#目次

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2008年05月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


喝采

  泉ムジ

厚化粧して妻が出ていった部屋の
壁の染みに 息子が
「パパ、パパ、」と呼びかける
染みは人面に見えないこともなく
それが楽しいみたいだから放っておく
よく見れば
その染みは潰れた林檎に見えないこともない
俺はちゃぶ台に置いたMacを起動させ
書きかけの詩に着手する

延髄あたりに咬みつく黒蟻を
丹念に潰して
体液のついた指先をくちびるにあてると
空腹を刺激する 甘酸っぱさに
俺は 表面の乾いた林檎を一口齧り咀嚼して
詰まる気道から真っ赤な汁を吐き戻し
零れ落ちる断片もまた鮮やかに赤い
畳の上をみるみる広がっていく血溜まりに
集る 黒蟻の 背中が破け 内側から
立ち上がり 一斉に手を打ち鳴らしはじめる

夕暮れの 肉厚な手のひらに包まれて
気づけば俺はまどろんでいた
固まったあぐらを解くと
尻から垂れた汗が畳に染みて 気持ちわるい
化粧を落として 帰宅した妻が
丸善、というスーパーで買ってきた
林檎を 手渡された息子が
小走りにパパへと持っていく
息子を撫でるパパは俺に見えないこともない

家族が 互いを歓びあう
団欒の部屋に
ぽつんと佇んでいた影が緩慢に這って
林檎に齧りつく 甘酸っぱさに
俺は 延髄あたりから裂けることを望むが
既に家族は揃ってしまっているから
二人目のパパなど歓迎しないだろうとも思う
やがて 背中が血にまみれながら開き
喉の 奥から 絞り出した 産声に
笑顔の家族が 一斉に祝福の拍手をはじめる


アフリカ

  ポチ

発汗性にとんだ衣類をまとった多くの観光客が、サングラスの奥から黒い太陽を見上げている。私も同じ仕草で彼らの間に入ろうとするが、この慣れない仕草は、私のナショナルなものをすぐさま拒絶する。ガイドからいくつかの質問と注意を受けた後、私の隣人たちはぞろぞろと歩き始める。彼らの列はまさに、断層で、その隙間隙間で私たちの先祖は眠っているのだ。バスの中でも、光をさえぎる―遮られたものが、バスの中に散らばる、それをガイドは摘み上げるようにして、小話をしているが、私の隣人たちは、外ばかりを見て文明間の些細な戯言と、もう忘れ去られてしまった古い記憶を思い出すかのように語りだしているのだ。新聞紙には、見慣れない文字が並び、それらが僕の瞳の上でただただ踊っているだけだが、それが楽しい。時には、空中に舞い、紙面に突っ伏したり、中には、私のほほや唇を引っ張る―これを熱烈な歓迎いや洗礼といわずにして何と言えばいいだろうか―。
 野蛮なものがとても新鮮に食卓並んでいるかのようだ。まるで礼儀作法をしらない子供たちが、待ちきれずに、フォークとナイフを打ち鳴らして、出来事の到来を待っているかのように、激しい日差しは恐らく前菜として、ずっとこの後に続く料理のすべてを決定する。大人と子供の境目を悠々と笑顔で越えていく人たちが、レンズを覗き込んで、一瞬の画家になろうとしているのを見る。一人の隣人が立ち上がり、私に、カメラを渡して、合図をする。合図されたことが、ひとつの出来事として、カメラに刻まれる。僕はカメラの記憶を思い出そうとして、この熱っぽい額に手を当てて、深い深い炭鉱にもぐらなくてはならない。炭鉱からは、昔刻まれた地熱が、古い記憶としてあって、私はそれらにツルハシをつきたてる。黒い鉱石が割れて出てきて、熱が沸き起こる。草原の向こう側からは、知らない人たちの足音が聞こえるが、一向に風景は、私たちの隣人のために用意された何の変哲もない草原で、そこからは、香りがしない。炭鉱では、男たちの大きな声が上がる。大きな見たこともない鉱石を口にくわえた猫が大男たちをよけて逃げ始める。それを追うのはもちろん、あの黒ずんだ顔の男たちに決まっている。
 汗ばんだ者たちが、洗い流されないように、未だバスの陰でうろついているのが見える。うろついたものたちが、私の隣人たちのカメラに滑り込んでいく。押されたシャッターの一音の中で、砕けた顔が広がったまま、微笑んでいるのを注意深く観測する。白くもなく、黄色くもない肌の運転手が、ミラーでそれらを見ている。ミラーに写る顔が、汗ばんでいなかったのは、すでに、運転手が遠くまで走って行ってしまったからだ。私たちは、気づいてはいないがおいてけぼりを食らったのさ。私の隣人たちはそれに気づかない。何度も、何度もシャッターを押し続けている。ガイドは盛んに、いくつかの指示を出す。持ち寄られたものが、塊となって、謀っている。謀られた者たちが、汗ばんで、突然、口を閉じればすぐさま汗は消えてなくなり、頭上からは、ザングラス越しの黒い太陽のみが残る。黒点の一つ一つを背負った蟻が、私たちの世界に汗を運んでくるのだが、これは、未だ科学の世界では一切語られてはいない。僕が、夢遊病だった頃、アフリカの大地は、水浸しだったというのに、今では、スイスの酪農家が羊を放牧させながら、アフリカでアルプス山脈を見上げている。もちろん、そこで、羊たちは、また猫に追われるのさ。僕のイメージがアフリカを壊して作り直す。それは、まさに土砂降りの雨だ。雨の中を、魚たちが泳いでいる。ここは、一端の魚市場となって、多くの人たちで賑わい始めるが、私の隣人たちはそこまでは来れない。僕は飽き飽きしているのさ、自分の空想に。
 海を見たことがない女の子について僕がいえることといえば、海がないのなら、作ってしまえばいいということにしかすぎない。なんでもいいよ。そこの辺のケーキでも作るボールに水を浮かべて、手をつければいい。そうすれば、そこにはもう海があることぐらい、まるで、隣の部屋から、知らない女性の友人が現れて、君と私は昔背中合わせだったんだよ、と語りだすだけで、月面に水が沸くのさ。それをアポロは汲むことを忘れたから、いまだに、宇宙船を送っている寸法さ。さて、そろそろ、僕の空想の、頭の中の本を閉じよう。実はまだまだ、多くの本があって、それらは誰にも語っていないけれども、僕は何度もいうように、自分の空想に飽きているのさ。
 昨日、友人に手紙を出した。赤いポストの奥に手を差し込むと、少し汗ばんだ。きっと、それは僕がアフリカに少しだけ触れたからに過ぎない。

 


砂の埋葬。

  紅魚


たいせつなものは
いつだって砂の中。
積み上げても積み上げても
ほろほろと崩れてしまう蛍光性の粒子の奥、
そろそろとうずめてしまいたくなります。
波打ち遠く、
ひっそりとひっそりと隠したその隣に
あたしもそうっと横たわって、
くるぶしを砂が掠める感覚に、
身じろぎしたり、してみたいと思うのです。

しゃがみ込んで、
あなたのつま先に、砂を、かける。
ぱらぱらと散るそれは、
大半を風に流されながら、
それでも、
辿り着いた幾粒かは
カチリとした長石のような爪に弾かれて、
きっと、
花火のように色彩を変えてゆきます。

