2009年9月分選考・選評(阿部嘉昭)
【月間優秀賞候補】
3824 : 無題 ハレルヤ ('09/09/30 19:24:39)
厨房、あるいはその窓から覗ける世界から語彙が拾われている。
となれば描写対象に連続性が予定されそうなものだが、
この作者は理路の分岐にさまざまな仕掛けをし、
隣り合う言葉の奥行によって空間の濃淡を見事に跡付けてゆく。
彼岸時分の心根。秋の植物の連鎖は歳時記を訪ねる体験の慎ましさにも似る。
ラスト、「叱っている」の措辞が惜しいとおもうが、
たんにそこだけが僕と趣味がちがうということなのかもしれない。
*
3817 : 鉄のきりん 草野大悟 ('09/09/28 00:18:48)
この詩は巧みだ(「巧み」という語は普段使わないが)。落ち着いた散文体で
作者の人生上のある一日(4年前の12月の一日)について書かれながら
その一日に何が起こったかは読者が想像するしかないようになっている。
妻は手術をし、不幸にもこの世から消えたのだ。
その暗示によって、一篇が散文体にふさわしい「詩」になった。
残ったままのカレンダーのそば、置物の「鉄のきりん」に視角を定着し
それでいうべきことを禁欲する手立ては古典的だが、
現在の水準では相当の書き巧者の仕業ともいえる。
そのほうが哀しみもより伝導されるのだ。
さて問題は、不謹慎だがこの詩が虚構という可能性がないかということ。
これについては吟味したがじつは解答が出なかった。
*
3804 : La maison anonyme はなび ('09/09/18 17:41:15)
はなびさんの別の一篇「カデンツァ」と比較し修辞が圧縮的になった。
「無名性(アノニム)の家」=「ひとけのない家」に空間限定がなされ、
そこを起点に世界が読み返されている。その結果、まず転覆がある。
すなわち、ひとけのない家ではナチュラル・モルト(静物画)が生気を帯び、
動物生気も悪の水準でより生気的になる。
この認識は二段ロケット式で、それで
《ひとけのない家では//価値があることだとか/価値のないことだとか以前の/自然な存在の仕方だけが/通用している》
という見事な認識の結末が来る。
つまり価値と無価値の混在はその混在順序が自然化していれば
総体が価値となる、というメタレベルの思考が生まれているのだった。
さて「ひとけ」という言葉は「人気」の表記が正しいのだが
「にんき」と呼ばれるのを嫌い通常は「人け」「ひと気」と書かれる。
しかしこの作者は「ひとで」にちかい「ひとけ」という書き方をした。
これはそれ自体が擬人化、動物磁気化を意図した書き方ではないか。
「人毛」すらおもわせるし。
つまり詩篇は無生物主語「ひとけ」を主体に
その組成を逆転的に書いた詩篇としても読まれうるということだ。感心した。
*
3771 : ぱんつ 寒月 ('09/09/08 06:56:38)
《あなたは花畑であり 花畑を渡るぱんつ》、
この第一行の修辞は大発明だったなあ、拍手喝采した。
詩はたぶん「AはBである」をいかに暴力的に託宣するかの文学装置なのだが、
この「AはBでありC」は可愛いだけでなく
ABCの関係の不安定性・可変性によって、より認識不安的なのだった。
以後詩篇は「なく=無く/泣く」の言語遊戯などで展開を弱くしてしまうが、
最後、やっぱり「ぱんつ」に戻ると見事な結末となった。曰く――
《ぱんつはぱんつを脱がない/脱げないとももちろん 言う》。
さて冒頭一行では中身のないぱんつは周辺世界を反射し、
それは移動することで「あなた」にもなるという逆転がしめされる。
とうぜんその場合のぱんつは美しい花畑模様だ。
で、あなたがあなたを脱げないのと同様、
あなたであるぱんつもぱんつを脱げない。
もうそれ以上裸になることができない、ということではなく
じつは何もかもが実際はおのれを脱げないのではないか。
そうしてヒラヒラ舞っている。
そうおもってちょっと女子中学生のバンチラなどを
「世界の模様」としてふたたび眺めたくなってきたのだった。春意にみちた佳篇だ。
*
3807 : 魚骨 リリィ ('09/09/21 19:28:33)
魚のむしりかたから父と母娘の種族のちがいがいわれ
その返す刀、新鮮な話法で父恋が綴られる。こりゃ中年男殺しだ。
隠された主題が母娘間の魯鈍の共有と、それにかかわる絶望。
語法が清潔だ。父親の背骨を箸で抜きたい奇怪な欲望は
最後から三行め《私は箸をグーで持ち、背骨の横に溝を入れた》で
不穏さを帯びる。
その解決が最終行《あさりの開く音がした》。
この経緯がなんて上品なんだろうと感服してしまった。
そうした上品さを枯れ朝顔の蔓やら朝食時間の不可思議な暗光が取り巻いている。
