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NORANEKO

選出作品 (投稿日時順 / 全17作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


路上格差

  NORANEKO

 なんか空っぽの午前四時の町並みになんかいる僕は、夜更かしたせいで滅入って参って合わせて眩暈ってガンガンの頭を抱えて歩いてる。そもそもこの歩いてるっていう表現自体かなり強引なカテゴライズで、より正確かつ擬人法を用いて説明すれば、動くのを拒んでぐずってる右足を、しっかり者の左足お兄ちゃんが説得しつつ引きずってるような状況なわけ。
 そんな憂鬱な状況に限って憂鬱なもんに出くわすってのが、まあ、今回のお話。小説みたいだけどあくまで散文詩のカテゴリーだよ。とどこぞの教授の論文の前口上みたいなこと言ってるけどこれは俺の表現実験だよ。このさりげない一人称転換も含めてのメタ演出だ。ん、だからなんだって? そう考えた君の感性は信頼に値するってことさ。 話を戻してまあそんなこんなで今眩暈ってめっぱの僕の目の前には、今一つぱっとしない歩行者道路が味の抜けたガムみたいにのっぺりと続いている。で、これが結構幅が狭い。今回は一匹の猫の話なんだが、まさに、猫の額って表現がしっくりくるんだよ。ああ、なんと素晴らしいこの統一感! うん、統一感こそは作品を作品たらしめるものなり。
 さて、また話がずれた。読者諸君、堪忍袋の緒が耐え兼ねているとは思うがもう一縛りして欲しい。先述のとおり、ここから話の本題である、一匹の猫が出て来るよ。
 さあ、猫の額ほどの幅の道の右脇に、僕の腰よりやや高いくらいのポストがある。赤い、と安直に形容したくなるけど、それを躊躇わざるを得ないほどに色褪せて黄ばんでいる、そんなポストの、上に。
 猫がいる。黒トラの……とまた安直な形容をしそうになった。いや、基本的に面倒くさがりな俺はさっさとそう書いてしまいたいのだが、もはや躊躇わざるを得ないほど、その黒トラは“黒トラでない”。
 その猫の黒トラはね、青いんだよ。もう。すっかり生気が抜け切って、もはや『病める青』たる『蒼』なの。おまけに毛はパサパサであばらが浮き出て、骨張った顔から異様に浮き彫りになる二つの灰色の瞳だけが、割れる寸前の硝子細工のような、神経を震わす透明度を持っていて。この子、明らかに長くないなって思った。
 僕はこの子を『蒼バラ』って名付けた。蒼くてあばらが浮き出てて、でも顔立ちには品があってその目が綺麗だから。危うげなたたずまいも、この名前に馴染んでる気がした。
 で、僕は蒼バラに触れようとしたのだけれど、もう目が合ったその瞬間にポストから飛び降りて、僕の前方、目測およそ3mくらいのとこに着地したの。
 ああ、本当に辛酸舐めてきたんだなって僕は思ったね。僕はうさん臭くも優しい人間だから、その哀れな猫に向けて語りかけたね。猫目言語で「大丈夫だよ」って。擬音化すれば“ふにふに”って。
 すると向こうも猫目言語で応答したんだ。擬音化すれば“ふにぃ、にぃ〜っ”って感じの。うん、なんだかんだで「わーねこかわいいー」って和々(※1)したよ。
 でもね。直後にその猫を襲った鳥がいたんだよ。黒い羽で頭が良くて、とっても素早いあの鳥がね。
 そう、意外なことに、ツバメなんだよ。かの有名な童話で黄金の王子の像の使いとしてはたらき、最期は彼と共に天国に登ったあの尊い小鳥の近親者が、電線から二三匹滑空して、死にかけの蒼バラめがけて飛んでくるんだ。スレスレを掠めて、すぐ舞い上がって。苛めてんだよ。
 信じがたい光景に唖然愕然呆然とが一瞬の怒涛となって頭蓋を殴ったよ。もう助けてやる間もなく、萎れた蒼い花は、民家の青い軽自動車の下で、その陰に隠れて震えていた。
 そして、出て来なかったよ。もう。あの灰色の両目で、僕を凝視するばかりで。僕はただ、それを見つめて……うん、あれは俺にこう言ってたよ。

「オマエモ、コウナンダロウ?」
 って。今、思えばね。……さて、賢明な読者たる君は、俺のこれがフィクションであることを前提に読んでいるはずだ。ああ、その通り。

 こんなことがあってたまるか。





※1:なごなご。自作形容詞で、意味は字義どおり。


雑記

  NORANEKO

灰色の岸辺にトキが/折れた首を砂浜に横たえて、尻を/突き出してるから俺は、ジーンズのチャックおろして陰茎をしごいた/突き入れてやるんだ、今から/カタくてぶっといのを、一発/「いっ、ぱつ」。そう呟いて目が覚めた。6月の湿気と寝汗が入り雑じった臭いがパンツ一丁の俺の身体を横たえている水色のシーツの黄ばみの象徴みたいにたちのぼってる。心なしか、部屋んなか全体が靄ってる。最近、高いLEDのやつに替えた蛍光灯が天使の輪っかみたいに柔和に靄ってる。俺は夢の中の出来事を思い出して身震いしてる。鳥に欲情した己が情欲に戦慄してる。でも許されてる気がしてる。天使みたいに優しいLEDの蛍光。あの黒ずんだ鶏頭、後頭、と前頭があべこべに捻れ転倒した顔面の、朱色、全部。全部、漂白してくれる。その蛍光剤で、清潔に。黄ばんでないから安心。
安心。それはティッシュの白にも、ある。スコッティの柔らかいやつを二、三枚、敷き布団の脇に抜いて撒いて、健全で健康な女の子の出てくるエロ漫画一冊(ただし、女の子は褐色肌オンリー)を枕元から引っ張り出してオカズにしてオナニーする。この漫画に出てくるエジプト娘が好きなんだ。額にトキの頭を模した飾りをつけているけど美少女でしかも褐色だから安心して使える緩衝材なんだ。トキ×トキ=非存在なんだ。あとには安全に漂白された褐色の少女しか残らないから安心して俺は陰茎をしごく。しごく。しごく。仮性包茎の皮が擦り切れるほど。しごく。「トッキーって草食系だよねー」知らねーよアバズレ!
萎えた/俺の茎(ステム)が/ならば、俺は植物を食む植物/草食系植物なのだ



俺はいる/神田の、こんな、真っ昼間のカフェーに/パラソル付きの屋外席に/チェス盤みたいな模様の/実際、チェス盤を一回り大きくしたくらいこじんまりしたテーブルの前に縮こまりながら/向かいの、作業着のおっさんが右手に掲げたケータイの液晶画面を前にじっとしてる/背中を、俺は見てる/なにか、不穏な手つきで親指が滑った気がする/ノリタケの、よくある映し絵の、ロイヤルクラウンのカップから/ジャスミンの香りが、薄曇りの/風の強いレンガ通りまで乗って漂う
おっさんの、取っ手に、触れた指が/カップをひっくり返し、/損ねる、そこには通りすがりの/空気のようなジャグラーが、得意気に笑っている/安心、チェス盤模様のテーブルにはいつものように、ロイヤルクラウンが/中身のジャスミンティーだけは零れてしまったけど、お見事!
途端に、店内席や、レンガ通りの通行人やがぽつぽつと、注目して、二、三人がぱちぱちと拍手した/が、当の向かいのおっさんは、ますます、背中を硬く猫背にする/ケータイを持った手を、地面に擦れそうなほど垂らして



