文学極道 blog

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ミドリ

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「11月選評雑感・優良作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

2010-12-25 (土) 11:53 by gfds

「11月選評雑感・優良作品」 編集・文責=泉・前田 編集=織田

11月は相対的に作品のレベルが高かった。そう評した発起人が数名いましたが、逆にぼくはもう「現代詩」は三途の川を無事渡り終えたのではあるまいか?そういう印象を強く抱きました。今月の選評・及び雑感は主に泉が担当しています。
(by織田)

【優良作品】

38.4824 : pool  益子 ('10/11/13 12:06:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101113_161_4824p

◆一連目の、言葉の運び、言語感覚、リズム、見事だと思う。
プールと空の二重性、その展開。 二連目の 「ぼくの、足が、水面に、空に、沈んで、水面と、空に。」 何気ない書き方だけど、「ぼくの足」が、鮮やかに「水面と、空に。」引き裂けられている。
詩でしか味わえない世界が、言葉をリフレインして、「に」を「と」に変えただけでできている。

三連目、語り手の視点が、一気にプールから空にいく。(がそれが空かどうか)その展開も上手であるが、この辺にくると、その展開で、グラグラと眩暈が起きそうな言葉の揺らぎがある。

唯一点、最後の「そしてプールの底に、足が着いた。」は、詩を強制終了したのか、あるいは、予定調和的な散文の様相をしているようにもみえて、やや疑問であります。

芭蕉の【あら海や佐渡に横たふ天の川】と同じ構成で詩を書いている。

◆夏休み、高校受験に向けての夏期講習が教室で行われる中、ひとり抜け出して、プールに忍び込む。
そのような場面を想像しました。秀逸な「Cl」の発想で、物足りない、余地の多い作品が、拡散せずにきちんとまとまった、と感じました。
「足」が裸足か靴のままかとか、プールの底に引かれているラインとか、このプールの中に、もう少し何かがあっても良かったのではないか、と思いました。

>空が溶けて、水面に、降り注いだ。
は、一瞬、雨を表す定型かと思ったが、そうではないようで、私には何を書いているのか解らなかったが、(心象風景だろうか、)この坦々とした綴りの中で、面白くも感じた。

31.4839 : (あさ水を弾く)  田中智章 ('10/11/19 22:26:02)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101119_238_4839p

◆この詩を読んでいると、既成の日常的言語を、一度、ばらばらにして解体して、バラバラな破片を、もう一度、再構築した異化が行われているようです。
決して、日常的言語の入る隙間を与えることなく、僕らに、「登録」されていない言葉が、差異を含むむき出しの顔を露出しているようです。

書かれた言葉は、自らのむき出しの顔を、遠近法的な調和へとは、決して結ばずに、テクストのなかで、間断なく露出し続けて、詩的言語の会話をやめようとはしない、ということでしょうか。
僕は、このテクストの露出面に限りなく近接して、感覚で読む以外にないのですが、ただ、この詩は、ばらばらと解体しているといいましたが、もう少し、突き詰めれば、少し違うとおもわれます。
「て」「に」「を」「は」等という助詞の使い方が、言語規範に乗っ取って、正確に使われているのです。短歌や俳句の世界では、この助詞の部分は、まさに生命線にあたる部分であるのですが、それは、現代詩にも当てはまるのであって、言語の解体をぎりぎりで防いでいると思われます。
だから、違和感を持ちつつ、普通に読むことが可能なのです。
ということは、詩の骨組み(助詞の部分)は、日常的言語的な体系に依拠しつつ、名詞、動詞、形容詞等が、遠近法的な完結を拒否しているのでしょう。
その難解さは、散文的な合理性の世界の、詩における違反を提示していて、
詩に携わる人は、とても、魅力的な行為であると思います。

◆今回は優良に推したいものが少なく、迷いましたが、僕としては、田中智章さんの作品がいちばん良いと思いました。この作品は、一見、あいまいで意味を結ばない言葉の連なりなのですが、実際には最も曖昧さを排して、明晰な意識で書かれていると感じます。
この作品に比べると、他の多くの作品たちは、詩の「わからなさ」に寄り掛かることによって「意味ありげ」な外観を辛うじて保っているだけに思えてきます。

14.4844 : ある徘徊譚  リンネ ('10/11/20 23:58:09 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101120_266_4844p

◆「夢を見ているのかもしれない」
夢ではないのだ、などの言及はないほうが広がりが出ると思う。

◆リンネさんの詩の特徴は、「詩全体が、比喩をつくっている詩」いわゆる、テクスト=比喩、または、全体喩ということが言えると思うのですが、その良さは、読後感であり、何を言わんとしているかという説明的なこと以前に、詩がざわめくような謎めいた幻想性でしょうか。

この詩では、夢のような、謎めいている幻想性は保たれていますが、詩の内容の構成も間延びしていて、散漫であると思われます。
会話の部分も、詩の「会話」として特に言葉から開かれている特徴は見えず、ぎりぎり散文詩の形を保っているという状況でしょうか。
この詩は、友人Aと自分の距離、その距離感に焦点を当てて詩を書いているように思われます。
決して、友人Aと自分はたどり着けないのでしょうか。その永遠性。カフカの「城」を想起するところがあります。とても、似ていますね。

また、リンネさんは、もうひとりの自分のあり方をよくコメントで言っているのですが、それがテーマのひとつでしょうが、そちらのほうは、匿名のような友人Aは、たぶん、もうひとりの自分であると推測もできて、それは、古典的な、弁証法的な「私」を止揚したもうひとりの「私」なのか、あるいは、よく存在論で問題になる、ものを認識する、あるいは意志の主体としての「私」以外に、先行するように存在として反復あるいは差異を生みながら他者と関わり続けるもう一人の「私」なのか、認識・意志の主体の「私」は、第一原因でないので、もう一人の「私」を常に知っているわけではないし、この詩のように、普段知らないというか、何か起こる喚起として、その存在として現れるのですね。

あるいは、「事物言語」のように、本来的に、ここに、なにか「もの」があって、名前がついていない分からないものの存在という考え方もあります。先行してあるもの、ある時、「もの」のほうから、挑発的に語りだして、それに、名前を付ければ、初めて「人間言語」になるという考え方。

「話しながら歩いていたら、いつのまにか大きな駅の前にきている。近くにとても大きな路線図の看板が掲示されていて、とりあえず自分が今どこにいるのかを確認してみる。東京だということはわかるが、位置がはっきりしない。どこに書いてあるのだろうか、駅名が見つからないのである。何度も線路を目で追っていくが、何回目かで、そもそもこの駅の名前がわからないということに気がついて驚いた。しかし、友人のAはすでにここがどこかわかっているようで、」

また、幻想的な詩を、好んで書いているということでは、
入沢康夫が、「わが出雲わが鎮魂」以降に現れている、もう一人の「私」も想起できる、田野倉康一らが言っている、単性生殖的な、分身という、分裂した自己というものも見えてくる、とにかく、色々と以前から、考えさせられる作者なので、色々と、考えてみたくなりますが、僕が、きちんと読めていないので、外れているでしょう。

多分、リンネさんが今まで教養として、蓄積したものが、無自覚的に表れているのかもしれません。
ただ、リンネさんの詩は、そういう、いろいろな考え方が、混ざり合わされているような事柄に色々と読めてくる。詩に可能性が感じるのです。そんな風に、思うのです。
ですから、そういう色々なことが含まれている詩であり、そういう色々なざわめきのようなものが、聞こえてくるのですね。

◆挟み込まれる会話文が、希薄であり、また、地の文が説明的に過ぎて、形式的にはバランスが取れているのだが、予定調和とも言え、全体は冗長に感じられる。
「夢」という自己言及、それに対する(根拠の弱い)否定も、読み手に何かを突きつけるような強さは無い、と私には感じられた。
制服を着た人たちの反応から、話者は幽霊の類ではないか、とも読める。
友人との約束が、話者をくり返しの中に縛り付けている。というような。

2.4847 : みずのながれ  早奈朗 ('10/11/22 00:55:16)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101122_294_4847p

◆4年前なら、もう少し良い位置に立てたかもしれない。流れる中に異物を意図的に、もっと混入しても良いと思う。
わかりやすい良さを持った古い作品に思える。

◆言葉の大音響。長文であるが、最後まで、詩の強度が保たれている。
修辞技法の多用が、目立っているが、その巧みさのために、逆に引き込まれていく、美しい詩を読んだ。
水の流れと、言葉と文字とその記述の二重性を、読みだすことが出来るようです。

◆万能感と焦燥感を感じる。
息するように、言葉を綴り続ける、ということ。何かを語るというより、語り続けることそのものへの焦燥感。
「ひろがる」の連、中盤から後半手前の「それ」「そして」の多用は、とにかく前進せんとしていて、物語的な文章へ流れ「こんな物語のあとで地球がばくはつする。」「そして麺をすすり地球をなつかしむ。」、の辺りは特に、後の回収もうまくいかず、全体の中で停滞を生んでいるように思う。
他にも、「製鉄になれ」など、浮いているところはあるように思う。

