文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

4月分選評雑感・優良作品

2011-05-28 (土) 22:41 by 文学極道スタッフ

4月分選評雑感・優良作品
(文/編集)浅井 (文)織田 (文)りす

5110 : 四月になると  田中宏輔 ('11/04/01 01:58:22 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110401_466_5110p

これは田中さんの初期の作品だということですが、ぼく的には、余計なことまで「語りすぎている」近年の作品より、うまく語れない事柄を前にして、言葉の前で立ち止まっているこの作品の方が好みです。
特に授業風景をモチーフに、周囲の同級生に同調できない感性をもった少年が、教科書や授業とは関係の無いところで、下敷きに陽光を反射させ天井に光を当てる遊びを通して、同級生たちとある種の感応を行なっている。
このあたりの表現の露出に、普遍的な何かとの接点を見出すことのできる作品だと思います。

5131 : シャットダウン(#idou doubutsuen.)  村田麻衣子 ('11/04/07 22:19:55 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110407_728_5131p

たいしたことが起こってる わかられてしまうなんて、わかんないなわかんないでも愛してるって言って、がちゃんって 受話器きった。なんなのなんなのっっ
だれのかわかんない毛布かぶってたらもう

わたしだれだかわかんなくなってパジャマのなかのふわふわを感じるあのいっしゅんをうわまわってくれないし わたしがこのかんかくに囚われてないとってあわてて部屋を片付けて、鏡をみたら知らないひとみたいな顔してるから、しらんぷり 

この一度読むだけでは意味を把握できない感じ、重要なことのようにも思えるけれどもそれがグダグダ感でまみれている感じは、最後に「あなた」に抱きしめてもらうことで物語を回収させてるんで、読み終わった後に、ちょっとザラつく感じにしか残らないかもしれません。けれど、何度か読んでいると、

>たいしたことが起こってる
>わたしがこのかんかくに囚われてないとって
という一文が非常に際立ってくる。この切迫感は、どこからきて私をとらえているのか、っていう疑問もわいてきます。これは
>わかられてしまうなんて、わかんないなわかんないでも愛してるって言って、がちゃんって 受話器きった。
という言葉が示す通り、「私」⇔「あなた」の図式にすっぽりとおさまってしまうように見えます。

実際の作者が、どこまで意図的にこの図式から抜け出そうとしていたのか、それとも当てはめようとしていたのかは分からないですが、「私」側の自己やアイデンティティ、あるいはリアルさはあえてカラッポに設定してある。

>(自分の部屋にも関わらず)電気も朝までつけっぱなしだし デスクのうらがわにはなにがあるかわかんない 
>だれのかわかんない毛布かぶってたらもうわたしだれだかわかんなくなって
>わたしいまマネキンみたいな顔してたの

この「私」のカラッポさは、一見、「あなた」に「毛布ごと抱きしめてくれ」たために満たされるのかと思いますが、どうも、抱きしめるだけではみたされないものを感じさせる切迫感です。

個人的な感想を言えば、この作品において主題は「世界性」だと思っています
ただ、世界性と言うものをぱっと見わからないようにしてある。それはおそらく「世界性」というものを把握しきれていないからでもあるし、扱いきれないからでもある。
だから、「私」「あなた」という読み手にとって受け取りやすい物語に仕立てて、しかしなおかつ、「私」「あなた」の内容はカラッポにして物語が発動しないようにされているという、結構、倒錯的なアレンジがなされている。
この「世界性」というのは、「東北大震災」でもいいし「アメリカ/イスラム」でもなんでもかまいません。

岡田利規は「三月の五日間」でそのような「世界性」を書いています。
内容は、「ブッシュがイラクに宣告した「タイムアウト」が迫る頃、偶然知り合った男女が、渋谷のラブホテルであてどない時を過ごす」物語。

