文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

5月分選評雑感・優良作品

2011-06-28 (火) 20:40 by 文学極道スタッフ

(文)浅井 康浩 /平川 綾真智 (編)織田和彦

19.5172 : カラカラ帝。  田中宏輔 ('11/05/02 03:52:49 *12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110502_441_5172p

今、機会がありケージに関する文章を書いています。呼応するものがあり、興味深かったです。

未来派があり、機械賛美戦争肯定が芸術に反映され、ダダで全てが覆され、オリジナルと統合の概念が曖昧になり、シュルレアリズムに引き継がれ、機械やコンピュータの日常進出は、エリオット等の「荒地」を用意し、生と死が輪切りの瞬間対象へと横滑りしていきます。

反芸術、反詩という側面が切断された言語統制から人称の横滑りへと派生し、メール、SNSなどの発展に「瞬間(刹那)」が生む人格と対象が言語という他者を拠っていきます。言語操作とは他者という鏡体からの自己操作です。 切断と糊付けは、解体と新たなる極地への自己眺望です。 横滑りと脱線に還ってくるのが、不思議でたまりません。

12.5193 : 骨。  田中宏輔 ('11/05/09 00:01:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110509_777_5193p

生殖行為によって命を生み出すという営みは多くの動物に共通する創造行為ですが、さらに衣食住をも高度な技術によってつくり出す行為は人間存在を現し、かつその存在基盤となってくるものです。

「どの、骨で、・・・・つくらうか。」

このフレーズでリフレインされる作品には、何か神的な力を持った話者が「骨」をガシリと握りしめ、あたかも工作でもするかのごとく似非の生命の形を組み立てていきます。
ここに示されるシンボリックな意味あいは多様な解釈性を含み、単調な言葉の構成の中にも奥行や深さを伴っていて、作品の雰囲気を作り上げています。

5204 : コードネームはカモメ  草野大悟 ('11/05/10 22:50:55)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110510_842_5204p

「可愛い。 」という評価によって推されています。
が、ただ本当にそれだけです。

物語がかたられるモチベーションは、ただ、

どこかの国のエージャント、そしてコードネームという物々しい名称と、
>おかあさんの髪ひっぱったり男の子をけとばしたり
という行為のギャップと、そのギャップを印象づけるための

>あたしの かかとおとち(し)は すごいのだ
>ほら、あれよ 上からの指令っていうの? あれ
>まいにち 超いそがしいあたしの ただひとつの息抜きはおふろと湯上がりの一杯ね
>うふっ

という動きやセリフは、名称とのギャップによる上から眺められた「可愛い」という感想をひきだすにすぎないように思える。

少年が、少女が「何か」に対してたたかう、という設定がなされる場合、もちだされてくる疑問は「なぜ成年でなく、少年があるいは少女が戦うことになるのか。その合理的な理由はなんなのか」という問題提起がされていたように思う。

それは、ガンダムのアムロから、エヴァの碇シンジまでに通底している。
もちろん、この作品の「あたし」も,

>だって いつ 例の、「上からの指令」がきて 任務につくかわからないじゃない

という以上、その系譜につらなることになる。

なぜ、少女たちは、「戦う物語」において、被弾したり、傷ついたり、死ななければならないのか?
この作品においても、なぜ「あたし」は、「上からの指令」で、

>パキラをやっつけたり
>おかあさんの髪ひっぱったり
>男の子をけとばしたり

しなければならないのか。

問われなければならないのは、「上からの指令」を受けて「任務」のために動き回る「あたし」の身体の動きそのものの矮小さと、「エージェント」「コードネーム」の誇大さのギャップの「可愛らしさ」ではなく、
動き回る「あたし」の身体の物質的な運動と、それを引き起こす「上からの任務」の「意味」の乖離ではないだろうか。

アムロや碇シンジは、あるいはララァ・スンやアスカ・ラングレーは、なぜ戦っているのか?
戦っている身体的な運動は、戦闘を引き起こすことになった数々の言説や、無数の意味と地続きになっているのだろうか?それとも、どこのだれとも知らない「大人」が犯した失敗によって引き起こされた拡大する戦線に、局所的に投げ込まれただけなのだろうか

