2009年10月分選考・選評(阿部嘉昭)
【月間優秀賞候補】
3883 : 舌切り雀 ゼッケン ('09/10/21 20:21:11)
物語文体が行分けされるというラフな組成は
僕自身はすごく現在的なアプローチじゃないかとおもう。
詩的修辞は遮二無二発明されなくともよい、ということです。
設定の底に敷かれた「舌切り雀」に
この物語詩がいつ接続するだろうかというスリルが最初からある。
そのあとに来るのが「運び屋」という主題だった。
A地点からB地点へ、「何かを運ぶだけの者」は
その稼業によってそのまま存在を疎外される。
それがジプロックに入れられた大麻だというとき設定の現代性も増す。
このようにして得られた「俺」の無化にたいし
「雀」と名付けられた対象(小柄/舌が切られている)が
その非現実性により、逆にますます現実感を帯びてくる。
着想というか布置が鮮やかだとおもう。
ふたつの冷蔵庫、そして冷蔵庫内に凍結された雀の母、
ではその夫というか相手が誰かという転調があって
ついに物語が「俺」のアイデンティティに回帰してくる。
映画でいうとフィルムノワール的手さばき。
オチによる縮小ととるか、物語伝統への従順な参照ととるか。
両方だろうなあ。ただし恐怖小説としてみるとそこで安定感が出る。
けっきょく僕は好きです。
最後の聯、フッとエレベーターのたたずまいに視野が移る。
達者だなあ。エレベーターはいろんな映画のなかで恐怖装置になってもいるから。
あ、そうそう、この手の物語詩は小説へと肥大化できるかが是非判断の焦点となる。
文のエレメントだけで書かれ、描写が最低限あるだけ、
それで却って詩性に奥行きの出る場合は詩篇のままでいいと僕は考える。
この詩篇はそういう領域にあるともおもいました。
*
3884 : notitle いかいか ('09/10/21 21:01:32)
これも散文体へのアプローチ。
「notitle」というのはモチベーションがないのではとおもわせるが
これはむしろ挑発的な謎かけのほうで
詩篇の主題をここから摘出しろ、という読者への構えを感じる。
日付が効いている。それで日記からの摘録が偽装される。
しかも日付が読むにしたがって遡行してゆくので
読者は読了後、全体を逆順にして内容の再把握することも迫られる。
何もかもがこのように挑発的なしつらえのなかで
主体の彷徨、その歩く場所の迷路化、盲目化の意義などが高い思弁性で暗示されつつ
それが読書している当該の本、秋祭りの描写など、「作者的現実」にも接合されてゆく。
死者の横溢という主題のみならず、
修辞のどこかにシニカルな冷却装置が仕込まれていて
じつにスリリングに読ませました。
この書き方で着地感を読み手にあたえるのは手練だとおもう。
日付としては最古になる最後の蛇投擲の文(日付は敗戦記念日)など最高です。
記念として下に貼っておこうか。
○
2009-08-15
うつらうつら、と夜の散歩。右足を出せば、勝手に左足がついてくるものだから、この不都合な動作にうんざりしつつ、煙草を意味もなく吸っている。吐く息 も白くならない季節なもので、調子に乗り友人に電話などしてみるが、話の内容は相変わらずだ。蛇が目の前を横切ろうとしている。とりあえず、踏んでみる か、と思い、思いっきり踏んでみる。足をかまれそうなるが、このままかませてしまおうかと思い、蛇をじっと見つめている。どうせ毒蛇の類ではないのだか ら、せいぜい歯型の一つでももらっておけば明日の話のねたにはなるんじゃないかと、くだらないことを考えるが、そこまでしてねたがほしいかと思い、しかた なく、蛇の首裏をつかんで、田んぼに放りなげる。蛇の夜間飛行なんて、ちっとも面白くないなと、イブをそそのかしたように、俺もそそのかしてくれることを 少しは期待したい。その期待は、蛇の放物線と一緒に田んぼに落下して、どうせ実らないままなんだろうぬぁ、と、くだらないことを考えて散歩を続ける。
○
いい忘れるところだったけど、日付がしめされたのちの最初の一文、
その断言形に高い詩的昇華が感じられもしたのでした。
以下、例示。《ひとつ、ふたつ、みっつ、と転がるようにして指折り数える。》
《白さが駆け足で巡る。》《秋月を喜ぶ。》
*
3901 : ハロウィン(中身のない南瓜) 破片 ('09/10/31 16:17:09)
これは高度な詩だ。必要描写の欠落によって欠性を打ち出し、
それがそのまま解釈を多岐にする詩の内容へと直結されてゆく。
だから読者は咀嚼反復をしいられるが、
たぶんどこかで詩の芯が結像しない。ところがそれが麻薬的魅力になる。
煙草を吸い、それを踏み消す。まずは主体のその動作が前面化されたのち
とりあえず詩篇は逆転をたどる。
「抽斗」という精妙な真空空間が招聘され、
その無酸素性から逆転的に発火がはじまる(詩作のメタ的暗喩)。
その火を宰領し、火のそばにいる者がとりあえずこの詩の主体だとわかる。
やがて火によって生じた光が多様化してゆき、
それがハロウィンの空間ともなり、(たぶん)詩の主体は退行して、
その子供の行進のなかへと列聖されてゆくのではないか。
そうは読んでみたもののこれは恣意的な読解かもしれない。
けれどもそのように不安になることが、この詩篇に魅了されることだ。
詩作の喩となっている、行分けされない第二聯をとりあえず引いておく。
《へこんだ部分に手をかけ、そのままの姿勢で、何も入っていない抽斗の隅々まで舐るように焦点をめぐらせる。蓋をした灰皿、無酸素のはずの吸殻が静かに再燃を始めて、直方の木箱が焼失していく。当然、消火など、しない。》
あ、ギリシャ語の「見つけた」は「ユリイカ!」でいいのだろうか。
「とりっく、おーあ、とりぃと!」が僕には不明でした。
*
3902 : この場所で 浅井康浩 ('09/10/31 22:44:40)
詩篇中にチェロとオーボエが出てくる。
弦なら低音設定、金管ではなく木管楽器――
抑制と慎ましさと遠さで抒情する浅井詩篇らしいなと感嘆した。
この詩篇では修辞のプルースト的枝葉が削がれ、
情の直截性が前面に出ていると評価した。
全体が三聯と、いつもより聯数がすくないのが奏効しているかもしれない。
たぶんこの詩の主体にはいつも脳裡で理想の音楽が響いている。
そうであってこそ「あなた=君」をも音源として遇する。
このとき「あなたの言葉の意味がわからないこと」
「まばたきの音など君の無音を聴くこと」といった虚の音楽が
主体にとって積極的な意味をもつという逆転が述懐される。
その虚の音楽が、光に、匂いに、さらに変成するからだ。
という「詩の意味」がここでは「音楽化」されている――
そうした高度な二重構造にも気づかなければならないだろう。
つまりは構造が美しい。それはa・d・e・aの和音進展が美しいのと同じこと
(Aの主調をCに置き換えればCFGCのスリーコードで、
カノン進行の端緒が語られているのだろうか)。
むろんある疑念が生じる。
「adea」は「エイデア」と読め、対象の女性名を指示しているとも感じる。
むろんそこには「idea=理想」が伏在してもいる。
美しい第三聯をそのまま引いておこう。
《また、くさむらにねころがってるあいだに君がきていた。なにを言っているのかはわからなかったけれど、とてもやさしいまなざしをしていたので、 たしかに何かがしずかに終わったのだとわかってしまった。あたりには、昨日までは気づかなかった香りが空気にとけこんでいて、終わることのない陽射しの、 とてもわかりやすい明るさにうながされて、世界は音律をふくみはじめていた。まばたきの音がして、ハリビユのみどりがはじけて、いくつかの小さな出来事な ら忘れられそうな、とてもいい匂いがした。言い添えるよ、この場所で。ねぇ、あかるいはなしをしよう。たとえばくさむらのみどりの。つゆくさのみどり の。》
このラストの「あかるいはなしをしよう」で
ディスコミュニケーションの価値すら語られていたこの詩篇が
複雑な所作を経てコミュニケーションの価値に再着地した機微が生じてくる。
だからこれは向日性の詩だ、つつましやかな――。
前にも書いたが、浅井さんは詩集編纂を考えるべきだとおもう。
*
