避難していました。同じくスタッフの麻田さんは軽傷も負っており、壊れた実家の前で御両親と車中泊を続けていました。やっと手に入れた一つのお弁当を御両親と分け合って食べていたり、海保の船でお風呂に入ったりと大変な状況でした。二人とも生きていることが救いでした。スタッフからは選考を今月は中止にしようという声をいただきました。けれども真っ先に選考を提出したのは清水さんでした。多くのことを考えさせられました。私も不安を抱きながら選考を提出しました。あの時いろいろと支えてくださったスタッフの皆に感謝しかありません。心配をいただいた投稿者の方にも感謝しかありません。本当に、ありがとうございます。

5月の下旬、それまで一日に約100回起こっていた地震の頻度も少し落ちてきたので私は友人たちに会うため帰熊しました。左目が不自由なことを心配して友人が車を出してくれました。熊本の街はブルーシートの家が大半で、損壊家屋や倒壊している家屋も目立ちました。瓦礫も、まだ手付かずの状態でした。道路も凹凸が気になり一ヶ月経って、この状況なのかと改めて起こっている非常事態を実感させられました。熊本城の建物が倒壊している姿や石垣が崩壊している現実は声が出ませんでした。個人的に思い入れのある商店街の店が倒壊していることも胸を痛めるばかりでした。神社やお寺などの建物は多くが倒壊か大規模半壊を起こしていました。地割れなども、まだ残っており、ただただ恐ろしかったです。益城町に行くと倒壊家屋が何十キロにも渡って続いていました。時折、献花がありました。益城町役場に勤めている後輩に聞くと、それでも地震直後より大分綺麗になっているとのことでした。地震直後の光景は想像も出来ず恐怖を覚え被災した後輩が夜ほとんど寝ずに公務に励んでいる姿に、ただただ胸が痛くなるばかりでした。生きていてくれて良かった旨を伝えました。後輩は「いつか飲みに行きましょう」と印象的な笑顔を浮かべていました。阿蘇に向かおうとしましたが雨で引き返さざるを得ませんでした。
その後、旅館「松葉」に行き熊本文芸誌の会に出席しました。一人ひとりの顔を見て生きていてくれたことに安堵感を覚えました。休憩時間に皆で地震の話をし続けました。避難所での過酷な生活、テント生活を続けている話、70歳を超えて車中泊を続けている話、地震の後は高揚状態が続き一種の躁に皆がなっていたことなど。過酷すぎる話を皆が笑顔でしていたことが妙に印象的でした。
そして中央街の下通り方面へと向かいました。街には「負けんばい熊本」と書かれた看板やポスターが、いたるところに貼られていました。街は大分、片付いており多くの店が営業を再開していましたが、よく見ると外壁が崩れ落ちていたり亀裂が入ったりしていました。新市街を抜けて「橙書店」へと行きました。「橙書店」は私も所属している熊本文学隊の本拠地で、さまざまな作家さんたちが常連客として通う隠れ家的な店です。カフェ・スペースも併設されていて様々な文学イベントが開催されてきた場所です。地震後、扉が開かなくなるなど被害が大きく、常連客の皆で直して営業再開することが出来たと聞いていましたが、実際に行くまで店主の久子さんは無事なのかどうか、とても不安に思っていたことを覚えています。お店に入って店主の久子さんの顔を見た瞬間、こみあげてくるものがありました。熊本文学隊のメンバーも何人か来ていて無事を確かめることが出来さまざまな思いが交錯しました。色んな話をしました。地震の前に爆音のような地鳴りがすること、地震の瞬間、電信柱が振られた鉛筆のようにグニャグニャ曲がって道路に打ち付けられていたこと。目の前で山肌が割れていくのを見たこと、夜になると地震がくるんじゃないかと思いお風呂に入れなくなったこと、など。皆が生きていることは奇跡に思えました。その日は夕食も「橙書店」で食べ、本もたくさん買い、イベントスペースに来ていた方にジャケットを作ってもらいました。眼のことなどがありボランティアでは足手まといになってしまう私が出来ることは熊本のお店でお金を使うことくらいです。観光客が、ほとんどいなくなってしまい収益が大幅に落ちてしまっている熊本ですが皆、復興に向けて前向きでした。相変わらず温かく優しい県民性に涙が出ました。

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6月に九州は集中豪雨災害が各所で起こりました。特に熊本は道路が冠水し腰まで水浸しになりながら家に帰らざるを得なくなる地域があるなど大変な状況でした。清水さん、麻田さんも地震が続く中での豪雨で大変な困難な思いをされていました。熊本は未だ仮設住宅が間に合っていないため多くの方が大規模半壊したままの家屋でブルーシートをかぶして暮らしていたり、倒壊した家屋の敷地にテントを張って暮らしています。雨漏りで天井が落ちてしまったり夜じゅう二階に溜まってくる水をバケツで掬っていたなど大変な話を多く聞きました。車が浸かってしまい廃車になって車中泊が出来なくなった人もいました。益城町や阿蘇は更なる被害が出てしまっていました。だんだんと皆の疲労も限界に達しつつあるのではないか、と思えてしまいました。瓦屋や重機会社は何百件待ちの状態もざらであり、なかなかブルーシートの問題は解決できないようでした。私は中学生の時に洪水に被災し町を失ったことがあります。被害を受けた友人の話を聞くたび気持ちが分かり胸が痛くなりました。

