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『狼13号・文学極道特集』収載作品

特選作品一覧 (ラベル別 / 全33作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


燐光II

  Nizzzy

そう、ゆらいでいたのだ
私たちの、魂はゆらいでいたのだ この瞬間にも
そして私たちはそれを知っていた(すでに過ぎ去ってしまった)
だが、木々を縫いつけ生きる私たちの、網膜には
このディスプレイの液晶よりも
聖歌に刻まれた救いよりも
ずっと、霞んだように見えて、
古い海岸を歩く、この足の冷たさと
ふるえている私たちの、宇宙の位置さえ
炎のゆらぎにも片翼を失う蛾の触角に、結びつけられてしまった

蛾よ、お前は海の持つ惑星の
秘密の千の瞳を開き、螺旋状の周波数を聴く
子午線よりも遠く、アスファルトより鳴らされる
永遠分の一秒を刻む晩鐘を共鳴にして、触角でなぞってゆく
だが、そこにだけ茜色を映し出す私たちの細胞群は、何も慣れていない
惑星間の初雪と戯れた指が触れてしまうことさえ
言葉という重力を逃れた振り子の糸を近づけようとする
重力はどんなに軽い原子にも意味を持たすから、
私たちは氷晶に黙された鱗粉の呟きを、見極めようとする

蛾よ、お前は飛ぶのではない
光の端を青灰に染めて、その両翼を落とすのだ
満ち始めた初潮に、新たな重心を定め
そして違う名前でそれを呼ぶために・・・
私たちが落とす翼は、もう残ってはいない
全ての世界の、私たちの持っていた翼は
張り巡らした糸に、切り落とされてしまったから
だから、私たちは痛む この瞬間にも
どこにも見えないものを、どこにも見えないものを
知らない (すでに過ぎ去ってしまった) 知らずに
それが間違いであるかのように
こうしてゆらいでいるのだ
私たちの、蓄光する魂は

蛾よ、お前が全てを終えたとき
翼は扉に閉ざされ、瞳は星々に取って代わられる
そうやってお前はどこまでも落ちてゆく
それは並木沈む海底なのか
夜をも凍らせる極北の大地なのか
この瞬間にも、私たちは横たわる位置を知らない
もしお前が私たちのゆらぐ、魂に辿り着くのならば
其のときは絶対零度にまで収束され、燃えろ
そして北極星からの地軸を片手で握り、廻る、新たな少女となれ
落とされた翼全てに包まれながら、燃やし尽くす、永遠の、ずっと近くまで

* 原題のローマ数字部分を「II」で代替表記


鴎(かもめ)

  一条

海には人がいつも溢れている。カモン、カモンと鴎は空を飛び交っている。海の青は、カモン、カモンと空の青に混ざりこみ、鴎はいまだ完全には混ざりきらない二つの青の間を、行ったり来たり彷徨いながら、新しい青の侵入を待っている。ぼくが新しい青になれるなら、その可能性があるなら、ぼくは新しい青になって、カモン、カモンとあの空と海に混ざりこむだろう。

海には、海には、海には。鴎が、白い。青い空が、海と鴎に混ざり、茫洋と薄れてゆく陽光は、女の名前みたいにうつくしく、彼女は実在しながら、姿はなく、黒人は、砂浜に足跡を残し、誰かの助けを待っているのだが、なく、海に流され、黒人の腐乱した死体に、白い鴎が群がり、鴎は黒く、同時に青く、ぼくは、そんな光景を見ていた。見ていると、海が溢れ、彼女は実在せず、海は人であふれ、冬に近い季節の海に誓い、背中に釣竿を背負った男は、黒人だった。白人だった。

それから、黒人が海に飛び込んで、一瞬で空に落ちる様態を見届けたあと、白人は海に飛び込んで(黒人と一寸の狂いもない同じ地点に!)、黒人よりも随分緩やかに、空に落ちる白人は、中空で、先に空に落ちた黒人を追うように、落ちていった。白と黒が、青に。ぼくは、「白と黒が、青に」の少し上あたりを、しつこく飽きるまで眺め、それに飽きてしまうと、海に飛び込んで、空に落ちた。中空で、ぼくが青に。「ぼくが青に」の少し上あたりに、鴎が飛び交い、一瞬で青がはじけた。白が消えた。


真っ黒い炭酸水

  佐藤yuupopic

「壊れてしまった、もう鳴らない」
真っ先に思った

夜の海で落としてしまった、いや俺ごと落ちたと云う方が正確だろう
堤防が途切れる処で
ただ、島を
見たかっただけだった
イヤな事が続いて酷く酔っ払っていたんだ
ケータイどころじゃない
俺だってあやうく死ぬ寸前で
見上げた海面が炭酸水みたく泡立ってた

水は
冷た過ぎると痺れるなんて知らなかった動かないが手足は未だあるのか眼球膨れる鼻とハラワタ喉の奥捻じ上がる塩辛い痛い痺れる痛いいやもう痛くない何故か頭の中に炎上するビルが浮かんだ月の光がひんやり射して静かでキレイだキレイだけどそれが何だ、て云うんだああ、こんな処で終わるのか音が無いこの泡は俺が吐いているのか最低で終わるなんてそれこそ最低だ、どうか、
どうか、
俺に
起死回生のチャンスをくれないか

真っ黒に水を吸って
全身真白に膨れ上がった
俺は
夜の浜辺をそぞろ歩いてた
男の恋人同士に
消滅寸前で
助け出された
ごめん、ムード台無しにして
俺はまさに無様の中の無様王だ
でも
無様でも何でも構わない
あんな処で終わりたくなかった

有り難う恋人達
二人は優しかった
舌焼ける缶コーヒー
自分らの上着にくるんで
ずっしり濡れた身体を両脇から捉えられた宇宙人みたく抱え国道脇まで寄り添い
タクシーを止め
ケータイも財布もポケットの中一切がっさい落とした俺に
札を何枚か握らせ
「そんな事どうでも好いのよ。しっかり帰って眠りなさい」
連絡先も名前も教えず
いたわりながら後部座席に押し込んだ、
バックミラーの中小さくなってゆく手をつないで見送る二人を
塩で焼けただれ半ば潰れた目で
見送った

彼らに出会えて好かった
すげえな神様
きっと
あなたはそこにいるんだな
生まれて初めて、
心から、有り難う

なのに真っ先に思ったのが
「壊れてしまった、もう鳴らない」
だなんて
他に考えるべき事なんて
いくらでもある筈だったろう
お前
単なるバカだろう
だからこんな目に遭うんだろう

「番号がわからない 下の名前と生まれた町しか メールもやらない、て 今時めずらしくないか 故意じゃない でも、もう会えない 去年 空港で 出会っただけの あの子に」
なんてな
メモリーがなんだ
大バカ野郎

生きていれば偶然だってあるだろう
本当に会いたいと願いさえすれば
いやもっと
他にも願うべき事はあるだろう
あの二人に何か返す事だって
それから
彼ら以外にも

歯がガチガチ云う
俺、生きてんだな
運転手さん、暖房上げてくれて有り難う

魂込めて起死回生図れ、


ファインレイン

  軽谷佑子

友だちのサンダルは規則ただしく坂をくだっていって落葉の
温もりがそのうえに降り積っていってわたしは
胸をしめつけられる
のでした


彼女はうつくしくとてもわかい
朝にはあかるさが満ちている

(あかるいのは光が射しているからだ
風景を組成するこまかなもののすきまというすきま)