3903" title="http://bungoku.jp/ebbs/20091031_871_3903p\">3903">bungoku.jp/ebbs/20091031_871_3903p">3903 : フェリーボート 右肩 ('09/10/31 23:04:22)
上質な詩だ。小説体で書かれているが、
ある存在にとっての視界について考察が進められるうち
それがドッペルゲンガー、ブロッケン現象など
さらに文学的主題を引き寄せてゆく。
主体が見る対象とは結局、己れの刻印を帯びたものに最終収斂して
つまりは注意深い局面では主体はいつも自分の死をみていることになる。
最終聯、コーヒーハウスで快活な子供と主体が交錯したのち、
主体はさっきまで自分のいた座席をみる。
とうぜんそこには、自分のドッペルゲンガーが「いる」。
このように展開も見事だった。
さてこれを小説のフラグメントとして遇するべきなのだろうか。
まずは聯によって「場所」が変わる点に思考と注意があつめられて、
そこから加算的に主題への思考が進化しているとわかる。
これは小説ではなく詩の作法だ。
もうひとつ、詩は「僕・君・滝さん・市村さん」が
ともにあった時空への回顧をも副主題としてもっていて、
それへの苦い訣別をつうじ、主体に死が手渡される構造だったとも知れる。
このときの抒情性横溢もやはり詩なのだった。
似た感覚の詩篇群があった。倉田良成の『東京ボエーム抄』。
この詩篇は倉田良成の詩のように素晴らしい。
しかも修辞が古臭くなく透明なのが良い。
*
3904 : 広場 泉ムジ ('09/10/31 23:58:52)
引き締まった寓意詩。現代詩壇でいうと粕谷栄市などにつらなるとおもう。
「革命の広場」だった場所に武力介入があり、
そこに埋もれていた白鍵が撤去された。
しかしそこに感慨はない。
反復される「無駄話はもう終わり」が、その気分を伝えている。
それと主体の視線は広場での事件を追いながら
同時に空のカラスにも注がれていて
その脱集中でも、熱狂の時代の終焉が語られている(とおもった)。
白鍵の寓意。つまり白鍵だけで演奏されたピアノ曲は、翳りなく開く。
その白鍵のみのような素朴な革命信仰が破綻した、ということだろう。
そしていま広場に建てられた銅像は
革命戦士の墓標(これも撤去された)よりも明るいはずなのに、
詩の主体にとっては「黒鍵」として感じられているのではないか。
もうひとつ気づくべきことがある。「白鍵」と「発見」が同音なのだ。
「発見」「発見」と騒いでいた日本のポストモダン時代(80年代)の素朴も
もう機能しないと作者は感じているはずだ。
「広場」は寓意だから具体的な場所を考える必要はない。
たとえばギリシャのアゴラであってもいい。
しかし読者は「赤の広場」「天安門広場」そして「フセイン像が撤去された広場」など
多元的な類推をするだろう。それでいいとおもう。
真に教養のある作者による詩篇、と感じ入った。
*
3887 : もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。 田中宏輔 ('09/10/22 14:38:48 *28)
すでに田中宏輔を天才詩人として認めている者も多いとおもうが(僕もそうだ)、
とつぜん彼が「文学極道」に参戦し、これは一部で大ニュースとなった。
ネット詩環境を、自分が投入剤となってさらに変える意気込みなのだろう。
そうした意義を「文学極道」に出入りする人たちも考えるべきかもしれない。
さて――宏輔詩は引用詩、●詩など、いろいろな発意に富むが、
会話引用詩も彼の十八番で、その都会的風合いが僕は大好きだ。
今回の「もうね、・・・」は、その巨大篇で、圧巻というほどの迫力がある。
詩作者「湊くん」とやりとりしたある日の会話が異常な記憶力で再現されている。
その執拗さも田中宏輔の「味」。
「なし」の話が出るまでは、ほぼ会話内容が詩論になっていて、
そこではふたりの教養の深さも窺えるが、その伝達を詩篇が目的にしているわけではない。
そういえば宏輔さんと「ゲイ」という点でつながるルー・リードには
「ニューヨーク・テレフォン・カンバセーション」という佳曲があった
(『トランスフォーマー』所収)。
たぶんNY式電話会話は、機知とスピードと性的ジョークに富み、
後腐れと重たさをのこさぬことでキッチュな哀しさを分泌する。
ここでの京都式会話でも類想によってスピードが醸成され、
内容を振り返らないことで、じつは哀しみを積もらせているとおもう。
都市内会話の内容は相互の呼吸や環境といった偶発性に左右される。
会話は環境に翻弄され、それで軽さを獲得しつつ、ゆらめくのだ。
となると会話の本当の主体は彼らの背後にある都市ということにもなり、
それがここでは宏輔詩の都市性と哀しみの根拠となっている。
親密さの底に、別れが予感されているということでもある。
こうした詩的立脚の普遍性に注意が必要だ。
そういえば田中宏輔は、「空間=時間=偶然」が
人間行動や運命のすべての芯にあるといつも考えていて(彼は数学者だ)、
その考察のもと「肌理こまやかな」「生きている」世界に参入してくる。
その「参入」がそのまま詩になるから彼が天才なのだった。
一体、現れている詩の主体がそのまま田中宏輔になってよいという僥倖は
彼以外ではたぶん岡井隆にしか許されていないともおもう。
部分引用がしにくいのでここでは総論的に書いてみた。
一個だけ補足。通常、ネットで発表される宏輔詩は
行分け詩を、一行アキで連鎖するという形式が多い。むろん横書き。
行分けされた一行の字数も少ない。
これは詩篇発表の経済原則からして贅沢すぎるとみる向きもあるだろう。
だがちがう。その形式によって
スクロールされる画面下部への移行が加速化し、
それでたとえばここでの会話の「現れ」が
都市空間の偶発的現れ(散歩でも自転車でも車中でも)と等しくなるのだ。
つまりこの一行空け書きは彼の詩篇のひとつの要件だということ。
この点をはっきりここで書いておく。
そういえば詩篇中「形而上詩人」として出てくるジョン・ダンは
僕も大好きだ。シェイクスピア時代の英国の、マニエリスムではない詩人。
彼の「私の心は愛に満ち、同時に愛に欠けている」という詩句を
僕はAV考察の柱に据えたこともあった。
*
3897 : 点の、ゴボゴボ。 田中宏輔 ('09/10/30 14:54:58 *2)
最初の投稿詩よりもさらに長い。
これだけ長いと心地よさだけがのこり、幸福な判断停止にいたる。
それでもやっぱりスゲエ。べつだん詩篇中に僕の名が出てくるためだけではない。
じっさい田中宏輔の頭のなかがどうなっているのかをよく考えることがあって、
彼の脳裡はかぎりなくサイケデリックに界面同士がねじれ、
キメラ合体しているにちがいない、とだけはまずわかる。
それが詩行の集まりの単位の加算(シチュエーション)、その変改に出てくる場合もある。
かてて加えて、今回の詩篇のように、破壊的構文に結実する場合もある。
出だしをちょっと拾ってみるか。
《あたしんちの横断歩道では/いつも/ナオミが/
間違った文法で/ごろごろ寝ころがっています。》。
こういう破壊的構文を宏輔さんのようにするっと書ける詩作者はほぼいない。
誰もが肩に力をいれてしまうのだ。
途中にはこんな鮮烈な詩句もある。
《あたしたちふたりだけで世界だと/世界はあたしたちだけでいっぱいなのだけど》。
これにはもしかすると、山田亮太『ジャイアントフィールド』の影響があるかもしれない。
差異を同一性に還元して、世界を同一性の舞踏としてみる傾きが共通している。
しかし《よくわからない春巻きはあたたかい。》というフレーズ、いいなあ。
ア母音の多用に音韻幸福の秘密がある。
さて――宏輔詩の特徴のひとつは、素晴らしい着想をダラダラ詩のなかで
あっさりと蕩尽してしまういさぎよさにある。
途中、英語で書かれる一連があって、そこをまず拾ってみよう。
A bird asks me why I have been there but I do not have an answer
(ワードの補正機能でIなどが小文字にならず、これで勘弁)
↓
一羽の鳥が僕に訊ねる、いままでなんでそこにいたの? ――応えられなかった。
○
