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熊本地震3ヶ月目・連続震度7と1900回(平川綾真智)

Posted By 文学極道スタッフ On 2016-07-19 (火) @ 13:30 In 未分類 | Comments Disabled

(※この投稿には、損壊家屋などの画像が添付されています。)

熊本地震発生から3ヶ月が経ちました。二回の震度7を含めて熊本では7月14日現在までに1,900回に迫る地震が続いています。去年、日本で一年間に起こった地震の回数は約1,800回だったので未曽有の事態だと言えるでしょう。熊本県内に住むサイトスタッフ数名も被災し家が大規模半壊し生活に支障を来しているなど大変な状況です。けれども報道などを見ていると続いている熊本地震が既に風化して来ている現実に直面させられ危惧を覚えています。もしも、ここに現状を書くことによって少しでも多くの方が熊本地震のことに関心を持っていただけたら、という思いを込めて投稿させていただきます。

4月14日、熊本で前震と呼ばれる震度7の地震がきた日に私は鹿児島にいました。iPhoneからtwitterのリプライを読んでいた時に突然、画面が切り替わり「熊本で地震が起こりました後48秒で地震が起こります。」という表示が出て「ジシンデスジシンデス」と人工音が鳴り響くと同時に、大きな横揺れが来て本棚から本がドサドサ落ちてきました。私は眼病で視野を失っており左目が見えません。左側を、とにかく守りやり過ごしました。とても長い揺れで物が当たらないようにするのに必死でした。外では防災警報のようなものが鳴って注意を呼びかける車が走っていました。SNSやLINEで多くの方から「地震、大丈夫ですか?」というメールをいただき鹿児島では震度4だったらしいとのことや無事であることを発信しました。コメントやリプライには「お風呂場に水を直ぐに貯めてください」というものが多数つきました。この時は冷静さを失っていたこともあり、あまり意味が分かっていませんでした。災害情報を見てみると益城町や阿蘇を震源に震度7の地震が起こったという報道が為されていました。私は10代、20代を熊本で過ごしており大切な場所や友人、知人は熊本に集中しています。今でも頻繁に帰熊しています。真っ青になると同時に、震源地近くには友人が居ることを思い出し電話をかけました。電話は災害時の通信上の問題からか通じませんでしたがLINEだけは通じました。友人は何が起こっているのか分かっていない様子でした。電話むこうからは悲鳴や防災警報、地鳴りなど様々なものが聞こえました。鹿児島も余震で揺れていましたが比較にならない余震が来ているのだ、と分かり、無事を何度も確認すると同時に「お風呂場に水を貯めて」と訳が分からないままに連呼していました。直下型だったためでしょう揺れの前に爆発音のような音が鳴り、ずっと縦揺れが続いているとのことでした。「こんなことが起こるなんて」と友人は、しきりに繰り返していました。お風呂場に水を出すと真っ黒い泥水が出てきて恐怖が増し、すぐに蛇口をしめたとのことでした。その後の大きな揺れで友人は廊下で転倒してしまい車に逃げたとのことでした。大変な非常事態ですが大地震は終わったと思い私はSNS上で自身の無事や友人の無事を投稿しました。その日は眠れない夜を過ごしました。

4月15日その日は佐賀に出張しなければなりませんでした。新幹線が脱線しJRは使用できず福岡空港行きのキャンセル待ちをしていると友人や後輩から熊本城の画像や家の画像が送られてきました。熊本城の惨状には胸が裂ける思いでした。熊本市内では家の家財が散らばったけれども、その日のうちに多くの方が頑張って片付けた様子でした。震源地の近くの友人も市内の実家に避難したとのことでした。佐賀に着きホテルにチェックインする時、ロビーで多くの方がハイになっていたことを覚えています。昨日の地震について、お互い知らないであろう人たちが、いかに揺れたかについて妙な高揚と共に話していました。部屋に入って熊本の友人たちに電話すると皆が非常にテンションが高く普段、寡黙な友人さえも多弁に、その日のことを語ってくれました。地震の時は爆音がしてから揺れて、揺れ始めてしばらくしてからiPhoneが鳴ったこと、カラオケ店で機械が落下して来て危機一髪たすかったこと、など。益城町の友人や阿蘇の友人の無事をメールで確かめてから、その日は眠りにつきました。