(うごか、ないで、ね、
  こぼれちゃう、よ。)
あたしの要求に、
あなたは応えてくれるでしょうか。
くすぐったさをこらえて、
じっとしていてくれる、かしら。
いいえ、いいえ、
きっと、
無理だよ、って、
口許にしわ刻んで、笑うんでしょう。
あたしは、
その、やらかい唇から滑り落ちた、

  む。

   り。
  だ。

   よ。

の、優しい響きのひとつひとつにも、
丁寧に、丁寧に、
祈るよに、
砂を、かけてゆきます。

(あたし、
 ほんとうのさいわいを
 ねがったり、しません。
  あなたとの、あんねい。
  それだけが、ほしい)

ぽつぽつと散らばった、
小さくてまろやかな塊と、
苦労して、どうにかうずめた
あなたのつま先、と。

陽光と不可思議な風紋に彩られた、
白い一群は、
さらさらと静かに風化してゆく、
この上なくやわらかな、
あなたの、墓所。
つまんだ砂を
はらはらと零し続けるあたしは、
その忠実な墓守りに、なります。

波の音、波の音、

波の、音。

     内側に、あなた、内包した、
 温かな、砂に、寄り添い、ながら、

潮騒を子守歌に、
いつしかあたしも、
さらさら、と、
さらさらと風化、する
砂の眠りにつくのです。


ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ

  草野大悟

夜空に
子宮が
赤い泪の
月となって
浮かんでいる


夜空は
インディゴ
ブルシャンブルー
ビリジアン
幾重にも
幾重にも
ペインティングナイフで
塗り重ねられ
尖っている



窓辺の
テーブルでは
ラフランスが
ひとり
赤い月を
見ている



家族がみんな
寝静まった
深夜

ひとり

みち、
きみは
こんな
赤い月を
見ていたんだ

  ☆

ステロ
ちんけな権力」」」」」」
すてろステロ」」」」」」」」」」」

ちっぽけな自分ステロ
金を、車を、服を、食い物を、家を
すてろすてろステロ


すてろステロすてろ
年寄りを
親を、先祖を、墓を
SUTERO

しがらみ
血縁
娘ふたり
すてっちまえ
すてろすてろ
すっきりステロ


学歴職歴地位名誉
知識金力女の力
みんなみんな」」・・
すってちまえ

すてろ
ステロ
sutero
SUTERO
すてて
捨てて
すてつくして
あとに




きみだけが
いれば
いい


☆☆☆☆♂♀



あのとき
きみがすわっていた石に
おんなじように
すわって
釣っている



この川には
海がのぼってくる

夢が竜となって
うねりながら
のぼってくる


あのとき
きみは
夢のこどもを
三匹
釣り上げて
はしゃいでいた


そうだ
おもいだしたぞ
きみの
うれしそうな
得意満面の笑顔



これを食うと
百年長生きできるから
ふたりで食おう
と、言い張るおれに

「逃がしてあげよ、ね」
「帰してあげようよ、ネ」
 」」」」」」」」」」」」


帰された三匹は
おそらくは母夢のもとに
戻っただろうに
そうだろうに
きみがのぞんだように

だのに
きみの
すべてを
ねこそぎ、
おれらの
すべてを
NEKOSOGI
食いとっていった


ありがと
オヤスミ
さよなら


竜の眸して
きみは
三匹のこどもに
乳をやる

ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ

ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ

ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ


ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ




散歩をした
一ヶ月ぶりに
車椅子にきみを乗せて

きみは
新築中のおれたちの家を
見に行く約束を
楽しみに待っていたけれど

リハビリで
疲れ切ったきみを
おれは
新しい家まで
連れては行けなかった



散歩をした

車椅子のきみと
病院の近くの道を

子どものころ
きみが住んでいた町を



左腕を
左手首を
ねじ曲げられ

膝の曲がらない左足を
きみは
車椅子に乗せて
骨盤の歪みに耐えるように
顔を左四五度に向け
右手にタオルを握りしめ
嚥下障害の唾液を
懸命に拭こうとしていた



疲れた?
う〜んん、疲れてないよ

大丈夫?
ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ

部屋に帰る?
ううん、外がいい

じゃ、外にいようね
熱くない?

ダイジョウブ
ATUKUなイ
ダ・い・・ジョう・・・・・・・ぶ

勝ち気だった
端正な唇から
粘りけのある唾液が
きみの泪のように
喉元まで流れてゆく


それでも
きみは
言うんだ
ダ・・・i...]//ジ//ョ・・U・・・ブ、、、、


ちっと
大丈夫じゃないのに
そんなにもつらいのに、苦しいのに
きみは。


吠える(修正)

  みつとみ

 低く吹く風に睫毛がゆれた。乾いた土の香りがする。閉じていた目をあける。ずれた眼鏡の位置を正す。朝の光に、うっすらとまどろみが消えていく。徐々に、物の輪郭が確かになっていく。遠くにある山は、幾筋もの亀裂が頂きから麓まで走っていて、その向こう側から尽きることなく風が吹いてくる。わたしの喉の奥まで。喉を痛めていて、咳を二度繰り返す。連れだっていた狼はいるだろうか。かたわらの狼の毛を手でさぐる。けれども、その背に手が触れない。見ると、狼はいない。代わりに、昨夜拾ったペットボトルに手が触れた。底にいくらかの水が残っている。

 のぼり始めたばかりの日の青い色彩、空には白い雲がうすくひろがり、地には風にそよぐ陰り、草むらがある。風の音がしている。石の転がる地の、その離れたところには風にそよぐ草が見える。草の輪郭がぼやけたり、くっきりとしたり。その中央に、捻れた木がひとつ佇んでいる。その木をぼんやり見ていた。
(わたしはまたひとりになったらしい。いつものことだ)
 
 空腹を感じ、わたしは腰をあげる。立つしかない。ふらつきながらも、足を進める。何か食べる物はないか。石の転がる地は、やがて草に隠れていった。木の実でもあれば、わたしはそう思い捻れた木に向かって歩いた。ジャケットのポケットから手袋をだしてはめる。腿までの高さの草で隠れる。その枯れた草地を、ひたすら進む。遠く岬へと続いているはずなのに。しばらくすると、足がしびれた。ペットボトルを抱くようにして、片膝をつく。そして、体を丸め横たわる。
 乾いた風が吹くなか、わたしはうつらと一頭の狼となる。前脚を伸ばし、枯れ草の地に立つ。脚は白い毛で覆われている。草から頭ひとつ出る。そんな断続的な光景を見ては目を覚ます。

 影が動いた。見ると、白い素足があった。視線をあげると、裸の女が立っていた。まぶしいのは、背後の陽の光のせいか。女は正面に立ち、わたしの肩に手を置いた。意識がぶれる。女の髪は乱れており、灰色で一部に黒い色が混じっている。その髪が風でなびいている。
 女はわたしの肩に手をまわし、背に顔をふせる。女の髪が、肩にかかる。果実のような匂いが漂う。女の指がわたしの無精ひげの頬にふれる。女はもう片方の手にしていた果実を差し出す、その甘い香り。

