『本田憲嵩「罅」(2013年・年間選考・選考委員特別賞)』についての雑感(平川綾真智)
『本田憲嵩「罅」(2013年・年間選考・選考委員特別賞)』についての雑感
本田憲嵩さんの作品「罅」は、同質性・均質性への強迫観念に追われていく自己肉塊が僅かな社会変容を断絶として体感し、悲哀と共に社会存在を反芻しています。概念化された社会を同じく生きているということの膿汁にも似た苦痛は鏡体化し読み手の基臓へと迫って来ます。
部屋に戻って
机の上で履歴書を書いた
履歴書はいつも嫌いだ
本当に書きたいことは
なにひとつとして書けはしない
たった一文字だって
間違えることなんて許されてはいない
履歴書上の自分は概念化社会を解読し出力されたものです。本当の自分を抱えつつも読み説いた概念に合わせ自己を文字化していく作業は、自らを屠殺していく作業に相似しています。証明写真は屠殺後の自分を暗示させるようで、既に屠殺されているのかもしれない自分を予感させるもので、後ろ向きな内省が絶えることなく湧出する「オレ」は理想との乖離に足場も無く立たされるしかありません。文字を書くために丸めた拳は暴力を持って変化させた過去の瞬間を思い出し、変化した途上にある今を肉体に、ただ置いていくのです。平易な比喩「罅」の下あまりにも率直な言葉だからこそ率直に響き呼応する実存の詩が、そこには拡げられています。前に進むときに後から後から掴み押し倒す過去領域への思いは極点のない孤独を眼前に脊柱に突き付け続けます。
連ごとの構成が、行間の凝集性を更なる密へと機能させたことで、この「履歴書を書く」場面は一歩進んだ詩として昇華されているように思えます。二連目の過去に労働していた場所と自己との邂逅、それに続く古ぼけた駅と自己との対比は、幼い頃に眺めていた輝きが失効する暴虐に自己そのものが失効する逼迫を潰れる汗腺内に伝播させていきます。その二連を導いてくる「赤トンボたち」「青空」「木々」の生々しくも率直な描写は一連目が、詩を、どれだけ詩にするか、側枝的息吹を婚姻させ結実させていくかのようです。「円環する」ため時間が経ることを避けられない私たちは肉体を引きずるしかありません。その行為の途上にあり何度でも自己は自己と出会っていきます。自己が、どれだけ醜悪な自己だとしても出会っていくしかないのです。
本作品「罅」は空虚な人間の生きていく脂勢が細部履歴を備え提示されています。このような日々の一コマへ焦点化し見事、作品化させた筆力は作者にしかないものです。次なる意識の予兆と胎動は詩領域の一つの回答を示していると言えるのかもしれません。 (平川綾真智)