芭蕉句を変型し《朝顔に我は貝食ふをんな哉》と読ませたい心意気もあるだろう。
《空中をさまよって紐を引く》という一瞬の詩句がすごく佳い。
これが夢落ちでなきゃよかったなあ。
*
3781 : 庭園 かとり ('09/09/11 04:06:05 *4)
八階という、高層住居者の存在する空間(空中「庭園」)が
逼塞によってそのまま身体感覚になったような感触がある。現代的。
曖昧な書き方をしたのは、詩的修辞の圧縮によって
読解可能性も僕が読み取った以外に分岐すると一応かんがえたからだ。
空気が稀薄さをかたどりだす八階の高さでは
部屋の壁面に鉄が浮き、なおかつその壁が軟らかさも再獲得して
私たちの呼吸の刺し場にもなりうる。
この正逆転換性により、壁が真に逼塞的になるのだ。
「私達」に信じられるものがなくなるからで、
だから高楼が入道雲に突き刺さることも優位とならず、
結果「あなた」と共謀して眼下の世界に
取り出した「あなた」の心臓を投げつけよう、と企図が描かれることにもなる。
無名性の悪意により一死が他死を喚ぶやりかたが祈念されてしまうのだった。
投稿欄では書き込み者の誤読がつづいたが、詩のゆくたてには何の不透明もない。
注文をつけるとすれば整然としている理路をさらに切断するような
暴力的圧縮すら可能かもしれない、ということ。
そうすると詩篇ひとつが三読四読に値するようにもなる。
現代詩壇で参照源を探すとすれば、杉本真維子さんだろう。
*
3797 : 道のはた拾遺 6. 鈴屋 ('09/09/17 00:25:31)
抒情詩の最良形、この詩を嘉せずに何の詩の喜びだろう。
むろん草原の光景の緩徐調描写から開始される抒情は
一筋縄ではゆかない。
最低限、外界を掠めたのち詩の経緯は内部に折れだし、
自己保持のためには秘密も保たれる。
「あなた」の感覚はわたしの外にただ外化され
その外化が精確であるがゆえ恋も断ち切られただろうとの想像を帯びる。
わたしが聴き取った「かなしいのです」「回っています」という「あなた」の言葉は
自己分析として明晰だが、それ自体が三半規管の狂いと結合している。
もうひとつ、いま評にずっと方便上、「わたし」と書いてはみたが、
この言葉は詩篇のどこにも現前していない。
「あなた」が先駆的にいて、「わたし」はいない――しかも
感触的には、描かれている時制も「過去」でしかありえない。
そう考えて、この詩篇の主体の、自己への不吉なほどの厳しさを感知してしまう。
最終聯は「わたし」が「あなた」をつうじ「あなたとともにみたもの」の
曖昧でしかありえない像の記録といってよいものだろう。哀しい。
その言葉づかいの素晴らしさは以後永遠に銘記されてよい。記念として以下にも貼ろう。
《木々やあなた、向こうのなにかの尖塔/立ち尽くすものは/傾いては立ち、傾いては立ち/修正する》
*
3765 : 夢機械 熊尾英治 ('09/09/04 21:08:25)
「廃墟2009/9」と同じ作者がこういう隙のない詩を書いてしまうから
「文学極道」がおもしろい。ついでにいえば、
作者自身も書き込んできたひとたちも書かれた詩の本質を掴んでいないから面白い。
レコードプレイヤーのような、そうでないような機械仕掛の箱があって、
それは女性機械検定士にしか駆動できないのだけど、
いったん回ると言葉でも音楽でもなく箱は夢の光を発する。
しかもその運動が「螺旋」を感じさせるらしい。
その機械マニュアルをそのまま足穂のように極小の物語性に閉じ込めつつ
性の誘惑をモダニズム的な喩法で唄ったと総括できるような瀟洒な詩篇だ。
雲母と鍍金と銀煙の幻惑がある。
となれば「詩中の「ゼラニュウム」とはもともとは花、
だから「ゼラニュウムの箱」はおかしい、
「ジェラルミン」か「アルミニウム」の誤記では」などと
書き込み者がいうのも不要な容喙、
言い立てた者がなぜ急にこんな「夢機械」にたいし
リアリズムの軸で難詰したのかを、ただ不審におもうのみでよいだろう。
*
3776 : 衣替え りす ('09/09/10 00:31:18)
「文学極道」のスターのひとりと僕が認識している「りす」さんの詩は
やはり極上のひかりに包まれていた。冒頭二聯をそのまま引用してみよう。
夏と秋のあいだを
くぐりぬけていく
こんなに狭いすきまを
つくった人の気が知れない
左手は夏に触れ
右手は秋に触り
温度差があれば
気はどこまでもうつろう
人はどちらかに傾いて
重さを小水のように漏らす
躯にはもともと心がなく、外界の影響を無防備にただ受けて、
冷えたりぬくもったりする。
季節の変わり目とは時間上にあるような気になるだろうが
空間上にも存在していて、その境目に身を置くと
身体そのものが境目になってしまい、軽/重の傾きが出ればそこから
