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凪葉

選出作品 (投稿日時順 / 全18作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


世界

  凪葉

見渡すと、
目線を越える細長いものや
大きな塊が、いくつも立ち並んでいた
遠くの雲は薄赤く染まり
もうそろそろ暗闇が来ることを告げている
その、移り変わりを眺めていた
  
「昔は、もっと緑が溢れてたって、父さんが言っていたのを思いだしたよ」
「うん?」
「いや、」
そしたらもっと、住みやすいのかな、
吐き出すように出た言葉に、
きみはこくりとうなづいた。
 
 
 *
 
 
カーブを曲がると、さっきよりも空が赤くなっているのに気が付いた
「空、きれい」
隣に座る彼女が言った
ぼくは、道が直線になった所で、窓の外に目を向けた
「建物があってわからなかったけれど、もうあんなに赤くなってるんだね」
「ね、きれいでしょう」
「うん、田舎は空が広いなぁ」
    
電信柱と、街灯が等間隔で配置されている平坦な道は
どこまでも真っ直ぐに続いているかのように思えた。
 
 
 *
 
 
段々と、薄赤く染まる世界
辺りには、青黒いベールが段々と降りてきていた。
向こうは、なんて明るいんだろう
「向こうまで行ってみる?」
「ううん、ここでいい」
ここがいいの、と、ぼんやりと夕空を見つめながら
きみは言った。
ぼくは肌が触れるくらいまで、
そっと近づいた。
 
「もうちょっとここに居てもいい?」
そう言ったきみの瞳が、赤く染まっていた。
ぼくは、「いいよ。」と言って、沈んでゆく世界に目を向けた。
乱立する塊が
ひとつひとつ、ゆっくりと燃えていく
 
きみは、燃える世界を
何も言わず
まっすぐに見据えていた。
 
 
 *
 
 
バックミラーに反射する光
周りに降りてくる夕暮れ
さっきよりも大分陽が沈んでいるのがわかる
  
「燃えてるみたい」
後ろへ倒した助手席に寝転がる彼女が言った
 
地平は燃え、
通りすぎる建物は
夕色に染まっていた
アクセルをはなし
急なカーブにさしかかる
カーブは夕陽の方へ向かっていた
 
先に広がる景色と、先に続く道とを平行して見ていると
何段か高くなった場所に
何かを仕切るように置かれたフェンスが見えた
  
網目から光が散らばる、
その上に、二羽のカラスが座っているのが見えた
地平を焼く光をあびながら
寄り添うようにして
夕陽を見つめていた。
  
 
 *
 
 
カーブを終え、落ちる陽の先へと向かう
きれい、と、また彼女が呟く
ぼくは、もう見えないとわかっていながらも
バックミラーに目を向けた
フェンスの上、
暮れゆく世界を見つめる、二羽のカラスの残像が
いつまでも、意識から離れなかった。
 
道はまた
まっすぐに続いていて
やっぱりそれは、
どこまでも続いているかのように思えた。


深海

  凪葉

なまぬるい水の中で溶けていくような、そんな感覚をいつも感じながら落ちていく。 そこはふかく、吸えない空気を探すことを止めたのはもうずっとむかしのことで、時折射しこめる薄日に眩しさを感じ手で覆う、そんなことを繰り返していると、なにも見えないことがそのうちに、見えてくるような錯覚に陥る。
光はいつも、違う角度から射し込んでいた。
 
 
愛、を知っていた。
愛すること、愛されること、
コップに入れたココアの粉を溶かすようにゆっくりと、溶けていった季節の数は今も続き、入れすぎた砂糖は、えいえんの甘さのように、感覚は、
だんだんと侵されてゆく。
愛を知っていると、変わらないまま変わった愛に別れを告げた、とおいむかしのことのように、
夜空の星をひとり数えていたけれど、すべてを数えることは、いつもできなかった。
 
 
毎日のように雨が降っていた。
止むこともあるけれど、スコールのように激しいのだって珍しいものじゃなかった。
溢れかえったはずの海は、いつからか凪を手にし荒波も、徐々に和らいでゆき、
そこに生まれた深海に届く、僅かな光もじきになくなるのだろう、と、雨の降る、空を見上げた。 季節はいつも変わらないまま。時間だけは確実に、流れていった。
 
 
ふかくふかく染みこんだ日々にまでとどいていきそうなくらいに、響く音があった。 それは風の音で、雨の音で、鳥のさえずり、
重力にあらがうように太陽に向かう草木だった。 けれど、
地球のそこのように終わりがあるわけではなく、水嵩が増えていくまま深海は深さを増し、
命動のような響きもやがては鎮まるのだと、灰色の瞳をうかべて視線をまっすぐに、空白を見つめ続けていた。
 
 
風の静けさを手にいれた朝も、外は相変わらずに雨が降り、続いていた気だるさは重力へと変わり、はきだした言葉は氾濫をくりかえしながらしゃぼん玉のように消えていってしまったので、
わたしの中の質量が無くなりそうなのだと、機織りのように延々と続く言葉を紡ぎながら、
沈んでゆくわたし、を、止めることができないまま雨はいつまでも降り続き、
もはや海は、わたしから溢れそうだった。