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7月になり地震の頻度は一日約100回揺れていた当初より、ずっと減って来ました。けれども未だ震度4が来るなど熊本は大変な状況です。ブルーシートの家屋も以前、多く、もうすぐ来る台風に不安を覚えながら日々を過ごしています。被災者の公務員の方は大変な中を復興に向けて公務に励んでいます。宇土市役所は地震で崩壊したので現在、体育館で公務を行っているそうです。熊本地震の風化を最近、ひしひしと感じます。先月、福岡の文学イベントに行った際、関東から来ていた方から「熊本は未だ揺れているんですか」と大変おどろかれたりして悲しい気持ちになったりしました。連続震度7は観測史上はじめての事態です。震度というのは7までしか表示がないので、どんなに大きく今まで無いような揺れでも「震度7」と表示されてしまいます。本震時は関東全域まで揺れているので震源地の熊本の生きている皆は奇跡としか言いようがありません。風化しつつある原因の一つに死傷者数が少なかったことが挙げられると思います。死傷者数が少なかったのは、前震で大半の人が避難済みだったからです。揺れが夜に来たことも大きいと言えるでしょう。照明器具が落ちて改修の目途が経っていない市民会館や棚が壁ごと崩落した各スーパー、熊本城など、昼に賑わう時間帯に揺れが来ていたらと思うとゾッとします。この投稿で何かを伝えたいというわけではありません。ただ少しでも風化しつつある熊本地震に関心を持っていただけたら、と思いました。乱文、乱筆になってしまいました。私は今回、自分が被災して初めて阪神大震災や新潟中越沖地震のこと、東日本大震災の時に胸を痛めながらも何もわかっていなかったことを知りました。自分を恥ずかしいと思いました。今、いろんなことに感謝する日々です。大分の別府の友人とも、しげく連絡を取るようになりました。前を向いて、これからも復興に向けて歩いていけたら、と思います。熊本が、もう揺れないように祈りながら筆を置かせていただきます。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
                      文学極道・代表代行 平川綾真智

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2016年5月分選考雑感(スタッフ)

2016-07-15 (金) 11:28 by 文学極道スタッフ

(スタッフ数名が地震被災、豪雨災害被災中のため作業が非常に遅れています。ご容赦ください。)

8855 : 鳥は鳥、君は君、だから君は絶対に飛べない。  泥棒 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160531_106_8855p
(−)わかりやすい比喩を扱いこなせていて作品にしっかり仕上げています。こういう分かりやすい作りだと破たんしてしまいそうですが成立していることが、まず凄い。ただし泥棒氏のハードルは上がっているので、もっとすごくなりそうだな、とも思ってしまいました。作品、十分よいはずなのですが。

(−)
>島民は呆然と死んだような目でそれを眺めていた
>私たちは今生きている、がしかし、魂はしなだれ、生を豊かに感じることがないすべて負という巨大な悪夢に支配されている
>しわがれた少年の声は、野鳥のさえずりとハーモニーを奏で
>朝露のようなみずみずしさを花々に与えた
この生/死 あるいは、正/負 というコントラスト
あるいは、しわがれた声/みずみずしさ という対比
このような「未開」の地におけるフィールドワークの記述については、80年代の「文化の解釈学」の一大テーマだったことを思い起こす必要がある
例えば、記述者において、
>島民は呆然と死んだような目でそれを眺めていた
と書くとき、「死んだような」とは第三者が客観的に記述しているように見せているが、その目が現地の人々にどのような意味を持っているのかが無視させているのであり恣意的である。
文化の解釈学では、この「こちら側」の文化の解釈では「死んだように」としか解釈できない「低位の文化」を、現地の人々の観点から当該文化の意味を考えてみることが目指されているもので、その成果は文化人類学の記述だけでなく、文学にももちろん浸透することが望まれる
>島に十年ぶりに新しい島民が来るらしい
というように隔絶された環境である文化においても、グローバルなシステムと接触している(というのが80年代以降の文化人類学のお約束)にもかかわらず、上位のような二項対立のように「負」の文化がその「島」において完結して定着しているように記述するのは、やはり幼稚な知性としか言いようがない。
>あらゆる負の状態これらの現象は一つの負の生命体を形成し、それぞれが社会性を保つようになる
>風の根源はあらゆる滞りが蓄積し、次第に熱を帯びてくる でも、うつむきの中から風は生まれない
要は、負の状態をデトックスしましょう、そうすれば「正」の状態になれますよ、ということらしいが、このように簡単に異なる文化を断定できればどれだけ「楽」だろうか、と思う
さて、簡単に「死んだような目」という「薄い記述」にしないために、ギアーツは「厚い記述」という概念を提唱しているのでそれを参照してほしい(以下wikiより転載)
>われわれは誰かから目くばせされても、文脈がわからなければそれがどういう意味か理解できない。愛情のしるしなのかもしれないし、密かに伝えたいことがあるのかもしれない。あなたの話がわかったというしるしなのかもしれないし、他の理由かもしれない。文脈が変われば目配せの意味も変わる。
>ギアツの考えではこのことは全ての人間行動に当てはまる。従って(先の例で言えば)目配せについてだけ記述する「薄い記述」と、行動と発話がその社会内で置かれている文脈を説明する「厚い記述」とは異なっている。ギアツによれば人類学者は厚い記述をしなくてはいけない

8850 : shima  シロ
URI: bungoku.jp/ebbs/20160528_034_8850p
(−)物語をここまで書ききるのは大変だと思います。ただ、詩には小説とは異なる物語の書き方があり、それを生かしていると感じました。外部からの参入者が物語を動かしていくのは常ですが、内部との距離感があまりない感じで、事件の規模もそれほど大きくなく終わっていくのが良かったです。

