文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2010年・総評その1

2011-04-29 (金) 22:37 by 文学極道スタッフ

2010年・総評その1

  (文)浅井康浩

【創造大賞】 田中宏輔

田中作品をどう説明するのか。これを難しく言うこともできるし、簡単にも言える。
難しいことは、2011年1月の月間選評を見ればわかる。
The Wasteless Landの選評。これは難しいことをうまく書きこなしている。

簡単に言うとこうなる。
あなたに読んでほしい、と詩作品の原稿が送られてくる。封筒で、だ。開けてみるとA4用紙の束が出てくる。
ざっとワード文章に換算して30枚。
しかもひとつの作品で、だ。
めちゃくちゃな枚数。
仕事が、あるいはやることが山積みになっているあなたにとって、迷惑すぎる出来事。
誰だって、できればそんな文字数の作品なんて読みたくないし、すでにあなたは読まずにすます言い訳を考えている。まず浮かんでくる言葉は、こうだ。
こんな文字数を書くやつはアホに違いない。まぁ、その通り。そうに違いない。
そして次に思うことは、
これ誰の作品?
そう、これもまっとうな考えだ。だれだってそう考える。
送りつけてきた忌々しいやつの名前を確認する。
そこに書かれていた文字が、ゼッケンなら即アウト。約束するよ、ゴミ箱へ投げつけたっていい。(彼は枚数が増えるにつれて内容が薄くなるタイプだ)
書かれていたのが村田なら、ちょっと罪悪感が頭をかすめるけれど、躊躇なく投げつけていい(半ページでも小難しいのに、30枚はナシだ)
問題は、そこに田中宏輔と書かれていたとき、あなたなら投げつける手をちょっとばかり止めるかもしれないってことだ。もしかしたら、投げること自体、やめるかもしれない。
まぁ、結果は、投げつけたとしても構わない。
書かれた作品をはじめから最後まで読むのがよい読者だけれど、忙しいあなたには時間がない。
捨てる権利はじゃんじゃん使わないと。タイム・イズ・マネー。その通り。
あなたの大切な時間のなかで、30枚の作品を読むことくらい無駄なことはない。
そうだろう。
それでも、時折、30枚の作品が読まれたり、場合によっては返信がついてたりする。
素晴らしい。もちろん、読み切ったやつが。
ときには、それを読ませるだけのネームバリューをもったやつも。
その筆頭が彼だったということだ。

【抒情詩賞】 鈴屋

ひとつの作品を読む。いい作品なら、ドキドキするし、面白かったりもする。
斬新、クール、いや、素晴らしい作品というのは、読み手をもりあげようと、あの手この手をつかっているよね。俗に言う「続きを読みたくなる」っていう手法。
作品のなかに、起承転結やら、アクションやら、どんでん返しだとか。
当たり前だけど、みんな読み手を楽しませる努力をしてるよね?
あっ、俺、それするの忘れてたわ。ってバカがいたら、自分の作品をいじくりまわしてみよう。あれこれ使って読み手を楽しませよう。
そう、読み手を考えていない作品なんて最低すぎる。
そんなのは作品じゃないか、鈴屋の作品くらいだ。
テンションの低さ、目的のなさ、一方的なコンフリクト。
作品を特徴づけようとしたら、これ、最悪じゃね?
でもやたら、タバコのシーンだけがカッコいいんだよね。鈴屋の作品。
詩が、ポリフォニーでなくモノローグであることを思い出させてくれる。

僕だって煙草が体にいいと言っているわけじゃない。けれど、日々犯されている政治的、社会的、そして生態学的な非道に比べれば、煙草なんて小さな問題に過ぎない。人は煙草を喫う。これは事実だ。人は煙草を喫うし、たとえ体によくなくても、喫煙を楽しんでいる

これは、ポール・オースター。「バーテンダー」という漫画に引用されてるのを見たときは痺れたよ。素晴らしかった。

セブンスターの箱をはじくと
悪魔が出てくる。

これは鮎川信夫。完璧な書きだし。

たしかに、オースターや、鮎川の仕草は大人だし、その所作は、簡単に真似できるものでもないけれど、どこか、自分になじまない。
そんな人にこそ、鈴屋の何気ない仕草が、そしてその大人びた所作の味わいがわかるとおもう。

郵便受けには役所からのハガキが一枚ある。
居間に入ると、妻が庭にしゃがみこんで、パンくずを雀に投げ与えている。
「ただいま」をいう。
唇に人さし指をおいて、ゆっくりふり向く。
「キジバトもくるのよ」と小声でいうのをタバコに火を点けながら聞く。

鈴屋のような大人びた仕草をする人の視線をとおして眺めた世界は、散歩を書いたものでさえ、カッコいい。

【新人賞】 リンネ 

『サスペンスとは、F・トリュフォーの言い方にならっていえば、平凡な現実をひたすらドラマティックかつ強烈に表現しようとすることだ。
そのためにリンネは、あるシチュエーションを外側から客観的に描写するのではなくて、読み手をそのシチュエーションの中に巻き込み、その状況を内側から生きさせる。
具体的には、危機的な状況にある主人公に読み手を同一化させるのだが、それによって、主人公をとりまく日常的な細部がことごとくが危険を暗示する徴候に見えてくる。