「これは俺の、勝手な読みなんだけど、たぶんあともう数日で、俺らホテルを出て別れることになるっぽいじゃん。そしたら、俺の予想だけど、そのときには戦争も、たぶんもう終わってるんじゃないかと思うんだよね。甘いかな。でもどう考えたって力の差は歴然としているわけでしょ。それに湾岸戦争のときだって、一気にピンポイント攻撃で即終わったし」「それで、あれ? ということはもしかしてこれって、ウチら戦争のあいだずっとやりまくってたってことになるわけ? それやばくないか? みたいにね、思うわけ。もしかしてウチらがラブホですごいペースでやりまくっているあいだに戦争がはじまって、しかも終わっちゃったの? みたいなね」
「ホテル出て別れて、俺ら、それぞれ自分の部屋に戻るでしょ。それでそれぞれの、普通の生活を、またはじめるわけでしょ。そのときに久々にテレビつけるじゃない。ネット見たりね。それで、あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争、みたいなね。(略)でも、もしそういうことを思えたらさ、なんというか、歴史とリンクしてるじゃんウチら、みたいなさ。」

切迫性のレベルに濃淡はありますが、「世界性」を書くときに、それを正面に据えてかくことができないという事態がたしかに「現在」においてあります。
「世界性」を真正面から書くことが、あるいは扱うことが困難な現在において、いかに身体的なレベルに落とし込んで書くことが可能になるのか、という点で、村田さんの作品は良いと感じました。

5136 : 着床痛  yuko ('11/04/09 21:58:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110409_812_5136p

タイトルがとても良いと思います。
最近のyukoさんは、上手さを誇示することなく、自然な言葉使いを
重視しているように思います。

余談ですが、僕は、雛鳥さんとyukoさんの作風がとても似ているなと思っていて、
名前を隠して読んだら、どっちがどっちか区別できないかもしれません。

良い詩なのに無造作なところが調所にありもったいない。
>よわい角が脱皮して
>赤い伽藍を
>破る
>呼び声を軸索にして
こういうのは勘弁していただきたい。

19.5137 : 春と双子  yuko ('11/04/11 18:24:27)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110411_841_5137p

昨日友人3人と仕事帰りにスナックに飲みに行っていたわけですけれど、そこのママとマスターが実はダブル不倫の関係にあって、しかも二人とも50代半ばでそこそこの家庭もあり、などという非常にドロドロした話をえんえん聞かされ、あまりにもグロ過ぎて悪酔いして帰ってきたわけですけれど、このyukoさんの引き篭もり系少年少女の話を読んでいると、熟年ダブル不倫・絶倫スナック系の話とは文化的な構造が随分違う上、世界もまるで違ってきてしまっているような気がします。そこでぼくは思うわけです。生きるということは、もっとえげつないことなのではないか?
>網膜の欠損した
>わたしたちの眸
あらかじめ「視力を奪われている」というメタファーには、引き篭もり系と熟年ダブル不倫系には共通項があります。
あるいは、
>集約された嘔吐の
>王国
外の世界に恐怖心を抱き嘔吐する少女と、飲みすぎで嘔吐するおっさんの間に、メタファー的にはいかなる差異も見出すことができないわけです。ぼくは最初に文化的構造と世界の違いに触れる話をしたわけですが、メタファーには異なる文化と世界に、共通する同じカテゴリーを与える力があるということをこの作品が証明しているわけです。

5138 : (無題)  クラブ ('11/04/11 18:26:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110411_842_5138p

「簡潔シャープに面白くて何が悪いのか?」「これは大ちゃんのエンタメよりも切れ味鋭く更に良いと思う」という言葉によって推されています。

>以上全ての試みは除霊の失敗を物語るのみで終わった
という言葉がしめすように、

>パンダのイッサに殺意が芽生えた
>悪霊にとりつかれたパンダの除霊の為に鳥の祈祷師を多数呼び寄せる

と次々と繰り出されるのは、ひとつのショットが連なったシーンであることがわかります。

最悪なのは、「以上全ての試みは除霊の失敗を物語る」とか言っているのに、
ひとつの失敗が、さらなるドツボにハマるようになっていない点だろう。
一つ目で成功したら、終わっちゃうんだから、実行したら必ず失敗。これはいい。
失敗したら、その失敗をとりかえそうとして、さらに無茶をして、さらに失敗。
さらに、そのでっかい失敗をとりかえそうと、起死回生のアイディアを出すんだけれども、これも失敗。
さらにドツボにはまり込んで、状況が加速度的に悪化してゆくのが、お手本なんだけど、