無題

  凪葉

取り残された時間は今日に置き忘れたふりをする
そうしてそのまま、風化を見届けることもなく
長袖の上にもう一枚服を重ねて
くりかえしの中のひとつになっていって
物干し竿に真新しい記憶を干しては生まれかわるならと
朝に思いを募らせていく

たぐりよせた風は途方もない年月を覚えていて
よく晴れた雲ひとつない空にわたしを広げていくから
わたしは、広げられたわたしを眺めながら
やがて思いだされていく懐かしさをひとつひとつ手に取り
無言のまま風へと繋げていく

それは、遠い昔のことのようで
鮮やかな景色の輪郭に触れながらわたしは、段々とわたしをわからなくなる
ただ空が、空は、その青さでえいえんに瞳を奪ってしまうから
ぼんやりと見つめることはもうできないのだと
わたしはわたしをわからないまま足を前に
いつかもそうやって足を、前に、だそうとしていた

伸ばしていた四指の爪を切り落としながら
やさしさ、みたいに曖昧なものを携えていく道にも
色褪せることのない青は染みて、染みていくから
もう、どうすることもできないこと、知っているそれでも
渡り鳥の指す方向へ消えていく今を見送る眼差しだけは
たいせつにして、いきたいと

雲ひとつない空から落ちてくる青と
気まぐれな雲の白と
暮れていくことを知りながらに目をあけて、目をとじて
すべては、笑いながら傷ついていくこと
その青さで、何もかも呑みこんで
なにも、残りはしないから
くりかえしは終わらない
だからきっと、きっとね
明日のわたしは今日のわたしを、覚えてはいない


オリオン

  凪葉

春には、からだ中をくるくるとまきついてくる風を抱きしめては
夜にゆられている星をみつめています
きらり きらり
オリオンを見つけると
心が静かな波のように、なって
しゅるしゅるとからだから離れていく風は
どこへ、いくのでしょう
木々が今日も
やさしく鳴いています
 
 
夏には、太陽にさよならをしている間に
ぽつり ぽつりと
ちいさくきらめく星を見つけることができます
地平が、まるで終わっていくように燃えゆく後ろで
たしかな光を、はじまりのように放っているのです
大地が消えるとたちまちに
眠りについていた星たちが目を覚まして
夜の空を見守るやわらかな眼差しで
ふわりと、灯していきます
その中に、
オリオンは居るのです
 
 
秋になると、からからと乾いた音をたてながら
はらり はらり
枯葉たちが笑いかけてくれます
褪せていく命と、褪せない命と
太陽と雨曇はみんなに
やさしいんだって
そんなあたりまえのこと
あらためて思ったりしている間に
降りてくる夜が静けさを纏いはじめて
そのうちに
星たちも囁き声になって
それを見上げるわたしもついつい声を無くして
オリオン、あなたばかりを見つめてしまうんです
 
 
吐く息が真綿のように
やわらかなかたちを彩ってゆく冬は
気まぐれな灰色の雲に
せかい中が押しつぶされてしまいそうになります
そこらじゅうで凍りはじめる空気の音が聴こえてくるくらい
鎮まる大地に
風さえも声をなくしてしまって
それでも、夜になれば
オリオンから広がっていく天界に
浅く吐き出した息がふっと消えていくのを
見送る気持ちで見つめています
きっとそれは、
この瞳が続くかぎりいつまでも
いつまでも続くのだと
オリオン、
今もこうして
あなたを見つめています
 


ゆびさき

  凪りん

あなたは、そのたおやかなゆびさきをしなやかにうごかして、せかいを、瞬く間に変えてしまうけれど、わたしは、見渡せるせかいからはいつまでもぬけだせないままで、途方もないことばかりを探してしまうから、もう、
遠いところへいくことはできないのだと、思う。 
まわりには、たいせつなことばたちがあふれているから、きっと、この海でおしまいなんだって、そう思うから、だから、ねぇ、あなたはそのゆびさきで、これからもいくつものせかいを変えていってほしい。
遠くに浮かぶ灯台の灯のようなやさしさで、いつか、いつの日か、せかいじゅうの海があたたかいものであふれかえるまで、そのゆびさきを、ふるわせながら、この海をこえてほしい。
 
 
わたしのゆびさきは、あなたのようにうつくしくはなれないけれど、あなたが、あなたがうつくしさを教えてくれたから、この剥がれた皮はじきに固まって、ゆびさきを、いまよりもぎゅっとつよく、
やわらかくしてくれて、そしたら、ほら、だいじょうぶって、あたらしく生まれてきたあたたかいものを、わたしは抱きしめることができると思う。
そのころに、
もし、あなたのやさしさがわたしの海まで流れてきたなら、その時はあなたの仕草で、
ゆびさきをていねいにうごかして、この、
あふれかえる青の中に、あなたへの手紙をそっと、
祈ろうと思うんです。
 