都内の某交差点に遂に発生する蜃気楼/路上で、ダチョウと柴犬三匹が対峙する幻影を前に、みんな、臨戦態勢/いったい、どっちが勝つんだろう/TKのダブルジップ・パーカーに、Levisのカーキ色のカーゴパンツ、黒地に白い王冠が、ほの赤い縁取りであしらわれたオリジナルブランドのTシャツ、極めつけのブーツはDr.Martin、絶対イケてる/青信号と共に×を描く人の群れ。そして視線の群れ。どいつもこいつも勝負は一瞬、目をそらすかドヤ顔して鼻膨らますかだ。オーケー、今日の俺はダチョウだ。地べた這ってな柴犬ども。
雨が降ってくる。胸のどっかに搭載されてる針がきゅるるる! と鳴いて大きく振れる/たまらねえ、このヒリつき。/非安全だから非安心地帯だけど、それが不快とは限らない。/さあ、路地裏に行こう、ヤツが待ってる



「トキ、挿れるよ」/「馬鹿だなあ、トキは絶滅したんだよ、ホモ野郎が」



意識を取り戻したのは病院のベッドの中だった。ごわごわして戸惑う清潔なベッドに白いシーツ、白い掛け布団、鼻をつく、埃と消毒薬を混ぜたような臭いの一切が不穏で、不自然で、しかし逆説的に安全で、結果的に安心なのだ。
「なんで俺、あんなこと」/声は、喉からは出ない。やすしに、凄い力で締め上げられたから。
あの時、都内のプレイルームで俺はいつものように素っ裸に目隠しをして、両手両足を柱に括って縛り上げて、口には猿轡のかわりに乾燥させた弟切草の茎をくわえて、まるで植物みたいだった。やすしも、俺の肋骨が浮くような痩せぎすとは対称的な筋肉質のガチムチボディをボンテージファッションで包んでいただろうし、鞭がわりにしている、弟切草のドライフラワーを束にして握ってもいたはずだ。事実、俺の太もも、脇腹、胸元、右の頬はそれに打たれたときの感触と痺れと、勃起するほどの熱さを覚えてる。 身を捻るほど四肢に食い込んでゆく縄の感触も、血が滞る末端のさざ波も、氷の粒みたいにきらきらしてくすぐったかった。「それが、どうして、あんなこと」
 その日、俺はアナルに人参を挿れられることになってたんだ。それ自体は嫌じゃなかった。「トッキーって草食系だよねー」黙れよビッチ。いや、その通りだよ。俺は尻の穴から人参を食べるのが好きなんだ。草食系植物なんだ。「挿れるよ、トキ」やすしが耳元で、ねっとりした舌遣いで言う。目隠しを、しなければよかった。脳裏にフラッシュバックする昨夜の砂浜/尻を突きだして、折れ曲がった首をこちらに向けて、傍らに/チェス盤のテーブルが、パラソルもなく、雨ざらしのまんま置かれてる/ジャスミンティーの空っぽになったロイヤルクラウンのカップが静物のように置かれて、雨水に充たされてゆく/砂浜に横たわる、首の折れた作業着のおっさんの右手には、ケータイが握りしめられていて、まだLEDの液晶を天使のように光らせている/黒いさざ波を背に、あの、印象に残らないジャグラーが、のっぺらぼうの顔に口を“ひ”の字に赤く裂いて、トキの死体を持ち上げて、空高く放り投げる。“く”の字になって舞い上がり、“へ”の字になって落ちてくる。それをジャグラーが右手から左手に回して回す。気づけばおっさんの死体も一緒に回って、だんだん、両方が混じって、地面に落ちると、ダチョウの死体だったんだ。ドヤ顔のジャグラー/空から降る「トッキーって草食系だよねー」
「うるせーな」俺は笑ってた。「トキは絶滅したんだよ。もういないんだよ。馬鹿か、このホモ野郎が」/「トキ、どうしたん? なんか、嫌なことあったん?」/「キャラ崩してんじゃねーぞヘタレデブが。テメーの肛門にドライバー刺して血が出るまで掻き回してやろうか? 一生オムツ履いてろよ糞ニートが!」/「お前っざけんなや!」/首をギリギリ締め上げる、やすしの太い指の感触と、脂まみれの歯列から漏れる鎌鼬のような吐息の殺意に背筋がぞくぞくして、暗闇に、きんいろの優しい星たちが/天使のように、灯って、「先生ー、目が覚めたようですー」

あれから色んなごたごたがあって、とても面倒で、正直、あんまり覚えてないんだ。ただ、病院の白い天井についた、よくわかんない赤黒いシミが、トキの顔みたいで、泣いたのを覚えてる。


体験談

  NORANEKO

 家猫っていいよね。俺も昔は憧れたんだ。色んな家の玄関や、縁側や、台所の窓や、ベランダのとこに座っては、色んな媚び方を試したもんだよ。無駄だと気付いたのは二歳の頃で、交尾はもう何度か経験済みだった。すまない、忘れてくれ。本題とはなんの関係もないし、俺はこうやって物を書いている以上、本物の猫でもない。ちなみに、ネコでもない。俺は童貞だ。
 俺は基本的に嘘ばかり吐く。名前もころころ変える。同じ野良猫でも、立ち寄る家によって呼び名が変わるようなもので、場所が変わればなんとやら、って、引喩表現を使おうとしたがこんな慣用句は存在しなかったな。どうでもいいや。自分語りもつまらない。他の話をしよう。
 そうそう、いいネタがあった。最近、2ちゃんねるのオカルト板でやってる、あの『洒落怖』スレをよく読むんだが、コトリバコとかジダイノモウシゴとか、結構面白いのあるよね。オススメはリゾートバイトなんだけど、今回はジダイノモウシゴの話。ここではもう読んだって人が大半だろうし、説明は省く。というわけで早速、俺の実体験から……すまない。結局、自分語りなんだ。……始めよう。
 丁度、あの日もこんな具合に蒸し暑かった。三年前、映画「去年マリエンバートで」を観に、地元の名画座へ行った日のこと。汗に濡れて、額にへばりついた前髪を掻き上げ、コンバースのオールスターとユニクロで買った黒のスキニー、チェックの半袖シャツといった冴えない出で立ちで、錆び付いたシャッターの降りた商店街をほっつき歩いていた。とあるビルの三階に映画館がある。俺は地下のスーパーでゲロルシュタイナーの炭酸水を買い、明らかに25℃以下に冷えたフロアに腹を壊さないか心配を抱き、節電のためか、やけに暗い階段をかつかつ小気味よく鳴らして三階まで登っていった。カフェテラスが併設された映画館のフロアの売店に行き、無愛想な若い売り子から当日券を買う。ストレートの黒髪がやけに青く艶々してるその子の薄くて白い肌が幸薄い感じで可愛い。お釣りを渡す指先の柔らかさに胸がどきりとした。ついでに自販機で紙コップ入りのホットコーヒーを買った。紙臭さと粉っぽさに辟易しつつも、下痢を催して便器にうずくまって神に許しを乞うよりは良い。劇場内やや後方ど真ん中の席を確保する。ほくほく顔で上映開始のブザーを聞き、アナウンスの女の子の声に勃起し、消灯。予告はない。本編が始まる。
 スクリーンに投影される、誰もいない、白黒の豪邸。神経を不安定にさせるストリングスのBGM、ナンセンス詩の朗読。シャンデリア、丸天井の宗教画、柱にあしらわれた金色の天使と葡萄の実と枝葉。「装飾過多」のリフレインがやけに記憶に残ってる。ストーリーは読めない。シーンの一つ一つがまるで、別のプロットからやってきたかのように独立している。同時間軸の平行世界を継ぎ接ぎした、意味を結ばない、物語られないものたち。どんな流れから、こうなったのか。シーンが切り替わる。
 ヒロインが、何故か、俺によく似た男の顔を、マニキュアを塗った白く細い指で撫でる。

【字幕】
“あなたの無自覚なところ、とっても現代的よ”

