文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2009年11月分選考・選評(阿部嘉昭)

2009-12-28 (月) 22:36 by 文学極道スタッフ

3975 : FUTAGO  debaser ('09/11/26 15:26:12)
「漫才詩」というジャンルがこの詩篇で構築されたのかもしれない。
関西弁の対話が、「 」などの指示性なしに無媒介に行き来することで
何か柔かさみたいなものが生じる。ズレがあって、随所にオチもある。
「マナカナ」と表記されるべきところが「もなかな」になっているのには
社会的な芸人配慮というよりもアバウトさで笑かそうとする
一種、暴力的なものが内在されているためとおもった。
同じ顔・体格・性格のおっさんが喧嘩すれば、
どの瞬間もすべて「相打ち」になる――
そういう状況が実際にあったとき本当は哲学的恐怖に囚われるはずで、
この詩はその恐怖を下敷きに軽妙な会話体に昇華されているから笑えるのだ。
ただし《「相打ち」の連続によって最終的に
「同一なのに敵対する相互」がどうなるか》を、詩篇は示唆しないまま
「末っ子」談義へと「豊饒に」横ズレしてしまう。これもアリかな、と。
《 》で括った設問にたいしては僕の答えを書いておこう。
1)『ちびくろサンボ』の虎のように、バターになる。
2)ウロボロス図形(運動)のように、ゼロと円環を同時示唆するようになる。
同じ犬種がすべて同じ顔をしている、という「乱暴」も面白いし、
ふたご一組を「一」とみて双頭・双身・四本腕足の存在を考えるラストも
「詩篇のまとめの位置」をズラしていて、とぼけた味すらある。
引用しにくい詩篇なので、引用はしないが、
山田亮太さんの『ジャイアント・フィールド』の双子詩篇と拮抗しているとおもう。

3989 : トトメス3世  右肩 ('09/11/30 22:36:47)
前足で首の裏を掻く猫にある衝動とは何か。
ひもすがら半睡の状態にある猫の夢を何が領しているのか。
そういうことを考えるとき「人間外の論理」が
リアル=非リアリスティックな寓喩として出来する。
この詩篇にあるのは、そういった動物凝視によってもたらされる恐怖に近いもので、
実は、動物に畏敬を感じれば感じるほどその恐怖も強大化するはずだ。
だから猫の名もエジプトの王の名だった。
片や行分け体、片や散文体という違いはありながら、
村上昭夫の動物詩篇群とも匹敵する佳篇だとおもった。
そうそう、随所に静かながら爆発的修辞が仕込まれている。とりわけ、
《飴色の鼠の大群が押し寄せて、彼の眠りの海の中へずぶずぶと押し入ってくるのです》の
「飴色の鼠の大群」には何か仏教的・数珠的なものを感じてしまった。
最終聯、「懐旧」の文脈に収束するのが少し弱いかもしれない。
「天竜川」の地名表示、良いなあ。あの鉄橋が流されたのはいつだったか・・・
(すごいニュース映像だったことだけ記憶にのこっている)

3961 : 墓参り  小ゼッケン ('09/11/21 11:03:06)
女性的なものと「水」には想像力上、関連がある。
涙、淫水などから女性の組成実質を水と見極める想像力は
やがて女性との性交渉を水流に翻弄される時間と捉え、
それで女性と水の混交体としてオフィリアや人魚などの類型まで産んでゆく。
外出から戻って濡れた躯をタオルで相手が拭こうとしても雫が滴りやまない女。
その水滴が防護膜となって、主体の接近まで禁ずる女。
そうした着眼だけで詩世界の十分な成立条件になっているはずなのに転調が加算される。
《ぼくがそういうことをしている間、じつは彼女の方もぼくから視線を外すことはなかった/ただぼくを見つめるためだけに帰ってきたらしい/ただそれだけのため//
生きているとき/それらのことごとをいちいち愛と呼んだのはなぜだったんだろう》
黙契儀式にすぎない愛。進展しないが信頼のある愛。
この主体介入を禁じられた「静かな愛」については
主体の「死(に体)」が暗示されることで状況解決がなされる。
となると冒頭からあふれていた「水滴」は死後世界の物質性だったという納得がくる。
「な〜んだ」というひともいるかもしれない。
ただし詩篇は「主体介入が不能になった愛」がいかに濡れやまないか、
そうした凄絶を現在的に問うていると見るべきだ。僕はそう見た。

3987 : 水玉の丘  はなび ('09/11/30 14:55:58)
ひらがな書き、七音連鎖、四行一聯などの「外装」が童謡的なものを意識させつつ
内実は性愛の悲劇性が描かれているとおもった。
《なになになあに/わたくしたちが/あいしたことは/たいようのした》
が前段。その次に「性愛は外科手術に似ている」というボードレールの箴言どおり、
《たいようのした/おなかのなかに/てをいれあって》が来る。
人体の多孔性という、おそろしいヴィジョンが到来しているのではないか。
さらに「子供言葉」で性愛の実相が陰惨に広がってゆく。
《ぎゅっとつかんで/ひっぱるように/おだんごになって/ころがってゆく》。
このような世界を感知したとき、題名の「水玉の丘」とは何か。
性愛用の寝床だという点は自明だが、それは糖衣にくるまれた罠であり、
しかも水玉=ドットは、性愛的身体が最終的に飛散することを暗示しているのではないか。
掲出した最後の部分は、身体が球形になって転落してゆくことを謳っている。