無題

  凪葉


もしも、溜め息の数だけ何かが失われていくとしたなら、それはきっと目の前に散らばっているお菓子の空袋なのかもしれない。
味もとくに意識することのないままただ人差し指と親指と、たまに中指を使ったりなんかして器用に口に運んでは歯を動かしているだけの、まるで機械のように、もくもくと目の前にちらつくテレビに目をいったりきたりさせている。

意味も無くおちょこでコカコーラをちびちびと飲んだりなんかしていても、部屋に散らばる衣服と、カチカチと一定を保ち続ける時計はいつだって何も話しかけてはくれない。
炬燵に入れた足がなかなか出せないままかれこれ何時間経ったのだろう。もうこのまま出られないかもしれない。
肩の重さを和らぐために肩を叩く姿のまま、ふいに立て掛けてある鏡と目があってしまいまたひとつ溢してしまった溜め息。
その中には何が含まれていたのだろうとくりかえしくりかえし考えていると時間ばかりが過ぎてしまい、ああこうして炬燵から出られないのだなと気がついて、苦笑した。

ひとつふたつみっつ、もうそろそろごみ箱が必要に、と思いながらまた別のことを考えてしまう悪い癖は相変わらず治りません。
ストーブを消して節約する気持ちだってあるのに、炬燵に入ったまま眠ってしまう癖も今のところ治りません。
眼鏡をはずしてぼやける視界のままいられたらどれだけ良いだろうか、いつか、そんなことを口ずさんだ人が、今、わたしになっています。更にぼやけていく世界に、瞳がついていけないと、嘆いている姿が、いつかの、そう、いつかの、、


目をとじて感じるせかいの温かさに爪先から覆われていきたいと思う。
雨音、混ざりあって消えていく時計の、子守唄と風のひそひそ話、炬燵の胎動が、脈々と、自動車の行き交う音に消されていく。その辺り、呼吸が届くくらいのところまできている。
溜め息の数を気にするのはもうやめないと。そろそろ、お湯を沸かして、湯たんぽに足を預けて、ひとつひとつ閉じていかないと、明日はお休みだから、そこらじゅうに染みついている何かを外に干して、パンパンってやさしく叩いて空へ送り届けるんだ、と思う。そういつだって、わたしは思うだけ。確実なことは無いから、いつだって思うことばかりを思ってしまう、悪い癖。


四月の海

  凪葉

今日は晴れ
泳ぐ魚が見えるくらい
水は透きとおっていて
四月のあたたかい太陽は
その水をきらきらと宝石にかえてしまう
これじゃ眩しすぎて
とてもじゃないけど入れないから
とりあえず、
今日のところはゆられていよう
 
 
空には、綿雲がわたわたとひろがり
奥行を描きだしている
その中を海鳥が
のんびりと、眠りながら飛んでいる
わたしは、
海鳥たちの名前を頭にうかべながら
砂浜に寝転がる
カモメ、うみねこ、
カモメ、うみねこ、
あまり間近で見たことがないからかもしれない
うまく、違いがわからなかった
 
 
風通しのよい胸が
今日に限って心地がいい
不思議と、気づかないうちに
波音が耳の中にあって
遠音のようにしんしんと
わたしのなかに響いてくる
時折波の合間を
海鳥たちの声が飛び交う
一体、なにを
話しているのだろう
 
 
空気を切る
音がきこえて
通りすぎる風、
ちいさく
砂ぼこりが舞いあがり
わたしは、慌てて起き上がる
ふいに、地平線、
どこまでも続く
青い鏡が瞳に宿る
 
 
今朝、
起きてすぐの予報を思い出す
気持ちは、
変わってはいない
明日の予報は、雨
もしその通りなら
わたしはたぶん
明日、この海になるんだ
 


  凪葉

昨日降り続いた雨は、まだ止んだばかりなのか、見上げた朝の空は、一面を巨大な黒い雲と白い雲とが点在する穏やかな空で、その僅かな隙間から、例年よりも幾分か熱い、太陽の光が降り注いでいた 
 
道の脇には、まだ耕されたばかりの畑が広がり、トラクターの跡だろうか、いくつもの窪みに溜まる水の中、ちょうど開けた空の青が、真新しく吹く風にゆられている
沸き上がる土の、どこか懐かしい匂い、街を城壁の如く囲み連なる山々には、雨上がりのせいか霧はなく、若葉の混じるその姿の上を、鳶が一羽、ぐるぐると気持ち良さそうに旋回を続けながら、高くたかく上昇していくのが見えた
 
 
行く道には、たくさんの花がばら蒔かれたように咲いていた
植えられたばかりの小さな桜の、淡い桃色や、畑と向き合うように流れる水路に咲く、名も知らない花の純白
まるで花束のように、一点に集中して咲く馴染み深いたんぽぽの、眩しい黄色と、
空を宿した瑠璃唐草の、澄んだ青色、はじめて名前を覚えたのだと、妻が微笑みながら言ったのを思い出し、しゃがんで、そのひとひらに触れた時、ふわり、と、あたたかい風が花をゆらして、いくつもの花びらの上から、雨の滴を落としていった
 