落葉は幾層も幾層も坂に降り積っていって冬が
終われば消えてなくなりますがほんとうは
ずっとずっと降り続けていていつかわたしたちは
頭まで落葉にうずもれる
のです


(彼女を組成する光のすきまというすきま)

つまさきまでびっしょりと濡れて
門脇に立つ朝の
湿り


友だちのあとをついて歩くわたしの運動靴は
なんの躊躇もなく落葉を踏みつけていって
彼女は眉をひそめわたしはかなしいかおをつくり
彼女のほうをじっと見つめる
のです


Pointe (ポアント;つま先で)

  Canopus(かの寿星)

ぼくの知らない光
ぼくの知らない舞台
ぼくの知らない地平

君は舞台の袖で出番を待つ
淡い照明が
ツンと顎をあげた横顔を浮かべる
新しくおろしたシフォンのチュチュ
柔らかな菫色のトゥ・シューズ
小さな希望に膨らみかけた胸 覚えたてのパ
君は舞台の袖からまぶしくプリマを見つめる
アダジオからアレグロへ そしてパ・ド・ドゥ
速度を増していくピルエット
アラベスク・パンシェ グラン・ジュッテ
君の 外側を向いた指先とつま先が小刻みに震える

君の知らない闇
君の知らない北風
君の知らない茨の荒地
いや 本当は
ぼくもまだ知らない

コオル・ド・バレエにも
ぼくは君だけに視線を送るだろう
君の指先からつま先から こぼれ落ちる光の曲線を
ぼくは喜んで仮面の男になって
すべて飲み干そうとするだろう

プリマの賞賛に鳴りやまぬ拍手のなかを
君は両腕をあげ つま先をたてて
群衆の一人として旅立っていく
ぼくの知らない舞台 ぼくの知らない地平へ


ミドリンガル

  鈴川夕伽莉

(一)

窓の外には隣のアパートの
野ざらしの階段です。
寝静まる闇の囁くような轟音の
出所は隣の地下のライヴハウスです。
この街のちょっと有名な場所だと知ったのは
引っ越してきて数ヶ月の過ぎる頃でした。

半年に一度くらいは両親が訪れます。
休みの取れないわたしはほとんど相手をせず
両親は平安神宮やら北野天満宮やら
散策に出掛けては
さくらんぼ(左近の桜から落ちた)やら
梅の枝(道真公の梅園に落ちていた)やら
拾い集めては得意げに示します。
それらは国道四十一号線沿いの名もない里に運ばれ
うららかな風で呼吸するうちに
ひょっこり若い芽を吹いたりするのです。

おまえも、みどりがないのは寂しいに違いない。

そういって両親が持ち込んだのは
ポトスの鉢植えです。
両親が手塩にかけたものでなく
そこらのホームセンターの安売り品だったので
わたしは安心しました。

冗談じゃない、やっとみどりから逃れられたのに。



(二)

小学生の頃、クラスでめだかを飼っていました。
理科の授業の一環でしたので、水槽の掃除係は特に決まっておらず
そのうちものぐさなこども達によって放置されました。
ある日、ガラスに粘液にくるまれた卵がへばりついていました。
わたし達はそれらがめだかの卵であると信じてスケッチをしましたが
本当はめだかをさしおいて繁殖したタニシの卵でした。
それに気付いたわたし達は、水槽の掃除をしました。
そしてタニシをひとつひとつつまみあげ、
全部ベランダに叩き潰したのでした。

こまかい藍藻類の増殖も観察されました。
いわば水槽の雑草と言えますが、
それらは水中の酸素を奪うことで
水槽の動物の生存を脅かすのだそうです。

タニシを殺した空は雲ひとつありません。
地上は水の底であるべきなのかも知れません。
藍藻類の萌える。



(三)

こころは階段を踏み外し
ボタンを掛け違え。
段差に潜むくろぐろとした穴は
日に日に膨らみます。
ラピュタが来るのを待つため
空を見上げます。

北向きの窓の外には先ず水田
国道四十一号線のノイズ
以外の音をほとんど奪われて
隣の屋根とふたつ隣の民家
を越えたら山が連なって
まるで水槽の淵のように見えます。
切り取られ水面となって揺れる
青さに足許を掬われるのですが
実際のところ満足に
飛ぶことも出来ません。

ラピュタが来ないのなら
水槽の淵で死にたい。
蔦に絡まれ苔に侵され
土に埋もれたい。
最終的にきれいな空気になれれば
風も呼べましょう。



(四)

  窓の外の薄っぺらい鉄製階段を
  蟻ん子のように行ったり来たり
  せわしない足音が続きます。
  向かいのアパートの住人が
  引越しをするようです。

  遮光カーテンの外はどうやら
  うららかな日曜日。
  光合成に勤しみたいところですが
  この部屋の住人は
  私に水もくれずほっぽり出したまま
  朝も早よから仕事に出たきりです。

  ペパーミントの亡骸が
  やはり放置状態で
  私の隣にあります。
  彼女の父親が性懲りもなく
  また鉢植えを持ち込んだのですが
  私のような虐待に強い植物でなければ
  この部屋に棲息するのは難しいでしょう。

  彼女は自分の部屋を満足に掃除する
  余裕もありません。
  私のみどり色は
  彼女のささくれ立った神経を
  逆撫でするようです。


  ああ おまえはまだ いきているのだね。

  或いは

  ああ おまえはまだ いきていてくれるのか。


  彼女は帰宅してもこころの休め方を知らず
  張り詰めたまま暫く放心し
  突然折れるように眠りに就くのです。


  ああ きょうも みずをやらなかったね。
  ざんこくな わたしなど しんでしまえばよい。

  或いは

  ああ きょうも みずなどやるものか。
  そのまま いつまで いきていられるか。


  アートの窓の外が空に通じないのは
  彼女にとっては幸いなことでした。
  たとえ住人が引越してしまっても
  ただの空き家でも
  そこがみどりでなければ良いのです。

  取り敢えず今日は生きてみようかと
  思えるらしいのです。


波状

  守り手

五月の草原は
見えざるものたちの管弦楽団
風の指揮にそって 浅い夜を音楽にひたす
草むらに埋葬された僕を 星の視点から僕が見ている
なんて滑稽な図式 しかしうつくしい夜想曲
滑稽な美しさに 視界が曖昧にされる
ぼやける もしくは とじていく

まぶたのうらで
水底は深く澄んでいた
川を 葬列が渡る 散った波状は音もなく
むこうがわへとかれらを渡す
波状は立ち消え 水面はまた流れだす 音もなく
僕の葬列は行ってしまった

ここで飛ぶ
鉄塔群 逆光 遠い八月
複製された空を 飛ぶ 街を抜ける
まなざしの先の運命を まばたきの裏の恒久を
うつむきの奥に流れるだろう見知らぬけもの その血で
残滅する 瓦解させる 崩落の声 どこかできいた
鉄塔群に棲む冬猿 潔白のために殺した