しかし、この作品の流れは心地良い。
ある程度分量があることで、停滞や奔放さが、良くも悪くも流れにのまれ、また、期待感をあおり、飽きさせないようにする効果も生んでいる。

>ひろがりの沃地はいつも泥にうずめられているから、
>記述することばは、くちてゆき、しかし洗いながされない。泥のなかから、たまっていく。この対応は決まっていて、面白かった。
今後の作品が楽しみです。

23.4850 : 恋唄五つ  鈴屋 ('10/11/23 12:53:01 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101123_329_4850

◆とても、丁寧に書かれていて好感のもてる詩です。

>とてもたいくつ
>とても大切なたいくつ
>あと1時間
>明日一日
>それから一週間、それから一年
>それから先もつづくはずの
>大切なたいくつ
この部分は、「荒地」戦後詩的に述べてみれば、これは、今の時代状況を、よく現していると思われる表現です。とでも言えます。
この部分は、とても気に入っています

◆都会の恋人たちのスタンダードナンバー、という感じです。
読んで、良し悪しでは無く、安心しました。
4つ目の「なぜ」は、前連の補足のようで、不穏さを強めすぎていて浮いていると感じました。
5つ目は、

>わたしから離れて
>今あなたは水辺にたどりついた
が、それ以降より強いので、うまくおさまっていないと感じました。

17.4862 : 林檎のある浴室  リンネ ('10/11/29 18:39:20 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101129_418_4862p

◆とても、不思議な詩である。解読が難しく、それがさらに謎めいていて、魅力的である。
エロティシズムを感じさせているところも味わいがある。

◆「浴室」=「欲室」。そんなことが頭をよぎった。
女の顔が見えなくなり、思い出せなくなり、あるいは、林檎に触れない。
話者が望めば、「湯気」に「波」に阻まれ、必ず達成されない。
あげく、(林檎を鏡として、)女の顔を覗くことも、話者自身によってさえぎられてしまう。

欲望の対象が、女から林檎へと移る。狭い浴室の湯船の中で、自足の快楽を見出した男を、「私はそれに気づかない」と、一つ高い、突き放した視点で描いている。 「彼」でなく「私」としたことで、少し自嘲を帯びている。そのように読めた。

1行目「それにもかかわらず、」など、削ったほうが、つかみとして、冗長にならないのではないかと思った。
また、「その様子がどうもおかしい。」、「これはいったい、どういうことだろう!」など、作者は作中の話者に憑依するように書いているのかもしれないが、自作自演を見る興醒め感が、私にはあった。

意図的かは解らないが、「ふんふんと」「ぬっくりと」「かしゃかしゃと」といった軽くひねりが感じられる語は、面白かった。
「まるでイカのように」といった言葉は活きていないが、馬鹿馬鹿しく感じられて、面白くはあった。
また、「トマラナイ。トマラナイ。」は、制御不能さを表していて、このカタカナ使用は、はまっていると感じた。

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「10月選評雑感パート1(優良作品)」 編集=浅井・織田

2010-11-22 (月) 23:50 by gfds

「10月選評雑感パート1(優良作品)」 
編集=浅井・織田

優良に選出された3作品から、発起人の寸評を拾っていきます。
※注記:寸評は、公開を「前提」として書かれたものではないことを前置きしておきます。

27.4752 : ふゆのうた  ひろかわ文緒 ('10/10/09 22:22:29)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101009_706_4752p

『発起人の作品以外で、まともに読めたのはこの作品だけでした。 ただ、優良に推すには迷う点もあって、それは、ひらがなやですます調が、ひとつの作法のように、夢見がちな女の子の独白、という枠に作品を押し込めていないだろうか、ということです。思考が散漫なため、うまく書けませんが。 以下は余談ですが、ひろかわさんのblogで、リフレイン狂さんは別名での投稿だったというような記述があったと思います。だとすれば、反動もあったのかな、などと思います。』

『繊細な感覚と言葉遣いに、はっとする箇所がいくつもありました。 「生活のふりをして」という言葉が特に印象に残りました。 「ですます調」にする必要があったのかなと、少し疑問には思います。 柔らかすぎる手触りが、この詩の評価に少しマイナスに働くように思えたりもします。』

『とても静かに言葉が運ばれていく、美しい詩です。 比喩・暗喩もとても上手で、思わず唸ってしまう表現もあります。 才能あるなあと思える人ですね。』

『情感を風光に託してしっとりと。詩とはこういうものだったのだろう。』

『ひろかわさんの作品としてみると、決して出来は良い方ではないのだけれども、わかりやすさが一般向けの感覚をくすぐる。 一連で凡庸に流れそうなところをきちんと遊離させている。』

13.4738 : ベルゼバブ。  田中宏輔 ('10/10/01 20:48:34 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101001_598_4738p

『僕は、これは、詩における広義の間テクスト性の問題と、作者の意図しない、あるいは意図した神話の形成という二つの問題として捉えてみました。

間テクスト性においては、引用されたどのようなテクストも、懐疑を前提に受け止められており、テクストは、すべて、別のテクストに吸収、変形される、ものである」と文芸批評に大きな影響を与えた、ポスト構造主義者ジュリア・クリステヴァがいわれていますが、そのテクストの特性を上手に使って、田中さんは、斉藤茂吉の短歌を引用することにより、田中さんのテクストの中で、斉藤茂吉の短歌が、斉藤茂吉の短歌ではない別のテクストに変容させることに、成功していると思います。

僕は、斉藤茂吉には、ほとんど疎いのですが、僕が考えている正岡子規の後継者の、また「あららぎ派」の斉藤茂吉とは、まったく違う姿で、斉藤茂吉の名前の付した短歌が、ベルゼバブの口から、語られています。ある気持ち悪さを覚えます。その点では、狙いは見事にできていると思います。

田中さんは、斉藤茂吉を通して、人間の持つ、裏側の残忍さを暴き出そうと思ったのかもしれません。あるいは、ある意味、多くの当時のモダニストと同様斉藤茂吉が、戦争協力者であった事実、文学家であるにも関わらず、その安易さは、同時に残忍さの裏返しであると、言おうとしたのかも知れません。
そのために、前もって、斉藤茂吉の特異性を強調する意味で、その田中さんの考えの、ある正当性を作る、からくりの仕組みとして、『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』が作られていると思います。ボードレールの好んで使う「語彙」を引用して、「前半で、これらの語群をキーワードとして用い、斎藤茂吉の作品世界に、ボードレール的な美意識が表出されていることを示し、後半で「蠅」がモチーフとして用いられている茂吉の短歌作品を幾首か取り上げ、『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』を導き出し、その作品世界を新たに解読する手がかりを与えた。」
と言っているように、戦前のモダニストの歌人であった面を相当に際立たせて、尋常ではない美意識の持ち主であったと、言おうとしていますし、この詩(僕はこのテクストは詩ではないと思うので選考対象外としましたが)も、間テクスト性のもつテクスト自体の変形を利用して、効果的に見せていて、斉藤茂吉のある別の顔を描くことに、相当強引ではありますが、ある程度は成功していると思います。

この「ベルゼブル」という詩は、今まで述べた間テクスト性の引用の変容効果という特性に基づいた『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』が、原テクストになり、田中さんが、それの詩的試みとして「ベルゼブル」で、新たな斉藤茂吉像を、間テクスト性という詩的効果によって、再構築しているという二重構造になっているのではないでしょうか。
こうして、作者の目論見は、大胆な構想で成功しているように見えるのですが、唯、この詩が少しも良いと思えない理由が、よくわかりません。

そこで、おかしなところを考えてみますと、この詩は、なぜか斉藤茂吉とベルゼブルが描かれているのですが、それをつなぐ他者としての田中さんの眼差しが、ベルゼブル=斉藤茂吉という断定した目線でしか、見えないです。限りなく詩の一回性の特質を否定した他者として、絶対者のように透明な壁の向こうでみているような感じでしょうか。

田中さんは、そう、丁度、詩人の眼ではなく、このテーマの研究者のような視線で、見ているか、あるいは、自分の手の中で、いわゆる『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』で既成事実化された、ベルゼブル=斉藤茂吉という駒を、自由に転がして楽しんでいるかのようです。詩人としての作者(田中さん)ではなく、まるで作者が作った『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』が、「ベルゼブル」という詩を書いたようにです。
すなわち、この詩は、私的な『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』という思想を、コピーして書いている様に思えるのです。端的にいえば、『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』で、作者の目論見で、意図したかはわかりませんが、詩とは、まったく対局をなす神話を構成してしまっているのです。

