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まーろっく

選出作品 (投稿日時順 / 全25作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


花嫁

  まーろっく

ありもしない町で、あなたはタクシーを降りる
花嫁だというのにあなたを迎える人はいない
あなたは、ありもしないわたしの郷里で
ありもしないわたしの家をさがす

タクシーは色あせた舗装路を駆け去ってゆく
日傘の薄い影の下であなたは
後部座席のカバーの白さを思い出すことだろう
もうあなたはそこに座ることは無い

めざとくあなたを見つけたのは
ありもしないわたしの家の
ありもしない斜向かいの
ありもしない魚屋の親父で

濃い血の色に光るカツオのはらわたを
際限も無くあふれでるはらわたと臭気を
包丁でかきだしながら見るものだから
あなたのブラウスはもうだいなしだ

あなたは泣きたい気持ちになっている
しかしありもしないわたしの家を
探しまわらなければならない

隣人の、傷口にさえ舌をあてがう人々の
同じ顔をした(ああ、まったくわたしと同じ顔の!)人々の
あいだをあなたは歩き回り、たずね回り
好奇と、警戒と、嘲笑にさらされてやがて、
陽が牛の吠え声のようなサイレンの音に
溶けてゆくのを目にするだろう

婚礼の場も、宴席もここにはないのだ
あなたは花嫁だというのに

しかしわたしは見ているその一部始終を
町外れの丘の、ありもしない先祖の墓にもたれて
あなたを欺いたわたしの頭を
墓石にうちつけながら


  まーろっく

旗を振れよ

あらゆる窓からバルコニーから
何にも属さない、きみの旗を
それはもって生まれたきみの模様
変わることがないきみの色彩

旗を振れよ

放課後の校庭からビルの屋上から
それはかげろうにゆらめく蝶の羽
陽に透けて見える毛細血管
きみがきみであるためのしるし

夏の空になげうたれる色彩
時のうちに崩れ行く意匠
小さな手が、若い腕が、老いた肩が
風にあらがって旗を振っている
誰かに向けて
何かに向けて

旗を振れよ

地上を覆いつくした蝶の群れ
祈りは乾ききったとしても
今ここにいることを告げようとして
旗がゆれる
町がゆれる
きみがゆれる


せみ

  まーろっく

弥陀の内耳は夏空の高さだ
せみの声がわきあがっている
それはサイダーの気泡のように
空の青みを漂白していく

親不孝者は無花果の木の下で寝そべっている
母親は仏壇に供え物をし、花を飾る
焼けた赤い土の上で待ちながら
ふたりともひからびてゆくだろうか?

コップのなかのせみしぐれは念仏にかわっている
それは弥陀の頭蓋に沁みてはいるのだが
弥陀のまぶたは閉じたままだ
五劫のねむりをねむったままだ

僧侶は丘の楡の家か
森のなかの橡の家か
飛んでまわっているのだが
念仏するほどに死んでいくのだが
無花果の家は夕暮れの果てだ

 父さんの三度目のお盆ですね
 郷里のお墓は壊しましょう
 いっそ石も骨も粉にして
 撒いてしまったらどうですか?

庭先に落ちたせみは念仏の恍惚に踊っている
犬の前足と戯れているのは
ぬけがらにすぎない
隣家の打ち水にすぎない

僧侶はおそらく息子の親不孝をなじったのだ
正直で小心な母親に向かって
小さなからだをこれいじょうなく丸めて
念仏に聞き入っていた母親にむかって

空はおそらく赤く燃えていたのだ
僧侶は玄関の引き戸をあげて
薄い羽を広げて舞い去ったのだ
母親は何も見せもせず、知らせもしなかったが

 母さんあそこで燃えているのはお坊さんです
 燃えながら父さんのところへ落ちていくんだろうか?
 ああ、真っ赤だ。空もお坊さんも骸骨も真っ赤だ。

親不孝者が午睡から醒めてみると
庭でせみが動かなくなっている
もう蟻がたかっていて
せみの薄羽をはぎとっている


背中

  まーろっく

切られたり
刺されたり
ましてや
撃たれたり
したわけじゃないが
どうにも背中は傷だらけだ

新しい肉の盛り上がったのや
飴色がかった古いのや
妙なかたちの火傷のあとや
傷ばっかりが増えていく

それでいて口笛を吹いたりする
それでいて酔って歌ったりする

背中の傷がうずくから
うめきたいのを黙ってるうちに
やがて牡蠣殻やフジツボまでが
いまいましくも張り付いて
肩ごとずり落ちてしまいそうな
重さになる

それでも硬く押し黙っている
それでも皮を厚くしてこらえている

そんな背中がエスカレーターで運ばれてくる
階段口からよろめきながら溢れてくる
細長いプラットホームの空
この世の隙間から見上げるつかの間の朝
みないっせいに反った喉から声をもらすのだ
ひげの剃り跡をふるわせて