裂いて 薄い肩の平穏を 待って
目をふせた星たちがおとす きらめく影の中で
五月になった 季節が呼んだ 五月になれと 季節が云った
ざわめきつづける鳥たちは声をうばわれて
海は静謐な凪に犯されている
そっと夜になり 押し寄せた闇がまぶしい
世界は管弦楽にただよったまま
すべてを放棄した

少女 と呼ばれるたびに
壊れていく地平がある そこでは
雷が蜘蛛の巣のように増殖していく すこし薄まった空気
思い出してもでてこない 少女の名前
また どこかで地平が崩れる

たぶんそう きっと つけたのだろう名前を
僕は 告げたのだろう名前を あのとき
思い出すのではなく創造すること そうして
波状を描いて 交差する世界の静脈

また戻して
葬列が跳ねていった川の水
黒く澄んだその浸食を風がなぞる
たゆたうように回る惑星のだれもしらないかたすみで
音楽は鳴らされて 幾つかの夜に溶けていく
解体された牡牛のそばでじっと動かない僕は
やはり 埋葬されているのだろう

管弦楽に耳をかたむける聴衆
露草を滑ったちいさな色彩は透きとおって

星の流したなみだは
ひどくきらめいて消えた


ドアの断崖

  みつべえ

たわいもない言葉が
殺意にかわる
ドアのむこうは
いきなり崖で
おちていった悲鳴は
だれのものだったのか
あいかわらず世界は美しく
それに見合うだけ酷薄だと
きみはペーパーナイフで
ひとさし指の皮をリンゴみたいに剥いて
笑っている
血が流れでないのは
時間を所有してないから
痛いのはきみではなく
愛を語るのも へどを吐くのも
詩を 書かざるを得ないのも
事件の核心を
ドアのむこうに
突きおとした
ぼくのほうなんだ


春彼岸

  フユナ






あたしは幼女になって
あなたに誘拐されたい




ひらひらと
垢ずんでいく赤いスカート




あたしたちは
いつか家のあった
日本海のそばを歩いていく




みなそこにもねやがある

あなたが言い




あたしも
そうだみなそこにもねやがあるわ
と思う






あたしは幼女になって
あなたに誘拐されたい





そして水面に
垢にまみれたスカートを
のこしていきたい
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
  
 


けふのうた

  みつべえ

ほんとうのわたしは
まいにち風のなか
けふをたべるための
おかねをかせごうと
せっせと お客さまを
まわっているのでした
わたしがおすすめした商品を
お買いあげいただき
まことにありがとうございました
これで けふもくらしてゆけます
むかし父が まいにち風のなか
せっせと かせいで わたしたちを
やしなってくれたように
わたしも こどもらのために
そしてなによりも あいする妻に
どやされずにすごすため
つつしんで おべっかもいいます
おかねよ おかねよ
すてきだね
ぶきような わたしは
ほんのわずか きみたちを得るために
あがなうべき けふの
大半をついやしてしまうのでした
お客さま ほんとうに感謝いたします
あなたさまがお買いあげになったのは
だれが売ってもおなじ商品ですが 
サルでも金魚でも散蓮華でもなく
「わたしがおすすめした」ものですから
わたしが付加価値だったのですね
ふふふと笑って へとへとでかえった夜
わたしは かせいだおかねよりも
さらにまずしい詩など
あいくるしく
かいてみたりするのでした


アイス

  佐藤yuupopic

俺はまだゆく気はないよ
おまえと春午子(はるこ)をおいてゆく気はない
時々島のよに飛び石のよに記憶が途切れる
けど大丈夫
何一つ失くしてはいない

透明な液体が身体を巡り
栄養がしみては漏れ
血を脈打たす
俺は
点滴につながった一本の
生かされた
管だ
でも
まだゆく気はないよ
少なくとも黙ってゆく気は

痛む背骨を裂いて
黒い鳥が躙り出ようとしているのが
わかる
飛び立つ気配
近づく
でも、まだ、
その日ではない
俺はまだ
放つ気はない

器の蓋によそった粥を
一匙一匙忍耐強く口に運んでくれる
(少しも欲しくないからもういいんだよ、と思うけれど
おまえが平気な素振りで、眉をわずかしかめるのが、つらいから、俺は、ゆっくりゆっくり飯粒を噛んで、ゆっくりゆっくり飲み下す)
おまえの指がうんと好きだ
最近淡い色に爪を塗っているね
春午子が生まれてからだったか、それより以前のことなのか
定かではないが、いつしか止めてしまったようだけど、近頃、また
塗り始めたね
(初めて出会った大学の構内が思い出されて、
胸に何かが灯ったみたく、あたたかくなる)
おまえの指が好きだ

窓の外は吹雪いているようだね
風が強いのだろう
引き千切った紙片のよに舞う

いや
雪じゃない
そうだ、四月だもの
ああ
桜か
あれは桜なんだな

(まるであの日みたいだ)

桜吹雪く昼下がり
産院へと続く急な坂道を
俺は上って
おまえ達に会いに往った

何か欲しいものはあるかいと訊ねた時
おまえは
「アイス、アイスがたべたいの」
と、しきりに云ったね
覚えているかい
俺は覚えているよ
今も
先刻観た夢の続きのよに
あの日の続きにいるみたく
思うよ

ミルク色の手足を持って生まれた娘の名前をアイスにしようと云った時
おまえが強固に反対するから
止めたけど
冗談半分のふりで結構本気だったんだ
アイス
「いつか 誰かを 愛す」
なんて
好い名前だと思わないかい

愛す
愛す
おれは
おまえを
春午子を

(酷く

怖い

でも、

おまえには

決して

云わない)

そして

あの
春午子が生まれた
薄桃に降りしきる花びらの午後を
苺のアイスを二人で頬張った午後を
いつまでも
愛す



黒い鳥よ
どうか
まだ、

はばたくな


殺伐にいたる病

  フユナ




砂浜になぜか
まるのまま打ち上げられたりんご
いつからあるのか
りんごはなかば透き通っている


食べたらひどくだめそうなのに
僕はそれを舌にのせる
のを逐一 想像する
おいしいようなひどいような
それはつまり
取り返しのつかない味だ
僕たちは
またぐことも
無視することもできない


セロファンを重ねた空の
剥落
ぱらぱらと降りそうな
血が散った
と思ったら風船だった
風船売りが
あわてて空を仰いでいる


放置されたまま
これは砂浜にかえるだろうか
さらさらと
そうだろうか
そうは思えなかった
人が通り過ぎていく
少しのりんごの死臭をまとって
僕たちは
またぐことも無視することもできない

僕は思うのに



たまに気付いた人が
苦笑して目礼していく



今りんごをたべたとして
これ以上追放されうる場所などありはしない
のを
みんな知っている
北の地 北の海 海のむこう
何も容れてないはずの
空き瓶
の中の空の剥落



間違って放った風船を
浜でこどもが受け取っていた

あげるつもりじゃなかったのだと
誰もが言い出せないでいる
 
 