「季節水」がはかなくこぼされる――とりわけ少女の躯がそうだと詩篇が伝える。
ただ書き込み者が指摘するようにこの詩篇は長すぎる。
「くるぶし」など、他にも視点が移っていって
モチベーション上は点滅が起こってしまう感覚になる。
作者「りす」もその応答で、直してゆくうちあれもこれも書いてしまったと告白、
空間恐怖に似た作用がここに起こったと知れる。
まあよくあることで、そのためにこそ歳月を挟んだ推敲が必要なのだった。
極論が可能。上記の冒頭二聯のあと、次の二個聯を置けば詩篇はシャープに「終われる」。
愚かもんが
夏の首を絞め上げる
いらないものを
吐かせようか
いらないものを
吐かせまいか
愚かもんの両手
両手の愚かもん
焼け爛れた足首から
くるぶしが
胡桃のようにころんと
転がって坂道を行く
冷めた火種を固くにぎって
夏と秋のあいだを
くぐりぬけていく
*
3769 : 口紅 ミドリ ('09/09/08 00:27:24 *1)
日常での女の仕種の描写を織り込みながら
巧みに「サイズ」についての考察に話柄をずらし間然とするところがない。
手練だ。「ぼくのペニス」と「女のケータイ」が似たサイズであり、
それはまた女が帰ったあとぼくがつけるTVのリモコンとも似たサイズだ。
物事には大小長短などの属性があるが、
それは比較項があってこそ成立する相対性にすぎない。
なのにそれが憤懣の因ともなる、と詩の主体は考えながら
たぶん世界を形成するそのような多様性を肯定している。
まあ常識的な結論といえるだろう。つまりヨーロッパ的奇想のひとつに
フランク・ザッパがアルバムにした「万物同一サイズの法則」というのがあって
それは本当の神性にはあらゆるサイズが「合致」してしまう法則なのだが、
非常識な詩ならばこのあたりを日常に合わせ描出したいと欲望するかもしれない。
ところでこの詩に描かれた女とは誰なのか。
ヒントは終わりのほうの《喧嘩を理由に別れる恋人たちもいれば/理由もなくセックスする他人同士もいる》。
つまりデリヘリ的女でも、いずれ別れるだろうがいまは恋人の女でもどっちでもいい
――作者はこの挿入的聯でそのようにも自己言及しているのだった。
【次点佳作候補】
3825 : Cadenza はなび ('09/09/30 22:11:33)
フランス国旗のトリコロールを配色したゴダール『気狂いピエロ』では
ジャン=ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルナンドは
ランボー『地獄の季節』の一節を吟じつつ
顔をペンキで塗り、腹に巻いたダイナマイトによってラスト、南仏に爆死する。
犯罪行脚のまにまに南下してゆくゴダール型類型の代表的な悲劇だ。
このはなびさんの詩篇は、『気狂いピエロ』の換骨奪胎。
カップルが想定されながら、その日本的な悲劇不可能性が描かれている。
その意図を買うが、冒頭1−3聯の詩的効果が薄いので「次点候補」とした。
*
3787 : (無題) bananamellow ('09/09/12 14:02:48) [Mail]
伝統的な暗喩詩。僕は暗喩詩の暗喩の謎に解答を探ってゆく読み方が好きでない。
むしろ暗喩を形成する修辞の、瞬間的なスパーク能力を賞玩するだけ。
そうした箇所には「語衝突」があるのが通例だからだ。
この詩篇ではふたつの背骨が何をいい、
それにたいし野犬が関わった帰趨をどう解読するかが読解の中心となるだろうが、
僕は結論を出せなかったし出さなくてもいいとおもった。空間の拡がりが良い。
何か不穏で謎めいた感覚にはカフカや石原吉郎の身体観の反映を感じた。
最も石原的なくだりは
《散乱した骨片を/ふたたび拾い集め/すぐれた位置で/咆哮せよ》だろうが、
ここはあまりよくない。
《残された校庭には/野犬たちの濡れた唇がある》――ここはすごく良い。
なぜか。「像」を否定する英断があって、
喩がさらに「音韻自体」に向かう本質的な詩の暴力性があるためだ。
最後の一聯でしめされた解決方法は見事。
*
3821 : 夜歩き 鈴屋 ('09/09/29 01:36:24)
家壁のしみが、夜陰が生じるとそこから抜け出ては夜歩きする。
全体は「しみ」主人公に、そのものの物語性をもった述懐として組織される。
カフカ的無生物短篇と同様の、奇妙で良い味だ。
西岡兄妹の妹さんなら、これを素晴らしいマンガにもするだろう。
となれば、これが詩か否かという問題に眼を瞑ってもいい。
ただし幻想小説としてみた場合、一箇所だけ作者の位置設定に失敗している。
終わりちかく、《私は複数を生きています》が作品構造の上部、
メタレベルから発せられる「予定された自解」で
これが幻想味を殺ぐ。幻想小説上の禁句のはず。
