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2009年9月選考雑感

2009-10-31 (土) 16:53 by a-hirakawa

今月も勉強になりました。
ありがとうございました。

今月は、

3807 : 魚骨  リリィ ('09/09/21 19:28:33) 

3821 : 夜歩き  鈴屋 ('09/09/29 01:36:24)

3797 : 道のはた拾遺 6.  鈴屋 ('09/09/17 00:25:31)

3776 : 衣替え  りす ('09/09/10 00:31:18)

3817 : 鉄のきりん  草野大悟 ('09/09/28 00:18:48)

3760 : 祝祭前夜  残念さん ('09/09/02 20:23:56)

3806 : アルビノ  朝倉ユライ ('09/09/21 01:43:29)

以上、7作品が月間優良作品に選出されました。

3807 : 魚骨  リリィ ('09/09/21 19:28:33) 
今月、選考委員全員が優良へと推挙した唯一の作品でした。
ていねいに書かれていて良い、「父の骨を抜ければ〜」に至るまでにあとすこし、父の描写とそれを見る話者の描写を、と欲が出た、という意見がありました。あさりの結実は見事、このオノマトペをほかの投稿者も見習って欲しい(今月は特にsnowworksさんにそれを望む)、という意見もありました。細かい部分だが「3時」のアラビア数字が半角、どんなレイアウトでも違和感を起こさないためにもここは全角の漢数字が好ましいのでは、という意見もありました。凡庸な記述や揃いきれていない技巧はあるにせよ、それらが、けしてマイナスには作用していない、深読みを許容する懐もあり、ベタなテーマだけれども卑近に堕ちず、瑞々しい大衆性をも持ち得ている、新人ではないのかもしれないけれども、未熟な筆であるが故の魅力に惹かれる、という意見もありました。
 枕元に羽虫が付いていた。  
まで現実世界が続き、
 夢を見た。空中をさまよって紐を引く。  
の一行で夢に転じ、
 壁に目をやると3時を過ぎていた。    
この一行で目を覚まし、以降の現実世界へと続けているように読んだ、展開の錯綜の際、「夢を見た。」は、夢の部位を長めるような意識を引き寄せるような気がするので、もう少し言葉を探せたかもしれない、という意見もありました。

3821 : 夜歩き  鈴屋 ('09/09/29 01:36:24)
毎回こればっかり言っているような気がするが、作者は巧い、課題は最終着地にあると、これまた毎回ながらに感じる、もっと練れた印象もある、道具立てに注文はないけれども僅かな破れ目が気になって、せっかくの空気も白けるのではないだろうか、という意見がありました。梶井基次郎の「闇の絵巻」を思いながら読んだ、ただ、その先入観があっても淡々と味わえる作品だと思う、異性の存在を忘れました、と言うあたり(実際はまだ忘却ではなく“忘れました” という意思なのだろう)、おそらく話者は闇の恍惚、孤独の真意を感じているが、その痺れまでには言及しておらず、淡々と読ませることのほうに重きを置いた印象、そこはもっと作者がガツガツとして良いところだと感じた、痺れているさまを、闇の恍惚を見せてくれと、その点で一歩損をしているように感じる、という意見もありました。最初、諸星大二郎の「壁男」を思いながら読み始めた(「壁男」は「箱男」という凄まじい元ネタがあるにも関わらず、見事な世界を構築している)が、これは、だんだんと引きこもり的なことを言い当てている作品なのではないか、と感じた、世捨て人の話であり、夜毎に壁という部屋から出て来て目立たない場所を歩く、そういった作品世界だと考えていくと、どうってこともない流れを極端に書くことで詩文の秀でている部位は目立たせ、一貫性のなかでの揺らぎを際立たせている、非常に面白い読み物として立ち上がってくる、
 このころになれば、このあてない一夜の旅を、何の意志か何の慰めかも問わず、
は不要に思える、という意見もありました。
 私は複数を生きています
は、別の位置にいる自分と同じ存在(同じような引きこもり)か、過去 の自分が歩くほどに思考に出てくることを言い当てているようにも感じられる、作者はなんだかこう、隙があるからこそ、 秀逸を目立たせる不思議な存在だ、という意見もありました。

3797 : 道のはた拾遺 6.  鈴屋 ('09/09/17 00:25:31)
恋でのすれ違いを情景と脳内での心理的実景の中から見出していっている、
 衛星歯車
として捉えられていくものは言葉でもあるし、それは感情に直結している、悲しさは少し別の方へとふらついてしまう心理の終着でもある、自分の感情も、思いも回り、「あなた」の感情も回り、それは住まう場所が自転しているから仕方のないことなのかもしれない、
 警笛を湛える湖、
は気になった、僅かな感情の交錯が垣間見える中で、警笛は別の寓意を引き出してしまいそうで、それがあまりに合致するので、別れへと気持ちがほどかれていきそうな曖昧の美に芯を入れ過ぎてしまっているように感じた、けれども素晴らしい作品、という意見がありました。いつも思うことだが、連作の一節のみが投稿されその一節だけをどのように評価していいか悩む、良いと思うが連作は連作で読みたい、という意見もありました。遊ぶなら遊ぶで、もっと羽目を外して欲しい、という意見もありました。

3776 : 衣替え  りす ('09/09/10 00:31:18)
季節を身体的に捉えている、言葉に力がある、筆力が安定している、という意見がありました。読ませる手腕はさすがだけれども、いつもの冴えは無くて残念に感じた、地味だからどうこうではなく謎の呈示やリズムのスムーズさには足りないものを感じた、という意見もありました。

3817 : 鉄のきりん  草野大悟 ('09/09/28 00:18:48)
今までの作者を凝縮したようだ、冷静に読めない内容だけれども、この作品の良質さは際立っている、という意見がありました。鉄のきりん、とは点滴機器の付いた車椅子だろうか、或いは介護用の機器の具現だろうか、見せ方の問題なのかもしれないが、鉄のきりん、若干あざとさの方が勝るかもしれない、愛妻への情が矮小化されて読まれかねないところが難、もっと赤裸々なところから書けると感じる、そうすべき書き手ではないか、と感じる、小ネタは要らないのかもしれない、という意見もありました。

3760 : 祝祭前夜  残念さん ('09/09/02 20:23:56)
三日目、四日目はもう少しだけ先に行けそうな気もしたが、負の力でここまでいける作者もめずらしい、ここまで力を発揮する作品も珍しいと感じる、という意見がありました。かなりとっちらかっている印象だが、やはり筆力がある、痛く堅く寒い部分もあるように感じもした、という意見もありました。

3806 : アルビノ  朝倉ユライ ('09/09/21 01:43:29)
冒頭で魅力を使い果たしてしまった、あとはひたすら手法が古く、散漫、素質は充分に持っていると思うので注目していきたい、という意見がありました。ツカミはばっちりだと感じた、寒くガチガチ書く人には見習ってほしいとさえ思った、イメージの錯綜する呪文系であり、いまや絶滅しつつある携帯詩界隈では常套的に使われていた手法の一つでもある、月2投稿の縛りでどこまでいけるかを見てみたい、という意見もありました。悪くない、ジャンクフードのような勢いと錯覚があって良いと思う、連結部のものに音楽用語はありきたりかもしれない、DoorはDurの方が面白くなったかもしれない、という意見もありました。

* 

さて、次点佳作作品について触れていこうと思います。

3824 : 無題  ハレルヤ ('09/09/30 19:24:39)
まだデッサンという感覚を持った、言葉のセンスはあると思う、完成形を強く意識して書きつづけてみて欲しい、という意見がありました。ちょっとバラけ過ぎに感じる、わけがわからない煮込みの塩梅みたいであり感覚は悪くないとは思えるが、現状、ジャンク的な謗りは免れない、工夫を凝らせば格段に開花しそうな作品に感じる、という意見もありました。この作品は読み解く楽しさがあり、 解った! と叫ばさせられる部位が多々あった、多分、誤読だろうけれども嬉しさが勝る、一連:現在の日常風景、二連:亡くした母との思い出、三連:お彼岸の様子、三連での浄化が見事、悲哀を浮き立たせる一連もまた見事かもしれない、「拇指を浮かせてみる」ことから今はなき日々を自然と引き出してきている、二連、懐古的にゆがませた単語拾いが不思議さを増している、三連、
  朝方
 碧い牡丹の刺青をした毒雲が太陽を叱っている
朝方、に、太陽は少し印象が強いようにも思える、という意見もありました。惜しいと思ったのは、こんなに密集しながら隙間を大切にした作品なのに、冠したものは「無題」、引き締める何かが、あるのではないだろうか、という意見もありました。

3781 : 庭園  かとり ('09/09/11 04:06:05 *4)
巧くなってきている、ヘタではないが魅力には乏しい、という意見がありました。良いのは一連の感触、上手くなった、そこからどう作品を拡げていくか、課題かもしれない、という意見がありました。二連目、三連目と回収の仕方も上手い、もしも男女の別れが、ここにあるとすれば、それはひどくつまらないものに思える、そうでないなら解らない、それぞれの寓意は確立の高いものなので惹かれる、という意見もありました。

3787 : (無題)  bananamellow ('09/09/12 14:02:48)
 「白過ぎた。あまりに・・
    だから、濁っている」
ここは他の綴りに比べて位が低く感じる、だが悪くない作品、という意見がありました。化けるタイプだと思う、ただ一歩進んで欲しい、という意見もありました。背骨なり脊椎なりに憑依させた作品は幾つか読んだ記憶があるけれども、これ、なかなか悪くない、苦笑する痛さもグンと減っている、ただ相変わらず堅く、メタファの射程も遠い、先ずは命中せずとも着弾を狙わないと、良くも悪くも趣味の世界、期待はしている、基本、書ける人なのだと思う、という意見もありました。

3771 : ぱんつ  寒月 ('09/09/08 06:56:38) 
作者の作品群は、優良だとかそうでないとかで評価される(されない)ものとは違うような気もしないではない、ストレンジな味わいはある、しかし、この作者にしては「書き過ぎ」な印象もある、個人的には、大好きだけれども、それって嗜好の問題でしかないのかもしれない、という意見がありました。「ぱんつ」は、お花畑を渡る、なるほど、確かに、そうかもしれない、いや、そのとおりだ、
 こなたは荒野
というのも良い、荒れ果てているからこそ、あなたが、ぱんつがうれしい、
 明日にひるがえるぱんつ
そう考えると、ここまでの希望を表せた綴りは昨今の奇跡に思える、
 きくは昨日
「きく」は男性的な女性性にも捉えられる、そう読んでいくと、その後の中盤は、凡庸というか、もう少し先にいけた感がある、
 蜩
の行は特に、そう思った、
 ぱんつはぱんつを脱がない
 脱げないとももちろん 言う
最後は抜群に感じる、中盤の言葉遊びを、もう少し性のない性と他人を探し当てることによって確立する自我に深めていっても良かったのかな、と感じる、風は明日にひるがえしている重要な役割なわけだから、そこから必要なのは、多分、蜩の抜け殻ではなくて、脱皮している場合ではなくて、という意見もありました。