 目を開けると、いつの間にか、あの木の根元にたどり着いていた。見上げるが木の枝に実はなかった。背後の空が青白く見える。ふいに肩を押される。振り返ると、狼が後ろ脚で立ち、前脚をわたしの肩にかけていた。狼は口にくわえていた果実を落とし、鼻先で押す。わたしは果実をうけとった。乾いた梨だ、実を手につつむ。たったひとつの果実の重さ。香りをかいだ。
 
 いつのまにかまた眠っていた。閉じていた目をあける。月の光に、蒼い地が照らされる。物音のしない夜だった。

 周囲に光がちらつく。ときおり押し殺した息が聞こえる。わたしと女は互いをかばい合いながら、見渡す。狼の群れだ。どうやら追いついてきたらしい。数頭か、十頭か。わたしは足下に手をはわす。石か棒きれかなにかないか手で探る。ペットボトルに触れた。わたしの背に、女は背をつける。群れの一頭の狼が、吠える。ペットボトルをつかみ、投げる。軽い音が鳴る。もう片方の手にあった梨を投げる。群れの一頭の額に当たり、小さな悲鳴がある。女の狼がわたしのジャケットの裾をひっぱる。わたしはジャケットを脱ぎ、ポケットからライターを出す。暗がりにライターをかざす。乾いた音を二度三度たてる、その指が熱い。ライターの火がつく。焦げた臭いがする。その火にジャケットをあてる。火とともに煙がでる、ジャケットを振り回す。熱さに唇をかむ。そのわたしの背後で、女が、うなる。
 わたしと女は、吠えた。

 青い月が、狼の群れに囲まれ、暗がりの草原で、火に包まれたジャケットを振り回す、わたしたちを見ている。
 そして、暗がりをにらみ、世界中の獣が吠え始めた。


  ためいき


切断した蛇の首
山水の流れに踊る胴体
光る鎌を持って
それは
真夏の真昼のこと

背丈より高い草を分けて
時折意味もなく鎌を振り回し
貯水池へ
青緑に濁った
忘れられた場所へ

(アナタハオ忘レカモシレマセンガ、
アノ石油ショックノアト、
革命モヒモ同然ノ生活モ出来ナクナッタト首ヲ吊ッタ男ハ、
アノ辺リニテントヲ張ッテイタコトガアリマス)

(彼女ガ、
祭リノアトノ空虚ノナカデ、
線香花火ヲ見ツメテイタノハ
確カソコカラ町ニ続く細イ道ダッタネ)

迷い込んだ森
燃える陽光に撃たれたように
無数の蛇が枝から落ちてくる
殉教すらない道程に

鎌をふりまわして
もうひとり鎌をふりまわす誰かの気配とともに行く
森から出て、垂直の光りに焼かれると
繁茂する笹のなかに光る水面

三十年前と何も変わらない
その貯水池の上に
水鳥の羽ばたき、光りの水滴、そして
静寂


海、そしてまた海

  ぱぱぱ・ららら

1、海

 僕らが出会ったのは小汚いバーで、僕らはまだ法律上お酒を飲めるようになったばかりだった。
 僕はその頃毎日のように酒を飲みに行っていた。そして彼女にあった。僕が彼女に話し掛けたとき、僕はベロンベロンに酔っ払っていた。彼女は友達二人と飲みにきていた。僕は彼女に話し掛ける。他の二人の女の子は無視。僕は彼女に話し続ける。彼女は笑う。他の二人の女の子は嫌悪感を表明。
 僕らはそれから週末にデートに行くようになった。もちろん彼女とであって、他の二人の女の子とじゃない。映画、動物園、遊園地、その外色々。僕らはそれなりに楽しんだし、幸せだったかと聞かれれば、そうだね、と答えるだろう。
 それでも時間は流れていく。とても些細なことで僕らは別れた。
別れた後で僕らは一度だけ海に行った。何でだったんだろう、理由は忘れてしまった。海へ向かう車の中で彼女は言った。イタリア旅行って映画観たことある? 彼女は映画が好きだった。僕は無いね、と答えた。それ以外にどんな会話をしたのか、僕は覚えていない。何も話さなかった気もする。
 海に着いた僕らはただ海を眺めていた。
 
2、海

 彼女が死んだと聞いた時、僕はあまり悲しくはならなかった。僕らが別れてからもう随分経っていたし、その間僕らが会ったのは海に行った時の一度だけだった。僕は彼女の葬式にも、お墓にも行かなかった。時間は流れていく、それにあわせるように僕らも流れていかなければならない。ずっと同じ所には居られない。それでも眠れない夜には彼女のことを思い出すのだけれど。
 彼女と海に行った後で、僕は彼女の言っていた、イタリア旅行という映画を観た。イギリス人夫婦がイタリアに旅行に行く話だ。夫婦は倦怠期で、夫も妻を、妻も夫を、愛していないように見える。愛は冷めてしまっている。
 ある日、夫婦は地元の人間に遺跡を観に連れて行かれる。遺跡ではちょうど一つの骸骨が発掘されるところだった。夫婦はそれを見ている。骸骨の姿が見えてくる。骸骨は一組の男と女だった。二つの骸骨は寄り添いあったまま死んでいったのだ。きっと夫婦だったのだろう。二人は時間の、人間の、神の偉大さを知り、愛を取り戻す。そんな映画だった。
 僕は眠れない夜に彼女と行った海へ行ってみた。一人で。僕らの前には遺跡も骸骨も現れてはくれなかった。僕は一人海を眺めている。なんだか眠たくなってきて、僕は目を閉じる。目を閉じると、隣には彼女が座っている。彼女は黙って海を眺めている。あの時と同じように。それから僕は深い眠りに落ちた。目を覚ました時、隣には誰もいないのだろう。それでも目を開かなくてはならない。きっと僕が目覚める頃には、ちょうど太陽が海の中から出てくるだろう。


ending

  泉ムジ

わたしはあおむけに
すこしずつ流されていく
かわべりにつかまるあしくびを
あらく研がれたくさがくすぐる

月があまくとろけ
むすんだくちのすきまからすべり
満たそうと
ささやきかけるからいっそうくちをかたく
むすんでこばもうとする

やがてこらえきれず
みなもにこぼれてしまう
くろかみのかげに小魚がむらがり
うろこをいくつか落として
あえぐこえもなく性交をおえると
つめたいままわかれてかえるところもない

かかとだけをのこしておしりのかんかくも
うしなったはずかしさもうしなったわたしはただ
おしまいをまつだけのからだになってしまったことに
たえるひつようさえうしなったわたしはもう
ただはやくあさがくることをねがっているだけで
おしまいのあとのはじまりをばかみたいに信じてみたいだけで
かかとにすこしのちからをこめてくちをひらく

さようならをするわたしは
あおむけに流されながら月をまといきらめいて
みぎからひだりからおなじように流されるひとたちと
とてもつめたい手と手をつなぎあわせ
さようならをするわたしたちは
たったひとつの意味さえ持たずにきらめいて
静寂のなかで幕がおろされ
明かりがついた客席にはだれもいない


ありがたい、日々

  はらだまさる

「不可能は癖になる」という、どこかの進学塾や中小企業が掲げそうなキャッチコピーを噛み締めている二日ぶりに晴れ渡った五月下旬の午後。このプロジェクトの最後の仕事である動力部分据付のためにマカオに出張した私は、その言葉を奥歯で丁寧にすり潰して呑み込んではもどす、という反芻を執拗に繰り返していた。歯磨きをしながら、初老の妻がそれをみて笑っている。

