4月分選評雑感・優良作品
4月分選評雑感・優良作品
(文/編集)浅井 (文)織田 (文)りす
5110 : 四月になると 田中宏輔 ('11/04/01 01:58:22 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110401_466_5110p
これは田中さんの初期の作品だということですが、ぼく的には、余計なことまで「語りすぎている」近年の作品より、うまく語れない事柄を前にして、言葉の前で立ち止まっているこの作品の方が好みです。
特に授業風景をモチーフに、周囲の同級生に同調できない感性をもった少年が、教科書や授業とは関係の無いところで、下敷きに陽光を反射させ天井に光を当てる遊びを通して、同級生たちとある種の感応を行なっている。
このあたりの表現の露出に、普遍的な何かとの接点を見出すことのできる作品だと思います。
5131 : シャットダウン(#idou doubutsuen.) 村田麻衣子 ('11/04/07 22:19:55 *2)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110407_728_5131p
たいしたことが起こってる わかられてしまうなんて、わかんないなわかんないでも愛してるって言って、がちゃんって 受話器きった。なんなのなんなのっっ
だれのかわかんない毛布かぶってたらもう
わたしだれだかわかんなくなってパジャマのなかのふわふわを感じるあのいっしゅんをうわまわってくれないし わたしがこのかんかくに囚われてないとってあわてて部屋を片付けて、鏡をみたら知らないひとみたいな顔してるから、しらんぷり
この一度読むだけでは意味を把握できない感じ、重要なことのようにも思えるけれどもそれがグダグダ感でまみれている感じは、最後に「あなた」に抱きしめてもらうことで物語を回収させてるんで、読み終わった後に、ちょっとザラつく感じにしか残らないかもしれません。けれど、何度か読んでいると、
>たいしたことが起こってる
>わたしがこのかんかくに囚われてないとって
という一文が非常に際立ってくる。この切迫感は、どこからきて私をとらえているのか、っていう疑問もわいてきます。これは
>わかられてしまうなんて、わかんないなわかんないでも愛してるって言って、がちゃんって 受話器きった。
という言葉が示す通り、「私」⇔「あなた」の図式にすっぽりとおさまってしまうように見えます。
実際の作者が、どこまで意図的にこの図式から抜け出そうとしていたのか、それとも当てはめようとしていたのかは分からないですが、「私」側の自己やアイデンティティ、あるいはリアルさはあえてカラッポに設定してある。
>(自分の部屋にも関わらず)電気も朝までつけっぱなしだし デスクのうらがわにはなにがあるかわかんない
>だれのかわかんない毛布かぶってたらもうわたしだれだかわかんなくなって
>わたしいまマネキンみたいな顔してたの
この「私」のカラッポさは、一見、「あなた」に「毛布ごと抱きしめてくれ」たために満たされるのかと思いますが、どうも、抱きしめるだけではみたされないものを感じさせる切迫感です。
個人的な感想を言えば、この作品において主題は「世界性」だと思っています
ただ、世界性と言うものをぱっと見わからないようにしてある。それはおそらく「世界性」というものを把握しきれていないからでもあるし、扱いきれないからでもある。
だから、「私」「あなた」という読み手にとって受け取りやすい物語に仕立てて、しかしなおかつ、「私」「あなた」の内容はカラッポにして物語が発動しないようにされているという、結構、倒錯的なアレンジがなされている。
この「世界性」というのは、「東北大震災」でもいいし「アメリカ/イスラム」でもなんでもかまいません。
岡田利規は「三月の五日間」でそのような「世界性」を書いています。
内容は、「ブッシュがイラクに宣告した「タイムアウト」が迫る頃、偶然知り合った男女が、渋谷のラブホテルであてどない時を過ごす」物語。
「これは俺の、勝手な読みなんだけど、たぶんあともう数日で、俺らホテルを出て別れることになるっぽいじゃん。そしたら、俺の予想だけど、そのときには戦争も、たぶんもう終わってるんじゃないかと思うんだよね。甘いかな。でもどう考えたって力の差は歴然としているわけでしょ。それに湾岸戦争のときだって、一気にピンポイント攻撃で即終わったし」「それで、あれ? ということはもしかしてこれって、ウチら戦争のあいだずっとやりまくってたってことになるわけ? それやばくないか? みたいにね、思うわけ。もしかしてウチらがラブホですごいペースでやりまくっているあいだに戦争がはじまって、しかも終わっちゃったの? みたいなね」
「ホテル出て別れて、俺ら、それぞれ自分の部屋に戻るでしょ。それでそれぞれの、普通の生活を、またはじめるわけでしょ。そのときに久々にテレビつけるじゃない。ネット見たりね。それで、あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争、みたいなね。(略)でも、もしそういうことを思えたらさ、なんというか、歴史とリンクしてるじゃんウチら、みたいなさ。」