 俺は映画館を飛び出し、歩き出す。歩き続ける。ジダイノモウシゴだ。顔のない、半透明なジダイノモウシゴが背中にべったり張り付いて、そこらに無意味を埃の塊みたいに吐き出続けているから、振り向くな。そのまま俺よ、歩け!
 昔、服屋の調子のいい店員に買わされたLeeライダースのパンツの金具が、八方美人の軽薄さでチャリチャリ鳴る。行き交う奴らが俺のほうをチラチラ見やり、取り憑かれる。薄幸そうな売り子 さんの、腐った魚のような瞳と見つめ合う。ゲゲゲ、と鈴のような声音を濁らせて、彼女は叫ぶ。
「僕タチハ、漂白サレタ世代デス!」
 館外のアーケード街に飛び出す。肩をぶつけた、熟年カップルの女が騒ぎ立てる。
「カナシーケドサー! アタシ、意味ガ無イノガ実存ダカラサー!」
 男が俺の胸ぐらに掴みかかる。
「アー! ソレ、スゴクワカルワァー!」
 男の腕の関節をキメて、怯んでいる隙に逃げ出す。花やしき前まで走っていると、女の首筋に果物ナイフを突き付けた男が警官にふるえる声で物凄いことを言っている。
「オ、オレノ武器ハ、キョキョ、虚無ナンダカラナァー!」
 かまわず走り続けると、ラブホテルから、知らない男と手を繋いで出てきた彼女が俺が見ているのもしらないで、
「現代ノ若者ヲ代表シテ、ドウ読ンデモ読メナイ仕掛ケノ二万字ヲ書キマシタ!」
 なんて、おどけながら男の肩に頭を預け、腕を組んでいる……自分から!
 糞男は俺の彼女の頭を撫でながら、
「君ニハ、ブンガクノ賞ヲアゲヨウ」
 なんて耳元で囁いている。膝が崩れ落ちる。人目もはばからず涙と鼻水を垂れ流す。どれもこれも、ジダイノモウシゴの仕業だ。そうに決まっている!
 茫然自失の状態で浅草の裏通りに膝をついていると、背後から、腐った魚に錆びが混じったような臭いがしてくる。右腕を、凄まじい力でガッシリと掴まれる。激痛がはしるが、怖くて見れない。賽の川原で擦れ爛れた赤子の手がそこにあるのは、もう読んで知っていた。これが、俺のせいなんだっていうのも。そっから先はひたすらに、昔、あの娘に堕ろさせたこと、あの娘は無事かどうかということ。あの娘は、なにも悪くないんだということ。そんなことを、考えた。嘘。死にたくないって。ひたすらに死にたくないって助けてって命乞いしてた。アスファルトを小便が塗らして黒々と染めていくのを温もりと臭いで感じていた。仕方ないんだって、ほんともう、こういうのは仕方ないんだって、言って、聞くような相手じゃない。ズリリ……ズリリ……って、俺の背中を這いずって、髪の毛に、しがみついた。耳元に温い吐息。直後、甲高く、叫ぶ。「オ゛トォォォチャ゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ン!」
 俺は泣いた。嗚咽が堰をきったように漏れ、だが、小便は漏らさなかった。
 隣の席の女友達はなんか菓子を食ってる。ポッキーだ。俺にも食うか聞けよ。いつの間に買ったんだよ。いい席取ってやったのは誰だよ。
 耳元で文句を言ってやったが反応がない。ポッキーをポキポキと小気味よく噛む気の抜けた音が館内に響く。ホラーな気分に全然なれない。
「あんた誰よ」
 急に真顔で、彼女が言った。背筋が凍る。このタイミングでそれは心臓に悪いだろうが。そんなの、
「俺にわかるわけないじゃん」
 女友達の髪を掴み上げ、皮と肉ごと引き剥がす。ほら、同じ顔だ。どいつもこいつも肉ひっぺがせば同じ顔なんだ。俺は知っている。女はみんな俺の女友達なんだ。これは論証も実証も出来る。実際、俺は大学の卒業論文をこのテーマでパスした。教育機関のお墨付きだぞ、わかるか? わかんねーならお前の皮も剥いでやるよ。鏡を見れば嫌でもわかるからさ。
「ア、ア、あんた誰ヨ」
 女友達はまだ聞いている。真顔で。
「ソんなの、俺にわカるわけないじャん」
 俺はまた、女友達の髪を掴み上げ、肉と皮ごと引き剥がす。あれ?
「罠だ、逃げろ!」
 劇場の締め切られた扉を開けて、和尚さんが叫んだ。俺は一目散に逃げ出した。
「ア、ア、ア、ダレよ」
 女友達の顔を透明な粘液が覆う。血管と筋肉の剥き出した肉面から沁み出すそれは、映写機の光を浴びて冷たく、哀しげに、光っていた。
「ごめん」
 追われることがないように、俺は彼女の顔めがけて、ウィルキンソンの炭酸水をぶちまけた。(俺が炭酸水を買ったのは、このためだった。正直、彼女には使いたくなかったが。)
 女友達が顔を両手で覆い、叫ぶ。
「ミンナ、ジダイノモウシゴニナルンダ!」
 俺は恐怖に歯をならしながら和尚の髪の毛をむしり続けている。和尚はピンク映画のパンフレットでマスをかいている。
 この時、俺達はトイレのなかにいた。ジダイノモウシゴは生活の臭いが嫌いだからだ。なかには「シンペンザッキ」と唱えると消える類いのやつもいるが、今回のはあまりに厄介らしい、と、マスをかきながら和尚さんが教えてくれる。生臭坊主らしい。
「蒼井そら、沙倉まな板 つぼみかな」
 坊さん、そんなミーハーな川柳読んでる場合じゃねえぞ。こいつが唯一のか、今日は厄日だ。
 俺は脳内会議をしていた。俺は脳内会議をするとき、誰かの髪をむしっていないといい考えが浮かばない。坊さんには許可を得ている。いい坊さんだ。
俺A「奴の皮を引き剥がせ!」
俺B 「奴を皮ごと引き剥がせ!」
俺C「皮の奥から引きずり出せ!」

俺「人間! 人間! 人間を引きずり出せ!」

 景気づけに坊さんの首を果物ナイフで掻き捌き、吹き出る血潮で額に魔除けの梵字を書いた。引き剥がす。ジダイノモウシゴの皮を、引き剥がす!
 俺はトイレの扉を蹴破り、一目散に通路に躍り出た。目の前には人を喰らってパンパンにフロアを埋め尽くす青白い肉塊。かつて、俺の元カノだった身体。今は、もう、別のモノに乗っ取られている。
「今から、助けてやるからな」
 俺の右腕を伝う赤い電流が、ナイフの刃を朱色の水晶質に変えてゆく。
 今から、こいつを、引き剥がす!
 雄叫びを上げながら駆け出す。やつは人を食い過ぎた。もう動けない。これで最後だ!
 やつの頭部が刃圏に入る。俺の右足が、とろろ芋を踏んで転ける。凄まじい音を立てて顔面を通路にめり込ませる俺。やつはけたたましく笑う、笑う、笑う。
 朦朧とした意識のなかで、俺は呪う。中国製のデッキシューズを。滑り止めの利かない、デッキシューズを。

……こうして俺は、バラバラになり、永遠に、映画館のなかに閉じこめられた。以上、実話でした。


水槽の中の脳/の背後に蛸が。

  NORANEKO

 目を覚ましたい。目を冷ましたい。沸騰する夢と現の、上が下にって主に下だなこりゃ。やかましい。
 水槽のなかの脳味噌にはどっちも夢夢、うつつは水面を揺らす波と、現象としての電気信号の火花と、灰色の皺の暗闇から沸き立つ気泡ばかりよ。
 だが、朔太郎先生。水槽のなかの蛸ってんなら話はひっくりかえるね。現実現実。アハ、アハ。
 /などと、自室で胡座をかく私はSAMSUNG社製のスマートフォンの、静かに帯電する水晶質のタッチパネルを右手親指の右わき腹で叩いて書いている。時刻はすでに、正午に近い。幸いにも、学校は夜間部であるから慌てなくてよいものの、既に社会に出ている友人らのことを考えると、窓越しの空みたいに鬱屈と曇る心地がする。
「鬱屈と曇る心地がする。」……何が。私の心が。して、私の心とは何で、何処にあるのか。
二つの目は床に敷き詰まる教科書、学術書、プリント類に詩集の混沌と混ざり合う無精の絨毯のうえを錯綜する。そして見つける。ちくま学芸文庫から刊行されている、渡邊二郎の「現代人のための哲学」を。
本書第5章「脳と心」によれば、哲学者・ベルクソンはこのように語ったという。