 
くねくねと続く道の先の、一番大きな曲がり角を越えると、またひとつ大きな畑が広がっていた
その畑の向こう側に植えられているりんごの木々には、黄緑色の若芽と、赤い色の小さな蕾が生え、その近くには、梨の木が白い花を咲かせている
畑の隣には別の畑が広がり、その隣にまた別の畑が広がる、その連なりの合間を縫うように、古い家が崩れそうな具合で建っていた
 
 
見上げると、さっきまで空に点在していた巨大な雲の群れは、薄く伸ばされ、消えてしまいそうなくらい透明になって、後ろに在る空の青が微かに透けて見えていた
ふいに、砂利を踏む音と共に、前方の畑に乗りかかるようにして停車してあった軽トラックが動きはじめ、私の進む先へと、ガタガタといびつな音を鳴らしながら走り去っていった
その姿をぼんやりと見送った後、ふと視線に見える山の麓辺り、目の前にある木の間から、光の曲線の一部がうっすらと見え、
よく見ようと少し場所を移動してみると、それはやはり虹で、山の麓から隣の山の頂き辺りまで、橋のようにかかっていた
 
 
軽トラックが消えた畑の中には、よくみると年輩の女性が、腰を屈めて農作業をしている
時折吹く爽やかな風に体を持ち上げるわけでもなく、ただひたすらと作業を続けている
虹、虹には気づいていないのだろうか、そう思いながら、さっきよりもやや歩調を落としつつ歩きはじめた
女性の横を通り過ぎた直後、ひとしきり強い風が吹いて、春のやわらかな匂いが轍となってやってきた
虹はまだはっきりと山から山へとかかっていて、しばらくそこで立ち止まり眺めていたら、急に、たまらなくなって、その場で振り返り、女性にむかって、薄い光が射す虹のかかる辺りの空を指差して、虹が出ていますよ、と叫んだ
すると顔を上げて、虹に気がついた女性は、すぐにこちらに振り返り、ありがとうと、手を上げて、帽子の下、しわくちゃの顔でにっこりと微笑んだ


無題

  凪葉

わたしの中に、あると思っていた、永遠や、愛や、そういうものすべて、混ぜ合わせて包んだような、ひかりとか、抱きしめていた、朝、からだの奥深く芯から、じわりと滲みだした黒いなにかが、
指の先や、鼻の先、とにかく、先という先へ向かっていくのを感じて、
どうにかしないといけないのもわかっていたのに、どうすることもできないままで、
ただ、立ち尽くしたまま、
 
 
 
ここに居てはいけない、
そんな気がして、また振り払って、くりかえしを、くりかえして、
頭上を見ることができなかった、いつもみたいに、空を仰ぐことができなかった
不思議と首が上がらない
このまま、脱力する前に、と、耳元にはめていたイヤホンを強く押しこんで、いつもより音量を何倍にも上げて、なんとかして、思考をねじ曲げたかった
愛すること、そのことに、溺れそうになりながらも、胸を張る
爽やかに吹きぬけていく風にさえ、倒れたくもなる
 
 
 
鳥の鳴き声、雲が描く風の姿、草木のさざめく音の群れ、
生憎のくもり空が心にしみた
求めることが失うことなら、と、なんど思っただろう、あれからずっと、見つめ続けている長い時間
何気ない野花が愛しく思えて、触れようと伸ばした手の、ささくれた指先に、わたしの海に落ちていくわたしが加速していくのを、必死になって、固めるように、つよく押し止めてから、また、歩きはじめて
 
 
 
怖いのは、崩れる前に壊れてしまうこと、からだの中から破けてしまうこと、何も感じなくなるなんて、そんなこと、無いと思って、いたのに、悲しいうたばかりうたうようになって、悲しいうたしかうたえなくなって、手の届くせかいから遠ざかってしまって、それから、それから、わたしはどこへいくのだろう
 
 
 
あの朝も、いつもと同じ眩しい朝で、きっと、これからも続いていく朝で、それでも、ひとつずつ何かを失っていって、そうして、何かが生まれて、いつの日かわたしがわたしで無くなる時がくるのだろうか、と、張りつめていたものを緩めて、解して、このまま、
わたしがわたしで在れたなら、と 
 
 


小夜

  雨宮

 
 
ほどけない気持ちが
見えないところで絡まって
ゆるゆると溶けていく途中の
深い眠りを求める夜には
出来るかぎりのやさしい仕草で
こぼれないように
そっと、星を手にとる
 
 
願いごとは
聞き飽きましたかと
吐く息のように呟いて
きらりきらりと
遥か遠く
届かない距離を
感じさせない瞬きは
誰のものでもないけれど、
たぶんこれからも
願いごとは
積もり続けてしまうから
せめてわたしだけでも
この夜に
さようならを届けます
 
 
意味もなく、
辞書を開いてみれば
今日の夜は、星月夜
月のない
星たちだけの長い夜
しゅるしゅると
風が肌をすりぬけて
眠らない?
眠れない、
ほどけない気持ちと
星の瞬き、
そのふたつが
音のない音を響かせて
静かすぎる夜の空に
混ざり合って
混ざり合って重なって
 