8854 : A Mad Tea Party  澤あづさ 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160531_104_8854p
(−)書いていて楽しかったんだろうな、と伝わってきます。作者は作り込みすぎたり読者を過剰に気にしすぎたりするのかな、と先月おもっていたりしたので、こういった作品の方が良いように思えました。タイトルもっと良いのがありそう。Madが、魅力をだしきっているかどうか。良い作品ですが。

8852 : 虫籠  おでん
URI: bungoku.jp/ebbs/20160530_093_8852p
(−)きちんと、まとまっています。一定以上もあります。独自性が、もっとあっても良いのかもしれません。

8841 : 廃者  zerz borz 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160520_912_8841p
(−)作品自体は面白いのにタイトルのネタバレ感は、詩情を高めているのか気になります。

8853 : とおる  fiorina
URI: bungoku.jp/ebbs/20160530_096_8853p
(−)読み始めた感触と読後の感触が、こうも変わるものかと驚きました。削れる部分があるけれど、そこを削ったらいけない部分を見定めていて純粋に尊敬の念を抱きました。

8848 : フェノ−ルフタレイン  fiorina
URI: bungoku.jp/ebbs/20160527_019_8848p
(−)
恋愛と化学、をシンプルに描き切る筆力が良い。
ゆうべ
空いっぱいのフェノールフタレインが
桃色に変わった夢を見た
冒されていく草原を
もう逃げられないふたつの心が
空の色に染まりながら 滅びた
というように、フェノールフタレインの実験に比べ、「恋愛」の部分がパラレルに描き切れていない(というか描こうとされず暗示にとどめられている)ことが作品を弱いものにしている
(−)ちょっと凄すぎる作品です。純粋に泣きました。ここまで直球なのに詩として心を打つこと、並大抵の作品ではできないことです。

8849 : 失語 (5)  李 明子
URI: bungoku.jp/ebbs/20160527_020_8849p
(−)書きたい内容と分かりやすい比喩の奥にある情感から、なによりも詩が込められていることが分かります。比喩の独自性を探ると名作になる気がします。

8847 : ドレスコードを闊歩する巨鳥の為の広告塔  鷹枕可 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160526_011_8847p
(−)
>博物学者がつぶさにも観察鏡を宛がう
と作中にあるように、文学、歴史などをごちゃまぜにひとつの作品に投げ込んでそれを客観的に観察しようとしたもの
もちろん、アマルガムな状態にとどめるのではなく
>深海を驕り綻ぶ百合
>想像の死と存続の血が総て均しくなり引力圏を慣性運動をする鉛球には一把の誤謬としての薔薇の指
というように、極端に離れたものを結びつける詩の技術も忘れられていない
だが、結局それは「結びつき」だけに終わってしまっている。
歴史的な物語を難解な漢字に変換し、しかしそれが荒唐無稽なイメージの耽溺に終わらせないために「博物学者」のように客観性のバランスをとる
その態度がこの作品を(あるいは他の作品もだが)退屈なものにしてしまっている
あらゆる分野を、難解な漢字に変換しては作品のなかに収集し「世界」を形作る行為が、こうも退屈となるのはなぜか
それは作者が漢字に変換しようとする際の事物のセレクトが、あまりにステレオタイプなものから行われているからであり、
>各々の多翼風車塔に砕け散った/尊厳を謳う革命家はやはり自己の尊厳死から遁れ得ない
>電気機関と磁気嵐、/自働の機械
そこには読み手の思考は、直線的なものに止まるしかなくなるからだろう
このような「蒐集」について、「類推」というずらしを用いるとまた違った風景が見えてくる
たとえば、バルトルシャイティスの概念である「アベラシオン」あたりがあるので参照にしてほしい
まずすべての物語の枠を設定してそこから微細に見てゆくのでなく、それぞれの細部を繋ぎ合わせて織りあわせてゆくこと
難読漢字と幻想の取り合わせの「ファンタスマゴリー」はなかなか魅力的であると思う

8813 : 危篤  あやめ 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160511_700_8813p
(−)
河野道代を思わせる作品。上質。中村鐵太郎の河野への書評がそのまま当てはまる
誰もが夢見るがのりださない冒険を企て、否定に否定をかさねてしかあらわしえないことをさらに否定して、しかもついに肯定にいたる至福とは取引きせず、空気にまぎれていく書記に同化しようとする(中村鐵太郎 「詩について」)

8827 : 死活  飯沼ふるい
URI: bungoku.jp/ebbs/20160514_783_8827p
(−)テーマに対して書き方を貫いたのが良かったです。表現の一つ一つは甘いところもあるのですが、読み進めていくうえでは問題ありませんでした。

8843 : 昨日死んでしまった比喩に添付する  赤青黄
URI: bungoku.jp/ebbs/20160521_938_8843p
(−)日の提示で多様性が出ていますし「昨日死んでしまった比喩」が意味することも十二分に分かります。ただし、それを深めきれていません。私のふるさとのことを思いながら読みました。もう少し時間をおいて距離感が作品から出てくる作品なのかもしれません。作者のこれからが健筆であることに敬意を払いながら読みました。

8836 : 敢えて彼に名前を付けるのはどうだろう  5or6 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160517_865_8836p
(−)振り切れていてよかったです。タイトルも興味を持てるものでした。ただ、心に残るにはもう一山あるとよいとも思います。

8812 : 地獄に雪が降っている そして俺は踊りだす  Kolya 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160510_683_8812p
(−)最初、タイトルで全てを言ってしまっているのかと思いました。重層的で心地よいリズムで、全てを押し切ってしまう力技は「出会えてよかった」感があります。