『心と脳が絶対に等価であるとか、絶対に同一であるとかは、決して言えず、そうした主張は、証明されざるひとつの独断的主張にすぎない』(渡邊二郎『現代人のための哲学』第113項6〜7行より引用)

『というのは、たとえ脳について、いかなる科学的知見を述べるにしても、それは、私たちがこの世界全体についてもっている思考内容の一部にすぎないのに、その脳にすべてが還元されると説くのは、脳という小さな部分に世界全体を還元し、こうして「部分が全体に等しい」という「自己矛盾」を主張するのと同じだからである。』(同書第113項8〜12行より引用)

『脳と心の関係は、ちょうど、釘と、それに掛けられた衣服との関係に等しい。針が抜ければ、衣服も落ち、釘が動けば、衣服も揺れ、釘が尖れば、衣服にも穴が開く。けれども、釘の細部のひとつひとつが、衣服の細部のひとつひとつであるわけではない。』(同書第114項16行〜第115項1行より引用)

 なるほど、と思いもするし、もやっと感じもする。ただ、心を脳に還元しなくてもいいのか、というところに不思議な安堵を覚えるのは何故なのだろう。
 脳といえば、哲学の世界には、「水槽の脳」と呼ばれる思考実験があることは、よく知られている。

『水槽の脳(すいそうののう、Brain in a vat、略:BIV)とは、あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか、という仮説。哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・バトナムによって定式化された。』(Wikipedia「水槽の脳」より引用)

 ここまで書いて、ふと、脳裡に映像する光景。水槽の中を漂う脳の背後に、ぼんやりと浮かぶ蛸の幽霊。萩原朔太郎が書いた、自らの身体を食い、幽霊となってなお生き続ける「水槽の中の蛸」が、影を落とすことも、気泡を纏うこともなく、その透き通る八本足を艶めかしくも綾と繰り、脳に吸盤を吸い付かせては、電気信号を点らせるのだ。
 八畳の四角い部屋で胡座を書く、私の耳の奥に、見えざる蛸の哄笑が響かない。だってここは/現実現実。アハ、アハ。


四月三十日

  NORANEKO

『この世をば
 わが世とぞ想う
 望月の
 欠けたることも
 なしとおもえば』*1

 下手な歌を諳んじる、坂の上で湿る夜。遠くに茂る緑の並木。靄みたいに立ち込める精液の匂い。老婆の浮腫んだ尻肉のような黄桃が空の穴に嵌まってる。
 こんな夜に生まれたのだと思うと、気持ち悪い。
鳥肌が頬まで上る早さよりも遅く、坂を登る。やがて、彼方の道の奥に、あなたの待つ集合住宅がみえる。

***

 記念日の白い卓子に載る、お菓子の家を切り分けるあなた。
 ハッピーバースデーの歌が裏返り、弾ける林檎酒の笑い。
扉の金箔の花を、君と、半分こ。
蝋燭の灯る部屋の暗がりに垂れる、屋根にとける雪は甘くて、薔薇の香りがする。

『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』*2

むかしの、君の歌のように。切り分けられ、食べられた家の、つぐむ糸のらせん、二重。その、ふたつの時制を思うとき。あなたの谷間に光る、冷たい聖ペテロ十字が、緋色に染まって見えた。
あなたの背中に咲く、ホオベニエニシダの色うつりだろうか。

***

君の家は雪の上に建っていたんだ。朽ちて、その旧い家が雪に埋まるころ、僕らの家は、きっと、建つだろう。

***

僕らが口に運ぶ、骨まで柔らかい仔牛のシチューの油分で会話は滑らかにすすむ。それは卓子の隅に転がる茹で海老とか、床に落ちてる梟の羽根や、ひっくり返った蜘蛛のこととか。部屋のなかにあるものについてばかりだけど、時折あなたが脚を組んで見せる黒いハイソックスとか、悪戯にちらつく舌の先とかのおかげで、あまり飽きなかった。

***

蝋燭の火を吹き消して、その先は、語らなくていいだろう。青ざめた果物を鑿で割ったり、起伏の稜線に爪を立てたり。幾重にも襞をなす、青白い死者の乳が寄せては返す岸辺で、白く泡立つ裾の歯列につま先からあまく噛まれて、僕らは波紋になったり、螺旋になったり。そんな比喩のほか、語るべきこともない。歴史のいっさいは波のごときものだという、ただ、それ以外には。

◆◇◆◇

*1 藤原道長『望月の歌』。全文引用。
*2 三好達治『雪』。全文引用。


君へ

  NORANEKO

斜め射す、陽に翳る枯れ枝を引き裂く指に這う滴りがある。真珠の柔い虹彩が伝い、枯れ野に落ちて銀貨となる。(歯軋りが漏れている、私の)

銀貨を指の腹で摩り、陽の反照は冴え渡り錐のように左目を刺した。(盲いた、骨の夢)

襤褸の包みをほどき、風葬する永久歯。(ベアトリーチェもナジャも、さよなら!)

虹色の指で、なぞる、梨の皺。

骨の破片が裂いた空から、滴る脂肪で指先に、灯した燐の穂を浸す。

はしる、緋色の光が川となり、影送りされる物質の岸辺で、微笑む。あの、居もしない君が 。

―― 知っている、灰の君も、影の君も、荒地の君も、曇天の君も。光には、もう、居もしない、君のこと。

(塊が、油彩の、斑の球のような音楽の、塊が、君とか、そういう、取り返しのつかない遺失物の斑の油彩じみた音楽が、胸を破ろうとして、絶叫になろうとして凍てつく、静寂がたゆたう。(水平線みたいに、私と君の曖昧な深淵に、凍てつく、粒子らの波))


コキュートスの襞のための独白

  NORANEKO

洗われた夜のビロードの底を、青い水の幾筋かが流れる。
(わたしです。これが、わたしです。)
木霊する、静寂の舌の、見えないふるえを指に、乗せて、君は手帳に二、三の翻訳を綴るであろう。
(語られなかったものたちを、担い、語る、)
君は詩人としての自身を、そのような役として生きることにしたのだから。
鉛筆の、六角尻を唇にあてながら、鼠色に敷かれた道をかつかつと、踵で叩く、君に、重なり、寄り添う、見えない子宮がある。
アシラ、(反転/子宮)ヘレル、
螺旋を、描く、レエス。青ざめた襞のつらなりに抱かれて、凍える、それが君と彼女との絆であった。
「ヒュブリス、あるいは、オイディプス?」
即興の、詩句として、唇をふるわせたそれは、まだ生硬であれ、君たちの祖の起こりの、糸筋をなぞっている。
「戒めは、我が内なる声に。貴方の記憶に。」
ぶつぶつと、俯く、君の法悦は、他の誰にも閉ざされている。ほら、すれ違う、あの人も、目がひきつって、
「系統樹にはしる、忌むべき斜線を、埋めるように、」
吐瀉物が、爪先を、白く汚す。
「叢が、沸騰し、」
盲いた、お前へ、
「愛して、ますと、」
尻穴を、めがけて、
「光れる、爪先を、」
ぶちこんでやった。
「刹那、ふるる、」