 
深い眠りは
もう、すぐそこですか、
手の届きそうなほど近くに
見えそうで、
見えない
身体だけがほどけていくような
感覚だけを置き去りにして
更けていく夜の暗闇に
包み込まれて
またひとつ
瞬いている星を
手にとって、
 
 


思い事

  雨宮


風が
流れて
流されて 
肌に、
指先に、
包み込むしぐさで
くるり、と
やさしく触れて
そうして
そのまま
遠い南の
どこまでも青い
空を呑み込んだ海のある
遠い南の
やわらかな砂の上に
ふわり、ふわり
降り立ちたいと、
たとえ
形を無くして
砂の一粒に
消えたとしても
降り立ちたいと、
そう、
願う心ごと
風は、
するりすり抜けて
遠いところへと
流れてしまうから
思い事
ひとつ、ふたつ
抱きしめたまま
わたしは、
人よりも
ほんの少しだけ
小さな歩幅で
過ぎ去っていく季節の
か細い声に
寄り添いながら
灰色の
まあるい空がまたひとつ
せかいの器に
重なっていくのを
手を振って
見送っている
 


地平線

  雨宮

 
 
小さい頃、海の向こうには恐竜がいるものだと思っていたのだと、
夕色にぼやけた海の方を向いたまま、こっそりと打ち明けた。
隣に座る妻は小さく笑いしばらく黙った後、もしかしたら今もいるかもよと、
本気なのか冗談なのかわからない口調で言った。
海の彼方のどこかに?
そう。海の彼方のどこかに、
わたしたちの知らないどこかにいるかもしれないよ。
恐竜が?
うん、恐竜さんが。
 
 
海の方からは絶えず、波音だけが確かなものとして、胸元に生まれては消え、生まれてはまた、消えていく。
それを飽きもせず眺めている僕と妻と、数羽の海鳥。
どこか遠くへ行きたいと言い出したのは妻で、海へ行こうと行ったのは僕だった。
なにをするわけでもなく、ただ、海を眺める。
僅かに交わした言葉は、気づかないうちに波音になって、ぼくたちはすぐに言葉を見失う、生まれては消えていく、そのくりかえし。
車で片道三時間の小さな逃避行は、もうすぐおしまい。
果てのない遠くへと続く海の青の先に消えていく太陽は、とろとろになって、下の方から融けていく。
海、半熟卵みたいだね。
妻が呟く。
僕はそれには答えず、海鳥が帰路についた辺りから思いを巡らせていた、太陽の生まれてくる場所について妻に聞いてみた。
すると妻は迷いなく、白く小さな人差し指を真っすぐに海の方に伸ばした。
もしかして海から?
ううん、地平線から。
太陽は地平線から生まれて、地平線に帰るの。
 
 
夕陽に染まる妻の眼差しは、橙色にゆれる地平線の遥か、だれも知らないどこか遠くを見つめているような、そんな気がした。
不意に不安を覚え、頬に触れ名前を呼んでみる。
こちらを向く丸く小さな瞳、少しだけ口角の上がったやわらかな表情。
なんでもないと頭を撫で、もうほとんど融けてしまっている太陽に目を戻した。
 
 
地平線から生まれてくる太陽、海と融解し生まれ、そして再び、海と融解しきえていく。
妻の見つめる先と、僕の見つめる先は繋がっているのだろうか、そんなとりとめのないことばかりが頭をよぎる。
海鳥たちが消えていった遥か、その先にいるであろう、恐竜、
妻は、何を、
思っているのだろう。
風が強くなってきたせいかさっきよりも寒く感じる。妻も膝を胸に抱きしめ寒そうにしている。肩に上着をかけてやると、ありがとうと、小さく笑った。
帰ろうか、
うん、もうちょっと、もうちょっとだけ。
太陽が地平線に帰るまで?
うん、うんそう。太陽が帰るまで。
だからもうちょっと、と、そう言った妻の瞳は既に、地平線の先遥か彼方をみつめている気がした。
僕は妻の肩をそっと抱き寄せて、喉元まできていた言葉の向かう先を決められないまま、妻の見つめている先、地平線に帰っていく太陽に思いを重ねた。
 
 


夜の深浅

  凪葉

 
 
真夜中、ふいに目が覚めた。
寝汗をかいていたのか、閉め忘れた窓から忍び寄る生暖かい風に肌寒さを感じた。
体を起こし、窓辺に射し込んでいた月のひかりに触れる。
満ちた月のひかりは、窓辺に敷かれた布団を仄明るく包んでいた。
窓を大きく開けて、風を確かめる。
木々たちは驚くほど静かに、まるで、子守唄のようなささやきでゆれている。
伸ばしていた腕に絡みつく風に、含まれる春の匂いと、無臭の、夜の匂い。
 
 
布団の横に置いたままの読みかけの本を手に取った。
旅先で買った木製の薄い栞を、そっと抜き取りページを開くと、乾いた、本の香りが微かに感覚を刺激した。
開かれたページを照らす月明かりが、言葉のひとつひとつをも包みこんで
心の中でくりかえされていく言葉の、ゆるやかな流れが広がりを手にしていく。