少年や少女らは、みずからが局所的に戦っている戦闘の意味を、(なぜ起こったのか、なぜ戦わなければならないのか、等)みずから理解しているというよりは、「上の」レベルの人間が「和解」なり「降伏」なり「勝利」なりを宣言しない限り「戦闘」を中止することのできない空間に投げ込まれたまま、ひたすら疲弊してゆくだけの存在にすぎないのではないだろうか。

そのような構造を、「少年あるいは少女の戦い」という物語は抱えてしまうのだが、
「あたし」はといえば、

>任務を完遂したわ
>うふっ

という無邪気さを振りまいてばかりの、そして、任務を終えたあとの葛藤でさえ、

>むじゃきをよそおってなんなくのりこえ
れる程度ことであり、作者の興味やモチベーションもそこにとどまることでしか維持されていない程度のものだと感じる。

5234 : 火の始末  Q ('11/05/21 00:09:59)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110521_188_5234p

非常に大雑把に分類してみる。
この作品を4つのカテゴリーに分けるとするならば、
1 一行ごとに「 」で閉じられている発話の連続体
2 最終に現われる引用群
3 「 」で閉じられることのない発話の集合体
  ある程度の行数が「 」でまとめられている発話体
4 その他

そして、この作品を読むうえで、中心となるのが、1と3のように思う。

>土の中に、
>埋められた、震災の犠牲者のその瞳が、
>いっせいに、この、東京の、
>道路やビルの壁に花開いたら、
>きっと多くの人が、気持ち悪いって言って、
>逃げ出すだろうけど、
>正直、そんな風景を望んでいる

物語の構造は、ここに簡潔に描かれている

東北大震災、という物語がまずある。
そして、中心/周辺 (東北/東京)。

そして仮定する
1 がおそらく中心(東北)の言葉であることと
3 がおそらく周辺(東京)の言葉であることを。

ここまでは容易に理解できる。
では、なぜ、このような一見まわりくどい書き方がなされるのか。
それぞれのカテゴリーの文章を抜き出してみる


「明るいね」
「冷蔵庫も、扇風機も、すべてが明るいね」
「ここにある言葉は全部がらくただけど、」
「それが明るいね」
「優しい言葉を」
「うるせぇ!世界中のろくでなしが、
 まとめてかかってきても、
 逃げちゃうから!」


「ょ、ってつけたらかわいくなるって思ってる
 糞みたいな書き手を全部ぶっ殺したい
こんな俗っぽい本音を正当化するために、
長々と書くんですよ!
分かりますか、諸君、世界は、くだらない
描写で埋め尽くされて、
まさに、ウンコカスですよ、諸君!」

1のカテゴリーに現われる特徴は、
A→B B→C A→C でもなく、A→B C→D でもない。
はじめの発話は、次につながる文章によって、次から次にずらされてゆきます。
そして発話される言葉は、肉体にまとわりつくような「私性」が強く感じられます。

3のカテゴリーに現われる特徴は、

>世界は、くだらない描写で埋め尽くされて、まさに、ウンコカスですよ

>はっきりいますが、日本語が大嫌いなんですよ、
>この不器用な言葉が、いつだって、草葉の陰で、泣いているのを、「うえーんうえーん」と、(変換することしかしない)