それともうひとつ、「闇のなかの影」というのも詩的着想のはずだが
詩篇内にこのことにかんする微細な展開が見当たらない。
「闇のなかの影」というのはマラルメ『イジチュール』の主題のひとつだった。
*
3809 : いん ざ びゅーてぃふる わーるど 葛西佑也 ('09/09/23 02:07:22 *1) [URL]
詩篇アップ時の読者コメントでは
各聯のつながりがわからないが綺麗、という感想が大半だった。ちがう。
各聯はぎりぎりでつながっている。
「ぼくたち」を詐称する「ぼく=恐るべき子供」が詩篇全体の主人公だとして、
熟女への援交行為を断片スケッチした第一聯から、以後、
疫病(えやみ)を媒介する鳥に自分をなぞらえ、
その後は母恋、名づけによって相対化するだけの自身の不安定性、
最後には自己愛と自己懲罰の予感までが甘やかに、順に綴られてゆく。
各聯を支えるのは同じ主体だが、局面や話法が微妙に異なる。
そうした詐術的なつくりと
作者に伏在する自己愛とがロマンチックに拮抗していると読んだ。
「/」を介在させて「します/しました」などとやるのも詩的効果が高い。
行為はこのように動詞語尾でしめされるが、その時制が選択的にブレることで
行為は惑乱的な分岐光を放ち、同時にその尾鰭の印象がつよまることで
かえって主体の印象を弱体化する働きをしているのではないか。
しかも「現在とは過去だ」(光や音を感じるだけでそれがわかる)という
峻厳な時間認識もここからは得られる。
聯のからみとともに、この「/」にも、この作者の可能性を感じたのだった。
*
3754 : あなたに んなこたーない ('09/09/01 00:01:26 *1)
不在者への愛の懇請というのは
最終的には矛盾が空間を横断して
あなたでもわたしでもないものの遍在性を空間に結果させてしまう。
といって僕が考えているのはUA「ミルクティー」の結論、
《離れてても キスをして》だったりするのだが。
この「あなたに」の詩篇は、高野喜久雄の素晴らしい詩篇を影響源としている点、
あらかじめ明示されているが、
高野の修辞が矛盾撞着を繰りかえすことであなたの不在を崇高化までするのに、
この作者「んなこたーない」さんは、そうした機微に気づいていないようだ。
一聯では「ぼく=鳥かご/あなた=小鳥」、
二聯では逆に「あなた=お花畑/ぼく=蝶々」と、
ともあれしめされる一人称二人称は空間的包含関係でしかなく
そこに不在を跡付ければ「充満が疎外される」ということにしかならず陳腐だ。
高野喜久雄にあって、方向性はおろか
わたしとあなたがそれぞれであることすら疎外されゆくのと
事態は対照的とさえいえるだろう。
ところがこの詩篇の救いは、
「あなた/ぼく」が相互反射関係になったとき無間地獄的にならずに、
一回の逆転だけを遠くに置くくだりだ。潔さが発露されているのだ。以下のフレーズ。
《あなたを見つめるぼくの姿を/ぼくはあなたの目で見つめようとしている》。
随分、フォーク調のフレーズのようだが、よく読むとそうではないだろう。
しかしこの詩はたぶん僕が言及したところでもう終わっていて以後は付けたりだった。
高野喜久雄の詩篇の展開力こそが次に作者へ望まれるものだろう。
*
3788 : 箱 蛾兆ボルカ ('09/09/12 15:27:44)
寓話詩ではその寓話性が高められれば高められるほど
散文体がそこに許容されるようになる。この詩篇が好例だ。
ここでは「箱」は何かを指しているか、という命題が当然出るが、
「箱=女」でよいだろう。女は何かを隠している。女は開けられる。
内包性が想像力にとって女性性に似ている点は多々考察されていて、
たとえば女性器をマッチ箱にたとえ、「俺のマッチ棒を箱に入れさせてくれ」という
古典ブルースだってある。
問題はその暴かれるべき箱が暴かれないうち僕によって放擲されたことだ。
理由も詩篇は述べている。
《愛を信じてないけど、愛を求めるような箱だった》からと。
箱の中身といえば、性的果肉でなければ魂だろう。
ところが掲出箇所によって箱には魂がない、と結論が出たと考えられる。
無魂の箱の不気味。それで僕はその「不気味」を雨の日に棄てた。
それをまた延々と憶いだすことで僕も「不気味」の域に入ろうとしている
――そう読んで、この詩篇の眼目がつかめるだろう。
この詩篇はゆらゆら帝国が歌にできる。初期の福満よしゆきがマンガにも出来る。
ただ、*で始まる二聯が惜しい――たんに不要なのだ。
【その他注目】
3801 : やさしみ 相田 九龍 ('09/09/18 00:27:35)
「やさしみ」は「羞しみ」と書くのではないか。
一行の字数を少なくして改行多用、ひらがなも増やすことで
詩句の決定性のレベルを下げて、含みとブレを多くするという詩法。