8835 : 飛翔  月うさぎ 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160517_851_8835p
(−)作者の作品は書きたいことは分かるのですが、それがいつも、これまで書かれてきた言葉でこれまで書かれてきたように書かれているので、残りません。何か独自の言葉や比喩を見つけられると良いのですが。これまで書かれてきた言葉を知るためにも読書してみて、それまでに無かった言葉を見つけていくことが大切なのかな、と思います。

8837 : 愛の欠片  おでん
URI: bungoku.jp/ebbs/20160518_875_8837p
(−)悪くはないと思う。向き合っている主題を更なる飛躍と共に読みたい。

8825 : 菫(すみれ)  石村 利勝 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160514_774_8825p
(−)旧仮名遣いさえなければ良い抒情を持った繊細な作品だと思いました。旧仮名遣いが非常に勿体ないです。良い作品なのに。

8830 : 跳躍  石村 利勝 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160516_823_8830p
(−)既視感に富んだ作品であり作者だからこその表現や独自の作品としての高揚感を見つけにくい部分があります。過去の名作を超えるだけの作者の独自な作品を読んでみたいと思いました。作者には、そんな作品が書けると思っています。

8822 : きっと楽しい生活  赤青黄 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160513_743_8822p
(−)淡々と思ったことを書いているようですが、きっちりと詩に落とし込む技術が使われていると感じました。内容も引き込まれるところがありよかったです。
(−)作者の住んでいるところを知ってしまったこともあり、とても作品には共感する部分がありました。ただ詩集なら威力を発揮しても単作品としてなら背景を、この作品で伝えきって観賞することは難しいのかもしれない、と思いました。作者の先は、とても良い作品ばかりなのだと思いながら多くを考えました。

8811 : 羞明  澤あづさ 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160509_645_8811p
(−)音の流れで残る部分を残らなく、残らなくて良い部分が引っかかるようになってしまっていることが勿体なく思いました。良い作品のはずなのに。

8809 : 悪目くん episode1  ヌンチャク 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160509_622_8809p
(−)作品内で悪目くんが罵倒している詩を作者が書き、それを自分で罵倒しているという姿は二律背反性を抱える自己像にも思えます。詩人の自分を召喚してしまい対峙し罵倒してしまうこと、その恐ろしさをエンタメ化できていると思えました。ただ詩人を呼び出すまでが甘いです。悪魔くんのパロディとして、もっと作りこむと後の展開に活きたのでは。

8795 : 純粋おっぱい  蛾兆ボルカ 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160502_424_8795p
(−)とぼけた感じですが、テーマについて書ききっている感じがしました。アクセントはありませんが、それが気にならない書き方でした。

8787 : Radiances  田中恭平 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160502_388_8787p
(−)強い言葉はないのですが、強い感情が伝わってくる作品でした。言葉の響きやリズムも完璧で、読めてよかったと思えました。

8796 : 埋没  本田憲嵩 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160503_439_8796p
(−)良い作品です。日々を生きていて、そこにある感情を見つめている。だからこそ生き辛いだろう生活の中での作者が浮き上がり見事な詩情を放っています。

8789 : Darryl  アルフ・O 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160502_391_8789p
(−)いろいろなことを思いました。上手いんですが最後の口調のまとめ方が引っかかります。効果を薄れさせてます。作者自体は上手くなっています。

8786 : 詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日  田中宏輔 
(−)短い日ほど良いです。長い日は長さに住みを見出せず、ただの日記と区別がつかない箇所も多いです。
(−)緊張と弛緩が上手すぎます。

8790 : せっしょん  湯煙 
URI: bungoku.jp/ebbs/20160502_394_8790p
(−)この作品、もっと面白くなると思いました。推敲したものを読んでみたいです。すごく面白い作品なのでは。
(−)楽しい作品でした。よく練られていると思います。

8791 : 弓張月  芥もく太
URI: bungoku.jp/ebbs/20160502_396_8791p
(−)とても良い作品です。丹念に書かれていてレトリック以上の人間的詩を紡げているのではないでしょうか。
ただし、
 いや逆に
は無い方が効果的に詩が進むと思います。

8793 : ヒカル現詩 ポエ爺歌留多  ヌンチャク
URI: bungoku.jp/ebbs/20160502_413_8793p
(−)タイトルが凄いですね。このタイトルを一生懸命かんがえて書いた作者には敬意を払いたいです。

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2016年4月分選考雑感(スタッフ)

2016-06-29 (水) 15:29 by 文学極道スタッフ

(スタッフ数名の地震被災、集中豪雨被災中のため作業が非常に遅れています。ご容赦ください。)

3.8784 : 手紙  Migikata ('16/04/30 23:36:40)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160430_318_8784p
(一)人が話すということは生を確認してしまうということであり綴る余裕があるということは知らず知らずに日常という平和に浸りきっていることを実証するということでもあります。分かりやすい比喩で構成された見事な技巧。
(一)どこかで言葉が交わされるのを避けるような、「お菓子の国」と「死者の国」の接触を望まないようにして投函される印象を与えるのは、おそらく「僕」が「君」へとかける言葉そのものを持っていないからだろう。

8774 : あの街この街その街  泥棒 ('16/04/23 21:54:01)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160423_132_8774p
(一)最後に、こう持っていくのか、と。途中のグダグダ感がまるで計算のようにも無理やり作られているので再読さえしてしまいます。

16.8776 : 教室  おでん ('16/04/27 16:20:39)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160427_228_8776p
(一) 缶コーラって表現、新鮮でした。