四月の遊び

  軽谷佑子

学校には桜の木があります
たくさんの墓もあります学校で
死なずにはいられなかった人たちの



新入生だけが声をききます
お昼にはそろって帰ります皆
しんと黙って一列になって
歩くときにだけきこえます


わたしたちには前が見えない
春はあまくとてもみじかい


眼前にひろがる
景色はすべてあなたのもの
すきなだけ眺めてください
そのあとちゃんと壊して
おいて


春はあまく飲みこめばにがい


友だちのうたう
賛美歌が花ぐもりの
昼の呼吸を濃密にします
それは四月の
うつくしい遊び


いつか誰もが学校に慣れます
墓は土くれを撒き散らしながら
拡がる期待に満ちて
います


曇り空の爆撃機

  ケムリ

花の名前を知らない 僕はまどろんでる
知らない歌口ずさむ君 もうすぐ坂になるから 
コーヒーショップの上空七千メートル
僕はまどろんでる 君はサンダルで歩いてる

マンデリンを200グラム ポケットから千円札
笑うように枯れた日々のために
複座で眠ってた女の子のために
コックピットを開けて手を振るよ

何気ない顔して星は揺れた
手を繋いだら上空七千メートル 
髪を切りすぎて泣いてた女の子のために
僕はまどろんでる もうじき街路樹が尽きるね

百円玉で紙コップのチェリービーンズ買ったね
爆撃機は高度を下げる オナモミをくっつけられた女の子のために
坂道を両手広げて サンダルを風が洗う
薄いブラウンの髪が星を射抜いて行く

僕はまどろんでる コックピットを閉めた暖かさで
複座から友達が揮発していく
君は不機嫌な顔をしてドアを開けた
カリタから人々は流れ出してく

ほらあれが火星なんだ 真昼でも見えるんだよ…

僕はタンポポの群生地に狙いを定める
まどろんだ意識が落ちる前に ドリップしすぎた痛み
君は物憂げにコーヒーを飲んでる
さあ ゆっくり墜落しよう

並木道の終わりみたいな日々のために
君は気にも留めない 僕はまどろんでる
幸せな女の子はみんな綺麗で
爆撃機はゆっくり墜落していく


ヒロシマ

  丘 光平

   朝
   風は白いハンカチのようにゆれ
   ワタシの空は
   さよならといった

   張りさける悲鳴とともに
   熱と波の
   おおきな花火は
   かなしみを生むかなしみの花火は
   降りくだった


    そこから先をああワタシは覚えていない

   覚えているのは
   母たちは手を振っていたこと
   男たちは汗をながしていたこと
   こどもたちは
   目をこすりながら
   手のひらを帰りを待つはずだったこと


   ごらん
   陽は
   昇ることも落ちることもやめ
   ひとはひとであることを失い
   おんなじ色の形の影絵になってしまったよ

   ごらん
   涙を血をいのちを流すことさえゆるされず一瞬に焼かれた
   いくつもの
   いくつもの影絵に浮かぶ
   蛍を
   蛍たちの声なき灯火は紅の川になり
   川は川のなかに沈んでいったよ



    ワタシはそれらが
    昨日のようであり何十年も前のような気がする

   変わらないのは
   いまもなお
   母たちは手を振っていること
   男たちは汗をながしていること
   こどもたちは
   目をこすりながら
   手のひらを帰りを待っていること


No Title

  浅井康浩

いまゆっくりと、散乱する光が微粒子の浮遊している器官を通り抜けるのを、眠りはじ
めた触覚をとおしてからだのどこかに感じながら、わたしはふっくらと水を包み込みは
じめていた。すると、透明な上層鱗によって花蜜の内部へと沈められた幾重もの無色の
光線たちは 澄みきった一瞬のみだらさに色付いて、紫、青や黄色へと幾筋かの束へと
結ばれることで、光としてみずからを散乱し、その向こうにある黒色鱗粉へと吸収され
てゆくのだった。この反復を繰り返し、色彩をなくした透明な光線の幾筋かをからまり
あわせながらわたしは網状の構造をつくっていった


蝶の翅に張り巡らされた器官としての気管支になった気分ったら、ないよね
こうしてとめどない充溢によって輪郭をもつことのない寒天質、その内部に閉じ込めら
れたBlue Lineを見ていると きみのなかで分泌されている羊水が、なによりも青くそ
して甘い蜜だとおもいこんでいたぼくの翅脈が透けはじめてきて、水溶性のひかりへと
なってゆけそうな気がしていた


Vivi、球根を踏みながら きみは いたずらに歪曲を拒みはじめた あの、交差路の
死体を覚えてはいないだろう おとぎ話にも似た いつでも「そこ」へと消え去る
ことのできる被膜が いつだって きみの語り口を心細さのうちに約束していたの
だから きみは 服飾というもののもつ色彩や その手ざわりの細部から 起こっ
た出来事の背景や そのすべてを読みとろうとするだけでよかった いまでも 
きみはあの物語を話したくはないのだろう 互いにわけあたえてきた、そんな甘い
芳香のもつひめやかさを軸として 何ひとつ痕跡を洩らさないまま 経験したこと
のない過去の中で輝こうとする そんなきみのゼリー状の夢のなかへなかへと 
流れ込む鱗粉の薄明るさが 仮象の翅脈となって ぼくたちの官能を満たしつづけ
てきたのだが

Vivi きみの 網膜へと降りつづく ゆっくりと侵されはじめたフォルテの感触が 
ほの白いばかりの残響に書き換えられようとするたび きみの 希薄さと静けさだけ
でつらなる 水明のような一面の空白は どこまでも不安で満たされていったというのに


わたしたちが満たされている、青をふくめた薄荷の匂う空間で、あなたはとろけながら侵
蝕しあう形態としての座標。

きみたちは言語の意味の転覆を、鮮やかな転覆として転覆の痕跡を残さないままに
語彙の反復として実践しようとするのだが、

(どのような地点へ行きつこうとも)
あてどない液状化へとたどり着いた、そのような言葉たちの漂っている都市へと
Vivi、きみは記号となって還ってくる


ゆるやかに水中を浮遊する、水沫を痕跡とした翅膜が、
ガラスの内側で満ちているかなしげな青の色にひたされてゆくとき、
つつまれる翅はポリフォニー
語り尽くされるということをしらない。
液体の総和としてもつ 透きとおっては散乱してゆくみずからの形状としての不安の記憶が
言葉として、花の器官として
表面のしなやかさへとなじむことのないひとつの仮象となって
触れることのない別の器官へと みえていたはずの終わりをずらされては
吸いこまれてゆく
その ほのじろくながれている水の微光のなかへと溶けこみはじめてゆく


プラトニック・スウサイド

  Nizzzy



ベランダの手すりが、染まっている。
鳥達が歩いている。反射する光。金光の中で、影だけが動いている。
僕はそれにむかって歩く。砂の城。

午後に降った夕立ちのあと。僕らが傘をさしたまま
歩いている。みんなが空を見上げている。人々の水位。


彼女はしゃがんでいる。太陽はすでに、砂に、城が崩れていた。
僕は彼女の手をとって、崩れ落ちた十字架に手をのせる。

ゆうべのうちに雨は止んでしまっていた。


十字架の下の、奥深く濡れてしまった砂の下の、
幾度なく通った歩道の下の、
訪れることの無い映像にまで、二人が重ねあう。

歩いていた。歩道の上を、
足元から灰色に戻っていく。誰よりも遠くなってしまう。


彼女は泣いている。いつまでも目をつむっている。
波が彼女のつま先にふれる。僕にはとどかない。

そこには風がある。砂がある。
そうして波の音があった。二人がいた。


下水道からあふれている。水が反射する色に、海。
それは海。

飴色には、あまりにも過ぎてゆく彼方に、海。
それは海。


白い長靴をはいて歩いている。雲の合間、顔をふせる。

彼女は目をつむっていた。
波は、ようやく僕のもとに届きはじめていた。

アスファルトに、波の音だけが残っていた。
そうして二人、傘を、さしかけたままで。


骨格捕り(習作)