『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』という神話をつくり、その絶対性にもとづいて、それを反復することにより、詩の持つ一回性という独自性を消し去っているのではないでしょうか。だから、この詩「ベルゼブル」には新たな詩的創造性も、発見もないのです。
だから、この詩は、最初から、構造的に無理があり、なおさら、やはり、田中さん自らが、ベルゼブル=斉藤茂吉=作者(田中さん)、またはベルゼブル=作者(田中さん)という並列的な位置に、たたなければ、すなわち、自ら作った神話を壊さなければ(ひどい自己矛盾ですが)、この二重構造を壊さなければ、詩に普遍性と広がりを持つことができないと思います。
アリバイを作ったうえで詩を書くという、本来、詩人の姿ではない方法論を用いたことが、僕には、まずかったのだと思えるのです。
この詩を読んでいると、人工的な臭いの濃い物語で既成化された空言を書いているように思えてしまうのです。
唯、この、詩としては常識はずれの構想が、詩人田中さんの、真骨頂と言われれば、僕には、そうですかとしか言うことができませんが、あくまで、僕の拙い私的な考えで、書いたので、僕の間違いかもしれませんし、僕の読みが悪いからかもしれません。』

『斉藤茂吉の短歌を多用していて、ユニークな作りであるのですが、 ベゼレバブ=斉藤茂吉(歌人で医者)に対する、ブラックユーモアとしか、 受け取れない気がする。いわゆる少し前、精神を病んだ者の虐待が問題になったが、 そのことが脳裏に浮かび、きぶんよく読めなかった。 題材の工夫は、評価するが、斉藤茂吉の正しい評価をしているのか、疑わしい、 良いものとは、僕は思えません。』

25.4758 : とうめいの夏  イモコ ('10/10/13 00:12:33 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101013_736_4758p

『ぼく的には極道に寄せられる10代の書き手たちの中で今一番可能性を持った一人だと思います。

>いかないで、なんて
>あなたに言うための価値を私は持っていないのでした(作品から引用)

自分の価値を計りにかける行為というのは恋愛に限らず始終やっていることです。ぼくのかつての上司に仕事と恋愛は一緒だといっていたのがいましたが、仕事論と恋愛論を一緒にする気にはぼくにはなれません。ただ、この自分の”価値”という点では一脈通じるところがあるように思います。

>私を透明にします(同引用)

一時期、去る事件を契機に「透明な私」というキーワードが巷で語られた経緯があります。
<透明であること=価値のないこと>
人間の成長段階では、十分な愛情を受け、自分の価値を”承認”されることで、次のステップを踏んでゆけます。つまり、相手の価値を認められる人間になるのです。相手のために「価値」を譲れるということです。ところでこの作品で比喩化されている「透明」とは何でしょうか?それは論理的に説明することができない、感じることでしか知ることのできない世界、つまり、詩に依るしか表現され得ない事柄が描かれているのです。』

『自覚的ではない書き手だと思います。この作品は明らかに冗長で 無駄が多いのに、カタツムの詩は端的で鮮烈。審美眼で描いているのではなく、感覚に任せて 書いているようです。その危うさが魅力でもあり、未熟でもありこの人の味なのでしょう。 』

『短編小説風メロドラマというところです。 まあ、どうでもよいことを長々と書いています。つまらない詩です。』

『話者のいる世界が描けている。ずいぶん上手くなった、嬉しい。』

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「10月選評雑感パート2(次点・佳作作品)」 

23:49 by gfds

「10月選評雑感パート2(次点・佳作作品)」 
文責=浅井 編集=浅井・織田

2.4766 : 秋の日  田中智章 ('10/10/18 01:52:12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101018_781_4766p

構造としては、点描画みたいなもの。
全体としてあるかたちはとっているが、近づくとなにかわからなくなるもの。
それとともに複雑なのは、作者は、異様な音によって掻き消された音や感覚を取り戻そうと試みているために、それそのものが何なのかが書かれておらず、というかそのような理解をはなれた場所で、感覚してゆくことを志向する。
おそらく近づこうとすることでこの作品の意味は失われてしまう。

ブラームスにおける「郷愁」よりもおそらくは、バルトーク、アメリカに渡ってからの、が志向する方法。
何が書かれてあるか、ではなくて、(おそらく「何も言っていない」)ここからどのようなメッセージを各自が受け取るか、という意味が大きい。

感覚すること。それを志向することで音や五感は消える。
そして、その音や五感が消えた世界へと踏み出す時にはじめて身体感覚として聴こえてくるものがある、それをそのものとして名付けないこと。

注意したいことは、聴こえてくる音の風景は、サウンドスケープそのものではないということ。
サウンドそのものが、その発生とともに、変化しどのように聴かれるのか、というのではなく、

>ほと息を吐く。離れる。つづき。
>互いに距離は保ったままで、
>落下する方が判らないまま静止している。

>雪のごとき融解

>雲と混ざりゆっくり流れていった、
>(私が流した)

というように、感覚される出来事は、身体感覚を通して聞こえるがゆえに、かぎりなくソニマージュに近づこうとしている。

発起人の寸評として。
『意味を形成するかしないか、ということに頓着しないで、 感覚的な言葉の配置に賭けてみて、さて、どういう「私」が 詩の中から出現するか、という試みのような詩だと思いました。 いわゆる「詩」を書こうとしない作者の、孤独な姿勢が貴重だと思います。』

『詩は、主観的なものであるが、その意味では、作者はそれに忠実である。 作者は、自然を、極めて感覚的に、あるいは、唯心的に捉えていて、本来の一般的な目で見る風景あるいは情景と考えられるもの、が完全にそぎ落とされている。とても難解な詩であるが、 題名の「秋の日」を手さぐりに読めば、それを書いているのだろう。 昔風に言えば、モダニズムの典型的な詩であるといえるのだろう。 詩に思想やメッセージ性は不要であると作者は考えているのだろうが、 70年代の以降の、こういう脱―現代詩(戦後詩)の詩が、いかにも現代詩という風貌で書かれているのは、とても、印象的であった。』

『いつも臨床的なことを考えてしまう。 コミュニケーション・パターンの低下。 巧い詩作品なのだけれども、技巧が見えて思考が伝わるのは何故だろう。 たまには言葉に頼ってみても良いのかもしれない。』
などがありました。

8.4789 : 詩片1  ヒダリテ ('10/10/28 16:12:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101028_951_4789p

発起人の寸評から。
『一読してハーモニー・コリンが書くような散文詩の世界を想起しいました。あるいはその影響が感じられます。ヒダリテさん自身がマルチ型の人間なので、たとえば彼やウォーホル、寺山などのいき方、キャラクターを自分なりにクリエイションしていくことが、才能を伸ばしていく道なのかもしれません。』

『読み始めてから、徐々に面白さが減じていく、妙な作品。 マジメに「詩」を書き始めた自分に対して、だんだん 自嘲的になってくる、その過程が詩に現れているようです。 』

『ジョークがとても効いていて、楽しく読める。 「屋台にて」は単なる下ネタで馬鹿馬鹿しいが、 「郵葬」「儀式その2」「面倒くさいやりとり」は、とても、センスの良さが伺える。 とくに、「儀式その2」は秀逸であると思う。』

『ショートショートとして 相当な位置にあります。 気軽に読めるところが良いですね。』

37.4754 : 正午  リンネ ('10/10/11 01:36:34)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101011_722_4754p

(各発起人の寸評から引用)
『設定が現実から遠く離れてしまい、リンネさんの良さが見えませんでした。 こういう作品をたくさん書くと、どうしても磨耗するでしょうから、 これからが正念場だと思いました。』

『読み物して、また謎めいていて面白い、よくできていると思います。 証明写真にも人格があるということは、今の社会では、必要不可欠の 運転免許書、履歴書を見ればわかる。 そんなところを、風刺しているのかもしれない。 その風刺の独創性と、鋭さが良い。』

『さかさまだったのは、どちらの私だろうか?
は、もう一ひねり欲しい部分。 毎回おなじなのだけれども、設定を変えているので楽しめる。 本当に毎回おなじなので、一冊にまとめると色々な部位が目立つだろうことが気になる。 互いにマッチのように擦り合う場面は、巧い。』

12.4791 : ひかり  yuko ('10/10/29 17:58:45)  
URI: bungoku.jp/ebbs/20101029_963_4791p

(各発起人の寸評から引用)
『わたしにとって、世界(a)はあなたであり、あなたの喪失によってはじめて、(失われたことで、思い出として固定化された?)世界(a)と交われ、同化できたわたしが、世界(b)に「ゆっくりと」走り始める。ということだろうか。全然違うかもしれない。 わたしに向かう、丁寧に尽くされる言葉たちが、わたしから魅力を奪っていく、ような気がした。 それから、「私」から「わたし」への表記の変化が、意識しているだろうかと、気になりました。』

『皮膚感覚から遠い言葉を、あまりにも自在に操れるようになってしまうことのつまらなさ、 yukoさんの作品を読むといつもそう思います。できれば、ここから脱却してほしいです。』