3769 : 口紅  ミドリ ('09/09/08 00:27:24 *1)
確信犯なのだろうけれども、この作品は作者でなくてもいいわけで、そのあたり本人は割り切っているにせよ、やっつけ仕事だなぁ、と感じもする、評価は意に介さないタイプの書き手なのだろうけれど巷の評価は赤丸付きで急降下する一方に思える、という意見がありました。とても解りやすく、詩作という行為を疑いたくなる、解りやすいし読まれるのかもしれない、けれども、電話、でんわ、など、もう少し気を付けてもよいのかもしれない、という意見がありました。

3804 : La maison anonyme  はなび ('09/09/18 17:41:15)
「価値」という言葉は失敗だと思う、説明に逃げないこと、悪くはないが、詩でなにをしようとしているのか、なにを伝えようとしているのかを考えたとき、まだ浅い、という意見がありました。北風よりも太陽の方が読まれやすい、題材にかかわらずチャーミングな筆は、お得かもしれない、という意見もありました。役どころを弁えつつ好き勝手にポエムを書く、それが拍手と笑顔で迎えられるであろう数少ない作家だと思える、という意見もありました。ここまではっきりと書かれる、もったいないと感じてしまう、という意見もありました。

3811 : どこへ行きますか  右肩 ('09/09/23 20:58:52)
「ヒロシマ」という言葉の失敗、ただそれを作者も充分に解っている様子だ、という意見がありました。冒険はしていると思う、が、バランスその他よろしくない、という意見もありました。作者は、相変わらず巧い、詩を上手に作っていっている、作っているな、と感じてしまうのが毎回毎回なのは悲しいことなのかもしれない、ヒロシマで作るとなおさら、悲しい気持ちになる、下手なヒロシマの方がよほど力を持つのではないだろうか、という意見もありました。

3765 : 夢機械  熊尾英治 ('09/09/04 21:08:25) 
この作者は今まであったものをいつまでも小さくついばんでいる気がする、それが作品に表れてしまっている、という意見がありました。

3792 : 無伴奏組曲  浅井康浩 ('09/09/15 17:44:09)  
タイトルに全く入れなかった、空気感は見事、綴りも見事、その先を書いていかなければならない求められている作者を思うと胸が痛いけれども、
 それほど、しんそこだいすきでした。
この、はっきりとした一文は、この位置ではないと思うし、もっと探れたと思う、という意見がありました。このやわらかさ、中性的な文体こそが作者の魅力の中枢、レスの一部で、そこに苦言を呈するものがあったがこれがなくなると作者ではなくなる、自身の横ばいには本人が一番気づいているだろう、という意見もありました。作者の筆の綺麗さが映える、ただ、いつもよりは洗練されきっていない印象、堅くないのは良いけれども、装飾を施すよりも他にやれたことはあるだろうに、と感じた、もったいなく酔いきれない作品に感じる、という意見もありました。

3809 : いん ざ びゅーてぃふる わーるど  葛西佑也 ('09/09/23 02:07:22 *1)
以前より感傷がうすれ、冷静に言葉を置きにきている、各連のギリギリの関連性、「/」での装飾はよいが一行内のスペース空けはどうだろう、という意見がありました。個人的に面白いかそうでないか、と問われたら、全く面白くはないと感じた、正直、紙媒体の現代詩同様、再読する気にはなれなかった、タイトルが英語変換平仮名なのも相当に痛々しいように感じた、ただ、詩的言語の新しい咀嚼にチャレンジし続ける作者の意識や姿勢には一票を入れたい、痛いともとれる言語で如何にして読み手に寄り添うか、また、そのハードルを越えんとする事が、この作者のエンジンなのかな、と思える、という意見もありました。作者はいつも独自を眺めていて、見られることを意識していて、良いと思う、「/」を一番使いこなせている作者の新作は、まだまだ拙い部分があるけれども、そこが魅力となり完成していないところに非常に惹かれる、作者のコンプレックスと、そこを中心に思考が回るというのは新しいことではないけれども、何故か葛西佑也がやると可能性が生まれるような気がする、不思議、という意見もありました。

3825 : Cadenza  はなび ('09/09/30 22:11:33)
洒落ている、適度な品の良さと深みもある、リズムもキュート、タイトルとのリンクに、やや当惑するけれども、あまり気にしなくてよいのかもしれない、レスは少ないけれども、作者の作品は嫌われにくいように感じている、これは意外と大切なんじゃないか、とも思える、という意見もありました。音楽用語の踏襲があまりに見事で良質、どんなアドリブをやっても許される作品の型なので、ここまで跳ねていることに嬉しさすら感じた、
 みんな黒くなる
 青と赤と黄色がまざって黒くなる
ここの、
 青と赤と黄色がまざって黒くなる
は、必要なのだろうか、楽典的には、
 青と赤と黄色
がしつこくても3回あるのは正解だ、黒が2回になっているのは考えるべきかもしれない、
 奥の
の3回も正解だと思うけれども、それだけにもう一工夫欲しい、という意見もありました。

3822 : 森の言説  黒沢 ('09/09/29 21:22:26)
不安と怒りに取り囲まれたテキストに、ややウンザリしながらも、例えば、爆発と樹と脳髄と進化論の枝葉図とのアナロジーから収穫した果実の苦さに、惹かれる、作者の久々のヒットなのではないか、という意見がありました。こういう作品を書きたくなることって、ある、それは良く解る、作者は書いてとても気持ち良かったのでは、と思う、「巨人鳥」など、読み手のためなのか自分のためなのか、ブレてどちらにも行けなかったりした作品よりは、成功したのかもしれない、爽快感もあるかもしれません、年間賞を獲った時は、丁度、書いてみていっている時期と読み手との距離の塩梅が奇跡的に合致していたのかもしれない、詩は技術だけでは語れない、が、作者はとにかく技術をどうにかしようという地平で戦っている、
 戦時のそらの様に懼れる。

 幹と葉とが電撃されるのに合わせ

 たえ難い悲しみの余り、闇の只中で私は、瞳を、花の様に開いた。

 その不可視の残照を受け、私が…、私の物でない前頭葉が、独りでに帯電していく。
などが特に、もっと上に行けるのではないかと思わさせられたりした、中途半端で達しきれていない様相を持った、という意見もありました。この作品はこの作品で、感覚と世界観をきちんとまとめていると思う、戦時さえ巻き込まなければ、もう少しなんとかなったと思う、思想の栞が不用意に挟み込まれていて、そこが邪魔に感じる、という意見もありました。

3790 : 千の雷魚  DNA ('09/09/14 00:32:52)
上手くみえるが巧いのかどうか判断に苦しむ、こうしてこの作者も、このまま凡庸になっていってしまうのだろうか、危惧、という意見がありました。毎回、この作者の作品は後からくる、この作品もそうなのかもしれないが、今回は選ばれている言葉に肥大していくものを感じなかった、凡庸な大袈裟という感覚を持った、しかし、その大袈裟は良質だ、という意見もありました。

・惜しくも選からは漏れましたが、その他、以下に挙げる作品が注目されていました。

3788 : 箱  蛾兆ボルカ ('09/09/12 15:27:44) 
2連目、意図であればやはり足りない、そこを書けるようになるまで寝かせてもいい、という意見がありました。解りやすい寓意として、またわかりやすい比喩としての箱、それを愛する「僕」のあり方は特定コンビが面を立方体に高めたあり方に似ているかもしれない、解りやすい、ありふれた比喩なのに、何故かいままでよりも新たな力を感じるのは何故だろう、過去形の連続から導く場面展開と現在形での余韻のおき方がうまく作用しているからかもしれない、二連目は、「*」をどうにかして欲しいと思う、説明に割いて押し付けようとして引き寄せてくれない愚かな詩文を、逆説的に使用する、説明のあり方は、作者のよい部分なのかもしれないとも感じる、説明から遠ざけて、ただの爪あとになるものを入れてもよかったかもしれない、作品というよりも、作者の漂い方が個性的で、できそうでできないことを平然とやっていて、そっちの方が気になる、という意見もありました。

3758 : アレジオンコースト  mei ('09/09/02 11:04:27)
惰力が強く、無駄にくどい、という意見がありました。全体的に悪くはない、また何かの二次創作的ものだったら、何故、詩を書くのか疑わしく思えたりする、という意見もありました。

3754 : あなたに  んなこたーない ('09/09/01 00:01:26 *1) 
書きやすい作品なので、ひとつひとつの結びつきや比喩への跳躍がもっと望まれる、下敷きがある場合、わずかな跳躍では新たなるものとしての作品成立は難しいのかもしれない、という意見がありました。

3796 : オオムラサキの幼虫  蛾兆ボルカ ('09/09/17 00:08:25)
ダサい(素敵だ)、興味深く感じたのは、怖さからか詩文を説明に寄せていき情感を削ぐ作品が多い中で、一連、詩文なんて気にせず説明に特化したことだ、馬鹿な詩の書き方だけれども、心臓の強さというか何も考えていないと言うか、だから結局、なんで良さが抽出されるのか、よくわからないのだけれどもわかる部分が良い、という意見がありました。誰も書かないあり方が実によいと思う、ただ、優良にまで突き抜けていかない、少し偏った思想を盛り込んだり、もっと徹した馬鹿さ深めていくと次の段階へ達するような気がする、という意見もありました。

3759 : ききて  破片 ('09/09/02 19:01:58) 
作者の、この成長力には驚かされる、作品としての出来も、かなり良い、合評での意見を大切にして突き抜けていって欲しい、という意見がありました。優良に推挙しようか迷った、という意見もありました。

3816 : MRI  snowworks ('09/09/26 21:58:57)
若い作者なのだろう、優れているわけではないけれども、この素直な作品は素直な良質さを残していて、抒情が人間がある、という意見がありました。成長過程がある、これからが気になる、とにかく読んで書いてを繰り返して欲しい、という意見がありました。

3793 : 女子、唯と彼氏、Y  菊西夕座 ('09/09/15 21:18:44)
作者の作品のなかでは割におもしろいと思う、セリフだけで構築する連というのもアリだとはおもったが、20がトゥエンティー、のところまで読んで、先の長さがのしかかってきた、という意見がありました。高橋源一郎を愛読していた20年前の自身であったなら、もっと楽しく読めたのかもしれない、そう思った、という意見もありました。かなり頑張っているにもかかわらず、駄洒落が驚くほどに活きていない、この方面では、競馬用語で「相手なり」のような書き手だ、自分でレースなりゲームなりを作れるようになって初めて、文学極道のエンターテイナーと呼ばせていただきたい所存だ、永遠なる前座で良いのか、と苦言を呈したい、という意見もありました。作者は悲哀があるとグッとよくなる、全部、悲しみや辛さをごまかしていくしかない、そんな悲しさ、それが綴りのくだらなさと相まって、高まっていく、Yがイマイチ解らなかったが、二股だと解り、前が開けた、中盤にもう少し展開が欲しかったな、という気持ちもある、悪くはない、という意見もありました。

