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2007年12月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


無題

  凪葉

取り残された時間は今日に置き忘れたふりをする
そうしてそのまま、風化を見届けることもなく
長袖の上にもう一枚服を重ねて
くりかえしの中のひとつになっていって
物干し竿に真新しい記憶を干しては生まれかわるならと
朝に思いを募らせていく

たぐりよせた風は途方もない年月を覚えていて
よく晴れた雲ひとつない空にわたしを広げていくから
わたしは、広げられたわたしを眺めながら
やがて思いだされていく懐かしさをひとつひとつ手に取り
無言のまま風へと繋げていく

それは、遠い昔のことのようで
鮮やかな景色の輪郭に触れながらわたしは、段々とわたしをわからなくなる
ただ空が、空は、その青さでえいえんに瞳を奪ってしまうから
ぼんやりと見つめることはもうできないのだと
わたしはわたしをわからないまま足を前に
いつかもそうやって足を、前に、だそうとしていた

伸ばしていた四指の爪を切り落としながら
やさしさ、みたいに曖昧なものを携えていく道にも
色褪せることのない青は染みて、染みていくから
もう、どうすることもできないこと、知っているそれでも
渡り鳥の指す方向へ消えていく今を見送る眼差しだけは
たいせつにして、いきたいと

雲ひとつない空から落ちてくる青と
気まぐれな雲の白と
暮れていくことを知りながらに目をあけて、目をとじて
すべては、笑いながら傷ついていくこと
その青さで、何もかも呑みこんで
なにも、残りはしないから
くりかえしは終わらない
だからきっと、きっとね
明日のわたしは今日のわたしを、覚えてはいない


れてて

  吉井

   
   れ

 男たちの影が放物線を描いて蓋を外されたマンホールの中へ落ちていった 実
 の生らない梅ノ木はふゆはだをいとおしむかのようにつぐみが降り立つ柚子の
 木に寄り添っている パジャマのズボンのすそにゴムを通しながら動物と植物
 の黄金率を考えていた女たちがいっせいに小水をもらした 寒冷地対策はねぇ
 やっぱり必要なのかなぁと思いました



  れて

 折れ曲がった筒の中を器用に飛翔体が潜り抜けるきょうは赤口だというのに朝
 から縁起がいい ねじりドーナツをほどくのに両手がはなせないでいるので30
 センチほど両肘が上がっている 今年は三の酉までありますうひぃふふほーう
 いい天気だ


   れてて

 人でもないものを悲しむ者はくせのあるイミテーションフラワーの枝でも折っ
 てあしたの途中に吸い込まれるのだろう 恐竜の吐息を封じ込めた三畳紀の地
 層がきょうもねむりにつく あなたもわたしも無塩バターをこがす 私はしょ
 くんの熱情は信じます他のものはいっさい信じないにしてもこれだけは信じる
 ということを分かっていただきたい そんな声がする するわけないか


生還者たち(マリーノ超特急)

  Canopus(角田寿星)

そんなの嘘よ と
ベッドに腰かけた少女は私の目の前で若草色のワンピースを腰までたくし上げ
秘所を露わにする。不釣り合いな厚手のストッキングを躊躇なく下ろしそして
両大腿に咬み合わさった品質の悪そうな義足を優雅にはずした。

少女はシャツでも脱ぐようにワンピースをもどかしげにさらにたくし上げる。
下着をつけていない。少女の腹部と乳房と犬のような乳首。海辺の寒村にはめ
ずらしいほどの白い肌がまぶしく窓辺の光をうけて揺れている。少女の栗色の
ながい髪が脱いだワンピースに引っかかり跳ね上がり
しずかになる。
あなたの服を脱ぐのを手伝えなくてごめんね。少女は半分ほどしかない白い大
腿をほぼ一直線にひらいたまま恥ずかしそうにささやいた。


崖のうえの孤立したこの小屋が村でただ一つの宿である と
崩れそうな岩場を登りながら案内人代わりの男が私に教えてくれた。聞くとこ
ろでは少女は五年前に海辺で全裸のまま倒れていた。誘拐でもされたのだろう
まだ幼いその少女の体にははっきりと乱暴された痕跡がありそして
両大腿がばっさりと切り落とされていた。
少女には発見される以前の記憶が欠落していた。余程の出来事に少女自身が自
らの記憶を閉ざしてしまったのか。村びとの看護の甲斐あって快復した少女は
崖のうえの小屋に住まうようになり今では旅人の面倒をみながら体を売ってい
るのだと。

そんなの嘘よ。少女はゆっくりと私の首に両腕をまわす。

たとえ記憶になかったとしても本当にそんな目に会ったのだとしたら男に触れ
られることに心が耐えられるものだろうか。いくつかの逡巡の後に訊ねてみる。
いいえ。死に触れられるよりか ずっとまし。
小屋の大きな窓。その上辺を一匹の蜘蛛が這い回りその神経根を縦横に放とう
と待ち構えている。蜘蛛の神経根はあまりに鋭敏であるがため獲物の捕獲に激
烈な痛みを伴いそのためこの地方の蜘蛛は獲物が掛かるたびに笑い声とも泣き
声ともつかない叫びをあげるという。少女は私に覆い被されたまま示指を突き
だして蜘蛛を撃つふりをしながら
うふふ。嘘。
顔をあげて私の下唇をあまく咬む。