背中を脱ぎ捨てた声が昇っていくのだ
低く太い声が交じり合い、響き合って
地上の隙間から空に向かって
太古から続く生物の音声で

煤けた電車が狭い空を遮る
有無を言わさず押し込まれ
シュっといって缶に蓋がされる
また押し黙った背中の缶詰がガタガタと
巨大な工場に運び込まれる

きまった時間に
きまった量だけ


手のひらに明ける朝

  まーろっく

すべての人に手紙が届く朝
町の広場に男の手が屹立する
腕まくりをした生きた像だ
むろん何かを掴もうとしているが
それが何だったか
もう男の手は忘れている

それにしてもなんと汚れ果てた手だ
びっしりと溜まった爪垢が
 モーターオイルを吸って真っ黒だ
関節の皺、手のひらの微細な模様も
 薄墨色に染まって浮き出している
しかもなんという悪臭!
手淫をしたのだろう
油脂と精液がまじった機械と人間の
不埒な交合の匂い

レジの娘の空白の横顔をかすめて
男の手は書棚の雑誌を汚染する
ウエイトレスの純白の尻をなぞりながら
男の手は紙ナプキンに油のしみを作る
ショッピングモールに陳列されている
 食器の艶やかな肌
処女の匂いをたてている
 木綿の真新しいタオル
男の手は町のすべてを汚して回る

ネジをまわすネジをまわす
錆びた金属が擦れあってたまらない音をたてる
剥き出しになる金属の新鮮な地金
みな目をそむけ耳をふさぐ
その間に男の手は真っ白い少女の陰部の
 赤々とした裂唇に触れ
陰核からベアリング玉を揉みだす

誕生の喜びのない朝
油まみれの馬小屋から
男の手は組み上げたバイクを引き出し
エンジンに火を入れる
町外れから駅まで真っ直ぐな一本道を
バイクの咆哮が突っ走る
ビルの外壁や商店のシャッターを叩いて

アクセルを握り締めた男の手からは
真っ黒いオイルがしたたり落ちる
それは絶望の完璧な球体をしたしずくだ


パン屋昇天

  まーろっく

 評判のいいパン屋だったがその男はある朝、日めくりの白
い裏側に消えていたのだった。からっぽの調理服が仕事場に
立っているのを女房は見た。机のうえでまっ黒いパン生地が
イースト菌で膨らんでいた。
 そのパン生地こそ彼だった。三十年。パンに彼が練りこん
でいた密かな憎悪がとうとう消尽したのである。小心な男ら
しいやりかただった、じつに、母を父に殺された男らしいや
りかただ。
 きまじめに狂っていったので、女房にも町の住人にも気づ
かれはしなかった。赤い月が消え残っている朝だけひび割れ
た心から熱い笑いを吹き上げていたが、都会の朝焼けの音に
かき消されてしまいその声を聞いた者はいない。
 町は、三十年かけて人も建物も黒ずんでいったがあまりに
もわずかずつだったので自然に汚れたように見えた。ある日、
母親のまぶたの裏がまっ黒なのを見て幼児が怯えたが、その
幼児の舌もまた黒ずみはじめていたのである。
 女房は亭主の体温と同じ高さで発酵したパン生地をオーブ
ンに入れた。そうしてできた黒パンを早朝の白い光があふれ
ている店の棚に並べ終えた時、町の住人たちに撲殺されたの
である。買い物かごのかわりに棍棒を手にした人たちによっ
て。
 飛び散ったショーウインドウのかけらには、消えた男の朝
が美しく結晶していた。まぶしいほどの忘却のなかで起きた、
それが惨劇のすべてだった。


