2011年1月選評雑感・優良作品
文責/浅井康浩 編集/織田和彦
◆4935 : The Wasteless Land. 田中宏輔 ('11/01/01 00:35:57 *12)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110101_928_4935p
一見すると読書ノートのような引用(の織物)がスタイルとして注目を引くような形になっているけれど、それは表面的な見方だという気がしました。まず情欲があり、それが所有欲へと転じ、語り手が情欲の対象と対峙したとき、鋭く自らの存在とは何かということが突きつけられるという。田中さんが詩を書くという行為に駆り立てられる動機が、ここに表現されているという印象を受けました。書くことはエロスなのだ、という前提がまずあります。欲望を感じるとそれを所有したいという具体的な願望となって現れ、その時突きつけられるのが存在です。欲望する対象の前で自分という存在が何かということが突きつけられるわけです。引用が前面に出てくるスタイルは、オリジナリティへの懐疑を示すものですが、あるいはオリジナリティそのものを否定している。そして何をどのように組み合わせて引用するかに個性が現れ、私とあなたの違いを示す存在の在りようも、その程度のものに過ぎない。ならば引用の仕方に徹底して拘ることで、「私」というものを他と差別化して「同定」することができる。この作品にはそういったメッセージが込められているような気がしました。エロスに引用という知の意匠をまとわせ、存在の探求に赴くところのこのテクストの可能性が見出されます。
◆4943 : 図書館の掟。 田中宏輔 ('11/01/03 00:15:31)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_961_4943p
エミリ・ディキンソンの書斎、川端康成の書斎、ヴァージニア・ウルフの書斎の遺書。
かずかずの作家の書斎が、持ち主の死後に、保存され、公開されている。
そこに身を置くときに感じるのは、まずなにより、作者の不在、ということと、それでもなお、その書斎という場所が、書き手に属する空間としてあり、彼らの息吹が濃厚に感じられるということだろう。書斎に並べられた本は、その濃厚な気配に包まれながら、いつの日か不在となった主人がページを繰る日を待ち望んでいるかのように、そこに並んでいる。
それに対して、図書館の機能はというと、アレクサンドリア図書館の時代から、記録できることのできるものを記録することであり、そして続く注釈、読解であり、読者の作業場ということだろう。過去の出来事を発展させ、未来をかたちづくるための。そうやってアルキメデスはアレクサンドリアの図書館に招かれ数学、物理学等の未来を形づくる。
そこでは、作家の位置は従属的にならざるを得ない。アレクサンドリア図書館において、アリストファノンは、後学のために、読むべき本の目録を作成する。それは、「規範」となり、それに載っている人々を記憶させるかわりに、そこに載せられていない人々の著作の存在を抹殺させる役割を担った。
図書館の存在はつまり、作者の書斎から本をひきはがし、作者という存在を消し、かぎりなく膨張してゆく。
そのような意味で、この作品の最初に書かれたのが
>人柱法
というのは興味深い。
しかし、図書館は、記憶するに値するものを記憶している、ということもできる。
図書館の膨大なリストは、私たちと関わりをもつ点について、作者の記憶の結晶である著作を読むことによってつながるのではなく、それを読むかもしれないという可能性が無限にある、という関わりにおいてつながっている。
それは、記憶を貯蔵するものが、書物であれ死体であれ、変わりはないように思う。
そして、図書館は、そのシステムがどのように詳細に語られようと、各人の利用してきた個人の記憶のなかでしか生き続けられないものとしてもある。
個人のなかの記憶としての図書館。雰囲気としての図書館。
自分にとって、紙媒体の図書館において感じる喜びは、パラパラと読んでいくことと、背表紙による出会い、分類方法を見てゆくことなのだけれど、死体が本代わりとなっている図書館での、そのようなささやかな喜び、というのはどのようになるのだろうか、気になった。
はやり、