やがて少女の顔がうつくしく歪む。
白い肌がうっすらと汗に濡れて透きとおる。


はるか昔の言い伝え。
ささやかな光を宿した内陸の宝石にそれを凌駕する眩さをもった圧倒的な光が
襲いかかりささやかな光はなす術もなく消え去った。
五年前に人の通えない森の奥で突如暴発した巨大な光の柱についてこの村の誰
もがかたく口を閉ざしている。管理局サイドの閲覧可能なデータではこの事件
に関する記載は一切ない。名も無いカメラマンが森に喰われながらその命と引
替えに撮影したデータからは断片的ではあるが破滅的な何かが生じた可能性を
見て取れる。そしてその現場から流れる川の下流に村は位置している。

嘘よ。なにもかも嘘。みんな嘘を言ってる。
わたしは生まれた時からこの村にいるの。両脚の「これ」は鉄道事故。
わたしは母親の仕事を継いでるだけ。
うつむいた少女のほそいうなじを窓辺の光がやわらかく抱いた。

少女は若草色のワンピースをふたたび羽織り枕のうえに器用に跨がってベッド
サイドのちいさな丸テーブルに丁寧にカードを並べている。聴こえないくらい
の声でひくく歌をうたいながら。
人は誰も惑星を抱えて生きていく…けして自ら輝かない星…光をそして浴び…
ジョーカーのない32枚。欠落だらけのこれがカードのすべて。わたしが海辺に
打ち上げられた時これだけを持ってたんですって。
少女は私と視線を合わせない。
嘘だけどね。

わたし
あなたに会えてよかったと思うの と
少女は腰をあげて私と向き合いまなじりをあげる。若草色のスカートがかるく
跳ね上がり揺らぎ切断された大腿をすっぽり覆う。かつてない少女の瞳の輝き
に私はその昔私が愛した女の面影をつよく感じ狼狽する。少女の口許が痙攣す
るように何かを告げようとするがことばにすることができずに

そんなの嘘よ と
肌の赤みを消して視線を落とす。


器II

  りす

みなもに鮎が跳ねて 手鏡のように光り それが何かの合図であるかのように ふと背景が居なくなってしまう初夏の岸辺や シティホテルの最上階で 冷えたプールを眺め 陽射しもないのにサングラスが欲しくなる 第4コースの深い揺らめきが 容積にしておよそ1リットルの器の中に身を寄せ おそらく忘れ物でもしたのだろう プールサイドでは少年がランドセルの中身をあらためながら 筆箱の収め場所に悩んでいる プールの底には教室があるのだろうか(水色の黒板の上、立ち泳ぎで方程式を解いたり?)そのような疑いに 私が少し首を傾けるだけで 少年の黄色い学童帽はバランスをなくして みなもに落ちてまずは やわらかく浮くだろう 浮いたらゆっくり水を吸いとり 沈むまでの清潔な待ち時間に 傾けた首をそっと元に戻しておくこともできる とっさに手を伸ばせば繕ってしまう綻びのはじまりに 少年は塩ビ製の筆箱の角を潰して ランドセルの空間の造形に余念がない 乾いた黄色から濡れた黄色へ ゆるやかな布地の変色にも気づかず 学童帽に留まっていた少年の小さな頭の名残も とっさに手を伸ばさなかった という理由で失われていくとすれば 首を傾げる前に忘れ物を手渡すことを 忘れ物はありません そうひとこと云い添えることを あの朝に忘れていたのではないかと 親でもないのに少年のことを気遣っていることが とくに不自然な心持ちでもない冬のはじまりだった 初霜が平等に降りて もの思いに招かれる朝の 半歩手前の暗がりには それとわかるように 藁のような乾草が盛られた あたたかい膨らみがある 今日の暖をとるために その狭い温もりを掻き分け 冬支度に忙しい真面目な地虫たちを掘り出し いちいち名前を尋ねて きちんと整列させるわけにもいかず 踏みしめても身を硬くして生き延びる 強い生命への気安さから 固い靴底で膨らみに踏みこんでしまう私は 器にわずかばかり残ったコーヒーを 電子レンジで温め直す儀式を 家人に疎ましがられても やめることができない 少量を適度に加温することは難しく 目盛のついたスチールのツマミに 秒の単位まで分け入っていく はりきった指先と視線の 愚かさと自愛を量る天秤が チンッという音と同時につりあってしまう瞬間に つとめて無関心でいることで 残り少ないコーヒーを 美味しく頂くことができた 空の器を覗いていると 対岸の町が見えてくる そこはかつての学区外で 知らない人ばかりが暮らしている 石を遠投して様子をうかがうと ときどき届いたという合図が送られてくる 合図があった日には おろしたての新しい器に手をかけて 冷たい縁を円にそってなぞりながら 最初に口をつける場所を 決めることにしている


鉄分

  ゼッケン

スーパーの野菜売り場できゅうりを一本ずつ折っていると
緑のエプロンをつけた店員さんがとんできていきなり正解を言う

そんなことするのやめてくれませんか、買う買わないの話以前にみっともないから

きゅうりを真ん中で折るのは難しく
左右の
どちらかの手で持った方の端に近いところでパキリ、と
新鮮なしぶきをあげて中身の白い腹を見せ
折れる、緑色のイオンが
飛び散る幻影が
空気を洗ってくれる
そんな気がする
信じるものは救われるというだろう?