というように、「世界」の、あるいは物語全体の意味を、語ろうとします。

ではなぜ、中心/東北を語る言葉は、「私」性を強く感じられる言葉の断片としてしか現われることができないのでしょうか。

たしかに、それを納得させる説明は、多数考えつくとおもいます。

そして、そのなかのひとつの読みとして、ジャベスの言葉を接続させたいと思います。

ジャベスについては、ユダヤ人である、といえばだいたいわかります。
「問いの書」「ユーケルの書」という著作があり、特異な書き方の書物を出しています。

「問いの書」における見取り図はこうなります。

恋人たちの物語の不在、中心の不在 / 周縁の過剰、物語の注釈を繰り返し語るラビ

ジャベスは、「問いの書」で、二人の男女を登場させています
ユーケルとサラ。この二人の物語。それはユダヤ人として収容所に送られる恋人であり、書物はこの二人の名前を繰り返し呼び、進んでいきます。
しかし、書物には、二人の恋人としてのエピソードなどは、ほとんど書かれてはいません。
そして意外ですが、この二人を中心にしながら、物語の全編を覆い尽くしているのは、ユダヤ教のラビ(律法学者)の注釈としての言葉となっています。
中心となる二人が不在の物語。そしてその空白を埋める無数のラビの言葉。

ユーケル 白いページは、まさに己の痕跡を見いだそうとしている足跡でひしめいてる
     存在とは、徴し(シーニュ)からなるひとつの問いだ
サラ   夢とは、ユーケルよ、すでに死ではないでしょうか?あなたは余白に暗影を
     賭けます。人間は時を担っています。わたしたちは互いに勝負しているのです。
     時、それは生成であり、一瞬が繰り返す燃え上がる炎なのです

ふたりがこのように交わす会話も、物語の後半もだいぶ過ぎた時に、ふいに現われてきます。そしてこの恋人同士の会話も、A→B C→Dという会話ではなく、つねにずらされながら進んでゆきます。

そして、全編をおおう無数のラビたちの会話

≪おまえは、書物に名をとどめることを夢見る。そして直ちに、おまえは眼と唇が分かち合うひとつのことばとなる≫ レブ・セニ
≪同じインクで書かれた問いと答えは、徴しであり皺である≫
≪おまえが選んだのだ≫とレブ・エローダは言うのだった。≪そしておまえは今、自分の選択の意のままだ
ところでおまえはユダヤ人であることを選んだのだろうか?≫
≪おまえが黙る、私は在った。おまえが語る、私は在る。≫ レブ・モリーヌ

ラビたちの会話は、サラとユーケル、この二人の物語でさえ、ユダヤ人社会においては、過去からずっと語り継がれてきたユダヤ人としての経験の一片であるかのように、「ユダヤ人の歴史」の一ページとして包摂し、語ることが可能であることを示しています。

ではなぜ、ホロコーストの犠牲者である恋人たちの物語は、恋のエピソードや、それぞれの人柄を書くことで、ふたりの事実に接近する方法をとらずに、語られるエピソードもなく、常にずらされながらでしか会話が成立しないのでしょうか

ジャベスはこう言います
「不幸にもユダヤ人にとって、強制収容所、ホロコーストを経たあとでは、あの物語(サラとユーケルの物語)もありふれたものでしかない。細部まで語る必要はない。彼らは収容所に送られたと、と言えば、それだけでユダヤ人には物語全体がわかる」

そう、中心の物語は、主体を設定することなく、声さえ響いていれば、細部まで語る必要はないのだといいます。

だとすれば、「火の始末」の 1のカテゴリーである声も、細部を語ることがなくても成立するのかもしれません。

では、3のカテゴリーである声は、世界を、そして物語全体を語ろうとする声は、
ラビの会話のように、震災の当事者の物語を、大きな物語のなかのひとつのエピソードとして語るような形で響いているでしょうか。
もちよん、読めばわかるように、そのような可能性は感じられません。
それはなぜでしょうか。
きれぎれの声となった当事者の言葉を、周縁の大きな物語を形成する「世界」は、つつみこむことができない。
この事態は、非常に興味深いものであり、また、東北大震災を語る「作品」としても、
いままでにあらわれてきた「震災作品」とは一線を画すものであるように思います。

5235 : 金曜日  ゼッケン ('11/05/21 15:13:47)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110521_217_5235p

ジョーンズ調査官、か。
わかりやすい、缶コーヒー「ジョージア」のCMでおなじみの、だろ?

15秒枠のCMなら、これ、スピード感あっていけますよ。シリーズ化も可能じゃないですか、この書きだし。

シリーズ化、できそうか?