3756 : 八月のひかり  凪葉 ('09/09/01 07:44:03)
飽きられつつある作者の筆、そこの自覚と、それをどうクリアしていくかが課題に思えた、という意見がありました。改行や「、」についてもう少しなんとかなりそうな気はするものの、(二連で語彙が少ないのでは、と思いもしたけれども)三連まで興味深く読めた、四連以降の展開と言葉と空気感がついていけていないように思え、これは大きく足を引っ張るのには十分な要素に感じた、三連、「腐った」があるので、四連にある過呼吸は出さなくてよかったのかもしれない、要素が重なり崩れたのかもしれない、という意見もありました。

3801 : やさしみ  相田 九龍 ('09/09/18 00:27:35)
「やさしみ」、は実際のところ本当に代替えが利かない表現だろうか、そんなことはないと思う、すでに2年以上も前に『poenique』での即興詩コーナーでタイトルとして使われたこともあり、個人的にはわりと見る言葉なので、やさしみについて語るべき言葉を作者が持っていないのだと受けとれもする、という意見がありました。行あけに疑問を覚えるが、繰り返しが薄皮一枚で繋がっている、良質さは、以前よりずと上に来ている、という意見もありました。

3755 : 当て馬  丸山雅史 ('09/09/01 01:08:09 *1)  
知識は間違っているのかもしれないが、偏った性癖が面白くはある、作者は、いつも勿体無い印象を受ける、向こう側へ行こうとして行ききれていない印象、一連目の説明のような部は外して、二連三連の変態部と死だけをネチッコク書いても良かったのかな、と思う、という意見がありました。

3814 : イソノ  ゼッケン ('09/09/26 17:53:19)
返歌というか返詩というかイチャモンなのかもしれない、これはこれで単体としても楽しめる、いろいろ壊しながらリーディングする人向きのテキストだ、という意見がありました。作者は波がある、面白い部分は面白いと感じる作品、しかし、この作品を再読しようという気は起こらなかった、という意見もありました。
 
3813 : 欠落  破片 ('09/09/24 20:47:20)
らしさが失われつつあり、それが良いのか悪いのかを判断しかねる。過渡期なのだろうか、という意見がありました。

3782 : きよしろーは生きている  こんぺい ('09/09/11 13:18:52) 
結構きちんとしたつくりの作品だったので驚いた、カオリは話者だろうか、どうでも良い作品だけれども話の不可思議さが印象的、ただし、ここから始まってほしかったという意識が粒立つ、という意見がありました。

3773 : 雪の女王  右肩 ('09/09/09 01:17:49)
作者はいつも奥がない、表面での勝負で、その表面がどうしても躓きもせず新しくもないものであると、突出することは難しそうだ、という意見がありました。

3774 : リストランテ「貝の触手」  プリーター ('09/09/09 15:08:29) 
歯切れが良い、悪くない、もう一歩進めそうだ、という意見がありました。

3778 : 未来  榊 一威 ('09/09/10 18:06:16)
作品としてはまだまだかもしれないが、作者の心理が剥き出しになっていて、それは悲しいくらいに本当で、素直な小さい姿を抱きしめたくなった、という意見がありました。

3820 : 祭り、花火、姉と紅い夢  結城森士 ('09/09/28 16:50:54)  
よいと思う、金魚をうまく使っている、効果的な装飾とそうでないものが混在しているので、もうすこし無駄を省いて良いのでは、特に三点リーダーは不要、という意見がありました。大分、うまくなってきている、前半、後半、甘い個所が特に目立つ、惜しい、という意見もありました。

3786 : 無題(冬)  緋維 ('09/09/12 09:42:37)
丁寧に推敲を繰り返した跡は窺える、もう一歩、という意見がありました。

3819 : 焼肉  はかいし ('09/09/28 02:28:04)  
エスキスのままむりやり完成形をとってしまった印象、かなしみと言いながらそのかなしみについて自分自身も漠然としているため読み手に提示しうるものがない、詩のなかでまで詩を書こうとしないこと、ここに焼肉を出してくるならもっとエグく書くつもり(覚悟)で、という意見がありました。

3768 : アナフラニール  mei ('09/09/07 10:54:33)
アレジオンコースト同様に読み易いお経のようなリズムが辛い、無駄に冗長、中身が無いのはいいとしても、劣悪な言葉を並べ立てても足りないものを感じてしまう、という意見がありました。下手ではない、二次創作の域を超えていない感覚を得る、作者の作品を読むと、ぱぱぱ・らららさんの形骸の極地でわざと編み、強烈な個性にするという凄さに、改めて驚きを得る、という意見もありました。

3783 : H氏の日記(検閲および推敲済み)  んなこたーない ('09/09/11 17:11:10 *1)
 これでぼくも今朝のように間違って他人の孵卵器のなかで目を覚ます心配がなくなった。

 しかし、ときどき宇宙からのコンタクトがあるようで、そのぶんだけ地球上でのコミュニケーションに支障がでるらしい。会話が妙なところで頓挫する。その仕草があまりに自然なため、これは自己訓練の結果ではないか、とかえってぼくは疑ってしまったほどだ。一方、ベル・ボーイは硬質で複雑な陰影を表情に宿した白人の畸形児である。おそらく両親のどちらかがキュビストであったのだろう。

読んでいくと、「おそらく両親のどちらかがキュビストであったのだろう。」など、ドキッとさせられる部分があり、妙に納得させられる、奥にある表面とでも言うべき整合がところどころ意識を弾き合わせている、中間部分、盛り上がりに欠け、たんたんと続きすぎている、後半三行で少し盛り返すけれども、この長さを考えるとあまりにコントラストが平坦、削っていって集中的に書き込んで、もっと部分をはっきりと打ち出していったほうがよいような気がする、という意見がありました。

3818 : (無題)  マキヤマ ('09/09/28 00:50:58 *3)
わざとピンボケの写真を撮っているのか、文字どおり「眠っている」、来るなら本気で来いと言いたい、という意見がありました。空気はある、と思う、いろいろ惜しい、という意見もありました。相変わらずな負の力、彼女達やあなたは置き換えられるし、狭い範囲内に向けて書かれたものだとも取れる、上から硬骨に言っているような作品に思えた、負の力で、それが別の方向へ、新たな音韻を探り出していけたらよいのかもしれないが、今回は幅を持たせられず、成功しているようには思えない、という意見もありました。

3789 : 無題  ハレルヤ ('09/09/14 00:13:29) 
60年から70年の頃の、青春抒情みたいだ、平易な情景が浮んできて、底が浅い詩情を感じてしまう、
もう少し、工夫があれば、もっと味わいのある、違ったものになったかもしれない、という意見がありました。悪くないと思う、一連はいらないのではないだろうか、また、最終連も、もう少し進めそうだ、という意見もありました。

3812 : 眠り  凪葉 ('09/09/24 20:37:41 *3)
書きたいものを書くための方向性を誤った感がある、イメージを煮詰めて煮詰めて、削り出した結晶がこれらの語句なのなら、あまりに凡庸であり個体差がない、という意見がありました。もっと整理できたように感じる、惜しい、という意見もありました。悪くないけれども、平板、眠りと冠して、すぐ眠りと出てくることから、どうかな、と感じてしまう、という意見もありました。

3799 : いっぱいや!  ミドリ ('09/09/17 19:47:17 *1)
青春的所産のところで踏み留まる、といいますか、そこから半歩たりとも動かないぜ的なスタンスは、潔いといえば、そうかもしれない、もったいない、とも言える、という意見がありました。作者だと思わないで読んでも作者だと解ってしまう部位は面白いのかもしれない、初期ウルフルズのような書きたいことは取りあえず恥ずかしいから変なオブラートで包み、別の部位を際立たせているような感覚がある、という意見もありました。コメントがたくさん、ついているということは、好き嫌いではなく、読みやすいということなのだろう、ただ、詩としての評価は別にしなくても、よい作品のように感じる、という意見もありました。

3785 : 東京駅で君をみた  snowworks ('09/09/12 02:03:08)
作者のいう「実際の生活での感動をそのまま詩にできないか」でこのアプローチだとするなら、詩の言葉に込められたものをなんだとおもって読み、書いているのだろう、なにか根本が違う気がする、という意見がありました。

以上です。

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阿部嘉昭、詩集「頬杖のつきかた」発売。

2009-10-26 (月) 11:07 by 文学極道スタッフ

阿部嘉昭、詩集「頬杖のつきかた」発売。
書店などでお求めください。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32323937

頁数320頁という驚愕の詩集「頬杖のつきかた」は、『フィルムの犬』『ス/ラッシュ』『頬杖のつきかた』『春ノ永遠』という4詩集を一冊にまとめた大著だ。読み始めた瞬間、再読の楽しみに身を馳せ、読み進める中、完全に飲み込まれ、読み終えてしばらく、心拍数が上がり続けて静まることのない昂揚で満ちる。何が起こったのか分からなくなると共に余韻の創造が体内で始まり、やがて頁を繰るのを止められなくなってしまう。阿部作品は独特の疾走感覚があり、漢文・俳句・短歌に影響を受けたであろう修辞は、しかし映像的で音楽的で舞台的で、生体リズムに訴えて来て全てを、繋ぐ。繋ぐという確かな触手、それこそが、この詩集を言い当てるに相応しいだろう。思想的であり哲学的かと思いきや官能的で変態でエッチで助平で冷徹で美に擦過し意味変型が喩的な化合を起こす。難解にも思える一文一文は見事な音韻と絶妙の改行で眼球を転がし想像の先を走るフレーズを脳内に叩きこむ。阿部言語が見えてきたと思ったら次の瞬間には、もう段階は変容を遂げていて、流麗さから完全なる文法の決壊を導き出したりもする。質量がそのまま熱量となり、追いつきたい引き上げられる先がある読書体験は爽快と感じざるを得ない。今回、この詩集に収められたほとんどの作品は、SNSとブログで発表されたものだという。この事実も、この詩集の特筆すべき触手であろう。現在、多種多様な発表媒体が詩という分野にも用意されているが、信用に足りるものとして読まれる場所は一部の層には限られてくる。ネットなどの集団偏向現象を詩は嫌う、という言葉がまっすぐに発されたりもするが、それは違う。集団偏向を淘汰していくネットという現象を使いこなした阿部作品は詩の方から求愛してくるものばかりだ。詩集として成立した過程も繋ぐ物語を内包する新時代の一冊。これはゼロ年代談議などを蹴散らし忘却に帰するほどの威力がある。
《逆流して、
 あすは身に墓を立て、二階の高さで四万十のさなか透明に佇つ。
 一秒以降を 一秒から離れるために。》
帯に引用されている部分もやはり素早い。技巧の複合的な呵成と愉楽の転与、そして全てを繋ぐ触手の具現に皆、より速く巻き込まれ驚いちゃってしまえば、いい。
(平川綾真智)