悪霊にとりつかれたパンダ   → 何をするかわからないハラハラ感
精力剤のマカを飲ませる    → インポ(笑)
ミッキーマウスの首を刎ねる  → 幼児性、ねたみ
トラとリスを仲良くさせよとする→ バカ(笑)

というように、実行するギャグが、どれも、均質で、加速度的に状況を悪くしているように見えないことだろう。

もちろん、繰り出されるギャグシーンについて思いだされるのは、初期のエディー・マーフィあたりの路線。
エディは、自分の黒人としての弱い、あるいは低い立場を利用して、ブラックユーモアを織り交ぜてギャグにしたことが、アメリカ社会への批評となり笑いとなったのだけれど、
この作品では、ひとつのショットのもつネタは、「話者」自体のバカさ加減のドタバタ感を示すことはあっても、トータルとして、この馬鹿なギャグをやることで、「話者」自体が、ギャグをやる前と、ギャグが終わった後で、どのように変化しているのか、などや、
低い立場にある、馬鹿な「話者」が、このショットを撮ることで、どのような批評が可能になるのか、という点が突きつめられていない点が、粗雑さを感じさせてしまう。

5152 : 朝にのぼせる  葛西佑也 ('11/04/20 01:23:37)  
URI: bungoku.jp/ebbs/20110420_044_5152p

ここではりす氏の簡潔で正鵠を射た批評をのせます。

最近、サンデル教授の『ハーバード白熱教室』のおかげで、「正義」という言葉が 流行になっている背景があります。そのなかで、「嘘」の数を「正」で数えるという 逆転的な発想が面白いと思いました。
また、その発想から理屈を導いていくのではなく、 古びたヒーター、見知らぬ女の足、鳴らない電話機、背中に文字を書くこと、バスソルトを 入れた風呂、といったあくまで私的な空間の中で、「正しさ」という曖昧な観念に触れながら、身体的に感受していく様が、気負いのない言葉で綴られているところが評価できると思います。

5157 : レディオウェーヴ ブラザーズ  大ちゃん ('11/04/23 17:49:03)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110423_103_5157p

「エンタメをきちんと作っている。」「おもしろければそれで良い」等の言葉によって推されています。
しかし、どうみてもつくりの中途半端感が否めないというのは誰もが感じてしまうでしょう。

>俺を好きだと言った口は動いてなかったけどダイレクトに伝わる
>「小沢元代表に車で3回轢かれた。」そう書いてあった
>「お前、熊田Yのとこに行くのか?」無表情に荷台を指差した
>高速道路を二人乗りで

路線としては、サイレント喜劇と幼児性がテイストとしてあり、その発展形としての系譜には、たとえば、ローワン・アトキンソンがいるわけですが、そこの系譜に連なるために必須の、「古い概念の破壊」などの創りこみが徹底的にないと感じます。

5159 : 祖母  Q ('11/04/25 06:57:42
URI: bungoku.jp/ebbs/20110425_162_5159p

読み手は常に書かれた作品の向こうに、書かれてはいないもの、書かれなかったであろう出来事や人物を想定するかぎりにおいて、書かれることで名指される人物を明瞭なものとさえ感じることができる

しかし、書き手においては、その書かれるべき実体は本来、失われようのないものとしてあるのかもしれず、だからこそ、
>あなたはもう、みえないばかりか、体からは煙を吐き出し、
という事態になったときに、書き手にとって「あるべきはずのものが失われてしまった事態」を書くことができないのではないだろうか。
それは、失われてしまって、もう現前しないのだから。喪失が書き手から言葉を奪う事態。
だからこそ、そこに具体的な「思い出」や人物像を当てはめることはできない。

「祖母」が書き手のなかでリアリティをもつのは、失われたものの大きさに対して、それを覆うことのできない言葉や思い出の矮小さではなく、日常的な言語感覚を解体してゆく仏教の、あるいは宗教の、リズムであり、その一語が膨大な解釈や経典を必要とする仏教用語であって、解体されてゆく言語の日常性が、さまざまな「祖母」に重ねられた意味をそぎ落としてゆくことで、わたしたちが見るものは、ほとんど骨そのもののようにそっけない「祖母」という二文字だけであるように思う。

