文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

ダーザイン年間選評1

2009-04-02 (木) 20:41 by ダーザイン

1.黒沢さんについて

「今なら分る、私が視ていたのは闇ではなく輝きだ。」by 黒沢「馬頭星雲」

「男がひとり、振り返って虚無を見た」 by ベンダース『ベルリン天使の歌』

 女の水死体の美しさについてバロックの絢爛たる装飾を施して思いをめぐらし、街灯の下の自身の影は、遠い星間物質に照らされているのだよと、
永遠の相を、失われた牧歌を(最初からありもしない牧歌を)、無の光り輝く面でしか歌えない、卵細胞の完全なシンメトリーを失った存在者。帰郷する場所は予め無く、どこにいても仮の住まいで、寄る辺なき流れにオフェーリアは漂い、星間物質を縁取る明るみ(それは息吹か? 煌びやかな死の装具か?)が、照射しつつ、遠ざかっていく。

 ふと、後ろを振り向いて、虚無を見てしまった者の眼差しで。
 かつて、経済大国であった、この破綻都市の一隅で、今更遅いがネオリベ施政に抗して、大陸から来る偏西風がダイオキシン交じりの黄砂を降らせる空に星明りはなく、偽物の空の向こうに暗黒星雲を幻視しようと試みつつ、失業者のように公園に転がって、打ちつける雨に打たれ(そのような心象を抱きながら会社の取引先の連中と宵越しの酒を飲み)、旦那の替わりに不安と直面している「心の弱い妻」を怒鳴りつけ、鏡を見ると、やはり、暗黒星雲が、黒々と渦巻いているのだ。死の恐怖で鞭打たねばならない虚無が。

「星々が退潮する。」by 黒沢「馬頭星雲」

 星々は、赤方偏移しながら遠ざかっていく。宇宙の熱死の方へと。

 人間力で創造大賞を勝ち取った感のある黒沢さんですが、文章の流麗さ、ということでは、幾らでも精進できると思います。
 タンジェリン・ドリームなどのアンビエントミュージックを想起させる美しさを醸しだしていることすらもあるのだから、尚、そう思う。
 これからも、大きな期待を抱かせて頂ける詩人です。

2.ぱぱぱ・らららさんいついて

 軽妙? ポップ? そして、切れ味。特に感銘を受けたのは、「海、そしてまた海」「宛先人不明」だが、他の作品も皆良かった。
「海、そしてまた海」についてだが、何故海について一筆描写しないのかなと思った。海そのものではなくて、海辺の諸事を描くことによって海を浮かび上がらせる手法で。明らかに、かなり書ける人だと思うのだが、敢えて書かないかったのだろう。存在の耐え難い軽さ、じゃなくて、リアルの耐えられないこともない軽さで、ぱぱぱ・らららさんの筆は、空虚を現前させる。そしてリアルを現前させる。氏はどこかでベケットを引き合いに出していたが、そういう辛気臭くて得るもののない文章ではない。無いと語られている言葉の背後に、哀しみや温もりが垣間見え、或いは、大文字の背後に息づく人が見え、読後感が良い。リアルなんてこんなものだ、というニヒリズムだけではない、体温を感じた。

3.泉ムジさんいついて

 21世紀新鋭詩文学グランドチャンピオン決定戦にあるにゃん太郎の詩「でたらめ」がとても好きなのですが、ここにはないので、選考対象外です。
文学極道にある詩ですが、「autumn」の、何度も読み返したくなる、精緻な筆、美しいイメージの連鎖。人の、日の、移ろい。夏の終わりの気だるさ、あのスローモーションのように濃密な季節が実に上手く描かれていて、みごとであった。ひとつの季節の中に、友人だか、過去の彼だかの記憶が時間軸を作って挿入され、作品に歴史性をもたらしている。