8755 : a mad broom  mitzho nakata ('16/04/13 22:29:57 *7)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160413_916_8755p
(一)誤字や怒りがリアルに詩情を挙げているので良い作品になっていると思います。
作者の中には多くの偏りがありますが、それが孤独さを決定的に詩に変えていると思います。

8767 : 混沌のクマ  尾田和彦 ('16/04/19 20:12:02 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160419_014_8767p
(一)地震の後に読み起こされた記憶なのかもしれない。読み物としても目撃談、体験談としても人間ではないものへ変容してしまったことで混沌を見事、詩に変えている。

2.8783 :血盆経偽典白体和讃   澤あづさ ('16/04/30 18:28:58 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160430_312_8783p
(一)本作のタイトルが良いのかどうか分かりかねますが「あたしが歌えば罪だから詩にした。」という本文と噛み合わせが悪かったタイトルよりは良いということは分かります。十分な力作ですし、やりたいことを出来ています。ただ作者は職人であるということと、そのことがこれからの作品に、どのように作用していくのかが気になりました。言ってしまうと文学極道での基準、優良を獲れるかどうかで書いていないか非常に気になりました。作者がやりたい芸術、そして模索し打ち立てていくであろう芸術に関しては、これからを見て判断していく他はないのかもしれません。もしも読者の視線や選者の視線を過度に意識しているのであれば、そういう狭い世界にいるのはもったいないと思います。自らが打ち立てていく芸術を見せつけて評価は、それに付随し結果として後年、与えられていけば良いのだと思います。賞的な側面を過度に意識しすぎて作品を作っていないか、気になりました。きっと、そうではないと思いますし、これから作者独自の面白い作品を作っていけたら素晴らしいことなので次回作も、とても期待しています。なんだかんだで良い作品だと思います。
(一)言葉の乱痴気騒ぎや痴話喧嘩を眺めつつ、このテクストがこうも「読めない」のは、「原文」がそもそもめちゃくちゃなのか、それとも「訳者」が下手クソなのか皆目わからん、というジレンマに捉えられる

8785 : 早漏とか爆弾とか距離とか友達とか時間とか  泥棒 ('16/04/30 23:58:04)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160430_321_8785p
(一)薄さを前面に押し出していて、それが今回の扱っている性風俗産業の女性で構成することが出来ているのかどうか。
三連目から技巧の面白さが見えてきましたが、最終行にかけて萎んでしまったことが気になります。
(一)最初はタイトルが勝っている感じでしたが、最後にうまくまとまっています。リアルかどうかは個人的には気にならないのですが、読者の「リアルだと思うこと」を引き出すという意味で、こういうテーマも面白いと思いました。
(一) 詩を書く描写がなかったので、おっと思いました。あいづちのとことか、すごく面白いです。

8739 : 風  玄こう ('16/04/05 22:48:43)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160405_741_8739p
(一)一連目などが特に良いです。作者は独自の世界を、きちんと独自に創造することが出来ています。最後のフォルムには疑問が残りました。

8757 : 雨の詩 三連  空間工房  玄こう ('16/04/15 02:10:37 *6)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160415_939_8757p
(一)新たな場所を目指し書かれていて成功もしていそうです。最後の方にいくにつれて、とても面白くなり詩情があふれていくので最初の方の捕まえ方に、もう少し工夫がいるのかもしれない、と思います。
(一)絵的な詩は好きな方ですが、それだけに三つ目が惜しいと感じます。どうしてもパワーダウンして感じられますし、一作ずつとして勝負してもよかったのではないでしょうか。

8744 : 【祝エンタメ賞受賞!NCM参加作品】君はポエム。  ヌンチャク ('16/04/07 05:27:49)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160407_761_8744p
(一)エンタメに特化していて上手に仕上げていると思います。
(一)楽しかったです。どうしてもくどくなってしまう書き方ですが、さらっと読ませる工夫がされていたと思います。

8749 : 九月の草  加賀 静 ('16/04/08 05:01:11)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160408_786_8749p
(一)これまでに語られ使い尽くされた言葉での比喩に敢えて取り組んでいる姿勢は、ここまで来ると心に訴えてくるものがありました。最後の行は、しかし流石に平易です。意味以上に平易に綴りが捉えられてしまうことは勿体ないので、ここだけでも独自の新たな比喩で綴っても良かったのかもしれません。

8740 : 供物  北 ('16/04/06 01:44:15)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160406_745_8740p
(一)いくつもの隙があるのだけれども、それが行間として機能している。
とても勉強になった。
(一)突き抜けて書ききっていると感じました。技法もちょうどよく散りばめられていて、好きです。

8754 : ノウサギとテン  シロ ('16/04/13 18:17:54 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160413_908_8754p
(一)きっちりとまとめてあります。しかし最終連、説明のようです。
(一)ここまで丁寧な作品はなかなかないと思います。リズムや読後感もよいと思います。ただ、印象に残らない人も多いと思います。どこかに言葉の強度を感じさせると、さらによくなるのではないでしょうか。
(一)美しい作品ではある。一連目の
>それは自らの存在を柔らかく消滅させるように、入念に雪面に修辞する
>パズルのようにカムフラージュされた痕跡を静かに追い いくつかの狡猾なトレースを残し、残された隙間へとダッシュする
生態系へのオマージュを含んでいて、今月の投稿作品のなかで最も優れた描写の一つだと思う。
しかし、その視線は、作品が続くごとに、内在するテーマである「ランドエシック」の概念から逸脱する。土地倫理から抜粋すると、
>生態系を重視する土地倫理においては、人間の利益のみを重視した土地利用は批判される。倫理はその土地に生きる人間と動植物の関係全体に適用されるべきであり、土地倫理は、ヒトという種の役割を、土地という共同体の征服者から単なる一構成員へと変える
この征服者→一構成員 というランドエシックの流れからの逸脱。
それは、
>稜線に沈みかける夕日に涙することもない
>厳しさと激しさと子への愛だけにすべてをささげたテン
というように、捕食者であるテンの、捕食することのできない「弱さ」にたいして、自然の征服者としての「書き手」が過剰な感情移入を許してしまう文章に見え隠れする
その姿は
>「はかなく」も「美しい」
というように滅びるものとしてあり、テンを見つめるまなざしは、
狩人としてでなく、一歩間違えば、滅びる生物を「保護」しなければならない、と考え自然に介入するエゴイズムをむき出しにしかねないものである
一連目の秀逸さと、それ以後の自然へのまなざしの弱さがこの作品の特質だろう

