7月分選考雑感(一)文責 浅井康浩
2010年7月分選考雑感(一)文責 浅井康浩
4575 : 雨期 鈴屋 ('10/07/26 23:23:23)の選考雑感
>木陰で紫陽花の青が光っている
>踏切ではレールが強引に曲がっている
>側溝で捻りあう蛭の恋愛
そう、このようなどぎつい光景を横目でみながら、私はつぶやく
>あなたはただ単に明るく生きればいい存在だ
そう、このような複雑な世界から身を隠して。
しかし、「あなた」は何によって「ただ単に明るく生きれ」なくなるのか。
>ふり返ればあなたの住まいは、もやい舟のようにたよりない
のだとしての、家の「内/外」の区別ははっきりしており、家の外の上記のような光景が、家の内にある「あなた」の空間を侵食した形跡はなく、あなたはただ、
>わたしを見送る仄白い顔も窓から消えた
というように、窓からそとをながめていただけなのだから。
だとしたら、家の内側にいるもの、すなわち「私」の存在によって、
あなたは「ただ単に明るく生きれ」なくなるのだろう。
私がいるから、あなたは、私があなたに望むような生き方ができなくなる。
私によって、あるいは、
>無防備に晒されているひかがみ、きつく跡付けられた二本の湿った皺、そこで折れ曲がっている静脈、足の裏の秘密めいた汚れ、
を盗み見てしまう私。窃視。室生犀星をイコンとするこの性の欲望があなたを対象として機能してしまう私によって。
そして窃視者にとってこれほどフェテッシュな場面もない。「無防備」「きつく跡づけられた」「湿った」
これは、わたしが嫌悪をもって描いていた
>側溝で捻りあう蛭の恋愛
よりも、ある者にとっては官能的であり、自分の欲望に気付きみずからを滅入らすのに十分なものである。
しかし、この欲望は、あなたを裏切るだけでなく、わたしをも裏切る。
この視線はおそらく、欲望を志向することはするが、室生犀星のように激しい勃起へとシフトするストレートな欲望ではなく、けだるさ、ある種のむなしさに特徴づけられるものだからだ。
窃視により明確となるのは、フェチの記号としてあらわれてくるおんなの肉体ではなく、室生とは逆に、志向される欲望は形と方向を与えられず、けだるくくすぶっている自らの身体をみいだすだけだ
窃視しながらも、みずからの視線は宙をさまよったまま対象をみつけだすことができない。
だからこそ、
>もう一度あなたの姓名を呟いてみる
ことしかできないのだ。
だからこそ
欲望をおんなに読みとられてしまう前に、あるいはおんながいることで意識してしまう自らの身体が欲望そのものの機能としてしまうのをすんでのところで回避し、しかしそれが先送りでしかないことに私自身がぼんやりと意識できる場所として相応しい場所をさがしに
わたしは、私自身を家の内側からねじきるようにして放擲しなければならないのだ。あなたがただ単にあかるく生きるために。
そう、駅舎の前で傘をさしたまま一服する私に、このような選評が書きつけられる。
晴天の中を雨が通り打っていく。明るさの中に湿りと靄が浮き、私とあなたの関係性のなまめかしさを再構築する、と。
あるいは、梅雨の描写が身体感覚にまで及んでいる、と。あるいは、
ツカミが少し苦しく、やや足りなかったり余分だったりしつつも、綴りは地味ですが悪くない詩情が灯ります。言葉のセンスは古いが、それが却ってさみしさを静かに虚ろに照らしている、と。
4576 : 百行詩 田中宏輔 選考雑感
>形式が決まっている分、もっと内容の、枠からはみだそうとする運動を求めてしまう
という選考での言葉がある。
素数、完全数などの注意を払うことはいくらでもできたはずだが、あえて1〜5、5〜10というように、ストーリーを決まった数字ごとにまとめてしまったことは、1〜100を数字そのものとして記述することを断念してしまっているし、数字がストーリーに従属してしまい、数字そのものの手ざわりが、巨大なマチエールをつくりだし、数字の後に続く言葉を飲み込んでしまう事態はおこることはないだろう。
このような形式でもとめられるのは、
数字そのものがどのような形態となって、磁場の中にあらわれてくるのかどうかであり、
1,2,3、4と、ふえ増え続けてゆく運動が、言葉そのものとどう拮抗するのかということだろう。
数字そのものが、文脈を生じさせないこと。それとともにそれそのものが運動と化すこと。
たとえば、CGに数式をプログラミングし、数式そのものを具体的な運動として提示する木本圭子の言葉「快いのは動きのかたちではなく、動きを想像することなのだ」