バイクのある情景

  まーろっく

 夜勤あけの若者がいて、溶接の閃光とプレス機の打音
の果てに漂着した土曜日の午後遅く目覚める。そこにあ
る彼のからだがもはや半獣神になっていたとしても、コ
ップに溢れ出た液晶に映りこんだ幻だと言えるだろうか?
 なお正確に言うなら彼の下半身は獣ではなくV型4気筒
1200CCのバイクであり、それは馬という馬の腹を裂
き終わった時代のごくあたりまえな神像であるかもしれ
ない。
 彼は驚愕と共に未知の言語を口走るが、それは例えば前
世紀にたっぷり血を吸った雲が聞き耳をたてるような類の
言葉だった。たとえ見開かれたまなざしの下にある彼の
暗黒の口腔からカムやクランクの回転音だけがしていたと
しても。
 彼は傾きかけた太陽を追って走らなければならない。都
市の1万の窓をよぎる影として。地図の盲点を貫通する一
個の弾片として。危うい軌道を描いて墜落する太陽がゆら
ぎ、彼の上半身は外野手のように背走する。 あらゆる秒
針をくぐりぬける彼の後ろで、外壁をはぎとられた欲望は
赤茶けた印画紙に崩れ落ちる。ハイウエイは蛇のみごなし
のうちに緩やかに倒壊する。
 かつて友人を埋葬した丘陵の頂上で、彼は未知の海を目
にするだろう。その時、人間の歴史のうえではじめて発せ
られたある問いを叫喚しつつ、彼は太陽を飲み込んで沸騰
する海へと駆け下る。
 せりあがる水平線の一端に、火傷と切り傷の夥しい痕が
ついた、そこだけが人間として残された手のひらをかけるた
めに。


カン・チャン・リルダの夜

  まーろっく

 路線図に無い鉄道を跨線橋で渡り、誰かの暗い夢に通じてい
る湿った複雑な路地を抜けると、そこがカン・チャン・リルダ
だ。胡弓弾きの女の歌や奇術師が吹き上げる炎に泡立っては消
えてゆく町さ。
 羊皮紙とともに朽ち果てた国や、逃げ水のなかで燃え尽きた
村から、何かが欠けちまった人間が廃れた街道づたいにここへ
やってくる。歪んだベッドに横たわる青い目の、褐色の肌をし
た女の寝息のなかにだけある町さ。
 首都のターミナルの、F番ホームから列車に乗せられて、カン
・チャン・リルダの駅でお前さんたちは吐き出される。みな一
様に妻と三人の子供を持ち、みな一様に痩せた性器をぶらさげ
て。流浪者や女衒や乞食の数千の手がお前さんたちを触る。老
いることができないここの住人たちがお前さんたちの頭髪に混
じりはじめた白髪を欲しがって。
 カン・チャン・リルダだ。忘れるな。標識につかまって立っ
ている片足の少年がいたら、傷口を触ってほどこしをするなら
わしだ。もしその子が立ったまま死んでいたら、ほおずき色の
かざぐるまを買って、供えてやることだ。影だけが残っていた
ら、コートをかけてやることだ。
 見事なキャタピラの跡がついている影を飾った未亡人の店で
飲んだあと、お前さんたちは夜の底にいくつも開いている娼窟
へ降りていく。そこにはどんなかたちの夜もあるが、みな等し
くどこか欠けている。腕や大腿や乳房や、あるいは顎と唇を欠
いた女を抱きながら、癒えた傷の、飴のように艶やかな断面に
やつれ果てた自分の顔を映すのだ。
 お前さんたちの肩に、いまや川原の石のように積み重なった
生活の記憶をもしその断面に取り落としてしまったとしても、
憂うことではないかもしれない。夜もすがら影を失ってカン・
チャン・リルダをさまよい歩く男たちの恍惚の表情を見るがい
い。
 何もかも見失って誰かの夢に迷い込みたくなったら、首都の
ターミナルのF番ホームをたずね歩いてみるといい。
 カン・チャン・リルダだ。忘れるな。俺が影を失くしてから
十年が経つ。


めざめ

  まーろっく

母猫はやせて、乳を与え続けるのだ
暗がりで大事に抱いた三匹の仔猫に
なかば閉じた目はもうなにも見ていない
死んでいるのといっしょなのに
それでも乳を与え続けるのだ