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2009年9月分選考・選評(阿部嘉昭)

2009-10-20 (火) 11:48 by 文学極道スタッフ

【月間優秀賞候補】

3824 : 無題  ハレルヤ ('09/09/30 19:24:39)
厨房、あるいはその窓から覗ける世界から語彙が拾われている。
となれば描写対象に連続性が予定されそうなものだが、
この作者は理路の分岐にさまざまな仕掛けをし、
隣り合う言葉の奥行によって空間の濃淡を見事に跡付けてゆく。
彼岸時分の心根。秋の植物の連鎖は歳時記を訪ねる体験の慎ましさにも似る。
ラスト、「叱っている」の措辞が惜しいとおもうが、
たんにそこだけが僕と趣味がちがうということなのかもしれない。

3817 : 鉄のきりん  草野大悟 ('09/09/28 00:18:48)
この詩は巧みだ(「巧み」という語は普段使わないが)。落ち着いた散文体で
作者の人生上のある一日(4年前の12月の一日)について書かれながら
その一日に何が起こったかは読者が想像するしかないようになっている。
妻は手術をし、不幸にもこの世から消えたのだ。
その暗示によって、一篇が散文体にふさわしい「詩」になった。
残ったままのカレンダーのそば、置物の「鉄のきりん」に視角を定着し
それでいうべきことを禁欲する手立ては古典的だが、
現在の水準では相当の書き巧者の仕業ともいえる。
そのほうが哀しみもより伝導されるのだ。
さて問題は、不謹慎だがこの詩が虚構という可能性がないかということ。
これについては吟味したがじつは解答が出なかった。

3804 : La maison anonyme  はなび ('09/09/18 17:41:15)
はなびさんの別の一篇「カデンツァ」と比較し修辞が圧縮的になった。
「無名性(アノニム)の家」=「ひとけのない家」に空間限定がなされ、
そこを起点に世界が読み返されている。その結果、まず転覆がある。
すなわち、ひとけのない家ではナチュラル・モルト(静物画)が生気を帯び、
動物生気も悪の水準でより生気的になる。
この認識は二段ロケット式で、それで
《ひとけのない家では//価値があることだとか/価値のないことだとか以前の/自然な存在の仕方だけが/通用している》
という見事な認識の結末が来る。
つまり価値と無価値の混在はその混在順序が自然化していれば
総体が価値となる、というメタレベルの思考が生まれているのだった。
さて「ひとけ」という言葉は「人気」の表記が正しいのだが
「にんき」と呼ばれるのを嫌い通常は「人け」「ひと気」と書かれる。
しかしこの作者は「ひとで」にちかい「ひとけ」という書き方をした。
これはそれ自体が擬人化、動物磁気化を意図した書き方ではないか。
「人毛」すらおもわせるし。
つまり詩篇は無生物主語「ひとけ」を主体に
その組成を逆転的に書いた詩篇としても読まれうるということだ。感心した。

3771 : ぱんつ  寒月 ('09/09/08 06:56:38)
《あなたは花畑であり 花畑を渡るぱんつ》、
この第一行の修辞は大発明だったなあ、拍手喝采した。
詩はたぶん「AはBである」をいかに暴力的に託宣するかの文学装置なのだが、
この「AはBでありC」は可愛いだけでなく
ABCの関係の不安定性・可変性によって、より認識不安的なのだった。
以後詩篇は「なく=無く/泣く」の言語遊戯などで展開を弱くしてしまうが、
最後、やっぱり「ぱんつ」に戻ると見事な結末となった。曰く――
《ぱんつはぱんつを脱がない/脱げないとももちろん 言う》。
さて冒頭一行では中身のないぱんつは周辺世界を反射し、
それは移動することで「あなた」にもなるという逆転がしめされる。
とうぜんその場合のぱんつは美しい花畑模様だ。
で、あなたがあなたを脱げないのと同様、
あなたであるぱんつもぱんつを脱げない。
もうそれ以上裸になることができない、ということではなく
じつは何もかもが実際はおのれを脱げないのではないか。
そうしてヒラヒラ舞っている。
そうおもってちょっと女子中学生のバンチラなどを
「世界の模様」としてふたたび眺めたくなってきたのだった。春意にみちた佳篇だ。

3807 : 魚骨  リリィ ('09/09/21 19:28:33)
魚のむしりかたから父と母娘の種族のちがいがいわれ
その返す刀、新鮮な話法で父恋が綴られる。こりゃ中年男殺しだ。
隠された主題が母娘間の魯鈍の共有と、それにかかわる絶望。
語法が清潔だ。父親の背骨を箸で抜きたい奇怪な欲望は
最後から三行め《私は箸をグーで持ち、背骨の横に溝を入れた》で
不穏さを帯びる。
その解決が最終行《あさりの開く音がした》。
この経緯がなんて上品なんだろうと感服してしまった。
そうした上品さを枯れ朝顔の蔓やら朝食時間の不可思議な暗光が取り巻いている。
芭蕉句を変型し《朝顔に我は貝食ふをんな哉》と読ませたい心意気もあるだろう。
《空中をさまよって紐を引く》という一瞬の詩句がすごく佳い。
これが夢落ちでなきゃよかったなあ。

3781 : 庭園  かとり ('09/09/11 04:06:05 *4)
八階という、高層住居者の存在する空間(空中「庭園」)が
逼塞によってそのまま身体感覚になったような感触がある。現代的。
曖昧な書き方をしたのは、詩的修辞の圧縮によって
読解可能性も僕が読み取った以外に分岐すると一応かんがえたからだ。
空気が稀薄さをかたどりだす八階の高さでは
部屋の壁面に鉄が浮き、なおかつその壁が軟らかさも再獲得して
私たちの呼吸の刺し場にもなりうる。
この正逆転換性により、壁が真に逼塞的になるのだ。
「私達」に信じられるものがなくなるからで、
だから高楼が入道雲に突き刺さることも優位とならず、
結果「あなた」と共謀して眼下の世界に
取り出した「あなた」の心臓を投げつけよう、と企図が描かれることにもなる。
無名性の悪意により一死が他死を喚ぶやりかたが祈念されてしまうのだった。
投稿欄では書き込み者の誤読がつづいたが、詩のゆくたてには何の不透明もない。
注文をつけるとすれば整然としている理路をさらに切断するような
暴力的圧縮すら可能かもしれない、ということ。
そうすると詩篇ひとつが三読四読に値するようにもなる。
現代詩壇で参照源を探すとすれば、杉本真維子さんだろう。

3797 : 道のはた拾遺 6.  鈴屋 ('09/09/17 00:25:31)
抒情詩の最良形、この詩を嘉せずに何の詩の喜びだろう。
むろん草原の光景の緩徐調描写から開始される抒情は
一筋縄ではゆかない。
最低限、外界を掠めたのち詩の経緯は内部に折れだし、
自己保持のためには秘密も保たれる。
「あなた」の感覚はわたしの外にただ外化され
その外化が精確であるがゆえ恋も断ち切られただろうとの想像を帯びる。
わたしが聴き取った「かなしいのです」「回っています」という「あなた」の言葉は
自己分析として明晰だが、それ自体が三半規管の狂いと結合している。
もうひとつ、いま評にずっと方便上、「わたし」と書いてはみたが、
この言葉は詩篇のどこにも現前していない。
「あなた」が先駆的にいて、「わたし」はいない――しかも
感触的には、描かれている時制も「過去」でしかありえない。
そう考えて、この詩篇の主体の、自己への不吉なほどの厳しさを感知してしまう。
最終聯は「わたし」が「あなた」をつうじ「あなたとともにみたもの」の
曖昧でしかありえない像の記録といってよいものだろう。哀しい。
その言葉づかいの素晴らしさは以後永遠に銘記されてよい。記念として以下にも貼ろう。
《木々やあなた、向こうのなにかの尖塔/立ち尽くすものは/傾いては立ち、傾いては立ち/修正する》

3765 : 夢機械  熊尾英治 ('09/09/04 21:08:25)
「廃墟2009/9」と同じ作者がこういう隙のない詩を書いてしまうから
「文学極道」がおもしろい。ついでにいえば、
作者自身も書き込んできたひとたちも書かれた詩の本質を掴んでいないから面白い。
レコードプレイヤーのような、そうでないような機械仕掛の箱があって、
それは女性機械検定士にしか駆動できないのだけど、
いったん回ると言葉でも音楽でもなく箱は夢の光を発する。
しかもその運動が「螺旋」を感じさせるらしい。
その機械マニュアルをそのまま足穂のように極小の物語性に閉じ込めつつ
性の誘惑をモダニズム的な喩法で唄ったと総括できるような瀟洒な詩篇だ。
雲母と鍍金と銀煙の幻惑がある。
となれば「詩中の「ゼラニュウム」とはもともとは花、
だから「ゼラニュウムの箱」はおかしい、
「ジェラルミン」か「アルミニウム」の誤記では」などと
書き込み者がいうのも不要な容喙、
言い立てた者がなぜ急にこんな「夢機械」にたいし
リアリズムの軸で難詰したのかを、ただ不審におもうのみでよいだろう。

3776 : 衣替え  りす ('09/09/10 00:31:18)
「文学極道」のスターのひとりと僕が認識している「りす」さんの詩は
やはり極上のひかりに包まれていた。冒頭二聯をそのまま引用してみよう。

夏と秋のあいだを
くぐりぬけていく
こんなに狭いすきまを
つくった人の気が知れない

左手は夏に触れ
右手は秋に触り
温度差があれば
気はどこまでもうつろう
人はどちらかに傾いて
重さを小水のように漏らす

躯にはもともと心がなく、外界の影響を無防備にただ受けて、
冷えたりぬくもったりする。
季節の変わり目とは時間上にあるような気になるだろうが
空間上にも存在していて、その境目に身を置くと
身体そのものが境目になってしまい、軽/重の傾きが出ればそこから
「季節水」がはかなくこぼされる――とりわけ少女の躯がそうだと詩篇が伝える。
ただ書き込み者が指摘するようにこの詩篇は長すぎる。
「くるぶし」など、他にも視点が移っていって
モチベーション上は点滅が起こってしまう感覚になる。
作者「りす」もその応答で、直してゆくうちあれもこれも書いてしまったと告白、
空間恐怖に似た作用がここに起こったと知れる。
まあよくあることで、そのためにこそ歳月を挟んだ推敲が必要なのだった。
極論が可能。上記の冒頭二聯のあと、次の二個聯を置けば詩篇はシャープに「終われる」。