3969 : 流星  リリィ ('09/11/23 20:25:28)
一人称主語を省略し、主体動作だけをしめす動詞を
飛躍を交えて林立させるとき、
詩はその主体、その身体の実在性をじつは高度に訴えかけてゆく。
その点では西中行久などの詩篇に素晴らしい実例があるのだけれど、
この「流星」もおなじ域に達しているとおもった。
父にいわれた流星群をみるという試みが流産して、
もとの場所に帰るという、結実性では「無」にひとしい行動が
結果的に描写されたとわかるのだが、
このことにより、身体そのものが流星のような通過体へと昇華し、
地上もそうした身体のいわば「通過媒質」へと様変わりするのだった。
美しい。詩句の流れを噛みしめれば噛みしめるほどに美しい。
アッと息を飲んだイマージュ連鎖は以下。
《帰り際、扇形の街を見る/そこに吹く風を感じられず/頭上で星が燃えているだろうから/いま、そこに帰る》。
「扇」に動悸した。麓の街はいつもその形にみえるしかない。
「そこに帰る」というとき、扇形がすでに誘引の要素になっていて、
淋しい身体だけがたぶんそういうことを知っている。
「淋しい身体の帰趨」。通過を実質化するものが唯一「足跡」だったとすれば、
その足跡は他人の足跡にすでにまぎれ、
しかも最終的には降雪の予感によりそれすら消されてしまう。
それは・いつも・二重に・消される・・・

3970 : あなたの街の夜  鈴屋 ('09/11/23 23:24:31 *1)
ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』という小説の祖型がある。
行方を探しても探しても、一旦みつかったその足取りは
さらに未知の前方をしめしている、という女がいて、
その女のために捜査行そのものまでが捜査化されてしまう。
宮部みゆきの『火車』などでこの着想はさらに現代化された。
これらはいわばフィルムノワールにつうじる「型」だが、
映画にはならない。つまり「追う対象」が映像化されると
「捜査」の構造がたちまち台無しになってしまうからで
(かといって対象が映らないと観客が欲求不満になる)、
たとえば崔洋一が『火車』の映像化で
対象を安直に映像化してしまう無神経な失敗を犯したこともあった。
探すことのなかに探すことが内包され、
そうして捜査対象のイマージュが脱イマージュ化されてゆく――
僕はこの詩篇を、『幻の女』の文化系列のなかで
そのような詩化を目論んだ高度な文化批評だと受け取った。
第二聯でアッとなる。
《眸は暮れ、唇は雲に刷かれ/空を噛むあなたの歯形が街になった、つきない嘘が窓をならべた/そ知らぬふりをしているので、外灯の灯が坂を駆け》
「あなた」の細部は外景の個々へと分裂的に転位される。
結果、「あなた」は気配となり、外景そのものがあなたの遍在を暗示するものとなる。
これは「あなた」が光学迷彩をつかっているのでないかぎり、
主体の狂気のほうを表していると考えるべきだ。情念が転写されすぎているのだ。
じつはそういう主体性によって詩的修辞も緊迫化しているとみるべきだろう。
《ついに私はあなたの液体を知らない》という結語らしく見えるフレーズには
液体的流動性を否定する語がちゃんと前置されている。
曰く、「化石の子宮」「電飾の娼婦」。
石胎(うまずめ)礼賛、電飾礼賛、娼婦礼賛はすべて19世紀末の嗜好。
しかも前二者なら僕の大好きなリラダンの嗜好だ。
意外に幅のひろい文化圏にわたっている詩篇なのではないか。

3925 : 木陰  田中智章 ('09/11/07 09:08:38)
助詞がズレ、主述の関係性がズレるというのは
平出隆、稲川方人などに代表される70年代後半のラディカルな詩の特徴で、
それらの作例は、「修辞」の巧拙とは別の次元にあった。
つまり、詩文そのものを破壊しなければ
以後、詩作者の作業すべてが相対比較の渦に飲まれるという、
そんな真摯な危機意識の表れだったとおもう。
その手の詩はいま振り返ると
美術潮流ではキュビズムに似ていたな、とも感じる。
この作者もズレによって非常に複雑な感情や身体観を表現する。
ただ題名「木陰」にしめされているように、
散歩のあと、足をとめて、佇みだけをおこなっている「ようにみえる」のが
少し問題かもしれない。
つまりものすごく繊細な抒情性に貫かれているのに、
主体が動かないのならば、それはやはり
修辞の巧拙の問題に帰着してしまうと考えるからだ。
ただしこれほどの詩文は、現代詩壇の若手の多くにも操れないとはおもう。
ラストを引いておこう。

「私であっても」と微笑み顔が打ち付けられる声をあげても、すぐに乾いてしまう暑さに別れを結ぶ昼の収まりは水溜まりの姿に、ゆるく反映してその風景で解かれる人形の糸屑を見送る。

構文が破壊され、言葉のパーツ性があらわになって
それでもなおギリギリで言葉の連鎖性が確保され、
そこに詩性が、静かな電撃性をもって宿るというのは、
近藤弘文の詩などとも共通する。
僕は近藤君の詩だと、オーネット・コールマンをおもいうかべる。
そうか、コールマンも見方によってはキュビズムともいえるな。
フレーズを吹く角度が融通無碍に変わるから
多面的立方体が時間軸に現れるんだ。

3946 : クリティカル  葛西佑也 ('09/11/14 02:54:51)
ヘンな表記の一行目に、すでに詩篇の多元性意識があるのではないか。転記。
《く、うるしい? ふーあー。く、うるしい?》。
「ふーあー」は鼻の詰まった喘ぎでありながら、
疑問文「Who are you?」の「未遂」形だとはのちのちわかる。
では「く、うるしい?」とは何だろうか。
「く=苦」と皮膚かぶれの赤=「漆(うるし)」に分離されつつ、
「うるしい」は「うれしい」にも容易に変化しそうだ。
「きみ」の名前はもしかしたら「るうしい(LUCY)」かもしれない。
え、もしかして、ルーシー・リュウ!?(笑)。
何しろそういうへんてこな第一聯の一行があって(このモチーフは続く)、
第二聯では「おじさんがアオザイ人形をベトナム土産で買った」話が
そのメール文脈から間接的に伝わり、
第三聯で「きみ」の「ぼく」の性的関係が唐突にあらわになる。
映画の類推でいえば、前衛的なのにツカミのある出だし。
やがてふたりの齟齬が、聯を挟んだ次の会話応酬で判明する。
《「ぼく、きみのすべてが欲しいんだ」/「全部あなたのもの、なっちゃったら、わたしってものがなくなっちゃうじゃないの」》
1)性的に対象の全体が好きなこと。
2)男が女に挿入して、その女が、男の身体の延長された位置を形成すること。
3)女が服を着ることで自分の躯を「拘禁」し、しかもその衣服の下までも隠しながら、
同時に衣服を着ることが裸体化のメタ作用ともなってしまうこと。
この1〜3がすべて等しいという哲学がこの詩篇の底に伏在しているのではないか。
ベトナム装束の転用といえば、ゴダールの映画で一瞬、
べトコン姿に身を「やつした」アンナ・カリーナの姿が印象ぶかいが、
この詩篇の主体は、アオザイを着る恋人の姿を想像する。
アオザイはたぶん拘禁性のつよいワンピースだが、
スカート部分にはスリットが入っていて動きやすいらしい。
つまりそれは拘禁ののち、「流れ出る身体」を予定していて、その意味で
たぶんアオザイを着ることとセックスをすることは同じなのではないか。
そういう認知と、《ふたりとも何もまとっていないということで、ぼくはぼくをまとい、きみはきみをまとっている。》という詩句が
複雑にスパークするようにおもう。そういうスパークが極上。
ただし僕はこの詩には無駄があるともおもう。