4月16日深夜、熊本で本震と呼ばれる震度7の地震が起こります。ドーンという音がしてベッドから跳ね上げられ死を覚悟しました。iPhoneが「ジシンデスジシンデス」とけたたましく鳴っていました。大きな縦揺れでした。とても長く揺れが終わらずホテルの廊下から多くの人たちの叫び声が聞こえてきました。iPhoneには熊本で大地震が発生したことと佐賀での避難所が表示されていました。布団を被って崩れてくるかもしれない天井に備えました。揺れが少し収まったので友人に安否の連絡をしてみると「家が壊れた」というLINEが返って来ました。色んな方から「大丈夫ですか?」というLINEが入ってきました。すべてに返信することは無理な状況だったのでTwitterやFBに、その時の状況を投稿することにしました。イイネの表示が出るたびに、まだ自分が生きていて外と繋がれている不思議な感覚を得たことを覚えています。広島の方から「こんな揺れは初めてで凄く怖かった」というLINEが届き、どこまで揺れているのか分からなくなり大変な恐怖を覚えました。熊本の友人のこと大切な場所のこと、いろんなことを考えると共に自分は今日、生き延びられるのか大変不安になりました。ホテルはハリウッド映画のような大パニックに陥り大勢の人が外へ出ようと必死になっていました。佐賀は、その日最大震度が6弱だったとのことでホテルの高さで更に揺れたということを後から知りました。何度も何度も大きい揺れが来ました。左目が見えない中、深夜の暗闇の中を避難所まで行くことは難しく、その日は駅前の広場に避難して揺れが収まるのを待ちました。

次の日、一睡もできないまま着替えて出張先に向かいました。出張先の建物は損壊していました。現実のことと思えない衝撃的な光景に大変なショックを受けました。担当者の方が涙ぐみながら今日は中止せざるを得ないことを話していました。ホテルに戻る時も何度も縦揺れが来て、その度に死を意識しました。熊本の友人と連絡すると、熊本は道路が壊れ空港が壊れ住居の多くが倒壊/損壊し、皆が食べる物を確保することがやっとな状況とのことでした。お風呂に水を貯めることはトイレ用の水として重要だったんだということも知らされました。家財が倒れている画像が何人からも送られてきました。家具は壁などに器材で固定されていたのに壁ごと倒れていたりするなど大変な惨状でした。数分おきにiPhoneが鳴って縦揺れや横揺れが来ました。早くから地震酔いになり揺れていない間も歩く振動などで鼓動が早くなり物を食べようとしても吐き出してしまいそうになる状態でした。移動の間、阪神大震災経験者の友人や福岡の方を中心とする全国の方がSNS上から声をかけ励ましてくれました。何かあるたびごとにリアルタイムでSNS上に投稿し発信していきました。声が届くたびに、まだ生きていて声を見ることが出来ているんだ、と思うことが出来て頑張ろうと思えました。必死でした。思い出すと今でも恐ろしくなります。

それからは眠れない日々が続きました。スタッフの清水さんは大変な被害を受け、一時、県外に避難していました。同じくスタッフの麻田さんは軽傷も負っており、壊れた実家の前で御両親と車中泊を続けていました。やっと手に入れた一つのお弁当を御両親と分け合って食べていたり、海保の船でお風呂に入ったりと大変な状況でした。二人とも生きていることが救いでした。スタッフからは選考を今月は中止にしようという声をいただきました。けれども真っ先に選考を提出したのは清水さんでした。多くのことを考えさせられました。私も不安を抱きながら選考を提出しました。あの時いろいろと支えてくださったスタッフの皆に感謝しかありません。心配をいただいた投稿者の方にも感謝しかありません。本当に、ありがとうございます。

5月の下旬、それまで一日に約100回起こっていた地震の頻度も少し落ちてきたので私は友人たちに会うため帰熊しました。左目が不自由なことを心配して友人が車を出してくれました。熊本の街はブルーシートの家が大半で、損壊家屋や倒壊している家屋も目立ちました。瓦礫も、まだ手付かずの状態でした。道路も凹凸が気になり一ヶ月経って、この状況なのかと改めて起こっている非常事態を実感させられました。熊本城の建物が倒壊している姿や石垣が崩壊している現実は声が出ませんでした。個人的に思い入れのある商店街の店が倒壊していることも胸を痛めるばかりでした。神社やお寺などの建物は多くが倒壊か大規模半壊を起こしていました。地割れなども、まだ残っており、ただただ恐ろしかったです。益城町に行くと倒壊家屋が何十キロにも渡って続いていました。時折、献花がありました。益城町役場に勤めている後輩に聞くと、それでも地震直後より大分綺麗になっているとのことでした。地震直後の光景は想像も出来ず恐怖を覚え被災した後輩が夜ほとんど寝ずに公務に励んでいる姿に、ただただ胸が痛くなるばかりでした。生きていてくれて良かった旨を伝えました。後輩は「いつか飲みに行きましょう」と印象的な笑顔を浮かべていました。阿蘇に向かおうとしましたが雨で引き返さざるを得ませんでした。
その後、旅館「松葉」に行き熊本文芸誌の会に出席しました。一人ひとりの顔を見て生きていてくれたことに安堵感を覚えました。休憩時間に皆で地震の話をし続けました。避難所での過酷な生活、テント生活を続けている話、70歳を超えて車中泊を続けている話、地震の後は高揚状態が続き一種の躁に皆がなっていたことなど。過酷すぎる話を皆が笑顔でしていたことが妙に印象的でした。
そして中央街の下通り方面へと向かいました。街には「負けんばい熊本」と書かれた看板やポスターが、いたるところに貼られていました。街は大分、片付いており多くの店が営業を再開していましたが、よく見ると外壁が崩れ落ちていたり亀裂が入ったりしていました。新市街を抜けて「橙書店」へと行きました。「橙書店」は私も所属している熊本文学隊の本拠地で、さまざまな作家さんたちが常連客として通う隠れ家的な店です。カフェ・スペースも併設されていて様々な文学イベントが開催されてきた場所です。地震後、扉が開かなくなるなど被害が大きく、常連客の皆で直して営業再開することが出来たと聞いていましたが、実際に行くまで店主の久子さんは無事なのかどうか、とても不安に思っていたことを覚えています。お店に入って店主の久子さんの顔を見た瞬間、こみあげてくるものがありました。熊本文学隊のメンバーも何人か来ていて無事を確かめることが出来さまざまな思いが交錯しました。色んな話をしました。地震の前に爆音のような地鳴りがすること、地震の瞬間、電信柱が振られた鉛筆のようにグニャグニャ曲がって道路に打ち付けられていたこと。目の前で山肌が割れていくのを見たこと、夜になると地震がくるんじゃないかと思いお風呂に入れなくなったこと、など。皆が生きていることは奇跡に思えました。その日は夕食も「橙書店」で食べ、本もたくさん買い、イベントスペースに来ていた方にジャケットを作ってもらいました。眼のことなどがありボランティアでは足手まといになってしまう私が出来ることは熊本のお店でお金を使うことくらいです。観光客が、ほとんどいなくなってしまい収益が大幅に落ちてしまっている熊本ですが皆、復興に向けて前向きでした。相変わらず温かく優しい県民性に涙が出ました。