決算期と重なったため、最近何かとうるさくなってきたコンプライアンスの観点から色々と時間的な制約があったりして、慣れないニホンゴでのコミュニケーションもうまく行かず、先方には随分と迷惑をかけてしまい大変な作業になった。ただこの歳になってこういうのも変だが、何もかもが新鮮で、やればやるほど色んなことが見えてきて、FA(ファクトリー・オートメーション)による量産段階では「問題」というよりも、溢れ出てくるアイデアと可能性をすべて一から試したい衝動を抑えるのに必死だった。
主に工場内での作業だったのだが、現場責任者として試作品のラフ・スケッチから色々なアドヴァイスを提供して、プロデュース的な仕事に関しても、不可能と思われる私の無理難題を冷静に判断し、それらが具体的にどうすれば形に出来るかを一緒になって模索し考え、全面的に協力してくれた山村ちゃんには、マジ頭があがらない。
料理が得意な従兄がくれた特製キムチだれの蒸し鶏を手土産に、これから山村ちゃんの家へ挨拶に行くのだ。山村ちゃんはブラジルで生まれ、貧困で両親を亡くし、十四歳の冬に姉といっしょに日本へ戻り、帰化した日系四世だ。大学卒業後、営業畑から転身して機械設計のエンジニアになった変わり者だが、今や「YAMAMURA-CHANG」といえば世界中のアニメおたくの教祖として、ネット界では知らない人がいないというくらいの愛に溢れた人格者、らしいのだけど、それは表か裏、どちらかの肩書きだ。顔のない世界で「人に知られている」というのは、実際の人物が相当の人格者でなければならない、という訳でもなく、私が知る限り、彼女は単なるお人好しの無口な(?)美人だが、その眼は異様な力(こういう表現はあまり好きではないのだけれど、私の表現力ではこう記すより他ない)を放っている。彼女のボディーガードでもある強面の側近、リーが言うには、佐川一政よろしく相当なキ印らしい。
そもそも私が彼女と知り合ったのはミクシーで、これまたどう表現していいのか悩むのだが、彼女のトップページは「世界でも有名なソープランド街の老舗No.1」のような雰囲気を醸し出していた。そのときの彼女が、初対面の私に向かってマイミク申請してきたときの言葉が印象的だった。

「悪ぶるのは簡単やけど、善人でい続けることは難しいんよ。そやけど、本当の悪人にはなかなかなれへんもんなんよ。」

私は田舎の町工場で、あまり大きな声では言えないような、少し特殊な機械設計を担当している平凡なサラリーマンだ。結婚も出来ず、来年で還暦を迎える冴えない男だが、今の今まで女に苦労したことはない。年甲斐も無く、さっきも女を抱いていたんだ。ぶっちゃけ山村ちゃんなんていうようなものは、この世に存在しない。歩道に敷き詰められたタイルの溝に幾つも幾つも蟻の巣が隆起している。私は彼女の家に向かう途中で、それらに吸い込まれるような気持ちでそんなことを考えた。山村ちゃんはすこぶるイイ女だが、まるで有機的に振動する(酷く自虐的な)機械のようだ。私は山村ちゃんを設計し、それを量産して、そのうちの一体と結婚したいと思っている。そして、今以上に平凡な人生を送りたい。歩道の脇で乾涸びたたくさんの躑躅から、微かに匂いたつ甘い蜜の香りだけが、歩行してることさえ忘れてしまった私に私を認識させている。死の匂いを嗅ぎ分けた蟻たちが、列をなしてやわらかい肉をめざしている。空から落ちて地面で潰れて死んだばかりのスズメの雛だ。マジ可哀想だと思う。だけど、私はそれを見て手を合わせることも、拾い上げてどこかに葬ることも無く、眼を背けるような善人面だけして、ただただ日常茶飯と言わんばかりに、その死をさっと跨いで通り過ぎてゆく。きっと何れ訪れる私の死もその程度のものだ。炊きたての玄米が盛られた茶碗の横の秋刀魚ではない。本当の悪人とは、もしかしたら今の私のような存在を指すのかも知れない。私の人生に対して、私はいつも心の中で不可能だと繰り返していたが、不可能で良かったのかも知れない。

なんとありがたい、日々。


あたしたちの循環

  宮下倉庫



循環
って名前の
バスに揺られてるとあたし
血液みたいね
最後部の座席に座って
そんなこと考えてる

ねえ
向こうで震えてるの
あれって地平線?
いや あれは鼓膜が
感受しているのさ
じゃああたしたちの
耳の奥で震えている
これは
なんなの?
さあ
案外 ぼくたちそのもの
かもしれないね

前の方に並んで座ってる
あたしみたいなコと
頭の悪そうな男の
ねぶたい会話が聞こえてくるから
あたしは窓の外を眺めることにする
薄くオレンジ色がかった風景の中
手の届きそうなとこに建つ
まったんのしせつが鉄くずとか
やっつけてる

地平線のそばでは
キリコの描いたマネキンが
じょうろで水をまいてる
なにを植えたのか分からないけど
風景にとても溶け込んでる
そんな気がする
こっちを見ているのかしら
それも分からないけど
こっちに向かって 今
手を突き上げたみたい
そして地平線の向こうがわに
マネキンは歩き去っていったわ

なんで
あたしこいつと
こんなねぶたい会話してるんだろ
もうこんなんだったらどこか適当な
ど郊外にでも
誰かあたしを埋めて
水をあげてくれないかしら
地平線が見えなければなおいい

窓の外を見ていたはずが
いつのまにか
そんなこと考えてて
あちらを見ているあたしみたいなコは
こちらを見ているあたしみたいなコで
あたしの隣では頭の悪そうな男が
感受してる
でも 案外それが
あたしたちそのもの
かもしれないとか
思ったりしない?

ど郊外のバス停であたしは降りる
入れ代わりにあたしみたいなコと
頭の悪そうな男がバスに乗り込んで
いちばんうしろの席に座るのが見える
あたし 手をぐっと握って
遠ざかるバスに向かって突き上げる
なぜって
他にふさわしいみおくり方を
思いつかないから

握りしめた手がちくりと痛む
ひろげて見るとそれは
溶けて ねじ切れて
冷えて固まったみたいな
鉄くず
マネキンみたいにのっぺらぼうな
手のひらから血液が流れ落ちたわ
なんだかあたしたちって
循環しつづけてるみたいね
それで
地平線の向こうがわに
スキップして あたし
帰る
 


「 ひたひた。 」

  PULL.