3948 : THE THINGS WE DO FOR LOVE。  田中宏輔 ('09/11/16 00:02:51 *8)
田中宏輔の個々の詩篇の巧拙をいうのはバカげているけれども
この詩篇はいつもより少し調子が低いかなあ、という気もする。
理由は僕のなかでははっきりしている。
宏輔氏、湊氏、荒木氏の会話の交わされる場所が宏輔氏の居宅――
つまり移動中の都市ではないわけで、
結果、発語に漂泊性がないからではないかとおもう。
だから言葉はどんなに無方向な出現であっても
定着的に加算、というか重複してゆく。
言葉が光芒となって消えてゆかないのだ。
それでも、おそるべき哲学的考察が伏流している。こういうことだ。
ヴィトゲンシュタインが英訳も監修していて、
ドイツ語の「イメージ」にあたる語を「picture」とすることを促した点。
与謝野晶子の『源氏物語』「夢の浮き橋」訳文で、
「ものをこそおもへ」が強調される点。
この「もの」とは、対象=イメージでありながら、
もしかすると、「物狂い」の「もの」や
「魅(もの)=鬼」という、アニミズム的「もの」までふくんでいるかもしれない。
ヴィトゲンシュタインの「picture」はそこに接続され、
この「接続」にも「夢の浮き橋」の橋梁性・架橋性が関与している
――そういう読解が可能だとおもう。
そこで大分経っての湊氏の、
《ぼくなんか/いつも/なにか考えるときは/考えてるものと/その考えてる自分というものとは不可分だってこと/考えちゃうんだよね〜。》の発言が入ってくる。
「思考の不可能性を感じたときは対象を開け放っておく」
というヴィトゲンシュタイン的な論理命題がまずあって、
ただその思考の不可能とは、対象に自分がすでにふくまれているからだという
註釈がここでなされているような気がする。
一方で、「考えること」は「分けること(分節化すること)」
という宏輔氏の直感もしめされ(ここでは二項分立以上をおもうべきだ)、
そうなると対象を考えることは、自身を分断することと同義だという恐ろしい哲学が
滲むように「そこ」に舞い込んでくる。イメージとはそういう磁圏なのだ。
じつはここに「ブスカワ」の性愛対象とか
宏輔氏の「乳首」の問題とかが絡んでくる。
つまり「愛の浮き橋」を架け、対象をイメージ化し愛することは、
対象の分断と対象の不能性を、自己分裂の責任において引き入れながら
それを自己身体的なレベルで「馴致」することなのではないか。
さてここで詩篇タイトルを振り返ってほしい。
そう、それは《われわれが愛のためにすることども》だった。
なんという哲学談義だったろう。ただ今回はリズムがやや躍動していない。

3956 : 十一月、波打際  はかいし ('09/11/17 17:13:28)
「産声をあげ」「胎動する」海というのは奇異なイメージだ。
海がそういうものだとは一般的な了解事項だとはいえ、
この詩篇においては奇異なのだ。
作者側にそのイメージの要因がある。
ひとつは「はじまり」が作者の側にもありながら
それが「恥」と頭韻をむすぶことで分裂が結果されているからだろう。
それと海から引き出されたものがある――「鞠」だ。
海の運動への反意のように運動しているそれは、
たぶん増殖可能なシミュラクル、価値の媒介質のようなものではないか。
そのような複雑なものを自己に装填して、この湘南の海の叙景詩が書かれている。
結果、対象=海と、自己の弁別が曖昧になってゆく。三聯――
《本当は留まっていたかったんだろう。鳴動。は薄れて、日暮れまで届かないうちに、距離は失われ、気がつけば心臓を通り過ぎていた。重なることはない。影たちに、あなたは、濡らされて。はじ、は恥、まり、は魔力だったんだ、空が遠くから、海も遠くから、見ていたんだろうな、》
ここでの「あなた」は離人症的に見られた自己だとおもう。
ともあれ海はたしかに奇怪な修辞であるにせよ詩篇内に運動体として定着される。
その反面で、自己が失われる。だからこの詩篇が熾烈だとおもう。

3943 : 生育暦  村田麻衣子 ('09/11/12 22:21:22)
「きみ」を「わたし」の居住域に引き入れる。それは台風の日。
「きみ」は裸で、傘だけを着ていたがそれを脱がす。
「きみ」は白く、恥じらいぶかく、部屋の植物にも笑われる。
それでも「きみ」には固有の生育暦があって
それを眼前にひらくために柑橘をともに食べたりする。
「きみ」の来歴の極点は「きみ」の前髪を切った「はは」だ。
結露と分離の日々をすごし、「わたし」はとうとう「きみのはは」の
災害禍による死を実感する。
――とまあ、詩篇細部を砕きつつ接合するとこんな意味がつくれるようだが、
誰もがこの詩篇を最初に読んだときは
省略やズレが孕まれたり、対象化を拒んでいる修辞に幻惑されて、
読解中ただ「謎」と修辞の新しさにのみ魅了されてゆくのではないか。
展開も冗長になるようにみえて、どこかで歯止めがかかっていて、
いわば言語化できない情緒のようなものが
一種の透明性のなかにあふれだしていると感じられる。
詩作にすごく慣れたひとの、満を持した一篇なのではないか。
とりわけ好きな聯を引く。