僕も結構似たようなことをやっている。
「やさしみ」のからだへの充満が決定したのち
「とり」の語が出されてくる経緯は瞠目にあたいする。短歌的なのだ。
そのあと「わたし」のあしもとが血だまりになっているのも。
問題はその「血だまり」に「比喩としての」という形容が付き
メタレベルが不用意に混在してしまうことと、
ラスト、「血だまりに立つ」ことが
「吐血」にまで不用意に発展してしまうことだろう。
それと途中の反復が逆効果になっている。しつこい。
それでも「注目作」に掲げたのは
世界から逆照射されてこそ身体、という作者の身体観がよいとおもったためだ。
そうした身体観と行分け詩体は相即する(じっさい書いてみるとわかる)。
*
3758 : アレジオンコースト mei ('09/09/02 11:04:27)
惜しい。《クリームで前が見えないけれど/世界には青が降っている/炭酸を抜かないで/誰かの声を聴いた僕は夢中になって世界を振った》という、
ものすごく魅力的なこの書き出しが、
以後が長すぎることと(要らない設定が加わった)、
「青」のほかの色が混在したことで、やがて魅惑をなくしてしまった。
往年の角田清文という大阪の詩人に「青」という素晴らしい詩篇があって
それがmeiさんの参考になるかもしれない。
「青」だけが若さを、深い冷やっこさで唄え、空間に青春者を集中させうる。
そしてそこでは「われわれ」という主語も似合うのだった。
*
3806 : アルビノ 朝倉ユライ ('09/09/21 01:43:29)
無媒介・無前提に作者独自の「確信」をつらねてゆき
その断言体のひめたる危うさにより
読者を侵食してゆく散文体詩篇というのは確かにあって
この作者が選んだのはそれだった。しかしこれも惜しい。
たとえば《中指から繋がりません》という素晴らしい書き出しには
主語「私」が省略されていると捉えうるが、そこから以後、
「夜」「蛍光色」「暗い水」と主語が横滑りに拡散していって
結局は詩篇の統一原理が空間の同一性以外になくなってしまう
(ボブ・ディラン「アイ・ウォント・ユー」の歌詞などがその好例)。
それで主体への穿孔という期待された動勢が自ら根絶されてしまう。
付言すると、ここでの「混乱」はそれ自体、世界拡張要因だから問題はないのだが
修辞に粗さが目立ち、混乱的混乱へと水準が下げられてしまう。
なのにこの作者のものをなぜ「注目作」にしたか。
音韻にモチベーションをあたえるその詩作態度に感銘したためだった。
*
3792 : 無伴奏組曲 浅井康浩 ('09/09/15 17:44:09) [Mail]
僕を「文学極道」にひきつけた要因のひとつが浅井康浩さんの作品だった。
特質は一括できる。
「あなた」への相聞、丁寧な言葉遣いによってむしろ叙述世界がズレてゆくこと、
逡巡にこそ心情の厚みが出ること、それを散文段落の「配分」で実現してゆくこと。
そうした浅井詩にそろそろ耐性ができかかったいまでは
浅井さんが自己模倣の隘路に陥ってもがいているとも感じる。
その隘路からの脱却が平易さの獲得によってであってはならないともおもう。
極上の抒情美は浅井さんのばあい当然として
大切なことだから「停滞」がどう生じているのかを例証してみよう。まず引用。
《しんぞうは、夜の冷気にくるまれて芯からこごえるキャベツのひかりのようだった。とりあえず、たどりつけるべき明日があるいじょう、かわらないままでいい自分をゆるしてくれるせかいはきれいだと思っていた。へらへらとわらってしまうたびに、透きとおった陽射しのような水の粒子が満ちてしまう場所が自分のなかにあって、世界の涯は水だから、けして枯れないポピーを植えてあるいてゆく、そんな夢をみていたいと泣いていたはずのわたしにとって、そこではすべてのものがやわらかにわすれられてしまい、わたしもいつしかながれる時間とともに消えてしまっている。》
これは半分に圧縮できる。以下。
《しんぞうは、夜の冷気にくるまれ芯からこごえるキャベツのひかり。たどりつける明日があるいじょう、かわらないままでいい。自分をゆるしてくれるせかいもきれいだ。透きとおった陽射しのもと、水の粒子が満ちる場所。世界の涯は水、けして枯れないポピーを植えて、そこをあるいてゆく。すべてのものがやわらかでわすれられてしまう。わたしもいつしか消える。》
圧縮は断言のゆれをただ切り、構文の煩雑を是正したために可能だった。
浅井的フィギールをこのように切断してもそこに浅井的詩世界が現出できる。
この点に浅井さん本人は気づいているのかどうか。
提案:もし資金があるのなら浅井さんはここらで詩集をまとめるべきでしょう。
詩集をまとめ詩作に小休止をつくる。それで次段階への移行もスムーズになるのでは?