唐突にも散文だ。深夜三時都内の某路上、アスファルトにうずくまって痙攣を続けるのは黒い綿の羽織であったが煤や脂にまみれて今やすっかり襤褸の布切れになっちまったのが身体に張り付いてもはや皮膚の一部かと見紛うありさまの浮浪者だ。髪の毛もニット帽も同様に境が見てとれないが、萎びたわかめの上にこんもりほっこり突起があるそのシルエットの塩梅から有り様を目測で判断できる。H型の火傷痕(ケロイド)に癒着した瞼の下の眼球は、おそらく潰れているのだろう。顔は青ざめているのだと思うがゴキブリ色に汚れているからわからん。しゅしゅ、た、しゅしゅしゅ、た、と。命乞いの擦音を洩らす荒れた唇から垂れる涎は一筋の蜘蛛の糸なんじゃねーかと俺(と、さっきまでのわたしは文体に合わせて一人称を乗り換える。)の脳髄のどっかしらの部位に備わる修辞回路が共示義的な像を目の裏に幻燈させる。
(生存本能がその欲求を叶えるものの象徴たる蛛の糸そのものへの変身願望へと倒錯したものがこの一筋の涎として表出したのだろう。)
俺は勝手にそう読解し、勝手に胸のときめきを覚えたから勝手に浮浪者の鳩尾にブーツの爪先を叩き込んだ。
横隔膜から絞り出される野太い濁音としゅしゅしゅ、という擦音が、なんか、生きている感じで。俺はこいつがまだ生きている、まさに、なんつーかそう、実存が素っ裸でぴかぴか光っているような気がして、泣きそうになって、また蹴りあげる。
「もっと、聞かせて、君の声を。声なき声を。
僕はそれを詩に書いて、君の代わりにうたい、続けるから、」

さかしまの、らせんを、すべり、
おちる、ねむりの、やわらかな、さむさ、
たろう、おねむり、きみの、ことばは、
きみでない、わたしが、ひきつぐから、
たろう、ここで「野良犬のように死ねよ。」

洗われた夜のビロードの底を、這って、
流れる、吐瀉物と、血液の、螺旋、
(わたしです。これが、わたしです。)
浮浪者よ。お前の閉ざした瞼の裏の、母の、氷の微笑が、胸の底の、暗闇に、渦を巻いて、吹き荒んでいるな。
(わたしの世界は、回り続けた、
淀む水の回転、ねじ折れる右腕、
オレンジ色の密室のなかで
回る、血の分子)
青ざめて、沸騰する、お前の血筋の斜線
/を、埋めるように、雪が、降り積もる。
「しゅしゅ、た、しゅしゅしゅ、しゅ、」
雪の上でも繰り返すよ。配役が変わるだけさ。
(ああ、人間の、祖型だもの)

「「兄さん、どうしてわたしたち、分節されたの」」

あの日からというもの、俺の内臓の暗がりに、ひとりの浮浪者が蹲っている。皮脂と垢に赤茶けた両手の指を、血色の悪い唇のほうへ寄せて、白い息を吐いている。季節がどれだけ経巡っても、その暗闇は冬のように寒かった。

「「母さんのお皿には切り株と魚、お父さんのお皿には蛇を咥えた鷹、僕のお皿には明星と河馬の、絵が描いてあったの」」

俺が路上でホームレスが手売りする雑誌を2週間にいっぺん、1冊300円で買うたびに、俺の暗がりにも銀貨が降り注ぎ、その明かりの下で、浮浪者は熱いカップ酒を啜るのだ。

「「母さんは床に垂れた父さんの脳みそをかき集めて、あけびの割れたような頭の穴にそれを押し込んでから、必死に心臓を叩いて、接吻しながら、息を吹き込んだりしていて、僕はなおさら腹が立って、母さんの腱を」」

幼児退行とでも、いうのか。汚れの下からもはっきりとわかるほどに頬を紅潮させ、泣き咽びながら昔話をするとき、男はやけに幼い口調になった。必死に親指の爪を噛みながら、掠れ、くぐもった声音で懺悔をした。

「「灯油のおばちゃんは優しかったよ。たくさん手を擦ってくれたよ。おじちゃんも優しかったよ。車に乗せて、いってくれようとしてさ。でも駄目だよ。もっと早ければ」」

俺は、部屋の隅で身をちぢこめながら、あの日、浮浪者から奪い取ったニット帽で顔を覆い、頭上に両手を組んで夜を過ごしている。

「「サガノの工場に弟がきてさ、その日に言われたんだよ。

にいさん、どうしてわたしたち、わたし/たち、」」

俺と、この浮浪者の分節はどこにあるのか。時折わからなくなる。

―――――(暗転)――――――


橙色の((H))光る、罪名

焼き鏝の先の煙りと、焦げる肉と脂の臭い

―――――(それは、あたたかな、黒だった。)―――――


朝。内臓の暗がりの浮浪者を父さんと呼んでしまった、その日から。

ニット帽を、洗濯機にかける。
ニット帽を、電子レンジにかける。
ニット帽を、扇風機に被せる。
ニット帽を、台風に晒す。
ぐるぐると、螺旋。
寄り添うのは夜の子宮。

ヘレル、(暗転/子宮)ヘレル、
アシラの、微笑、
「息子でも、男なんだね。粗末なモノおっ勃ててさ」
瞼の、裏の、
あばずれの、お母さん、
(緋色の、光の筋が、呑む、)
虹色の、凍傷の痕を、
なぞることが、歴史だった、

「Hubrisの、鼠径へ、」
すべての、未来の、供物から。


偏執した批評のような独白

  NORANEKO

躊躇ってる。空中に震える指の先で罅割れる硝子板のような硬い幻触と、幻聴が鼓膜を刺す。沈黙のなかでざわめく奴等がいる。否、沈黙たちがざわめいているんだ。(なぜ、複数形なのかは、直観したとしか言い難い。)顔の半分が痺れて、電気がはしるように時折、筋肉が跳ねる。青い、痙攣の痕跡が、幾筋も皮膚に貼り付いている。これは幻視と、厳密には言えない。触覚の名残が共感覚を介して視覚に残像したにすぎない。……ところで、頭痛よ。君が記憶を食べる一匹の虫でありはしないかと、俺は見積もってるんだが、その、取り引きをしないか。俺の記憶と、君の食欲とを持ち寄って。(その記憶について、俺は語るのを憚る。なぜなら俺は詩人だからだ。私秘性に封をされた言葉を読み手に押し付けるなど、そんな、破廉恥なものを、俺は書かない。)白濁した独白に埋められた声に耳を澄ませながら、俺は手元に連なる書きかけの詩文を読み返して、見た。
















が、ばっくりと、開いてる。(これじゃあまるで自由の刑だな。(うむ、この曖昧さがね、いいんだよ。その、開かれていて、うむ。))この口の前じゃ、さっきの括弧部分みたいに捻れている胸裏の声を詩的にパラフレーズして「見よ、太母の朱火と裂ける陰を!」としたところで、含意の嵐に掻き消えるばかりなのが、丸分かりだろう。(なんだこの、あばずれの、がばがばの、あなのなか!)そう、たとえば俺や、お前たちみたいに。沈黙たちの饒舌なふるまいに、気が狂れて平伏す詩人が今夜、私秘性の高い詩人を叩くのだろうが、それすらも呑み込んでゆく沈黙が、今日も、俺たちの耳の奥を等しく叩く。ほら、詩人、聴こえるだろう? 俺には聴こえるよ。歯軋りや、唸りや、怪鳥の叫びのような、そんな、沈黙たちが、荒び果てて。明けない夜の過客どもの、嵐のような静けさを、聴けよ。

(頭痛よ、俺と、取り引きをしよう。)

