文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

12月月間選評

2013-01-10 (木) 21:08 by 文学極道スタッフ

12月の月間選評です。

選評は、文学極道のスタッフが選んだ月間優良作品につけるのではなく、
浅井康浩が、選んだ作品について付けています

で、前提となる話なんですが、投稿された作品に対して「作家主義」の読み方はとっていません。つまり、作品の説明が、作品を生みだした側に求められるものではない、ということです。もうすこしいうと、
生身の「作者」と、作品を読む過程で読み手の中に作り出された「作者像」、そして、作品の中の「発話者」、そして作品である「テクスト」
これらはすべて別のものであるということです。

もうすこしいうと、どれだけひどい「テクスト」でも「生身の作者」は素晴らしいかもしれないし、「テクスト」が傑作であっても「生身の作者」はクズかもしれない。
ここでの選評は、「生身の作者」「作者像」については扱わず、
「テクスト」「発話者」だけに限定して行うよう心がけています

この選評に対してなにかご意見があれば、浅井康浩までプライベートメールをしてくるか
浅井のメアドにご意見ください。
rsb87919@nifty.com

月間の優良作品選考にスタッフは関わっていますが、選評には浅井以外のスタッフは加わっておりません。

加えて、「最低劣ポエム」の選考も浅井一人の判断で行っています。
選考の根拠は、トップページにある『あまりにも低レベルな作品や荒しまがいの書き込みは問答無用で削除されたり、 「月間最低劣ポエム」 として晒し上げられたりする可能性があります。 』という枠組みを使用しています。

【優良】

Matria                紅月
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6574

【次点】

星が見えない            hahen
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6531

【月間最低劣ポエム】

九十九折れ            ほかけ
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6559

Dead Flower             黒髪
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6540

DEATH                 无
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6535

バトンタッチ           謝染はかなし
bungoku.jp/ebbs/20121207_179_6533p

特攻船               謝染はかなし 
bungoku.jp/ebbs/20121226_557_6575p

【月間低劣ポエム】

何も言わずに居て欲しい        異邦人

高地的戯言         こひもともひこ

星の名のポッケット         GENKOU

電車に捧げる鎮魂歌         異邦人

(無題)               rabby

点                 泪

大都会病棟ヤス男         ちーちゃん

Good Luck?Good Drug?     森田拓也

鎌鼬                箱舟

万年筆            れたすたれす

以下、選評です。

【優良】
Matria                紅月
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6574

この物語は、「語り手/かたりて」をめぐるものがたりとなるだろう
>語り手、(を、抱きかねる、かたりて、
あるいは、母の自殺の「権利」を、あるいは母の骨格を法体系から擁護する物語としても。
そして、「正義/法」をめぐる物語として。

率直な疑問が二つある。
第一に、なぜ、「包含される/包含する」といった対立項を延々と設定する必要があるのか、あるいは階層秩序的二項対立といってもいい。

>語り手、(を、抱きかねる、かたりて、
>次々に身を投げる鳥ではないとりたち
>がらんどうの記号たちの比喩、あるいは胎盤のなかで、がらんどうのきごうたちが豪雨している
>ただ凍えている、凍えてすらいない、
>母は抱かれている、より大きなははの遺言に抱かれている、
>彼女の病理は、より大きな病理に蝕まれ

そして、第二に、なぜこれほど長くならねばならないのか

この二つの疑問をめぐって物語は進展するだろう

簡潔にいきたい

二項対立を設定するのは、「暴力」を明らかにするためだろう。

>母は抱かれている、より大きなははの遺言に抱かれている

というように、母の骨格(存在)/遺言(法体系)という、二項対立がまずある

この二項対立は、「自殺した母」と「法」というものを現わす。
ここでは法体系=暴力という設定がなされている

自殺することは正しくない、という普遍的で正しい「法」の「力/暴力」が確立された時点で、消し去られることになる「自殺する側の論理」を擁護するために、「私」が、その「力/暴力」そのものを明るみにしようという試みが、この作品のテーマとなる

それは、「法」の「正しさ」が下記のように書かれる中で、

>あやまちなどひとつもなく、おそろしい精度でどこまでも正しく列べられたタイル、
>より大きなまちのなかに遍在する、正しく遍在する、

「法」の「正しさ」の前で、消し去られるものを記憶しようとする「私」は

>(それら破片を、(繋ぎあわせ、(元のかたちに(戻そうとする私

母の存在とともに弱弱しいもの、あるいは正しさの前に抹消されるべき存在と等価である

法体系の「力/暴力」のなかに包含されながらも、二項対立的な構造を維持しつつ、それを反転させるのでなく、一方を否定するのでもない、というスタンスは、
第二の疑問である、なぜこのように長くなければならないのか、という疑問を解消する