要らぬ容喙かもしれないが。
*
3814 : イソノ ゼッケン ('09/09/26 17:53:19)
憤懣詩、とでもいうべきなのか
スケベ姉ちゃんから民主党から貧富格差まで怒りの対象が広がるうち
ことのついでに詩の主体が「磯野波平」と逆証される経緯は嫌いではない。
なのにこの詩篇は嫌われるだろう。まず対象の無差別性に尊大をかぎ当てられる。
それと表面はどうあっても「慷慨」が文体的に旧いのだ。
詩はそんな不要なものを書くほど暇ではない。切迫している、と。
ただしこのひとの詩的文体はいずれ爆発できるだろう。なのでこの欄に掲げた。
*
3813 : 欠落 破片 ('09/09/24 20:47:20)
最終聯がまずい。全体を受け、終わりきれかった。
また「月光」「しゃれこうべをおもわす人間の眼窩」「くらげ」「サラマンドラ」と
聯ごとに描出されるものの中心がズレてゆくが
これもひとところへの定着のできなさ、同時に展開力のなさと誤解されてしまうだろう。
月明幻想はこれまで詩歌に多々あれど、これはそのうちの中の下くらいでしかない。
それでもこの詩篇にはある魅惑がつきまとう。
改行詩で一行字数を少なくしたことで
改行のたび一種の意味の無重力が発生し
その一行が構文中、どこに着地して落ち着くかの判断が
読み進める経緯からしかやってこないということだ。
複雑な言い方をしすぎたか。逆にいえば構文が終了してはじめて
宙吊りされた詩行の帰属文節が確定するということで
そのように組織される読解行為は一回性の尊厳をあたえられて気分が良いのだ。
この作者に望まれることは、こうした構文の力を利用し、
一旦提示した対象をズラさず掘りすすめ
その見た目の変化でこそ読者をさらに驚かせつづけることではないか。
*
3779 : 無題 はかいし ('09/09/10 21:35:32) [Mail]
《ああ、/熱が、咽の奥に/ひれをうねらせて/はいりこむ//
自然な涙は、薄明かりの/呼吸のようで、/ねじれたドアノブを、/私に回させる》
まず冒頭二聯をペーストしてみた。この段階で書き込み者たちの
恐るべき誤読が取り巻いている。
一聯をオーラルセックスだという者がいて、
二聯の「自然な涙」の形容「自然な」がまったく理解不能だという。何たること・・
一聯は詩的受肉が、詩が口頭韻律である以上、喉を経由してしかありえないという託宣だ。
そして詩がイエスのように魚の比喩で語られると付言する。
二聯はそうした嚥下は嘔吐を催すほどキツく涙も出るが、
それこそ私の呼吸源であり、
私はそれによって転回を得、眼前世界を打開する、とさらに宣言する。
この意気揚々とした出だしが三聯め、自己否定への転調によって崩れてゆく。
それにともない、「福笑いのようだ」とか「妖婆性を知れ!」といった修辞ミスが
以後つづいてゆくことにもなる。打開策はこうなる。
ひとつの着想をズラさず追いつめてゆく。
詩篇が長くなればなるほど失敗の危険度が増すので、
聯をつくろうとして展開しにくいと直感が走った場合はその聯を端折ってしまう。
ともあれ書き込み者には評判の悪かった最初の二聯こそを評価した。
*
3782 : きよしろーは生きている こんぺい ('09/09/11 13:18:52)
自分の身辺に死者が陸続していることに気づいた者の散文的述懐。
それは自身の身体時間によってこそ味わわれるべき喪失であって、
時宜を逸して出版される清志郎本のように、資本操作されるものではない、
という真っ当な感慨が詩篇の社会性を裏打ちしてゆく。
それだけなら何てこともないのだが、凪葉さんが書き込みで語るように
この平叙体散文詩の一部にトンでもない細部があって
そこでは「喪失」が峻厳に物質化されていたのだった。以下、ペースト。
《あたしのジーパンのポッケには半年前の春にもらったべっこう飴がまだ入ってて、透明の袋は灰みたいな糸くずのゴミみたいなのがついてて、中の飴は表面の砂糖が白くなって固まって変な形になってる。》
「半年前の春」が素晴らしく、
鼈甲が白化して変型した現状をポケットのなかに「予感」しているのが美しく、怖い。
*
3773 : 雪の女王 右肩 ('09/09/09 01:17:49)
同じ「右肩」さんの九月詩篇、「どこへ行きますか」(「ヒロシマ」が主題)
よりもずっといい。ただしこの詩は読解行為そのものが分裂的になるだろう。
冒頭、《女王が極寒の原野の微光の中で大の字に曝されている》と綴られ、
その大股開きの女王の股間の亀裂が何度もメタファーされ
そこからあたかも吹雪が起こるようにさえ見えることで
冬の熾烈で盲目的な白世界が汎-性化されてゆく迫力が一方ではたしかにある。
歌人・葛原妙子が詠った「蔵王」をおもった。
他方、雪の女王はなんと「スカラベ」とも形容されてしまうのだった。
「スカラベ(サクレ)」とはかつて花田清輝が『復興期の精神』で
ファーブル『昆虫記』から引用して脚光を浴びた昆虫。
糞ころがしで、大事そうに手元に丸めた糞を転がしてゆくその姿には
「一生をかけてひとつの歌を」という批評家の信念も二重写しされた。
そのスカラベサクレのイメージとここでの雪の女王のイメージが分裂的で
どうしても像がひとつに結ばないのだった。いくつかの可能性がある。
○僕が誤読している。○イメージの分裂がもともと狙われている。○作者が不用意。
ただ上の可能性のどれでもいいや、とおもわせるところにこの詩篇の弱さがある。
そう、ハッタリが機能しきっていないのだ。
*
3774 : リストランテ「貝の触手」 プリーター ('09/09/09 15:08:29)
最小を志した昭和初年のモダニズム詩に似ていて、おもしろい。
一文めは文構造の魔法によっていて、「中毒患者」から「黒執事」に視点が移る。
「中毒患者」に微妙な重量で「巻き貝」の形容がかかるが、
一文めの「中毒患者」にはたしかに「ひきこもり」の面影もある。
問題は唐突な二行めだ。そこで一挙に脈絡なく「ムニエル化」が起った。
どのようにして? 誰と誰のあいだに?