what I smell asks me why I have been there but I do not have an answer
↓
僕が(いま)嗅いでいるものによって僕のこれまでの居場所の理由を問われる、けれども(やはり)応えられなかった。
○
この詩篇はつまり、(感覚の)事実にたいし、存在そのものに理由があるかを問うている。
そこから主題、「点」が派生する。どういうことか。
点は重畳すれば音楽的ざわめきとなる。詩作者でこの点に無自覚な者はいない。
しかし厳密に数学的に定義された点は無面積の抽象であって、
それはたとえば線と線の交差する場所として事後的に定義されるのみだ。
だから以下の詩句がすごくクレイジーだともわかる
(つまりそれは福沢諭吉のパロディというだけにとどまらない)。
《点は点の上に点をつくり、/点は点の下に点をつくり、/点、点、点、、、、》。
無の交差があって、それで点が傷のように刻まれてゆく。
それは、前提がないのに事後が存在する、マラルメ型の恐怖世界なのだ。
そういう存在運動の経緯が、この詩篇では地上の事象として語られている。
そしてその語りに、キメラ合体が付属している――
この長大詩篇の勘所をつかもうとすればそういう結論が出るだろう。
最後に、群衆の夜の歩行を描写して
哀しい民族的悲哀に陥ったル・クレジオの名文「顔−雲」と匹敵するくだりを
この詩篇から拾い、講評を終えよう。
《男の子も/女の子も/きれいな子はいっぱいいて/目がいっぱい合ったけれど/もう/そんな顔は/すぐに忘れてしまって/知っている顔/付き合っていた顔だけが/思い出される》
街を行くときの「感覚」は瞬時瞬時に、美によって擦過傷を得ている。
それは統御しようがない。しかしそうなって感覚は記憶を再浮上させ、
存在をアイデンティティのうちに閉じ込めてしまう。
上の詩行一連は、そのような真実を付帯的に告げている。
あ、そうそう、忘れるところだった。
この詩篇には、宏輔さんがミクシィに詩篇の部分アップをしたとき
僕が絶賛した次の箴言もふくまれていた。
《善は急げ、悪はゆっくり》。
善が急がれるのは、それが遅滞すると悪に変成してしまうからだが、
悪がゆっくりとなされなければならないのは、
存在の試練、もっというと拷問を自己調達するためだ。
悪は先鋭な意識にとってはその遂行の局面局面で存在を切り苛む。
線であろうとする存在に、点の試練を加えるのだ。
だがそれこそが「悪を知ること」であって、
そのために逆倒的に存在は悪の遂行の渦中にゆっくり入っていなければならない。
この見解は何と倫理的なのだろう。
自己放棄のその倫理性においてカフカの箴言にも似ている。
付言:アップされている詩篇は容量的に僕のパソコンでは重すぎるようで、
コピペを試みようとすると画面が何度もフリーズしてしまった。
う〜ん、あつすけさん罪深い。この詩篇だけ講評に
他のひとの二十倍くらい時間がかかってしまった・・・
*
3890 : June んなこたーない ('09/10/23 02:51:18)
「フェルナンデス」という有名詩篇が石原吉郎にあるが、
こっちには「フェルナンド」という固有名が頻発する。
最後の一連ではそれが呼びかけなのか
助詞をはぶかれた主語なのかも判明しない。
音韻性を確保したまま、周到な注意によって
安直に像が結ばれるのを拒む――
その経緯にすでにこの詩の内実があって、素晴らしい
(だから詩語が満載されても気にならない)。
詩篇題がなぜ「June」なのかを考えることで最初の読解がはじまるだろう。
第一に梅雨の季節なのに詩篇には光があふれている。
六月を一年の季節の「正午」として、その底に限定的な水をまず見、
その後、水の鉛直方向の奥行きを詩篇が測定していないか。
水がそれで鳥の墜落の的となり、映写の媒質となり、
風の撫でる表面ともなり、火災の導入ともなり、
ついに詩の主体のてのひらのくぼみにも水が遍在してゆく。
それらのヴィジョンの連鎖がすごく美しい。
字下げ無視で二個聯を抜いておきます。
《ときには/刻々とせばまる陽だまりのなかで、/リボンがほどけることもあった/「てのひらの<June>、それさえも」/濡れそぼる翼の一撃が/だれかの捕鳥網と重なりあって/それから/永遠に離れていった
*
花綵の陰から、/航海の巣から、/フェルナンド! フェルナンド!/「日没の街に/明かりを絶やさぬために/ぼくらは管制塔のように興奮し、/植栽試験場のように、ひとりずつ/他人の卵から孵るのだ」》。
最後の三行、驚異的です。
「ぼくら」の孵化が他人の卵によってであること。
そこに希望とペシミズムが見事に同居しています。
*
3886 : 追憶 リリィ ('09/10/21 21:54:23)
素晴らしく心情の優しい詩篇、「ですます」調の鑑。
リリィさんの美点は、着眼点の連鎖、エピソードの進展に
自然な隣接性があって、かつそれが意外性に富むことです。
だから空間や人物の実在性が豊かになって読み手を複雑に魅了する。
とりだされる祖父の、指喪失の逸話に、「追憶」の実質が置かれ、
その追憶の動作の喩として紙コップでつくられた糸電話、
その片方の紙コップが、階上の床にも置かれる。
「追憶」とは片面的だという、みえない託宣でしょう
(これと祖父の指の欠落も連動しています)。
それにしても描かれた祖父がカラフルな配色です。
「紫の黄色の丸い皮膚」「白内障の膜に覆われた白い眼」
「マイルドセブンのヤニで黒くなった歯」。
だから彼は「水戸「黄」門」をみる。
そうした多色により詩の主体が祖父に愛着を感じているのも明らかです。
このように詩篇は全体にわたり間然とするところがない。完璧。
目立たないかもしれないけど、紙コップを買いにゆく導入部の詩法が素晴らしい。
以下、ペースト。
《夏のなごりのサンダルを、乾いた裸足につっかけて/猫を追いかける心地で、100円ショップに向かいます/もうすぐ空が一回りする気配が、揺れ ながら通り過ぎた自転車のおじさんや、しみのついた焼きそば屋のラジオ、遠い向こうのたなびく煙突からしましたが/坂道を軽々と、徒歩3分で着きました //紙コップ。105円。》。
うっとりする。
*
3861 : 海中布団 snowworks ('09/10/13 00:40:25)
「海中」と家庭を二重視覚にして、諦念にあふれた作者の生活が
不思議な圧力で記述変型を受ける。「水圧」ということだろう。
それで過去も現在も、家庭も会社も、寒さと暖かさも、高さも低さもごっちゃになる。
全体にユーモアがみなぎっていて、一々の細部変型も愉しく笑える。
だから「ごくろーさん」と励起のひとつもかけてあげたい。
大好きな詩篇。それが、海中から解放される最後の聯ではさらに締まった。引用。
《頭を岩にぶつけました。海は干上がっています。打ち上げられ、鳥肌が露わになって僕はひび割れた岩場で丸まっています。擦りむいた傷を摩りながら、朝を欺すこともできず、朝。》
*
3832 : 壁の裏側 岩尾忍 ('09/10/02 00:36:17)
「現代詩手帖」投稿欄の現在の常連(僕も大好きな)岩尾望さんの作だから
とりわけ緊張して読み始めたら、
ネット上の詩の可読性が熟慮されていて、淀みなく作品世界を嚥下できた。
やっばり戦略家だなあ。さらに敬意をふかめた。
「私」は壁の「裏側」にいて、ずっと家の中を見続ける存在に偽装されている。
その「家の中」には歴史があるから、
記述は「――した時」で連鎖されてゆく。
冒頭は《あなたが生まれた時》という決定性のある項目から始まるが、
やがて時の分節に、《夏の午後/小暗い台所の/こぼれた油の中で しずかに/蟻が死んでいた時》というような、
決定性ではなく微細さで記憶される事項が混在してゆき、
しかし皿の割れなど、「異変」も掠めてゆく。
対象への注視は、子供の「あなた」が冬の寝床で、
周囲にふくめ完全な静寂を獲得したその時までつづく。
それで、気づく、見られていた子供=あなたこそ、「私」の現実の姿で、
思念としての「私」がただ「壁の裏」にいたのだろう、と。
第一聯の提示、第二聯の長い列挙展開ののち、
第三・第四聯で、持続と逆転の、驚くべき提示がある。
第三聯でまず「持続」が語られるから詩篇全体が静寂さで終われるのだ。以下。