一。

 傘を閉じるとひたひたと雨がついてきた。玄関を上がり廊下を渡りそのままひたひたと、家に居ついてしまった、雨は客間ではなく居間に居座りとくとくと、淹れた紅茶を飲んでいる、砂糖はふたつ、家主のわたしよりもひとつ多い、しかもわたしが先月古道具屋で見つけた「とっておき」のティーカップで、わたしよりも先に飲んでいる、ひたひたとしたたかな雨だ。
 ふんっ。と鼻を鳴らし向かいの席につく、雨は慣れた手つきで、もうひとつのティーカップにわたしの紅茶を淹れた、ひとくち飲む、美味しい、こういうところもますますしたたかだ、カップを皿に戻す、かりん、と皿が澄んだ音を立てる、皿は、カップと合うようで合っていない、皿は数年前この家に越した時にお祝いに貰ったもので、その時は揃いのカップが一緒に、ついていた。


二。

 その日。背中を見ながらわたしは、紅茶を飲んでいた、かつて紅茶を友に交わし合った言葉はなく、真正面から見た顔さえも、もう思い出せなかった、ただ何も言わぬ背中だけがずっと、はじめからそうだったようにそこにあって、その日、消えた。
 消える前に何かを。何かも解らないことを言おうとして口を開き、はじめて痛みに気がついた、唇が切れていた、傷口から落ちる血が、薄く淹れた紅茶の色を、ぽたぽたと濃くしてゆく、ティーカップの端が、欠けていた。
 紅茶の色はなおも濃くなり、それを薄めるようにわたしは、涙をこぼしていた。


三。

 ティーカップは季節ごとに替わったが、どれもしっくりは来ず、結局皿だけが、次の季節に残った。


四。

 ひと眼惚れ。とでもいうのだろうか?はじめての体験だった、雨宿りに店に入ってすぐに、眼が合った、奥のレジに持ってゆくと、スポーツ新聞の向こうから店主が眠そうな声で、
「それ、皿ついてないですよ。」
 と言った、
「いいです。買います。」
 そう答えると、店主はスポーツ新聞の端からちらりと、こちらを見て、
「物好きだねあんた。」
 と言い、ぽつり、こうも続けた、
「半額でいいよ。」
「いいんですか?。」
「いいのいいの、雨の日はいつも暇でね。あんた、今日はじめてのお客さんだからさ、いいのいいの、あ…包むもんがない。さすがにあんた物好きでも、このまんま裸じゃ持って帰れないよね、そうだよね、裸はまずいよね、あ…これでいいか。」
 店主はスポーツ新聞の競馬欄をびりりと裂いて、
「どうせこんなもん、その時々の運だしね。運ようん。うんうん。アテにならないよこんなもんは、天気予報と同じでさ、先週も当たらなかったしさ。うんうん。運だようん。」
 とぶつぶつと言いながらそれでも、丁重に包んでくれた、
「大切に使います。」
「いいのいいの。ほらさっさと帰らないと、また雨が強くなっちゃうよ。」
 店を出る前に振り返ると、店主はまたスポーツ新聞の向こうにいた、
「ありがとうございました。」
 頭を下げると、
「いいのいいの。」
 とスポーツ新聞からはみ出した手をひらひらと振って、返してくれた。


五。

 傘を広げると雨音が帰って来た。足下は雨に濡れて、パンプスでは滑って転びそうだったけど、何だか久しぶりにしっくりとした足取りで、歩けた、水溜まりに入るとちゃぷちゃぷと、音がした、歌いたくなった、歌っていた、わたしと、わたしを包み込むすべての雨が、歌っていた、玄関を大きく開けて家に入り、あれ以来はじめて、
「ただいま。」
 と言った、そして悲しくもないのに流す涙があるのだと、知った。


六。

 雨は気がつくと、そばにいる。したたかに、ひたひたと足音を忍ばせそばに来る、ぴたり、肌をつけると雨はあたたかい、雨のあたたかさに満たされてゆくうちにわたしは眠くなる、眠くなり深く、どこまでもひとつぶに落ちるように眠り、ぴたり、降り落ちたように目が醒める、雨がもうひとつぶ、隣で寝息を立てている、わたしは脱がされて裸のままで、雨に抱きしめられている。
 やはりしたたかな雨だなと、今日も思い、想う。




           了。


哀しみの首

  草野大悟

哀しみが
哀しみの首を
絞めている


絞められた哀しみは
椅子に座ったまま
うなだれ


絞めた哀しみは
ぽっかりあいた空洞を
もてあまし


ただ
じっと
人である哀しみに
耐えている


嬰児がほくそ笑む五月


砂浜で

  まーろっく


波はゆれる境界線
風は不確かな時間

長い黒髪が
なびいていた記憶の
温度だけを俺は感じる

誰かの名前を
黄昏に呼んでいた
声だけを俺は感じる

俺は枯れきった頭骸骨だから
俺には時間が無い
何年波が俺を濡らし
何年風が俺を吹きぬけたか
俺は知らない

俺は電球のように薄っぺらくなった
俺が光を通す すると
俺の抱いているこの小さな空間は
光でいっぱいになるのだ
廃れた教会のように
暗がりでミサをすることは永久にないのだ

やあ しおまねき君
この世でいちばん暗い精神があった場所も
今や君の遊び場だ
俺には君が大事に守っている
わずかばかりの暗黒も無いのだ

あの暗鬱な脳はそこで
眼窩から用心深く
外を眺めていたものだ
あいつは自分が消滅したら
世界が消滅すると信じていたが

精神が無くても
時間が無くても
俺は物質としてあり続けるのさ
世界も物質としてあり続けるのさ

あそこにある
流木が流木であるようなあり方で
空き缶が空き缶であるようなあり方で
俺は物質として輪郭の喜びにひたっているのだ

悲しむだけの精神が
置き去りにするだけの時間が
滅んだというだけじゃないか

笑うかね?しおまねき君
その小さな暗黒のなかで
この砂浜に迷い込んだ唯一の生き物よ
ひとり永久に生き続ける者よ

あの海岸道路で命が運ばれてくることは無い
それはわかりきったことなのだ
あの国道は封鎖されている
つまらん死と生の境界で
だからここではずっと真昼が続くのだ

−その時
波が頭骸骨をのみこんだ
波がひくと砕けた頭骸骨から
しおまねきが這い出た
風がレジ袋を吹き上げた

それは高く揚がった
頭骸骨も流木も空き缶も
みるみる小さくなった
海は膨らみ水平線は遠ざかった
かさかさ音をたてて揚がっていった
遠くの、白く乾ききった住宅街を
真新しいきみの自転車が走っていった


プリムローズ

  榊 一威

花の香が立ち上る その香に包まれながら差し込んでくる陽に目を少しだけ開けて小さくおはようと云う いつもの通り低血圧の朝だ でも今日は一段と綺麗 ベッドから手を伸ばした先にあるプリムローズは 心地よい温度の中ささやかに咲いている 君は綺麗 もう一度呟いてみる 散るために在るのに こうしている間にもトクトクと時は終わりに向かって進んでゆくのに どうしてこんなに生きようとしているんだろうね 僕たち エアマットに沈むステージスリーの躰が不思議がるのも無理はない ねえプリムローズ 

時計の秒針の進む音をどのくらい聴いていたんだろう 繰り返す一周は僕の時間を正確に捉えてゆく 時にはプリムローズの香りと共に微睡みの底で繰り返した音を 何故か愛おしくおもう 躰が動かなくても不思議とそれを聴いているだけで動いているような錯覚に陥った 囚われていることがこんなにも安心するモノだろうか 枕元においた時計は 普通の腕時計なのだけれども 僕にとっては生きている証そのものだ 一つの花が萎れると哀しくなる それと一緒でこの時計の音がなくなるとき僕は 果たして此処にいるのだろうか

蝕まれた感覚それを解ってはもらえないだろう 痛み、それも無理だろう モルヒネを最大投与され麻痺した頭には掌のプリムローズの感触も時計の音も届かない でも触っているし聴こえている 個室のカーテンは多分爽やかな風に揺れている 僕は今笑っているだろうか せめてプリムローズが咲き終わるまでとは思っていたけれどでも どうして終わりはこんなに生に近しいのだろう 生きている音が心臓の鼓動と重なる 腕時計を巻いてもらう ねえ、プリムローズ 君は綺麗 とても綺麗 そしてゆっくりと意識を失って、




*プリムローズ=シバザクラ、初夏の花


「 ムーフールー。 」

  PULL.