  
  消してしまえばよかったのか
  なにもかも最初から
  存在したことなどなかったかのように
  跡形もなく
 
 
一遍の詩の、何気ない言葉が、知らず知らずの内に零れはじめていた。
気づけば、意識が夜の空を抜けて、それでも高く、高く抜けて
わたしは、どこか遠くの、行ったことも、見たこともない程の果てを歩いていた。
言葉はいつしか海になり、波になり、寄せては返して、胸をゆさぶる。

 
  果ての果てには何があるのだろう
 
 
三度、心の中で呟いた。
詩の終りが、夜の終わりではなく、空白だけが残される。
覚醒した意識の中をすり抜けていく風は、変わらず春の匂いを含んで
唄われ続ける、木々の子守唄で満たされていく夜。
閉じられた本の隙間から抜ける空気の音が、音の無い部屋の中に小さく響いて
窓の外、高く満ちる月を見上げた。
 

置き去りにされた思いと、残された空白。
その中で確かに、わたしの知らない、果ての音が静かに
ただ静かに震えていて
月を見ているはずの瞳は、光の輪郭を透かして、どこか遠くの
わたしも、誰も、行ったことのない果ての果てを見つめているような
そんな、気がしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
※段分け部、
作者:武田聡人
「日々の泡」より一部引用。
  
 


くらげ

  なつめぐ

 
  
 くらげ、
 
 
ひかりを/すかして
みずになる
それを
あるものとして
うけいれる/ことを
じゆう と
する
  
つかめない
から
つかめない
ものは
うつくしく 
それは
あいすること の
ように
どこまでも
むじゅんで
だから
うつくしいの
でしょうか、
  
 
 うみ、
 
 
べつ/べつ/の
ものが まざりあう
ための、
ばいかいで
かまわない
  /けれどくちびるは、
    ふかい こきゅうを おそれつづけて/
 
いまだとうめいには
なりきれない
ひかりは、
ただ ひかりで
みずと
ひとつにはなれない
  ( から/
     もとめてしまう、 ) 
 
 
 じゆう、
 
 
どこまでも
じゆう、
そのようにある
そらも/また
ただの かがみでした
 
どこまでもおおきな
おおきな
みずたまりを
およぐ ことばを
じゆう、
それもまた/いつわり
なにも
みえない
  
 
 いのり、
  
 
ふかいふちに
ねむる といきの
おもいだけが
たしかなものだと
はじめから
 しっていました
 
( いつかの、
      いのりさえも )

たしかなものへ
かえて ゆけるように
そこに
ひろいあつめてきたものを
つみかさねてゆけたら
いいね
  なん て、
かたちのない
もののように/ゆられて
いたい、
  なん て、
これも
いのりの、
ひとつ
なのでしょうから
 
じきにかすれて
きえてしまう と、
 
( せめてあらがうことを
     わすれていけたら )
  
 


夜の闇、重なり続けていくもの

  なつめぐ

 

夜、浅い眠りの水面から目を覚ますと、眠れなかったのか、既に起き上がっていた妻が闇の中を見つめていた。僕が起き上がると、こちらに気づいて、何も言わずに体を預けてきた。眠れないのかと聞くと、眠れないのだと言う。
枕元に置いてあった時計を見ると、真夜中を過ぎた辺りだった。少し、散歩でもしようか、と、耳元で囁くと、妻はちいさく頭を縦に動かした。


 
外にでると、初夏の湿った生温かい空気が肺の中に入り込む。草や花、それと、無機質な匂いと、それらがゆっくりと、起きていた時の呼吸を思い出させていく、そんな感覚を抱きながら、妻の手を握り歩き始めた。上を見上げると、青黒く広がる夜の空の中、伸びきった綿のように薄い雲の隙間から、ちらちらといくつかの星が瞬いていた。
同じように上を見上げていた妻が、それらよりも少し離れたところで強く輝いている星を指さして、あれがきっとシリウスだねと言って、こちらを向いた。
瞳を合わせて、そうだねと、僕が返す言葉を受け止めた後、妻は、少しだけ微笑んだ。
 
 
 
昼間の、地響きのようなトラックの音さえ、無かったかのように静まる夜に、重なり続ける、蛙の鳴き声。二人の好きな、夏の声。自然と、その声の方へと歩いている、二人の背中で灯る、電信柱に添えつけられた外灯の明かりで、二つの影が細く長く、頭を夜の暗闇に呑み込まれながら伸びていく。
人を運んでいるのか、荷物を運んでいるのか、マイペースに線路を鳴らしながら、遠くの方から、近くまで、そしてまた遠くの方へと、電車がひとつ、走り去って行くのがわかった。
遠ざかっていく音へと言っているのか、夜に向かって言っているのか、このままあの電車にゆられて、どこまでも遠くへ行きたいと、妻が呟いた。
 
 
 