《いつも私はその壁の裏側にいました/そしてもちろん 今も//ただひとつ これまでと違って/これからはあなたのいるそちらが/裏側なのですけれど》。
それでも静謐な「私」を見つめる静謐な「私」という構造は変わらない。
この静謐さは注視の静謐さでありつつ、その注視を無化するものでもある。
そして彼岸此岸の逆転は、今後も継続的だとも匂わせる。
さて第一部/第二部(列挙体)/第三部と分離できるこの詩篇の構成は
気づかれるだろうか、バラッド形式からの転用だ。
手っ取り早い例としてはボブ・ディランの「激しい雨が降る」がある。
「青い眼の坊や、どこへ行ってきたの?」という「仮の」呼びかけによって
「僕は○○にずっと行ってきて、△△をみました」という答が延々、並列的につづき、
そこで世界の惨状が語られ、彷徨過程も黙示録化したのだった。
しかし岩尾のこの詩篇では世界は家のなかに限定され、
しかもディランのような明示的壊滅ではなく、
静謐と分離できない異変が列挙されている。
そこに愛着の匂いもあるから読後感が豊饒になるのだった。傑作。
*
【次点佳作候補】
3891 : 入れ子 宵町 ('09/10/23 04:26:36)
主格をしめす代名詞はなく、「あんた」が数回出てくる。
その「あんた」への物言いのように詩篇全体がみえながら、
明示されない主格に詩が折り込まれる。その意味で内閉的。
構文内の語の関係性から理路を奪うことで詩性の獲得が狙われていて
僕はそれがある程度成功しているとおもった。
それに「怒り」が全体に内包されていてモチベーションも高いとも感じた。
これが投げつけるような書き方に現れている。
ただし書かれているものを精密に解きほぐすように
修辞が導いてくれないのではないか。謎は硬化して牢固、という感。はじかれる。
ただし最初の投稿でこれだけの達成は以後の期待にも結びつく。
*
3882 : まぼろしの通信 mei ('09/10/21 13:41:37)
抒情詩がもくろまれている。
対象喪失を、気力で「空中」空間に結びつけ、
朝の到来、朝の終わりへと時間経過させる方法に新鮮なものを感じましたが、
やや展開に均質性を欠き、そのぶん全体も不安定になって
詩趣が分散してしまった感があります。惜しい。
ただし良い詩行が歴然とある。
○
此処までがわたしで
彼処からをあなたとすると
あなたは夢をみるだけ夢から離れると云うことになります
○
あるいは、《最果てで微笑する永遠はたくさんの光をまとっている》。
夜明けとともに消えてしまう星には感慨がつきものですが、
その消失後にも光の残存を感じるというとき
見上げる瞳は祈りの相において永遠化している。
「あなた」の消失が永遠化するのではなく
のこされた「わたし」のほうが永遠化する。
詩篇全体に伏流しているのは、本当はそういう逆転ですね。
*
3885 : 暇 びんじょうかもめ ('09/10/21 21:27:55 *2)
これは出来の良いライトバースだ。
「水掛け論になる」という予想があって、それで「コップに水を汲む」。
時間変化のなかでそういう洒落た展開が最初っから呼び込まれ、
すぐに笑ってしまった。相手が「水鉄砲」を出す、で笑いが上乗せされる。
結局、水掛け論にはならず、時間だけが空費され、
そのときの「暇」をブックオフに売りに行くという畸想も素晴らしい。
そうして詩篇が第四聯で終わってしまえば短詩として完璧だったとおもう。
う〜ん、そのあとは蛇足なんじゃないか。幾ら最後にもう一度オチがあるにしても。
「そのあと」はトーンが変わってしまった。
それは普通の詩篇では欠点とならないが、
ライトバース的なものでは欠点となる――そんな気がします。
*
3850 : 光線〜RAY 熊尾英治 ('09/10/08 06:17:29)
同じ作者の、前月の詩境からは格段の進展がある。
これだから「文学極道」がおもしろい。
光の横溢によって、じつはそのなかにいる人間・物象は
冷たい物質性、疎外感、非親近感をあらわにする。
そのなかで、詩的主体の背後から「見知らぬ人」が近づき、
「花束を約束する」意外な進展が素晴らしい。
花束は渡されるのではなく、約束される点が見事。
遍満する光とは別次元の光を発する、冷たい花束なのではないか。
この詩篇では多くのひとが光のなか逆光に位置し、
無残にも輪郭をあらわにしている感触もある。
問題は最終聯。それをペーストする。
《あなた、人が黙っていたら石像みたいだと/あなたは笑っていたね/風雨に曝された身体は/軽くなっていくけれども/透き間風のようだね》。
最初の二行はすごく良い。「あなた」の重複など、見事な呼吸だ。
けれども光にたいして非親密性を逆証された身体の肌理が、
この段になり「風雨」により脆さも露呈してしまう。
それで身体のスポンジ状に「透き間風」が吹くという結論になるのだけれど
これはその前で描写された身体の無機質な感触とは別次元なのではないか。
展開がそうなったということでは僕は納得しない。
むしろ詩の物質的一貫性が壊れた点を、不用意だと論難したくなる。
短い詩篇ではそういう、水も漏らさぬ配慮が必要だとおもう。
惜しいなあ。あともうちょっとで、完璧な詩篇となっただろう。
*
3845 : 街 びんじょうかもめ ('09/10/06 20:41:44 *2)
いいフレーズと、そうでないフレーズが交互している不可思議な詩篇だなあ。
詩は、すべてが良いフレーズだと疲れるものだけど、
そういう意味でこの詩篇の細部が配慮されているわけでもなく、
やはり間歇的に生ずる不用意さによって、
詩の組成が凸凹になっているということです。
まずは他人には追随できないフレーズを掲げてみます。
《大人はお菓子になり/いつまでも子どもに食べられている//その分なにかを失っているけど/頭がわるいからどんどん失いたいね と言っては/窃盗が終わらない》。
ストリートの、恐るべき、しかも不遇な子どもたちの悲哀が、十全ににじみだす。
あるいはこちら。
《大人の体になった子どもたちは/たくさんの杉の木を切り落とし/年輪にスプレーをかける/ときどき一番賢い詩人の頭にも》。
ここでは成長の悲哀に、ちゃんと憤怒もともなわれている。
しかしその他の修辞が響かない。「詩人」の登場も、掲出箇所以外は安直です。
全体は、子どもたち(やがて成長するけれども)の街を主体に
ストリートライフの心情が描かれています。
そうそう、この詩、不要な部分を省くと、抒情的な音楽にも移し変えられるんじゃないか。
*
3868 : 葬列 如月 ('09/10/16 14:03:38)
これは解釈の難しい寓喩詩だ。
意図的だとおもうが、第一聯でとりわけ意味混乱が生じていて、
それにより全体がリカバリーできない。
通常はそれが構成の失敗と呼ばれるだろうが、なぜかこの詩篇には興味が湧く。
僕なりの解釈を書いてみよう。
「あなた」は何かの隊列に加わることで、「わたし」から離れるひととなった。
だから「わたし」はその隊列を葬列と呼ぶ。
しかしその確認には儀式めいたものが必要で、
それで「わたし」は浴槽の水で、「魚」を解き放った。
鱗には列状のものがあり、そこで「わたし」は「あなた」の現状を追える。
「あなた」の弱点は列に加わったこととともに、
その意思表示のひ弱さにもあった。
――というように読まれる「文脈」は、じつはさほど魅力的でない。
その文脈から離れ、聯を独立させて読んでみると
曖昧なゆえに美しい修辞に惹かれることになる。引用する。
《そこにあるのは、ただ/あなたのようなあなただった/冷たい体温を手のひらですくうと/たしかな/あなたが開かれてゆく/言葉は/いつだってやさしく/あなたの来た道に降り注いでいる》。
ここだけはフレーズが完璧だとおもう。
*
3880 : こんにゃくに関する二、三の考察 Canopus(角田寿星) ('09/10/20 22:53:54)
ライトバース。しかも尾籠で愉しい。
こんにゃくオナニー、カップラーメンオナニーをめぐる方法論の交換。
そのなかから悪ガキたちの空間共有性が湿り気なしに回顧されている。
どこかに光の横溢を感じる。一時代が終わった場所から到来する光だ。