『技巧だけならば優良でもよいのかもしれない。 作者は毎回、何故とおいところで書くのだろう。 距離を気にしすぎなのでは。』

『実体験か、作り物かは、わからないけれど、とても、感傷的な詩であり、 自己陶酔的でもある。 この場合に、「あなた」という存在を、 限りなく作者の感情で作った「あなた」とイコールで近づけようとしているため、 もともと、絶対というのは、ないのであるが、 作者は、自己そのものを絶対に近い、疑うことなく信頼で、いわゆる 「世界」(「あなた」と、「自然一般」にも限りなく自己同一性を求めている、そういう世界)をつくり、その「世界」に陶酔して、あるいは感傷的なかなしみによって詩を書いているのであると思う。だから、とても読むものに違和感を与えてしまうと思う。端的に言えば、 この詩では、いわゆる「存在」としての自殺した女性に対して、「存在者」としての「語り手」が自己同一性を限りなく求めているので、 自己愛のエリクチュールとして表れるのだろう。 ここで、例えば、ダリダのいうところの、痕跡、差異、残存の、いわゆる「不在」のざわめきのようなものに、作者が気づいて、詩として表せていたのなら、詩が、あるいは、新鮮な言葉が立ち上がっていただろうと推測されます。 唯、文章は丁寧に書かれている。努力賞というところでしょうか。』

『黒澤さんにあなたはセカイ系かと罵倒されていたが、同様の感想は抱かなかった。若いのに自分は感覚だけで書くものではないという高い意識を持っていると思う。』

22.4741 : Re:Re:  村田麻衣子 ('10/10/02 13:04:19)  
URI: bungoku.jp/ebbs/20101002_611_4741p

ずれと距離の遠近がたえず作品のなかに瀰漫しており、このバランス感覚が読み手をクラクラさせる。

>コンクリートに埋めても充填しない空腹感
というずれと、
>いつだって、窒息できるから ボートにのっけてあげた
というずれによって生じる距離を、私の側からひきよせようとする意志。

>向こう岸のホームレスの顔が見えない。
というずれと
>胸に触れた手には垢
という私の側の感触。

>まっくらな真夜中にもういちど目を覚まそうとする、
私の意志と
>子たちは 粒子を真昼の試験管から 取りだせないからっぽになる
という距離が生じる瞬間。

私の意志が、現実として発現される瞬間に、環境はたえず私の意図を阻害し、私にずれを感じさせる。
このような現象が私に対する現実の認識に関与するとすれば、

>聴こえてくる神様とのおしゃべりで、眠りにつけないんだ って。

という、一方的な、あるいは成立しない関係性の構築への志向へとむかう
ここから生じる事態は、言葉が、それ本来としてそなえている意味の伝達機能を欠落させて、無機的な声そのものとして響いてくる事態であり、コミュニケーションとして他者との関係を織りなすことがなく、断片として死んでしまう音が山積する事態である。

私が、この作品にある程度の嫌悪感と可能性を感じるのは、

>いつだって、窒息できるから ボートにのっけてあげた。

>あなた制服は似合わないけれど 一昨日のミリタリージャケットよく似合ってた

>それに乗って遠くへ行きなさい 

と発話する主体が、応答するという反応を期待していないことを了解していることではなく、応答に応えることのない不在の者さえ設定することを無意識に拒んでいるからであり、声が切りつめられた声のまま流通している事態が起こっているからだ。

(以下、発起人の寸評から引用)
『思いついた気の利いたフレーズを繋ぎ合わせたという作品。 可愛さが際立ちすぎて、言葉遣いの面白さが色あせて見えてしまいます。』

『言葉の持つ法則、あるいは原則、 のようなものがあるとすれば、そこから逸脱している、独自の文体であると思う、評価の分かれるところだと思うけれど、よい詩であると思う。
しかし、もう一つの「新種果実」より、さらに、この人の文体の特徴を際だたせているので、あまり突き詰めると、詩の言葉に具体性を持たなくなるのが心配です。』

『レディコミ要素で絵がない余白を十分に発展させている。 この作品ならタイトルもスムーズ。 故意の神様は、90年代の想起でもある。 もう一歩ほしいとも思う。』

21.4778 : (無題)  イモコ ('10/10/23 18:56:05)
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かたつむりに起こった事態が、私の感覚の領域に浸透してゆく事態。

>私は、なんてことを!
私にとっては「意外な出来事」として書かれているが、このような事態は、誰にとってもいつでも感じている事だと思う。
感覚の、相互間の浸透。
だからこそ、ここで大事なのは、
>この主人公の意識の移り変わりそのものはとてもリアルに描かれていて、
ということではなく、

ナメクジにおける出来事と、私における出来事の相互間の「感覚」にたいする認識の「翻訳」を読みとってゆくことではないだろうか。

>やせ細ったカタツムリは
>しだいに太りだし
>助かった、

>と思うと

この事態に対して「助かった」のは「私」なのかそれとも「ナメクジ」なのか、それとも両者なのか、そしてその事態はどのような「交流」と他者への「翻訳」または「誤訳」から生まれるものなのか、ということから見えてくるものがあるかもしれない。

極論すると、このような感覚が洗練されれば、行きつく先は。

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔   飯田有子

と似たようなものになるだろう。
この短歌に対して、永田和宏は
>相手は自分の気持ちをわかってくれるはずだというまず前提がある(略)細かいディディールは必要ない(略)だから「たすけてたすけて」だけでいいわけ。なにをたすけてとか、どうたすけてとかは問題じゃない」といい、

それに反対する形で、ひぐらしひなつは
>「他者にわかるはずはない」というところから出発しているように見えると前置きして、このように解釈する。

>「たすけてたすけて」ということだけでいい、けれどもそれは他者に向けられたSOSではない。その叫びは闇に向かうものであり、読者へのメッセージではない。

ここでの「私」も、
>今すぐ、私の、うすべにの傘を持って
>迎えにきてください、君

と外部の空間を設定しているが、おそらくそれは、ナメクジとの関係性を断つための言葉ではない。外部を設定しなければひとりでに交流を放棄してしまいそうな事態にあって、自分を客観化し、ナメクジとの交流に向き合うためのバランスをとるためにわざわざ「外部」の空間を導入して、「私」をその空間にとどまらせる。
そのために、
>蝸牛の角のしまっているときは
>空が晴れるのですって、君

のような言葉は、虚空に向けられていて、対象を持たないただの声そのものとなってだれにも届くことはない。

だからこそ終わりは
>どうか
>あぁかたつむり つのをだせ

>私は、なんてことを!
と、まなざしは「責任」をもって痛みを否応なく感受してしまう。
他者の「痛み」を、自覚することに先立って感受してしまっている場面が書けていることが、この作品の価値だと思う。

(以下、発起人の寸評から引用)
『異色作。塩をかけられて縮んでいくカタツムリと青空。お弁当に付いていた塩の小瓶と 水筒の烏龍茶。ウィンナーの串。このあたりの取り合わせが、現実と妄想を行き来する 通路として、上手く使われていると思います。』

『なぜ、カタツムリなのでしょうね。 やや、残酷であり、また自虐的でもあるのですね。 詩集の中にあれば、面白く読めるでしょうが、単品ではどうも、 読後感も、あまり残らないというところでしょうか。 ここまで書くなら、風刺的なものがあってもよいと思うのだけれど、 きっと、そういう発想もないのでしょうか。』

『今月は、どうでも良いことに、どうでも良くない感情を投射している作品が多い。 この作品も、その一つ。 動作の分裂性から垣間見えるものは深淵の確かだ。 最後は、今一つ。』

51.4744 : 『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』。  田中宏輔 ('10/10/04 00:05:46 *3)
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ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも     (『赤光』)

>一見、何の変哲もないこの歌が、「卵」を「赤ん坊」の喩と解することによって、「ひとりでいるとき、赤ん坊を茹でていると、煮えたぎる湯のなかで、その赤ん坊の身体がゆらゆらと揺れ動いて、それを眺めていると、じつに楽しい気分になってくるものである」といったこころ持ちを表しているものであることがわかる。

問題は「私にとって」このような展開の方法では、このような解釈はできない、ということ。だろう。リアリティをもって立ちあがってこない、といいかえてもいい。

アララギ派のように、短歌そのものが自己の体験に重ね合わさり、二重化してゆくというプロセスを、私は、したことがないのだし、

>茂吉の、気狂いに対する ambivalent で fanatic な思いは、どこかしら、彼の昆虫に対する思いに通じるところがある。
というように、斉藤茂吉の短歌では、発話者は「自分」であり、自己の精神がそのまま投影されるという事態として作品に現われる

この構造を、理解することが、私にとっては難しい。
自己の精神が、そのまま毀損なく作品に込められるという事態に対する困惑がある。
また、

     まもりゐる縁の入日(いりび)に飛びきたり蠅(はへ)が手を揉むに笑ひけるかも     (『赤光』)

     留守をもるわれの机にえ少女(をとめ)のえ少男(をとこ)の蠅がゑらぎ舞ふかも     (『赤光』)

     冬の山に近づく午後の日のひかり干栗(ほしぐり)の上に蠅(はへ)ならびけり     (『あらたま』)

     うすぐらきドオムの中に静まれる旅人われに附きし蠅ひとつ     (『遠遊』)

     蠅(はへ)多き食店にゐてどろどろに煮込みし野菜くへばうましも     (『遠遊』)
という作品を挙げてから、
「蠅」が茂吉にとっての重要なモチーフであることは一目瞭然である
でなく
>「蠅」が茂吉の使い魔であることは、一目瞭然である
という展開につまづかざるをえない。