愚かもんが
夏の首を絞め上げる
いらないものを
吐かせようか
いらないものを
吐かせまいか
愚かもんの両手
両手の愚かもん

焼け爛れた足首から
くるぶしが
胡桃のようにころんと
転がって坂道を行く
冷めた火種を固くにぎって
夏と秋のあいだを
くぐりぬけていく

3769 : 口紅  ミドリ ('09/09/08 00:27:24 *1)
日常での女の仕種の描写を織り込みながら
巧みに「サイズ」についての考察に話柄をずらし間然とするところがない。
手練だ。「ぼくのペニス」と「女のケータイ」が似たサイズであり、
それはまた女が帰ったあとぼくがつけるTVのリモコンとも似たサイズだ。
物事には大小長短などの属性があるが、
それは比較項があってこそ成立する相対性にすぎない。
なのにそれが憤懣の因ともなる、と詩の主体は考えながら
たぶん世界を形成するそのような多様性を肯定している。
まあ常識的な結論といえるだろう。つまりヨーロッパ的奇想のひとつに
フランク・ザッパがアルバムにした「万物同一サイズの法則」というのがあって
それは本当の神性にはあらゆるサイズが「合致」してしまう法則なのだが、
非常識な詩ならばこのあたりを日常に合わせ描出したいと欲望するかもしれない。
ところでこの詩に描かれた女とは誰なのか。
ヒントは終わりのほうの《喧嘩を理由に別れる恋人たちもいれば/理由もなくセックスする他人同士もいる》。
つまりデリヘリ的女でも、いずれ別れるだろうがいまは恋人の女でもどっちでもいい
――作者はこの挿入的聯でそのようにも自己言及しているのだった。

【次点佳作候補】

3825 : Cadenza  はなび ('09/09/30 22:11:33)
フランス国旗のトリコロールを配色したゴダール『気狂いピエロ』では
ジャン=ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルナンドは
ランボー『地獄の季節』の一節を吟じつつ
顔をペンキで塗り、腹に巻いたダイナマイトによってラスト、南仏に爆死する。
犯罪行脚のまにまに南下してゆくゴダール型類型の代表的な悲劇だ。
このはなびさんの詩篇は、『気狂いピエロ』の換骨奪胎。
カップルが想定されながら、その日本的な悲劇不可能性が描かれている。
その意図を買うが、冒頭1−3聯の詩的効果が薄いので「次点候補」とした。

3787 : (無題)  bananamellow ('09/09/12 14:02:48)  [Mail]
伝統的な暗喩詩。僕は暗喩詩の暗喩の謎に解答を探ってゆく読み方が好きでない。
むしろ暗喩を形成する修辞の、瞬間的なスパーク能力を賞玩するだけ。
そうした箇所には「語衝突」があるのが通例だからだ。
この詩篇ではふたつの背骨が何をいい、
それにたいし野犬が関わった帰趨をどう解読するかが読解の中心となるだろうが、
僕は結論を出せなかったし出さなくてもいいとおもった。空間の拡がりが良い。
何か不穏で謎めいた感覚にはカフカや石原吉郎の身体観の反映を感じた。
最も石原的なくだりは
《散乱した骨片を/ふたたび拾い集め/すぐれた位置で/咆哮せよ》だろうが、
ここはあまりよくない。
《残された校庭には/野犬たちの濡れた唇がある》――ここはすごく良い。
なぜか。「像」を否定する英断があって、
喩がさらに「音韻自体」に向かう本質的な詩の暴力性があるためだ。
最後の一聯でしめされた解決方法は見事。

3821 : 夜歩き  鈴屋 ('09/09/29 01:36:24)
家壁のしみが、夜陰が生じるとそこから抜け出ては夜歩きする。
全体は「しみ」主人公に、そのものの物語性をもった述懐として組織される。
カフカ的無生物短篇と同様の、奇妙で良い味だ。
西岡兄妹の妹さんなら、これを素晴らしいマンガにもするだろう。
となれば、これが詩か否かという問題に眼を瞑ってもいい。
ただし幻想小説としてみた場合、一箇所だけ作者の位置設定に失敗している。
終わりちかく、《私は複数を生きています》が作品構造の上部、
メタレベルから発せられる「予定された自解」で
これが幻想味を殺ぐ。幻想小説上の禁句のはず。
それともうひとつ、「闇のなかの影」というのも詩的着想のはずだが
詩篇内にこのことにかんする微細な展開が見当たらない。
「闇のなかの影」というのはマラルメ『イジチュール』の主題のひとつだった。

3809 : いん ざ びゅーてぃふる わーるど  葛西佑也 ('09/09/23 02:07:22 *1)  [URL]
詩篇アップ時の読者コメントでは
各聯のつながりがわからないが綺麗、という感想が大半だった。ちがう。
各聯はぎりぎりでつながっている。
「ぼくたち」を詐称する「ぼく=恐るべき子供」が詩篇全体の主人公だとして、
熟女への援交行為を断片スケッチした第一聯から、以後、
疫病(えやみ)を媒介する鳥に自分をなぞらえ、
その後は母恋、名づけによって相対化するだけの自身の不安定性、
最後には自己愛と自己懲罰の予感までが甘やかに、順に綴られてゆく。
各聯を支えるのは同じ主体だが、局面や話法が微妙に異なる。
そうした詐術的なつくりと
作者に伏在する自己愛とがロマンチックに拮抗していると読んだ。
「/」を介在させて「します/しました」などとやるのも詩的効果が高い。
行為はこのように動詞語尾でしめされるが、その時制が選択的にブレることで
行為は惑乱的な分岐光を放ち、同時にその尾鰭の印象がつよまることで
かえって主体の印象を弱体化する働きをしているのではないか。
しかも「現在とは過去だ」(光や音を感じるだけでそれがわかる)という
峻厳な時間認識もここからは得られる。
聯のからみとともに、この「/」にも、この作者の可能性を感じたのだった。

3754 : あなたに  んなこたーない ('09/09/01 00:01:26 *1)
不在者への愛の懇請というのは
最終的には矛盾が空間を横断して
あなたでもわたしでもないものの遍在性を空間に結果させてしまう。
といって僕が考えているのはUA「ミルクティー」の結論、
《離れてても キスをして》だったりするのだが。
この「あなたに」の詩篇は、高野喜久雄の素晴らしい詩篇を影響源としている点、
あらかじめ明示されているが、
高野の修辞が矛盾撞着を繰りかえすことであなたの不在を崇高化までするのに、
この作者「んなこたーない」さんは、そうした機微に気づいていないようだ。
一聯では「ぼく=鳥かご/あなた=小鳥」、
二聯では逆に「あなた=お花畑/ぼく=蝶々」と、
ともあれしめされる一人称二人称は空間的包含関係でしかなく
そこに不在を跡付ければ「充満が疎外される」ということにしかならず陳腐だ。
高野喜久雄にあって、方向性はおろか
わたしとあなたがそれぞれであることすら疎外されゆくのと
事態は対照的とさえいえるだろう。
ところがこの詩篇の救いは、
「あなた/ぼく」が相互反射関係になったとき無間地獄的にならずに、
一回の逆転だけを遠くに置くくだりだ。潔さが発露されているのだ。以下のフレーズ。
《あなたを見つめるぼくの姿を/ぼくはあなたの目で見つめようとしている》。
随分、フォーク調のフレーズのようだが、よく読むとそうではないだろう。
しかしこの詩はたぶん僕が言及したところでもう終わっていて以後は付けたりだった。
高野喜久雄の詩篇の展開力こそが次に作者へ望まれるものだろう。

3788 : 箱  蛾兆ボルカ ('09/09/12 15:27:44)
寓話詩ではその寓話性が高められれば高められるほど
散文体がそこに許容されるようになる。この詩篇が好例だ。
ここでは「箱」は何かを指しているか、という命題が当然出るが、
「箱=女」でよいだろう。女は何かを隠している。女は開けられる。
内包性が想像力にとって女性性に似ている点は多々考察されていて、
たとえば女性器をマッチ箱にたとえ、「俺のマッチ棒を箱に入れさせてくれ」という
古典ブルースだってある。
問題はその暴かれるべき箱が暴かれないうち僕によって放擲されたことだ。
理由も詩篇は述べている。
《愛を信じてないけど、愛を求めるような箱だった》からと。
箱の中身といえば、性的果肉でなければ魂だろう。
ところが掲出箇所によって箱には魂がない、と結論が出たと考えられる。
無魂の箱の不気味。それで僕はその「不気味」を雨の日に棄てた。
それをまた延々と憶いだすことで僕も「不気味」の域に入ろうとしている
――そう読んで、この詩篇の眼目がつかめるだろう。
この詩篇はゆらゆら帝国が歌にできる。初期の福満よしゆきがマンガにも出来る。
ただ、*で始まる二聯が惜しい――たんに不要なのだ。

【その他注目】

3801 : やさしみ  相田 九龍 ('09/09/18 00:27:35)
「やさしみ」は「羞しみ」と書くのではないか。
一行の字数を少なくして改行多用、ひらがなも増やすことで
詩句の決定性のレベルを下げて、含みとブレを多くするという詩法。
僕も結構似たようなことをやっている。
「やさしみ」のからだへの充満が決定したのち
「とり」の語が出されてくる経緯は瞠目にあたいする。短歌的なのだ。
そのあと「わたし」のあしもとが血だまりになっているのも。
問題はその「血だまり」に「比喩としての」という形容が付き
メタレベルが不用意に混在してしまうことと、
ラスト、「血だまりに立つ」ことが
「吐血」にまで不用意に発展してしまうことだろう。
それと途中の反復が逆効果になっている。しつこい。
それでも「注目作」に掲げたのは
世界から逆照射されてこそ身体、という作者の身体観がよいとおもったためだ。
そうした身体観と行分け詩体は相即する(じっさい書いてみるとわかる)。

3758 : アレジオンコースト  mei ('09/09/02 11:04:27)
惜しい。《クリームで前が見えないけれど/世界には青が降っている/炭酸を抜かないで/誰かの声を聴いた僕は夢中になって世界を振った》という、
ものすごく魅力的なこの書き出しが、
以後が長すぎることと(要らない設定が加わった)、
「青」のほかの色が混在したことで、やがて魅惑をなくしてしまった。
往年の角田清文という大阪の詩人に「青」という素晴らしい詩篇があって
それがmeiさんの参考になるかもしれない。
「青」だけが若さを、深い冷やっこさで唄え、空間に青春者を集中させうる。
そしてそこでは「われわれ」という主語も似合うのだった。

3806 : アルビノ  朝倉ユライ ('09/09/21 01:43:29)
無媒介・無前提に作者独自の「確信」をつらねてゆき
その断言体のひめたる危うさにより
読者を侵食してゆく散文体詩篇というのは確かにあって
この作者が選んだのはそれだった。しかしこれも惜しい。
たとえば《中指から繋がりません》という素晴らしい書き出しには
主語「私」が省略されていると捉えうるが、そこから以後、
「夜」「蛍光色」「暗い水」と主語が横滑りに拡散していって
結局は詩篇の統一原理が空間の同一性以外になくなってしまう
(ボブ・ディラン「アイ・ウォント・ユー」の歌詞などがその好例)。
それで主体への穿孔という期待された動勢が自ら根絶されてしまう。
付言すると、ここでの「混乱」はそれ自体、世界拡張要因だから問題はないのだが
修辞に粗さが目立ち、混乱的混乱へと水準が下げられてしまう。
なのにこの作者のものをなぜ「注目作」にしたか。
音韻にモチベーションをあたえるその詩作態度に感銘したためだった。