妻が見つめていた闇の中には、何が、あるのだろうか。不意に、怖い夢ばかり見るのだと、前の夜の疲れたきった妻の瞳が、頭の中で、今目の前に広がる闇よりも、更に黒く、深い闇を帯びているような気がして、不安を覚える。
ほとんど何も話さずに、ただ、二人分の、少しだけずれた歩幅の靴音が小石とともに音を立てているのを、聞いている。その静けさの奥の、暗いところへ触れる言葉を、とても長い間探している、この手のひらでは、未だ何一つ掴めていないのだ、と、くりかえし、くりかえし、波紋のようにゆられ続けている。
繋いだ手の先にある妻の姿、こちらには振り向かず、行く先の方をぼんやりと見つめている。

  
 
いくつかの角を曲がり、外壁に挟まれるようにして出来た細い裏道を抜け、少しだけ開けた場所にたどり着く。いくつもの田んぼが連なり、その数に比例するかのように、蛙の鳴き声も大きなものになっている気がした。
いっぱい鳴いてるね。妻はそう言って少し嬉しそうに田の側へと向かい、しゃがみ込む。ひらけている為か、上を見上げると、さっきよりもたくさんの星が見えた。
鳴いているのが雨蛙だったら、明日雨降るかなぁ。
風が吹くと、離れた所にある外灯の明かりでぼんやりと見える水面が僅かに波打つ。
そしたら、長靴を履いてまた散歩に行こうか。
妻の隣にしゃがみ込み、妻が見つめている夜の中空を同じくらいの角度で見つめてみる。その先に見える遠くの、山の肩辺りで、強く青白く瞬いている、シリウス。
何も言わずに、同じ所を見つめている時間の中を、重なり続ける夏の声。声はずっと遠くへと向かい、跳ね返り、またここへと戻ってくる。目の前に広がる暗闇の世界から、響き渡る声と、背中から響いてくる声とが絡み合い、ひとつになる。


 
こんな風に同じ世界を眺めている時間がとても好きなのだと、小さな、囁くような声で妻が言った。
僕が振り向くと、既に妻もこちらを向いていた。互いの視線が重なり、瞳と瞳が触れて、その奥に在る、小さく力強く、シリウスのように瞬いている闇に、どこまでも続いている、先の見えない夜のような闇に、触れる。
もしかしたら妻も、同じように僕の中の闇を見つめているのだろうか、と、思い、伸ばさした手の平に触れる頬はやわらかく、ほんのりとあたたかい。
帰ろうか、と、零れ出た言葉に妻は頷き、立ち上がる。
また元来た道の方へと歩き始める、僕たちの後ろに広がる夜の闇。瞬き続ける星の震えと、果てなく、止むことの無い夏の声。それらが、ひとつであるように、僕らも、そのひとつで在れただろうかと、思い、見つめる先にも、ゆらめいている、深い、夜の闇。


  なつめぐ

 
 
 
目くらまし、
してるみたいに
光が光を奪い去っていく
街は、
だから夜は、
熟れていく程に汚い
思い、とか、
生ぬるい風に全部
洗われることがないままでいる
 
 
 
凍えてしまう夏の夜、 
ひとりが笑えば、
もうひとりが、笑う、
またもうひとりが笑っても、
笑えない、人の、
数と、沢山の、捨てられたものたちの、
足跡が、
密やかに、意図もせず、
重なっていきながら、
交われないことに不安を覚える、
 
 
( だから、ここで、全部おしまいです )
 
 
ひとつに、なれない、
ひとつに、なれない、
それは、
悲しいという、言葉の表皮に、
悲しいくらいに、付着していて
剥がせば全部、
だからそう、おしまいなんです。
 
区切られた、
寂しいの中では、
さようならも、ありがとうも、
錆付いている
街には、やさしい
そんな言葉が流行りはじめて、
手を重ねあう、
温もりの隙間から、
深い、
夜がこぼれて、
点々と、道になり、
呼吸に変わり、
消えない染みになっていく 
 
 
 


cosmos

  凪葉


閉じていく夏の、ひんやりとした風が、開け放つ窓から窓へと、流れていった。波のようにゆれるレースは、窓際に敷かれた布団の上、寝転がりながら外を見ていた妻の顔先をくすぐっているように見えた。とても小さな背中。不意に、寒い、と、言ったような気がして傍に近寄ると、いつの間にか眠っていたのか、寝ぼけた顔をこちらに向けた。
妻は、「おなか、あたた、めて。」 と、寝言のようにそれだけを呟くと、一息吐いて眠ってしまった。
風が流れ込む度、レースが大きく波打って、顔やからだをくすぐった。
 
 
胸元までかけてある、薄いタオルケットの中のお腹に手を当てると、不自然なほど大きくふくらんでいるお腹は、思っていた以上につめたく、冷えているみたいだった。
一息ついて、目を閉じる。お腹全体を包み込むようにして、ゆっくりと撫でていく。
指先でほんの少しの圧力を加えながら、どこが頭だろうかと、そんなことを思いながら、あたたかくなれよと、熱を込めていく。
 
 
さっき見た時計の長針は、九時辺りを指していた。驚くほど車の通りの少ない、道路から建物をひとつ挟んだところにあるこの家の付近には、生い茂る草や木が他よりも多いのだろうか、虫たちの声が、目立って聞こえる。
ただひたすらに、同じ間隔で、静かに、暗い夜に響いていく声。
かなしいくらいに、あたたかく、無差別にやさしいと、思えるような、そんな声。
 