そうして今日、仔猫の目が開いた
米粒より小さな目が
深いブルーの宝石を沈めていた
それはわたしたちの世界に新しく開いた
六つの、小さな穴なのだ

外では桜がすっかり花を落として
舗道で雨に濡れている
四月の明るい雨雲の下で
若葉が声もたてず萌え出ている

そうして今日、世界は小さな六つの穴に
わずかずつ滴り落ちはじめる
母猫はやせて、それでも乳を与えるのだ
六つの穴の中にある暖かい暗黒を
やさしく前肢で抱いて


新芝川の散歩者

  まーろっく

新芝川は表情もなく澱んでいるばかりだ
かつて川口にコークスや鋳砂を運んだ
船のにぎわいをわたしは知らない
それでも住んで7年にはなるのだった
さえない小店主であるよりも
この土手の散歩者であることはよいことだ

わたしは煤けた灰色の作業衣を着て
昼休みには滴り落ちる汗をぬぐいながら
川の上空を見上げていた若い男であったことはない
今わたしが耳にするのはAMラジオの赤茶けた音声
錆びたトタン囲いの町工場に残っている
遠ざかりゆく20世紀の騒音

菜の花がまじる土手の斜面の草いきれ
わずかばかりの川原には葦が枯れたままだ
水門がある上青木で川筋は北に大きく向きを変える
川の西の地域には木造モルタルの古い住宅が密集し
その先の空間を褐色の外壁が断ち切っている
真新しい古代の建築としてそれは現れる

三つの銀のドームを持つ、それはしかしモスクではない
天文台とNHKアーカイブの複合施設なのだ
科学による占星術と映像の図書館
それを所有する王の横顔をわたしは知らない
そこでわたしたちの運命が予測され
そこでわたしたちの生死がつぶさに記録されるとしても

新芝川は古い一本のフィルムとなって流れはじめる
キューポラが吹き上げた赤い火の粉は咲くだろう
見知らぬ記憶に住む工員と家族はまだこちらを見つめている
旋盤は回転し金属の糸を永久につむぎ続けている
古い工場主の夜空には少年時代に見たB29が美しく燃えている
モノクロームの川面にはやがてわたしの影も映るだろう

高層ビルとセキュリティマンションが屹立する地平を
流れと澱みの速度で離れてゆくことは心地よいことだ
川口のうららかな春の午前は忘却ののどかさだ
古い一本のフィルムとなったわたしは問うだろう
流れ着く海はあるか?


機関車

  まーろっく

白い喘ぎ声は夕立のように降ってきた
公園の木立は身じろぎしてざわめき
回転をやめた遊具は聞き耳をたてる

母の横顔からあらわれる機関車
黒煙と蒸気のなかを進む黒い質量
線路の盛り土の上 貨車を牽いて

わたしの手はとうに風を孕んで
振られていた 母の背中で
汽笛を鳴らしてくれた 青い服の機関手

貨車の幾頭もの牛の目玉に
幾人もの母とわたしがいて
どこまでも赤い夕焼けを進んでいった

わたしが生まれた古びた二階家も
まちの菓子屋のガラス鉢も
水晶玉のなかで転がっていた

言葉はまだ見あたらず
にぎやかな音だけが耳にあふれていた
夜はまだどこにも訪れていなかった


五月 突風

  まーろっく

五月

わたしのなかを突風が吹き
新しい枝を揺らし
葉はいっせいに翻る

いく筋もの空行が草を分けて進み
口唇のかたちのみが記述を続ける

わたしは書きかけた一通の弔文を
部屋のテーブルに残してきた
開け放った窓のように
青い切手には雲が飛んでいた

南へ!
白い上着に風を孕み
目には光の痛みを突き刺す
それが5月の旅の始まりだ

街の角ごとに渦を巻く
人々の夥しい会話から
聞こえてくる夏の遠雷

きのう、安アパートの大家が死んだ
遠ざかりゆくすべての白い背中に向けて
棺の蓋は音高く槌打てよ!
       (父ちゃん七十三だったわ
         (お風呂で死んだのよ
             (ギュッとなって 
                 (ギュッと 

南へ!
葬列とともに心は北へ去れ
われさきに駆けてゆくわたしたちが
投げ捨てた重い鞄のように何も語るな!