8780 : 雨の日曜日  キッド ('16/04/29 18:14:41)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20160429_293_8780p
(一)充分、気になる作品です。

8779 : いくつかの秋の詩篇  シロ ('16/04/29 01:05:54)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160429_272_8779p
(一)力作です。最後やタイトルなど詰めの甘さも目立ちます。
(一)シロさんの作品は、ぼくの中では揺るぎのない価値を持ってます。
人間を取り巻く自然界を描出する的確なデッサンがメタファとして
の力を同時に備えていて、現代社会にとって必要な文学の可能性を
拓いていると思います。
同じようなモチーフが繰り返され、少し退屈だ、とみる向きもある
かもしれませんが、ジョルジュ・モランディという静物画描く画家
がかつていました。彼も繰り返し同じモチーフを描く作家でしたが、
ぼくは同じような魅力を感じています。
芸術家と職人が一つの人格に同居してしている、とでも申しましょ
うか。微妙な光のさし方、見る角度の数%のズレで世界を表現して
見せる。そういったスタイルや態度といったものがすでに詩的なも
のの属性のようにぼくには感じられます。

8743 : 午後の町で  湯煙 ('16/04/07 00:48:24 *10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160407_756_8743p
(一)やりたいことは分かるし出来ているとも思います。だからこそ、あと一歩が必要だと思いました。 最後の連もうちょっと密度があっても単純に量的に増やしても良かったのかな、と思いました。 すごく残るんですけれども惜しいです。
(一) 口語で、話すように書いた方がおもしろいかもしれませんね。

8746 : 春から夏へ、聴こえくる、  鮎 ('16/04/07 22:36:44 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160407_771_8746p
(一)悪くないです。ただ最後の「海」は必要でしょうか。

8772 : 火葬  ねむのき ('16/04/23 01:23:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160423_107_8772p
(一)比喩と素材と単語と作品内で起こった出来事すべてが独自性はないので、もう一歩読みたい欲求にかられます。独自性はなくても、ここまで読めるということは素敵なことだとは思います。
(一)迷いましたが、完成度の高さに優良としました。何か新しい試みをしているわけではないのですが、世界観もフレーズもよくまとまっていると思います。

46.8736 : 詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日  田中宏輔 ('16/04/04 10:52:30 *5)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160404_722_8736p
(一)「洗濯機の夢。」などは単体として善い作品になると思います。ただ、説明になっている個所や、箸休めに見えてしまう日もあります。それも使いようなのでしょうが、これだけ長いとそこで読むのをやめてしまいたくなってしまうものです。果たして最後まで読んでほしいのか、読んでほしいのならば別のやりようがあるのではないか、と感じました。
(一)>連続する実数においては、「隣の数」というよりも、「隣」という概念自体が無効で  あるということに。しかしながら、隣り合うことなく、数が無数に連なり合うという風景は、もはや実景をもつ、現実性をもったものでもないことに。このことは、つぎのことを導く。すなわち、実数は、じつは連続などしていないのだと。実数には連続性など、はじめからなかったのだと。というか、そもそものところ、数自体も現実には存在などしていないからである。したがって、連続する実数の隣は空席なのである。すなわち、連続する実数においては、数と数のあいだには、空席が存在するのである。つまり、数と数のあいだには、数ではないものが存在するのである
>ぼくは言葉なんだけど、ほかの言葉といっしょに、ぎゅーぎゅー詰めにされることがある。たくさんの言葉の意味に拘束されて、ぼくの意味が狭くなる。まばらな場所にぽつんと置かれることもある。隣の言葉がなんて意味かわからないほど遠くに置かれることもある。ぼく自身の意味もぼくにわからないほど
ここで行われているのは、「ぼく」のフィクション性の剥奪である。
もちろん、このような「日記風」の作品は「ぼく」の思考の流れが文面通りしんじられるように求められている。でも、「詩」をテクストとして読むことをしている「読み手」にはそれが誤解であることは、あきらかである。
ハンドルネーム「田中」が書いた文章であり、そこで語り手としてふるまうのは田中ではなく「ぼく」であり、フィクションである
しかし、この作品では科学的・絶対的な「数」という連続性の概念が「空席」により無効化され、任意的に選ばれた50音の連なりである隙間だらけの「言葉」がその「空席」を埋めるように「ぼく」を「ぎゅーぎゅー詰め」にする。
ここでは、身体的な感覚に訴えかけるのに注目する必要がある
詳しくは書けないが、ここでの企図は虚構作品の存在化、だろう
虚構の人物の不確定性を、「数」などの「客観的な基準」も不確定であることをまず告げ、
そののちに不完全な言葉をあたかもその不確定性を埋めるように身体的感覚を「体感」するように「稠密」に書く
この作品を読むにはまず、「語り手」が「フィクションを語る」ようにしながら、いつのまにか「フィクションについて語る」「実存としての位置を占める作者」のふるまいへと知らず知らずに立場を変えているのをわき目でとらえること。
そして、キャラ化された「ぼく」の経験が、読み手の価値観の揺すぶりつつ、その揺さぶりをあえてキャラ化された「ぼく」の経験にとどめるようにテクストとして読み、テクストとしてのフィクションが、読書行為としてのノンフィクションである自身の経験に介入してきたことを許す「書き手」のテクニックを堪能すること。
そののち、「読書経験」と、その経験を踏まえてキャラ化された虚構作品の「読み方」にいかに差があるのかを「読み手」として語る事。
あやうく「テクスト」として読む、という行為そのものの無効化に騙されそうになりながらこの作品を読む、という贅沢はなかなかほかの作品では味わえそうにない