藻屑のように青暗い缶詰のなかで、白く、ほろほろと灰が、綻ぶ。浄火に明るく崩れてく、俺の詩行の群れの、一匹、一匹を、舞い上げる励起。灰は温もりの河を昇り、呪詛は月の光に入るのか。俺にすら赦されない彼岸で咲くか。誰の手からも離れて、読まれることも、書かれることも、もはやないのか。窓のなかで霞み、幽かにくゆる、月の繭。あの光が洩れているのは、やはり穴? 天地を反転された黄泉路のそれか? なあ月よ。黄金の、洩れだす穴よ。お前のがばがばのその口で、咥えてよ。俺の言葉を。お前のざらざらの歯で噛めよ。下弦の夜に裂け目と冴える歯列で咀嚼してくれよ。咀嚼する、幻聴がした。ように錯誤させる、木々のざわめきに産毛が逆立って、喉を鳴らす、鎌鼬。


To: Ineo Yatsuha

  NORANEKO

わたしの頭の中を這い
回る痺れの指の群れに
回されるまともが掻破
される冷や汗が垂れる。
滴る。

鉄の箱は平常運転で
果て無い辺獄の薄暮れを
水平に滑走する。

窓がふるえ、灰色
のシートの微睡みに
君の詩集の断編が
反響する。

『複数形の彼は問う、
「これでもか、これでもか、」と。
単数形の私が答える、
「それでもだ、それでもだ、」と。』*1

題名は、『生きる』だったよな。
なあ、カンパで本出して
ニーチェのパクりは駄目だろう。
等と、なじる術もないのだと、
気付いた、永遠の夕刻。

『僕は信じる、虚構にのみ棲息できる、真実の存在があることを。その表明に代えて、ここに、僕の人生初の詩集を刊行する。』*2

何故、吊革なんて、握ってるんだ。

◆◇◆◇

*:八つ葉 稲雄『不壊、往く。』(扶財出版,2000)より。

1:詩『生きる』より引用。

2:序文より引用。

彼がこの世にないことを、今になって噛みしめている。

◆◇◆◇

ここから、八つ葉 稲雄の来歴を述べる。彼は2013年12月中旬にわたしが思い付いた名前にすぎない。むろん、引用された詩句も、序文も、引用元の詩集も同様だ。が、あなたとわたしの脳裡に灯るクオリアの幻像はそれらを補完してある一種の可能態としての八つ葉 稲雄という人物を思い描き、一冊の詩集『不壊、往く。』を各々に具現せしめたのではなかろうか。より想像力のたくましいあなたならば扶財出版なる非実在出版社の建物と事務所と働く人々を想像したろう、おぼろ気にもイメージを伴って。その淡く綻ぶ輪郭の揺らぎは、まるであの薔薇園に舞う木霊のように、あなたとわたしの通らなかった道を掠めて行く。風が止み、わたしたちの、可能態にすぎないものらが歩く。ありもしない過去の記憶を連ねて、現在を、横切ってゆく。それをわたしたちが眺めているのだとも知らず知らずにそれらは三叉路をそぞろ歩く。歩く。
歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。
歩く。   騒
歩く。 騒      
歩く。  騒 
歩く。 騒
歩く。    騒
歩く。   騒  騒 
歩く。     騒
歩く。       騒 
歩く。      騒 
歩く。         喪、この藍に濡れた文字を身に塗り夜に紛れる。するとほら、わたしはこの帷の何処にでも存在しうる。あなたの認識において、わたしは蓋然性の塊になる。あなたの靴底が擦ると(今や舞台は夜の道だ。)、軽やかな音色を立てる金網の下の空洞を流れる水から、もし、囁きのようなものが聞こえたとしたら、わたしかもしれない。わたしはあなたの夜の靴底を流れる一編の音声詩になったのかもしれない 。もはやこの騙りに意味はない。所詮、神さまごっこにすぎないのかもしれない。だがね、あなたがどう読むかで、わたしの言葉は玉虫色にその価値を輝かせるかもわからない。そのために、わざわざ読めない詩句として開いてるのだから。この帷の隙間、夜の向こうで綾取りをする黒子たち。あれはわたしたちの影だ。あの悪戯なくすくす笑いも。

◆◇◆◇

鉄の箱はふるえながら
非実在のカーブを
曲がりきれない。
座席にうずくまる、わたしの
名前の背中に糸が見える。
疑問符のかたちに、身体を
叫ぶように捻る。


隅田川ランドスケープ

  NORANEKO

 東京スカイツリー、その、白い人工の鉄塔を睨み付けるような天工の単眼は、陽炎のように揺らぎ、瞳を黒く満たす。金環の輪郭、錯乱してふるえる、厳かな黙示が、(二羽目を弔った、)あの、半鐘の残響のように、胸のなかで鳴り響いて止まない。
 日蝕に翳る、薄曇りの空を、片目の濁った隼が旋回する。それもやがては癒えるだろう。雷門前の交差点の、まさに「交差点」といえる中心、その◇形の空間に、卵がひとつ、置かれていた。殻が罅割れ、中から、あたらしい鴇の雛鳥が生まれる。
 四方八方から沸き起こる熱気。「私が産婆だ!」という意味の、歓声。雷門前通り、雷おこしのほうからロシア人が、向かい側からは中国人が、神谷バーと、向かいの富士そばの方からはアメリカ人が、各々の言語で異口同音に言祝ぎしながら鴇の前に殺到し、輪になって囲んだ。
 三羽目の嬰児の、新しい暦を告げるひと鳴きを、聴きにきたんだ。

「東方の三博士っぽい」

 ロシア人にぶつかって肩を痛めた俺はぼやきながら、トインビーの論文が収められた文庫本を鞄にしまって、神谷バー方面へ歩き、通り過ぎ、そのまま東武線浅草駅前の横断歩道を渡る。日蝕の瞳が剥がれて、人々の足は営みに赴く。



 朱色の街灯と欄干が目に映える吾妻橋の描く、滑らかな弧に沿って歩く。灰色の正方形を縫うようにはしる白い長方形の描く敷石の模様(パターン)を靴底で叩く。遠くには、首都高速六号線があり、トラックや乗用車が走り抜け、その向こうにアサヒビールの社屋がある。その、墓石のように黒く滑らかな台形の逆立。その頂で尾をたなびかせる、黄金の人魂のような灯火のオブジェ。一体、この意匠は死への叛逆か?



 雨が降りはじめる。



 雨の中、朱に塗られた吾妻橋の欄干から身を投げる女、一人。釵の花飾りが橘で、目に焼き付いてしまう。川面には、待ち受けたかのように鉛の棺があって、女を口に入れてから蓋が閉じ、重く鍵の回る音がして、沈んでいった。
 雨は止んだ。俺は傘を閉じた。



 橋を渡り終えて、左に折れるとそこには、すみだ地蔵尊の御姿が彫り刻まれた碑がある。脇に置かれた賽銭箱に十円玉を放り込むと、鐘のような音がぼんやりと足元を、ほの白く染め上げてゆく。手を合わせる。地蔵様の背には関東大震災の犠牲者と、都内の戦没者を供養する卒塔婆が四本、立て掛けてある。



 スターバックスの「本日のコーヒー」をホットのまま啜りながら、言問橋方面へと歩いている最中、勝海舟に出くわす。石になったままの奴とにらめっこしていると、浦賀の港のさざ波と、一羽目の鴇の声が聞こえてくるようだ。実際には、隅田川のせせらぎと、カモメの鳴き声ばかりなんだが。



 例えば、俺が移動する点に過ぎないとして、軌跡とは点の連続にほかならない。
 俺が言問橋の、桜の絵が描いてあるモザイクを革靴の底でカツカツやっているあいだ、軌跡は滞るだろう。線分の突端で、点描が歪に丸く、濃さを増すだろう。だが、奴らには、そんな暇はなかった。
 俺は水色の欄干と、緑色の、まるい鱗を立てて流れる隅田川の間にある断絶を凝視し続けている。俺の視線をいま、ポイントライトのように色づけして照射したとすれば、それは、昭和20年の(俺たちの暦では1945年の、)3月10日に途切れた無数の人々の軌跡、その幾人ぶんかの消失点と重なっているだろう。(2羽目の鴇の産声が、街に響くのは、そのしばらく後のこと。)
 川の飛沫を孕んだ風が頬を撫でる。俺の頬を焼かない風が。
 