破壊の帝王です
ぼくは言った、店員さんが腰に手を当てて黙ってぼくを見ていた
ぼくはすこし慌てて付け加える
きゅうりにとっては、という意味です
大根はぼくには無理だった、ぼくはすでにぼくの限界を認め、その非力を恥じていたのだった
しかし、じつを言えばそれはより大きな恥をかかないためだったし、しかも
スーパーの野菜売り場の店員さんにはいくらぼくが恥をかこうと同情する義務などありはしないのだ
もしも自発的な共感の結果、同情しえたとしても
スーパーの野菜売り場のエプロンをつけた店員さんにはぼくの非力を
同情はできても許すことはできない、
ぼくの非力を許す権利は与えられていないはずだ、なぜなら

パートタイムだからだ

客がレジで金を払うまでは野菜が食料でもあり生ゴミでもあるこの野菜売り場の不確かな聖域で
店員さんは流れを見つめているが流れを止めることはできないはずだったが
腰に手を当ててエプロンをつけた人物はぼくにみっともないからやめろと結論した
胸のネームプレートには名前が書いてある
ぼくはその名前を覚えておこう
恋をした

ちなみに、ごぼうも折れないが
それは別の話になると思う


Bookmark

  りす


未明、街中のマンホールの蓋が持ちあがって打ちあけ話をはじめる。
人々は眠っているので気の利いた相槌が打てない。その代わりに透
明な付箋(貼って剥がせる)を夢の中に飛ばして、告白を聞いたこ
との証明を立てる。そして朝、気持ちよく目覚めることができる。
(蓋を閉めるとき、手を挟まないでね)


 寝ることにも寝かされることにも疲れ
  読むことにも読まされることにも疲れ
   読み終えた小説のような枕を耳が嫌う
    蝋燭に手を翳して火を守る優しい人よ
     どうしても僕は風を捨てられないのだ
      Blackbirdを狙って寝具の陰で息を殺す


未明、佐々木は街中の鉄塔に名前を付けてまわる。鉄塔(遠藤)は、
鉄塔(渡辺)を、佐々木を介して知っている。鉄塔(渡辺)は、鉄
塔(川嶋)を、佐々木を介して知っている。佐々木(人間)は遠藤
を囲む高い鉄柵を乗り越えるために、今まさに冷たい手摺に手をか
けようとしている。鉄塔(渡辺)と鉄塔(川嶋)は、今夜は珍しく
佐々木が訪れないので、どうせ田中に登っているのだと考えている。
(お願い、登ったら、必ず降りてきてね)


 狙いが定まらない獲物はいつの時代も
  Blackbirdと呼び習わすのが僕達の夜だ
   翼を広げるとちょうど人間の大人位で
    翼をたたむとちょうど人間の子供位で
     つまり無責任な黒鳥が野放しになって
      僕達という未明を旋回している地と図


未明、街中の新聞配達が空き地に集まって三面記事を朗読している。
「業務上過失致死」という言葉が出てくるたびに、一人ずつヘルメ
ットを被る。全員がヘルメットを被り終えると、朝を迎えることが
できる。最後までヘルメットを被れなかった僕は、夜明けまでに明
日の三面記事をでっちあげなくてはならない。今日の安全運転の為。
(包丁で新聞を切り抜くのは、あまり上品じゃないね。)


 どうにかして未明の嘴をこじあけたい
  どうにかして栞を挟んで印をつけたい  
   犯行現場に戻ってくる佐々木のように
    枕の代わりに固いヘルメットを被って
     圧着した嘴の隙間に風を差し入れたい
      田中がそれを目撃すればそれで充分だ



未明、Blackbirdの雛が僕のベッドに迷い込んできた。雛の心に僕の
姿が刷り込まれて、雛の羽毛に僕の指がくすぐられて、僕はまだ、
疲れてなんかいないと、読みかけの小説があったことを思い出す。
未明、
 未明、
  未明、

          (鳥の羽なら、栞にうってつけじゃない。)


Miss World 2007

  鈴木


誰かの奇襲をうけ、道端でうずくまっている男に出会った。ぼくは、男を抱きかかえ、近くの公園につれていって、ベンチに座らせた。公園は、小さい子を連れた母親が何人もいて、彼女らには、やあ、と言いながらその場で立ち話をはじめるような迂闊な軽さはなかった。男は、ベンチに横になって、その様子を見ていた。公園は丘の上にあって、うまく角度を調整すれば海が向こうに見えた。海には、真冬ののっぺらぼうがいくつも浮かんで、仰向けに水を噴き上げていた。ところどころに水柱が立ち、その高さはまばらだった。ぼくは、明日から旅に出るつもりだが、おそらくそれは二日程度の旅になるだろう、南へ、と男に言った。男は、まったく動じずに、海に立ついくつもの水柱を興味深く見つめていた。公園には子供たちを長時間引き止めるような遊具はなかったが、真ん中に大きな砂場があって、子供たちは、だいたいそこで遊んでいた。のっぺらぼうと男は、海面で小魚の群れが向きを変えるたびに、同じタイミングで歓声を上げた。歓声があまりにもしつこいので、子供たちは自分たちの作った砂山のことな んて忘れて逃げ出した。母親はそれに付き添うように移動したが、あまりに急だったので、何組かの親子が転んでしまった。ひざ小僧をすりむいた子供たちは、その場で泣きじゃくり海に向かって、こうべを垂れた。のっぺらぼうは、それを見て笑い、足をばたつかせた。ぼくは、男の手当てがすっかり遅れていることを悔いた。波音が届き、水柱は円を描くように動いている。のっぺらぼうがこのまま陸に上がるとなると、もっと大きな騒ぎになるだろう。逃げ遅れた子供たちは、その騒ぎを同じように予感したのか、その場にへたりこんだ。男は何か言ったが、しっかりと聞き取れなかったので聞き返すと、子供のころ、のっぺらぼうの顔にマジックで落書きしたのはだあれ、と言って笑いだした。砂山のトンネルをのぞきこむと、向こう側の海で水着姿の子供たちがビニールボールをふくらませている。ひとりがふくらますのに疲れると、べつの子供がふくらまし、そうやってビニールボールをどこまでも大きくする。トンネルの穴に入りきらないほどの大きさになると、子供たちは、けらけらと笑い、ぼくと男は、それを両側から破裂しないようにそっと引っぱりだそうとした。水柱が砂埃を巻き上げて、小魚の群れが砂浜に打ち上がる。ぼくは、手首をへんなふうに曲げて、あれは真冬の海に浮かぶのっぺらぼうの仕業だと思った。男は、ぼくに同調したが、いずれにしても、それは放っておくと簡単に破裂してしまうだろう。子供たちは、肩を揺さぶらせ、お仕置き!お仕置き!と声を揃えているが、水柱が目印だ、また、来年の冬に戻ってくればいいさ、と言って、逃がしてやることにした。小魚がぴちぴちとはねる砂浜を歩いているかれの姿を、ぼくは目に焼きつけた。