8773 : 今日のいまあたり  園里 ('16/04/23 16:46:06)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160423_121_8773p
(一)レッサーとして、とても優秀な作者の作品。作者は、こういう作品なのか、と高揚しながら読みました。
悪くないです。もっと面白くなりそう。
俯瞰の視点で他者の作品のように鑑賞し推敲できたら、もっと面白くなりそうです。
(一) 押し付けがましくない所に好感を持ちましたが、それがそのまま取っ付きづらさにもなっているような気がしました。

8753 : 骨董屋で  湯煙 ('16/04/11 01:52:43 *53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160411_869_8753p
(一)タイトルに見合っただけの質量ある本文が魅力的です。しかし始まりの言葉はタイトルなどで言い尽くされていることの反復に思えます。
(一)思考の拡散具合が良いと思います。

8745 : ある男  李 明子 ('16/04/07 18:08:56 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160407_768_8745p
(一)一連目の奥底から響いてくるような感情の渦に惹きつけられます。最初の方は描写もあって独特な視点が光っています。四連目から予想の範囲に留まるようになり五連目以降は説明的な蛇足の部分があったのではないか、と思ってしまいました。四連目までで煮詰めたら作者にしか書けない傑作が生まれるように思えました。

8730 : 逍遙  鮎 ('16/04/01 21:27:23)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160401_641_8730p
(一)一連目や全体の空気感は素敵なものがあると思います。言葉の運びや観念を全て説明してしまっているために詩としての奥行や読解の幅が狭くなっています。説明ではない言葉選びをしていったら抒情的な作品が現出するような気がします。今後が楽しみです。
(一)色々、試行錯誤しながら詩作に励
んでおられる様子が筆致から十分に伝わってきます。

36.8748 : 帰郷  zero ('16/04/08 03:47:46)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160408_779_8748p
(一)シンプルにまとまっていますが、どうしても説明のようになっている点は気になります。どこまで隠すのか、も問題になるでしょう。
(一)いつも戸惑います。論理
性が高すぎるという事が、欠点になっている場合が多いからです。
イメージの入りこむ隙間を、塞いでしまう。
その論理の緻密性が、よい方に働く場合と作品を台無しにしてしま
っている場合があると考えています。
この「帰郷」という作品は、どちらかと云えば良い作用を生んでい
ると思います。
(一)>山において人間と自然はまったく等しい
>人間も自然もともに循環する精神的原理
このような文章を書いてしまいたい気持ちは、誰にでもあるだろう
都会/自然。
しかし、このような単純な二項対立の図式のなかに自分をあてはめたくなる誘惑を断ち切る事こそが「現代詩」には大切なことではないか。
たとえば、環境の哲学についてかかれた水野邦彦の言葉を参照にしてみよう
公害もヒートアイランド現象もまぎれもない現代文明の産物であり,それに嫌気がさして原生的自然をもとめる現代人の指向性も,現代文明の産物ではないか 。
人間にとっての自然とは、じつは手つかずの自然、原生的自然ではなく,「人間化された自然」にほかならず,「人間は自然全体を再生産する」のだから「自然は人間の作品」というべきである 。したがって現代人が指向する「自然」 は ,現代人の欲求にこたえるべく加工された「自然」でしかない。 原生的自然は人間の統制をこえた「荒々しい自然 」であり,そのなかでは人間は生きられないであろう。人間は原生的自然ないし本源的自然と調和しうるものではないのである。私たちはどれほど抽象的には手つかずの自然 にたいする憧憬があるとしても,好むと好まざるとにかかわらず、じっさいには現代文明のなかでしか生きられない。現代人が欲する「自然 」とは、自分たちの生活に潤いをあたえてくれる箱庭的自然 ,飼いならされた自然 ,現代の社会的制約のなかで 「人間化 された自然」 にほかならない。人間にとって自然はもはや 「人間化された自然 として立ち現われる以外にない。人間が経験する自然も,脳裏に描く自然も, そして憧憬する 自然も、いずれも「人間化された自然 」なのである。
この作品では、「自然」は
>己を縛るものをすべて引きちぎった
というように、自分にとってだけ心地よい空間でしかない。
その自分の快適さ(機能性)を基準にして
>山において人間と自然はまったく等しい
>人間も自然もともに循環する精神的原理
とかく。自分にとっての機能性を、精神原理にまで拡張してその原理を
>まったく同一の世界の遺伝子を共有しながら
と世界性にまで押し広げてしまう心性は、「現代詩」の求めるものとは程遠い