 
 言問橋を撫でる影がある。カモメが悠々と空を飛んでいるのだ。その折、老婆とすれ違う。雀色の半纏を羽織る、丸やかな背筋を伸ばして「あれ、都鳥が飛んでるねぇ」などと一人呟いている。粋な婆ちゃんだ。
 数秒が経ち、背後で沸き起こる悲鳴がある。婆ちゃんだ。駆けつけると、うずくまっている。耳元で、ハエが飛んでいる。払っても、払っても、また、耳元に。「やめてくれぇ〜! もうやめてくれよう〜!」婆ちゃんが頭を激しく振り乱して泣きわめく。目じりを皺くちゃに、顔を真っ赤にして、黄色い歯を口一杯にひん剥いて。叫ぶ。
 俺は蠅を掴み、そのまま潰した。もう片方の手で、婆ちゃんの背中をさすり、耳元で言い聞かせる。「大丈夫だよ。もう終わったよ。終わったからね」
 婆ちゃんが、両肩にしがみついた、あの感触が今も、貼り付いて消えない。


 
 駒形橋付近の観音堂でよく目撃されるそうだが、青白い顔をした三つ目の馬の面を被った男が斧を持って走っている。俺も今まさに遭遇しているが、鼻息が荒い。被り物ではないのか? 右手には、何枚もの写真。一枚が落ちて、見てみると、無人の街中で対峙する、一匹のダチョウと、三匹の柴犬が写っていた。
 青白い馬は怒っている。



「ブンメイコウサロ?」
「ええ。文明交差路なんだそうです。日本って」
「へえ」
「だから、新しい時代の思想ないし、宗教は日本から生まれるのだと、教授が」
「なんか、すごいね」
「ええ、いまいち、実感が湧かないというか」
「ちょっと、大袈裟だいね」
「そんな気はしますね。ただ、条件を満たしているのは確かですが」
「まあ、ほんとにそうなったら面白いやね」
「面白いですね……あっ、」
「青木くん、どうしたん?」
「飛んでる……夜空を、カモメが飛んでるんです。何羽も、ぐるぐる」
「俺、宮沢賢治で読んだことあるわ。銀河鉄道の夜で」
「賢治にも、カモメ?」
「うん。あれでも、輪を描いて飛んでた。」
「なんか、文学ですね」
「いいね、俺らを祝福してるみたいで」
「ええ、外灯に、白い羽毛を光らせて」
「夜も、飛ぶんだね」
「私も今日知りました」
「何mSv/h?」
「えっ」
「カモメを運ぶ夜風は何mSv/h?」
「……」
「今、どこにいるの?」
「駒形橋ですよ。センパイもよく通る、」
「青木くんの頬を撫でる風は、」
「川の飛沫を孕んで優しい、この風は、」
「何mSv/hだろうね」
「今は、やめませんか」
「そうだね……なんかごめん」
「いえ。私もよく、考えますから」
「考えちゃうよね、ふとしたときに」
「雨に濡れて歩く幸せを忘れました、最近」
「俺もだよ」
「復興、できますかね」
「東北は、だいぶ良くなってきたみたいだよ。怪しい話だけどね。」
「東北もそうなんですけど、これからの被災が」
「ああ、そっちの」
「東北が、日本になる」
「あと、何十年後だろうね」
「僕らの骨に、」
「魚たちの内臓に、」
「時限性の花が、」
「復興、できるかね」
「備えるしか、ないですね」
「お金、たくさん貯蓄しないと」
「賠償、ふっかけられるよね」
「購うのは、僕らですからね」
「悔しいやいね」
「悔しいですね」
「でも、文明交差路」
「ええ、ここは文明交差路」
「新しい暦と叡智が、」
「夜を朝に運ぶ風が、」
「吹くね、きっと」
「信じましょう、吹くのを」
「青木君、スカイツリーはどうだい?」
「優しく輝いてますよ。内側は水色で、白い光の繭に包まれて」
「いいねぇ」
「あの辺では、みんな見上げてますよ。老いも若きも」
「みんなの祈りだね」
「ええ、地上から、空へ」
「突き上げて、空には?」
「月が、大きな月が」
「きっと、黄色いんだろうね」
「ええ、ふっくら大きな月が、お饅頭みたいに優しい」
「祝福だね」
「どうでしょうね」
「えっ」
「樹は土の養分を吸い上げて伸びますよね。同じことですよ」
「よくわかんないけど」
「真下の通りに構えてる店、どこも暇そうですよ」
「そういうことね」
「でも」
「そうだね」
「名づけられない暦の鴇が」
「生まれたんだね、三羽目が」
「ええ、僕らの鴇が」
「天上の黙示と」
「地上の祈りが」
「拮抗してるね、この交差点で」
「歩く場所を決めないといけませんね、私も」
「僕も、」
「じゃあ、そろそろ切りますね」
「また、いろいろ話そうね」
「ええ。では、また」
「はい、じゃあね」


虹の第八色についての独白

  NORANEKO

蜂の複眼を比喩として束ねられた意識たちが煙る輪の滞留に触れる千手 鮮やかにwikiる タッチパネルの振る舞いに虹の第八色が凍てついた網膜が反転して子午線を通過するわたしのtweetが捻れてゆくの時計が針が呼吸が歩行が意識の波が匂いが変質する時だから。青ざめた馬が粒子の雲になって海岸に漂うからわたしは一杯吸い込んだ。嘶いた。

複眼の視野の一点が虹に偏執する夜、蛇に変えられた虹の第八色の夢を見た二時間後にわたしは喫茶店に出勤する。ありもしない概念など置き去りにするほど日常時間は河川の緩やかな慣性でわたしの脆弱な感性を洗い流してゆく。いま、絆創膏の貼られたわたしの左手人差し指に取っ手を取られているコーヒーカップ。WEDGWOODの野苺の絵も、既に擦りきれている。
膨らまないコーヒーの粉に斜めの角度で刺さる96.5度の注湯。粉は対流し、800種類の香味成分の一切合切をサーバーに落としてゆく。落ちきる前に挙げられた台形三つ穴ドリッパーの、上で干からびてゆく泡の、光を失うさまはおじいちゃんや、昔の飼い猫の、あの時の眼に似ている。世界は叙情ばかりだと想う。わたしが強調するまでもないほど。

(無意味の意味などわたしのテクストから滅びれば良いという比喩も滅ぼしてくれるほどの純粋な叙情の滞留、すらもわたしは滅びればよくって何が残らなくてもいいのっていう虚無すら無化する、骨が立ち上る行間への、膨大な祈りの連打としての散文の塵ども。震えろ、震えろ、うつくしさも残さないで。)

スマートフォンのタッチパネルをはしる蛇のような散文の羅列を連ねるとき、息切れしそうになるのがいつも怖いから、過剰であることが安らぎだったように想う。
毛布一枚あれば眠れる身体は、背を床に預けたまま夢見ることを許してくれる。どれだけ汚い夢でも、夢は夢だから嬉しかった。(虹の第八色、あれはどんな色だったのかいまだに思い出せない。多分、暖色系だったと想うのだけれど、色見本のカードをめくっても、めくっても、ぴんとこない。)

はじめて飼い猫を亡くした13歳のころは、よくお風呂に浸かりながら、色のない世界を想像しようとして目をつむっていた。遊びというには脅迫的な感覚に突き動かされた試みだったように想う。結局、どんなに色を無くし、空間を無くしても、黒い平面だけは意識に残った。黒を消し去ろうとしても、白がすり替わるように表れた。冷えきった水風呂のなか、唇を紫色にして震えていたあの頃の自分は、沈黙するほかない命題があることを知らなかった。きっと、それだけの、よくある話だ。たちが悪いのは、今もあの頃とそれほど変わらない、沈黙を知らない拙さを残したまま生きていることだろう。