そう、1から100まで不断にふえつづけてゆく運動のダイナミクスを言葉としてどうあらわれてくるのか、を想像しながら、言葉をかきつけること。
それが、このような形式においてもとめられることではないだろうか。
とはいえ、選考においては、読み手の想像を超えたところから詩作が始まっていることに、新鮮な驚きを感じる作品です、という意見などありました。
a piece of yuko ('10/07/05 00:21:17)の選考雑感
>オッサン受けしそう
という選考での言葉通り、釣れたオッサンがマジメに語っています。
>自分を世界の中にちゃんと配置できていて、且、この人の技法=シュルレアリスムは
シュルレアリスムの本来の意味でイマジネーションにおける作品の”現実”を際立たせている。
オッサンじゃないひとはこう言っています。
>奥がない。体熱が希薄。。
>作者の意思よりも、感動した作品をなぞっていくような後ろに回る感情が大きい。
>特に、挿入されている会話のような部分がはまらなかった。いたいたしさを感じた。
文責者は、作者のもうひとつの作品のみを次点とし、ほかは落選としたものだから、
この作品が優良に選ばれてしまったことで、自信をなくしている。
そして次点になったこの作者の作品について書きたくてウズウズしている。
4545 : まいそう yuko
一見、何も関連のないように見える貝殻を拾う私と、階段を上る奇形児たち
>かいがらたちを、いちまいいちまい、棺のうちがわにはりつけていく。なにがここに葬られるのかは、まだ知らないけれど。
といいながら、貝殻を拾う私と
>いっせいに身を投げる
ために階段を上ってゆく奇形児たち
非生産的な、あるいは、何の意味を持つのかはっきりわからない行為にひたすら没頭してゆくものたちを書いた一連と二連は、
・貝殻を詰めて棺を「構築」する行為/身を投げて自らを「破壊」する行為
・生→死をわかつ海岸へと「降りてゆく」私/DNAなどに象徴される生の象徴である螺旋を「昇る」奇形児
・探す営為をおこなっている欠損として認識されている私/そうしつによって完成された奇形児
など相反した行為の唐突な結合などが、なんの関連もない両者の間に象徴的に読みとらされてしまうことによって、「非生産的」で「無意味」な行為の連続を、独自のマチエールをもつひとつの行為として「はかなさ」「うつくしさ」をくわえることに成功していると思う
そしてここで重要となるのが、以下につづく文章が、意味や象徴からいかに身をよじらせるように脱却しているかが書けているかであり、(行為に意味や象徴をもたせるのではあまりにもありきありなので。)行為の空虚さそのものが題材としてうまくとりあつかわれているかどうか、だろう。
あと一点、重要なことは、物語を事後の視点から語るのではなく進行しているプロセスそのものとして
かたることはできないか、という点だと思う。
行為になんらかの意味を見いだすことができないという現われ方のなかで、それを自身の物語の中に回収し統合することでなく、私の視線によって出来事に秩序が与えられ(おおくは矮小化された)物語となってしまう回路を断ち切るために必要なプロセスは、作品が陳腐にならないための最低限の処置だとは思うのだが。
そのような意味で、最終連へのつなげかたには疑問をもってしまう。
a piece of yuko には、他にも
>この作品ではyukoさん独自の手腕がよく見られてさらにまた嬉しかった。
今年一番の逸材の一人だと思う。
>巧く綴れていると思う。題材的には80年代90年代から進めていないようにも思えるけれども、それはそれで良いと思う
>もっと繊細な筆致であったなら優良作品に推したいんですが、ちょい足りない、酔いきれない、ウソ臭さが拭えない。
等の言葉が寄せられています。
4555 : おばあちゃんの畑 野の花ほかけ 選考雑感
ポエムに拒否反応を示す人の、ポエムをよむ際の苦しさは、なにも物語全体が甘美な世界観としておおわれているのを見るからでなく、ポエムであるかそうでないかのギリギリの境界を、作品への期待を(だがなんの期待なのか?)こめて読みながら、しかし、ものがたりの世界観が終盤に差し掛かるほどによろめき、ポエムにならない程度の限界を超えて、ついに安易な世界観のほうへと逃れてしまうこと、つまり作者として書ききれなかったことを露呈してしまう過程そのものがあからさまにみえてしまう、ということにある。
物語の構造は簡単だ。
>甘い匂いが漂うのです
>懐かしい記憶の鈴が鳴るんです