ええ、ただ問題がありまして。
この書きだしじゃ、トミー・リー・ジョーンズが、「演じたい」といわないとおもうんですよね。
いやいや、年齢的にアクションがムリ、とかじゃなくて、この「おれ」なんですけど、人物造形が、ほとんどないんですよね。
いままでの、「宇宙人ジョーンズ」のキャラに頼りすぎ、っていうか。
主人公の作りが浅い、っていうか、ディティールはいってないでしょ。
だから、読み手を一瞬アクションで引き付けても、人物が書けてないから、CM観たひとも興味が持続しないと思うんですよね。

厳しいの?

厳しいですよ。「子供」にしても「個性」がないですしね。
セリフが磨かれていないのもイタイですけど、
これは、なんとかいじることできますけど、

>うしろの客が白目を剥いたまま、声帯だけを震わせる
>いつになったら本部に向かうのかね? 
>おれは催促され仕方なくギアをトップに入れる

このチョイ役なんて、ただ、物語をすすめるための駒ですもんね。
上司なんだけど、人物に特徴がない。
「白目を剥いたまま、声帯だけを震わせる」だけで
「いつになったら本部に向かうのかね? 」がセリフの役なんて、どう魅力的なんです?
このチョイ役は、「柳葉敏郎」あたりが適任だと思うんですが、まず、こんな人物設定なら、断ってきますね。もっと魅力的な人物にしないと。
いや、別に大幅にイジル必要はないんです。
言葉のクセ、ちょっとした仕草、その人物のこだわり、なんかを入れるだけで、魅力はグッと上がるもんです。

つまりこのままじゃ、キャストさえ決まらない、と?

ええ、アクションと突飛な設定だけじゃ、すぐ飽きられますよ。

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2011年5月分月間優良作品・次点佳作発表

2011-06-22 (水) 17:34 by 文学極道スタッフ

2011年5月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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2010年・総評その2

2011-06-06 (月) 20:54 by 文学極道スタッフ

2010年・総評その2

    (文)浅井康浩

【エンターテイメント賞】 ゼッケン

「文学極道」という場所は、投稿サイトの性質上、「投稿する人」と「返信する人」のコミュニケーションが生まれますが、「芸術としての詩」を投稿する、という以上、どうしても「投稿する人」の作品にかける戦略や、効果などに焦点があたりがちになってしまいがちです。それはともすると、「投稿する人」の「自分の作品が優れていることを確認する場」になったり、「批評が作品に貢献するだけの一方通行なコミュニケーション」という、第三者からみた場合、あまり健全でない事態に陥ってしまう可能性を孕んでいます。
そのような投稿者たちのなかで、つねにレスポンスに対して、「評価」を軸にした、ともすればギクシャクしがちな対話ではなく、「コミュニケーション」に軸を置いて、レスポンスしてもらったことにたいする感謝の気持ちをベースにやりとりをする対話とケアを続けてきたこと、また「芸術としての詩」のサイトにおいて、一年を通して、エンタメ作品ばかりを投稿しつづけた志の高さは、「男前」というほかありません。

>ジャンキーの古月さん、こんにちは
>右肩さんって本名ですか? そうじゃなければ右肩という名づけ、フェチの人だろうなと思います。

ここらへんの相手のふところへの飛び込み具合。

>おじいちゃん、さっきしてたでしょ!
>事実を蒸し返して落ち込ませるだけじゃなく、次の、とりうる事態に対してもプレッシャーをかけるとは、やるな、と思いました。岩尾さん、こんにちは。つぶす気か!