五月
翻る数千の上着に
投げ込まれる夏の広告

五月
張り裂けた鯉のぼりが
数兆の精子を放つ夕焼け

華麗な客船のように五月は難破する

おお 叫喚のあとの全き沈黙
わたしたちの背を押し
この季節から誰もいなくなるまで
吹き荒れよ 突風!


  まーろっく


 刑務所の高いコンクリート塀に沿った道は、わたしの古びた
夢にまだ続いている。全てが鉛色だった。梅雨空も、長い塀も、
砂利道も。わたしは憂鬱な学生鞄をさげ永久にその道を歩き続
けているのかもしれない。
 道の片側は畑で、所外作業の模範囚たちがやはり鉛色の囚人
服を着て働いている。畑の中には養豚舎があり、荷台に柵をし
たトラックが豚を運び出すために時折り横付けされていた。そ
して、今しも一頭の豚が荷台に引きずりあげられようとしてい
るのだった。
 豚だって死ぬことは分かっているんだ。とわたしは思う。豚
は動物でさえない。より多くの肉を得るためだけにある家畜だ。
豚の精神など許しがたい。しかしどんなに人間が愚鈍さのなか
に豚を落とし込んでも暗愚な脳に光が射す時がある。
 豚は力いっぱい抗う。肢を踏ん張り、荷台に載せられまいと
して。腹には引き縄が巻かれ、四つの肢は男らにとりつかれて
いる。豚はなかば横倒しになり、身をよじっては荷台のあおり
板にからだを打ちつける。
 300キロ近くもありそうな大きな白い豚の肌は紅潮してい
る。あからさまに血の色を放ち、鉛色の空と、塀と、砂利道と、
おなじく鉛色の囚人とわたしを罵り叫ぶ。豚の甲高い鳴き声だ
けが刑務所の塀に響き、豚の波打つ腹の上だけに陽が落ちてい
る。そうして豚は運命の台に載る。
 一仕事終えた囚人のひとりがわたしに白い歯を見せて笑った。
やあ、こいつもこの世の見納めってやつさ。 労働の充足感と
家畜への嗜虐が彼を少し陽気にさせていた。
 豚はまだいくぶん興奮していたが、四つの肢を板張りの荷台
に落ち着けると精神は肉のなかで眠り込むようだった。豚の目
はうつろに鉛色の空をうつしていた。だらしなく涎が垂れてい
た。
 不意に刑務所の塀のなかから、駆け足の掛け声がたちのぼっ
た。大勢の男たちの声は広がることもなく、垂直に空にのぼっ
ていった。重い足取りで、それでも一日が回転しはじめた。
 


黒猫

  まーろっく

黒い仔猫には少年がとじこめられている
ぺちゃんこの鼻や、くりくりとした群青の瞳が
「おっちゃん、あのな…」と話しかけてくるのだ
だからぼくは怪しいおっちゃんになって
おまえの手を引いて歩く
甘いお菓子や風船でなだめながら

路面電車の停留所でおまえはかあさんを探す
それはぼくの女房だったかもしれない
けれどいつまでたっても電車は
おまえのかあさんを運んでこない
時折パンタグラフに雨雲をひっかけてくる電車を
おまえはうっすらと涙をためて見るだろう

真っ赤な影を引きずって歩くぼくは
どうせ白い目で見られているのに決まっている
ふるさとの人々に忘れられた人間はそんなもんだ
しかしなんという懐かしい街角だろう
虫かごや風鈴も雑貨屋の軒先にまだ揺れている

ぼくは街を歩きながら何度も確かめる
黒い柔毛が密生したおまえの小さな手が
柔らかい子供の手になりかわっていないかと
だがおまえはやはりしっぽを振りたてて
ちょこちょことぼくについて歩く

ぼくらはゆるい上り坂の頂上に向かって歩くのだ
ぼくが歩いてきたすべての路地を見せるために
そこでぼくはおまえに話すつもりだ
ひとりきりだが歩くだけはずいぶん歩いたと

太陽はもう輪郭さえなくなっている
箱庭のような田舎町には灯がともり始めている
けれどぼくはなぜかあきらめきれなくて
真っ赤な羊水を浴びた少年を
おまえの黒い毛皮から引きずり出そうとする
ぼくの子供がこのまま猫になってしまうのが
ただ恐ろしくて