人物の死という出来事は、その出来事のあっけないほどの結末に反して、「わたし」にさまざまな恣意的な記憶のストックを死の物語のなかに導入させてしまう
そのような事態が、死と言う出来事を踏みつけるようにして訪れてしまうとき、その死をどのように平易に、あるがままで書くことができるのか

5163 : 砂丘  久石ソナ ('11/04/26 23:13:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110426_234_5163p

各連の冒頭に近い部分を抜き出してみる。

>窓から零れる白昼夢は静かに蒸発する。

>時間を知る半透明な羽をなびかせて、

>にがい眠気を唆すとき、

そこには「蒸発する」。「なびかせ」る。「そそのかす」というように、時間の経過をあらわす動詞が織り込まれている。
これらの動詞は、時間の経過によって、何かが変わってしまってゆく様をあらわしている言葉なのだが、接続された言葉によって、意味を奪われてしまっている
「蒸発する白昼夢」「時間を知る半透明な羽」「にがい眠気」
このようにして意味を剥奪された言葉は、時間の経過からも離脱して、凍えたように孤立する。

このような時間の剥奪を意識的に行ったので有名なのは吉岡実の「静物」だが、これと比べると明らかに吉岡の手際の良さだけが目立つとだけ書いておくことにする。

この作品では、孤立した時間の中で、終わりに
>かたほうの夜は未熟となる。
>老いた雲間から、腐敗を咀嚼した花びらが降り続けても。

双方からの時間の経過が書かれているけれども、このような抒情的な書記法で、凍えた言葉を包みこみ回収する方法は、どのような積極的な意味を持ちえないということは誰の目にも明らかだろう。

意味を奪われた凍えた言葉たちが、一枚の薄い氷の膜のように、作品の表面を覆ってゆくことは、なにも新しい事態ではない。
問題は、その意味を奪われて作品の表面を覆っていった言葉の上に、どのような物語を配置してゆくのか、という手際の良否であり、その物語によって、凍った意味たちが、いかに違う文脈で躍動するのかを読み手が認めるのかだろう
したがって、この作品は、ナンセンスにさえなりえていない点で、手際の粗雑さだけが目立つ作品となっている。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

2月分選評雑感・優良作品

2011-04-05 (火) 21:02 by 文学極道スタッフ

2月分月間選評雑感・優良作品
(文)織田和彦

東日本襲った地震の影響等々、いま大変な状況がありますけれども、あまり胸を痛めて足をすくませてばかりにもいきませんので、今月も頑張っていきましょう。
遅くなりましたが2月分優良作品に選出された三作品について触れておきます。

「数式の庭。」-田中宏輔

田中宏輔は詩人なのか?
この「数式の庭」を優良に推したのは(私ではなく)別の発起人なのですが、改めてよく読んでみるとなるほどよく書かれている。よく書かれているのみならず、ずば抜けた思索力を有する詩人だと感じます。考える力です。詩人というものは感性で対象を捉えるものだと考えがちですが、感じるということもまたロジックの体系なのだということを田中宏輔のこの詩は教えてくれます。時代の潮目にはこれまでの秩序が解体され、新しい構造体が見るまに現れます。おそらくこれは彼のセクシャリティとは無関係ではないと思われるのですけれど、他の人間なら考えなくて済むような場面に数多く直面し、思索を深めてきたのことが今の彼を作っている。こういったゼロから発想し、思考する力はこれからもっとも求められてくる能力ではないでしょうか。
そういった意味で今前衛に立ち注目されるべき詩人の一人だと考えます。

「テーブルで一人パンを食べるということ」-右肩

小説とポエジーの間で揺れるような言葉の粒子を紡ぐのが彼の詩ではないでしょうか。その技芸は職人の域に達している。ワンフレーズで“すべてを”描写してしまう力。突飛な発想でたちまち世界をハートフルに包んでしまう造形力。どれもこれも何度も人生の深い闇を見てきた彼が、届けようとする人間肯定の詩なのだと思います。ニヒリズムを“売り”にする作家や詩人は過去にたくさんいますが、私たちの時代はある意味もっと“深刻”なものだと思います。この作品にも随所に現れるファンタスティックな表現は、時代と交じり合うたび強くなっていくものだと感じます。