No Title

  浅井康浩

あした、チェンバロを野にかえそうかなとおもっています。なんというか、
場所ではないような気がします。野にかえすこと、それだけがたいせつな
意味をもつようにと、そうおもっています。こんなにもとりとめようのな
い朝でさえ、南瓜のスープはコトコト煮えてしまうのですから、案外、草
を編むことさえ、まだおぼえているのかもしれません。あしたはあゆ祭り
です。きっとセリ科の繊維のひとすじのなかに、編み上げるときのしなや
かさまで感じとれるでしょうから、いとおしいものとしてそっと、手のひ
らにつつみこんでしまうことさえも、ゆるされてしまうのかもしれません



きっと、そんなときでさえ、なにもわからないままからっぽになっていっ
たわたしのなかを、あくがれはよぎってゆくのだろう。はかなさがあなた
をうつくしくして、音もなく、たとえせつなさとはちがったとしても、あ
なたをいとおしくおもってしまうそのように、わからなくたって、ここに
いてもいいんだよって、ひとことでつたえられるような、そんなことばを。



あなたのつくってくれる、にんじんのスープが口にはいったら、そのひっ
そりとしたくちあたりにさえうるんで、じぶんの輪郭さえも、おぼつかな
くなって、そのまま、わすれられてゆけばよいのにと、ほどけるくらいの
あたたかさになる


ときおり、そらみみとはちがったような、そんな、なつかしいこえのひび
きにうたれて、ひとすじの、ささやかな記憶すらもたちどころにわすれさ
ってしまって、いつかしら、音もなく、とりあえずのおはなしは幕をひら
いてゆく。あなたのつくってくれる、にんじんのスープを口にふくめば、
そのひっそりとしたくちあたりにさえうるんで、じぶんの輪郭さえも、お
ぼつかなくなって、そのまま、わすれられてゆけばよいのにと、ほどける
くらいのあたたかさになる



きっと、あなたのことも思いだすのだろう
きっと、そのころになれば、どうやったかはわからないまま、たどりつ
いてもいるのだろう。いつかしら、あたりにはせつなささえも、そっと
ふりつもったままで、小さな寝息のように、このまま知らない場所へと
そっと漕ぎだしているのがみえるのだろう。そうすれば、閉ざされたよ
うなくらやみを、そっと、手のひらでさわって、なぜるようにそっとす
べりこませるしぐさが、まわりの空気をさわさわと、揺らしてゆくのが
みえるのだろう



きっと、たいせつなのは、かばってやれない、ということ。きっと、鳴
りやまなかった音楽も、わたしが持っている言葉がすくなすぎたから、
すうっ、と、さらさらと攫われてゆく歌声めいて、ひっそりと聴こえな
くなっていったのでしょう。♯のいとおしさは、きっと、かなしみとな
るための記憶にさえ、かたちをあたえてやれないほどのやさしさだから
すべての音を消し去ってしまう粉雪の夜に、わたしたちは、どのような
曲を、かなでようとしていたのでしょう。なにひとつ、かなできれなか
ったこの指で、あなたのためにそっと、スープをそそいで、ありふれた
笑顔で、おいしいというときの、とめどないやさしさに胸をうたれて、
そっと、素足のわたしは、ことばにかわりに、とてもしずかなすてっぷ
を踏もう。


しみこんできたものでいっぱいよ

  naka

     1

 千切れ途切れの脳みそキロバイトでは、一行最多、口腔が餓えて、こんにちわ。いかんともしがたい労働からビールの夕餉、私の欲するものが見て見ぬふりをしていた。
 読書している時はいい。快適超特急男or不快適置換男? 天候に左右されたり、天然パーマ、週末渋滞、よもや事故も。
 夏は何もかもが青いね、隆々たる穂先、何か考えよう、タッチ、何かを考えよう、いよいよアブクちゃんに出会う。よっ! 詩句とは足跡みたいなもの、こう言っても可、自らの足跡を巡る主人公=私の追放劇だと。
 コマ切れの脳みそ点々、アルコール容器転々、アロマ、私の軽々しさゆえ、尻軽かつ猪めいた足跡、血に足をつけぬ、私の引力に負けたコップの水の罪跡感、飢えに苦しみ、口腔が渇いて、子供を手当りしだい小突きたくなる狭心の原因かも知れない。


     2

 紙一枚隔てただけの密室で、私が何を考え書いてきたのか、ばいちゃ。まどろんでこそばゆい日々。腹から糸こんにゃくなのは、ところてんなのではなく、三杯酢か黒蜜なのか、ということが腹話術には重要なのだ。
 ここはいっそ、焼酎タイムしたい。ノットファウンド、ここは図書館の第一学習室なので、こっそりもすざんぬ。いやん、わたすが一人で飲む酒の味。しみこんできたものでいっぱいよ。


     3

 何か私には考えなければならないことが、カミナリ! それから、私が野原で朗らかにゴロゴロ転がって行く図を小一時間中数度も味わえるので、三半規管がゴワゴワ、轟々!