ここらへんのツッコミ。

コミュニケーションのための、タメ口、前置き、自分フォローなど、とりあえず一例ですが、ゼッケンの作品とその返信には「愛」という名のコミュニケーションが溢れています。

あー、こういう愛に溢れた人って、どっかで見たことあるわ〜、と思ってたらゼッケンさんのほかにいました。アメリカに。
ジョニー・デップが。

ジョニー・デップは、「ファンにサインする際に態度が丁寧な映画俳優」で3年連続1位になった人で、ファンとのコミュニケーションは「穏やかで気さくにサインをしつつ、ファンに話し掛けて親しくなろうとする」「プレミア会場でもレストランでも、映画のロケ中でもほとんど、最高に気前良くサインしてくれる人物」で、まるでゼッケンさんをアメリカ人にしたような感じの俳優です。

もちろん、相手へのコミュニケーションへの心遣いだけでなく、出演する作品への意気込みも、デップはゼッケン作品の特質とクロスオーバーしたりします。

「目的の途中変更」
アンパンマンの着ぐるみを着て、子供に夢を与えるはずが、なぜか拉致され、折檻される男「折檻夫婦」
取材の為にラスヴェガスに向かったはずが、トランクに積んだ大量のドラッグでラリりまくるジャーナリスト「ラスヴェガスをやっつけろ」

「本当にしたいことはあるのに、現実はその逆のことをしなければならない」
野球がしたいのにグラブがないために、ボールの代わりに石を投げるピッチャー「がんばれベアーズ」
両手がハサミであるために、愛する人を抱こうとすると逆に傷つけてしまう男「シザーハンズ」

「夢見る変人」
即身成仏を夢見て、頭髪を剃りおとし頭蓋骨を削られる男「水晶」
アラスカでオヒョウという魚が空を泳いでいく夢を見る変人「アリゾナ・ドリーム」

「最低な自分」
卵子同士をつかって人工授精を行い逮捕されそうになっている生物学部教師「したく」
性転換者の問題作品にするはずが、ただの女装趣味の男の話になった映画を撮った史上最低の映画監督「エド・ウッド」

二人について相違点があるとすれば、ジョニー・デップは、クセのある設定の人物を演じつつ、クセのある設定からはみだしてしまう「イノセンスさ」や「フラジャイル」「ピュアさ」をもっているのに対して、ゼッケンは、どうしてもクセのある設定がそのまま「おかしみ」へと結びつくだけで、設定からはみだしてしまうものの気配がしない、という点だろうか。
クセのある設定そのものがドラマを作るのでなく、そのクセを普遍化させつつ、より読み手に訴求力のあるエモーションを感じさせるための設定からはみでる「何か」を、これからのゼッケン作品には求めたくなってしまいます。

【レッサー賞】 朝倉ユライ

黒木みーあさんが朝倉ユライさんのことを「わたしの中でときめかせたい人トップ10に入る」と言われていたのが印象的でしたが、自分は、「朝倉ユライ」というクレジットを見ただけで、レスを読む前から幸せな気持ちになってしまいます。

作者と作品に対する真摯な向き合い方、発言そのものがはからずももってしまう攻撃性に対する敏感さ、そして、作品そのものに対するリスペクトの姿勢。
そのどれもが、尊敬するに足る資質だと思っています。

個人的には、進谷作品の「ぱぱぱ・ららら」に書かれた返信が、なによりも美しかったことを書いておきます。

【レッサー賞】 右肩

年間大賞の中で、創造大賞にも、抒情にも、実存にも「右肩」というクレジットがなく、レッサー賞にだけ彼の名前があることを不思議に思われた人も多いのかもしれません。
けれど、右肩氏がレッサー賞に選ばれたことを不思議に思う人はいないと思います。

右肩氏の、なによりも相手に自分の意図を間違いのない言葉にして届けようとする姿勢は、文学極道の中で、光っていたと感じています。

そして言葉選びの厳密さ。
たとえば、「浅井康浩は男か女のどちらかである」という仮定を立ててみます。
こうした言葉に対してのアプローチに、右肩氏はおそらくこう答えるように思います。
「男か女かの二者択一しかないように思えるけれども、
浅井が、男でもあり女でもある(両性具有者や性同一性障害者)である可能性もあるし、男でもなく女でもない(クラインフェルター症候群など)可能性もあるのではないか」と。

そのような視線から眺められた批評は、しんじつ、信頼することのできる言葉となって、それぞれの作品の返信となって現われているように感じます。

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