きみは柑橘の薄皮を、爪できれいに剥いて、
分け合った種の最後のひと粒をたべない。
退化していくさまざまな機能を食べずに
腹の奥で響かせ ハミング
積まれない音と昔を、重ねて歌った
花の種を埋めた。みどりも、いずれあかる
いいろに隠される。
その影が消失したら、目の色が薄くなる。
午後がながくなって

3937 : 雨  はなび ('09/11/10 22:01:09 *1)
眼前の「あなた」への退屈と、「あなた」の虚偽からくる意気阻喪が
さらに「あめ」へと意識をずらす要因となる。
そのとき「あめ」もまた倦んだ意識をもつという逆転が
するり、という感じで入ってくる。この手品に快哉を叫びたくなりました。
全篇ひらがなだけ、という企みによってこそ、この達成がある。
ボブ・ディランの「スーナー・オア・レイター」の歌詞の一節もおもいだしました。
《きみがなにをいっているのかよくわからなかった/きみのすかーふがきみのくちもとをずっとかくしていたので〔…〕//いつゆきがふりだしたんだろ》

3940 : HOUSES OF THE HOLY。  田中宏輔 ('09/11/11 18:03:41 *6)
またもや天才の仕業。「聖なる館」と題されている。
しかも今度は「構成の妙」というお土産までついている。
映画でいうカットバックの手法で
「ぼく」(相手からは「たなやん」と呼ばれる)と「エイジ」の
「発展」に向けての愛語の交換と、
「鳩が鳩を襲う。」という書き出しから展開される
同一性にたいする動物の虐待行動とが、途中まで交互する。
そのなかで「エイジ」という「ぼく」の新恋人候補が
激情に駆られがちで、光源的な野性をもっていると知れてくる
(この人物描写の彫り込みが、前の恋人との別れの姿などを通じて抜群で、
「唇が厚い」という特質もたとえばミック・ジャガーみたいだ。
しかもそのキャラがほぼ会話内容によって伝わっているというのが
たとえば小説を書いても抜群の足跡を残すだろう田中宏輔の天才性だ)。
ところで読者が身構えるのは、どんな個性差があろうとも
ゲイはゲイであるがゆえに「同属」で、
よって鳩が鳩を、猿が猿を攻撃するときのような執拗な残酷を
極まって出来させてしまうのではないかという暗い予感からだ。
つまり「たなやん」の新しい恋の邂逅には
この詩の構成上、あらかじめ暗雲が垂れ込めているのだった。
凡人なら詩はその感慨を語って終わるところだろうが、
このあとに宏輔詩特有の「ズレ」の結合がくる。
時空が跳んで、関東大震災の渦中にエイジがまず入り、
燃え盛る炎にたいし、預言者ダニエルよろしく「凍れ!」と呪詛を投げる。
そのようにしてエイジの気高い獣性が夢想される。
しかし炎はやむことなく、鳩も猿も阿鼻叫喚地獄の一員となる。
また動物寓喩をもちいた反作用として、動物詩の本尊、ポオの「大鴉」も召喚され、
そのリフレイン「ふたたびないnevermore」が
その後の光の実質を告げるものとして水面下で用意される。
「ぼく=たなやん」のロマンチックな夢想はつづく。
エイジとの雪合戦はコクトー『恐るべき子供たち』の初景からの類推だろうか。
そうしてやたらと泣ける一節がついに登場する。引用しよう(改行表示は変える)。

「たなやん。おれ、忘れてたわ。おれの帽子。」
「たなやん。おれ、忘れてたわ。おれのマフラー。」
たなやん。おれの、おれの、おれの。

相手側の崇高な自己中心性と呼ぶべきなのだろう。それが木霊している。
「ぼく=たなやん」への侵食予感も、これで決定づけられたといってもいい。
けれども詩句は、「たなやん」という呼びかけには心ときめかせているのだ。
悲劇的水位がいよいよ高まってきている。
そこにポーン、と入る英文の一行。
THE SONGS REMAINS THE SAME。
歌は同じままだった(同じ歌は永久にくりかえされる)。
NevermoreとRemains the sameという二原理によって引き裂かれる
「思い出の時間」はここからやってきた、といってもよい。
こうして圧倒的な詩的宣言がついに生ずる。

どうして、
光は思い出すのだろう。
どうして、
光は忘れないのだろう。
光は、すべてを憶えている。
光は、なにひとつ忘れない。
なぜなら、光はけっして直進しないからである。

最後の一行は、アインシュタイン学説によって補強された法則だとおもうが、
光が粒子説・波動説双方を併呑するということは
光自体がたゆたいの領域をもっているということであって、
「したがって光は再帰性をもつ=すべてを憶えている」。
この記憶をもった光のなかで、「ぼく」の記憶もエイジの記憶も
不全で卑小な「投影」にしかすぎないだろう――詩篇の裏側にはそんな直感もあるはずだ。
このような気宇壮大な局面まできて、
詩はさらに反転、父親について「ぼく」が見た夢から、家族の思い出へと
斜めに接木される。こうしてこの圧倒的な詩篇も終わる。
時系列的に全体を追ってみたが、この詩篇のぬきんでているゆえんは
随所に語られたとおもうので、結論的に繰り返すことはもうしないでおこう。

3980 : 子供の病院  ヒダ・リテ ('09/11/28 06:49:19)
おっとりと、というべきか、詩世界が穏やかに更新されてゆく。読みやすい。
随所に可愛いアイデアが盛られていることが、そのまま詩の推進力になっている。
主題は、悩める大人を、子供が、子供世界の価値観で「処方」するというもので、
逆転は、その原構図とともに、
「処方」に子供特有の遊戯性と猥雑が入っている点からも、もたらされる。
ただ個人的な意見をいわせてもらえれば、行儀がよすぎるのではないか。
子供が「夢想によって実際は狂人だ」という見解こそが、入るべきだった。
それと「涙が出ない」など、大人の苦悩がメルヘン的に抽象化(矮小化)されている点も
限界をつくってしまった要因におもえます。