>美しい女性の死者の視線を感じた
というように、顔による出会いなのだろうか。
図書館という場所における個人のよろこび、というものに興味をもつものにとって、この作品は、詳細ではあるけれども、ストーリーの整合性にこだわった緻密な作品としてあらわれ、感嘆はするけれども、感心はできないという微妙な心理に陥らされてしまう。
◆4947 : キューピーと 右肩 ('11/01/03 19:19:00)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110103_974_4947p
キューピー人形が象徴するものへの作者なりの語りかけなのだと思います。キューピーは
「素っ裸」なので、本当ならば日常の空間の中では秩序紊乱者として「取締り」を受けるべき存在なのに、このキューピットの形をしたキャラクターは、その毒が抜かれることによって、日常の中に納まることを許された存在です。
>君はキューピーだから煩わされない、そこのところはとても素敵だ。人でなくなったものの美点の一つに数えてもいいと思います。本当だよ。
この語りかけは、しかしいつもシニカルな調子を帯び、
>短い腕を明るい空へ逆八の字に開いている君、バンザイ。生きものバンザイ。
明らかにバカにしている調子さえあります。
>頭の失われた君が愛しい。ぴたり揃えた脚。
そしてどうも頭部ももがれてしまっているキューピー。
>いかがですか?返事はいらない。だから黙っていて。しばらくは黙って。僕にこんなふうに、好きに言わせておいて下さい。
ここにきてどうやら作者はキューピーに嫉妬しているらしいことがわかります。キューピーという愛らしいキャラクターに対して。キューピーというキャラクターに仮託されているシンボルに対して。そしてこの嫉妬は循環的に憧憬へ接続していくことで、この作品はある種の賛歌としての特色を帯びてきます。
◆4971 : いちじつ 葛西佑也 ('11/01/17 14:06:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110117_179_4971p
昨日会ったばかりなのに
「久しぶりだね」なんて
おかしいんじゃないの?
そう思ったのはほんの一瞬で
ぼくたちは
その短いフレーズで
全て了解しあった/のです。
……不在着信二件、先ほどまでそのように表示されていた携帯電話のディスプレイは、今ではすっかり寂しくなった。
もっとも共感できるのは、この一連ではないだろうか。
昨日、会ったばかりなのに、別れた途端に、もう、ケータイでつながろうとしている心理。
会わなければ埋められない溝をすこしでも埋めようとし、つながろうとする心理は、なにを求めているのだろうか。その不完全な、声だけの、つながりは、僕の心理のどの部分を埋めるのか。
たくさんのものを失いすぎたぼくたちは、もう「無」と呼ぶには溢れすぎていて、あふ、れ過ぎて、い、て、なにも始めることのできぬまま、夜が明けるのを何度も何度も待ち続けるだけなのです/でした。(誰かが言ってたんだ、「ぼくたちは待つことをわすれてしまった」って。でもね、断言するよ。忘れてなんかいない。忘れてなんか。ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。ただ、ひたすらに。ほら、たとえば雨がやむのとか、夜が明けるのとか……)
僕は、おそらく「僕」自身になりたくないのだ。
僕の身体から「僕らしさ」をどんどん消失させてゆく。
>(生きている意味がぼくにはあるのですか)
僕らしさをどんどん無くしていったその先に、なにがあるのか
>ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。
僕の身体にまといつけたいのは、他者とのコミュニケーションではなく、また他者の存在でもない。
おそらくは、一度、脱ぎ捨てた「僕らしさ」を、ふたたび纏おうとするのだろう。
そのような意味で、次のような短歌は、示唆的だ。
>雨を待つ気分でさわぐ僕たちが ほんとうは誰もいないということ
失っているのは、接触という出来事なのだろう。
僕と、あなた/誰かの間に挿しこまれるはずの接触という出来事。
あなたの「息遣い」「はずんだような声」「心配そうな」「うれしそうな」「いらいらしている」様子。