「路上に仰向けで少しずつ
死んでいくふりをする私は
半ば狂って
いるだろうか/友人よ」

傾斜していく季節の中で、廃滅の予兆、或いは憧憬と、
以下のような優しい時間、健全で暖かい思い、相反する物のタペストリーの織り込み具合が実に見事である。

「コップに秋桜を灯し
見惚れ/きっと明日も美しい
子供が生まれたという
友人の葉書へ
今度私にも抱かせてくれと
向日葵の種子を添えた返事を書く」

また、無題シリーズや「神様」の可愛い暴力。変なことが書いてあっても、自虐的でもネガティブでもまったくない。
 そう、実にスタイリッシュでキュートなんだ、なにを書いてもこの人は。ありきたりじゃない癒し系とでもいうのかな。
 今、もっとも鮮度のある書き手のひとりだと思う。どんどん新作を書いてもらいたいです。

4.いかいか さんについて

「星遊び」ですが、文学極道発起から4年、数々の大作を読んできましたが、これも、それら大作のひとつに加わるべき作品だと思いました。生の強度。これは常々、口をすっぱくして私が言っている事柄のひとつですが、この作品はとても実存論的な詩です。
 以前、どこかで、いかいか氏が、
「たぶん、俺はすごく否定的な形でしか物事を語れない人間だから、それは実際のところ自分の身体の欠落の問題へと直結しているわけで、(あぁ、身体と身体性を混合している可能性があるな)身体に閉じ込められた精神でもなんでもいいが、それがいやおうなしに、痛みや苦痛を訴えるという現実を俺は否定することができない。その確信からしか俺は何かを書くことや、語ることができない」と語っていましたが、私詩を嫌い、世界性という言葉を旗に掲げる私であっても、キーを打つ指の発端は同じであり、痛みだ。そこから、リスカ詩人などの痛いポエマーではなくて、世界性を持った言語を獲得する挑戦が詩行であり、文学である。己自身に根ざさない世界などナンセンスであり、世界に根ざさない己も無い。
 いかいか氏のこの作品は、散りばめられた帰郷の幻影と対峙する一人の男を、前半はシンボリックに謎めいて、後半は畳み掛けるようなスピードで記された、断続的、そして連続的継起の、血を滴らせながらも、漢らしい、投げっぱなしジャーマンスープレックスの連発である。これは、ジョイディビジョンのイアン・カーチスが、実存哲学ハードボイルドに開眼して湿っぽくなくなったような潔さであり、大変、感銘を受けた。
 わざと落選するような作品を投稿して、場を撹乱する意図を見せることもあるいかいか氏だが、この作品は凄い。鉈のように重くて鋭い。登山道のろくに無い日高山脈に分け入る登山家が藪をこいだり、寝床を確保したり、熊に備えるでかい鉈。山登りには二種類の人間がいて、一方は山岳会や観光業者に連れて行ってもらう行列登山。もう一方は厳冬期にも単独行をする人間だ。魂と命を削って登山をしているのは無論後者の方で(代一連の呪い)、はるか彼方へ、はるか彼方へ、我発見せり! と叫びうる凄絶な美を味わう特権的な瞬間のために、長い年月身体を酷使し、雪崩に飲まれ、或いは滑落して落命、膝や腰をぼろぼろにして、後に食っていくこともままならない人生となる極道者が、全ての沢すじを詰めようと、未だに登攀記録の無い巨大な岸壁の沢に取り付いてきたんだ。いかいかよ、ザイルはつけているのか? 僅か数株のブッシュに命を預けて(「星へ上がらない、まじないを、」)、登山家の鉈は己の生を叩き切る。繰り返し切断し、接続し、切断することによって生の連続性を確認する実に精神衛生上かんばしくない己に対する暴力的な振る舞いである。スタイリッシュな文体の奥底に過度の自虐がないか、ザイルと共に点検する必要があるかもしれない。大変な強度のある文体なのだが、通常こういう強度は精神衛生保安上良くないからね。
 文学極道は保健所ではないが、今年は是非、創造大賞を狙って、王道を歩んでもらいたい。

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