それは、「包含される/包含する」という、テクストの中では二項対立として示されるほかない構造、その二項対立の境界線が、じつは曖昧な、あるいは変更が可能であるのだということを、みずからの身体の実践をもって、「法=暴力」の発動される境界線の位置に「異議申し立て」をしながら、修正してゆく事態が必要だからだ。

だからこそ、「私」は、どの段落においても「法」の「暴力」にさらされながらも、「暴力」という「判例」を身体に刻みこみながらも、その自らに下される「法」の「解釈」をたえず、

>それら破片を、(繋ぎあわせ、

修正しようとしてゆく。

「私」のその実践は何によって支えられているのか。それは、

法/権利は本質的に脱構築可能である。法/権利が基礎づけされているから,つまり解釈し変革することの可能なさまざまなテクスト層をもとにして構築されているからという理由で
(「法の力」デリダ)

という言葉によって。
だからこそ、そのプロセスがいかなるものになろうとも、長くなること=法の解釈をたえず修正し、「判例」を築き上げてゆくことが、たいせつなものとなる。

そして「私」は、どこへ向かって境界線を「修正」しようというのか。
おそらくは到達不可能な「正義」の方向へ。

正義それ自体はというと,もしそのようなものが現実に存在するならば,法/権利
の外または法/権利のかなたにあり,そのために脱構築しえない。
(「法の力」デリダ)

という言葉に沿って。

【次点】
星が見えない            hahen
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6531

簡潔に書いておく
このような、「私」⇔「天体」が直接的にリンクしている構造は安易に「セカイ系」に回収されてしまう危険性があるし、だからこそ

>脳で発生した腫瘍に眠らされている彼が、尋常じゃないほどの大きな鼾をかきながら、夢らしきものを見ているのかどうか、

>十年付き合ったあいつが、トラックに撥ね飛ばされる前、リペアから返って来たストラトで最後に、掻き鳴らしたのがBフラットだったから、

>マールボロの匂いと一杯のウォッカを、一晩の睡眠に代用する彼女が、何故、眠らないのか少しだけわかる気がしたから、

それぞれに「わかる気がした」「痛み」の瞬間を、「安全にイタイ」瞬間に堕してしまわない為の、工夫が作中に必要となる。

例えば、この作品にハーヴェイの「都市と社会的不均衡」の考え方を織り込んでみたりすると、ぐっとスマートになると思う。
この本についての簡潔な解説がなかったので、
10plus1.jp/monthly/2011/07/kato.php
の中盤あたりを参照。抽象的すぎるけど。

つまり、社会の具体的なありようは、人為的につくられた環境によって運命づけられる、というもので、人間の行動パターンは、都市の構造いかんによって左右されしまい、都市配置によっては、都市機能がうまく調整されないことがある。そして結果、都市の構造そのものが社会的格差、社会的不正義を生みだすことになる、というもの。
つまり、無機質に見える都市構造というもののなかに、「権力」がひそんでいることを明らかにしてくれる。

この作品でも、「私」⇔「天体」と直接的に繋がっているけれど、「私」は
>真昼の陽射しが差し込む部屋は冬でも暑い。
というように、ビル群の一室に閉じこめられている。そして、この作品の軸となる天体との関係をつくる上で、「私」の身体的移行プロセスは、部屋→屋上への垂直的な移行でしかない。
つまり、都市と空間が構成されている、「点」「線」「面」「立体」という配置上、
「点」「線」という次元でしか活動しえていないのであり、「だからこそ」わたしは「私⇔天体」というプロセスにアクセスできる、という逆説が生まれるのかもしれない。

だが、「私」に「私⇔天体」という「息苦しい」関係を強いている「権力」をあぶり出す努力が作品でなされない限り、「私」は「安全にイタイ」瞬間を生きてしまうことになるだろう。

【月間最低劣ポエム】

九十九折れ            ほかけ
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6559

この作品は、「天城越え」的な文脈から読まれることになるだろうけれど、
反転させ、「あなた」の側から読むことも可能である

そこで現われてくるのは、対話的に関わることのできない「私」の弱さだけとなる

つづら折りを登る、というプロセスは、ある場所から、ある場所への舞台の移動をしめしている
ここでは
>あなたと歩き 来た道は / 遠くて長い迷い道
という「日常」の場所から
>「頂上」であり 視界がワッ、と広がって / 雲のわたがし 連なる山々
という「非日常」の空間への移動である