僕/あなたのなかで、別れた途端に埋めなければならなかったものを、みたすのはおそらく、電話の向こうから聞こえてくる「声」そのものではなく、彼女の「存在」そのものだったのだろう。
彼らはもうすでに少年ではありません/でした。(いつかの少年は女装をしていた。正確にはもう少年という年齢ではなく、女装をすることによって女装をした少年のように見える青年になっていたんだ)
歌声は音声であり、音色からは色が失われ、切り取られたたくさんの風景があちらこちらにちりばめられてい、る。
もう、いやだよ、
と誰かがつぶやいて、ねぇ/聞こえますか?お電話の向こうのあなた/ねぇ、聞こえますか?どんなに悩んでいたって、眠気には勝てないよ。
しかし、上記の文は、過去の互いの接触によってでも、僕自身の空白が埋まらなかったことを示唆している。
「彼」と「彼女」のカテゴリーのなかに自身を位置させること。
(いや、これはかなり安易な考え方なのだが)
自己と身体のなかに、他者の意味を差し込むことで受け身となってゆく、それでいてそれを主体的に生きてゆくという事態。しかし、そのことによって自己が発現するという事態。
自己が他者となってしまった自己を抱きしめてあげることのできる事態。
>ぼくには彼らのことばがわからないけれども、少なくとも彼らの考えていることはわかる。これは通じ合っているということではない/ありません、
>落下したら電子機器からは音声ではなく、声が歌うような声が、ぼくを染める声が、ひびいてい、る。
ぼくは、あなたの「存在」あるいは接触できる「皮膚」とが遠ざかる事態に対応できない弱さがある。
だからこそ、内側に、「彼」「彼女」を閉じこめ、そのあわいを積極的に生きようとする。
>これは通じ合っているということではない/ありません、を拾い上げて、電池パックのある面をズボンの太もものあたりに擦りつける、
世界を自己と接触させる、あるいは距離をおけば痛むものを皮膚に近づける。
◆4980 : I-my-me [pupet makes people] 村田麻衣子 ('11/01/20 06:53:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110120_231_4980p
ディスコミュニケーションがあたり一面を覆っている。例えば引用する。
>かわいいなキティちゃんには口がない何も言えずに吊り下がる猫 松木秀
このあたりのニュアンスに通底してくるような、ファンシーな対面認識さえもなく。
ティディベアを媒体として通し、その奥に自分をみる、だとか、そのようなものでもなく。
>360°をまのあたりにしたあらゆる内角だから
ティディベア≒自分、というような目線を設定し、その先に、大人の視線を対置しているようにも見える。
けれど、ティディベア≒自分、という図式から発生するイマージュを徹底的に嫌って、ほとんど意味が浮遊してしまっている文章を書きながらも、この作品が実現しているのは、私の眼から発せられる視線の快楽であって、さらにナルシズムまで感じられると言っていいのかもしれない。
もちろん、私とティディベアのあいだには、コミュニケーションが発生するわけではない。
しかし、コミュニケーションが発生しないがゆえに生まれてくるティディベアとしてのキャラクター性(「かわいらしさ」など表層的な特徴)は、わたしによって摘み取られている
>顔の付近がきゅうきゅうになるくらい綿をつめこまれて、目が×になっちゃう
だからこそ、わたし≒ティディベアに近づくのだけれど、
>あのこだってぴんときてないって顔してるでしょ わたしはかおをかく めをくろくして あんな代物、まのあたりにして生存してるなんてひとでないから
という言葉が示すように、それが達成されるわけでもなく、非常に屈折していて、わかりづらいことが多い。しかしその手法は鮮やかで、洗練されている。
◆4985 : アメリカン・ルーレット ぎんじょうかもめ ('11/01/22 16:57:28 *8)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110122_267_4985p
イギリスのパンクシーンのヒエラルキーの頂点にあるのがピストルズだとするのなら、その入り口あたりに位置するのは、初等教育を卒業したthe ladsであって、もちろんそれらはfailedな奴らだし、そいつらにとって、「アメリカン・ルーレット」は、