  浅井康浩

いつの日からか やわらかな微光にとけこみはじめていたあのみなそこで
みずからの殻を閉じていったあなたの 透きとおっては満ちはじめた繊維質のその稀薄さを 
透過性がそのまま一面に降り散ってゆく青となって 見送っていたような気がした
水質とのどのようなかかわりでさえ あやまった動きとしてくりひろげられてしまうあなたの身体にあって
甲殻類の殻の一片としての 殻の成長、脱皮などにより分裂してゆく微細なものとしてのわたくしの響きを 
あなたに感じ取られることなどできはしないのだけれど。
かすかに残されたあかるさの痕跡に反応しては気泡にくるめて消し去ってしまう
ただそのためだけの存在であるわたくしは
あなたののぞんでやまない内骨格さえかたちづくることなどできはしないのだけれど





甲殻類、甲殻類、
切ないまでに正確に、あなたの甲殻をかたちづくってゆくことだけを
みずからの細胞質の運動に接続されたものにとって
甲殻という形態の痕跡をうずまき状に透かしだしてゆくあなたではなく
形態とその循環性が析出される前段階から消去していってしまうあなたを
記名する物質としての やわらかなむねのふくらみですらもつことはかなわないのだから
わすれちゃってゆくのだけれど
あなたがその先にみすえたままのみずからの肢体そのもの
のもつ内包性のカテゴリーのなかに
ザラザラって硬い甲殻なんてものはふくまれてはいないみたいだから
わたくしたちのもっている被膜性なんかももういらないみたいだから





蜜に包まれてゆくものたちの、そのエッジ、その突起や溝をみていたら
満ちはじめ、やがて消え去ってしまうようなみちすじが
そのさきのはじまりにかすかに、見えてしまった気がしたから
やがてあらわれてくるはずの隠喩としての水域を
そこにいるものすべてに絡み合う蜜の半透明な明るさに浸されてしまう水域を
ほぐれはじめることでなにものでもなくなってしまうような口ぶりで、はじめから語り始めようとしていた
でも いつだって
お互いにより添いながらながれてゆく液体は
拡がることで 触れ合うことで 織り合わさってゆくものだから
いまはただ
水世界/蜜世界というそれだけではまだうすあおいままの世界に身を浸しながら





ときとして、
かなしみのために透きとおってしまう指先があるように、
また、その桃のようにあまく伸びきったつめさきへと潜りこんだあたたかな予感が
とめどないほどの蜜の香りをしたたらせてしまうことがあるように





どこまでも蜜そのもののやわらかさのなかに溶けいってしまっては
しぃん、としたうすあおさにくるまれてしまう
くるまれることで
避けようもなくはじまってしまう中性化にあやかってしまうことの
その気はずかしさにほてっては
頬をそめるほどの微熱でもって蜜との結び目がうるんでしまう





けれども どうしてあなたはそんなにもやわらかに
零れはじめて とけだすばかりで
かなうなら
みずからのなかに血脈をこえた本能を隠し持ちながら
くるおしく繰りかえされてきた連鎖を生きはじめてしまう甲殻類たちへ


蛮族のいる風景

  りす

 幼稚園のスクールバスには カーナビがない
 かわりに
 「男か女かわかんねえなあ」 
 と園児に言うのが口癖の 私という名の運転手が付いている
 園児という蛮族を乗せるのに 行き先なんてどこでもいいのだ
 いつだって めちゃくちゃなリズムで踊っている君たちの
 その軽快なステップのルールを 私に教えてくれないか

 
 バスの車体に描かれた巨大なひまわりは 
 週末には「じゃあな」と言って 激務で疲れた体を鉄板からひっぺがし
 赤羽あたりのストリップにもぐりこむ
 ウーロンハイを舐めながら年増女の裸を丁寧に批評し 心のケアを怠らない


 「ひかる」という名札をつけた園児のお父さんは私の隣人で
 妻と家庭内別居中なので ベランダにテントを張って寝起きしている
 ベランダ越しに彼と世間話をしていると 
 ときどき「ひかる」ちゃんが顔を出し コンニチワ と 
 私たちに かわいい挨拶をしてくれる
 「ひかる」ちゃんが男か女か わからない
 彼も知っているかどうか

 
 今日は遠足なので 保母さんの不安は増大している
 お弁当を忘れた子供が何人いるだろう?
 彼女は園児のトラウマを最小限に食い止めるために
 早起きして予備のお弁当を10個作ってきた
 ムーンサルトをキメたのに 着地する地面が無い感じ?
 と彼女は不安の種類を説明してくれた
 彼女も週末には不安を蹴飛ばして合コン女王に変身し
 男のたくらみにも体勢を崩さず 自信を持って見事な着地をキメている
 「普通の女です」とのことだ 

 
 学校法人 きぼう  ひまわり幼稚園
 この部分を特に念入りに洗うように ワックスもかけてね
 君もマーケティングの一翼を担っているのだから
 と園長先生から言われている
 蛮族には きぼう という不細工な言葉がよく似合う
 蛮族=希望 私は希望を乗せて走っているから疲れやすいのだ
 それにしても 洗車する週末に ひまわりはいつも留守なので
 彼はいつも埃まみれだ
 たまには 空っぽのバスで ひまわりを迎えに行くのも いいかもしれない

* メールアドレスは非公開


冬のくじら

  丘 光平


   知っている
   朝を焼く音を あれは
   鳥たちの羽ばたき

   そして
   気づいている 
   羽を貫く冬を それがきみの
   最も正しい姿勢だ


     *


   屋根に降り積もる 雪
   私の中に降り続く 雪

   ならば
   雪に願いを立て
   雨と流れてゆけ


    *


   いたるところ
   息のけがれた雨はある
   息を枯らした川がある

   北行きの風に
   海のありかを尋ねたなら
   潮は来るだろう

    おお らおお らあ
    おお らおお らあ

   私はくじらだ
   波を伝ってゆけ


     *


   かつて
   海に閉じ込めた 母
   母を迎え入れた 海

   くじらは鳴いた
   救い出したなら
   帰ってよいのかと

   海はこたえた
   星たちとの語らいに
   陸の言葉はいらないと


     *


   時の頂きを泳ぎ
   星の海に羽ばたくものは 
   ふりむかない

   冬の最果て
   夜よ 
   白く咲いてゆけ


セントロの南

  コントラ

キャップを目深にかぶった
ガム売りの男
木蔭で涼んでいる
セントロの公園 午後2時

胸元まで開いたシャツに
滲む汗

半島には川がない
ライムホワイトの大地は
地上にふる雨を
ゆっくりと濾過し
地下の空洞に
巨大な水甕をつくっている

古代マヤ人には聖なる泉と呼ばれた
その水甕は今日も
水をはねて遊ぶ子供を見まもる
慎ましやかな
若い母親たちで
にぎわっていた

Ciudad Blancaの日曜日
市庁舎のまえの仮設ステージの
上では 花柄の刺繍の入った
白い衣装の女たちが
耳がわれるような音量の
メロディに合わせて
眠くなるようなダンスを
踊る