そして基本的には、「日常」が「迷い道」なのに対して、「頂上」への道は
>米粒みたいなあなたを見つめ
というように、道筋は決まっている

階段を、あるいは坂道をあるくプロセスについての可能性について見てみよう

建物の主要構成要素である土地、壁、屋根というものは、居をかまえたり根付いたりという、どちらかといえば安定性、不変性を表わす概念を想起させる
階段という要素は逆に、移動や可動性といったものを暗示する
階段があるおかげで、空間や、雰囲気や、日常のリズムを変えることができる
階段とは、人間の身体全体が特定の場所に行くという明確な目的を持って運動を行う場、つまり移行と通過の場であるということだ
階段の存在のなかには、ためらいや足踏みを追い払って、運動を誘いかけるダイナミックな性格が潜んでいる

(「階段―空間のメタモルフォーゼ」 エヴリーヌ ペレ=クリスタン)

登る、というプロセスの中で発生する「日常→非日常」への移行プロセスがあらかじめこの文章の中では排除されている
登ることにより日常の「迷い道」より脱してゆく過程
>ためらいや足踏みを追い払って、運動を誘いかけるダイナミックな性格が潜んでいる
そのものが抜け落ちている事。またはあなたと互いに登るプロセスを共有することで、
対話的に日常的な自分が薄まってゆくのでない、ということがこの作品の中核となっている
つづら折りという難所を登るプロセスの困難さは、互いの対話的プロセスの契機となるのではなく、それは
>やがてしゃがんでしまいます
というような運動しか促すことはない

それは、日常において不可能となった「あなた/私」の硬直した関係性の解体を
非日常への移行の途上に対話的プロセスをはさむことで成し遂げてゆくのではなく
> 「おい、」
という声を「私」にかけてくれることで一気に「迷い道」から
> ふいに、風  振り向けば 視界がワッ、と広がって
というように反転してしまう「私」と「あなた」との関係性、つまり
登るというプロセスを経ることで可能であったかもしれないもうひとりの他者の立場を受け入れながら(「あなた」こそ、登るというプロセスを継起として「私」となんらかの関係を構築したい、とかんがえていたかもしれないのだから」)対話的に関わることができたのか、という「非日常」の論理を放棄し、
私が登ることに身体的な苦しみを感じれば感じるほどに、あなたは声を、あるいは手をさしださなければならない、という「日常」の論理が優先され、それが逆説的に「あなた」にとっての「私」がいることの価値を、「私」こそが「あなた」に声をかけられるに値する者だ、ということを再確認するにすぎないひとりよがりの工程へと変質させてしまう。
「あなた」の側から「私」をながめてみること。そうすれば、げんなりするほどの「私」の浅はかさが垣間見えてくるだろう。

【月間最低劣ポエム】
DEATH                 无
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6535
「死」という概念については、多様すぎてどこから手をつけたらいいかわかりませんが、
ここに書かれている「死」の概念が、「それが、死だ」と名指せるには、極めて狭い範囲内(時代的にも、空間的にも)であることは、いうまでもないでしょう。

「死」をテーマにした作品を書く前提として、人と社会にとって「死」というものが変化するものであるということ、そして、あらかじめ「それが、死だ」と了解されている事項に対しての関わりも時代とともに変化していることを理解していることが必要となります

そして、その描写された「時代」と「社会」の了解事項をつきぬける形での「死」を提示しながら、なおかつ、それを各年代の「死」の様相(バロック期における死の充満/ルネサンス期における亡霊からの脱却など)と相対的に照らしあわせたうえで、どう新しい「死」の概念が示せるのか、という自己点検が甘いと、どうしてもひとりよがりなだけの作品になるように思います

アリエスは、「死」の概念の社会的な変遷の決定要因を
縦軸として、共同体への帰属、社会による正当化、死後の生信仰、悪しき時 
横軸として、飼いならされた死、己の死、遠くて近い死、汝の死、タブー視される死
として挙げ、この二つの相互の関係によって変化していくという図式を示しました

横臥像の時代一一一一一一一一一一一〉野性化した死
飼いならされた死一一〉己の死一→遠くて近い死→汝の死一一→ タブー視される死
登場時期一一一一一一>12世紀一16世紀一一  ・18世紀一→  20世紀
ゞζ餌里悗竜属一一〉個人の台頭一一一一一一一今家族の重視→専門職による主導
⊆匆颪砲茲訐掬化一一一一一一一一〉死の野性化一一一一一一〉伝統的防衛の崩壊
死後の生信仰一一死後関心一一一一一一一一一再会の場一一〉死後関心の衰退
ぐしき時                  死の美化一一〉恥の感覚の発生

そして、その変化を

死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないものとする昔の態度(飼いならされた死)は、死がひどく恐ろしいもので、その名をあえて口にすることもさしひかえるようになっているわれわれの態度(タブー視される死)とは、あまりにも反対です

といっています

本作品において、
>電車に飛び込みゃ舌打ちされる
という箇所は、時代が限定されますが、それ以外については、12世紀以前にも当てはまるものであり、特別、いいたてることでもありません。
「死」について列挙するのはまったくかまいませんが、それが時代的な制約(タブー視される死)を捉えきれていないならば、あえて断片として列挙するまでもありません。