理詰に思考すれば黒執事が中毒患者をムニエルにしてしまったとしか考えられないが、
やがては理詰が「不謹慎」を掘り当ててしまう詩の構造にこそユーモアがあるとも気づく。
【落選】
3826 : 食卓 チャンス ('09/09/30 23:22:10)
食卓の果実の横に置き残した夢を誰が食べたか?という設問は
誰がクックロビンを殺したか?というようなものだが、
それがライトヴァース化し、同時に恐怖ともなるには
「それはわたし」という暫定的回答がやはり要るのだとおもう。
ところがこの詩篇では「カレ」が「(わたしの)パパ」が犯人だと証言する
導入からはじまって、やがて「窓」「庭」「草」へと詩の核心が逃げてしまう。
このとりとめのなさがたしかに詩篇の味なのだけど、
たとえば《影を失くした/時の中に//真っ赤な正体/だけが/残る》といった、
「詩的にみえるだけ」の弛緩した改行/行アケ書法によって味も疎外されてしまう。
この作者は、こうした書き方からの離脱がまず始められなければならないだろう。
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3798 : 廃墟2009/9 熊尾英治 ('09/09/17 05:06:43)
この作者は語彙だけで詩が成立すると誤解している。
しかもその語彙も文学的に旧い。なんという非現代性だろう。
詩篇は結局、叙景から心情を暗喩するものだが
その技法にももう現代的興味がまつわらないだろう。
一言いう。ルフランの効果は強調ではなく音楽性。間違えてはいけない。
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3818 : (無題) マキヤマ ('09/09/28 00:50:58 *3)
「彼女たち」って誰? 誰がその冒険心を寿いでいるのか?
「あなた」って誰? なぜ詩の主体は
この程度の詩篇の註釈義務を自ら負わず「あなた」に預けるのか?
預けたことによって詩篇内部の「物語」もズタズタになってしまう。
書きなれてはいるのだろうが、そのしたり顔が厭だ。
それとこの「彼女たち」の励起ってすごく広告代理店的じゃないのか。
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3786 : 無題(冬) 緋維 ('09/09/12 09:42:37)
詩における「ですます」文体、
それと読者との共通性を当て込んで書かれる心情の中心化
(浜崎あゆみの歌詞ではないけれどそこにはひどい「傲慢」がある)、
これらが大の苦手、と告白することだけで勘弁してください。
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3822 : 森の言説 黒沢 ('09/09/29 21:22:26)
ぜんぜん森が歩かれていない。
その身体のなさと言葉の硬直が表裏の関係だ。
「胎児の豹の意識」などがなぜ突然出てくるのか?
タイトルは中沢新一『森のバロック』に似ているので
そのあたりに典拠があるのかもしれないが、
あれは熊楠の粘菌的世界観を森に拡張した知の曼荼羅本だったはず。
総じていうと散文形の詩篇は読解労力が行分け形よりも大きいので
失望するとより憤懣もつよくなる。
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3793 : 女子、唯と彼氏、Y 菊西夕座 ('09/09/15 21:18:44)
「どうせあたしの人生、語呂合わせなんだもん」という椎名林檎の毒づきは正しいが
この詩篇の「元カレ」の数字語呂合わせはすごく嫌いだ。
たぶん「アルキメデスの徒」と冒頭紹介され期待された数学性が
語呂合わせのレベルに堕ちて終始肩透かしを食らうからだとおもう。
しかし詩篇はその「元カレ」の存在を信頼し、
その語録を全体の内実としてしまう。斬新な構成とはいえる。
けれど何か作者の、詩作成立の与件に関わる考えにはすごく楽観性がないか?