短歌におけるこのような発話者の質的断絶を、たとえば、

1 中井英夫が見いだした塚本邦雄の「水葬物語」(1951年)の登場とするか
2 斎藤茂吉、折口信夫が前年に死去し寺山修司が登場した1953年を軸とするか
3 穂村弘と石田比呂志の断絶として読むか

によっても違ってくるだろう。

しかし、発話者としての「作者」のリアリティが断絶し喪失したうえで、物語の構築というあたらしい発話のリアリティが(作者のリアリティよりも)私のリアリティを補完するという構造が現代の「空気」としてあることが実感される。

わたしの実感では、作者の声は、物語の中にあってとぎれとぎれに聴きとれるものとして流通してゆく。
そのような「空気」のなかで、このような斉藤茂吉の発話による「リアリティ」を実感するのは、私にとっては困難だ。
それは「時代性」といってもよいだろう。
たとえば、現代における私が、たとえば、「アザラシのタマちゃんブーム」や「WTCの爆破テロ事件」、「小泉政権への支持」などの、たしかにあの時代には肌身に感じた「熱狂」を、ふたたび追体験することができないような。あたまではわかるが身体経験としてもう一度理解するにはとても困難がともなうような。

斉藤茂吉という「時代性」に関わるとき、現在に置いてとることのできる「スタンス」を列挙すれば、

1 畏怖すべき対象を現在の私側にあるリアリティに変換しこちらがわへと噛み砕いて咀嚼するスタンス

2 過去の「時代性」の感覚を、現在の私たちの感覚へとリメイクするスタンス
これは石川啄木の作品「一度でも 我に頭を下げさせし 人はみな死ねと いのりてしこと」をリメイクしたもの

>一度でも 俺に頭を下げさせたやつら全員 死にますように 枡野浩一「石川くん」
    
3 作者とは異なる性を発話者として作品を構築するスタンス

こんなにも風があかるくあるために調子っぱずれの僕のくちぶえ 山崎郁子
あたまから木がはえるのがゆめよ、ええ、まみ、あたま木になるの(木あたま?)穂村弘

4 自己そのものでさえ消去してつぶやきしか残さないスタンス

>ハロー、朝。ハロー、静かな霜柱。ハロー、カップヌードルの海老たち   穂村弘

「朝起きて、霜柱やカップヌードルの海老にしかハローと呼びかけられない若者の孤独感が君には分かるか?この短歌をネットカフェで朗読したら、おそらくあちこちからすすり泣きが聞こえるだろう。」磐田享の注釈

このようなスタンスが考えられる。とにかく対象をこちらがわへと引き込むスタンスしか「現在」における私は考えられない。
そしてまた、茂吉の時代性をくぐりぬけるために、アララギ派の系統を簡単に思い返すのなら、その水脈は吉川宏志や大辻隆弘にまでたどりつくだろう。
紫陽花に吸いつきおりしかたつむり動き始めて前後が生ず
さくらふぶき流れて茂吉胸像の丸き眼鏡にレンズはあらず     吉川宏志
踏切の向かう燈火に照らされて異界をぬらすごとき夜の雨
つきかげは細部にも射し陶片の青磁のいろの夜半のはなびら   大辻隆弘

ここでようやく、対象を正面をきって捉えようとする事態はすくなくなる。
見る、という認識は、そのものを認識するのでなく、認識においてあらたな事態を発見してゆく出来事となり、私性を保持する。
この構造でさえ私は、リアリティをもって捉える事が出来ないでいる。

茂吉の歌を引用して、新しい茂吉像に焦点を当てる試みは、数多くあるが、スタンダードな方法として吉川宏志の「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容―男性歌人を中心にー」が挙げられる(茂吉が引用されるのはわずかなのだが)
そこでの展開の穏やかさにくらべれば、この作品のアブストラクトは、新しい物語を構築する予感に満ちている。
「時代性」にたいして、作者の感じたリアリティがそのまま短歌作品にあらわれてくる、というスタンスを、どこまでも信じれない、という気持ちは、たとえば、この作品の可否を、茂吉の発話する声に加担する「時代性」を、ベルゼバブとして回収する際の作者の発話者としての声が、どのように茂吉のリアリティを制御し、自らのスタンスをくずさないで語ることができるのか、という点に収斂してゆくために、このような予感はうれしいものとなる。
いかに茂吉の発話を剥ぎ、作者の声を響かせるのか。
しかしこの発話の構造は、ベルゼバブという物語に回収されるプロセスのなかで、ベルゼバブとして語る発話者が、この「発話者としての茂吉」の構造を転換することなく、展開の飛躍がベルゼバブとしての発話の強度として響かずに、茂吉のつぶやきの一側面を強化してしまうにとどまっていることが、最後までこの作品を読んでも、リアリティが感じられずに、作品として立ちあがってこなかった原因であるように感じる。

(以下、発起人の寸評から)
『田中さんほど自由を感じさせる人はいません。こういう作品、アリなんでしょうね。 知識人好み? の作品かもしれません。 詩としては、「ベルゼバブ。」のほうが、力あると思いました。』

『故意の偶然性が田中さんなので、何をやっても良いのですが、
うーん。』

39.4748 : Rainy seconds  破片 ('10/10/08 13:03:05)  
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「言葉の尽きた歌」が歌われるまえの、それが降ってくる瞬間を切り取った世界。切り取った、というには、あまりにも生成の予感が偏在しているため適切ではないだろう。

ここで起こっている事態は
>時計が刻む一秒間、
を軸にして、
>アコースティックベースのピック
>暖色照明で浮かんでく部屋
>マルボロの燃える香草
>友人が組んだメジャーなコード
>宿る、素粒子
たちが世界へと拡がろうとする運動と
>言葉の尽きた
>歌を
>うたおうとおもう、
>そのブレスの度に、
>わたしたちはうまれる、
という私の「数えきれないその一秒」へと収斂してゆく運動の交差だろう

名付けるにはあまりにも日常側へと寄りかかりすぎたものたちが放つハレーションを私の中に透過させてゆくための前段階として、言葉として確定してしまってはその物質が内在する躍動感を喪失してしまうだろうという事態の中で、私は「喉そのもの」として、「世界」と「言葉の尽きた歌」の中間に位置する感覚器を志向する。
歌い出す前に、私を取り巻くものの、その本質をうまくつかめなければ、ただの日常として潰えてしまうその一瞬のうつくしさを目指して、しかし、その目指された「ブレス」は吐きだされたその一瞬に、いかにその瞬間性を孕もうとも、その一瞬性の中に取り囲まれるのではなく、現実の世界にさらされ、そこでいかに聴衆との出会いがひらかれているかを探りはじめる。 「私」にはそれがわかっており、その「言葉のないブレス」を通じて「私」という主体が一瞬の連続体である「世界」と結ばれることを望みつつ、一秒への収斂へと意識を凝らす。

(以下、発起人の寸評から)
『久々に破片さんの良さが際立った作品だと思います。』

『「一秒」という言葉が印象的です。よく書けていて とても繊細な表情を見せています。詩のリズムもとても良いです。』

『作者は段々と悪い方向に行っているように思える。もっと素直に書いて良いのに。見失っているような。』

14.4770 : 木杭  鈴屋 ('10/10/20 08:53:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101020_814_4770p

(各発起人の寸評から引用)
『「私」を木杭に見立てるイメージが、とてもよく描かれていると思います。 ただ、木杭にしては、ちょっとカッコ良すぎるかな、と思います。 はなびさんの言う「枯れせん」、まさにそんな感じです。』

『何か寂しい詩ですね。とても静かに進行する言葉に、熱のようなものを感じられない。
自我没却のような禅僧の詩のようにも思えてしまう。』

『題材が、良くなかったのだろうか。 丁寧に書かれている。』

『我は草なり伸びんとす
高見順的意識の保ち方が、今まで以上に素直な作品を産んでいる。』

10.4794 : ラジアータ  しりかげる ('10/10/30 18:53:07)  [URL]
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土着性の不足について

根本的な考えとして、彼岸花の存在する形態が、家族間の関係性を暗示しているのだけれど、これがいかに上手に書けていようとも、彼岸花=家族の比喩としてしか機能しないわけで、土着性の観点からいくと、彼岸花のゆがんでゆく、または複雑なかたちをとってゆく「成長」の段階が、家族関係のプロセスにどのように影響を及ぼしていくか、あるいは彼岸花がゆがんで複雑に成長してゆくプロセスを家族が抱えこんでゆく厄災のプロセスとどうリンクさせ、それが彼岸花が原因であるかのように書ききるのか、それが花の形態としでだけでなく、匂いや雰囲気としていかに家族の側に深く浸透し、「作者」の記憶の底にこびりついた出来事として説得力をもって書き記すことができるか、が焦点となるように思える。

考え方の類似と乖離について 吉田文憲「花輪線へ」
書法について 土方巽「病める舞姫」

ラストの結末も凡庸。

「背伸びして書きすぎで、作者自身の良さが消えているような気がしてなりません。 私的な匂いがする詩なのに、誰が書いてもいいような詩が出来上がっています。 」

「とても、上手に書けていると思います。 ちょっとした掌小説を読んでいるようです。彼岸花の添えた花瓶が割れることが、 家族(と呼ばれる奇妙な関係)崩壊をイメージとして捉えている。