 夕暮れ近くになってムーフールーが海を見たいと言い出して、海に行くことになった。海辺の街とはいってもこの坂の家からは、海はすこし遠い、なので車で行くことも考えたが、思いなおし、自転車で行くことにした、ひさしぶりに引っぱり出してみた自転車は、やっぱり空気が抜けていて、すかすかのタイヤをぽむぽむしてムーフールーが邪魔をする。
 ムーフールーを脇にどけ、空気入れでしゅかしゅかと空気を入れる。しゅかしゅかするごとにムーフールーはぽっぺたを膨らまし、しゅかしゅかと拗ねる、わたしはそれに構わずもくもくと、さらにしゅかしゅかするのでムーフールーもしゅかしゅかと、膨らんで拗ねる、ぜんぶ入れ終わったころにはムーフールーしゅかしゅかのぱんぱんで、指でつつくと、
「ぷぅう。」
 と息を吐き出してちいさく、もとのおおきさになった。


「ほら行くよ。はやく乗って。」
 戸締まりに手間取るムーフールーに声を掛け、わたしは漕ぎ出す。一歩漕ぐごとに坂を駈け上がってくる海からの風が、わたしをうけとめてくれる、心地よい、潮の香が髪を撫でてゆく、後ろから、鍵を咥えたムーフールーがぽむぽむと追い掛けてきて、カゴに乗る、
「ぽしゅ。」
 一直線に坂を駈け下りる、もう漕ぐ必要はない、ごうごうと風が耳もとで囁いている、食いしん坊のムーフールーがもふもふと頬張り風を食べている、その顔が赤い、夕焼け色に染まっている、
「あれ、見てみなよ。」
 坂の途中で自転車をとめる、カゴから身を乗り出したムーフールーが、
「きゅぅ。」
 と息を飲む。
 街が、夕焼けに燃えている。眼下に広がるものすべてが夕焼けに染まり、その向こうできらきらと波打ち、なお燃える海の上で、おおきく眼を開けた太陽がゆらいでいる、
「じゅっ。」
 太陽が海に触れる、波がひたひたと太陽を舐める、音を立てて冷えてゆく、風がすこしつめたくなり、太陽が、ゆっくりと今日の眼を閉じる、さっきまで夕焼けに燃えていたのが嘘のように、街が暗く、夜の瞼に包まれる、まっ暗の空を見上げムーフールーが低く、喉を鳴らす、
「るぅー。」
 振り返ると坂の上から、わたしたちを見下ろすように月が昇り、ゆるゆると眼を開ける、ぽぅっとした月明かりがあたりを照らし、それを合図にしてぽつぽつと、街に明かりが灯ってゆく、
「るぅーるぅうーぃ。」
 ムーフールーが泣いている、
「るぅーぃ。」
 泣き声が風に乗り、坂の上の月をまあるく撫でて、夜の瞼の向こうに広がってゆく、わたしはムーフールーを抱き上げて、くしゅくしゅしたほっぺたに頬ずりをする。




           了。


五月 断片

  如月


 一

鎮痛剤が開かれるように
始まる
アルコールの切れ端で拭う空が
落ちている影の片隅に
染み渡っていく


 二

雀が声を忘れていく道
そっと、置かれた言葉で
みたされていく三半規管


 三

溶けようとする
水とオリーブオイル

乳化しきれないでいる僕らが
揺られながら、揺れながら
きめ細かく小さな
気泡を擦り合わせていく

茹で過ぎたパスタだけが
いつも密かに
片付けられている


 四

子供の笑顔に壁が震える
突き抜けるような空に
くたびれている鯉のぼり

新聞紙の兜の折り方を
思い出せないでいる指先


 五

女の前髪のように
しなやかな影が伸びていく
忘れていた声を拾う帰り道

連れて帰るものは
少ない方がいい、と
背を向ける

染まっていく今日を
結べずにいる前髪


 六

いつまでも子供と
膝をおる男

とめどなく
揺れる三半規管で
きめ細かく小さな
気泡を作りあげ
溶け込もうとする


 七

窓枠に切り取られた空
なぞる手のひらが
探している歌
遠い日の声


お茶を飲む

  ともの

一心に書き物をしているとき、
お寺の鐘の音がかすかに聞こえた。
順当な、而して唐突な午後の終わり。
その報せの音。
鉛筆をおいて、
冷たいお茶を飲む。

子供たちが帰る。
時に歌い、話し、笑いながら。
ボールを蹴りながら、帰ってゆく。
窓の外の風景が、
手にとるようにわかる。
眼鏡を外し、
甘納豆を食べる。

夕暮れ時、
ひとりなんだ、と思い出す。
自分はひとりなんだ、と思う。
人はみんなひとりなのか否か、
考えて、しばらく逡巡する。
西日が遠のく。
また、お茶を飲む。

宅配便が届いた。
母から届いた。
手紙が入っている。
ありがたく読み終える。
だが、いまここにいる自分は、
やはり、ひとりだと感じる。
谷底ちかくに、
誰にも気づかれず、
佇んでいるような自分だ。
西日は消えかかり、濃ゆく燃えている。
送られてきたばかりの、饅頭を食べる。
そして、またまたお茶を飲む。


(無題)

  んなこたーない

彼女は通りを歩いている。
あたらしい長身の恋人と。
覆面レスラーは、オートバイで疾駆する。
ここは最後のFrontier――、
写実は終わった。ぼくは生きよう。



ぼくは生きよう。
クレテックたばこを
たてつづけに何本も吸ったりして。
ペリカンの生態に興味を覚えたら、
そのまま図書館に駆け込んだりしよう。
アンドレ・バザンに
不純な親近感を抱いたかと思えば、
アリバイ工作に画策したり、
ふと、じぶんのいまの年齢に
驚いたふりをしてみたり。
年甲斐もなく、デリケートに髪を逆立てたりして。
ときには、モンローウォークで、
サンシャイン・シティの地下歩道を、
ひとり、悠然と逆行しよう。
だれもぼくに追いつけないように、
ぼくはだれにも追いつけない。
冷酷なゼノン。
ぼくの時空間は、あくまで卵型した
伸縮スポンジにすぎないのだから、
ああ、気がつくと
吐気とともに
未明のタクシーで眠っていたりする。
あるいは、
ステージ上に積み上げられた、
何台もの100Wアンプスピーカーが、
スローモーションで、
背後からなだれてきたりする。
夜には、甲板から
はじめて自由の女神像を見上げる移民のように、
空を仰いで、
幾時間も流星探しに熱中したりする。
宇宙は無限の沈黙だから、
それでも、ぼくが戦慄するのは、
ときおり乱れるパルサーと、
この都市の奏でるタムタムが、
16ビートでリンクするからだ。
眠れぬ夜に、いつまでも目醒めたものたちが、
指鉄砲をポケット越しに乱射するからだ。
16ビートでダダダダダ。
しかし、14歳の終わりころから、
シンコペートを身体全体で覚えてきたぼくは、
スカした表情でうまく立ち回る。
だけどそのとき、ぼくの角質層は、
ひどい粘液性を帯びるだろう。
跳躍と重力が均衡すれば、
ぼくの空中ブランコは、
いつまでも、
虚空に手をさし伸ばすだろう?