というプルースト的予感をさらりと書いて、
+
と間を置く構造から展開される物語、と書けばだいたいはわかる。
そして過去を振り返り追体験するだけでなく、その情景から
>みけと一緒ににまどろんで まあるくなって そらに昇って
というように、記憶がねつ造されるのではなく、いつのまにか現在進行形となってあたらしい体験をしている、という場面へと流れて行くことがどのように書ききれているか、というのが、この作品の評価となる。
たとえば、前半において
>そいつを「ガブリ」とやるのです
>「ゆっさゆっさ」と七月の風にも負けずに「すっくと」立って
という人物像から、
>猫に「ちゅぅ」
>夕焼けが 西の「お空」を焦がしても 「だあれ」も呼びに来ないから
という人物像の転換は、
>作者の母に振り返って貰えない寂しさ
をあらわしているというよりは、粗雑さを、あるいは展開の説得力の無さを示すものとしてあらわれてしまう。
また
三毛猫が、
足音立てずにやってきて
少女のほっぺを ぺろん、と舐めた
というような、過去にさかのぼったわたしが語っている物語なのに、いつのまにか
私を「少女」と名付けて語る第三者の視点に切り替わってしまったりする点も気になる
>みけと一緒ににまどろんで まあるくなって そらに昇って
という展開が、
>だあれも呼びに来ない「から」
の「から」に込められた心情を補完するものとして機能するには、その後の展開は弱いとしかいいようがない。
最後の点に関しては、選考において
>ラスト、空まで連れて行かれました。
>良い作品なのに最後、技巧もどきに走ったことで損をしているように思えます。
>素直な素朴な良質さがあるので、そのままいって欲しかった
>詩情には乏しくとも、読んでホッとする。最後の記号はいやらしく、却ってマイナス
との意見がありました。
また、全体に関する点として
>文字の配置や余白の刻みかたがかなり重要で、携帯からでは読み切れません
>年間賞の候補として一考すべき良作だと思います
との意見もありました。
4529 : 神のもん 右肩
この作品は、読み込めなかった。
そのため、選考の際に書かれた言葉をランダムに抜き取っておく。
とにかく読ませる力があり、流れが詩的です。だからこの作品はとても優良だと思う。
会話が少し冗長なのでシェイプして欲しい。
? の後改行しないで続けるときは一ます空白(□)を入れること。
会話のあと黒雲描写になり、高天原の話に鳴る構造には迫力がある。
会話部分が冗長に感じられるのは、バランスが悪いからだと思う。連作にして、分けても良かったかもしれない。「コバチ」は好きです。「泣いてもだめです」はうっとうしいと思う。
会話部分の起伏の無さと造りものっぽさに、ずっこけます。
後半だけでも充分にいいのでは?
右肩さんですが、
詩人というよりも職人なので、プロットと裏切りを全て計算でやっていて、
毎回の作品からの詩情や立ち上がる捻転は、
精神と精神のぶつかり合いとは少し立ち位置が違う、批評的眼をこらしながら丁寧に運ぶ綺麗な出来のものだと(私は)思っています。
今回も最後の裏切りへ向けて長めの助走を入れて計算で持っていっているのだと思います。
ただ、私は裏切りがあると見えていたので次点にしていました。
僕がどうしても引っかかるのは、右肩さんの「神のもん」です。多数決からいくと、文句なしの「優良」だと思うのですが、作品の出来自体からいって、本当に優良なのか、僕はどうしても納得できない部分があります。
作品の大半を占め会話部分は、イタイ、としか言いようのないセンスを欠いたものであり、後半で右肩さんらしさが出てくるとしても、前半の下手な会話部分が重くのしかかりすぎて(軽妙な会話を狙ったはずが・・・)、どうにも説得力のない作品になってしまっているような気がします。これが文学極道の月間優良作品になって本当によいのかなと、かなり疑問なのです。
もちろん、みんなの総意が大事ですから、「優良」になっても異存はありませんが、僕自身の後学のために、「神のもん」の良さを、教えて頂きたいなと、面倒くさいことを承知で、こんなことを言ってみました。すみません。
右肩さんの「神もん」はぼくも全く論外の作品だと思うんですが、(優良に)推してる人が2人いるんで”自動的”に優良枠に入ってますね。ぼくもそのへん(どこが良いのか)を訊いてみたい気がします。
まず仕組みを二重に読みました。