>それはとても複雑なかたちをしていたので、元には戻らないと知っている。だから新し

>いのを摘み取ればいい。そういう呼吸法しか習ってこなかったから。瓦解と分娩を繰り

>返して潮が満ちそして引くように、同じ工程を幾度となく消化するうちあちこちが麻痺

>してしまって。
と言っているように、彼岸花の比喩は、夜やってくる男のことなのでしょう。 関係が壊れると、違う新しい男が来るのでしょうか。 最後は、私が、家にただ一人で、昔を回想しているというところでしょうか。 内容は、どうでもよいような話です。そして、 何か、中年以上の初老の書く散文のようです。」

20.4773 : 新種果実  村田麻衣子 ('10/10/22 07:22:56 *1)
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(各発起人の寸評から引用)
『独特の言葉回しは、作者独自のもので、読んでいて楽しくもあり、当惑もあります。 鋭い感情のベクトルが、隠されているような露であるような、巧みな作品だと思います。』

『とても、エロい詩なのに、エロく感じないのは、なぜだろう。 造語が、うまく機能して、俗っぽさを隠しているからだろうか。 詩自体は、大したことは、書いていないのですが、 いずれにしても、このひとの文体は、もって生まれた才能であると思う。 大事に、育ってほしいです。』

『岡崎京子のようなコミック的残響。 わざとレディコミ的余白を作り出していることから統合を性と生を見出しているように思える。 タイトルが読んだ後に脆弱に思えてくる。』

17.4780 : インテリジェント・デザイン  yuko ('10/10/23 23:11:36)  
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『yukoさんは、タイトルがいつも洒落ているけれど、内容と照合するとちょっと大袈裟な タイトルかなと思います。先月の「系統学」とか。この作品も、テーマは壮大ですが、 内容としてはロマンチックで感傷的なイメージの羅列という感じがします。』

『難解な詩である。出エジプト記を連想させるひとびとが現れたり、 毒薬を飲んだ遺伝として存在するわたしたちが、舟で旅立つのは、 新たな世界へなのか、出産のイメージなのか、 題名のように、デザインのような詩であるが、複合的なイメージが含まれているのだろう。』

『強烈なフォロワーから技巧を学ぶファンになっている。 この嘘くささは何だろう。 巧いのだけれども。』

☆以下は落選した、各作品によせられた発起人の寸評です。

47.4743 : 水銀浴  坂口香野 ('10/10/04 00:03:18 *2)
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『怪しげな「ウンチク」を織り交ぜながらの語り、という坂口さんの作風が、 今回はうまくいかなかったようです。なぜ「苦さ」なのか、という入口を、 もっと飾る必要があったのでは。 」

『とても、美しく流れるような詩です。 ただ、唐突な言葉や、性急な言い回しで、気になるところがあり、 読み手が、置いてきぼりにされるようなところがあります。 まあ、僕の読みが拙いのでしょう。』

『タイトルの内側すぎる。上手に書けている。 もったいない。 上手だと粗が目立ってしまう。』

5.4796 : 媒鳥  はなび ('10/10/30 23:36:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101030_984_4796p

『気の利いた小品。もうひと捻りが必要かなと思います。』

『「り」という言葉の余韻を扱った詩であるが、 それ以外、何も受けるものがない詩です。』

『遊びが、それなりな小さい作品。 何故か遊んでもムカつかない。』

30.4775 : 水中花  しりかげる ('10/10/23 03:41:54)  
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『一連が素晴らしいのに、その後が厳しい。 「産む」ということについての観念的なアプローチが、かなり雑だと思います。 卵巣、分娩、流産という言葉に、引き摺れているというか、過度な意味を負わせ すぎているように思います。』

『語り手は、母親に対して、負い目を持っているのだろうか、 例えば、不治の障害とか、その苦しみの詩のようにもみえる。 第一連目の表現が、独創的で良かった。』

『葛西さん的部位もあるけれども、2連目からの距離感が生々しく巧い。 ここから独創性を出せたら、もっと上にいく作品なのかもしれない。』

7.4769 : 旅行記  右肩 ('10/10/18 23:20:30)
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『体裁は整っているけれど、とくに面白みが感じられませんでした。』

『職人としての巧さ。』

11.4783 : 生き抜くために死んでいる/きんいろの森/きんいろの波  石田圭太 ('10/10/25 12:29:30)
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『曖昧に始まり、曖昧に終わってしまう、そんな印象でした。 「蹴りあげる」という言葉に迫力があって、とても良いと思ったのですが、 周辺に効果的な言葉を配置できずに、活性化できなかったように思います。』

『水とひかりだけの世界のイメージが、出産(あるいは、旅立ち)のきんいろの世界へと繋がっていく、 最後の連は、眩しいくらいに、ひかりのイメージを感じる。』

『全くの私見ですが、この詩もそうですが、他の 多くの投稿詩に言えることであるのですが、ただ必然的な場合は、しょうがないと思うし、 また、そういうときは、そうすべきであると思うのですが、 一般に「僕」でもよいのに、わざわざ、「僕達」と使うことである。 この場合には、「僕達」という連帯や共感のための言葉ではなくて、やはり、「僕」とするべきではないでしょうか。なぜならば、かつては、戦後詩の共通の認識のなかに、「われわれ」「僕達」「私たち」で括る、戦争体験や戦後の政治運動の体験という連帯性で、結ばれた詩を 書いていた時代があった。同人誌「荒地」が、代表的であり、その時代は遠い昔に終わったはずであります。 そして、あたらしい時代の詩を求めて、 多くの先達の詩人が、そこからの決別、あるいは清算に努力したのである。 だから、 21世紀の新しい詩人は、さらに、多くの多様性の中で生きているのであるから、「私」「僕」という言葉で書くほうが、より、自然であると思うのであるが、個人的な意見です。』

『悪くはないので、改行の重要性と綴りの重力を合わせて考えてみて欲しいと思った。』

3.4793 : 僕が想像するところの「愛」  右肩 ('10/10/30 04:29:04)
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『「想像するところの」というタイトルにしては、想像力があまりにも 不足していて、テレビで仕入れた情報のつぎはぎのような作品だと 思いました。採用している小道具のほとんどが失敗してるような。 英検一級、日商簿記、パワポ、辻仁成、雪の華、等々。 読者を「ニヤリ」とさせようとして、実はガッカリさせてしまう、 このあたりの「ズレ」具合の修正が必要かと思います。』

『手紙かなんかの告白風に書かれているが、 「愛」に向き合っても幻想にすぎないと言っているのか、愛は不毛だということなのか、 まあ、いずれにしても、怠惰な自分の独白であると思える。 ある意味、自然主義文学風の作者自身の人生に冷めている生活感が表れているが、 唯、女性に関する部分が、かなり作り物の感が免れない表現設定となっていると思う。』

44.4749 : それぞれに永遠  ぎんじょうかもめ ('10/10/08 14:09:19)
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『「もし彼女が死んでいたら/ぼくはこの話をもっと/印象的に話せるんじゃないかって」 この発想に驚きました。確かにそうだなと。このようなイロニーが、ぎんじょうかもめ さんの持ち味だと思います。』

『まあ、よく書けているといっていいのか、やや疑問です。 「存在」という言葉を詩の中で多用するのは、どうだろう、 また「馳駆し」という言葉も堅苦しい、この詩に似合わないと思う。 また、説教じみたり、読み手に、語り手の気持ちを押し付けているところが気になる。』

31.4763 : 耳が聞こえる  藤村と四季 ('10/10/16 03:00:57)
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『「耳は、私とは別の生命体なのだ」この発想は良いと思いました。 たけのこさんが書いているように「すばらしく詩的」だと思います。 でも作者自身の意図はそこにはなくて、なにかモヤモヤした感情を上手く言葉に できていないもどかしさが、詩から伝わってきます。』

『これは、耳の話なのだろうが、途中で、イメージが錯綜して混乱させる。 そして、最後の落ちが、耳だけでなく、目も見えないというが、そうすると、 語り手がイメージした、生き生きとした娘との顛末は、想像なのか、 説明がつかなくなる。』

4774 : 席がない  西 ('10/10/22 18:59:45)
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『「僕」の存在感の無さが妙に印象に残る作品でした。 もう一作、読んでみたい気がします。』

『たんたんと描写していくのは、好感を持てるが、何も工夫がない。 読み手に訴えるものが欲しかった。 電車の中の風景で、吉野弘の「夕焼け」というのがあるが、 それを思い出した。』

『くだらない緊迫感が素晴らしい。どうでも良いことだが、どうでも良くないことを掬い出す能力は大切にして欲しい。 優良でも良いと思う。どうでも良い席がない作品。』

4767 : UNA UVA  はなび ('10/10/18 14:14:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101018_788_4767p

『ふとしたことから狙い定めたエロスへの転移。よくある手法。作者の持ち味でもある。
最終の方、もう一展開あってよい。』

『身辺雑記の心境を述べているだけの詩である。 投稿するなら、自分にしかかけない詩を書いてほしい。』

4755 : ベッツィー  J ('10/10/11 03:09:28)
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『「オンナの皮」というのは面白いと思いました。』