ここは最後のFrontier
だれもかれもがDrifter



彼女はあたらしい恋人の前で、
はやくも膝を折るだろう。
オートバイで疾駆するなら、
レスラーよ、覆面よりもヘルメットをかぶれ。
だれもかれもがDrifter――、
ぼくは生きよう。1千万の女たちと、
散文的に、唇と唇を寄せながら。



形而上の信念を捨てろ。
賭けの味気なさを知れ。
大切なものは奪われるのだから、
失意のエクササイズに、時間を割け。


星の氾濫

  黒沢

ねむれないよるは星座をつくる
ひとつずつ折り紙を指で折りこむように
まっさらな空に定規をあて
残酷でもいいから疵やすじを残していく

ねむれないよるは星座をつくる
ひとつずつ有り得ない生きものの夢を見る
点線が呼び出すおどろきの闇の新星
形を写すことはいのちを奪うことだろうか

ねむれないよるは星座をつくる
父親に似た沈黙のひつじが
ひとつずつ柵の呼び名を無限に数えていく
喩えの数だけわたしは太る

ねむれないよるは星座をつくる
みじかい寝息に引かれながらわたしは
星の氾濫をゆくりなく耐える
ひとつずつ折りこまれる折り紙のように


夜を歩く

  ともの

夜の道を、ゆく。
季節を愛おしむわけではない。
散歩のための、散歩だ。
ほの白い街灯を頼りに、ただ進む。
あたりに自分の歩みを散らしてゆく、散歩だ。
道の真ん中に、拳がひとつ落ちていた。
蛙だ。
怯えて、奴をそっと避けながら、ゆく道だ。

夜を、歩いた。
生まれ育った街ではなくとも、何年か暮らした街を。
そこかしこに、小さな地雷が埋まっている。
除去されていないことを、また確かめる。
ずれた靴下を、直しながら見上げたそこは、
覚えがある場所だ。
いたたまれず、逃げながらも振り返る。
逃げながら、小学校をのぞく。
誰もいない校庭が見えて、
銀杏の葉っぱの揺れる音に、
追い立てられる。
早歩きで、懸命に、逃れる。

月のない夜だ。
星も見えない街の中、電気の明りが空に反射する。
漆黒ではない、濃紺の空が、わたしの夜だ。
時折人とすれ違い、この世界の存在を知る。
朝も昼も、おおよそ社会でいきている自分は、
胡麻粒だ。
けれども、いまここにある自分は、胡麻粒ではない。
何かは未だ知らないが、
たしかなことは、
胡麻粒ではない、何かであると、いうことだ。

ジョキングのおじさんに追い越され、
ウォーキングのおばさんとすれ違い、
教会の前で懺悔をし、お稲荷様に手を合わせ、
神社の鈴を鳴らし、お寺の石段を登る。
よそ様の表札を一軒ずつ読む。
右足、左足、右足、左足。
進み、戻り、進み、戻る。
蛙がまだ、さっきの場所にいる。
濃紺の空の下、胡麻粒ではない自分を、
この夜の世界に位置づける。
散歩することで、位置づけてみる。
夜を歩きながら。


あやまち多き人生ですけど

  ちんぽけーす

わたしは妻に先立たれ――というのはうそで、先に妻の方から離婚状を、ええ、三下り半を突きつけられまして、ようやく自由の身になりましたもので、それからというもの職はすでに32回変わっとります。人生バラ色――、というのはですね、わたし、これでもけっこうモテまして、はい、つまらなさそうな子でも良いところはあるものです。わたしもつまらない人間ですから。そういった子の気持ちはよく分かります。で、そのつまらない所にですね、合わせてみるとこれが不思議でありまして、みるみるつまらない子がその秘めた空っぽの心をわたしに見せてくれるんですね。わたしはおまんこを見るよりもそっちの方がムラムラ来るんです。もちろんおまんこも見ますけどね。わたしはもう結婚はしませんから関係としてはとってもドライに見えるんですけどね、本当はそうじゃないんですよ。わたしは思いますけど、結婚っていうのはしばりだと思いますね。なにやらギムやら金やらが絡んできて、もうこの年ですから、わたしも何の野心もありませんから、はっきりいってそういうことを考えることもないからいらないんですよ、そんなしばりは。女の子にとってもその辺の余裕が心地いいんでしょうか。何の将来性もないわたしにですね、近づいて来るようなんです。つまらないんですよ。なにもかもね。わたしの知らないところで大儲けしている人もいる。その人はたぶん、美人で聡明な子をたくさん引きつれてトリコにしているでしょう。でもね、その人の知らないところでわたしはどう見てもパッとしないつまらない子たちと楽しんでいるんです。草野満代なんかより100倍かわいいとわたしは思ってますけどね…

次の日は仕事は休みだったから最近家に来るようになった子の手と足を彼女が眠っている間に縛っておいたんです。目と口ももちろんテープで固定しましたよ。彼女が朝、目が覚めるでしょう。そのときどうなるか見たくってさ。最初はただそれだけだったんだけど、いや、もちろん「興奮しました」よ。とても恐ろしかったんでしょ。叫ぼうにもね、できない訳だから。だんだんエスカレートしていってね、次の子は車のトランクに入れました。夜中中、ずっととばしてね(金がないから下道だけどさ)朝、着いたらトランクを開けてさ裸で縛ったままの彼女を捨てたんですよ。寒いから凍えてたよな。ちゃんと2時間後には迎えに行ったけどさ。でもやっぱり彼女はそこにはいなかった。30分ぐらい探したかな。見つけたらさ、かなり遠くまで行っててさ、草むらで目隠しのまんま芋虫みたいに必死にもがいてさ、やっと助けが来たと思ったんだろ、必死にわたしにすがりつくんだよ。わたしはね、そのときの彼女の顔が忘れられなくて、今でも女の顔に射精するときは必ずその顔を思い浮かべるようにしてる。泥まみれの顔でさ、言うんだよ「助けて、助けて」ってさ。口は拘束されてるからさ「はっけへー、はっけへー」ってしか聞こえないんだけどさ。

わたしはたぶん夢を見ていたんじゃないかと思うことがよくあるよ。軍用ヘリで女が吊るされていく夢さ。女はどんどん上昇していって上空5000Mで犯される快感を味わっていたんだ。「わたしはこんなに空気が薄くて、全身が串刺しになるようなところでないと感じないの。もっと愛して。不感症なんだからもっと責めて。もっとイかせて」女はたぶんそう言ってたんだ。本当にそう言った気がしたんだよ。そのとき彼女にはやさしく言ってあげたさ「感じることができたかい?」ってね。