寂しき者の歌

  まーろっく


夜の底を川が流れておりました
桜の古木は咲いて
花を散らしておりました

寂しき者がふたりして
抱き合い眠っておりました
指をからめておりました

いや、眠っていると見えたのは
もうなきがらでありました
肌に触れる花びらもくすぐったくはなく

いや、ふたりと見えていたのは
やはりひとりでありました
誰もいない夜をもう悲しみようもなく

寂しき者のなきがらは
ほとんど桜に埋もれて
あたりは静かでありました

それでも花は降り積もり
清い砂礫を川が運び
花が埋めて砂が積もり
やがて寂しき者の丘ができ

寂しき者の丘にマンションが建ち
マンション建ってともし灯ついて
丘いちめんにともし灯ついて

星空に舞い去っていくのでした


灯台

  まーろっく

若くして死んだ男のことを
思い出す ただそれだけのために
過ぎた歳月のぶんだけ遠く
いつか旅してみたい

それもどこか南の灯台で
あの遠い日を悔いていたい
世界の誰からも見つからぬように
抱えた膝に顔を埋めていたい

厚いコンクリートの塔の内側で
叫びだしたい思いにさいなまれていたい
吹きすさぶ風と立ち騒ぐ波の音に
ただ聞き入っていたい

紅い椿は千切れ飛んでしまえ
海鳥の翼も折れてしまえばいい
わたしの灯台は冷たい光を放ち
おまえの知らない秋をまねくのだ

若くして死んだ男のことを
思い出す ただそれだけのために
白髪のようなススキの穂に
いつか覆われてみたい

おまえが死んだ北の岬は冷たすぎるから
せめてどこか南の灯台で


ふとん

  まーろっく

とうとう雪の降らない冬だった
冬着では汗ばむほどの二月二十六日
ぼくは古びたバイクを車検場の列に並べていた

 クーデターはむろん中止。

向かいの自衛隊駐屯地から
ひとしきりあがる演習の銃声
思いのほかそれは柔らかい音だった

兵士の腕の中にある小さな薬室で
わずかな量の火薬が燃焼する音は
のどかにさえ聞こえた

だがこの銃声に耳をふさぎたくなる人が
この世界には大勢いるのだ
おびえたまなざしをぼくらに向ける人たちが

いたるところベランダにはふとんが干され
早すぎる春の陽ざしに膨らんでいる
清潔なもの 黄ばんだもの
花模様 パッチワーク チェック 
愛をはぐくんだもの
孤独なもの

食べきれぬほどの夢を食べて
まだそれらはどこかで願っている

ああ、この国のクーデターも戦争の始まりも
遠い遠い冬の幻想であったなら!


マリア

  まーろっく

マリアよ
もうあの色街のにぎわいはない
薄汚れた壁紙に映っている裸の影
カタコトのままのお前を抱きしめる
今年もくすぶって消えてゆくだけの夏
いっそ焼き尽くすような炎に染まりたい
ハルピン
おまえが二重窓の部屋を捨ててきた街
遠い昔俺の母親が祖父母とともに逃れてきた街
見えるだろうおまえの灰青色の瞳には
いつの時代も国境を逃れていく敗れた者の列が
どこまでも続くだろうおまえの白い肌は
渇いた者がたどり着く最後の雪原として
そしてあくまで黒いおまえの髪
マリアよ
遠くで凍えている俺の足指をあたためてくれ
なにひとつ俺の手に入ったものはないというのに
おまえの乳房だけが奇跡のように白い
俺はおまえのカタコトの真実だけを信じよう
そうとも!
生きた者も
死んだ者も
平原を長い列車で運ばれてくるのだ!
ああ
汽車の窓から突き出された
おびただしい腕がいっせいに振られているね
苦い河を越えて
瓦礫の都市を抜けて走る列車よ
きっと俺はいつかそれを目にする
マリアよ
草原の一本道を荷馬車に揺られながら
屍となった俺は目にする


雪待ちうた

  まーろっく

息を凝らして
街は黙り込んでいる
雪をはらんだ雲の下で

街灯に霜が光っている
十字路がいつもの別れ道で
俺はやわらかい無力さを
おまえの痩せた首に巻いてやるのだ

若さを失って
俺たちにはひとつの部屋もない

けれど欲望の灯をともして
高く高く伸びた都市でさえ
雪が降るのは止められやしない

やがて
こらえきれない悲しみのように
雪が落ち始めたら
俺の指を思い切り噛んでくれないか?