・女子と名のつく強者達「むずかしいものはわっかんない」。

・イートしながら生活者「きしゃぽっぽ」。

 私の鼻前で大概このような会話がなされた。けだし、むずかしくないものが、モクモクしない日など、はたしてこの世にあるものか。強者の好きな源氏物語、石炭の放つケムリ越しに、遥か彼方、彼の国の戦争(陵辱行為)をイメージさせた。
 一体、私のアルコール度数は、インチキラッパー気取りのポエトリーリィディング小僧である。いっそ、何も考えない、方角がありがたや、ではないか。どうせ羅針盤もデタラメさ。いつしかうすぼんやりした蚊帳、目蓋の冥土には、お客さん、私自身がきしゃぽっぽになって沈んで行く。
 ここは一つ、考えてみようよ。痒いところに手が届かないんではない、痒いところが分からないんだ、でも、痒いという感覚におそわれて、もぞもぞしている。何か私におそろしいことが迫っているような……。不幸は三度の兆候を示す。{鈍感/無視/密室}なんて、『かなしみよ、さようなら』と乾杯してイキたいものだね。


     4

 では、何を考えればいいのか。今、背中合わせに座っているとなりの、女子高等学校生が肌着を身につけていないため、スケスケブラジャーの、色彩はファッションピンクだと見え見えで、(皮膚アレルギーor汗疹?)、制服のシャツの袖と裾を捲し上げ、二の腕や脇腹を掻きむしり、その二の腕がやたら赤い。
 さて一体、何から考えるべきなのか。私の目線はこの頃、女子高等学校生の生足に向けられがちなのに、夏の糞あつい日本で、ルーズソックスを履いて御勉強していることは、頭が下がる思いだ。えっなに? 頭が下がる思いなのは、行き当たりばったりな生足をさらけ出しておいてルーズソックス、さらには御勉強している強者加減さ。で、人生における行き当たりばったりな覚え書き、なーんて対外しない「だめだめ!」んば御仁が行き着きそうな、袋小路のようにしか捉えられない一つの転向論でも子守唄にして、数えてみようか。よくよく考えてみれば、人間には二種類しか居ない。宿命を信じる者と、宿命を信じない者。さらに数えれば、{宿命を信じて蹴落とされる者/宿命を信じて愛される者/宿命を信じず蹴落とされる者/宿命を信じず愛される者}という四種類の類型が導き出された。
 これは大いなる哲学的ギモンである。しかし、共謀という言葉を、家族計画の計画通り、右へ二十六度にねじってみればよろし。兇暴になるのだ。“計画という名の共謀=兇暴”、ここには各々に対し、等しい関係性が認められる。


     5

 図書館の第一学習室でありながら、別の密室で原稿用紙のマス目は使用せず、裏側の白紙に、硬度HBの鉛筆二本(長短)を用いて、鬼ッコの真似をして楽しむチャーミーな私がどうしようもなくて好き。過渡期、つまみを欲する権利は私にはない。孤立を求め連帯を求めず、力及ばざるは酒の所為、酒が尽さずして座することを拒否する気持ちだけ。
 となりのスケスケブラジャーは依然背中を向けて、夏休みにも関わらず、iなのか、最新型ヘッドフォンを着用し、そこからコンパクトに音が洩れている、「さくらんぼ」みたいなフレーズを歌う生足歌手と思われた(徒然)。
 千切れた脳みそ……、シンコペーション、……ファッションピンクの蚊帳の中、腐った齲歯が疼いて、たまらぬ口臭をまき散らし、スケスケブラジャーは御仁とチューしている。待ち合い室で、調理本に隠れながら、しかし、どこもかしこも見え見え。焼酎のかわりにペプシを飲んでいた。御勉強は補強作業、途切れた線路できしゃぽっぽ遊び、再度組み替えられた眼球組織のおかげで、人生がモグラになっていく。スケスケブラジャーが内包しているものまでは見えず、若さとは貧相な出来事ではないじゃない。むっちりした生足に、耽美。


黒いコート

  ためいき

夕方の暗い空から
静かに降る雪
納屋の前の黒いコートは
わたしが待つ男のため
彼はコートを被り
納屋の隅で
安らかに眠るだろう
古い農機具に囲まれ
屋根裏からは
子猫の鳴き声が聞こえるだろう

深夜
母がわたしを起こしに来た
低い感情のない声で
「誰かが首を吊っている」と言う
隣の空き部屋
幼年のがらくたが埃をかぶる上に
黒いコートがぶら下がっている
わたしは低く呻き
ドアを閉ざした
「朝早くに始末するよ」
階段を軋ませながら
母はゆっくりと降りていった

あの閑散としたスナックで
影の薄い中年のママが差し出したビール
顔を上げられずにいた彼は
望みのない愛情を抱いていた
理由をたずねる度に
くるしく微笑んだ横顔
・・・彼は
もう一度
生まれようとしていたのかもしれない
かすかな石の匂いのする
あの胎内から

彼は始末され
それでもわたしは
生き続けなければならない
おそらくは
この冬を越すことのない子猫を
朝の光のなかに抱き上げる
輝く毛のなかから
目だけが大きく迫り
遠い雪の上に
燃えている炎
あの黒いコートを
燃やす炎だ


小さな町

  ミドリ


小さな町での暮らしは嫌いだ
この町では農場は広くなっていき
農家の人数は減ってきている
農民がいなくなれば
この町もお仕舞いだ

”新しい血をもたらす必要がある”