3982 : 工作員  岩尾忍 ('09/11/28 22:27:18)
試しに、散文詩をつくり任意に伏字箇所を設定してみる。
その伏字にすべて「工作員」を代入してみる。
すると主体も対象も、ポイントになる名詞もならない名詞も
すべて「工作員」の氾濫となって、因果的な崩壊が起こる。
というようなことを岩尾さんは予め先取りして
この詩篇を書いたのだろう。笑えるのだが
笑えるときにはこの詩篇が高速で朗読される光景をおもいうかべてもいる。
いずれにせよ「工作員」というヒッチコック的高尚語が日本的ショモなさに脱臼され、
「工作員」という同語の回転からスラップスティックが駆動してくる。
文法逸脱の瞬間としては、
《社を出た時は工作員半を過ぎていた。家には「飲んで帰るので工作員はいらない」と工作員をいれておき、》
などが挙げられるのだが、たとえば
一度目の「工作員」は「六時」、二度目には「ご飯」、三度目には「ケータイ連絡」など
容易に解答らしきものも入ってしまう。
このように伏字性が効果をあげていないボロさこそがこの詩篇のユーモアで、
実際、高等な遊戯に属するとおもう。繰り返すが、朗読の状態を聴いてみたい。

3947 : ギリー・ド・ヴァランス  坂口香野 ('09/11/14 18:46:12 *1)
知らないカタカナ用語(刺繍用語?)が多すぎて理解できた自信がまったくない。
ただ言葉が柔かく、全体が別系統の言葉の混交してゆく言語運動体になっていて、
すごく感触がポップだとおもいました。
それと「ギリーさん」と主体の関係がよく理解できなかった面もあります。
単なる曖昧な印象批評になってしまいましたが、これでご勘弁。
評価したのは、読んでいるときのリズムがよかったからです。
カタカナの舞い込んでくるリズムが意表を突いているということかもしれない。
それと書き出しの可憐さも素晴らしい。
《いいよ、待つから。/鳩のような声が出た。》

3977 : 熱  蛾兆ボルカ ('09/11/26 23:36:17)
風邪による発熱と悪寒によって
冬の海の冷えと荒れを欲する――
ただし身体まるごとを海へ投擲するのではなく、
枕辺に来た「君」からの話として海を欲する。
詩篇には身体をもつことの心もとなさとともに腰砕けの精神などが、
「君」への愛着の主題に付帯していて、
たしかにこの瀟洒な多元性が辻征夫「かぜのひきかた」などとも共通する。
しかしここでは斉藤斎藤の次の一首を対置させよう。
《ふとんの上でおかゆをすするあと何度なおる病にかかれるだろう》。
詩篇中の顔文字については、僕は厭だ。年齢的な問題かもしれないが。

3972 : 白黒  ヨルノテガム ('09/11/24 14:23:47)
計三章の長詩。さまざまなアイデアというか
「白黒」の瞬間的視界を盛り込んだ細部がひしめくが、
たぶん自分で達成感のあるフレーズが貼られただけで、
全体的有機性/連関が薄いのではないかとおもった。
真の並列状。そしてむしろ、そのことを評価した。
全体組成はおもに詩聯に、一行詩ではなく俳句が乱入するというかたち。
その俳句は、上五・中七・下五の句分節ごとに一字空白が入る素人式で
かつ音韻が厳密になっていないという「いい加減」形。
それが面白かった。しかも次の行に、字下げで七・七音らしきものが入り、
短歌が偽装される場合もある。
あるフレーズが「ひょんなことで」別ジャンルになるということ。
タイトル「白黒」と主題的にリンクする擬似俳句のなかでは、
《シマウマが 白黒映画を 振り、振り向く》がとくに素晴らしい。
この作者は、書くうちに変貌の予感といったものが舞い込むタイプだろう。
だから、レイアウトに凝った幾何学的な形体詩の部分にも
作為性を感じず、爽やかな印象がのこる。一例。

ある日 
女の顔が花で
ジュースを飲んでて
女の口が花でジュースを
チュウチュウしていて横顔が
ちょっとした絵のようで 絵になるよ、と
言って 服を脱がせた それ以来
何も見ていないような目で
起きて寝て素晴らしい
日が次々と来る
ようだった

上は、掌篇小説のような味わいもある。
そして「女」という語の、最高の用例だともおもう。
この詩篇は田中宏輔の詩とはちがい、全体がもう少し短くなっていれば
評価がさらに高まるのではないかとおもった。
宏輔詩には冗長な部分がなく、
どんなに長くても「もう終わるのか」という「残念」が生ずるのだけど。

3968 : カメ虫  はるらん ('09/11/23 18:29:58)
散文的な現実の諸相(しかも虫にまつわる)を連鎖して
エッセイ詩というべきものが見事に完成されている。
この詩篇の読解は波状性&遡行性&遅効性の複合で来る。
まず「小2の娘」がキャラとして魅力的。
「虫愛づる姫」かとおもうと残酷で移り気で、
冷蔵庫に捕獲した虫を入れたのだとわかるラストが印象にのこる。
ついでその娘の母――つまり作者の働くパン屋で
「カメ虫」と遭遇したエピソードが、
正しい「虫愛づる姫」のそれだったという事後的認知が来る。
そうなって、作品は昆虫を媒介に、
世代遺伝的時間のはるけさを謳っていたという最終認知も訪れる。
この読後感の段階性が素晴らしいのだが、
そうさせるためにこそ構成が考え抜かれていたということだろう。

