「窓を開ける」 ひろかわ文緒さんの詩と言葉 (ダーザイン個人年間総評1)
ひろかわさんはとてもテクニカルだ。抒情的な自然描写にはさりげなくシュールな技巧がちりばめられ、足穂の未来派からスペキュラティブフィクションまで様々な技術が惜しみなく披露されている。それらの技術は本態的な美を現わしていることもあれば、ガシェットの様相を見せていることもある(クリムトの煌びやかな装飾のように)。抒情詩が、創造大賞の方へと越境していくことは、個人的に、文学極道創始以来の夢であったので(人様に捧げる言葉の花束)、ひろかわ文緒さんの登場はとても嬉しかった。
だが、ひろかわ文緒さんの文体の美質は上記したような技術的な側面だけではなくて、書き手の実存論的立ち位置にある。ひろかわさんの詩の言葉は「窓を開ける」言葉である。明るみの中に事象を照らし出し開き示す言葉、自然、即ち自ずから事柄がなる場所への出で立ちであり、到来である。存在の顕現は充溢であると共に虚無の顕現でもある。これらは切り離すことができない。だから車は衝突し、殺戮が行われ、読者は時折荒涼の中に放擲される。鮮烈な生は死にくるまれている。
だが、ひろかわ文緒さんはパウル・ツェランのようにはならない。ひろかわさんは、のびやかで、しなやかで、健やかだ。彼女の実存論的立ち位置が存在論的境地にまで至っているのは、男性詩人に往々にしてある孤や病態の果てに辿り着いた寄る辺なき岸辺ではなくて、自然に赦されているからだ。宥められる者と赦されない者がいる。存在に触れている女性詩人には敬愛するanimicaさんや加藤紗知子さん、小木曽淑子さんなど多数おり、彼女らは詩そのものだと言える存在だが、性差にだけ由来するものではないだろう。かつて増田みず子は『シングル・セル』や『禁止空間』などで実存論的孤の極限を描いた。
上述した人たちとも、増田みず子とも、ひろかわさんは少し違う。ひろかわ文緒はのびやかに、しなやかに越境していく。明るみの中へと、「窓を開ける」姿勢で。