3792 : 無伴奏組曲  浅井康浩 ('09/09/15 17:44:09)  [Mail]
僕を「文学極道」にひきつけた要因のひとつが浅井康浩さんの作品だった。
特質は一括できる。
「あなた」への相聞、丁寧な言葉遣いによってむしろ叙述世界がズレてゆくこと、
逡巡にこそ心情の厚みが出ること、それを散文段落の「配分」で実現してゆくこと。
そうした浅井詩にそろそろ耐性ができかかったいまでは
浅井さんが自己模倣の隘路に陥ってもがいているとも感じる。
その隘路からの脱却が平易さの獲得によってであってはならないともおもう。
極上の抒情美は浅井さんのばあい当然として
大切なことだから「停滞」がどう生じているのかを例証してみよう。まず引用。
《しんぞうは、夜の冷気にくるまれて芯からこごえるキャベツのひかりのようだった。とりあえず、たどりつけるべき明日があるいじょう、かわらないままでいい自分をゆるしてくれるせかいはきれいだと思っていた。へらへらとわらってしまうたびに、透きとおった陽射しのような水の粒子が満ちてしまう場所が自分のなかにあって、世界の涯は水だから、けして枯れないポピーを植えてあるいてゆく、そんな夢をみていたいと泣いていたはずのわたしにとって、そこではすべてのものがやわらかにわすれられてしまい、わたしもいつしかながれる時間とともに消えてしまっている。》
これは半分に圧縮できる。以下。
《しんぞうは、夜の冷気にくるまれ芯からこごえるキャベツのひかり。たどりつける明日があるいじょう、かわらないままでいい。自分をゆるしてくれるせかいもきれいだ。透きとおった陽射しのもと、水の粒子が満ちる場所。世界の涯は水、けして枯れないポピーを植えて、そこをあるいてゆく。すべてのものがやわらかでわすれられてしまう。わたしもいつしか消える。》
圧縮は断言のゆれをただ切り、構文の煩雑を是正したために可能だった。
浅井的フィギールをこのように切断してもそこに浅井的詩世界が現出できる。
この点に浅井さん本人は気づいているのかどうか。
提案:もし資金があるのなら浅井さんはここらで詩集をまとめるべきでしょう。
詩集をまとめ詩作に小休止をつくる。それで次段階への移行もスムーズになるのでは?
要らぬ容喙かもしれないが。

3814 : イソノ  ゼッケン ('09/09/26 17:53:19)
憤懣詩、とでもいうべきなのか
スケベ姉ちゃんから民主党から貧富格差まで怒りの対象が広がるうち
ことのついでに詩の主体が「磯野波平」と逆証される経緯は嫌いではない。
なのにこの詩篇は嫌われるだろう。まず対象の無差別性に尊大をかぎ当てられる。
それと表面はどうあっても「慷慨」が文体的に旧いのだ。
詩はそんな不要なものを書くほど暇ではない。切迫している、と。
ただしこのひとの詩的文体はいずれ爆発できるだろう。なのでこの欄に掲げた。

3813 : 欠落  破片 ('09/09/24 20:47:20)
最終聯がまずい。全体を受け、終わりきれかった。
また「月光」「しゃれこうべをおもわす人間の眼窩」「くらげ」「サラマンドラ」と
聯ごとに描出されるものの中心がズレてゆくが
これもひとところへの定着のできなさ、同時に展開力のなさと誤解されてしまうだろう。
月明幻想はこれまで詩歌に多々あれど、これはそのうちの中の下くらいでしかない。
それでもこの詩篇にはある魅惑がつきまとう。
改行詩で一行字数を少なくしたことで
改行のたび一種の意味の無重力が発生し
その一行が構文中、どこに着地して落ち着くかの判断が
読み進める経緯からしかやってこないということだ。
複雑な言い方をしすぎたか。逆にいえば構文が終了してはじめて
宙吊りされた詩行の帰属文節が確定するということで
そのように組織される読解行為は一回性の尊厳をあたえられて気分が良いのだ。
この作者に望まれることは、こうした構文の力を利用し、
一旦提示した対象をズラさず掘りすすめ
その見た目の変化でこそ読者をさらに驚かせつづけることではないか。

3779 : 無題  はかいし ('09/09/10 21:35:32)  [Mail]
《ああ、/熱が、咽の奥に/ひれをうねらせて/はいりこむ//
自然な涙は、薄明かりの/呼吸のようで、/ねじれたドアノブを、/私に回させる》
まず冒頭二聯をペーストしてみた。この段階で書き込み者たちの
恐るべき誤読が取り巻いている。
一聯をオーラルセックスだという者がいて、
二聯の「自然な涙」の形容「自然な」がまったく理解不能だという。何たること・・
一聯は詩的受肉が、詩が口頭韻律である以上、喉を経由してしかありえないという託宣だ。
そして詩がイエスのように魚の比喩で語られると付言する。
二聯はそうした嚥下は嘔吐を催すほどキツく涙も出るが、
それこそ私の呼吸源であり、
私はそれによって転回を得、眼前世界を打開する、とさらに宣言する。
この意気揚々とした出だしが三聯め、自己否定への転調によって崩れてゆく。
それにともない、「福笑いのようだ」とか「妖婆性を知れ!」といった修辞ミスが
以後つづいてゆくことにもなる。打開策はこうなる。
ひとつの着想をズラさず追いつめてゆく。
詩篇が長くなればなるほど失敗の危険度が増すので、
聯をつくろうとして展開しにくいと直感が走った場合はその聯を端折ってしまう。
ともあれ書き込み者には評判の悪かった最初の二聯こそを評価した。

3782 : きよしろーは生きている  こんぺい ('09/09/11 13:18:52)
自分の身辺に死者が陸続していることに気づいた者の散文的述懐。
それは自身の身体時間によってこそ味わわれるべき喪失であって、
時宜を逸して出版される清志郎本のように、資本操作されるものではない、
という真っ当な感慨が詩篇の社会性を裏打ちしてゆく。
それだけなら何てこともないのだが、凪葉さんが書き込みで語るように
この平叙体散文詩の一部にトンでもない細部があって
そこでは「喪失」が峻厳に物質化されていたのだった。以下、ペースト。
《あたしのジーパンのポッケには半年前の春にもらったべっこう飴がまだ入ってて、透明の袋は灰みたいな糸くずのゴミみたいなのがついてて、中の飴は表面の砂糖が白くなって固まって変な形になってる。》
「半年前の春」が素晴らしく、
鼈甲が白化して変型した現状をポケットのなかに「予感」しているのが美しく、怖い。

3773 : 雪の女王  右肩 ('09/09/09 01:17:49)
同じ「右肩」さんの九月詩篇、「どこへ行きますか」(「ヒロシマ」が主題)
よりもずっといい。ただしこの詩は読解行為そのものが分裂的になるだろう。
冒頭、《女王が極寒の原野の微光の中で大の字に曝されている》と綴られ、
その大股開きの女王の股間の亀裂が何度もメタファーされ
そこからあたかも吹雪が起こるようにさえ見えることで
冬の熾烈で盲目的な白世界が汎-性化されてゆく迫力が一方ではたしかにある。
歌人・葛原妙子が詠った「蔵王」をおもった。
他方、雪の女王はなんと「スカラベ」とも形容されてしまうのだった。
「スカラベ(サクレ)」とはかつて花田清輝が『復興期の精神』で
ファーブル『昆虫記』から引用して脚光を浴びた昆虫。
糞ころがしで、大事そうに手元に丸めた糞を転がしてゆくその姿には
「一生をかけてひとつの歌を」という批評家の信念も二重写しされた。
そのスカラベサクレのイメージとここでの雪の女王のイメージが分裂的で
どうしても像がひとつに結ばないのだった。いくつかの可能性がある。
○僕が誤読している。○イメージの分裂がもともと狙われている。○作者が不用意。
ただ上の可能性のどれでもいいや、とおもわせるところにこの詩篇の弱さがある。
そう、ハッタリが機能しきっていないのだ。

3774 : リストランテ「貝の触手」  プリーター ('09/09/09 15:08:29)
最小を志した昭和初年のモダニズム詩に似ていて、おもしろい。
一文めは文構造の魔法によっていて、「中毒患者」から「黒執事」に視点が移る。
「中毒患者」に微妙な重量で「巻き貝」の形容がかかるが、
一文めの「中毒患者」にはたしかに「ひきこもり」の面影もある。
問題は唐突な二行めだ。そこで一挙に脈絡なく「ムニエル化」が起った。
どのようにして? 誰と誰のあいだに?
理詰に思考すれば黒執事が中毒患者をムニエルにしてしまったとしか考えられないが、
やがては理詰が「不謹慎」を掘り当ててしまう詩の構造にこそユーモアがあるとも気づく。

【落選】

3826 : 食卓  チャンス ('09/09/30 23:22:10)
食卓の果実の横に置き残した夢を誰が食べたか?という設問は
誰がクックロビンを殺したか?というようなものだが、
それがライトヴァース化し、同時に恐怖ともなるには
「それはわたし」という暫定的回答がやはり要るのだとおもう。
ところがこの詩篇では「カレ」が「(わたしの)パパ」が犯人だと証言する
導入からはじまって、やがて「窓」「庭」「草」へと詩の核心が逃げてしまう。
このとりとめのなさがたしかに詩篇の味なのだけど、
たとえば《影を失くした/時の中に//真っ赤な正体/だけが/残る》といった、
「詩的にみえるだけ」の弛緩した改行/行アケ書法によって味も疎外されてしまう。
この作者は、こうした書き方からの離脱がまず始められなければならないだろう。

3798 : 廃墟2009/9  熊尾英治 ('09/09/17 05:06:43)
この作者は語彙だけで詩が成立すると誤解している。
しかもその語彙も文学的に旧い。なんという非現代性だろう。
詩篇は結局、叙景から心情を暗喩するものだが
その技法にももう現代的興味がまつわらないだろう。
一言いう。ルフランの効果は強調ではなく音楽性。間違えてはいけない。

3818 : (無題)  マキヤマ ('09/09/28 00:50:58 *3)
「彼女たち」って誰? 誰がその冒険心を寿いでいるのか?
「あなた」って誰? なぜ詩の主体は
この程度の詩篇の註釈義務を自ら負わず「あなた」に預けるのか?
預けたことによって詩篇内部の「物語」もズタズタになってしまう。
書きなれてはいるのだろうが、そのしたり顔が厭だ。
それとこの「彼女たち」の励起ってすごく広告代理店的じゃないのか。

3786 : 無題(冬)  緋維 ('09/09/12 09:42:37)
詩における「ですます」文体、
それと読者との共通性を当て込んで書かれる心情の中心化
(浜崎あゆみの歌詞ではないけれどそこにはひどい「傲慢」がある)、
これらが大の苦手、と告白することだけで勘弁してください。