ひとつは、下敷きになるイメージというか、骨格なのですが、これは市街地爆撃とか限定核戦争のイメージが、我々の時代の常識として共有されてしまい、「幸福の限界」として前提にされている状況を利用している、と思います。どんなにイチャイチャしてても、先はどうせ暗いのかもよ、と。逆からみれば、ここをつけば共感してもらえる、というスポットとしてそれがあることを意識して、そこを突いてきていると思います。
しかし、それをほんとうに戦争のイメージとしてしまうと話が薄くなってしまうからでしょうか、そうは読み取れないレベルまで拡散させて、「なんらかの巨大な不幸・不条理」が起きたのかもしれない、という不穏な雰囲気だけ残しています。
第二の、上にかぶせた層ではさらにもう一枚遠く、「なんらかの巨大な不幸・不条理」すらも起きてはいない。
その結果として曖昧な、ゆえに強い恐怖を喚起する作品となっていると思います。
普通に生活していても、恋愛なんて船子板一枚下は地獄です。そういう、「幸福感の限界」をよく描いていると思います
神のもんの前半の会話は下世話なオヤジギャグで、あんなことばかり書いていれば勿論落選作扱いにするけれども、描かれようとしているこの作品の目的、神的なるもの=戦慄を際立たせるために卑近なことを書く必要が構造上意味がなかったとは思えない。戦慄を描くこと、これは文学芸術の主目的の一つだと思い、私も挑戦しているけれども、接近の方法が私とは全く違うので興味を持った。後段の神的な感覚について柳田国男などの日本作家の影響を全く受けておらず、よーろっぱ発の俺には新鮮に感じられるのかもしれない。アフタヌーンに何年も連載されていた「夢使い」は女の子の絵柄は最高に可愛くて萌たが世界観、ロマンにはすぐ飽きて読むのを止めた。この作品が、ああいう陳腐化に落ちないのは後段の王道ともいえる写実描写で現実を暴きだすための超現実が使われているから。パンタグラフがバチバチ火花を放ち薄明に再点火する異化作用のイメージがちゃんとした写実描写の中にあるところを買う。親父ギャグもこれで生きるしね
4556 : 思考する蟹 たけのこ の選考雑感
移動や旅についておもいをはせるとき、居住という点について触れることをわすれるつもりはない。居住/移動。これは旅においては中心⇔周縁となり、あるいは起点と終点となるからこそ「帰還」という安定した枠組みをつくりだし、移動や旅の「前/後」の「物語」をつくりだすことに貢献してきた。そして、現代において、移動/旅について描こうとしている人々は、この「帰還」という枠組みを採用することについて、ためらいを感じざるを得ない。なぜなら、居住の形態そのものが変質を被っているのであり、安定した枠組みをうしなった者は、移動の途上に置いて、自分自身がなにものでもないことを、そして周縁にて出会う相手についても、自分自身がなにものでもないかぎり相対化することが困難となることを知るからだ。だからこそ、移動/旅は、「帰還する私」へと直線的に続くひとつのプロセスではなく、途上に置いて他者との混合を余儀なくされる彷徨となる。
移動そのものが、どれほど嘆こうとも、喪失された過去というアイデンティティの構築というひとつの「帰還」に関わっている限り、
>すべては曖昧にして、終わってみれば無駄だったと気付かされる 。
とは、うしなわれたことや喪失ではなく、自己への延々たる営みへの安息や満足の表明となるしかないのであり、小細工としてなにがでてこようとも、興味をそそられる程度のものではない。
ほかに選考では
>こんなに書ける人だとは知らなかった。
>書くことある人の詩を久しぶりに読んだ気がする。
>この内容でただの独白だったらうんざりさせられるだろうが、
>上等なロードムービーになっている。
>決して上手くないし、技巧も成立していないけれども、ダサい感慨が人間の不器用さを際立たせ興味を引きます。詩は最終的に、やはりその人間です。
>にじみ出ていて、それが良い。傑作ではないダサさが素敵。
>意欲的に取組んでいる事がそのまま作品にも表れている。ただ「何を書くのか?」これをもう少しはっきりとさせた方が良い。
>借り物の羅列、としか読めませんでした
>細部が甘いです。たとえば「‥。」という表現はカッコ悪いと思います。
との意見がでました
4550 : さっちゃん はゆ の選考雑感
友人に「またね」と手を振られて以来、10年という月日をかたくなにバス停でまちつづけた「さっちゃん」は、結末においてその「待つ行為」が救われているように持続ということにおいて忍耐強い、あるいは一途な「少女」というべきか、それとも、その年代においても「またね」の多様な意味付けの理解ができなかった点に置いて、あるいは待つことへの異常な固執において先天的な障害があったのか。そのような質問がなされることはまずない。それとともに、