切迫性のレベルに濃淡はありますが、「世界性」を書くときに、それを正面に据えてかくことができないという事態がたしかに「現在」においてあります。
「世界性」を真正面から書くことが、あるいは扱うことが困難な現在において、いかに身体的なレベルに落とし込んで書くことが可能になるのか、という点で、村田さんの作品は良いと感じました。
5136 : 着床痛 yuko ('11/04/09 21:58:58)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110409_812_5136p
タイトルがとても良いと思います。
最近のyukoさんは、上手さを誇示することなく、自然な言葉使いを
重視しているように思います。
余談ですが、僕は、雛鳥さんとyukoさんの作風がとても似ているなと思っていて、
名前を隠して読んだら、どっちがどっちか区別できないかもしれません。
良い詩なのに無造作なところが調所にありもったいない。
>よわい角が脱皮して
>赤い伽藍を
>破る
>呼び声を軸索にして
こういうのは勘弁していただきたい。
19.5137 : 春と双子 yuko ('11/04/11 18:24:27)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110411_841_5137p
昨日友人3人と仕事帰りにスナックに飲みに行っていたわけですけれど、そこのママとマスターが実はダブル不倫の関係にあって、しかも二人とも50代半ばでそこそこの家庭もあり、などという非常にドロドロした話をえんえん聞かされ、あまりにもグロ過ぎて悪酔いして帰ってきたわけですけれど、このyukoさんの引き篭もり系少年少女の話を読んでいると、熟年ダブル不倫・絶倫スナック系の話とは文化的な構造が随分違う上、世界もまるで違ってきてしまっているような気がします。そこでぼくは思うわけです。生きるということは、もっとえげつないことなのではないか?
>網膜の欠損した
>わたしたちの眸
あらかじめ「視力を奪われている」というメタファーには、引き篭もり系と熟年ダブル不倫系には共通項があります。
あるいは、
>集約された嘔吐の
>王国
外の世界に恐怖心を抱き嘔吐する少女と、飲みすぎで嘔吐するおっさんの間に、メタファー的にはいかなる差異も見出すことができないわけです。ぼくは最初に文化的構造と世界の違いに触れる話をしたわけですが、メタファーには異なる文化と世界に、共通する同じカテゴリーを与える力があるということをこの作品が証明しているわけです。
5138 : (無題) クラブ ('11/04/11 18:26:17)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110411_842_5138p
「簡潔シャープに面白くて何が悪いのか?」「これは大ちゃんのエンタメよりも切れ味鋭く更に良いと思う」という言葉によって推されています。
>以上全ての試みは除霊の失敗を物語るのみで終わった
という言葉がしめすように、
>パンダのイッサに殺意が芽生えた
>悪霊にとりつかれたパンダの除霊の為に鳥の祈祷師を多数呼び寄せる
と次々と繰り出されるのは、ひとつのショットが連なったシーンであることがわかります。
最悪なのは、「以上全ての試みは除霊の失敗を物語る」とか言っているのに、
ひとつの失敗が、さらなるドツボにハマるようになっていない点だろう。
一つ目で成功したら、終わっちゃうんだから、実行したら必ず失敗。これはいい。
失敗したら、その失敗をとりかえそうとして、さらに無茶をして、さらに失敗。
さらに、そのでっかい失敗をとりかえそうと、起死回生のアイディアを出すんだけれども、これも失敗。
さらにドツボにはまり込んで、状況が加速度的に悪化してゆくのが、お手本なんだけど、
悪霊にとりつかれたパンダ → 何をするかわからないハラハラ感
精力剤のマカを飲ませる → インポ(笑)
ミッキーマウスの首を刎ねる → 幼児性、ねたみ
トラとリスを仲良くさせよとする→ バカ(笑)
というように、実行するギャグが、どれも、均質で、加速度的に状況を悪くしているように見えないことだろう。
もちろん、繰り出されるギャグシーンについて思いだされるのは、初期のエディー・マーフィあたりの路線。
エディは、自分の黒人としての弱い、あるいは低い立場を利用して、ブラックユーモアを織り交ぜてギャグにしたことが、アメリカ社会への批評となり笑いとなったのだけれど、
この作品では、ひとつのショットのもつネタは、「話者」自体のバカさ加減のドタバタ感を示すことはあっても、トータルとして、この馬鹿なギャグをやることで、「話者」自体が、ギャグをやる前と、ギャグが終わった後で、どのように変化しているのか、などや、
低い立場にある、馬鹿な「話者」が、このショットを撮ることで、どのような批評が可能になるのか、という点が突きつめられていない点が、粗雑さを感じさせてしまう。
5152 : 朝にのぼせる 葛西佑也 ('11/04/20 01:23:37)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110420_044_5152p
ここではりす氏の簡潔で正鵠を射た批評をのせます。