あるシチュエーションを外側から描写するのではなく、その状況を内側から実際に生きさせるリンネの作品は、いわば読み手の頭の中で展開される純粋に主観的な作品だ。
自然主義的なリアリティにはこだわらず、ひたすら読み手のエモーションを増幅させようとするので、その筋立てはナンセンスの極みである。
しかし、その一見してスーパーリアリズム的な表現の中にどこか一点謎めいた異質な要素が混じっている(※)というのが典型的にリンネ的な画面構成なのだ。

見慣れた光景や何でもない日用品に異化作用を施し、現実を一挙に読み手の妄想の世界へと裏返してしまう』

※公園の真ん中に設置された証明写真機 「正午」
※手元のブザーに触れると、無数の赤いランプがまったく同時に点灯するバス 「ある徘徊譚」
※しゃがむ女が開いたスカート 「日常的な公園」

これは石原陽一郎の「ヒッチコック・タッチ」から引用した文章。(リンネ→ヒッチコック、読み手→観客、作品→映画に置きなおせば原文)

「説得力あるかも」って思ったひとに、ぜひ言いたいんだけど、頼むからもっとリンネの作品の特徴を把握してくれ。
もしあなたが大切な人から、リンネさんの作品ってどう思う?って聞かれたとする。それに対する返事が「あぁ、ヒッチコックのオマージュっぽいやつね」ってダサい表現だったら、おまえ、恥ずかしいぞ。質問した相手がグッとくるような、そんなリンネさんの特徴をさがしてくれ。
アプローチの方法はたくさんある。時間があれば書いてほしい。
仕上げたら、文学極道のフォーラムに投稿すること。
できれば、俺の大切な人への返事に耐えれるクオリティのものを。

【新人賞】 Yuko  

大切なことだから言うけど、短く書け。
抒情だとか実存だとか、あれこれ考えて、言葉を尽くそうとするな。
大切なことは、一行にまとめることもできる。
たとえば、Yuko作品のもつモチーフは「喪失感」。
喪失感を切り詰めて、「短歌」の形にすれば、つぎのようなものができあがる。

セックスをするたび水に沈む町があるんだ君はわからなくても  雪舟えま
夕暮れの車道に空から落ちてきてその鳥の名をだれもいえない 盛田志保子
まっさらに透きとおっていくように君が笑った あ いま泣きたい 西島ぺこ

喪失感を「現代詩」というかたちであらわすと、どのようなものになるのか。
それをするために、喪失感そのものを、抒情や実存で書こうとして水増しするな。
見るからに「抒情的」「実存的」な作品なんて、一行目を見ただけで読む気をなくしてしまう作品の事だ。
見えてる世界をそっくり「抒情的」にだとか「ドラマティックに」変えてしまえば、それは読み手に自分のナルシズムを押しつけてるだけ。
そんなもの、誰が読む気になる?

yuko作品の特質は、核心が薄められていない、ということだ。
・喪失感を「喪失」のイメージとして書かないこと。
・核心部分を前面に押し出さないこと

きみはただキリンの首筋を眺めている。人間の首骨の数と、キリンの首骨の数は一緒だって、ねえきみ知ってた?双眼鏡で見たいの、ときみは一言呟いて、財布の中のコインを探す   「動物園にて」

上記に現われるような、喪失感ではなく、わかりあえないことを前提とした、ふたりの交わることのない世界観を書け。
彼女は作品の中に「私」⇔「あなた」との交わることのない葛藤を導入するけれど、それはもちろん葛藤の解消を目指すストーリーを設定するためでない。

だから、作品には、ドラマチックなことは起こりはしないし、ストーリーとしてたどれば潰えるしかない。かといって、抒情的にも、作品をドライヴさせるテンションを高めるわけでもない。

そのようなストーリーを作品が必要としているのは、交わることのない世界観を前面に出すのではなく、ストーリーの中の一場面として埋もれさせるためだけにある。

そして進行する物語は、「わたし」と結びつけられた時点において、つねにひとつの「向こう側/死」への漸進的なプロセスにつきまとわれるようになる。

ストーリーをもつことを放棄した文章におこってくるこのような作用は、なにひとつ、特別なことはおこらないように見える文章の中で、ただ、yuko作品のもつ思想の厳然たる強さを浮き彫りにして、その強さが、かぎりなく読み手の感情をねじらせてゆくドライヴとなっている。