「big america」-るるる

辛口の文明批判を含んでいるこの作品、しかし語り口はどこまでも甘く読みやすい。私には初見の人でしたが、その作品世界は、作者や背景の予備知識がなくても親しみやすく、これは教えてできる(あるいは持てる)ものではないので才能だと思われます。ここに安住することなくさらにその持てる才能を伸ばし、新しい世界の語り手として活躍してもらいたい。   

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

2011年2月分月間優良作品・次点佳作発表

2011-03-31 (木) 22:39 by 文学極道スタッフ

2011年2月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

Posted in 月間選考, お知らせ | Print | No Comments » | URL

2011年1月選評雑感・優良作品

2011-02-21 (月) 22:51 by gfds

2011年1月選評雑感・優良作品 

文責/浅井康浩  編集/織田和彦

◆4935 : The Wasteless Land.  田中宏輔 ('11/01/01 00:35:57 *12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110101_928_4935p

一見すると読書ノートのような引用(の織物)がスタイルとして注目を引くような形になっているけれど、それは表面的な見方だという気がしました。まず情欲があり、それが所有欲へと転じ、語り手が情欲の対象と対峙したとき、鋭く自らの存在とは何かということが突きつけられるという。田中さんが詩を書くという行為に駆り立てられる動機が、ここに表現されているという印象を受けました。書くことはエロスなのだ、という前提がまずあります。欲望を感じるとそれを所有したいという具体的な願望となって現れ、その時突きつけられるのが存在です。欲望する対象の前で自分という存在が何かということが突きつけられるわけです。引用が前面に出てくるスタイルは、オリジナリティへの懐疑を示すものですが、あるいはオリジナリティそのものを否定している。そして何をどのように組み合わせて引用するかに個性が現れ、私とあなたの違いを示す存在の在りようも、その程度のものに過ぎない。ならば引用の仕方に徹底して拘ることで、「私」というものを他と差別化して「同定」することができる。この作品にはそういったメッセージが込められているような気がしました。エロスに引用という知の意匠をまとわせ、存在の探求に赴くところのこのテクストの可能性が見出されます。

◆4943 : 図書館の掟。  田中宏輔 ('11/01/03 00:15:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_961_4943p

エミリ・ディキンソンの書斎、川端康成の書斎、ヴァージニア・ウルフの書斎の遺書。
かずかずの作家の書斎が、持ち主の死後に、保存され、公開されている。
そこに身を置くときに感じるのは、まずなにより、作者の不在、ということと、それでもなお、その書斎という場所が、書き手に属する空間としてあり、彼らの息吹が濃厚に感じられるということだろう。書斎に並べられた本は、その濃厚な気配に包まれながら、いつの日か不在となった主人がページを繰る日を待ち望んでいるかのように、そこに並んでいる。
それに対して、図書館の機能はというと、アレクサンドリア図書館の時代から、記録できることのできるものを記録することであり、そして続く注釈、読解であり、読者の作業場ということだろう。過去の出来事を発展させ、未来をかたちづくるための。そうやってアルキメデスはアレクサンドリアの図書館に招かれ数学、物理学等の未来を形づくる。
そこでは、作家の位置は従属的にならざるを得ない。アレクサンドリア図書館において、アリストファノンは、後学のために、読むべき本の目録を作成する。それは、「規範」となり、それに載っている人々を記憶させるかわりに、そこに載せられていない人々の著作の存在を抹殺させる役割を担った。
図書館の存在はつまり、作者の書斎から本をひきはがし、作者という存在を消し、かぎりなく膨張してゆく。

そのような意味で、この作品の最初に書かれたのが
>人柱法
というのは興味深い。
しかし、図書館は、記憶するに値するものを記憶している、ということもできる。
図書館の膨大なリストは、私たちと関わりをもつ点について、作者の記憶の結晶である著作を読むことによってつながるのではなく、それを読むかもしれないという可能性が無限にある、という関わりにおいてつながっている。