詩に説話性があるとすると、それが爽やかなのがこの詩篇の美点。
そうそう、最終聯、結果的に学友の名前が列挙体になるのがじつは発明だった。
名をしめすことは鎮魂につうじる。そっか、だからそこからも光があふれだしたんだ。
*
3844 : スパイスは少しで足りたのに snowworks ('09/10/06 00:55:43)
これもライトバース。ただし語法に少しふくみがある。
田舎のオフクロが下宿に来てつくりおいたカレーをエサに、
ガールフレンドを呼ぶ。食後、「事」に及ぶ。
初めてのペッティングでもセックスでもなかろうに、
感慨が新鮮なのは、この作者に詩人気質があるからだ。
しかし彼は女に、人間特有の不定形をみる。以下のように。
《ゴソゴソと手探り/ぐっと引き寄せたなら/もう両腕の中にいる/硬さと柔らかさをもって/なんでこんなに人間なの》。
この次の一字下げの聯では、Jポップ的なものへの、作者の親和性をおもった。
最後の一聯で、「彼女」は始発ぐらいで帰ったとわかる。清潔な付き合いだ。
それと、これはすごい良い詩篇題名だ。
*
3840 : 卵 はかいし ('09/10/05 06:01:31)
粘性のつよい「雨」が運転中のフロントガラスへ降ってきて、
それが徐々に黄味を帯びてゆく。世界終末の気配。静謐、無人。
町中に、その奇妙な雨を受け止める盥めいたものがある。
傘もヘルメットもみな貯水型にさかしま。さかしまの世界なのだ。
やがてそれが、卵が割れ空から流れ出た黄身だと判明してゆく。
卵を描き、吉岡実の影響を感じさせないなんて稀有だ。
西東三鬼《広島や卵食ふ時口開く》。
導入部の雰囲気づくりが絶品。「映像的」とも簡単にいわれるだろう。
この異変はやがてこう説明される。
「だから言ったろ?雲の上には鳥が住んでいるんだって。」
卵料理に辟易して、みなが髑髏のような顔をしているというのも良い。
ただラストは、「ドラマ」に不要な女が出てきて、焦点というかフィニッシュが曇った。
さきほど引用した「鳥」へと、作品世界がさらに向かうべきだった。
とうぜん改訂の余地はある。下手をしたらアニメ原作として売れるかもしれない。
ただ、これが詩篇として書かれているかの判断は微妙だ。
僕は小説のフラグメントとして読んだ。「描写」もあるし。
そう、詩では基本的に、描写(対象世界の隣接的連続性が前提になる)ではなく、
言葉がただ物質的に隣接するだけだ。
対象の転写の時間化ではなく、音韻もふくめ言葉それ自体の現前が主体なのだ。
*
3859 : あなた、と、わたし 鈴屋 ('09/10/12 19:54:16)
「ポエム」かとおもうと「異調」が静かに仕込まれてゆき
展開を追う眼にゆるやかな緊張が走ってゆく。
窓外を翔ぶ「ボーイング767」の帰結が「あなた」への衝突で、
結果が《あなたの〔・・・〕瞳がふたつ、ななめ上にそろう》となったのには驚いた。
「葡萄の房」は、その型のブローチを
ジャン・ジュネ小説の人物「スティリターノ」が股間につけていたのが有名だろう。
それは隣接の幻惑として、スティリターノの睾丸の複数化幻想を喚んだ。
この詩篇では葡萄の房は、まず《お腹にしるされた葡萄色/サハリンそっくりの/ほそくてながい/痣》に変成する。
「サハリン」が良い――押井守の「択捉特区」のように佳い。
そのあと「変成」は一種の流産を迎える。このように――
《あなた、と、わたし/脚のつけ根にたばさむのは/ほんとうは、ベッドより/藁のむしろがふさわしい、東洋の/くすんだ性器》。
僕は詩篇最後が弱いとおもう。
それがなければ、「月間優秀賞候補」に掲げていただろう。
*
3851 : 翻訳 いかいか ('09/10/08 16:16:18 *2)
句読点なしに、文が切れ目なくつづいてゆく。
読者は句読点を補い、書かれたものを分節化・論脈化してゆくわけだが、
句点を選ぶか読点を選ぶかで、掛かり・構造がぶれる場合もある。
そこがまず面白い。
次に、平俗で乱暴な修辞が、詩性の高いくだりと混在しているのも面白い。
「君」をふくむ地上世界への憤怒は陰茎に集中をみて、
とうぜん最後は爆発(射精)へと導かれてゆく――ようにみえながら、
「ドカン、ドカン」と撃たれるのは結局「俺」なのだ。
題名は「翻訳」。「翻訳」とはこの場合、読解に付帯する必須作業だろう。
読むことはまずは分節化であり(第一の翻訳)、
詩性を俗性に縮減することであり(第二の翻訳)、
最後に予想を逆転させることである(第三の翻訳)――
作者はそうも示唆しようとしているのではないか。
テキスト論的な詩。そのようなメタ構造をここから感じる。
素晴らしいフレーズとしてはたとえば以下――
《蟹達が群れるサナトリムへようこそ山の上ではぼくらの知らない人々が未だに"灰"を病んだままベッドに寝そべっている陽光の当たらない場所へようこそ》。
自動記述も組み入れて沸騰する言語組成なのに、
自然に「空間」が伸長してゆくのがこの作者の美点だとおもう。
*
3863 : 進化 泉ムジ ('09/10/13 12:07:23)
対象としてあった魚が「大門氏」に侵入、「大門氏」の組成までもを魚に変えて
以後、「大門氏」は身の魚性の投擲を繰り返さざるをえなくなる。
題名からして、そういう強制が「進化」と捉えられているようだ。
発想も奇怪だが、それに釣り合うように詩法も奇怪で、うきうきしてしまった。
《数匹は殺せる、が、端から数が違う》――
このように「数の包囲」のあるのがこの詩篇の現代性だともおもう。
しかし結語はむしろやさしい「退化」の執着なのだった。そこが響く。
《ただ街灯の光が恋しい》。
ここにいたって、青いもの、光るもの、冷たいもの、多数なものへの
真剣な考察があったとも気づかされる。それらが「私」だ。
*
3856 : 鉄塔にて しゅう ('09/10/10 05:42:15)
世界の終末光景を妄想するのはおそらく現在の詩の常道だ。
ここでは高所にいる主体が、街の水没を無感慨に眺めている。
そのなかに突然のように鮮やかなくだりがある。一字下げになっている六聯だ。
《祝福のために、螺旋を描こう/高く飛べないけれど、種をまくよ/あなたがいつも、新しく湧きますように》。
ここでの「あなた」が唐突。それは未到来なものの予感・影にすぎない。
しかもその行く先すら詩篇内で潜行してしまう。
それが弱々しく再浮上するのが最終聯だろう。
《やがて雨が降る日まで、/寄り添っている》。補えばこうなる――
「やがて雨が降る日まで、/あなたが現れる予感と/寄り添っている。」。
ともあれこの最後には若干の衝撃がある。
街の水没は降雨とは無縁だった――そのことがわかるためだ。
ただし全体に、「改行」に甘さがある。
余韻と静謐をつくろうとして字数の少ない行のまま改行してしまうのは
一種、習癖に属するものだとおもう(「おばさん」の詩に多い)。
一行一行が独立して全体がスパーク構造になるよう心がけてみたらどうだろう。
*
3842 : 思考停止 葛西佑也 ('09/10/05 15:17:51)
夏が近づき、あるいは梅雨の湿気が極限に達すると
男性は自分の下腹部が意味なく破水する予感に囚われるとおもう。
なぜなら下腹とは一種の積乱雲だからで、それは熱に犯された筋肉なのだ。
そのように僕にも通じる感慨を
この詩篇は《六月は麻痺している》という断言でまとめる。
体内の水分比率が高まるのにそれが発語衝動と結びつかない身体の疎外。
それをいうのは構わないのだが、ただ疎外態詩篇の常で
詩的修辞の決定力がない。虚弱だ。それで詩篇も最後、腰砕けになった。
このような書きかたならもっと評価を下にしていいとおもわれるだろうが、
作者の自己身体の把握に良いものがあると考え、この欄に掲げた。
*
3834 : 雨宿り 丸山雅史 ('09/10/02 00:38:20 *2)
ものすごく古典的な風格のある作品だとおもう。
大雨に降り込められて、乗っていた自転車を橋の下に入れ、
しかも自転車には跨りつづけ、逆さ漕ぎをしながら雨の世界をみる。
寒さを紛らわすためだろう。
この逆さ漕ぎにすでに動きの膠着があり、
だから降り止まない雨のなかで
仮寓としての橋の下が「僕」の永劫幽閉地になりそうな気配もしている。