最近、サンデル教授の『ハーバード白熱教室』のおかげで、「正義」という言葉が 流行になっている背景があります。そのなかで、「嘘」の数を「正」で数えるという 逆転的な発想が面白いと思いました。
また、その発想から理屈を導いていくのではなく、 古びたヒーター、見知らぬ女の足、鳴らない電話機、背中に文字を書くこと、バスソルトを 入れた風呂、といったあくまで私的な空間の中で、「正しさ」という曖昧な観念に触れながら、身体的に感受していく様が、気負いのない言葉で綴られているところが評価できると思います。
5157 : レディオウェーヴ ブラザーズ 大ちゃん ('11/04/23 17:49:03)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110423_103_5157p
「エンタメをきちんと作っている。」「おもしろければそれで良い」等の言葉によって推されています。
しかし、どうみてもつくりの中途半端感が否めないというのは誰もが感じてしまうでしょう。
>俺を好きだと言った口は動いてなかったけどダイレクトに伝わる
>「小沢元代表に車で3回轢かれた。」そう書いてあった
>「お前、熊田Yのとこに行くのか?」無表情に荷台を指差した
>高速道路を二人乗りで
路線としては、サイレント喜劇と幼児性がテイストとしてあり、その発展形としての系譜には、たとえば、ローワン・アトキンソンがいるわけですが、そこの系譜に連なるために必須の、「古い概念の破壊」などの創りこみが徹底的にないと感じます。
5159 : 祖母 Q ('11/04/25 06:57:42
URI: bungoku.jp/ebbs/20110425_162_5159p
読み手は常に書かれた作品の向こうに、書かれてはいないもの、書かれなかったであろう出来事や人物を想定するかぎりにおいて、書かれることで名指される人物を明瞭なものとさえ感じることができる
しかし、書き手においては、その書かれるべき実体は本来、失われようのないものとしてあるのかもしれず、だからこそ、
>あなたはもう、みえないばかりか、体からは煙を吐き出し、
という事態になったときに、書き手にとって「あるべきはずのものが失われてしまった事態」を書くことができないのではないだろうか。
それは、失われてしまって、もう現前しないのだから。喪失が書き手から言葉を奪う事態。
だからこそ、そこに具体的な「思い出」や人物像を当てはめることはできない。
「祖母」が書き手のなかでリアリティをもつのは、失われたものの大きさに対して、それを覆うことのできない言葉や思い出の矮小さではなく、日常的な言語感覚を解体してゆく仏教の、あるいは宗教の、リズムであり、その一語が膨大な解釈や経典を必要とする仏教用語であって、解体されてゆく言語の日常性が、さまざまな「祖母」に重ねられた意味をそぎ落としてゆくことで、わたしたちが見るものは、ほとんど骨そのもののようにそっけない「祖母」という二文字だけであるように思う。
人物の死という出来事は、その出来事のあっけないほどの結末に反して、「わたし」にさまざまな恣意的な記憶のストックを死の物語のなかに導入させてしまう
そのような事態が、死と言う出来事を踏みつけるようにして訪れてしまうとき、その死をどのように平易に、あるがままで書くことができるのか
5163 : 砂丘 久石ソナ ('11/04/26 23:13:14)
URI: bungoku.jp/ebbs/20110426_234_5163p
各連の冒頭に近い部分を抜き出してみる。
>窓から零れる白昼夢は静かに蒸発する。
>時間を知る半透明な羽をなびかせて、
>にがい眠気を唆すとき、
そこには「蒸発する」。「なびかせ」る。「そそのかす」というように、時間の経過をあらわす動詞が織り込まれている。
これらの動詞は、時間の経過によって、何かが変わってしまってゆく様をあらわしている言葉なのだが、接続された言葉によって、意味を奪われてしまっている
「蒸発する白昼夢」「時間を知る半透明な羽」「にがい眠気」
このようにして意味を剥奪された言葉は、時間の経過からも離脱して、凍えたように孤立する。
このような時間の剥奪を意識的に行ったので有名なのは吉岡実の「静物」だが、これと比べると明らかに吉岡の手際の良さだけが目立つとだけ書いておくことにする。
この作品では、孤立した時間の中で、終わりに
>かたほうの夜は未熟となる。
>老いた雲間から、腐敗を咀嚼した花びらが降り続けても。
双方からの時間の経過が書かれているけれども、このような抒情的な書記法で、凍えた言葉を包みこみ回収する方法は、どのような積極的な意味を持ちえないということは誰の目にも明らかだろう。
意味を奪われた凍えた言葉たちが、一枚の薄い氷の膜のように、作品の表面を覆ってゆくことは、なにも新しい事態ではない。
問題は、その意味を奪われて作品の表面を覆っていった言葉の上に、どのような物語を配置してゆくのか、という手際の良否であり、その物語によって、凍った意味たちが、いかに違う文脈で躍動するのかを読み手が認めるのかだろう
したがって、この作品は、ナンセンスにさえなりえていない点で、手際の粗雑さだけが目立つ作品となっている。
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