それは、記憶を貯蔵するものが、書物であれ死体であれ、変わりはないように思う。

そして、図書館は、そのシステムがどのように詳細に語られようと、各人の利用してきた個人の記憶のなかでしか生き続けられないものとしてもある。
個人のなかの記憶としての図書館。雰囲気としての図書館。

自分にとって、紙媒体の図書館において感じる喜びは、パラパラと読んでいくことと、背表紙による出会い、分類方法を見てゆくことなのだけれど、死体が本代わりとなっている図書館での、そのようなささやかな喜び、というのはどのようになるのだろうか、気になった。

はやり、
>美しい女性の死者の視線を感じた
というように、顔による出会いなのだろうか。

図書館という場所における個人のよろこび、というものに興味をもつものにとって、この作品は、詳細ではあるけれども、ストーリーの整合性にこだわった緻密な作品としてあらわれ、感嘆はするけれども、感心はできないという微妙な心理に陥らされてしまう。

◆4947 : キューピーと  右肩 ('11/01/03 19:19:00)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_974_4947p

キューピー人形が象徴するものへの作者なりの語りかけなのだと思います。キューピーは
「素っ裸」なので、本当ならば日常の空間の中では秩序紊乱者として「取締り」を受けるべき存在なのに、このキューピットの形をしたキャラクターは、その毒が抜かれることによって、日常の中に納まることを許された存在です。

>君はキューピーだから煩わされない、そこのところはとても素敵だ。人でなくなったものの美点の一つに数えてもいいと思います。本当だよ。

この語りかけは、しかしいつもシニカルな調子を帯び、

>短い腕を明るい空へ逆八の字に開いている君、バンザイ。生きものバンザイ。

明らかにバカにしている調子さえあります。

>頭の失われた君が愛しい。ぴたり揃えた脚。

そしてどうも頭部ももがれてしまっているキューピー。

>いかがですか?返事はいらない。だから黙っていて。しばらくは黙って。僕にこんなふうに、好きに言わせておいて下さい。

ここにきてどうやら作者はキューピーに嫉妬しているらしいことがわかります。キューピーという愛らしいキャラクターに対して。キューピーというキャラクターに仮託されているシンボルに対して。そしてこの嫉妬は循環的に憧憬へ接続していくことで、この作品はある種の賛歌としての特色を帯びてきます。

◆4971 : いちじつ  葛西佑也 ('11/01/17 14:06:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110117_179_4971p

昨日会ったばかりなのに
「久しぶりだね」なんて
おかしいんじゃないの?
そう思ったのはほんの一瞬で
ぼくたちは
その短いフレーズで
全て了解しあった/のです。

……不在着信二件、先ほどまでそのように表示されていた携帯電話のディスプレイは、今ではすっかり寂しくなった。

もっとも共感できるのは、この一連ではないだろうか。
昨日、会ったばかりなのに、別れた途端に、もう、ケータイでつながろうとしている心理。
会わなければ埋められない溝をすこしでも埋めようとし、つながろうとする心理は、なにを求めているのだろうか。その不完全な、声だけの、つながりは、僕の心理のどの部分を埋めるのか。

たくさんのものを失いすぎたぼくたちは、もう「無」と呼ぶには溢れすぎていて、あふ、れ過ぎて、い、て、なにも始めることのできぬまま、夜が明けるのを何度も何度も待ち続けるだけなのです/でした。(誰かが言ってたんだ、「ぼくたちは待つことをわすれてしまった」って。でもね、断言するよ。忘れてなんかいない。忘れてなんか。ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。ただ、ひたすらに。ほら、たとえば雨がやむのとか、夜が明けるのとか……)

僕は、おそらく「僕」自身になりたくないのだ。
僕の身体から「僕らしさ」をどんどん消失させてゆく。
>(生きている意味がぼくにはあるのですか)
僕らしさをどんどん無くしていったその先に、なにがあるのか
>ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。
僕の身体にまといつけたいのは、他者とのコミュニケーションではなく、また他者の存在でもない。
おそらくは、一度、脱ぎ捨てた「僕らしさ」を、ふたたび纏おうとするのだろう。
そのような意味で、次のような短歌は、示唆的だ。