(無色が認識の範疇を超えているならば、わたしの意識に像を結ぶことはありえない。ならば、虹の第八色は、何らかの存在しうる色のひとつであったはずだ。)虹の夢を詳しく思い出せない。


ある祭り。

  NORANEKO

一粒のシが、挽かれ、練られて
あざやかに色をなくす、朝に
光の膜をはるきみ、ぬられ
いぶく、つちかわれる子らの
泥、すくわれて

凍土となる、えいえんを
島と呼ぶ。たゆたうそれは
夜と呼ばれた。下にはいつも
色とりどりの花、形もなく
つまれてゆくときのせいだった。

(せい、とは何か?)、夏が
かえらせてゆく祖らの木霊のなか
シはかえり、凍土を
さめた花群は咀嚼して、
子どもたちを泥がいざなう
きみへ、夜の火の舌へ
もえあがる色、味わい
回る、姿と影は
境を、とかして。


無能

  NORANEKO

予め無かった、という意味をたずねなさいと
あてどなく歩き続けました。着の身着のまま、
何も知らないまま走り続けて、欲しかった、その
うつくしい白さに目を焼いていたかった。と
転びながら、泥のなか、あえぐ私を抱きしめて
いたかったでしょう、と言いたかった。あなたは
至らなかった、道を真っ直ぐ、しいて
清潔な直角を踏みしめて欲しかった。そのまま
乗り越えて行く羽は夢だったと、気づいて
欲しがったのは誰だったのか、わからぬまま
知らぬ間に、失効していた期限を前に
あきらめない、白い道をどこまでも、どこまでも
まるで地につかぬような足取り、あるいは羽が
あるように思えた希望、抱きしめていたのは
私ではない、希望を、あなたは抱きしめて
見えない。私は、見えなかった。黙って
白い言葉に焼かれて、うつくしい灰も
ゆるさなかったね。明日の話をして
ずっと、黙って。欲しかった
始まらない、終わりが
続いてしまう、


水溜まりの机

  NORANEKO

 書くことがなくなって久しい。ところどころ亀裂の入ったアスファルトより散った破片の礫を靴底で転がしながら、脳裡に机上を空論する術を見つけては放り投げた。雨がぽつぽつ降り始めたのはきっとこの行為のせいだと、道端に広がる掘り返されて剥き出しの農地に出来た水溜まりのなか、薄曇りの空となかよく逆立ちしたセカイ系の亡霊が、しかしおさな子の柔い産毛に包まれた頬を赤らめて言った。
 泥のなかに斑模様を描くいくつもの反転した世界で、反転したいくつものセカイの白い首に俺のいくつもの腕が伸び、いくつもの指が食い込む。
 俺は紫色の顔をビニール傘で遮りながら、この道に影を作る新幹線の架道橋を霞む視界で見上げる。剥き出しのコンクリート一面に貼り付いたカタツムリたちが垂らす透明な粘液の名前を知らないまま生きてきたことを今知った。俺は背負ったリュックの前ポケットから丸い、喘息用の吸入器を取り出し、それがカタツムリによく似ていることにそこで気付いた。俺は紫色の蓋をスライドさせ、中のつやつやの吸気口を剥き出し、紫色の唇で接吻した。勢いよく息を吸い込んだ。
 拝啓、田村隆一様。俺はまたシジンになり損ねてしまいました。眼鏡を忘れたことに気付いたときにはもう、車道を走り抜ける自動車の一群が疾走する花火にしか見えなかった。俺はセカイ系の亡霊が逃げた足跡の青い花火を見つめ、追いかけようとして、やめた。振り返り、振り返り、前を見て、俯いて、水溜まりのなか、びっしりと、カタツムリに取り付かれている逆さまの俺が灰色の花火になって溶け出す。その光景を、水溜まりごと掴んで放り投げた。
 書くことがなくなって久しい。ところどころ亀裂の入ったアスファルトより散った破片の礫を靴底で転がしながら、俺は剃り残した頬の産毛を撫でた。剃刀の替刃を買おうと決めて、空論のまま、いくつもの机が転がった田園を逆さまに通りすぎていった。


(((Echo-Noise)))

  NORANEKO

針金の母の底、逆しまに
しずめる太陽を摘まむピンセットの先
時制を反転した記憶に凍てつき、染まる
その色は、(((Echo-Noise)))

掻き消された、音のなぞる形も
きっと、無かったことには出来ないの

二十数年後、レストランの窓際の席で
あなたは逆光に塗りつぶされて、黒く
何でもないように笑う。卓上、
置かれた一枚の写真に、私の
見えない兄弟、あるいは姉妹が
沈黙している。退屈な笑顔を浮かべ
整列する私と家族の背景の庭に
しずかな重力を加え、歪む、
その形は、(((Echo-Noise)))

視力が落ちて、滲む景色の
溶けかけた輪郭をなぞるように歩く
「その時間が、慰めでした」
針を飲み下すような顔で笑う、私を
曖昧な消失点の彼方で、じっと見つめる
(((Echo-Noise))),うらめしいかい?
背中を丸めた私ですらも、
「どうしておまえなんだ」って。


朝、大聖堂の素描を持って。

  NORANEKO

たとえばバングラデシュの女学生が焼死した話をしたとして君は咥えた花の蜜を吸うハチドリのことを気にするだろう。Kindleのタッチパネルを淡々とたんたんと暗澹たるダルメシアンのような面構えで叩く僕のことなんか本当にどうでもいいように緩慢な半とろけの時間のなかで。「どうでもよくなんかないわよ」さくっと柘榴の実を割って君はなんだって千里眼て顔をしてくりくりとつぶらな複眼で僕を胎臓界曼陀羅じみた万華鏡の遍在へと視界する。「そんな顔してたし」眉間に皺寄せ見るニュースによるとどうもノートルダム大聖堂が案外となんとかなりそうな気配に安心し新デザインの公募に君を模した聖母子像を意匠したいと思いつつ言葉にはけして出さない。もうdancyuに夢中で僕なんか眼中にないって風な意識の寒中水泳めいた風情の視線で瞑想風読書に耽る君だってこんなことお見通しなんだもん。メリーアメンラーチキンラーメンだーとなんか今しがた思い付いたエジプト風インスタントラーメンの架空のコマーシャル・ソングをホーミーの複声で歌いながら僕は聖堂の素描を手帖に描く。バラ窓に燃え盛るステンドグラスの君の口にそっと花を挿してみる。ガーゴイルは恋をするのか? 僕にそれはわからないが少なくとも僕は君のガーゴイルだ。「あ」君のはっとした「あ」の発音が撥音で張り詰めた世界がぱんっと割れて裂け目が出来たテーブルから発酵した菌糸様の世界線が伸びる。するとするっとするするっと僕と君の分身をひとつずつひとつずつありとあるあらゆる世界の朝に導く。じゃあまたねと僕はあらゆる世界の可能態の大聖堂の素描のノートをあらゆる形で分有したまま記憶の底に沈み沈んで今迎えてるこの朝。


口ほどに蝶

  NORANEKO

角膜の剥がれるように羽化の滴が伝う
硝子戸に透けた翅として冷たく瞬き
唇ほどに物を言うモノクロ。

●蝶/
/○蝶

気の狂れた四月の仄あかい月
交尾のように緩慢な時流のとろみに
沈黙の背中が裂けている。

(((未声、が

ーーPantomimeーー

未成、のままに)))


柔らかくされた幼年期が臼歯で潰れた
匂いが酒精へと転写されてゆく、なんて
花のように残酷な時間から醒めて、
もう、行方知れずのアサギマダラだ。

文学極道

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