3973 : 北枕  梓ゆい ('09/11/24 19:51:05)
祖父の死が、静かで研ぎ澄まされた修辞で描写される。
読み手は一瞬の理解の遅延ののち、視像を得て、
老人の屍骸の実際が、眼前に大きく広がるのを感じるはずだ。
結果的には描写主体の詩篇になっているが工夫がある。
( )で括られた部分が詩篇の現在に挿入され、
時間が多重化されているのだった。そこを引く――
《(冷凍焼けの豚肉を、昨日捨てた。/豚汁が大好きな祖父は、/猫舌と格闘しながら/二杯三杯とおかわりを続けた。)》。
豚肉を冷凍して、肉が氷温で黒色に焼けてゆく時間は半年間くらいだろうか。
そのあいだ介護がずっと十全でなかった点を作者は悔いているのだが、
その「悔い」と「冷凍焼けの豚肉」は喩的に強固に結合されているのだった。
その結合の向こうに、元気だったずっと昔の祖父の像が出てきて、
今度は「冷凍焼け」とは逆の、熱さへの生体の生き生きとした反応が一語で描かれる。
それが「猫舌」だった。
この作者はイメージ形成力において抑制力とともに
目覚しい創意をも、もっているのではないか。

3959 : 空便  破片 ('09/11/20 09:27:46)
鉄路と、飛行機が飛ぶだろう空の航路。
そのふたつの分断・齟齬を意識することで
終着駅に着いた地上の鉄路は草の膠着をより受ける――
省略の多い詩篇だから読解も分化するはずだが、
僕はこの詩篇を上記のような文脈として読んだ。
ローカル線に作者は乗って、上空に飛行機の飛翔を見た。
夏の北海道での体験だったのではないか。
この詩篇のように、一行字数を減らして改行を重ねてゆくと
僕の経験では詩篇はいくら助詞などで脱臼を仕込もうと
意味形成速度が速くなって印象が平準化してしまう。
それを巧みに防備するこの詩篇の言葉捌きが好きだ。翳りが多い、ということ。
一番良いとおもえる第二聯をペーストしておこう。
《閑散と、誰も/なくて/数えるほど通らない/車両の/目的地がここ/であったのに、/下方の終着は/ようやく/辿りついた/寂しげなホームと/重ならず、/遠くの山へ/不時着している/錯覚だった》

3922 : 防波堤(連作)  いかいか ('09/11/06 17:31:42)
短詩連作というのは、西脇『旅人かへらず』のように余白感が命で、
この連作の余白感も「良い感じ」だとおもう
(詩篇中にある「天気」の語からとりわけ西脇を感じた)。
ただ「断末魔」「傷」「危篤」「怪談」「喪」といった
マイナス価値に寄る詩語の重なりが僕にとっては少々重い。
その意味で素晴らしいのは以下の二詩篇ではないか。

03

空を飛んで、立法する、
そしてやさしい数学
のはじまり

04

憂鬱の有袋類、
やわらかくなった、
危機、

03では「立法」の語に動悸しつつ空の広がりが見え、
04ではオセアニア大陸のやさしい衰退がこれまた広がりを伴って見えた。
全体にもう少し有機的つながりと連句的ズレが感じられれば
評価もさらに高くなったとおもう。

3952 : 未来水晶  ぷう ('09/11/16 17:18:22)
未来を透視しようと、水晶を眼前に置く。
そこまでがこの詩篇を理解するための通常性だとして、
水晶は「崩落の水」であって映る主体の像を流動させ、
それは周囲から消えた雨を代位してもいて、
だからこそその機微を伝えるため
構文は曖昧な連用どめを駆使しようとしている。
部分的には美しいイメージが多々あるのだが、
水の縁語が多いことから同語反復性を感じてしまうのが難。
それと主語を消すことで達成されていた危うさが
たった一回使用される「ぼく」によって減殺されてしまう点も惜しい。
もう一個、鍵語が詩篇中にある――「デジャヴ」だ。
しかし既視性が未来に投影され未来が実体化するというのなら
(そうは読めないところでもあるのだが)
この詩での美点、未来の漠たる流動性のほうが実際は瓦解してしまう。
それと、冒頭一行から感じられる雨音を意識するのなら
現れるのは「デジャリュ」でもよかったかもしれない。
言葉が狂奔して美しいとおもった一聯を引いておく。
《くっきりと思えたその美しさを閉じる、躰はそっと砕け散る欠片をわけ、追いかけるような匂い、水晶の一部と思えたようなデジャヴが、眼を開いていく重みをわけ、ばらまかれたその美しさと無限の存在のように知る、それでも、気がしたような、思い切りでいるしかなかったように左右をつくる、未来を胸につかんで、思い切りであったろうその残骸はきっと。》

3950 : 劣情  古月 ('09/11/16 01:04:58)
トータルイメージの掴みにくい(割れる)詩篇だとおもう。
もしかすると以下の解釈も的外れかもしれないが、臆せずに書く。
――なぜか羊水の空間に浮かぶ、性徴を迎えた十八歳少女の裸体。
それをみえない水中の触手(うろこのない蛇)が賞玩してゆく。
この触手は詩の主体の想像力(劣情)でもある。
躯に円みを帯びた細部や隠しどころがあるのがその理由だが、
やがて円みへの幻想は閉じられた瞼の下の眼球に焦点を定める。
しかし羊水のなかでは眠りが掟であるから
閉じた瞳からわずかに漏れる泡(涙)の円みを水の触手が捕獲するだけだ。
むろん多大な想像力を導入したこの設定による劣情は、
時差も性差もを果敢に超えてゆくだろう。それで、
《君に生まれる前の君が見る夢の続きに君が選んだ
十八年前の六月の雨の夜に君を産む女になりたい》。
劣情がこれほど大きなものと掴みうる賛歌として詩篇全体が着想されている。
だからエロチック「かつ」明るい。好きな詩篇です(もしかして読み違い?)。