>雨を待つ気分でさわぐ僕たちが ほんとうは誰もいないということ

失っているのは、接触という出来事なのだろう。
僕と、あなた/誰かの間に挿しこまれるはずの接触という出来事。
あなたの「息遣い」「はずんだような声」「心配そうな」「うれしそうな」「いらいらしている」様子。
僕/あなたのなかで、別れた途端に埋めなければならなかったものを、みたすのはおそらく、電話の向こうから聞こえてくる「声」そのものではなく、彼女の「存在」そのものだったのだろう。

彼らはもうすでに少年ではありません/でした。(いつかの少年は女装をしていた。正確にはもう少年という年齢ではなく、女装をすることによって女装をした少年のように見える青年になっていたんだ)
歌声は音声であり、音色からは色が失われ、切り取られたたくさんの風景があちらこちらにちりばめられてい、る。

もう、いやだよ、

と誰かがつぶやいて、ねぇ/聞こえますか?お電話の向こうのあなた/ねぇ、聞こえますか?どんなに悩んでいたって、眠気には勝てないよ。

しかし、上記の文は、過去の互いの接触によってでも、僕自身の空白が埋まらなかったことを示唆している。

「彼」と「彼女」のカテゴリーのなかに自身を位置させること。
(いや、これはかなり安易な考え方なのだが)

自己と身体のなかに、他者の意味を差し込むことで受け身となってゆく、それでいてそれを主体的に生きてゆくという事態。しかし、そのことによって自己が発現するという事態。
自己が他者となってしまった自己を抱きしめてあげることのできる事態。

>ぼくには彼らのことばがわからないけれども、少なくとも彼らの考えていることはわかる。これは通じ合っているということではない/ありません、
>落下したら電子機器からは音声ではなく、声が歌うような声が、ぼくを染める声が、ひびいてい、る。

ぼくは、あなたの「存在」あるいは接触できる「皮膚」とが遠ざかる事態に対応できない弱さがある。
だからこそ、内側に、「彼」「彼女」を閉じこめ、そのあわいを積極的に生きようとする。

>これは通じ合っているということではない/ありません、を拾い上げて、電池パックのある面をズボンの太もものあたりに擦りつける、

世界を自己と接触させる、あるいは距離をおけば痛むものを皮膚に近づける。

◆4980 : I-my-me [pupet makes people]  村田麻衣子 ('11/01/20 06:53:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110120_231_4980p

ディスコミュニケーションがあたり一面を覆っている。例えば引用する。

>かわいいなキティちゃんには口がない何も言えずに吊り下がる猫   松木秀
このあたりのニュアンスに通底してくるような、ファンシーな対面認識さえもなく。

ティディベアを媒体として通し、その奥に自分をみる、だとか、そのようなものでもなく。
>360°をまのあたりにしたあらゆる内角だから
ティディベア≒自分、というような目線を設定し、その先に、大人の視線を対置しているようにも見える。

けれど、ティディベア≒自分、という図式から発生するイマージュを徹底的に嫌って、ほとんど意味が浮遊してしまっている文章を書きながらも、この作品が実現しているのは、私の眼から発せられる視線の快楽であって、さらにナルシズムまで感じられると言っていいのかもしれない。
もちろん、私とティディベアのあいだには、コミュニケーションが発生するわけではない。
しかし、コミュニケーションが発生しないがゆえに生まれてくるティディベアとしてのキャラクター性(「かわいらしさ」など表層的な特徴)は、わたしによって摘み取られている
>顔の付近がきゅうきゅうになるくらい綿をつめこまれて、目が×になっちゃう
だからこそ、わたし≒ティディベアに近づくのだけれど、
>あのこだってぴんときてないって顔してるでしょ わたしはかおをかく めをくろくして あんな代物、まのあたりにして生存してるなんてひとでないから
という言葉が示すように、それが達成されるわけでもなく、非常に屈折していて、わかりづらいことが多い。しかしその手法は鮮やかで、洗練されている。

◆4985 : アメリカン・ルーレット  ぎんじょうかもめ ('11/01/22 16:57:28 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110122_267_4985p