橋は川にかかるもので、眼前の川面が泥で濁り、水かさを刻々と増し、
「僕」は夕闇の逼塞によってもさらに追い詰められてゆく。
手柄は、体温を奪われた「僕」が頭髪からの水滴によって
不如意にも雨との同調・溶解を身体的に迫られているとしめす描写だ。
ただ、勇み足となった修辞があるのではないか。
《もうこれは僕の雨宿りの域を/超えてしまっている気がした》がそれ。
単純描写のなかで、唯一、メタ次元からの批評語がここでかぶさっている。
「域」のつかいかたもまずい。つまりこれはまったく不要な二行なのだ。
雨の世界の不安な質感が卓抜な語法で伝わってくるだけに惜しい。
*
3854 : Adieu Tristesse ともの ('09/10/09 22:24:41)
大型台風の到来予報でも、外出をしいられる「わたし」。
しかし地上には台風による小さな混乱があっても
大袈裟なカタストロフもなく、結局は肩透かしだった。
いや、哀しみをもとめる心が――ということは「平穏」が肩透かしにあったのだ。
「筆法」にまつわる修辞が、作者自らが撒き散らしたテマティスムとして散乱している。
とうぜん雨とはみえない筆で水を書くものなのだから、
外出する「わたし」も自分を羊皮紙にしてそこに何事かを書き加えなければならない。
そうでなければ「わたし」は雨に流される。
こうしてペンシルで眉が書かれ、ライナーで眼の輪郭が縁取られる。
このような配慮をみせた「わたし」は、雨中の外出でも温存された。
一方、雨の「線」にたいし自前の「線」で対応したものは混乱をしいられた。
線路、電車、ダイヤといったものがそれだ。
――とまあ、「さよなら、かなしみ」と題されたこの詩篇を、
局所を強調し圧縮紹介すれば、以上のようになるだろう。
こんな試みをしたのも、「筆法」に関わる修辞に、この詩篇の良さが集中しているためだ。
以下のように――
《一筆書きにした昨日に雨粒が積もり滲んだインクが進路を変えた。念入りに摺った墨で今朝を描いたのに雨が側溝に流してなくなった。》。
《書き順を間違えた線路が電車を迷わせる。揺らいで揺らいで酔うように。窓に無数の水滴、》。
《だから猛烈な台風もきっと来ない。/ わたしは習ったとおりに鋒先をまっすぐにし、ビルの壁に向かって思い切り、下手くそな楷書を書いて逮捕される。》
《史上最強の台風が来なかったのでわたしたちは煮こごりにすぎない鱶鰭を食べ熱すぎるお風呂に入った。秋の夜は一筆書きのように無理やりな潔さを誇っていた。》。
*
【その他注目】
3848 : 九官鳥 白い黒髪 ('09/10/08 00:08:01)
何事かを託され意味もわからずに隻語を繰り返す九官鳥。
その今わの際で、それがどんな言葉をわめくか、
それを聞き逃した体験の欠落を主題化することは圧倒的に正しい。
カフカの超短篇にでも同じ着想がありそうな気がする。
けれども、最後の一行でガタガタになってしまった。
《行の想い》《野生のミスマッチ》が不用意すぎるのです。惜しい。
*
3900 : 少年の記憶 木下 ('09/10/30 18:53:47)
わりと伝統的な現代詩の喩法がつかわれている。
たとえば谷川雁の発展軸に初期の大岡信を混ぜると
このような境地に到達することもできるだろう。
けれども所どころ詰めの甘い修辞が目立ち、総体が取れない。
一行一字にした箇所などがとても不味いとおもう。
このような破綻を呼び込んでしまうのは詩篇一個が長いためでもある。
一応、良いとおもったふたつの聯を抜いておこう。
《十月、飽和した浴槽の底を電車が抜けてゆく/私の横顔におちてくる車窓にも又、らんらんと並ぶ私の横顔/手探りで酸素を探している私にそっと/ラベルを貼った/それを洗礼と呼んだ》
《スカートの中にはいつも扇風機が捨ててあって/それを悪用する人たちもある/喧騒は風に流され今日も/人がカーテンに翻弄される/街ではかみかくしが増えていた》
*
3878 : 風染め 深田 ('09/10/20 11:16:53)
一行一行の立脚がバラバラ。それでポリフォニーがたしかに実現されている。
文体はちがうが、現代詩壇なら廿楽順治に通じるものがある。
で、その廿楽さんとの比較でいうと、この詩篇にないものが凶暴なユーモア。
《指からしかし虹だ!》には主体の統御不能性が端的に出ている。
その反面、自動記述的なものに詩行進行を頼りすぎていないか。
ただしこのひとの語彙の豊富さはやがて何かを達成しそうな気配がある。
《そこかしこで追悼の砲を撃てよ/町中には/お前、/どうせ体温が結ばれるから/幌か有翅類/音の震へ/回転賑やかな花火もいい》
*
3898 : やわらかなもの はなび ('09/10/30 15:02:18)
列挙体。やさしい詩想。はなびさんが女性だと確信していうと
清少納言の女性的試みを現代詩でやっているとおもうし、
男性でいうなら
「私の好きなもの」を列挙したロラン・バルト(『彼自身によるロラン・バルト』)
のことも少し頭を掠めた。
「やわらかなもの」を列挙し、徐々にその分類の枠をゆらしていって
最終的に「やわらかでないもの」まで含みこめば、
それはボルヘス的な分類学ともなる。途中まではそういうものも期待した。
つまり「やわらかなもの」に「ねむりくすり」が参入するのには可能性があるのです。
ところが最終聯ですべてが「ねむり」に収斂してしまい、な〜んだ、という失望になる。
それと、じつはそれを呼び込んだのが、
その前の聯、場合分けされた「キス」の安直な列挙だとも気づきました。
「展開」にたいし、まだまだ論理的にリアルになれるとおもいます。
*
3896 : 風 田中智章 ('09/10/30 00:39:34)
かなり年長のかたの詩作だろうか。言葉の運びに落ち着きを感じる。
また「涸川」というテーマもたとえば稲川方人の初期詩篇に通じるものがある。
出だしは「オッ」と期待した。言葉の省きが清潔だったので。
ところが「つまり」「そう」の説明調/念押しで音韻が崩れてしまった。
そうして中途がガタガタになって、ラストもフィニッシュが不可能になった。
時の進行の無残。そのなかに自身の生を感じること。
このような普遍的なテーマであるがゆえに、着想にはもっと鮮やかな個人性がほしい。
ラスト、消えた川から「風」に視界が移るのだけど、
その視界は最終行のみ。それまでは川とか「木の孫」が主題だった。
だから詩篇タイトル「風」にも無理があるんじゃないかな。
それは、修辞の勝負箇所と作者自らが設定したラストが、
浮いてみえるから、ともいえます。
*
3881 : spangle ひろかわ文緒 ('09/10/21 04:55:07)
第一聯ではかなり複雑な文体がもちいられています。
連用形連鎖の多い詩行は他の行に半分干渉するように中間的に浮かびあがっていって
その先を読ませるうちに読み手の時間がやさしく進んでゆく。
ただしこのような文法によって詩行のひとつひとつに「解決」がなく、
結果、すべてが中間的浮かびのなかで曖昧に放置される弊も感じました。
最終聯、「天の川」への透徹したヴィジョンが素晴らしいのですが、
結論的にいうと、各聯の関連が僕にははっきりしなかった。
好きなフレーズ。《わたしはとうに/躯の多くを棄てて/のぞむものたちの元へと/渡したから》。
*
3892 : ほらばなし ぱぱぱ・ららら ('09/10/27 13:13:37)
道行く者に「約束の場所」を訊かれるのは発端として正しい。
そのプロミスト・ランドが「映画」に関係する場所なのも。
ただし意志は疎通しない。「僕」に真率さが欠けていたためだ。
となって、去ってゆく相手の老人には悲哀が乗せられる。
また罰のようにホームに待つ僕に電車が到来しないのも、
遅延の原因が動物園から逃走したカンガルーを電車が轢いたためとするのも良い。
そこではカンガルーと老人の不思議な照応も起こるから。
それなのに、この詩篇は根本が駄目だ。
ひとつは不用意に、主体に到来する者を「白痴のおじいさん」と呼んでしまったからだ。
それは、説話の興味の前に、作者の対象評価が露出してしまった失態ととれる。
さらには詩篇題。「ほらばなし」とは一体、詩篇のどの箇所を括っているのだろうか。
全体? ――だとしたら読者はまったくの「無駄」を読まされたことにもなる。