『まったくの作りものの詩である。 ベッツィーについて一方的に語っているが、まるでベッツィーの声が 聞こえない。』

『とてもコミック的行間。 コミックが詩情を逆転的に取って変わっている証明なのでしょう。』

4786 : (無題)  松戸(緋維) ('10/10/26 22:22:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101026_935_4786p

『毎日のまとまりない、どうでも良い日々が本当に、どうでもよく書かれている。
この、どうでも良さはなかなか出せないように思えた。』

『心象風景を描いているのだろうが、もっと書いてほしかった。 短すぎて物足りない。』

35.4768 : 星迎え  石田圭太 ('10/10/18 17:05:00)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101018_790_4768p

『作者自身が、強くイメージできていないようです。』

『儀式の場面を描いているのだろうか。江戸時代以前は、祭りとセックスは セットであったところが多かったといいます。そんな様子を描いたのでしょうか。 また、もっと昔の原始の時代の話にも読める。 多分、乱交パーティーのような情景を、 抑えて詩の表現で書いているのは、とても好感が持てる。』

『正直、気になる作品でした。
(穴)
(鳴り止む音)

 (瞼を閉じる)
 (光)
などを削り、連を設けずに繋げた方が不可解で暴力的事象の内界に飲み込む力が生まれるような気がします。 書いてある文章は良いけれども演出が過大であり成功していないように思えます。』

9.4788 : 脳内建築  リンネ ('10/10/27 21:01:25 *2)
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『「マタレテイル」という言葉を、もっと展開できると良かったと思います。』

『バベルの方が良いように思えた。客観性の喪失。』

『階段の場面は、入沢康夫の「牛の首のある三十の情景」という詩の中で、 似たような描写があるので印象的である。誰もが、夢のような世界を感得するときは、 似たような風景が浮かぶのだろう。 あるいは、この詩の作者は、幻想的な詩を好んで書いているので、入沢康夫の影響 を受けているのだろうか。 今回の詩は、先月と比べると、もう一つしっくりと納得できないところがある。 この脳内建物は、複雑な構造となっていると作者は、書いているが、詩の描写では、 場面こそ変わるが、それほど、複雑に描かれていない。むしろ、階段と玄関付の部屋の話で、ごく単純である。夢のように場面が変わるだけである。 すなわち、僕たちがよく見る夢の世界を文章にしただけの様にも思えてならない。 その辺が物足りないところである。』

40.4764 : かがり火  たけのこ ('10/10/16 12:48:05 *26)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101016_765_4764p

『厳しく削られた、良い作品だと思います。が、もう少し情感の膨らみを 作者自身が許しても良いのでは、と感じます。』

『最終連を再考すると次点。 この形式は古いけれども強い。』

『随分と古風な、そして詠嘆な詩であると思う。 何か、戦前の詩を読んでいるようだ。』

4760 : 滲む日  ゆうう ('10/10/14 09:48:52)  [Mail]
URI: bungoku.jp/ebbs/20101014_747_4760p

『気になる作品でした。「種明かしの種握り潰しても」や、 「飛べない鳥が這う様に寝転んでいく」、このあたりの 表現が良いと思うので、もう少し書いてほしい書き手です。』

『これだけの短さなら、とてつもなく生きた言葉がないと詩にならない。 凡庸な言葉が書かれているだけであるので、 もう少し、長く思うところを書かないと読ませる詩にはならないだろう。』

『とても素直な作品。悪いとは思わなかった。 作者には注目してみたい。』

4790 : 組詩 二十三歳の遍歴狂時代  丸山雅史 ('10/10/29 07:30:01 *3)  
URI: bungoku.jp/ebbs/20101029_959_4790p

『丸山さんの詩への情熱には感動すら覚えます。ただ、作品からは情熱よりも騒々しさを 感じてしまい、読むのが疲れます。この点は、やはり、時が解決するのかもしれません。』

『長い長い、読んでいるのが苦痛である。 女性は、死んでいるのか、生きているのか、語り手の一方的な妄想的な片思いなのか、 よくわからない。女性のことばかり書いていて、読んでいて、時間の無駄のように思える。』

『巧い部分だけ切り取ると良いのかもしれません。』

4761 : 祈り  はるらん ('10/10/15 01:59:25)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101015_757_4761p

『まず、完全な作り物で、それも、そこらに転がっている三文映画にあるような出来合い品 で、ごまかしていて、語り手も三文映画を演じているが、作品に、語り手の生の姿がどこにもいない。』

『分かりやすさが説明に傾きながらも、乾いた感覚が現実的でない現実を妙にはっきりとさせている。 次点でも良い。 展開というか、最後にかけて先が読めてしまうのは作者の癖なので、そこで損をしていると思う。』

4771 : 白蝶貝  たけのこ ('10/10/21 17:09:43 *1)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101021_832_4771p

『短い作品の中に、情感が沢山こもっていることは解りましたが、 そのために言葉の柔軟さを失ってしまい、古風な印象だけが 残ってしまう、すこし残念な作品でした。』

『詩を書いていく手法は、見るものがあるが、特に第一連目。 その緊張感が、第二連目まで続いていかない。 ただ、そのほうが、諄くなくて良いのかもしれない。 詩の内容は、あまりにも凡庸である。』

『毎回、変えてくる。意識的にこのラインで伸ばした作品を読んでみたいと思った。』

4757 : 愛の証人  野の花ほかけ ('10/10/12 18:36:52 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101012_734_4757p

『パンティが証人になるという面白くもない発想と、まったく官能的ではない 性愛の描写に辟易。』

『ベタなポルノ風な詩です。 表現もとても下品なところがあり、読むに堪えない代物です。 いや、笑いを取るつもりで書いたのなら、笑えるところもあり、 読めなくもない。』

『それから わたしたちは最初の情事を終えた後、
からは段々よくなっている。最初が中途半端。中途半端な下半身は誰も見たくありません。』

4779 : 奇妙な符合  大丈夫 ('10/10/23 21:45:22)  
URI: bungoku.jp/ebbs/20101023_862_4779p

『最初の半分くらいまで、粕谷栄市の散文詩風に進んでいったので、面白く読めたが、
途中から、語り手のゴリラに対する内省的な姿勢がなくなり、 語り手の、日常の雑記的な心象風景に終始してしまい、 なんら、詩に広がりを持たない、退屈なものにしてしまっている。』

4777 : 皮下  ゼッケン ('10/10/23 17:59:44)
URI: bungoku.jp/ebbs/20101023_856_4777p

『SFチックなのは、読んでいて面白いが、こういう詩には、風刺や、 批評性があると、大変良い作品になると思うが、何もない。』

※注記:寸評は選考過程で書かれたものであることをお断りしておきます。以上。

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9月分選考雑感 選評 パート3

2010-10-23 (土) 21:53 by gfds

「9月分選考雑感 選評 パート3」文責 泉ムジ

#
4709 : 終わり  ただならぬおと ('10/09/17 23:31:00 *3)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100917_344_4709p

心のずーっと底にある、ある疼きやドロドロした思いを吐き出したような詩です。死にたいくらい孤独な方は、是非、この詩を何度も何度も繰り返し読まれると、おそらく救われた思いがするのではないだろうか。孤独な魂が持つ、とても単純な言葉では表現しきれない思いを、言語表現として成立させようとした力作です。一方で、毎日を快活にエンジョイされている方にとっては、なんだかさっぱり分からない(世界)です。

作品の最初のパラグラフでは「私とあなた」の関係が描かれ。特に私から「あなた」への恋慕のような友情のような、深い、しかし伝えがたい思いが行きつ戻りつ書かれています。そして2つ目のパラグラフでは自己と他者を取り巻く「世界」についての記述が続きます。3つ目のパラグラフではまた「私とあなた」の関係に戻り、4つ目のパラグラフでは、今度は自己と他者から「社会」へと発展します。私、他者、世界、社会、これらが変転するモノローグや空想として捩れこむように後半の展開に繋がっていきます。随所に面白い詩的ビジョンも差し挟まれ、生硬な印象も生みますが、作品として成立するレベルに仕上がっています。

他の発起人のコメントを挙げておきます。
大変力作であるが、この長い詩を、最後まで付き合って読んでくれる人は少ないだろう。僕は、3度読んだが、さすがに疲れた、だが、とても、饒舌で、多くの優れている部分に出会ったりもした。三.あたりは切り出して読めるものであるが、やや荒唐無稽でもある。
力作。 きちんと読ませる。ここから削ることも重要。
他人という恐怖が、虚構の中において他人を自らの鏡、分身に変えてしまう。また、恐怖故に混乱して、虚構の中で過剰な暴力、過剰な愛情が振るわれる。根底に「人間を已めよう」という強い自己否定がある。と、読める。 ナルシシスティックで冗長な作品であるが、読ませる印象的な表現は多いと感じた。などです。