3931 : 午睡  荒木時彦 ('09/11/09 21:41:32)
少ない言葉で書かれたことで全体に有機結合が生じ、
それで喩がどこまで遡行するか、この点が測られた実験詩の趣がある。
むろんモダニズム短詩とも感触が通じる。
最初のポイントは二行目の「イオニア式」。
この言葉で場所がギリシャという見当がつき、
まずは全面、白い空間が読者の眼前に浮かび上がる。
次いで出てくる「カモメ」も白。
それがあって、ラストの聯で
《色彩ではなく/白の痕跡だけが残る》とあるから、
最初の行の「三匹の犬」もじつは白色で、
詩篇の全体が「白×白×白×白」、白の四乗だという判断が
遡及的に生じてゆくのだ。
しかもマグリットの「これはパイプではない」ではないが、
「色彩ではなく」の限定辞が付いていてこれが一旦謎となる。
たぶん、同一色の四乗、これもまた作者のなかで「白」なのではないか。
この方式でゆくと、黒の四乗さえも、白を結果することになるが、
それは三原色の円盤を回転させると全体が白光になることに等しい。
となると詩篇にあふれていたのは、
一回も明示的に書かれてはいなかった「光」だったということにもなる。

3932 : 鮒  がれき ('09/11/09 22:28:24)
ところどころ途轍もない修辞がきしきし鳴っているのはたしかだ。
ただ題名の「鮒」が抱擁の際の幻視物とするようには
読者の感性も働いてゆかないとおもう。
しかも「鮒」ややがて水槽中にいると暴露されて
そこでトポロジーが完全に混乱する。これが第一の失点だとすると、
第二の失点は、末尾の「おとうとよ…」だろう。
これが正真正銘の近親相姦でなければ、ゲイ的愛での年少者への呼びかけだろうが、
どちらにせよ、「物語」の意匠がラストで無媒介にまとわりついて鼻白む。
なのに、三聯の翳りを帯びた言葉の運びの得がたさは何なのか。
あるいは《見わたせば池はまばらに凪いで》という詩句の素晴らしさは何なのか。
言及した三聯をペーストしておこう。

話すこともした
倉庫の窓に
木目にも似た粘土がつく日は
昼間は図鑑に読みふけった
私たちは一般に足音をかさね声をつづけて
捕獲の文字を
きつい夢のガラスにおき
茶色く焦げる噴水の曲りでも再会した

実力は瞭然としているとおもう。
次の詩ではその全篇細部に真摯さと注意力を投げてほしい。

3921 : ある街から  荒木時彦 ('09/11/05 20:41:14)
すごく整然とした短詩。
ならば余計に一行目が要らないのじゃないかとおもう。
加えて第四聯中の「そして」も。
そうすると、「陽の光に」の呼びかけにたいし次の三行、
「陽の傾きが」の呼びかけにたいし次の三行、となって、
全体がシンメトリーを意識した定型詩っぽくなる。
ピエール・ルイスの贋サッフォー詩みたいに。
古典詩的風格は得がたい。家並の黒と街路の緑によって全体矩形となる街も
どこか超時代的なヨーロッパ性を印象させるのではないか。
詩的修辞としては問題がないとおもう。
ともあれ僕の改訂試案を以下にしるしておこう。

陽の光に

黒と緑が街を
矩形に刻む
空はまだ白かった

陽の傾きが

ツバメをかえすだろう
二人をかえすだろう
星を夜にかえすだろう

3913 : 眠れる宮崎さん  はかいし ('09/11/03 21:13:53)
詩篇中、幾度も現れる「宮崎さん」が
「僕」にとって誰なのか読解しようとするのだけど
どうあっても解答が結ばれない。
それが逆に、この詩篇の命だと気づいた。
気配にして呪縛にして愛着対象のような「宮崎さん」とは別の、
現実次元では、「洪水予報」が出、「犬たち」が遠吠えしたり無聊をかこったりし、
学校が踏みしめられたかたつむりのように潰れる予感がある。
潰れて星座型となるのではないか。それでまた予鈴を発するのではないか。
修辞の質が個人的には好きだ。やはりまずは第二聯。
《明日は早いから寝なさい、/僕のシーツで発火して/朝になっても残っている、宮崎さんの/差し向けた犬たちが遠吠えし、/足跡に沈んだ学校では/授業開始を告げる》
それから最終聯。
《家のベッドに送還されると/雨の日の犬たちが横たわり/朝食のにおいが/窓に滲んでいる》
そうそう、トータルが夢オチかどうか判明しないところにも構成の妙がある。

3990 : 砂の城  ひろかわ文緒 ('09/11/30 23:14:10 *1)
書き出しの、《料理のさしすせそ/覚えて/最初に作ったのは/砂の城/でした、寄せる波に/少しずつ/洗われて少しずつ/崩れてゆく》を読み、
期待したのだが、以後、間口が広がりすぎて拡散した感がある。
料理上の摩訶不思議な手つきを期待したのに、
「私」と「恋人」の(暗喩的)描写に不要に横ズレしてしまったといってもいい。
ただしひろかわさんの発語には、どこかで理路を突き崩す凶暴な意志みたいのがあって、
結果、《ありがとう殺戮/どういたしまして死骸》とか、
《席には菊が号泣している》とかスピーディさゆえに深く入ってくるフレーズもある。
途中、字詰めフリーにして介入してくる女子高生の会話は
映画でいうとシネマ・ヴェリテ的手法なんだけど、この詩篇の場合は不要ではないか。
「料理のさしすせそ」が常識化しているひととそうでないひとの感慨の差かもしれないが。

3965 : record_b_091006@jisitu  藻朱 ('09/11/23 02:08:18)
古語を変型圧縮して日本語の「気」のみを原型的につたえる。
この試みはちょっと名前をいま憶いだせないけど
若手の女性詩人もやっています。「異言詩」の試みというべきですが、
詩はもともとそういう異言性を「も」、目指しているので
僕としてはこういう詩篇だって歓迎です。
「ぎゃ」「ぎゅ」「ぎょ」音が多いのがおもしろい。
はらぎゃーてぃ、と関係があるのかとおもいました。
「妄想的には」、詩篇は暗号のように解読もできる。ためしに冒頭。
《1きゅきゅうちゃり/2きゅうすがいに/3ぇをはやす/4うまのみに/5このすみちを/6はやらせたまはひて》