商工会議所でマイクを握っていた老人が
そう言っていた

    *          *         

ぼくらはコーヒーとケーキで休憩しようと
車を止めた
まなみは対面ショーケースからタルト指差し
ぼくはモンブランを注文した
カフェは畑の匂いがした
ハイウェー沿いの店の周りは一面 
畑だから
ぼくらは窓ガラスの向こうの
畑を見ながら
コーヒーを飲んだ

    *          *         

ペンキの看板の文字も風雨に晒され
ろくに読めなくなっているカフェ
この夏はとても蒸し暑かった
ロッキングチェアーに 手編みのクッション
ピンクのクマのぬいぐるみに カウンターで
ジーンズ地のつなぎを着て豆を挽くマスターは
昔は自動車の修理工だったけど
体力的に長く続けられる仕事じゃないと言って
笑った

    *          * 

ぼくらがこの小さな町に引っ越してきた夏
ジャイアンツの4番打者の一振りが
リーグ優勝を決めた
東京ドームの一塁ベースを
蹴ったところで
右手のこぶしを高々と突き上げる彼
まなみのお腹には新しい生命が宿り
小さな町は
ぼくら夫婦を
黙って迎え入れてくれている気がした

”簡単に決めないで欲しいな 引越しなんて”

そう言ったまなみの言葉が 
この先もずっとずっと
ぼくの中に
残っていくような気がした夏    


道が暗い

  月見里司

山には長い影が生えている
手のかたちをして無数に
あどけない美術品のような
その一つ一つを
踏みつけてあるいている

熱のない松明からは
果実に似た嫌なにおいがしている
ほのおが沸騰し
弾けた火の粉は下草を汚す前に
蒸発してしまった

地面を埋め尽くす金木犀の花弁
の柔らかく湿った感触
低い太陽と眼が合い
へたり込む

ああ、重力だ
雪がふってくるぞ


フィーバーがとまらない

  菊西夕座



またやってきた。毎年びりっけつの、俺の罰当たりな誕生日

夜を焦がした日の出とともに、賽銭箱が、潮吹き女のスプリンクラーといった具合で小銭の産卵をおっぱじめ、四方八方へ飛び散らばったあぶく銭が神社の白い砂利に跳ねっかえると、糞づまりの神主が尻もしまわずにあわてて便所から飛び出し、太鼓っ腹と口笛で得体の知れない祭り囃子を奏しだす。
ほくろにとぐろを巻く髭を生やして、紅ヌリタクリの巫女が摺り足で俺に近づくと、武者ぶるいの勢いそのままにひび割れた唇を押しつけ、俺の首筋にヤスリでもかけるみたいに細かくひっ掻くキスをする。
巫女の頭越しに、憑依を流された娼婦が絵馬を差し出しながら、生まれてくる子の名前を書いてちょうだいとせがみだす。いいかげんな文字を斜めに三本走らせてやれば、いまにも生まれてきそうな名前だといって異様に産気づいてくるのでうっとうしいから邪険に突き飛ばしてみたとたん鳥居に頭をぶっつけて髪が真っ赤に染まっちまった。

フィーバーがとまらない

東の丘いちめんがハリネズミの怒れる背のように無数の火柱を突き上げる。
隅に干された狐のブロンズ像が口からペーパー籤を吐き出している。
いたるところでそよ風が銀杏のきついにおいを排泄している。
鳥居にぐったりともたれた娼婦は狛犬に流し目を送りながら動かない。
彼女が腹にかかえた絵馬が仔馬の難産をはじめると、流し目から無数の精子がもれてきそうな気配だった。
ざらつく舌をこすりつけ、ますます亀裂を深める唇で、紅ヌリタクリの巫女は狂おしく俺のうなじに恋をする。擦りに擦られて首筋の血管が消えちまいそうになったころ、俺はヤスリ女を背負い投げで池の中に放り込み、水をくまなく濁してやると、巫女に憑依していた鯉が屋根の上まで飛び跳ねる。
フィーバーがとまらない。
尻の穴から大吉をひねり出して神主がいつのまにやら開運している。
狐がさかんにむせ返る。
そよ風にペーパーがまくれ、
お捻りがやたらに噴出する。
銀杏のべとつくにおいに腐敗の重みがのしかかり、
発情した犬が丘の方へしょっぱい虹をかけている。

フィーバーが一向にとまらない

丘に火をつけた放火魔が南の空へ快進撃を続けていく。
銅や銀の小銭が境内のあちこちできらきら光る独楽のように回転している。
ときどきちぎれた大吉が旋回に巻きこまれ、
お捻りがますます賽銭箱のまえに盛り上がる。
俺は梁から垂れ下がっている大きな鈴のついた縄に飛びつくと、ちぎれんばかりにそいつを揺さぶってフィーバーをとめてくれるよう願いをこめた。
乾いた鈴の音が境内に響き渡ると同時に拝殿の屋根から小さな達磨の群れが火花を散らして転がり落ちてくる。幾千万ともしれないコインを派手にぶちまけた音響で。
烏どもがいっせいに舞い降りてきて達磨の白目をこづいてはしゃぐ。
奇怪などしゃぶりは屋根を激しく焦がしながら際限なく打ちつけてくる。
娼婦の髪で尻をぬぐいはじめた神主が一瞬で赤い海にのまれてしまう。

フィーバーがとまらない
フィーバーがどうにもとまらない

俺はよじれた荒縄になんとか右手でぶら下がったまま、左手の三本指を今にもすり切れそうな紅色の頸動脈にあてがった。
まるで異教徒に憑かれたように、脈は一分間で百はっ回もフィーバーしていた。


新月の下

  

     1

 この原稿を書いているのは、秋だ。直下される問いこそ「失ったものは何だったのか?」であり、正確にしたためれば「失ったもの、何?」だったように思う。つまり、女言葉なのだけど、いまとなっては、声を記憶していたテープがない。したがって、ブツという形は失われ、曖昧な活字の様式で、劣化した皮一枚を剥いだムツゴロウのつるつる。そして、阿多多羅山のつるつる。潤んでいるのは、テポドンだ。美辞麗句された声が劣化していくけど、“もののあわれ”であろうか?