 
目を閉じたままその声を聴きながら、ふと、世界、を描いてみた。夜の、暗く先の見えない空の、果て。その遥か、ずっと向こうにある、見たことのない宇宙を、胸の奥底で描いてみた。
星から星へ、ひかりからひかりへ、果てのないものへと繋ぐ、小さな祈り。のような。
閉じていく夏の、ちいさく空いた隙間から、取り残されたものたちが、一斉に、けれどひっそりと、静かなる声と共に深く、深く落ちていく。
肌に触れていく、風は宇宙へ、窓から、窓へと、少しだけ肌寒さを残して、またひとつ、流れていった。
 
 
この膨らみの中、眠る、子は、たったひとつの宇宙の中でくるまりながら、同じように眠る母の肌から、伝わる、風のそよぎを、散っていくように鳴き続けている虫たちの声を、感じているのだろうか、この手の温みに、あたたかな宇宙を、描いているのだろうか、
そんな、とりとめのないことばかりが、小さな宇宙の中で、生まれては消え、生まれては消え、絶えることなく明滅をくりかえしていく。
 

いつか、星が生まれて、消えていく。消えた星から、また、星は生まれて、くりかえされていく、か細い道に、
星から星へ、ひかりからひかりへ、果てのないものへと繋ぐ、小さな祈り。手のひらから宇宙へ、宇宙から手のひらへ。どこまでも、あたたかく、遥か。まだ、世界はこんなにも、うつくしく、限りないのだと、不思議なほど、胸の奥底でひかりのように瞬いて、いつまでも、閉じていく夏の、夜に、消えない。
 
 

 


雪夜

  凪葉

 
 
覗き込むようにして道路を照らす、外灯の明かり。吐き出す息が夜の漆黒に際立ち、空からは絶えることなく雪が、ぽつぽつと明かりの縁から生まれるように落ちてくる。振り返ると、今歩いてきたわたしの足跡さえもうどこにも見当たらず、仄明るく続く、誰も居ない国道が真っすぐに伸びている。わたしは、その道に沿って歩いている。どれくらい歩いたのか。雪に埋もれていく道路。ざくざくと、歩く音だけが響いては沈む。降り積む雪は、わたしの温度で融け続け、首筋が、酷くつめたい。傘を持たないわたしは、このままこの国道のように熱を失い埋もれていくのだろうか。そんなことを幾度となく思う、思いは、またひとつ雪の軽さを纏っては、わたしの中に沈み、消えていった。
 
 
 
工事途中の交差点付近。あるはずの喧騒、が、遠のいていく電車の音に連れられて行く。左へと曲がる道が塞がれている。右へと曲がる道にはロードローラーが凍え、丸い足を横に向け寝転がっている。この先は、どこへ繋がっているのだろう。ちかちかと、赤く点滅する誘導棒をだらしなくぶらさげた人形が、雪をヘルメットにこちらを見つめている。片側交互通行。そう書かれた看板の骨格は不思議な角度で曲がり、身体ごと夜に傾いている。足元を見る。ひとり分の足跡が、これから向かう道の先へと続いている。それらは既にうっすらと真新しい雪に埋もれ消えかかっていた。(視界の端で赤い光が瞬いている。)もう一度、人形に目を向けてみる。変わらず、人形はまっすぐな瞳でわたしが歩いてきた方向をじっと見つめていた。平らな瞳。その先には、影を落としたような薄闇が遠くなる程濃くどこまでも伸び、おぼろげな輪郭線に目を奪われたまま、わたしの視界が、僅かに歪んだ気がした。


  
風が吹く。辺りの雪が粉のように舞い上がる。いつの間にか首筋は感覚を失い、今わたしはどのくらい埋もれているのだろう。また風が吹く。ポケットに突っ込んでいた両手を出し、頬に当ててみる。つめたい。手が氷のように、つめたかった。わたしはいつの間にか、温かさをうまく思い出せないでいる。屈みこみ、道に積もる雪を握りしめる。雪は思っていた以上に冷たく、手を開くと、その途中できしりと痛んだ。立ち上がる。等間隔に並ぶ外灯。斜め後ろから射す明かりで、わたしの影が白い道路に黒く滲んでいくような気がした。先へと続く足跡は、変わらず、薄っすらと真新しい雪に埋もれ、続いている。わたしはどこへ、どこまでいくのだろう。幾度となく振り返る。今、歩いてきたわたしの足跡はやはり無く、遠くの方ではちいさく、赤い光が明滅している。誰もいない交差点。音一つなく、顔のない後姿がすべてを黙殺している。わたしは、確かにあの時、触れようとしていたのか。温かさはやはりまだ、うまく思いだせないでいる。風が捻じれ、身体をえぐるように雪は視界を覆う。上を見れば、吸い込まれそうな夜がすぐそこまで落ちてきていた。目をつむり、遠くの方で明滅する光をぼんやりと思う。わたしが、わたしを呼ぶ声。思いは、雪の軽さに寄りかかり、そのまま深く、ふかく見えないところへと、沈んでいった。


 

文学極道

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