彼女は言っていた
中南米は暴力と犯罪の温床だけれど
この土地はずっと平和
きっと神様がまもってくれている
んだと思う

月曜日
図書館で読む本をカバンにつめて
朝、市場の南側でバスを降りた
まっすぐに伸びる60番通りからは
オールド・プラザのアーチが半分だけ見えて
いつも道に迷わずにすんだ

朝日を受けて空を刺す
カテドラル

石畳の中心地区はさいきん
政府当局の意気込みで
スパニッシュ・コロニアル調に
化粧直しした

その通りに面した
大きな羽根扇風機が回る店で
僕は友達に絵葉書を書いた

6月は雨が降らなかった
乾期の巨大な太陽は夕方
教育学部の正門でバスを待つ
僕の目の前を
見たこともない色に反転させた

帰り道
身動きのとれない
バスや
乗り合いタクシーの列
そのすき間を縫って
放縦にひろがってゆく
ラッシュの人波

排気ガスで壁が黒くなった
通りで
ビンの底に映ったような
洋服屋や新聞屋台のかすんだ
光を抜けながら

さきを急ぐ彼女の横顔に僕は
東洋的な沈着さをみた

学生証があるから大丈夫
と言う彼女の後ろにかくれ
お金を払わずに
街の南にくだるバスに乗った
午前0時

一街区おりるごとに
外の闇は濃さを増し
目だって増えた
道路の継ぎ目や水溜りが
つぎつぎと
バスの車輪を呼び止める

セントロの南
シャッターを下ろした
トルティヤ工場

一列につづく街灯のオレンジ色の光は
半裸のままで空き箱をかこむ
肌の黒い男たちを
ときどき
しずかに浮かび上がらせる

彼女のお母さんは
サンフランシスコ教会の
ちかく
マヤの男たちが
闇にまぎれて泥酔する
街外れのタコス屋で
働いていた

鈍く光る
路上のフォルクスワーゲン
セメントづくりの
低い家並みがつづく路地で

ときおり
エアコン付きの長距離バスが
排気ガスの匂いだけを置いて
遠くに旅立っていった

あぶり焼きの肉からしたたる
脂の熱量が、一日の疲れに盲目な
癒しをあたえている
小さなタコス屋のテーブルで
彼女から
いちばん長いスペイン語の単語を
教わった

メリダ・ユカタン

老婆もヘアピンで蝶をとめる
あか抜けた自然
岩盤の下の水甕にいだかれた
この街で

ひとびとは
脂肪を蓄えるのに余念がない

そして今日も
トラックでやってきたマヤの男たちは
長距離ターミナルのまえで
木箱にならべたガムを売る
40ペソの日当のために

* 注
1.セントロ=街の中心部、ダウンタウン。中南米の都市は碁盤の目のところが多く、たいていその真ん中にカテドラル、市庁舎、広場などがあつまっていて、その一帯をセントロと呼ぶ
2. Ciudad Blanca=直訳で「白い街」、「白亜の街」くらいか。観光プロモーションの文脈で、この街はこう呼ばれることもあるが、地元のひとはあまり使わない表現


姉妹(星空の中で)

  守り手

私の妹は
天文学者ではないので
あの星と
遠くはなれた
あの星を
ひとさし指で結びます
何か、と聞くと
お姉ちゃんのおなかのあとだと云いました
ベッドに腰かけた妹に
そんなに広くないよと笑ったら
すこしだけ痕が
いたみました

私のいない夜に見つけた
気高いひとり遊び

妹の
想像した
星座群が
夜空を
うめつくして
いきます


私が星を見つけると
それをあかない瞳が追います

私たちは姉妹でした

昼も
また夜も


ミルクの街

  ケムリ

夜を蹴とばすバスケットシューズの痛みで
焦げた雨の匂いに避難案内が空を指してた
路上でカノンを弾く女の子は
透き通る指先に鉄のアメンボを抱いてる

爆撃機のベースラインで崩壊する街並み
窓枠から夜の虫が舞い上がっていく
神様は教会でネクタイを締めなおして
うんざりするくらい匂う焦げた夏の雨

おやすみのキスも雨の塩気で錆付いてる
三本弦のギターに止まった白い鳥
夜が明けるころ 子ども達は空へ泳ぎ始める
雲の花が咲いてる 眼球さえ溶かす色彩で

金属質の指なのに なんでそんなに優しい音なのかな
しまい忘れた夏のセーターから匂うような寂しさで
白い水面を踊る鉄の指先から 垂れるミルクの音がしてる
避難標識の指し示す方向へ 光る虫の羽根を集めて

街をミルクが満たしていく
みんな空を見ながら手を打ち鳴らした
ノイズの数だけ確かになる匂いがある
窓から伸びる手と手は繋がっていく

音が満ちて息さえも出来ない
指先は滑らかな水滴のリズムで踊り続ける
長い髪が星を射抜くように揺れて
ミルクの街は沸点さえ越えていく

鉄の味の唇に古代の蛇を這わせて
手のひらに落ちた星を飲み込んだ
願ってもいいならあの子に会いたくて
バス停でずっと待ってるイメージで


襲撃

  

コンクリートの波頭で
私は水平線の大きな射精をみました
どうして男たちは抗うのでしょう
どうして孤独に甘んじないのでしょう
もしかして私が見た大きな射精は
男たちの癒しようもない孤独だったのでしょうか
私は海から出現した
その山のような噴出物に驚いて
もう美や芸術を捨てました
それよりも もっと
身近なものを信じたかったのです
私は自分の買い物籠付き自転車を
今までに増して愛用しました
それでもふっと襲われるのです
夜に白熱街灯の道路をたどって行くと
それが男たちの愛の道標をたどっているようで
私は逃げ出したくなるのです
買い物籠付き自転車を止めて
今日買った物を
ひとつひとつ
泣きながら確かめるのです


Contra- No.558

  コントラ

枕崎の海岸に打ち上げられた記憶は
入管で取調べを受け
入国を拒否された

係官が彼らのシャツをはたくと
砂がぼろぼろと落ちてきた

それは
上陸できずに
浅瀬に埋まっていた
みたされないおもい

あやうく県知事肝いりの
護岸工事で
テトラポッドの重みの下に
沈められてゆくところだった

生協スーパーのまえでは、旗を手にした
主婦たちが集まって
スピーカーで何か叫んでいた
手にしたチラシの山
カラー印刷の光沢をすべる真昼の光線
彼女たちは「子供たちの未来を守るために」
声を張り上げる
「アジアのひとびとと連帯するために」
スピーカーをますます高くかかげてゆく
交差点はかたちを変え
信号機のランプは青から黄色へ、そして赤へとかわる
でも彼女たちの声のトーンがあがればあがるほど
街からは陰影がきえてゆく
公園は無人になる
残ったコンクリートの堆積で
区切られたアブストラクション
そのうつろな質量を「平和」と呼ぶ