「1急いでチャリ(自転車)を/2旧市街へ。/3穢い草を生やしている/5このただの道を駆って/4(身は)馬の身のように/6逸っている」。
ホントかなあ(笑)。

3963 : 岨道  右肩 ('09/11/23 00:52:17 *1)
一聯めの客観描写が、二聯めでフッと詩の主体の当事者性を得る。
そこからじつは死がはじまる。
この一聯二聯の接合は怪物的なキメラが生じる呼吸だとおもう。そこがよい。
《安心感が欲しくてすがるように木島さんを見ると、大きな顔に汗の粒をいっぱい張り付かせ、僕の後ろへと目を大きく見開かせています。その目と目線を合わせようとして、「木島さん」と声を出し始めた瞬間、下へ引っ張られるように木島さんの体が姿を消してしまいました。》
と、試しにラストを引いてみたが、うまい散文だとおもう。
冷静さが先にあって、叙述の呼吸が測られているのだ。手練。
ただこの作者は掌篇小説を目指すべきかもしれない。

3974 : 冬空  かとり ('09/11/25 21:25:18)
「幹線道路」を歩ききってふと「国境」に立ち止まり
「冬空」をみあげたときの感慨が、
語順入れ替え操作と省略、さらには語のずらしをつうじ
複雑に叙述されている。
《チョークの粉が/ふっているみたい》の書き出しが良い。
「作者」というか風景の逼塞は次のフレーズに顕著。
《間違えを探しては/間違え/沈黙している》。

3954 : 経験が人を成長させるなら  snowworks ('09/11/17 01:50:24)
組成のやわらかいライトバース。各聯の飛躍が伸び伸びしているが、
とりわけ「海底の大蛸」の聯が好きです。
ゆらゆら帝国の「タコ」を想起した。
引用しておこう。
《海底で大蛸と戯れたことがあるよ/吸盤で吸い付かれて/体中を愛されたけど/それを愛と呼ぶべきかは/未だに分かりません》。
僕のこのみでいうとラストの聯はまとまりがつきすぎだとおもう。
フワッと別次元に移行する予感を漂わせて終わるべきだったのでは。

3945 : 機械の女  亞川守紀 ('09/11/14 00:35:46)
「機械の女」はこの詩篇ではつるりとした人工皮膚のサイボーグなどではなく、
もっとギアーとか螺子とかバネにあふれた原初的ロボットのようだ。
配線は単純だし、甲冑型をしるしているかもしれない。錆びもするだろう。
その意味では拷問器具、「鉄の処女」の進化形かもしれない。
つまりたとえば、義体が駆使された押井『攻殻機動隊』シリーズのような眩暈ではなく
19世紀末〜未来派やピカビアまでのプリミティヴな「機械愛」が
ここでは性愛に結びつけられているようで、だからその相手も老人となり、
結局は対象の破壊という廃墟美に逢着してしまう――そういう図式なのだろう。
ラスト二行、《遠くで午後のサイレンが/耳鳴りのようになり続けていた》の
余韻が良いが、修辞はもっとクレイジーになりえたはず。
リラダン『未来のイヴ』でのハダリーの細部説明だってすごく狂的だった。
この点が足りないのと、思想性も足りないかもしれない。
つまり機械はいまやドゥルーズ的には抵抗圧と内部性をもつ閉鎖物質から
連接能力だけをもつ運動領域自体へと奇怪な成長を遂げたはずなのだ。
たとえば押井アニメはその域にあるし、
僕(阿部)もそういう着眼から『少女機械考』という本を書いています。

3928 : すべては白に月ト巴里の咲く  常悟郎 ('09/11/09 02:54:27)
日本上代的な語彙からフランス的語彙に詩行(聯)が移るにつれて
(ただし第一聯もフランス語彙だった、
上代ということで第五聯にアダム&イヴが出てきて類想が生じたのだとおもう)
焦点がぼやけ拡散し、運びも緊張を失ったとおもう。惜しいなあ。
全体で何がいわれているかもつかめなかった。
素晴らしいとおもった聯(本当に素晴らしい!)を下に貼っておきます。

ズミの花びらは桜のように散ると言ふんだって
ホトトギスにうがいする
切れ込み深い谷間の奥にオオルリの鳴き声を求めてさまよえば
なま温かな湿原を識る
弥生の粟盛りは乳白色の薫り
倭らが伝う詩魂のしろはヨナ抜き音階だろ/はにほとい
それは溢れる滴の源
オノマトペ

生まれながらにして怪物を携えた人よ
淋しいと言っては人の肩に手も触れず
よるべなき客人(まなびと)
絣の着物が粘りついたあの時代
隠を忘れた鯰の捻挫した白い左首/が笑う蛸が逃げる/蛸帰る
詩人は君たちの眼差しが怖いけど三つ子の魂をどうか/骨まで愛してちょうだい

「骨まで愛して」は60年代後半、城卓矢という一発屋さんの放ったヒット演歌。
意識されているんだろうか?

3927 : マッチ  丸山雅史 ('09/11/09 00:30:08 *2)
描写加算がわかりやすく、通りも良い詩篇。
「炎を探す寓意詩」ととられるだろうが実際は物語的夢想に囚われた虚構詩だった。
「一文なしのホームレス」では「文学極道」の投稿もできないだろうという
「常識」から、そう判断しておく。
むろん詩の主体がこういうかたちで擬制されて良いはずもなく
(後ろめたさはこの詩篇から一人称主語が脱落していることでもわかる)
当然、書き込み欄にもその脱倫理性への論難が出た。これを全面支持する。
そんな詩篇をこの欄に掲げたのは、この小事件をただ「記憶」するためだ。

3934 : これは夢、yume  はるらん ('09/11/10 05:50:38 *1)
これは上の「マッチ」とは逆、一見して事実だろうという事柄が
装いではなく、今度は当人しか書けないだろう悲惨さで迫ってくる。
なのにタイトルは「これは夢、yume」。一体どうなっているのだろう。
「私詩」というジャンルは和歌いらい日本の特有伝統だけど
それへの愚弄が許されてよいはずがない。
これも上と同じ小事件の記憶として、不快感をもってこの欄に掲げる。
一言いう。田中宏輔の詩は、「私詩」が形而上性に飛躍するから詩格が高いのだ。

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