イギリスのパンクシーンのヒエラルキーの頂点にあるのがピストルズだとするのなら、その入り口あたりに位置するのは、初等教育を卒業したthe ladsであって、もちろんそれらはfailedな奴らだし、そいつらにとって、「アメリカン・ルーレット」は、

ぼくは目をきらきらさせて思った。
かならず死ぬ。
すごい。
そうだよ。

くらいの「やってみる価値がある」ことで、やる、やらないは別にして、将来、その目撃した出来事に尾ひれがつき、何度となくガテン系職場での自分の語り草となることになるくらいだろう。
学校で行われる道徳的規範の、その灰色の、遠回りした、直接的でない、権威主義的な、もってまわしたようなやりかたに対して、対抗するthe ladsにとって、
>かならず死ぬ。
とはわかりやすく、みずからの文化との親近感を感じさせるのに十分だし、「タフさ」を階級文化とするものにとってはなおさらだろう。
だからといって、それを、するかしないか、とは別問題で、アメリカン・ルーレットをすること自体より、the lads、ひいてはそのカルチャーにとって重要なのは、どのように内面化されるか、つまり、ルーレットを前にびびったり、拳銃を持つ手が震えていたり、クソをもらしたりしないかであって、つまり男の尊厳をどのように保ちつつ、トリガーを引く寸前までいき、そこで、どちらともが、死ぬことになるのを防ぐか、トリガーを引いた日には大事件になって警察に尋問されることがオチだし、そんなことはしたくないのだから。
だから、
>だけど、死ぬことなんて簡単『だった』

なんて、警察という官僚機構にどっぷり逮捕されてはまりこんだアホがぬかす言葉なんだろう。
だからこそ、
>ここは日本でスーパーマーケットで拳銃を購入することさえできないのよ。
という言葉につづく
>だからわたしにローラーシューズを買ってよ。

なんて言葉は、中産階級、って、階級なんてそもそもないやん、みたいな日本の平均的児童を視覚的に見分けるツールとしては最適だから、すごく「クール」だし、
>メンヘラみたいな遊びはやめる。
だなんて、勝手に自分でヒエラルキーつくっといて飛び越えてゆく姿が輝いてる。
The ladsなんて、権力者を前にして「あちら」と「こちら」に分けて、自分のマッチョさを、「権力者」が持ってない者として優越感を感じてるだけで、そのじつ労働者として搾取されてたりとかしてるのかもしれないしね。

それにしても、「3」の位置づけはわからない。

>またわたしはその地図上の、その古いことばを読むことなんてほんとうはできなかったのです。

ここが一つのがキ―になりそうだけど、つながりは最後まで判然としなかった。

◆4998 : 白亜紀の終わり  右肩 ('11/01/31 22:42:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110131_365_4998p

>その度に僕は、人類も異常巻きを始めているのだ、と考えてその場をやり過ごすことにしている。そう考えるならば、

そのように考えることの、なんと空虚なことだろう。

>どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。

という言葉のあっけなさ、そらぞらしさ。だからこそ、そこから発想されるものに心を打たれるのだろう。
たとえば、それは、「ヒロシマ・モナムール」における岡田英次の「君は、ヒロシマを、見なかった」というささやきなどに通じているのかもしれない。
理解できない事柄のなかをさまようように切りぬけながら、そしてその節々に置いて、あるいは自己としての確固とした決断を重ねながら、それでもなお、

>何ということもないこの瞬間がこれから先記憶にずっと残るとは、その時は考えもしなかった
という事態をその先に迎えてしまうことがふさわしい、とみずからに感じながら、日々をおくること。
みずからの思考をかさねながら、「異常巻き」が弱い思考をつねにこわしてゆくのだが、それでも思考をやめないでいることでたどりつくのは、

>そのことも「素直に」納得できるようになった
というように、異常巻きにたいする抵抗であり記された言葉が重みを持つとするならば、

>個体の生死は、白亜紀後期のアンモナイトと同じく、種の衰亡を彩る無数のエピソードの一つに過ぎない

つまるところは意味の外側に達したところで屈折し、寒々とした人間の条件をあからさまにあらわしているから、という部分に求めることができるかもしれない。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL

2011年1月分月間優良作品・次点佳作発表

2011年1月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

Posted in 月間選考 | Print | No Comments » | URL