噛んで 噛んで 噛んで
血が流れ出たなら
俺は真新しい雪の上に
名もない暮らしの絵を描くだろう


青梅街道

  まーろっく

青梅街道は二月の光のなかにあり
遠い思いばかり身を刺して吹きすぎる

若い革ジャンの背中ふたつ
どこまでもバイクで追っていた
影でのみ記された風の詩想

西は奥多摩の紅葉に燃えて散り
東は首都の心臓に刺さる矢となる
青梅街道善福寺あたり
ゆるいS字カーブを鋭角に感じるまで
スピードに震えていた日々

許されぬまま置き去られた花のように
愚行ばかりが沿道に咲き残っている

新宿。際限もなく紙幣の乱痴気騒ぎは続いていた
高層ビルに排気音を叩きつけるのが好きだった
あの沸騰した時代の夏の夜
都庁舎建設地には巨大な基礎坑が穿たれ
作業灯が点々と地の底までともされていた

お前はまるでSFアニメみたいだと笑い
飲み干した缶コーヒーを穴の中へ投げ入れたのだった

ああ それはひとつの終止符として落ちた
この街道の 若さの 風の詩想の
けれど俺たちはただ予感しただけだった
遠い地の底から小さな悲鳴が届いた時に
ふざけ笑いを消しながら

青梅街道は二月の光のなかにあり
遠い思いばかり身を刺して吹きすぎる

お前がいない街角に
風の詩想が吹きすぎる


さらばドラッグストア

  まーろっく

俺がレジの娘に恋する時

背を丸めた買い物客のむこうに
垣間見えている
後ろで結った明るい髪や
淡い紅色の可憐な頬や
また彼女の背景にあるおびただしい
くすりの箱や菓子や缶詰ごと

恋する時

空気はもっと乾いていなければならない
湿った日陰のない高原の異国のように
くまなく晴れ渡っていなければならない
さびしいバス停などはごめんだ
埃たつ狭い通りを驢馬や荷車が
くすりの箱や菓子や缶詰を積んで
にぎやかに行き来していなければならない

恋する時

奇跡のない国はごめんだ
愛もからだも缶詰もくもりない欲望で
見つめられなければならない
闘鶏のように疑いのない目を持ち
皺だらけの紙幣のように
 健康でなければならない

恋する時

俺はウードが奏でる迷路を追わねばならない
はやしたてる群集の猥雑な声を浴び
波打つ布地の表面をアラベスクとなって
どこまでも伸びなければならない
この時転倒した太陽にむかって
パッケージの文字がいっせいに飛び立っても
けっして立ち止まってはならない

俺がレジの娘に恋する時

ふたり名前もないままで
この開放された最後の部屋である
白いレジ台の上のチョコレートバーを
きみは永久にレジ打たねばならない
天文と幾何学で浪費された数字の全部で
レジスターからふたたび世界があふれだすまで


あいつの口笛

  まーろっく

海を想え
運河に沿って流れてくる
暗い潮の匂い
女の吐息のような
ぬるい風が吹く夜
ああ
死んだあいつが
口笛を吹いてる
まだ
あの小さな傷から
血は流れているんだろうか
湿った家で
なにかをまさぐりあう人たちは
あいつに笑われるといいんだ
なにも
しやしないなにも
持ってやしないからあいつは
口笛を吹いてるんだろう

海を想え
きらめく未明の潮騒や
現れては消える波間の白い帆を
ためらう指とうなじに揺れていた髪を
ああ
あいつの記憶を誰か
歩いてやってくれないか
どこにも
墓標なんてありやしない
ひなげしなんていりやしないから
貝のように
閉ざした戸のなかで血膨れする人は
あいつに笑われるといいんだ
半分
たった半分も
生きやしなかったからあいつは
涼しい口笛が吹けるんだろう

