凪葉氏の作品「無題」(2008)について
詩書きは自分自身について語るべきなにかを持たねばだめだとずっと思っていた。おそらく日本人にありがちな集合的心性も手伝ってのことだと思うが、詩書き自身の身体や意識のなかで起きる反応をそれ自体ひとつのユニバースとして掘り下げていこうとする発想が、わたしたちには(ちょっと控え目に言うと文学極道には)あまりに不足しているんじゃないか。たとえば、一方に感情的反応があり、他方にはその感情的反応を自己の人生に再文脈化する知的な作業がある。このバランスがひとつの静かな均整を達成したとき、他者に読まれうる「オリジナル」な芸術が生まれる。そんなことをずっと考えていた。
凪葉氏の「無題」は、この均整に近づいている稀有な例であるような気がする
「無題」(2008-04)が投稿されたとき、たしか誰かがあまりに自己陶酔的で読めたもんじゃない、というようなことをレスで書いていた。部分的には同感である。ここに書かれているのは徹底的に「私」の思いであり、その語り口は、どこにも「私」以外には対話の相手を見出さない。そのうえ、この作品には、弱い「私」が露呈されている。比喩ではなく、あからさまに、「私」は迷い、フラストレーションを感じている。しかし、凪葉氏のもうひとつの佳作「無題」(同じタイトル 2008-2)にも言えることであるが、この作品には多くの書き手が表層をなでるだけで終わってしまう、「世界性」が確実に表現されている。その「世界」はたとえば、真ん中あたりの
鳥の鳴き声、雲が描く風の姿、草木のさざめく音の群れ、
生憎のくもり空が心にしみた
の精巧な描写でいちばんクリアになるが、これは一義的に書き手に投影された世界であり、外部に実在を想定される「世界」ではない。たくさんの書き手がこのような自己の内壁によって分かたれた「世界性」を見ることなく、意識的に未分化なまま自分には何がしかのものが書けると勝手に自負して、文極に糞みたいな作品を投じる。迷惑である。ところで、凪葉氏の表現が稀有なのは、あらかじめ自己の外側にある「世界」を実体として把握するのを放棄した上で、心理の内部へ視点をシフトさせつつ、感覚を通じて心的空間に映し出される光景を俯瞰していることである。ここでは書き手のなかで加速度を増す「ここではないどこか」への衝動が彼(女)の主体性を超えて無限のユニバースに放出され、自己憐憫ではない、確固たる自己「表現」への通路を掘削している。
オープニングの
-わたしの中に、あると思っていた、永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかりとか、抱きしめていた、朝、
からはじまり、エンディングの
-あの朝も、いつもと同じ眩しい朝で、きっと、これからも続いていく朝で、
にいたるまで、そこには自己の中心へと内旋していく意識の上に、薄暗い教会の内部に開いた天窓からさしこむひかりに似たユートピアの存在が暗示され、視線は世界内存在としての自己の輪郭を浮かび上がらせる。読み終わったあと、読者は、「永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかり」がここでは単なる抽象にとどまらず、書き手の視界にしっかりと根をおろしたひとつのヴィジョンかであることを確認することになる。
えらそうなことを書いてきたが、この作品のはじめの一文は素直にすごいと思った。
-わたしの中に、あると思っていた、永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかりとか、>>抱きしめていた、朝、
永遠や愛や、ひかりとか、そんな言葉を作品のオリジナリティにきちんと埋め込んだ上で読者の目を引き付けることが出来る、そんなセンス。言葉はどんどん磨り減っていくが、言葉と人間との出会いはそれぞれに新鮮であり、そこから生まれる感慨はたぶん磨り減ることがないんだろうと思う。