3822 : 森の言説  黒沢 ('09/09/29 21:22:26)
ぜんぜん森が歩かれていない。
その身体のなさと言葉の硬直が表裏の関係だ。
「胎児の豹の意識」などがなぜ突然出てくるのか?
タイトルは中沢新一『森のバロック』に似ているので
そのあたりに典拠があるのかもしれないが、
あれは熊楠の粘菌的世界観を森に拡張した知の曼荼羅本だったはず。
総じていうと散文形の詩篇は読解労力が行分け形よりも大きいので
失望するとより憤懣もつよくなる。

3793 : 女子、唯と彼氏、Y  菊西夕座 ('09/09/15 21:18:44)
「どうせあたしの人生、語呂合わせなんだもん」という椎名林檎の毒づきは正しいが
この詩篇の「元カレ」の数字語呂合わせはすごく嫌いだ。
たぶん「アルキメデスの徒」と冒頭紹介され期待された数学性が
語呂合わせのレベルに堕ちて終始肩透かしを食らうからだとおもう。
しかし詩篇はその「元カレ」の存在を信頼し、
その語録を全体の内実としてしまう。斬新な構成とはいえる。
けれど何か作者の、詩作成立の与件に関わる考えにはすごく楽観性がないか?
ラノベファンには受けるのだろうなあ、
ユーモアと自負するものの質に共通性があるので。僕は採りません。

3811 : どこへ行きますか  右肩 ('09/09/23 20:58:52)
過剰形容、饒舌な文体で読者を旅へいざなう詩篇かとおもっていると
書き込み者たちがいうように「ヒロシマ」の語が出て詩の焦点が一変する。
第二聯《そこはかつて・・》以下、
描写される「そこ」ももうヒロシマという読みしかできなくなるが、
出だしからこういう場所に持ってこられる詩の構造は
じつは「歴史」に胡坐をかいた欺瞞的なものと映った。
同時に、そのような構造にあっては、饒舌も許容されないのではないか。
というわけでこの詩は着想全体が失敗しているとおもう。作者には悪意がないだろうが。

3789 : 無題  ハレルヤ ('09/09/14 00:13:29)
ある喫茶店らしき空間をめぐっての懐旧。
修辞に手の込んだところもあるが(とくに固有名詞の無媒介的列挙)、
描こうとする心情価値が恥しくなるほどに旧い。つらい。
コメント欄の評言では永島慎二の名前が出たが石井いさみでもいいとおもう。

3790 : 千の雷魚  DNA ('09/09/14 00:32:52)  [Mail]
書き込みされたように、「現代詩手帖」の投稿欄ならありえるだろうが、
「文学極道」には不要な詩だろうとおもった。
まず字下げ、スペースに凝った詩のレイアウトは
書物上では賞玩対象ともなるだろうが、
自由なペーストを受諾しているネットでは
スペースのファジーさが難点となる。となればそんな詩を書かなければいいのだ。
二度読んだがなぜかパソコン画面ではこの詩篇は解釈が疎ましい。
文学バリアによって自分と疎隔された場所に置かれている気がするからだ。
詩は「千の雷魚」と一概にいうが、雷魚は中国渡来の繁殖種で、
まずくて食えないため、川や沼を覆った場合は捕らえてみな焼殺する。
そういう雷魚特有の機微のうえに
たとえば往年の瀬々敬久の傑作映画『雷魚』が築かれ、
「雷魚」的人間を見分けよ、というメタメッセージも出されていたが、
この詩篇は文学的なのに、そういうことも感じられなかった。
詩壇詩の否定要因としてネット詩があるという対立構造にたいし
密通的な詩は峻拒すべきだと僕は考える。

3767 : 海の遺影  丸山雅史 ('09/09/07 02:52:27 *2)  [URL]
海の水が涸れ、その跡地に最下層民が住むという設定はSF小説的で、
その際の「海溝」はどんな峻厳な谷になっているだろうなど胸を熱くした。
文章が冗長な部分もあるが、ときに廃墟美に富んだイメージも紡がれる。
う〜ん、しかしこれは「詩的文体の」小説だな。音韻上の魅力がないのと
あくまでも語同士の隣接魔術ではなく
描写対象の空間隣接性しか感じられないので。

3756 : 八月のひかり  凪葉 ('09/09/01 07:44:03)
夏=暑気=倦怠=少女、みたいな往年のつげ義春的意識で
詩篇が書かれてしまっているけれども
女性(でしょう?)が自らそんなクリシェの欲望図式に積極参入してゆくなんて・・
この作者がきれいで細心だとおもっている表現はどこかで詰めが甘い。
というか機能性が弱く、だから文単位の連接を呼び込んでいない。
よって詩篇を読む印象も隙間だらけとなるが、
それが晩夏に拡がる空間とつながらないのがこの詩の弱さだ。構成意識が弱い。
では採るところがないのかというと実はこの作者には一点だけ感覚の鋭い分野がある。
「腐臭」だった。二箇所出てくる。原文を確認あれ。

3757 : 森の中に捜し物  白い黒髪 ('09/09/01 11:30:21)
茸は幻覚の具だ。白い茸ならとくにそうだろう。
それを森で採取し、それをもって少女写真を飾りたいというのが着想。
しかし「顔の辺り」とは何か。茸で彼女たちの顔を潰してしまうのか
それとも顎や頬の線などを茸で輪郭づけするのか。一切はわからない。
そのような修辞の不用意さは
「マッチしない」「ビートを打つ」「にっこり笑っている」など
まだまだ数えあげることができる。
「サイケデリシャス」な気分のみ、前面化したような詩篇だった。

3762 : 受信送信今日のメールは何件です?  19 ('09/09/03 04:06:11)
「挽き肉塗れのハンバーグ」というそれ自体奇怪な修辞の主語を連鎖し、
「何事かをいわない」ための詩篇。
実はネット詩と「ジャンク」の関係は一筋縄ではゆかず、
本当はジャンクにおいてこそ本領が発揮されるとおもわないこともないのだが、
この詩は自らの「電波」を信じず、それで唯我独尊になれず、
解釈をひとに預けてしまう甘えも目立ってしまった。となればただの屑。

3755 : 当て馬  丸山雅史 ('09/09/01 01:08:09 *1)  [URL]
牝馬とセックスする「僕」という定位が開始される冒頭にギョッとしたのだけれど
寓意詩に昇華できなかった。JRAなどの名を出すからだとおもう。勿体ない。
そうなると詩のモチベーションもただのルサンチマンに汚れてしまう。
それと、馬の性交はその怒張男根のサイズ的暴力性もあって、
崇高なほど美しいはずなのだけれど、
作者の書き方ではそれも感じさせない。全体が汚いのだ。

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9月分月間優良作品・次点佳作発表

9月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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文学極道No.2のNo.2(阿部嘉昭)

2009-10-12 (月) 17:29 by 文学極道スタッフ

「文学極道No.2」のつづき――。
08年度分から秀作詩篇を選んでゆく。

【悪書】
りす

目が悪くて ちょうどそのあたりが読めない
世田谷区、そのあたりが読めない
悪書でお尻を突き出している女の子の
世田谷区、そのあたりが読めない
もはや 言葉の範疇ではない
もはや ストッキングが伝線している
伝線を辿ると たぶん調布なのだ
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
ストッキングを被ったような詩ですね
と書いてしまい アクセス拒否をされたのは
世田谷区、ちょうどそのあたりだと思うのだ

眼球が腰のくびれに慣れてしまい
女を見れば全て地図だと思い
上海、そこは上海であると決めつけ
あなたの上海は美しいですね、と褒めておくと
行ったこともない癖に、と怒られた
この場合の「癖に」は、逆算すると
北京、だろうか
やはり 言葉の範疇ではない
やはり 世田谷区はセクハラしている
それを誰かに伝えたいのだけれど
目が悪くて 読み間違えるので
かわりに読んでもらおうとしたら
上海は書く係で 北京は消す係で
読む係はいないのだと教えられ
どうしても読んでほしければ
世田谷区、そのあたりで読んでもらえると
悪書を一冊渡された

〔全篇〕

前回の「モモンガの帰郷のために」につづき
またも、りすの詩篇をピックアップした。

理路の崩壊。不機嫌と事件性だけが伝わってくるようだが、
この不機嫌が感情レベルにとどまらず
論理性の不機嫌だという点に注意する必要があるだろう。

前回、放置した問題。「この作者の性別は?」
勘では♀という結論を出しているが定かではない。

ネット詩の作者名はハンドルネームで書かれることが多い。
詩壇詩でも「久谷雉」「小笠原鳥類」「水無田気流」などと
性別を超越した筆名が一時期、席捲したが、
ネット詩にこの傾向がさらにつよいのはとうぜんだろう。
詩作とは変身の欲求であり、そこでは匿名性が前提される。

たとえば女性詩が性差記号にもたれかかって
自己愛的に書かれることが即、性別擁護にまですりかわるという
夜郎自大にいたる危惧をもつとすると、
性差を超越しているネット詩では
その自己愛記号も作者の背景の分野ではなく
発語に自体的にともなうものとなる変転が起こっている。
こういうことは根本的に、
「頓珍漢」の心中を見透かすようだが、不安なのだ。

地域属性と人格属性との暴力的な付着、
という、とりあえずの着想がこの詩篇にみえる。
このような詩篇では【大意】は恣意生産されてゆく。
そのさいその恣意を色づけしてくるのが詩篇の呼吸の気分。
あとは「AはBである」という「断言」が
同時にたえず「寓喩」となるという確信があればこの詩が読める。
乱暴が勝ち、そこにこそ口調の面白さも追随するというのが
ネット詩を面白がるときみえてくる眺めの質でもある。

【大意】
世田谷区(♀)は悪書=エロ本のグラビアで
挑発的に突き出される尻として指標される。
駒澤大学も成城大学もある世田谷区には
そんな尻が欺瞞的にあふれかえり、
まさにバックスタイルで犯される直前なのだが、
女子大生にして装着されているOL風ストッキングには
もう脱力的な伝線も起こっていて、
その伝線的なものが調布を指標するのでじつは犯すに値しない。
それは白百合女子大の領域だ。

なんておもって、その指摘を上半身下半身逆倒させてまでおこなって
わたしは記号のこの地上性からアクセス拒否され、愛も拒否された。
世田谷区、嫌いだ。気取ってるしマダム多いし。
おまえのエロさが、すでにセクハラだい。

いずれにせよ、女はくびれをもった猥褻な「分節」なので
(つげ義春「ヤナギ屋主人」冒頭参照)、地名が似合い、
女の集合自体もそのまま地名分布されてゆく。
記号性はこのような熾烈さをもっているが
それは記号性がそれ自体、もう悪書となっているためだ。

ところで女に戴冠させる地名性は相互対立的な局面までいたるか。
上海/北京――記載/消去の、
なさぬ二対を考えてみる必要があるのはここだろう。
記載=上海=くびれ=女は、自同律としてうつくしい。