「タブー視される死」の時代を生きている「俺」が、なんらその時代の特質である「死」の様相を示す断片をしめすことなく、漠然としたイメージを語って「それが、死だ」と書いてあっては、「死」は捉えることはできない。

時代的、空間的、社会的な制約を見極めたうえで、「現代の死」の要因をどのように反転させた「死」を書くのか、いちばん簡単なやり方としては、断片として「タブー視される死」の時代の様相をかたりつつ、その総体として、その時代的特質をはみだすような作品を書くこと、そのことが求められていると思います

【月間最低劣ポエム】
Dead Flower             黒髪
bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6540

「習作以上の価値はないと思います。」
作者の今後に期待します。

【月間最低劣ポエム】
特攻船            謝染はかなし

レフ氏のレスが秀逸。
「具体的に何を意味しているのか」ということを(コメント欄ではなく)作品の内部において呈示せぬまま、あっけもなく簡単に終わらせてしまう隠喩にベッタベタにまみれた無名の詩人によるパズル的な作品を読み通すことに、果たしてどれほどの愉悦と歓喜と説得と納得と要求と要請がともなうのであろうか?

【月間最低劣ポエム】
バトンタッチ         謝染はかなし

アイディアにオリジナリティがない

【月間低劣ポエム】

何も言わずに居て欲しい       異邦人

「僕」は、冒頭で「現実世界/嘘の世界」を提示し、そののちに「現実→エデンの園」という言葉を書いているが、この二重の世界観の決定的な移行プロセスの要請が

>その優しさを絶対に裏切らない
>清く美しく生きよう

という僕の側に引き寄せられている点が、テクストの「二重性のゆれ」を産出せず、

>それだけなのにどうして冷たい雨が
>僕たちの歩むべき道を塞いでしまうのか

という「不可解な事態」を、読み手にとって「幻想的な=エデン的な」世界観の現われるトリガーとしての性質をうしなわせてしまっている

高地的戯言         こひもともひこ

この作品の基底としてある「社会的自己実現に拠らない承認への渇望」は、90年代にあらかた出尽くしており、現在において流通させるには、90年代の「気分」を補強するための倫理が決定的に足りない。

星の名のポッケット         GENKOU

作者の「こんな日記調子では〜」に同感です

電車に捧げる鎮魂歌         異邦人

>横に消えてしまう風景は、何の偽りも無く、今ここに私はいると揺さぶられる

この「電車に揺さぶられる」という身体的な感触の経験が、
>動く事、止まる事、この事の繰り返し
という無機質の反復運動をいかにつき抜けてゆくのかが課題であり、
身体的感触の経験が、
>幸せの切符を握っている
という「握る」接触をいかなるかたちで志向しているのか、という点が書かれていない

(無題)               rabby

「語り手」としての機能分類がおこなわれておらず、「私」が機能的な行為体となっていない

点                   泪

PTSDについての理解が不足している。

外傷性記憶にはふつうにはない性質がいくつもある。外傷性記憶は通常の成人型の記憶のように言語によって一次元的な線形の物語にコード化されない。もしされればその人が生きつつある人生物語の一部分に化してしまえるだろうに
(「心的外傷と回復」 ジュディス・L. ハーマン)

>わたしは、点だ。
と規定しようとする精神が、
>外では変質者が刃物を振り回しながら何かを叫んでいる。
というような客観的な視点を獲得できるものなのかどうか。
むきだしの衝動の生の対象を、「変質者」というステレオタイプに記号化してしまう作業は
>わたしは、点だ。
と規定してしまった者にとって簡単な作業なのだろうか

大都会病棟ヤス男        ちーちゃん

リーダーを意識していない。冒頭からテンションを保ち続ける工夫がなされていない

Good Luck?Good Drug?     森田拓也

ドラッグが悪い夢を見させるのは当たり前。
「おれ」がある種の陶酔感を得ようとしてドラッグを使用したとして、「悪い夢」を見るという定番はまあいいとして、それを語ってしまうことで「おれ」は何を「失う」ことになるのか。そこには、残酷なイメージの氾濫はあるけれど、「美学」あるいは、「シック」さがない。
ドラッグの常用こそが、特権的に「悪い夢」を見させる、という考え方が採用されること自体ナンセンス
「中毒」は合法的なものとなって「普遍的」にそこいらの身体に蔓延しているのだから

鎌鼬                 箱舟

誰も理解できないものが、アートだとは限らない

万年筆            れたすたれす

この短いテクストがもつ「舐める」という身振りが、みじかいがゆえに露わになる「なにか」の妨げとなり既視感を前面におしだしてしまう

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