8769 : ネズミと暴君  アルフ・O ('16/04/19 23:23:54)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160419_022_8769p
(一)わかりやすい比喩が広がりを持って展開をスムーズに運んでいきます。
展開に意外性があるわけではないので単語選び(「ネズミ」「暴君」など)を、もっと更に独自性を持たせると作品強度が上がり再読性を持たせていくのではないか、と思います。

8770 : 春  のかげ ('16/04/20 19:25:08 *2)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20160420_052_8770p
(一) 魚群よりも乱れてる足並み。でも魚群みたいにぶつからない群像。
この出だしは非常に興味深く読みました。逆説性との犇めきを言語で体現できており昇華することが出来ています。しかし、その後の体言止めの連続性や薄さが詩のまとまりとしてのバランスを崩していることが気になりました。三連目の魚から離れていったところも気になります。書きたいことが、しっかりと分かる作品なので推敲してみていって欲しいと思いました。

8781 : 春  熊谷 ('16/04/29 19:40:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160429_298_8781p
(一)この作品は「標本」が出てきてからは詩としての締りが出てくるのですが、それまでの心の揺れが、そのまま作品の揺れとして出ているように思えます。最後にかけて良い作品なので前半の方が散漫になっていないか、どうか推敲して欲しいな、と思いました。もっと良い作品になりそうです。
(一) 毎回ラストになんとなく希望的なものを持ってくるなあ、と思っていますが今回の作品では読んでいて強烈な違和感として残り、それが良いことか悪いことか判断が難しかったです。最終的には、深みが増して良いのかなぁ、と考えるに至りました。この作品は「標本」が出てきてからは詩としての締りが出てくるのですが、それまでの心の揺れが、そのまま作品の揺れとして出ているように思えます。最後にかけて良い作品なので前半の方が散漫になっていないか、どうか推敲して欲しいな、と思いました。もっと良い作品になりそうです。
(一)今まで作者の作品は一顧だにするに値しないという感じを持っていました。つまり彼女は詩人ではないと。
ですが、この作品に関しては「注目」していっても良いのかなぁ。
という印象を持たせてくれる要素は感じ取れました。
それはワードとワードの接続の仕方やそのセンスですね。
詩的なイメージを表現するコンテクストの構成方法というものや、
接続表現のちょっとしたニュアンスの使い方といったものは、教え
られて獲得できるものではない。

8735 : 傷官のほし  stay熊 ('16/04/04 03:04:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160404_720_8735p
(一)何かが生まれだしそうな作品の内側にある激情が伝わってくるようで迫力に飲まれそうでした。それがエンタメの角度も持っており、一作品内に全てが収まりきらなかったようにも感じられました。収まった時に傑作になるように思える作品でした。

8737 : サクラキライ  あまやま想 ('16/04/05 18:52:59)  [URL]
URI: bungoku.jp/ebbs/20160405_738_8737p
(一)桜は、どうしてもハードルが高くなってしまうので書きたいことは書けているのですが、ハードルを越えられているかどうか疑問が残りました。

8782 : 春花  月うさぎ ('16/04/30 03:19:52)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160430_307_8782p
(一)書き始めて間もないだろう作者の作品。花の名を特定せずに書くという挑戦をしている。最後の「大和のこころをわしづかみ」は、もっと別のものがあると思えた。
(一) ここまでベタにやるなら、韻律もベタに七五でそろえたら面白いのかもしれません。

5.8775 : 誕生日の詩  ねむのき ('16/04/26 14:03:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160426_163_8775p
(一)>確かに冷静にみるとキモいですね
と作者の言う通り。
ちっぽけな「僕」の死、あるいは僕の存在の抹消が決定的になった瞬間に
>7階から墜落しながら
>世界はこんなにも透明で
>きれいだったと
>ちぎれた星座のように
>さいごに叫ぶだろう
「世界」や「星座」への見方が一変し、
>僕たちが、祈りを捧げるべきひと
に承認され、僕の行為が肯定される、というような筋書きははやり気持ち悪い
(一) ハッピーバースデイ。青白い牛乳って、腐ってません?
>青白い牛乳に、星は
>まるで魚のように
>ふらふらと漂っていて
  ここ、意味が分かりませんでした。

8756 : 逃避  月うさぎ ('16/04/14 15:49:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160414_927_8756p
(一)ニ連目と最終連は、書かなくても他の連からあふれていることなので別の綴りをした方が膨らむのかな、と思いました。またタイトルを含めて一つひとつの比喩単語が独自性がないです。使い古された比喩を使われてきたイメージのまま使っているので、ハードルが上がってしまい、そのハードルを越えることが出来ていません。作者の作品には書き始めの方特有のものがあり、それには好感しか持てません。たくさん書いて、いつか傑作を書いて欲しいと思っています。

8.8778 : 風の電話  紅茶猫 ('16/04/29 00:49:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160429_271_8778p
(一) 一行目、素晴らしい発見。

24.8768 : 無をゆく舟  ハァモニィベル ('16/04/19 23:14:46)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160419_021_8768p
(一)これからどうなっていくのか、という作品だと思います。形を維持したまま、言葉を洗練させていけば、良い作品になるのではと思います。

8759 : radiance part 1  田中恭平 ('16/04/16 00:22:41 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20160416_946_8759p
(一)タナトスの使用が非常に気になりますが、存在への恐れと不安が伝わってきます。新しくなくてもよくて、それを詩にし続けることには意味があると思います。
(一) 最後の方、面倒くさくなったのか、それともブロックごとに主体がかわっているのか? 判断できませんでした。

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2016年5月分月間優良作品・次点佳作発表

2016-06-25 (土) 00:43 by 文学極道スタッフ

2016年5月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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