天気図は60年前のあの日と
同じ配置をしめしていた
南西にちぎれゆく雲
その親指ほどのすき間に
顔をのぞかせる アジアの島々

ゆるやかに南下する海流
その軌跡は若い兵士たちの足どりを
なぞっていた
目を閉じて足をひたして
流れてゆく

高いヤシの木にまもられた
マングローブの入江
丸太で組み立てられた小さな埠頭で
手を振る男たち

海流はそっといだく
大人もこどもも
ヒステリックな女たちがかかげる
スピーカーも
仏壇に目を閉じ祈る祖母の背中で
振り子時計が8時を打っていた
あの朝も

この国の歴史教科書には海がない
かつて船で見送られていったひとびとが
かいだ潮のにおい、故郷への想いや
はるか遠い世界をみすえたまなざしは
海の底
乱反射するガラス瓶の集積のむこうに
いまも癒えることはない

一夜あけたいま
海岸には土砂を積んだトラックが何台もとまっていた
集まったライトグリーンの作業服の男たち
トラックの窓から煙草をふかし
見つめる先には今日も
眠気をさそう
波ひとつないアジアの海


寝顔

  ミドリ



リモコンで冷房を止めると
舞はサングラスを外し
主食のサプリメントを口に入れる

白いタンクトップの下の
ブラを外すと僕は
乳房をつかみ
強くキスをする

そのまま二人はベットから落ち
椅子で頭を打ち
テーブルの下で
パンツを下ろして
古本のように積み重なる
アルファベットのBみたいに
強く抱く

抑制の効かなくなった体がふたつ
互いを求め合い
ギュッと抱きしめあって
キスばかりしている

電話台で
ファックスの音がして
咳き込む舞が
身を離した瞬間

僕らは群集の中にいた
排気ガスを吹き付けるバス
交差点で立ち止まり
広告の看板の文字が
人々の行動をレイアウトしていく
ローティーンの少女たちが
アヒルのように
ミスタードーナツに入っていく

レジスターがあき
つり銭をジャリと掴む
店員の指
カフェバーでコンサバの女が
薬入りのカクテルを飲まされ
便所で輪姦されている

ソープランドで働き始めた舞は
帰るなりヒールも脱がぬまま
座り込んで泣いている

僕は舞の着替えを手伝って
身体を拭いてやる
タバコを吸った後
少し吐いた舞を
ベットに寝かしつけ
灰皿の上で
火をもみ消した

防音ガラスの中で
ビリビリと耳を這う
地下鉄の工事が
束ねた髪の
舞の寝顔を
乱暴に寝かしつけている


枕を探して

  りす

猫の背中をハードルのように跨いで妹の家へ向かう
枕に調度いい曲線が見つからない
埼玉の猫の質も落ちたもんだ
玄関を塞ぐ妹の背中は 跨ぐに跨げず
つんつん押して 先をうながした
太っているほど 徳が高いのよ
地層プレートがずれる時代
郊外のアパートメントに住む女子労働者にも
高級な思想が滑り込むものだ
高級な妹には高級なお土産
コージーコーナーのデラックス苺ショート
苺がのっているだけでなく スポンジの階層の中に
苺のスライスが織り込まれている 崩れやすい一品
食べるの下手ねえ、育ちが知れるわ
育ちは一緒の筈だが 曲がった角が違ったのだ
おっ、いい枕があるじゃないか
ソファで丸くなるアメリカンショートヘアに顔をうずめる
ああっ、ジュピターに何するの!
ジュピターの背中は香水の匂いがした
昼間は一人でいるの?
誰が?
ジュピター。
持ってくの?
何を?
ジュピター。
猫のマークのダンボールが 壁画のように並んでいる
仲良く二匹 同じ方向を向いて たぶん同じスピードで
五年と三ヶ月かな
ふくよかな五本の指が意外に素早く折り畳まれ
ゆっくりと時間をかけて元に戻る
最初の一歩が早いのに 戻るうちに追い越されてしまう子
狭い場所に車庫入れするように いつも腰のあたりが戸惑っている
やっていけるか?
ジュピターなら大丈夫、適応能力があるから。
猫の背中をハードルのように跨いで家に帰る
埼玉には何でこんなに猫が多いんだ
跨いでも跨いでも夜になると 並んでいる
人が捨てた枕の数だけ猫がいるのだ
だから適当なのを持ち帰って 枕にして
寝てやるのだ
ジュピター、君は枕のように
夢の染み込んだ猫になっちゃだめだ


流星雨の夜(マリーノ超特急)

  Canopus(かの寿星)


海上を突っ走るマリーノ超特急は
どこまでも青い廃虚やら波濤やらが
混じりあったりのたうちまわったりで
車輌の隙間から
夜が入りこんでくる頃には
俺もアンちゃんもいい加減しょっぱくなる。
こんな夜にはどこからともなく
子どもたちの翳がやってくるんだ。
ひとり またひとり。
いつしか客車は
子どもたちの翳でいっぱいになる。

客車の最後尾は
夜になっても灯りが点らない
俺とアンちゃんは
錆びた義肢がやたらに疼いて
この時刻にはすっかり眼がすわっている。
痛みはアルコールで散らすのが
大人のやり方
子どもたちの翳がやかましくてしずかで
どうしようもない星空だ。

あ 流れ星。
夜空にまんべんなく降り注ぐ流星群に
子どもたちの翳は歓声を喚げる。
また流れ星。またまた流れ星。
天をつらぬく光線はそれにしても多すぎて
ケムリがのぼりそうなくらいの勢いだ。

夜空に投影される子どもたちの翳。
祈りはとどまることなく続けられ
流星をすくおうと両手を伸ばして
さっきまで暗やみに泣いてたカラスが
どいつもこいつも
瞳を輝かせて笑っていやがる。

ああ そうだ。

俺もアンちゃんも知ってるんだ
こいつは流れ星なんかじゃない。
空にかつてひしめきあった人工衛星のかけら
そいつの迎撃に発射されたミサイルのかけら
遠いそらの向うで繰り広げられた
過去の無色な戦闘の成れの果て だ。
そいつらが毎晩のように地上に降り注ぐ。

ぼくの手みつかんない。もげちゃった。
ママ どこ? ママ?