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6月に九州は集中豪雨災害が各所で起こりました。特に熊本は道路が冠水し腰まで水浸しになりながら家に帰らざるを得なくなる地域があるなど大変な状況でした。清水さん、麻田さんも地震が続く中での豪雨で大変な困難な思いをされていました。熊本は未だ仮設住宅が間に合っていないため多くの方が大規模半壊したままの家屋でブルーシートをかぶして暮らしていたり、倒壊した家屋の敷地にテントを張って暮らしています。雨漏りで天井が落ちてしまったり夜じゅう二階に溜まってくる水をバケツで掬っていたなど大変な話を多く聞きました。車が浸かってしまい廃車になって車中泊が出来なくなった人もいました。益城町や阿蘇は更なる被害が出てしまっていました。だんだんと皆の疲労も限界に達しつつあるのではないか、と思えてしまいました。瓦屋や重機会社は何百件待ちの状態もざらであり、なかなかブルーシートの問題は解決できないようでした。私は中学生の時に洪水に被災し町を失ったことがあります。被害を受けた友人の話を聞くたび気持ちが分かり胸が痛くなりました。

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7月になり地震の頻度は一日約100回揺れていた当初より、ずっと減って来ました。けれども未だ震度4が来るなど熊本は大変な状況です。ブルーシートの家屋も以前、多く、もうすぐ来る台風に不安を覚えながら日々を過ごしています。被災者の公務員の方は大変な中を復興に向けて公務に励んでいます。宇土市役所は地震で崩壊したので現在、体育館で公務を行っているそうです。熊本地震の風化を最近、ひしひしと感じます。先月、福岡の文学イベントに行った際、関東から来ていた方から「熊本は未だ揺れているんですか」と大変おどろかれたりして悲しい気持ちになったりしました。連続震度7は観測史上はじめての事態です。震度というのは7までしか表示がないので、どんなに大きく今まで無いような揺れでも「震度7」と表示されてしまいます。本震時は関東全域まで揺れているので震源地の熊本の生きている皆は奇跡としか言いようがありません。風化しつつある原因の一つに死傷者数が少なかったことが挙げられると思います。死傷者数が少なかったのは、前震で大半の人が避難済みだったからです。揺れが夜に来たことも大きいと言えるでしょう。照明器具が落ちて改修の目途が経っていない市民会館や棚が壁ごと崩落した各スーパー、熊本城など、昼に賑わう時間帯に揺れが来ていたらと思うとゾッとします。この投稿で何かを伝えたいというわけではありません。ただ少しでも風化しつつある熊本地震に関心を持っていただけたら、と思いました。乱文、乱筆になってしまいました。私は今回、自分が被災して初めて阪神大震災や新潟中越沖地震のこと、東日本大震災の時に胸を痛めながらも何もわかっていなかったことを知りました。自分を恥ずかしいと思いました。今、いろんなことに感謝する日々です。大分の別府の友人とも、しげく連絡を取るようになりました。前を向いて、これからも復興に向けて歩いていけたら、と思います。熊本が、もう揺れないように祈りながら筆を置かせていただきます。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
                      文学極道・代表代行 平川綾真智


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