ここで記されている「さっちゃん」の特徴が「さっちゃんの小さな身体はふるえ」としてしかかかれておらず、年齢も書かれていないのに、読み手はその年齢を推測することが極めて容易であり、質問がなされることはない。そして、「さっちゃん」の着ている水玉模様のワンピースがたとえばBeBeなのかコムサなのかなどの詮索がなされることもない。あまりに純然な「グッド・ガール」をめぐる物語であり、それ以外にいうことはなにもない。この主題を「グッド・バッド・ボーイ」の物語として書ければ、いうこともでてくるだろうが、「ガール」のイメージにそって書かれたものでしかないので、とくに書くこともない。
選考ではほかに
>ワンピースの水玉が増える以外全く細工がないのが難点だが
>技術もないのに小細工に走るよりずっといい。
>人間版の「忠犬ハチ公」のようなプロット。読みやすい文章。
>詩情とは少し違うのですが、十分だと。
>くだらないっちゃ、そうですが、僅かに機微に触れます。
との意見がありました。
4545 : まいそう yuko の選考雑感
個人としての雑感は、上記にかいたので、ここでは、他選考委員の言葉を挙げる。
>巧いです。右肩さんのように少し自分がないところもありますが、職人としてよりもフォロワーとして、影響を受ける詩人としてきちんと身を立てています。最終の二連が非常に安定的で、少しの裏切りがあった方が良いのでは、と気になりました。もっと表面的でもよいのかもしれません。
>第2連で丁寧に書き表したことが第3連の「奇形児」という一語で無駄になってしまった。
>強い言葉には注意しないと。
>比喩や接続は上手です。が、相変わらず響かないです。
>詩作が上達する事と詩情の有無は、必ずしも比例しない。一言で言うなら、凝っているし丁寧だけれども退屈な作品。
との意見がありました。
4577 : 蝶の葬儀 しりかげる の選考雑感
各連の一行目を見てみると、端的に日本語が間違えられている。
「わたしの少女」「ささやかに降りしきる」「塩水」への呼びかけ、ほとぼりが宿される赤子、という語彙。
ただ、あえて間違った日本語を書きつけるという行為は、操作された欲望として言葉をおおってしまうということであり、抒情なら抒情へとシフトしてゆくための工夫がなされないかぎりは、空虚な反復として繰り返されるにとどまってしまう、ということに気付くべきだろう。
もちろん、このような間違った日本語の連鎖と、繰り返されるリフレインは読み手の中でなんらかのひっかかりにとらえられ、間違った日本語は間違っているがままに新たなイメージとして読み手の中で再構築されることもあるのだが、そのことを踏まえたうえで、間違った日本語が、間違ったイメージのまま新しい語彙となるとき、その言葉の射程はひろく見積もられていなければならない、ということは念頭に置くべきだろう
間違えられた日本語はたえず読み手の中で、「間違えられていないもの」として再生し、その「間違えられていない」日本語の帯びるマチエール(素材感)が、物語全体のガジェットに浸透してゆく作用がある。
だからこそ、全体に浸透するような、突出した素材感をもつ間違った日本語を書かなければ、この形式としての成功とはいえないのではないか。
そしてこの作品は、それに成功していない。
ほかに、
>リフレインがくどくて情緒過多の印象を抱いたが
>美しいのでぎりぎり次点に推挙。密度が足りない。
>あんなに下手だった作者が、だんだんと上昇してきている。単語というか綴りというかもっと独自性を深めるべきだとは思うが、書きたい思いを作品化することが出来るようになったということだけでも注目すべき。
>よく使用される強めの単語には既視感があるし、独自性はないが、それでも作者の詩への思いと、そこまでの人間が見える作品。
>リフレインが好みなんだろうが、活きていない。現況、リフが冗漫さを助長させているだけなら、断定の方がベター。
>チャレンジ精神や着想は買う、その上で、もっと読ませる工夫を望む。ごちゃごちゃと賑やかな分だけ陳腐。丁寧さと過剰は違いますから。
>耽美的、とうのだろうか。美に淫しようと努力してしまう感じが、私は嫌いではないです。しかし、変態道を 往くには、まだ浅いかなあ、と思いました。
>くりかえしがわずらわしい。
などの意見がありました。