ぼくは目をきらきらさせて思った。
かならず死ぬ。
すごい。
そうだよ。
くらいの「やってみる価値がある」ことで、やる、やらないは別にして、将来、その目撃した出来事に尾ひれがつき、何度となくガテン系職場での自分の語り草となることになるくらいだろう。
学校で行われる道徳的規範の、その灰色の、遠回りした、直接的でない、権威主義的な、もってまわしたようなやりかたに対して、対抗するthe ladsにとって、
>かならず死ぬ。
とはわかりやすく、みずからの文化との親近感を感じさせるのに十分だし、「タフさ」を階級文化とするものにとってはなおさらだろう。
だからといって、それを、するかしないか、とは別問題で、アメリカン・ルーレットをすること自体より、the lads、ひいてはそのカルチャーにとって重要なのは、どのように内面化されるか、つまり、ルーレットを前にびびったり、拳銃を持つ手が震えていたり、クソをもらしたりしないかであって、つまり男の尊厳をどのように保ちつつ、トリガーを引く寸前までいき、そこで、どちらともが、死ぬことになるのを防ぐか、トリガーを引いた日には大事件になって警察に尋問されることがオチだし、そんなことはしたくないのだから。
だから、
>だけど、死ぬことなんて簡単『だった』
なんて、警察という官僚機構にどっぷり逮捕されてはまりこんだアホがぬかす言葉なんだろう。
だからこそ、
>ここは日本でスーパーマーケットで拳銃を購入することさえできないのよ。
という言葉につづく
>だからわたしにローラーシューズを買ってよ。
なんて言葉は、中産階級、って、階級なんてそもそもないやん、みたいな日本の平均的児童を視覚的に見分けるツールとしては最適だから、すごく「クール」だし、
>メンヘラみたいな遊びはやめる。
だなんて、勝手に自分でヒエラルキーつくっといて飛び越えてゆく姿が輝いてる。
The ladsなんて、権力者を前にして「あちら」と「こちら」に分けて、自分のマッチョさを、「権力者」が持ってない者として優越感を感じてるだけで、そのじつ労働者として搾取されてたりとかしてるのかもしれないしね。
それにしても、「3」の位置づけはわからない。
>またわたしはその地図上の、その古いことばを読むことなんてほんとうはできなかったのです。
ここが一つのがキ―になりそうだけど、つながりは最後まで判然としなかった。
◆4998 : 白亜紀の終わり 右肩 ('11/01/31 22:42:50)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110131_365_4998p
>その度に僕は、人類も異常巻きを始めているのだ、と考えてその場をやり過ごすことにしている。そう考えるならば、
そのように考えることの、なんと空虚なことだろう。
>どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。
という言葉のあっけなさ、そらぞらしさ。だからこそ、そこから発想されるものに心を打たれるのだろう。
たとえば、それは、「ヒロシマ・モナムール」における岡田英次の「君は、ヒロシマを、見なかった」というささやきなどに通じているのかもしれない。
理解できない事柄のなかをさまようように切りぬけながら、そしてその節々に置いて、あるいは自己としての確固とした決断を重ねながら、それでもなお、
>何ということもないこの瞬間がこれから先記憶にずっと残るとは、その時は考えもしなかった
という事態をその先に迎えてしまうことがふさわしい、とみずからに感じながら、日々をおくること。
みずからの思考をかさねながら、「異常巻き」が弱い思考をつねにこわしてゆくのだが、それでも思考をやめないでいることでたどりつくのは、
>そのことも「素直に」納得できるようになった
というように、異常巻きにたいする抵抗であり記された言葉が重みを持つとするならば、
>個体の生死は、白亜紀後期のアンモナイトと同じく、種の衰亡を彩る無数のエピソードの一つに過ぎない
つまるところは意味の外側に達したところで屈折し、寒々とした人間の条件をあからさまにあらわしているから、という部分に求めることができるかもしれない。