けれど書いてわかる、消してわかる、上海とは北京じゃないか。
記載/消去の運動は自動生起して、
そのかん誰も成行きを読まないのだから当然そうなる。

だから世田谷なんぞも悪書まるごと
女としてこちょこちょしちゃえばいいのだ。
そうやって悪書をもらっちまった。

ああ目が悪くてすんません。記号の論脈を読めるのはこの程度まで。
でもじつはわたし、目が悪いんじゃなくて、
本当は「目つきが悪い」んだよね。

(※こういう詩篇では【大意】の提示が分量的に本編をまさって
真の読解が完了するといえるだろう)

【アゲハのジャム】
浅井康浩

どんなによわよわしくたって、見つめられているというこ
との、その不思議な感触だけがのこされていた。あなたはね
むりに沈みこんでゆくけれど、塩のように、わたしとの記憶
を煮つめてきたのだから、そっと、さらさらとしたたってゆ
くものが、とめどないほどに、みえてしまったとしても、わ
たしはもう、どうしようもないのでしょう。だから、そう、
あなたのからだが朽ちてゆくのを待っているのだとしても、
わたしとの思い出がほつれてしまうおとずれを、まつげをふ
るえさせるかすかなしぐさとして、あなたはそっと、わたし
にだけおしえてくれる。そうして、ともに、あなたから溢れ
だす、しょっぱい記憶の海のなかへ、はからずも息をするこ
とができてはじめて、わたしたちはこれから、どこへもたど
りつくことなく、ながされてゆくことができるのでしょう。

たとえば、わたしがとしをとって、そっと、いまのわたしを
ふりかえれば、ここは、たどりつけない場所になっていて、
もういないあなたのそばで透きとおる、記憶のなかのわたし
に溶けあう手はずをととのえている、そのようなおさないわ
たしが、みえてくるのでしょう。思い出は、そっと霧のよう
に降りそそいで、やさしく、時間のながれをゆるめてくれる
から、ときには意味もなく、隣でカタコト揺れながら、ほこ
りをかぶったままの空き瓶となって、あくびもし、えいえん
に、詰められることのないジャムの、あわいラベルを貼られ
たりもする。そうやってすごすひとときが、しずかに夏のお
わりをつげて

〔全五個聯中、第一聯・第四聯を転記〕

サイト「文学極道」をひらきだした初期のころ
もっともびっくりしたのが浅井康浩の一連の散文詩だった。
三省堂から出た小池昌代/林浩平/吉田文憲編『生きのびろ、ことば』に
僕はネット詩の現状分析の稿を書いているのだけれども、
うち「文学極道」の箇所で引用したのも、

《あした、チェンバロを野にかえそうかなとおもっています。なんというか、場所ではないような気がします。野にかえすこと、それだけがたいせつな意味をもつようにと、そうおもっています〔…〕》

という書き出しの、浅井「No Title」だった。

「ですます」調で、ひらがなの多用されるその文は
手紙文やメモともまごう装いをもち
メッセージ性=意思伝達性が一見高いようにおもえるけれども、
内実は宛先の明瞭でない「独白体」で、
かつ、文の進展に重複があればその箇所が淡くなり、
飛躍があればその箇所が軽くなるなど
内部に翻転してくるような不定形性・やわらかさがある。
この語調の抒情性そのものに読者が拉し去られてしまう。

いずれにせよ、独自文体をもつ、手だれの書き手だ。
『文学極道No.2』巻末の掲載者プロフィールをみると大阪在住の80年生、
名前からすれば当然♂だが、ここでの「わたし」の記載のやわらかさは
そういった性別判定価値を一切、無効にしてしまう。
じっさい浅井の詩では主体・対象に性徴が生じず魂の様態だけが漂う。

浅井の言葉はその内心にむけ語られる。
言葉は意味ではなく木霊であればいいから
響きの弾力性を阻害する漢語も忌避される。
そして一人の内心で響く語群は
それが「一人の」という限定辞が精確なかぎりにおいて
「万人の」という非限定辞へと反転してゆく。

掲出、「アゲハのジャム」は愛をふくんだ生活をともにした
「あなた」への「わたし」の述懐を言葉にしたもので、
どこにも別れの言葉は書かれていないが、
別れの決意が全体に瀰漫しているとおもわせる詩篇だ。
そうなって重要性を帯びる概念が当然「記憶」となる。

掲出した一聯には一瞬こんな図式が成立する。

「あなた」の寝姿=「わたし」の記憶が海水であったとして
それはもはや塩の結晶=
あなたの寝姿はそれと等価となり塩としてさらさら流れてゆく
=しかしそれは消えたとしても塩であるかぎり不朽だろう
=ねむる「あなた」とそれをみる「わたし」は
そんな相互斥力のなかにもいる

斥力であるかぎり、「わたし」と「あなた」は、その間柄は、
《どこまでも透きとおってゆくのをやめなかった》(第三聯)。
そうなって記憶はすべて回顧調の色彩に置かれ、儚い。
それはありえないものにすら似る――たとえば塩ではなく
色彩を抽出するために煮詰めてつくるアゲハ蝶のジャムに。

ジャム瓶は夏の終わり、テーブルのうえの木立となっている。
それは夏ばかりでなく記憶の終焉を示すための木立。
しかもアゲハ蝶を煮詰めた色は時の褪色によってさらにみえない。
現実的には瓶が埃をかぶって不透明化しているだけなのだが。

ともあれ、それが記憶の位置だ。それは手に取れるが見えない。
回顧の語を詩篇から考えれば
「アゲハ」と連動し、「回顧」は「蚕」となる。
それで記憶は繭状のものに変ずるが、それが誰にとってもみえないのだ。
感知されるもの、感知域が感知されているとだけ感知されるもの、
本当は、記憶もそんなものにすぎない。

用語と形成文脈の微妙、現れてくる細心の中性性の水準。
しかもそれが虚無と戯れるメッセージでもあること。
そういうエレガンス。
このような浅井詩の特質にたいし
詩壇詩でそれにいま対応しているのは杉本徹の詩だと僕はおもう。

ところが浅井の詩のほうが揮発性、蕩尽性が高い。
ひとえにそれは、彼の詩が散文体によって書かれるためだ。
散文体は転記の拒否であり、流通の拒否だ。
それは一回性の読みのなかだけで、
パソコン画面では読みにくさすらともなってとおりすぎる。

ただしそれはもうひとつの可能性ももつ。
詩のサイトのなかでコピペされ印字されて
浅井のあずかり知らぬ者たちの手許に
静かに置かれる可能性だってあるのだった。
浅井の詩篇がしめす潜勢はその圏域にある言葉の透明性で、
その透明性を人は水性か火性か判別することがじつはできない。

【SPRINGTIME】
軽谷佑子

わたしの胸は平らにならされ
転がっていく気などないと言った
そしてなにもわからなくなった
柳がさらさら揺れた

井の頭の夏はとてもきれい
友だちも皆きれい
わたしは黙って自転車をひく
天国はここまで

暗い部屋で
化粧の崩れをなおしている
服を脱いで
腕や脚を確かめている

電車はすばらしい速さですすみ
わたしの足下を揺らし
窓の向こうの景色は
すべて覚えていなくてはいけない

除草剤の野原がひろがり
枯れ落ちた草の茎を
ひたすら噛みしめている
夢をみた

そしてわたしはかれと
バスキンロビンスを食べにいく
わたしは素直に制服を着ている
風ですこしだけ襟がもちあがる

〔全篇〕

前回「花風」につづき軽谷佑子の詩篇転載。
女子高生かのだれかの、春の午後の、
日常的な恋愛(性愛)進展が
抑制された筆致で素描されている。
時間進展が聯によってたくみに飛躍していて、
この詩法は僕の大好きな西中行久さんのものとも共通する。

三角みづ紀という、いかにもネット詩的な才能を発見してから
三角にその傾向(自傷傾向)の詩篇を独占させるかわりに、
詩壇は井坂洋子から杉本真維子などまで、
厳しい詩風の才能が女性に開花するのを見守ってきた。

それで現在、意外な陥没地帯になっているのが
かつて「ラ・メール」が称賛したような
普通の感性の女性詩ではないだろうか。
この分野はじつは詩の応募サイトでは着実に歓迎されていて、
それを代表するのがたとえばこの軽谷「SPRINGTIME」だ。

冒頭、胸の「平ら」に作者の身体個別性あるいは世代の刻印がある。
「わたし」は乱交傾斜ではない。自己保持欲求はある。
それでも春の日差し、若い緑のゆれる井の頭公園で、
同世代の男女とは集団デートをした。

わたしだけが近いので自転車で集合場所に行った。
ふわふわした語り合い、池からの水明かり。
そこでわたしはひとりから求愛をうける。

こうして生じた瞬間的な愛によって
わたしの、相手の躯は蔑ろにされた。
それでもそれはたがいをもとめ世界の橋のように伸びた。
その相手の下宿は井の頭線に近く、電車通行のたびに揺れた。
暗い部屋だった。そう、意味合いとしてはラブホだった。

二聯冒頭《井の頭の夏はとてもきれい》の
直叙の清々しさ、感情吐露に泣けてしまう。
《天国はここまで》という単純きわまる措辞の
世界を切り開いてゆくような心情と空間の描写。

三聯《服を脱いで/腕や脚を確かめている》。
性愛の質もこの簡単な措辞で如実にわかる。
所有格人称を省かれた「腕」「脚」は相手のものではなく
「わたし」のものだと僕は読んだ。「わたし」はまぐろで、
性愛行為中、自分の腕と脚の所在に神経を通わせていた。
そうして自分の反応、可能性を計測しようとしていた。
なぜなら「わたし」はそういう営為にまだ慣れていなかったから。

それは「わたし」の決定的な日だった。だから
《窓の向こうの景色は/すべて覚えていなくてはいけない》、
そう考えようともした。

肝腎なのは「わたし」の落花は春の季節と同調し、
ひかりのなかでこそ起こった、という点だ。
春だった。初夏のように暑い四月の終わりだったけれども。

その日は夕方になって落ち着いた。彼と簡単な外食にゆく。
世界が暮色に傾いて、わたしはかれとも世界とも馴染んでゆく。
《わたしは素直に制服を着ている》中、「素直に」の素晴らしさ。
世界にたいする気負がなく、
もうわたしはわたしとして許容されている。
それを世界が祝福する。それで最後の一行、
《風ですこしだけ襟がもちあがる》が来る。

とうぜん、詩篇がこのように書かれれば作者への忖度もはたらく。
詩篇は08年のものだが、
09年での作者の経歴を覗くと《1984年東京生まれ 事務員》。

よって詩篇が描きだしたのも現在のものとはおもわれない。
そう、作者の記憶のなかの出来事だろう。
注目したいのは作中を明示性なきままに覆っている光。
それはそのまま、僕が大学時代だった70年代末の光とも共通していた。

(2009年8月24日)

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