*
3888 : 魚 はかいし ('09/10/22 14:41:11)
「われわれ」「僕たち」などを主語にした詩篇では空間時間に厚みができる。
「われわれ」という用語の押し付けがましさに、現在では論難が集中しているけれども。
この詩篇では、「僕たち」が発し、「僕たち」を投影する場所に「魚」が置かれ、
魚の骨が、魚の目玉が、「僕たち」の不如意を明かしてゆく構造になっている。
しかも魚がいると感じられる場所は空。この着想は素晴らしいとおもいつつも、
どうもその魚の修辞にいまひとつ驚きや魅力がないのではないか。惜しい。
詩篇の結論部分を抜いておこう。
《剥がれ落ちて地面に貼り着いた空に/無数の魚くさい目玉がぼんやりと浮かんでいる/そういえばこんな感じだったなあ/魚の骨が呟いて/自分の皮肉を空の瓦礫の中から探すんだ/ああ/僕たちはこんなところにいる》。
*
3855 : 出立 DNA ('09/10/09 23:24:04)
一字空白のある散文体の聯と
そうでない、通常の行分け聯が混在している。
じつは最初の聯にギョッとした。
《あ いたがえたゆ びを配る》を「相違えた指を配る」と最初読めず、
出来上がった詩篇にシャッフルがかけられた二次性の詩と捉えたためだ。
まあ誤解は解けた。ともあれこの一字空白は音律の脱臼を狙っている。
しかし、個人的には現代詩の難解詩法に傾斜しているこういう詩篇は
「文学極道」には要らないとおもう。ここでは正常な詩の復権が願われているからだ。
一応、主題読解をすれば、
火、脱皮、羽化――それらをつうじ「ぼくたち子供」の変成が希求されている。
結像を阻んでゆく修辞が達者だとおもう。
引っかからなかった2、3、5聯なら出来も良い。
ただ前言したように、この作者の詩作への構えを、僕は納得できないでいる。
*
3862 : crabe en octobre 十月の蟹 はなび ('09/10/13 09:23:08)
モダニズム詩と立脚が似ているとおもう。
語の構文内の意外性のとりあわせによって短句をつくる。
その短句を隙間だらけに並列させ詩の時空をさらにつくりあげてゆく。
このような事例は安西冬衛などにあるが、
どこかで現在的な風が詩の空間を吹き抜けていて、僕は個人的には好きだ。
題名の由来となった《茫々とした美しい蟹が/さわさわと鳴る》などは
美しいフレーズだし、そのすこし後の、
《咀嚼された海燕のスウプが/大海へ流れ込む》も同断だ。
さて全体性の読解。自信があるわけではないが、
「シガレット」という足穂的な小道具があっても、
詩篇中「パリ」の一語があるゆえに、詩篇全体にパリの光景や、
そこに佇む異邦人意識を感じる。
「植物を象った刺青」などはパリにのこるアールヌーボー意匠の描写ではないか。
良い聯と惜しい聯が混在していると感じたため、この欄に置いたが、
最後の二聯の喚起力などは注意に値する。ペーストしよう。
《シフォンの羽の粉砕/10月の呼気//地下鉄が乾いた音を立てはじめると/わたしは目を閉じる/男の背中にてのひらをあてる/嚥下運動のゆくえに耳をすます》。
ここでは異邦人が恋を得た、という読解も成立するとおもう。
*
3872 : 青いクジラ ミドリ ('09/10/17 23:41:32)
追憶詩、しかも捏造的な。その捏造性を気取らせないため、
殊更に明白な文体が選ばれている気配がある。
浜に打ち上げられた鯨は、海からの収穫のようにみえて
死に瀕し、「青い」。その異常をみせるために
「ぼく」が「メイちゃん」を自転車に乗せ、浜に運んだとすれば
その動機もまさにエロス衝動にあったはずだ。
ところがその衝動への構えがふたりのあいだでズレたということなのだろう。
ハンドルネーム「ミドリ」が女性を指示しているとするなら、
「ぼく」が向かう対象の位置=「メイちゃん」に、
作者の本当がはめ込まれていることになるが、ここは早計な判断ができない。
ただその「気配」にもエロチックなものを感じる。
さて、詩篇のハイライトは以下の聯だ。
《ぼくの/青いクジラ/メイちゃんの/青いクジラは/あのカーブの入り口で/永遠の別れを/告げていった》。
喩的修辞がつかわれているが、ここから直截性が除外されたのが実は惜しいのではないか。
「引き返せ」という「メイちゃん」の依願を「ぼく」は聞かず、
カーブの下り坂をブレーキすらかけない。
勢いあまって後部座席の「メイちゃん」が宙に飛んだのか――わからない。
ここでは「カーブ」という美しい言葉のちかくを「永遠」の語がとりまいているだけ。
僕自身はすごく複雑な事後性余韻を生じる書法だとおもうが、
詩篇の着地点としては、もっと何か別な書きかたがあるような気もする。
*
3864 : School Girl 先照 深夜 ('09/10/15 01:11:49)
これは妄想詩。しかも妄想の反転が、自罰として自覚的に書かれてもいる。
おバカ「スクールガール」をみて、「命短し恋せよ乙女」ではないけど、
カネのためにするその初めての性愛を妄想する。
「こんなに大きいの初めて」――しかしそれは主体との経験でなく、
ビデオ(DVD)上の体験だったとオチが来る。
発想が不潔かというとそうではない。性愛が「落下」と正しく捉えられているためだ。
しかし、それだけ。
*
3860 : 過失 草野大悟 ('09/10/12 22:44:54)
ふんわりとして決定性のない修辞によって、
読者にはたぶん言い当てることの難しい感慨がここに繰り広げられている
(詩篇ラストはこのように考え、突き放すべきだろう)。
部分的には語尾が糖衣されていて、その気持悪さも狙われている。
けれどこの詩篇の第四聯がじつに素晴らしい。長くなるがその全体を引用。
《雲をシェイクしても もうなんにも出てこないよ 分かってると思うけど/だからといって それで全部がおしまいになるわけじゃないよ/馬鹿はエ ライを着てるから/どうしようもなく馬鹿だけれど/アフリカの蟻塚や アメリカのシリコンバレーは/やはり やっぱりなそうなんだ/そう思わせるに十分な 過失がある》。
「馬鹿」がまとう威厳と、アフリカの蟻塚、アメリカのシリコンバレーの形状は
すべて「過失」として同列に置かれる。「世界」はそのようなもので層化している。
だからそれは、何らかの「事後」なのだ。
これは「過失」についての卓抜な詩的考察ではないだろうか。
僕ならば、この考察だけで、一篇の詩を捏造するのだけれどなあ。
*
3830 : 終わる世界 mei ('09/10/01 09:12:35)
この詩篇の長さは無効だ。視点のブレしか印象させないからだ。
じじつ終わりに近づくと、どんどんぼやけて甘い聯が混在してくる。
ただしなぜか「アマリリス」に言及したいくつかの細部に
静かな衝撃力があった。以下、列挙――
《ようすいに集まった子供は暗くなるまえに家に帰る/こころのかたち、人のかたち、/雪を知らないアマリリスを神さまと見間違えたと知らずに何人かは/海のなかに沈んでしまう》。
《子供たち、/沈んでしまった子供たちは知っていた、/見間違えた神さまを追いかけていたことを/わたし、/忘れてはならない/アマリリスは沈んでゆく子供に言葉を渡していたことを、/夜の霧で見えなくなった神さまのことを、》。
「子供たち」「アマリリス」「神さま」の不可思議な「三位一体」で
詩想がまとめられるべきだったかもしれない。
*
3835 : さよならヘンドリック ミドリ ('09/10/02 02:07:31)
ミドリさんの「ヘンドリック」シリーズを確かめていないが、
この詩篇だけを虚心坦懐に読むと、
かつてのホモセクシュアルの相手を裏切り、
女性と結婚生活を営んでしまった男の、悔恨の詩と読める。
ダンボールに満載されていたTシャツの幻像は「人生の夏」を表徴している。
それらが化合し、たしかに情の普遍性が到来している。読み違えかもしれないが。
*
3833 : 水中庭園 DNA ('09/10/02 00:36:49)
一行が収束したとおもったら
次の行に付属がくわわり、さらに構文が複雑化、
結局、当該の一行が中間体として浮遊してしまう(事後的に)。
そんな改行詩のひとつの面白さに気づいたばかりの作品、という気がしました。