海を想え
ひとすじの血の糸を引いて
逃れてゆくさかなを
病んだトタン張りの工場や
その上にのしかかる高層ビルやを
それから俺や
手を汚さずに黒い雲をつかむ人たちやを
のせた岸辺から
どこまでも
逃れていけばいいんだ
心まで
青ひといろになるまであいつは
口笛吹いていくんだろう


新宿の歌

  まーろっく


かたくなな心を
あたたかい雨が叩く
旋律は燃える
今は遠い父の膝で
聞いていた
赤い新宿の歌

手を打つ
男らの丸い肩
裸電球の下で
揺れていた
私と湿った座敷と

歌っていた
赤い新宿の歌
父の胴を
のぼっていく声
雨にけぶり
暗い灯を灯す
漂う土地の名を

なぜあれほど激しく
焦がれていたのか
いまだ見ぬ赤い新宿を
酒は燃えて声は高まり
いつしか見えそめた
暗い海の広がり

初めて孤児となり
わたしは泣いた
途方もなく大きな
おとなたちの歌声のなかで
精一杯
誰にも気づかれず

夜は更けても
せつなく燃えていた
赤い新宿の歌
しぶく雨音に想う
遠い旋律の在り処よ


そら似

  まーろっく

季節の坂をのぼる
胸には美しく包装した
空き箱を抱き
歩幅のぶんだけ
地平はさがり

わずかに高まる
あなたの心音を想い
わたしは勾配の不安に
つまさきで触れる

春色はとうに
人にやってしまったから
花のかたちにおおわれた
道をくだる

軽やかに
脱ぎ捨てたというのか
モニターの素子の海に
白い横顔をいくつもの枝の
影がよぎり揺れる

春に逝ったボーカリストよ

ゆるやかな螺旋の内側で
交わろうとする架空線を
滑り落ちる歩幅よ
このすれ違う時間の先端で
裏返るひとひらの春

あなたがあなたであることも
わたしがわたしであることも
微風にすら耐えない
揮発する輪郭であったなら

わずかな歩幅のずれから
永久に遠ざかってゆける
世界があったなら

ああ
春に逝ったボーカリストよ

人影のなくなった坂道に
開け放たれたラジオから
あなたの曲が聴こえ

花びらより先にポストから
紅く色づきはじめ


砂浜で

  まーろっく


波はゆれる境界線
風は不確かな時間

長い黒髪が
なびいていた記憶の
温度だけを俺は感じる

誰かの名前を
黄昏に呼んでいた
声だけを俺は感じる

俺は枯れきった頭骸骨だから
俺には時間が無い
何年波が俺を濡らし
何年風が俺を吹きぬけたか
俺は知らない

俺は電球のように薄っぺらくなった
俺が光を通す すると
俺の抱いているこの小さな空間は
光でいっぱいになるのだ
廃れた教会のように
暗がりでミサをすることは永久にないのだ

やあ しおまねき君
この世でいちばん暗い精神があった場所も
今や君の遊び場だ
俺には君が大事に守っている
わずかばかりの暗黒も無いのだ

あの暗鬱な脳はそこで
眼窩から用心深く
外を眺めていたものだ
あいつは自分が消滅したら
世界が消滅すると信じていたが

精神が無くても
時間が無くても
俺は物質としてあり続けるのさ
世界も物質としてあり続けるのさ

あそこにある
流木が流木であるようなあり方で
空き缶が空き缶であるようなあり方で
俺は物質として輪郭の喜びにひたっているのだ

悲しむだけの精神が
置き去りにするだけの時間が
滅んだというだけじゃないか

笑うかね?しおまねき君
その小さな暗黒のなかで
この砂浜に迷い込んだ唯一の生き物よ
ひとり永久に生き続ける者よ

あの海岸道路で命が運ばれてくることは無い
それはわかりきったことなのだ
あの国道は封鎖されている
つまらん死と生の境界で
だからここではずっと真昼が続くのだ

−その時
波が頭骸骨をのみこんだ
波がひくと砕けた頭骸骨から
しおまねきが這い出た
風がレジ袋を吹き上げた

それは高く揚がった
頭骸骨も流木も空き缶も
みるみる小さくなった
海は膨らみ水平線は遠ざかった
かさかさ音をたてて揚がっていった
遠くの、白く乾ききった住宅街を
真新しいきみの自転車が走っていった

文学極道

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