#
4673 : 順列 並べ替え詩 3×2×1  田中宏輔 ('10/09/01 00:02:53)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100901_086_4673p

以前、作者の異なる作品に、形式が決まっている分、もっと内容の、枠からはみだそうとする運動を求めてしまう、という感想を書いたことがある。
本作品を読んでいて思ったのは、無条件の表現の自由、というぼんやりとした信仰より、ある条件のもとでの表現の「徹底的」な自由、という確固とした信念を抱いているのではないか、ということだ。

「徹底的」にやるために、形式は強固に定められるのだろう。本作品は、3つの単語の結びつきの可能性を併置したものである。
ちゃんと数えてはいないが、80くらいあるだろうか。もう途中からわけがわからなくなってくる。これらの可能性の中から「選択する」ということが、また、その選択によって、狭まった次を選択する、そういうことが、私の求めるものかもしれない、と考えさせられました。
ただ、「小鳥」「樹上」「増殖」など、くりかえし選ばれる単語や、最後の「暴走」は、静物然とした本作品に、何かうごめくものを感じさせる。
他に気になった点は、
 >映画館の小鳥の絶壁。
 >ぼくが夢のなかで胡蝶を見る。
のように、一行目から破綻しているものと、そうでもないものが、
特に区別なく扱われていることだろうか。
このこともおそらく、出来る限り恣意的でなくするためかもしれない。

他の発起人の意見では、
これ、落とすと何も選べなくなりそうで。個人的には凄く好きな作品。
視覚的な詩です。でも、新しさは感じられないです。
>コンビニの男性化粧品棚の受粉。
など、既に音韻とリズムで上質に異空間を切り出した言語胎児が、さらに奇形化していく。最初のうちは、アイデアも陳腐に思えるけれども量的圧巻が次第に内的詩行の贅沢に変化していく。
表情というメディアとしての作品ではなく、コンポジションだと思う。
なんら面白みも、思考もなければ、まるでパズルのようであり、単なる遊びの詩で評価しませんでした。
詩的表現とはつまり、言葉の順番の入れ替えにすぎない、という一側面を 徹底的に反復し尽くすことで、次第に「言葉」の親しげで、意味ありげな表情は消え失せ、得体の知れない「他者」として読者の目の前に現れてくる。
このような真剣な戯れは、簡単なものではないと思う。
などがありました。
以上です。

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4723 : 葉書  ゼッケン ('10/09/23 18:47:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100923_475_4723p

”雑”な箇所がみられるものの、発想が転がっていくところが面白い作品なのだけれど、カラスのくだりは矢張り唐突であり、無理矢理落としました、という感じがある。
実は、「とう!」くらいで作者は書くことに飽きていて、勢いで書きながら、後付けしていったようにも思える。
そのくらい散漫でした。
ただ、読んでいると、肩の力が抜けて楽しいです。

他の発起人の意見では、
いつも悲哀があるところが、時間があるところが、良いのだけれども、もっと先に行って欲しい。
創作に対する取り組み方が深まってきているような印象を受けます。まだ、もっと期待してみたい。
唐突な「大勢のカラス」の状況描写がないので、いわゆる、空を飛んでいるのか、木に止まっているのか、不明であり、読んでいてとても不自然。などの意見がありました。

#
4681 : ナルシス・ナルシス・  リンネ ('10/09/01 23:18:37 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100901_118_4681p

瓶の内が外であるとき、瓶の内だと思って眺めていたものは、実は、瓶の表面に映っていただけのものだったのかもしれない。
つまり、本作品自体が途中まで、瓶の表面であり、後半、話者は、その内(=部屋の外)を、瓶の表面に幻視し続ける能力が、自らに無いということを知ってしまう。
最後、沈黙している部屋で、ただ息を殺しているのか、それとも、今度こそ部屋から抜け出したのか。
複雑だが、いろいろと考えることが出来て、面白い作品です。

しかし、表現に魅力が無いのは相変わらずで、例えば、
 >まるで、泳いでいないと死んでしまうカツオのようである。
という一文は、本文のために考えられた表現ではなく、散文の定型を無自覚に抜き出したように思えます。作品を高めるような、効果的な表現が増えると、いっそう面白い作品になるかもしれない、と思います。

他の発起人の意見では、
完成度の高い散文詩である。
ビンの比喩とはなんだろう、自分の過去か、自分の思いを閉じ込めた世界か、想像力が沸き立つ、また、無関心で、のっぺらぼうの街のその情景、それは、現実か、夢の世界か、そしてNが瓶を割る、女の声が、自分の声に聞える。
とても、幻想的で不思議さがのこり、また、文章が大変、美しい。
毎回、最後は自己の無意識投影で終わるのは何かこだわりがあるのでしょう。
すんなりと設定にも入れます。
発想はとても良いと思いますが、言葉の切れ味が全く無いのが残念です。 その点で「散文詩」というより「おはなし」のような印象がしてしまいます。
などがありました。

 ※ただならぬおとさんの「終わり」は織田が担当

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9月分選考雑感 選評 パート2

19:02 by gfds

「9月分選考雑感 選評 パート2」文責 泉ムジ

#
4708 : 角氷  藤崎原子 ('10/09/17 20:11:41)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100917_340_4708p

冒頭で「角氷」を見る嗅ぐ聴くといった、視覚、嗅覚、聴覚を”そのまま”描き出そうとしたことが、本作品の、読みの幅を広げる効果をもたらし、それがまた同時に、一つの作品としての不安定さを生んでいる。

「そして」以降の、触覚の禁止のくりかえし。

「もう一つ角氷を乗せる」、という意外な展開。

ずっと”近視”だった視線を、外にはずす、余韻の残る最後、小品としては、うまく出来ている。

「暗い雨」から目を逸らすために、時間をかけて角氷をとかし、また、新たな角氷を追加する。
そうしている間に、「暗い雨」が止むことはあるのだろうか。
コメントにもあったが、描写については、練るべきだろうなと思う。「角氷に見た」収縮・拡散の運動を、作品の後半部分に繋げていけたなら、違った魅力があったかもしれない。

他の発起人の意見では、
触れてはいけない危ういものに、肉体的な比喩を感じる。
>その上にもう一つ角氷を乗せる
>外で暗い雨が降っている
この表現も、静寂さの中での秘密性が感じられる。や、
きっちりと比喩のみで勝負。誰もが分かる絶妙の具合をついている。
最終に外界という破綻を持ってきたことも成功している。や、まだ16歳ということです。(本当か定かでないが)そう考えると、若いのに見事な詩であると思う。
有る意味、恋愛詩のようにも、思えるが、堂々と書ききっている。
氷に肉体的、あるいは、氷を通して身体性が描けている。や、「角氷」は喩の後、外界にさらした良質さを持つ小さな作品だと思います。作者の作品は、あまりすきではありませんが、この作品は普遍性があり溶かしていかなければならない運命なのも魅力に加担しているのだと思いました。
などがありました。

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4730 : 臍  草野大悟 ('10/09/29 21:07:10)
URI: bungoku.jp/ebbs/20100929_575_4730p

話者は、人生の半ば、自らのからだが、「機器」の一部によって命がつながれるという現実に否応無しに直面させられ「臍」とは何であるのか、という問いが、話者の「臍」(=中心)として自覚される。
「むかし」の臍は、胎児のころのもので、そのつながりは、母親とのものであり、また、祖先へ、自らの誕生、存在へとつながる、歴史の証である。

「かつて」の臍は、若いころのもので、からだの中心としてあり、
命を食べるとは、食事のみに限らず、他者との関わりによって得る経験で、自らを成長させていくことである。

「いま」その臍は、チューブで胃とつながり、生命を維持するための栄養を摂取する。語弊があるかもしれませんが、からだを「機械的」に生かすための機能の一部である。
これら三態の変容は、どれも「臍」であるはずだが、直面させられている現実が、どうしても話者を混乱させる様が描かれている。
短く書かれているが、奥行きのある作品でした。

他の発起人の意見では、
第一連が、とても詩的で素晴らしい。言葉の持つ強さを感じる。
全体として、含蓄の在る、読ませる良い詩に出来ている。
「臍」というとてもインパクトが強く、それでいて、あまり題材には、普段、使わない言葉であるが、「臍」という意表を突いていて、「臍」=作者のあり方、人生のあり方を、力まず書いていると思う。 すなわち、重奏的に書かれているのである。
単なる「臍」の役割の変遷と、人生のなかの自己精神の変遷である。 「むかしへその緒とつながっていた臍」(胎児の時か) 「かって命を食べていた臍」(健常なときの作者か) 「いま生を食べている臍」(人工に栄養補給の臍か)人生を押しなべて考えれば、これら三つが、すべてが自分であり、同時にどれもが、自分でないように考えられるだろう。
そうして、現実と人生を考えると、本当の自分は、本当には、果たして誰なのだというという、深い考察となり、作者は考えるのだろう。 文学極道の作者には、こういう作品は、今回少なかったので、とても新鮮であった。
語り手は、病を抱えつつ、冷静に物事を考えている。 や、シンプル。こういう詩の良さは、変わらないと思います。
自己に付かず離れず、この距離感の獲得が素晴らしいと思います。
などがありました。

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