「失ったものは、何?」まるっきりオレオレ詐欺の図々しさで、受話器から声が漏れている。この声は、野太いので、多分、中年の男性。換金したぬくもりは、消毒液の匂いしかしない。それを潔癖だと認識している前頭葉はゆがんだ柔軟運動。えいさえいさ、ほっさほっさ、あれは、時代劇か、ビリーザブートキャンプだったか。元気に勢いよく放出された子供時代、「やすらぎが薄らいでいく前夜に残されたメッセージを、酔いどれの鐘にしてはいけませんよ」と、おかあさま。秋ネクストイコール冬だから、子供時代は冬なのである。

 声は、重なり合い、ぬくもり、教会での合唱、エコール・ド・パリ、鉄の冷たさで、戦車は出来ている。ドイツ兵の子供を孕んだ為、髪が剃られ、裸に剥かれて行進しちゃうシャンソン人形、ひらひらと紙幣がバラまかれた黄金に輝く町並みで、行進する者達と、それを取り巻く者達と、乞食と、おかあさまと私は、鈍器を手にしていた。重複する声、重複する合唱、抱擁するたび火花になって、紙幣が燃え、やがて町並みは火の洪水。鈍器が太陽で、私たちは一人一人、太陽を所有していた。火の洪水、太陽を放り捨て、逃げまどう牛とにわとりの足並み。どがどが、ぎゃーてー、ふぁでらっく、さわがしいはずなのに、ツーんとした耳鳴りがして、涼しげだ。
(おならってくさいね)ひとのにぎわいは、皮一枚剥いたムツゴロウの光沢で、受話器を動物に渡してはならない、エンド・スロー・テポドン、お金に換えられた肉は、消毒液の匂いが漂う、それを清潔だとイメージしている草原で、直下していく。



     2

 皮一枚剥いだシャンソン人形から生まれた赤子が娘になり、水槽を抱えていた。その中には、皮一枚剥かれたまま泳ぐムツゴロウと沈んだシャンソン人形、少女は水槽の硝子細工の青さから蒼穹をイメージする。虚言癖と自傷癖と拒食症を煩い、拒絶こそゲーゲー吐き散らかす新しい父親の粒子はステンレス、保温が約束されたようなものだ。許容する排他イコール自己完結の暖は持続し、水槽を抱き、濡れたムツゴロウも飛び出す。ふるえながら貫いてイク父親の息子に、「期待外れだよ!」とアバズレぶる気品はまだなかったから、抱き寄せられた肌の冷たさに戦慄、射精されてゲーゲー吐き散らかす沈んだシャンソン人形の構造がプリズム、一度ならば二度でも三度でも同じこと。【射精するものは、排除するもの?】のちにどんな男性でもヤラセるサセコになり、父親のキン玉をヨーヨーに仕立てて、悪人を退治する秘密結社の一員になった娘の保温を約束した射精イコール性交の関係性は持続し、底でムツゴロウが跳ねていた。父親が突っ込んでいない方の穴から排泄、昨日食べたとうもろこしのつやつやに、シャンソン人形をめり込ませながら。



     3

 再生されることのない過去に意味はない。だから、振り返った私は取っ替えッコで、いつでも声は首筋の後ろではなく、胸襟の前側でもなく、交点か底辺から聞こえてくる。水槽の硝子細工を蒼穹に見立てていた少女、いつしか水槽は割れ、破片もまた青い。まだ少女ではなかった私を突き抜けていくイメージの蒼穹が、漏れている中年男性によって粉砕、刈り取られたシャンソン人形の赤い髪がドーナッツ状に、そして、ベッドを支えている五名の巨人たちの関係性で私は創造した。エンド・スロー・テポドン、受話器から声が湿り、換金するぬくもりは消毒液の匂いしかしないから、「やすらぎが薄らいでいく前夜に残されたメッセージを、酔いどれの鐘にしてはいけませんよ」、ゲロとうんちと精液まみれの幼い娘をきれいだと思う人間がいるのなら、およそどんな人間にもきれいになれるチャンスが一度は訪れた。言葉が飲み込みにくいのは飲み込みたくない、どのような事実であろうとも再生してはならない声があるからで、少女の選択肢は書き手という設定の作中人物の私からすれば、二通りしかなかった。スカトロおとうさんだけの天使になるか、どんな男性が相手でもヤラセる天使になるか。集約とか帰結じゃないね、点在かつ混在でしかない。



     4

 ところで、この散文のタイトルは、『新月の下』なのだけど、いっこうに登場する気配がない。なんで『新月の下』なのか、作者はもう忘れていて、忘れたものを取り戻す術がない以上、代用品を使って、模造していくしかなかったデタラメさを、読者に謝罪しなければなりません。
 整合性を組み直して、どういう主題かを陳述していきます。「あっ、新月だ」って言うおかあさん似の女性がいて、そう言う女性との関係性を失った主人公の私は、新月を見るたびに、はかなげな記憶をイメージしてしまうわけではない。この散文は、「あっ、新月だ」という女性の影を追い求め、水槽の蒼穹に憧れる少女と重ねるさえない主人公のさびしさとはまったく関係ないのであり、性行為のように声が流れてきて、(戸惑いとはどのような工合なのだ?)とついつい考えてしまう〈あなた〉の舌の青さを描写することに、モチーフがある。赤かった空がいつのまにか青くなっていて、その青さは星の光をあぶり出し、ほんのりと影をのばす。