ラノベファンには受けるのだろうなあ、
ユーモアと自負するものの質に共通性があるので。僕は採りません。
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3811 : どこへ行きますか 右肩 ('09/09/23 20:58:52)
過剰形容、饒舌な文体で読者を旅へいざなう詩篇かとおもっていると
書き込み者たちがいうように「ヒロシマ」の語が出て詩の焦点が一変する。
第二聯《そこはかつて・・》以下、
描写される「そこ」ももうヒロシマという読みしかできなくなるが、
出だしからこういう場所に持ってこられる詩の構造は
じつは「歴史」に胡坐をかいた欺瞞的なものと映った。
同時に、そのような構造にあっては、饒舌も許容されないのではないか。
というわけでこの詩は着想全体が失敗しているとおもう。作者には悪意がないだろうが。
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3789 : 無題 ハレルヤ ('09/09/14 00:13:29)
ある喫茶店らしき空間をめぐっての懐旧。
修辞に手の込んだところもあるが(とくに固有名詞の無媒介的列挙)、
描こうとする心情価値が恥しくなるほどに旧い。つらい。
コメント欄の評言では永島慎二の名前が出たが石井いさみでもいいとおもう。
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3790 : 千の雷魚 DNA ('09/09/14 00:32:52) [Mail]
書き込みされたように、「現代詩手帖」の投稿欄ならありえるだろうが、
「文学極道」には不要な詩だろうとおもった。
まず字下げ、スペースに凝った詩のレイアウトは
書物上では賞玩対象ともなるだろうが、
自由なペーストを受諾しているネットでは
スペースのファジーさが難点となる。となればそんな詩を書かなければいいのだ。
二度読んだがなぜかパソコン画面ではこの詩篇は解釈が疎ましい。
文学バリアによって自分と疎隔された場所に置かれている気がするからだ。
詩は「千の雷魚」と一概にいうが、雷魚は中国渡来の繁殖種で、
まずくて食えないため、川や沼を覆った場合は捕らえてみな焼殺する。
そういう雷魚特有の機微のうえに
たとえば往年の瀬々敬久の傑作映画『雷魚』が築かれ、
「雷魚」的人間を見分けよ、というメタメッセージも出されていたが、
この詩篇は文学的なのに、そういうことも感じられなかった。
詩壇詩の否定要因としてネット詩があるという対立構造にたいし
密通的な詩は峻拒すべきだと僕は考える。
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3767 : 海の遺影 丸山雅史 ('09/09/07 02:52:27 *2) [URL]
海の水が涸れ、その跡地に最下層民が住むという設定はSF小説的で、
その際の「海溝」はどんな峻厳な谷になっているだろうなど胸を熱くした。
文章が冗長な部分もあるが、ときに廃墟美に富んだイメージも紡がれる。
う〜ん、しかしこれは「詩的文体の」小説だな。音韻上の魅力がないのと
あくまでも語同士の隣接魔術ではなく
描写対象の空間隣接性しか感じられないので。
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3756 : 八月のひかり 凪葉 ('09/09/01 07:44:03)
夏=暑気=倦怠=少女、みたいな往年のつげ義春的意識で
詩篇が書かれてしまっているけれども
女性(でしょう?)が自らそんなクリシェの欲望図式に積極参入してゆくなんて・・
この作者がきれいで細心だとおもっている表現はどこかで詰めが甘い。
というか機能性が弱く、だから文単位の連接を呼び込んでいない。
よって詩篇を読む印象も隙間だらけとなるが、
それが晩夏に拡がる空間とつながらないのがこの詩の弱さだ。構成意識が弱い。
では採るところがないのかというと実はこの作者には一点だけ感覚の鋭い分野がある。
「腐臭」だった。二箇所出てくる。原文を確認あれ。
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3757 : 森の中に捜し物 白い黒髪 ('09/09/01 11:30:21)
茸は幻覚の具だ。白い茸ならとくにそうだろう。
それを森で採取し、それをもって少女写真を飾りたいというのが着想。
しかし「顔の辺り」とは何か。茸で彼女たちの顔を潰してしまうのか
それとも顎や頬の線などを茸で輪郭づけするのか。一切はわからない。
そのような修辞の不用意さは
「マッチしない」「ビートを打つ」「にっこり笑っている」など
まだまだ数えあげることができる。
「サイケデリシャス」な気分のみ、前面化したような詩篇だった。
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3762 : 受信送信今日のメールは何件です? 19 ('09/09/03 04:06:11)
「挽き肉塗れのハンバーグ」というそれ自体奇怪な修辞の主語を連鎖し、
「何事かをいわない」ための詩篇。
実はネット詩と「ジャンク」の関係は一筋縄ではゆかず、
本当はジャンクにおいてこそ本領が発揮されるとおもわないこともないのだが、
この詩は自らの「電波」を信じず、それで唯我独尊になれず、
解釈をひとに預けてしまう甘えも目立ってしまった。となればただの屑。
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3755 : 当て馬 丸山雅史 ('09/09/01 01:08:09 *1) [URL]
牝馬とセックスする「僕」という定位が開始される冒頭にギョッとしたのだけれど
寓意詩に昇華できなかった。JRAなどの名を出すからだとおもう。勿体ない。
そうなると詩のモチベーションもただのルサンチマンに汚れてしまう。
それと、馬の性交はその怒張男根のサイズ的暴力性もあって、
崇高なほど美しいはずなのだけれど、
作者の書き方ではそれも感じさせない。全体が汚いのだ。
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