第一聯、《園芸部でも/ないわたくしが/やつれたビニルホース/でぶっぱなした冷水を/ひと月おくれて/のみ干し/てゆく/あの、向日葵が/憎い》。
意味や時間が屈折すればするほど、この詩法の詩では効果が出る。
当然それは圧縮畸形をも呼び込む。だから「ビニルホース」の書きかただ。
掲出箇所では「ひと月おくれて」がすごく良いのだけど、
「わたくし」の成長停止(圧縮)にたいし「向日葵」の伸び放題が「憎い」という
「意味の補助線」が引けても、
やはり「憎い」という感情にうまく同調できない気がします。
それと題名の「水中庭園」には描かれた詩世界そのものが行き着いていない。
掲出部については、ちょっと似た詩世界が日本のインディ音楽にあったなあ。
シスター・ポールという、男女混成、2ピースのパンクバンドです。
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【落選】
3899 : 誰何 古月 ('09/10/30 17:44:46)
不要に漢字が多用された、
いわば塚本邦雄の小説に通じるような古色美文体。
描写により空間が移ってゆくが、これを詩として遇する必要はないとおもった。
別の媒体に投稿したほうがいいのではないか。
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3866 : 鑑賞 常悟郎 ('09/10/15 17:18:18)
3876 : (考) 花鳥風月 常悟郎 ('09/10/19 20:47:44)
先の投稿にかんしては言葉の運びに緊張をあたえ
後の投稿にかんしては詩語を放逐してください。それだけ。
この段階から「詩」に達するには、相当数の階梯を昇る必要がありますね
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3889 : 明日も雪景色ね ヨルノテガム ('09/10/23 02:07:03)
AのBのCのDのEの・・・という詩法(詩文体)は
西脇順三郎『失われた時』のコーダ部分、
次いで那珂太郎の『音楽』にあるが、
その「の」は所有格ではなく一種の接着剤。
それによってABCDEが相互溶融的に加算され
微妙な中間色の複合体が刻々できてゆく。
西脇や那珂においてこの破格の詩文法を成立させていたのが音韻。
実際は音韻によって像が溶け合うのです。
ということでいうと、この詩篇は「の」を多用しつつ
音韻が悪すぎるという見逃せない弱点があります。
それとこういう詩は、論評者の詩的教養を測っているようで厭です。
そういえば詩のなかに雪が降っているようにもみえない。
白さも寒さも欠落しています。
西東三鬼の一句、《われら滅びつつあり雪は天に満つ》。
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3894 : 走る ゆま ('09/10/29 21:51:47 *1)
雰囲気で「詩らしきもの」が書かれているとおもう。
けれども詩的修辞は語のレベルにおいて具体的、
詩の組成も終始、物質的なものなのです。しかしここには「空気」しかない。
ただ惜しい面はある。それまでの砂の主題とは結びついていないけど、ラストがそれ。
《トンボかける秋の空の下/走り出した右足を追って/左足が追い抜かしてく》。
そういえばゴダール『女と男いる舗道』で娼婦となったアンナ・カリーナは
歩くときなぜ片足がもう片方の足を追い抜かすのだろうという根源不安に陥り、
それで結局は横死に導かれる(逃走のタイミングを逸するのです)。
この箇所ではそれも少しおもいだした。ただしずっと明るい。そこが良いのです。
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3853 : 闇に溶ける 時渡友音 ('09/10/09 22:02:02)
「わからない」とおもった、正直。
対象が黒猫、子供たち、男女、私(の小石の出産)と移ってゆくのだけど、
対象移行のまえに「解決」がないので、
空間が広がってゆく、という感じにもならない。
ただしすごく良い一連があった点、特記しても良い。以下。
《乱反射する色に撃たれた子どもたちは/うまく家に帰れない/五時のサイレン/帰り道が燃えていく/家には明かりがともらない》。
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3827 : 暗い空 熊尾英治 ('09/10/01 00:17:17)
同じ作者の「光線 〜RAY」と比較するとこっちは詩想も修辞も曖昧。
論評もできないほどに曖昧で、すごく残念です。
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3875 : メルヘン 凪葉 ('09/10/19 12:41:50)
空に感知できるものと「わたし」との差異。
それが身体的に受け止められ、それなりにイメージ展開もするのだけど
「わたし」に信頼が置かれすぎている。
ありがちな自己愛の形跡が濃く、読み手がはじかれるのだ。
それと修辞のひとつひとつに決定性がない。
そのような詩篇に「メルヘン」と題名がつけられてしまう。
これってじつは無残なことではないだろうか。
この水準で詩作が信じられてしまうこと、それはまずい。
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3841 : 無題 凪葉 ('09/10/05 12:41:45)
相変わらず、「わたし」をめぐる疎外詩篇。
詩想がヤワだから修辞も決定性を帯びず、ただ雰囲気が書かれるだけ。
だから詩篇題名も「無題」なのだ。
こういう主題・書きかたから一旦離れてみる時期が来ているのではないか。
惰性で書いてもしょうがない。
モチベーションを掴むことだ。掴めないなら書かないことだ。
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3869 : 初秋 古月 ('09/10/16 21:50:43)
作者のセルフ書き込みで、横溝正史が言及対象だと明かされた。
つまり作者が「三階階段」(ヘンな修辞)に立って
その小説細部の土着性と怪奇運動を回想していると腑に落ちる。
しかし「それだけ」ではないだろうか。
出典が明示されないと全体が把握できない詩は自立的ではない。
それとこの詩篇の修辞の型が、僕には辛い。
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3837 : おとずれる時 soft_machine ('09/10/02 15:03:24)
時の無常をみつめるという詩想なのだが、
詩想の安定性ゆえに響かない作品と映った。
「今日の更新」「今日の復帰」に意識が集中している点は現在的なのだが、
やはり着想がコンサバなのではないか。
《全ての物には/時が訪れる//花に雨が降る/雨が花になる》、
こういう部分には日本的象徴詩、その短詩の影響も感じたが。
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3852 : 吸殻 さかいだに はる ('09/10/09 19:17:28)
煙草を擬人化・主体化しただけの寓意詩。
それなりのディテールも書き込まれているが、
現在の詩が、このような素朴さだけで立ち上がるとはおもえない。
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3836 : 巡礼 やまやぎ ('09/10/02 12:29:43)
「君の○○だ」と○○の代入をかえて畳み掛けるところのリズム感覚には
たしかに瞠目したのだが、
結局は「帰還の安穏」が語られる詩だと判明、がっかりした。
「君」の住む街に決死で向かう主体を描いた抒情詩こそを期待したのだった。
発想がこれまた素朴だなあ(それと最終聯、とつぜん出現する「僕」とは何なのか)。
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