何度も言うけれど、一行で言い表せる核心を、「それらしい」言葉で埋め尽くすな。

【叙情詩賞】 ひろかわ文緒  【実存大賞】 葛西祐也

「抒情詩」としてあらわれる「抒情」は、しかし、抒情性を帯びて現れる客体そのものではなく、そのまわりを漂うようにして存在しているものとしてあらわれる

「抒情詩」の内部においてすら、ほんとうの抒情性は消されかけているように存在する

抒情は、「抒情性」を高めきったその「抒情」の主体となるのでもなく、「抒情」性を帯びることも、また、現代詩らしさをも纏うこともなく、作品のなかに潜在している

抒情をもたない存在が、一見抒情的な存在よりも、豊かな抒情性を帯びている、という作品。 (それは「実存的」といわれるものにもあてはまる)

うん。何がいいたいのかサッパリわからない文章になってますね。
こんなにも遠回りなことを書いたのは、詩を「作品」として読もうとしている人に、あなたが抒情的と思えるものを書いたって、誰もそれを「抒情詩」として受け取らない、ってことを伝えるためだ。
ありきたりの、あなたが思いつく程度の「抒情」や「実存」なんて、たかが知れている、ということ
あなたが自分の「作品」を書く。そしたらせめて、読み手のことまで考えてやれよ。あなたがそいつの机の上を覗きこむ機会があるとする。そしたらそいつの机の上には、「立原道造」やら「谷川俊太郎」やら「金井美恵子」やら「現代詩手帖」やらが一メートルくらい積んであるかもしれないぞ。
積み上げられた本を読み終わったあとに、パソコンを開いて、あなたの作品を読む。
あなたの思いつく程度の抒情なんて、もうすでに誰かに書かれてしまっているんじゃないか?

あなたの「作品」はいつ、優れた抒情詩となるのか?それは野村喜和夫に「素晴らしい作品だ」と言わせたときだ。
だから、抒情的に書くのは、やめろ。
抒情的でないものを書いたとき、読み手に「ぜんぜん抒情詩じゃないけど、これって、新しい抒情の可能性かも」とか「一見ふつうの抒情に思わせといて、斬新な抒情が混じっている」と思わせるような作品を書け。

そういう可能性があると思わせるのが、この二人。

おぼえていると
わからなくても
記憶を
あらわすことは
できます
いきていなくても
いきているより
はるかに
じょうずに
ひろかわ文緒「ふゆのうた」

   /静寂に包まれた湖では、夕暮れに残された僕の影たちがかす
   かに揺らぎながら、お互いに見つめあい続けている、けれども、
   決して触れ合うことはありません
葛西祐也「波紋、きみは指先の感触を知らなかった」

【実存大賞】 岩尾忍

「実存」。難しすぎてよくわかりません。だから、ざっくりこう言い換えよう。

「実存的な詩」=「読み手を引き込む力」

大切な人に「小説」と「詩」の作品の違いってなに?と聞いたとする。
かえってくる答えはきっとこうだ。
「小説は100ページ以上でウンザリするけど、詩は1ページ以上あると破りたくなる」

だからこそ、最初からダラダラした書きだしはするな。
最初の一行目から読み手を引き込むくらい緊迫してなきゃ。

マルタおばさんは言った
絶望ってどういうものか
見せてあげようか
「マルタおばさんは言った」

あの子は
砂糖の箱の中で死んだ
「褐色の月」

祈ったら終りだとまだ思っているよ。そこはまだ持ちこたえているよ
「How not to pray」

ただでさえ短い「詩」だから、とにかく引き込め。
何が問題なのか、まず、読み手に提示しろ。
「絶望ってなに?」「なんで砂糖の箱なんかで?」「終わりになるくらいヤバい状況ってどんなんだろう?」
そういうふうに読み手のテンションを高めておく。
そうしたら、1ページを越えたとしても、読んでもらえるかもしれない。

あとは、そう、どう見せようと書き手の自由だ。
一行目の書きだしが上手いやつは、途中のセンテンスでだらけさせない。

ただ、最後の締めくくりだけは読み手を納得させろ。

「実存」=「なんかわからんけど〆が上手」

わかったかい 坊や
絶望ってこういうものさ
「マルタおばさんは言った」

清潔な台所 その棚で翌朝
あの子の亡骸を見とがめて捨てる手
その同じ手が点した
一つの
褐色の豆電球に
すぎなかったとしても
「褐色の月」

聖なるものはいらない。

ただでくれたっていらない。
ティッシュとクーポン券を
一緒に手渡されたっていらない

「How not to pray」

最初の疑問を、途中のセンテンスで解決するな。
最初の書きだしの疑問=その後のセンテンスで解明、にするくらいなら論文でも書いてるほうがいい。
最後の文章で、「なんとなくわかったような」感じでアンバランスな納得を強調すること。
そのバランスとセンスが、作品の善し悪しを左右する。

「書きだし」と「〆」。
せめて、この2つのセンスを磨くこと。
そして、この部分だけでも”多和田葉子”クラスにもってゆくこと。これが岩尾忍クラスならば、あなたの作品はお話にすらならない。

Posted in 年間選考 | Print | URL