・・・っていうのは当然わたしの妄想でね、本当は土下座して謝りましたけど、当然、赦してくれませんよね。あたりまえなんですけど。でも、この女のつまらないところはね、あそこで味わった快感を必死に隠そうとするところなんですね。本当は信じられないぐらいの体験をして体は興奮して、またしたいって思ってるくせに、本人はそれが実に自分のプライドをずたずたにされたと思うんでしょうね、そういうのが許せないんですね。「アンタなんか死ねばいいのに」とか「下衆」とかね、わたしに必死に言う訳ですよ。それでも毎日わたしの家には来るんですけどね。残業で遅くなったから帰るのがきついとかね、課長にセクハラされたとかいろいろ理由をつけてね。かわいいですよね。コーヒーを入れてやったら頭からこぼされるしね。なんとかわたしを怒らせようと必死なんですね。わたしを怒らせて今度は冷蔵庫の中とかに放置されたいんでしょ。素直にそう言えばいいのに。バカですよね。一度「バカ」って言ってやったらカンカンに怒っちゃいましたね。気持ちよかったですよ。ドツボにはまっていく女の姿を見ているとわたしは興奮して目が冴えて、また、やりたくなってくるんです。こんなにかわいい女はいないからまた喜ばせてやりたいなって。

こういうわたしがいちばん不感症なのかもしれないな。あやまち多き人生ですけど生きてる価値はありますよ?なにせ彼女はたぶん幸せだから。


カンガルーのポケット

  ミドリ



カンガルーはハーバーを見下ろす見晴し台の方へ、身ごなしも軽く入っていった。

海から吹き上がってくる、風のざわめきが聴こえ、ヨットが揺れている。
ハンドブレーキを、ギューイっと、引いた黒猫が車から降りる。
赤いピンヒールの彼女はサングラスを掛け、メンソール入りの細いタバコに
火を点けた。

「そこの道路は、ペンキの塗りなおしが終わったばかりだね」

って、カンガルーは黒猫に言った。
彼女は聞いているのか、いないのか? アンニュイな仕草でロングのおろした髪に、
指を入れた。
カンガルーがこの島に滞在して4日目。太陽は燦々と輝き。
黒猫のマリーはカンガルーをこの海岸に誘った。

レセプションの支払い、飛行機のチケット、食事代。それらを現金で精算する、
カンガルーのポケットは小銭でポッコリと膨らんでいた。

防波堤で区切られたビーチは、いずれの区画もよく似ている。
カンガルーは見晴し台から、砂浜で小ぶりなパラソルの下に座っている、パンダを。
見ていた。

雲間に太陽が隠れつつあった。水着姿の黒人が数名、パンダに近づいた。
上半身裸の男が、拳銃を片手にパンダを小突き始めた。
膝の上の編みかけのセーターを握り締める彼女を、男は拳で何度も、何度も、
パンダを殴打する。

カンガルーは葉巻をポケットから取り出し、眉間に皺を寄せた。
黒猫はカンガルーの胸に寄り添いその光景を見て。赤い唇を尖らし、「酷いわね」って言った。

砂浜に頭からのめりこんだパンダはぐったりとしている。カンガルーは、
黒猫のマリーの肩を抱きすくめ、耳元で囁いた。「寒くないかい?」

マリーは羽織っていたカーディガンをグッと深く肩に引き寄せた、そして。
「ええ、少し風が強いだけよ」って、そう言った。カンガルーの横顔を見上げながら、
・・・少し、風が強いだけなのよ、って。

黒猫のマリーは、カンガルーの胸に頬を深く預けて、そう言った。


赤い川

  田崎


赤い川を覗こうと
熱し切った手足は捨てた
また生えてくる別の手足を
訝しみながら
川を覗き
鳥の羽のように手は空をまさぐった
私は
手を憎み
固くなった足を
後ろに向けて
解し
折り曲げながら
互いに挨拶をするような
柔らかな曲線で放棄した

旋回する鳥は
羽をどろっと零し
油の色彩を
油性の時間に掻き混ぜられながら
演舞する仕草を残像として
抽出し結晶させ
階段状に降らし届ける
だから
私の手足はすぐに腐る
それは錯覚かもしれないが
腐爛しているのかと
押さえ切れずに
手足を
手足ではなくしてしまう

赤い川に
手足を何本も落とす
(枝のない
 直立した木を見るように
 鳥たちはそれらを見ている)
流量の少ない川は真っ赤で
手足であったものから
漏れるものがなくても
生きている私の鮮血を
川に
覗き込んでも
私の顔は見えないが
大分昔から
川が流れていることを
知っていた


新婚生活 (ラフ=テフ外伝 パート2)

  ミドリ



間もなく激しい雨が降り出してきた。

バルコニーのプランターを小走りに部屋の中に取り入れるまなみ。
電話が鳴る。
夕暮れの晩夏の窓辺に並んだ、ビルディングが雨の中に霞みはじめる、
猫の額ほどのふたりの小さな北向きの部屋。
まなみはそこでクマと一緒に、暮らし始めた。

クマが受話器を上げると、
「俺だ」というくぐもった声がする。
明らかにオッサンの声だ!
ブチ切れたクマは
「”俺だ”でわかるかっ!こらオッサン」っと怒鳴った。
オッサンの声はさらに続けた。
「まなみに取り次いでくれ、新しいカモノハシが二匹手に入ったと」

プランターを取り込み終えたまなみが、
「誰?」
なんて涼しげな顔で訊いている。
「知らないオッサンが!カモノハシがどーとか言ってるぞ!」
クマはブチ切れたまま、まなみに言った。
「そんなにすぐブチ切れないでよ、まるで輪ゴムみたいに・・」

クマから受話器を受け取ると、まなみはオッサンと楽しげに話し始めた。
「うっそー!?カモノハシが二匹?マジでー、見た〜い。о(><)о」
みたいな会話を、クマは右手の親指を咥えながら、1時間も聞いている。
さらに2時間たったろうか、漸く話が一段落つき、まなみが受話器を置くと、
クマは目に涙を溜めながら、ソファーに横たわってグーグーと寝ていた。

「風邪ひいちゃうぞ」
そう言ってまなみは彼に毛布を掛けた。
「今ね、カンガルーさんから電話だったの。船の上からよ!あなたに、
一番逢わせたい人なの」っと。
彼の寝顔に頬杖をつきながら話しかける彼女。

夕立はなおも強く、マンションの窓ガラス激しく震わしていた。


扉のあった空間から見た赤い土地

  右肩良久


 無限の蝉。

 扉が剥がれ落ちた、長方形の空間から
 展開する赤い土地を見ていた。
 鶏の首を縄で括って吊し、
 黄色い父がやって来る。

 (鶏。
  その脂分の致命的甘味。)

 酸化鉄の匂いの熱風、横転するバケツ形のバケツ。

 父の視線と鶏の視線。それが
 脳の最奥に楔形に揃う破片。

 私の実体は
 サバンナの高木の
 白い樹皮でしかなく
 四分五裂、運動的に乾燥している。

 レム睡眠はこのまま覚めない。
 意識の表層に掌を当てる。
 ざらついた巨大な球形、
 赤い蝉。

文学極道

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