9月分選考雑感 選評 パート3
「9月分選考雑感 選評 パート3」文責 泉ムジ
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4709 : 終わり ただならぬおと ('10/09/17 23:31:00 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100917_344_4709p
心のずーっと底にある、ある疼きやドロドロした思いを吐き出したような詩です。死にたいくらい孤独な方は、是非、この詩を何度も何度も繰り返し読まれると、おそらく救われた思いがするのではないだろうか。孤独な魂が持つ、とても単純な言葉では表現しきれない思いを、言語表現として成立させようとした力作です。一方で、毎日を快活にエンジョイされている方にとっては、なんだかさっぱり分からない(世界)です。
作品の最初のパラグラフでは「私とあなた」の関係が描かれ。特に私から「あなた」への恋慕のような友情のような、深い、しかし伝えがたい思いが行きつ戻りつ書かれています。そして2つ目のパラグラフでは自己と他者を取り巻く「世界」についての記述が続きます。3つ目のパラグラフではまた「私とあなた」の関係に戻り、4つ目のパラグラフでは、今度は自己と他者から「社会」へと発展します。私、他者、世界、社会、これらが変転するモノローグや空想として捩れこむように後半の展開に繋がっていきます。随所に面白い詩的ビジョンも差し挟まれ、生硬な印象も生みますが、作品として成立するレベルに仕上がっています。
他の発起人のコメントを挙げておきます。
大変力作であるが、この長い詩を、最後まで付き合って読んでくれる人は少ないだろう。僕は、3度読んだが、さすがに疲れた、だが、とても、饒舌で、多くの優れている部分に出会ったりもした。三.あたりは切り出して読めるものであるが、やや荒唐無稽でもある。
力作。 きちんと読ませる。ここから削ることも重要。
他人という恐怖が、虚構の中において他人を自らの鏡、分身に変えてしまう。また、恐怖故に混乱して、虚構の中で過剰な暴力、過剰な愛情が振るわれる。根底に「人間を已めよう」という強い自己否定がある。と、読める。 ナルシシスティックで冗長な作品であるが、読ませる印象的な表現は多いと感じた。などです。
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4673 : 順列 並べ替え詩 3×2×1 田中宏輔 ('10/09/01 00:02:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100901_086_4673p
以前、作者の異なる作品に、形式が決まっている分、もっと内容の、枠からはみだそうとする運動を求めてしまう、という感想を書いたことがある。
本作品を読んでいて思ったのは、無条件の表現の自由、というぼんやりとした信仰より、ある条件のもとでの表現の「徹底的」な自由、という確固とした信念を抱いているのではないか、ということだ。
「徹底的」にやるために、形式は強固に定められるのだろう。本作品は、3つの単語の結びつきの可能性を併置したものである。
ちゃんと数えてはいないが、80くらいあるだろうか。もう途中からわけがわからなくなってくる。これらの可能性の中から「選択する」ということが、また、その選択によって、狭まった次を選択する、そういうことが、私の求めるものかもしれない、と考えさせられました。
ただ、「小鳥」「樹上」「増殖」など、くりかえし選ばれる単語や、最後の「暴走」は、静物然とした本作品に、何かうごめくものを感じさせる。
他に気になった点は、
>映画館の小鳥の絶壁。
>ぼくが夢のなかで胡蝶を見る。
のように、一行目から破綻しているものと、そうでもないものが、
特に区別なく扱われていることだろうか。
このこともおそらく、出来る限り恣意的でなくするためかもしれない。
他の発起人の意見では、
これ、落とすと何も選べなくなりそうで。個人的には凄く好きな作品。
視覚的な詩です。でも、新しさは感じられないです。
>コンビニの男性化粧品棚の受粉。
など、既に音韻とリズムで上質に異空間を切り出した言語胎児が、さらに奇形化していく。最初のうちは、アイデアも陳腐に思えるけれども量的圧巻が次第に内的詩行の贅沢に変化していく。
表情というメディアとしての作品ではなく、コンポジションだと思う。
なんら面白みも、思考もなければ、まるでパズルのようであり、単なる遊びの詩で評価しませんでした。
詩的表現とはつまり、言葉の順番の入れ替えにすぎない、という一側面を 徹底的に反復し尽くすことで、次第に「言葉」の親しげで、意味ありげな表情は消え失せ、得体の知れない「他者」として読者の目の前に現れてくる。
このような真剣な戯れは、簡単なものではないと思う。
などがありました。
以上です。
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4723 : 葉書 ゼッケン ('10/09/23 18:47:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100923_475_4723p
”雑”な箇所がみられるものの、発想が転がっていくところが面白い作品なのだけれど、カラスのくだりは矢張り唐突であり、無理矢理落としました、という感じがある。
実は、「とう!」くらいで作者は書くことに飽きていて、勢いで書きながら、後付けしていったようにも思える。
そのくらい散漫でした。
ただ、読んでいると、肩の力が抜けて楽しいです。
他の発起人の意見では、
いつも悲哀があるところが、時間があるところが、良いのだけれども、もっと先に行って欲しい。
創作に対する取り組み方が深まってきているような印象を受けます。まだ、もっと期待してみたい。
唐突な「大勢のカラス」の状況描写がないので、いわゆる、空を飛んでいるのか、木に止まっているのか、不明であり、読んでいてとても不自然。などの意見がありました。
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4681 : ナルシス・ナルシス・ リンネ ('10/09/01 23:18:37 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100901_118_4681p
瓶の内が外であるとき、瓶の内だと思って眺めていたものは、実は、瓶の表面に映っていただけのものだったのかもしれない。
つまり、本作品自体が途中まで、瓶の表面であり、後半、話者は、その内(=部屋の外)を、瓶の表面に幻視し続ける能力が、自らに無いということを知ってしまう。
最後、沈黙している部屋で、ただ息を殺しているのか、それとも、今度こそ部屋から抜け出したのか。
複雑だが、いろいろと考えることが出来て、面白い作品です。
しかし、表現に魅力が無いのは相変わらずで、例えば、
>まるで、泳いでいないと死んでしまうカツオのようである。
という一文は、本文のために考えられた表現ではなく、散文の定型を無自覚に抜き出したように思えます。作品を高めるような、効果的な表現が増えると、いっそう面白い作品になるかもしれない、と思います。
他の発起人の意見では、
完成度の高い散文詩である。
ビンの比喩とはなんだろう、自分の過去か、自分の思いを閉じ込めた世界か、想像力が沸き立つ、また、無関心で、のっぺらぼうの街のその情景、それは、現実か、夢の世界か、そしてNが瓶を割る、女の声が、自分の声に聞える。
とても、幻想的で不思議さがのこり、また、文章が大変、美しい。
毎回、最後は自己の無意識投影で終わるのは何かこだわりがあるのでしょう。
すんなりと設定にも入れます。
発想はとても良いと思いますが、言葉の切れ味が全く無いのが残念です。 その点で「散文詩」というより「おはなし」のような印象がしてしまいます。
などがありました。
※ただならぬおとさんの「終わり」は織田が担当
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