     5

 口元がミルキーウェイ。まさしくテポドンの軌道だね。阿多多羅山のつるつる、お客さん、私はもう生きていますよ、風をゆらしているのが、私なのです。

 あの月は、隠されていない。ただ、見えないだけ。黒く、ドーナッツ状の髪、耳をすませば、心のどこかで飼っている“可哀相な少女として体現される不幸”が、別の化身になって見えたであろう。姿を変えても、指し示す方角は同じ。なぜなら、羅針盤こそ〈あなた〉だからだ。

「気持ちの重みに沈んでいきながら、言葉の軽さで浮かんでいく、まるっきり天使の冗談だね。しかし、私はけっして天使になりたくないので、ステンレスの底に沈んでいる。本当は誰も天使になりたくなかったよ」


馬頭星雲

  黒沢




若いとき、私はいきていくのが不安で、昼間なのに夢を見た。

―その塔は長大なゆえ、登攀することは出来ないという。僕は夢のなかで、そうした他人の取り決めを打ち消しながら、忘れえぬ錯誤の結果として、せまい踊り場で立ち竦んでいる。青の部屋、確かに番人は、鉤鼻の彼はそういったが、照射されたライトが眩しく、返事の声を取り落としたように思う。ふら付きながら窓に到達する。下界が極端に低く、滲むような街路や、名前のない港湾がひしめき、正直いってこの世離れしている。そう思って僕は口にした。夢の言語は、巻貝のように巧妙に曲がって、ひき放たれた声がそら耳のようで、従ってこの尖塔の高みに、拠って立つのは僕が記述だからなのかも知れない。日が、日を追いかけて凋落していく。特筆すべき視座の傾きをものともせず、柱廊の一端を持ちあげたかのような僕たちの背後を、水が流れている。

ところで毒々しい体を持つ私は、その由来が私なりに古く、記憶における憤りのような、彼のよこ顔から目を離すことが出来ない。ぬっと前に出た番人の鼻。ぬっと前に出た番人の恐るべき鈎鼻と、骨ばった顎の絶対的角度を、私はどれほど懐かしく、地形を喪失するような傷み、時おり痙攣的に、外部から渡されてくる陰影に脅かされながら、想起しただろう。今なら分る、私が視ていたのは闇ではなく輝きだ。飽くことのないそれは別離の前ぶれで、私と番人とは他人であったと。



壮年になって、私はいきていくのが不安で、昼間なのに夢を見た。

―僕はいう、何ゆえ青なのか分らないと。番人はこたえた、それは真水の喩えなのだと。同じ高さで、横から盗み見た太い鉤鼻。怖ろしいことは、僕が経由してきた記述にあるのではなく、彼を初めとする他人の体が、とても正確に老いていくこと。夢の言語は、僕を後ろから抱き起こす不燃物のようで、塔の内側には声もその名前も、名前もよこ顔の写しすらない。窓の外にはいわゆる下界とされる人間たちの木っ端微塵の影絵や、決して明滅を返さない大河。雲の直下へと叩き落された、屈辱的といっていい半月の低姿勢な躓き。横からもう一度、あの番人へ視線を戻す。ひと知れず、長く大きな火傷の痕に、褶曲線のような模様が、波紋さながら触れて拡がっていく。ここは青の部屋。到達出来ない尖塔の頂きなのだ。

ところで幼児期からの引用、いいかけて止めた秘めごとまでを持ち出し、せめて悪意による呵責を、さもなくばダンスをと、私は喪失した呼びかけ、分不相応な微熱でくり返した筈だが、夢なのでいい加減だ。私が視ていたのは光りではなく影。闇に酷似し、日に、日にかさ張っていく裏書きの反映。どよめき始めた私たちの頭上に、石の反射鏡が飾られている。





言語による未必の透視。それはまさしく手紙のようで、私は疲れて頁を伏せる。ベランダに出る。借りものの集合住宅の外、彼方に品川のビル群が見えている。高輪の丘陵は低いようで険しい。並列された建物の半ばで、識別灯が輝いている。揺らぎながら交代を続け、ばらばらに遷移するさまは、呼吸のようであり、何の関係もない花火のようだ。眼下には、見覚えのある路地があって、さきの開いた街灯が立っている。折れ曲がった小路。木立や家並や、架線に苛まれるその行く手は、切れぎれになって追うことが出来ない。春の夜、暗いのに、沈んで感じられる束の間の光景は、私という日常を非線形にして、気が遠くなるような弱い摩擦音をさせている。

―すると、近くのものが遠景になり、現のことが大写しになる。この街のせまった坂路を、裸の馬が疾駆していく。色褪せた臀部。外部光により陰影を与えられ、肉の塊が重おもしく上下する。それはしなやかで脆く、そして静かだ。馬が走っていく。跳ねることによる傷みも、打感すらなく。首がななめに歪み、その姿勢は時おりスローモーションに似て、たて髪は水のようで、なおも春の夜路を震えて駆けていく。蹄は音を立て、移動による光りと影とが、頻繁に全身をよこ切る。暗号みたいな影絵を描き、速やかに消えて。品川のビル群が遠い。丘陵のその向うは、余りにも不確かだ。

星々が退潮する。僕とは惜しみなく転記された、外部でも内部でもある記述なのだろう。星々が、拡散していく。僕はその馬を、まだ視ているだろうか。

文学極道

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