アンちゃんが眼を閉じたままつぶやく。
ごめんな。
どうやら俺たちはお前らに
世界をそのまんまで渡す羽目になっちまった。

歓声が遠のいていく。
流星雨がやんで
子どもたちの翳は
騒ぎ疲れて眠りにおちる。
ひとり またひとり。
冷蔵庫のような体型の車掌が入ってきて
窮屈そうに背中を折り曲げながら
眠った子どもたちの翳ひとりひとりに
一枚づつ毛布をかけていく。
子どもたちの翳は
夜に暖められて消えていく。
ひとり またひとり。

車掌が子どもたちの翳にちいさな声で
抱きかかえるように
なにごとかささやきかけるが
よく聴き取れない。


雨の日

  鈴川夕伽莉


空の大きなバケツがひっくり返ったら
広いはずの世界も一度に水浸し
神様の大きな腕によって
洗い流されるべきものについて

あなたは数え上げるだけ無駄だと笑うけれども

雨が洗い流せるのは
せいぜい側溝に逃げ込んだ落ち葉くらいのもの
それすら鬱積すれば
水の流れを堰き止めるだろうと

あなたは傘を投げ出して行こうとするけれども

こんな日は偉大な循環について
考えるべきだと思うの
つまり
決して乾くことのない戦場から
せめて血液の匂いを洗ってやれないかと
バケツはひっくり返るが
水は一般市民の遺体で目詰まりした街から
流れることが出来ず
神様は次の手を打つ
わざとらしく雲を蹴散らして
血液もろとも蒸発させるわけ

それらを
少しも傷つかないふりをしている
街の空に降らす
つまり
平和ボケしたから次は戦争がしたいと
望んでいる人の需要を満たせないものかと

あなたの

口を開けて歩く癖が
直らなければいいと思っている


血みどろ臓物

  一条

あたしは、公園の滑り台の上に突っ立っている。中指は半分隠されて、連中の具体的な財産を狙っているバイク野郎は、ヘルメットを違うふうに被って、日差しがあいつらの横に大きな影を作った。長い時間が来ると、あたしの国は、白髪の紳士に骨抜きにされるんだけど、その頃にはとっくに、なんだか新しくて、あたしたちに変わる生き物が、あたしたちを支配しているんだって、あたしのママが言ってた。暴走族はバイクを乗り捨てるし、乗り捨てられたバイクが都市開発のあおりを食ってゴーストタウン化した街の入り口と出口付近で、自主的に衝突してるって話は、都市伝説の一種に過ぎないんだけど、そんなことより、いつの日か、あらゆる利便性があたしたちの個性を追い抜いていく。あたしがここにいる、という確かな実感が、確かな確からしさを無邪気に担保するのは、あたしがここにいる、という実感でさえここじゃないどこかに保管されているということ、に置き換えられてしまっている。あたしは、なんだか、夢中になって、片っ端から与えられた書物のページをめくった、それで、あたしがあなたに与えることが出来るのは、ページがめくられるたびに生起する風の音だけ。そうやってれば、いつかどこかに辿りつくと思ってるの。そうやって、ひたすらページをめくってれば、どこかに保管されているあたしに辿りつくと思ってるの。あたしの脳みそに最新の電極をぶっこんで頂戴。Aの次はB、Bの次はCだから、あたしは、公園の滑り台の上に突っ立っているから。あなたの腕は、まぬけな男みたいで、白髪の紳士が骨抜きにした淑女みたいで、その腕にからまって身動きがとれなくても、ママは、そこらにケチャップをぶちまけて、気の違ったやり方でくちびるに口紅を塗りたくっている、ママは、巡回セールスマンとの乱交の白昼夢にびっしょりだけど。あたしが育った街に、あたしが生まれた面影はない。公園の滑り台の上に突っ立っているあたしは、いつの日か、暴走族になっているの。あたしは誰よりも速い暴走族になって、ストライクを三つ見逃して、いなくなる。あたしが、いなくなっても、あなたはあたしのこと、覚えていてくれる?


アトリエ

  ミドリ



紙をこする
チャコールの音が響く部屋
モデルに雇われた猫は
ねむたそうに欠伸をしながら
裸体をテーブルの上に広げている

デイバックから化粧道具をとりだし
バスタオルを巻いたもう一匹の猫が
テーブルの上に座る
ワンピースの猫と目をくみかわし
モデルを交代するワンレングスの猫
東京出張のとき
新宿でつかまえてきた猫だ

トートバックから
BALのトゥモローランドで買った
黒いカーディガンを羽織り
ほかの猫のすきまにお尻をいれる
人間で言えば
高校生くらいの彼女

緩いウェーブの髪を
ひとつに纏めた猫は
先月 栃木から家出してきたばかりで
まだ右も左もわからない京都で
途方にくれていた
五重の塔の縁先にねぐらを構え
夜の7時になると
京都駅八条口でアコースティックギターを奏でる
その曲に集まる
まばらなサラリーマンの目

昼間はスーパーの山田屋でレジ打ち
夜は男のアパートで洗濯もん
深夜には
信じられないほど乱暴に抱かれたあと
ポテトチップスうす塩味を指先でかじりながら
深夜放送を観て三角座り
「大事なことが見つかった」
そう残して去った男の背中を
アトリエの窓枠の外に見つめつづける22歳

時々 信号で車をとめて
歩行中の猫のあとをつけて行く
鼻先に煮干をつんと近づけてやると
たいていは5秒から6秒のあいだに落ちる
小脇に猫を抱えこむと
車の助手席に放り投げ
あとはアウディのアクセルを強く踏み込む
猫の瞳のなかに映りこむ街角や世界を
センターラインの向こう側へ
徐々に傾けながら


最初の子ども達へ

  ケムリ

ブランコを漕ぐ子の足元に
光る羽虫の大河が揺れて
彼らはひかりの中で
まぶたを失うところから生まれて来た

崩れかけたビル群の屋上で
背中のない風が群れている
無線機のコールサインを思い出せずに
ずっと落陽を続けている

目のない魚の背びれの数だけ
星と星を麻糸で繋いでいく
珊瑚のふりをして目を閉じたのは
あたたかだったときを思い出すひと達

化石になった羊歯の葉が
時計塔の丘で揺れている
地平を小さくノックしたなら
終われない子ども達の影ふみが聞こえて

羽根で泳ぐひかりの虫
子ども達を抱いて流れていく
あの子の足元に
落ちる光の交差する場所に

ひかりの果てへ 最初の子ども達と
背中のない風の群れを抱いて
まぶたのない夜に眠れ
世界はあどけなく それでもひかっている


夏風邪

  光冨郁也

 わたしは失業し、夏を迎えた。記録的な真夏日が続いている。ここしばらく風邪をひいていた。咳が出る。寒気がする。頭の中に響く女の声は聞こえなくなっていた。冷蔵庫が空になったので、久しぶりにアパートから外へ出た。いつも通う空き地の車は知らないうちに撤去されていた。薬を飲むが、いつまでも治らない。午前中はベッドで過ごし、昼空腹になると外出した。浜辺を歩いていたら、どこかで神話の本をなくしたことに気づいた。あの本には思い入れがあったのに。図書館、マンガ喫茶、アパートの道のり、いつもの浜辺をさまよった。読むべき本を探すが、わたしのために書かれた本はどこにもなかった。買ってみたけれど、携帯電話には、迷惑メールばかりが百通以上届いている。
 風邪をひく前は三度、倒れた。内科医に相談すると、神経のせいではないか、と言う。まわりに光の筋がいくつも見えはじめる。その光に囲まれ、わたしは倒れる。わたしはいっとき空白になる。精神科医は首をかしげる。
 空き地の車がなくなり、本をなくし、わたしに話しかけるものはなくなった。わたしは誰にも相手にされなくなり、抗不安剤が一種類増えた。言葉を忘れてしまいそう。生活のため毎日、少しずつ預金を切り崩して、そのうち何もなくなるのだろう。わたしは携帯電話の受信メールをすべて削除した。

 マンガ喫茶の帰り、薬局で風邪薬をまた買って、空き地によった。空き地、真ん中にタイヤだけがある。いつものようにタイヤの上に座る。もう女の声はしない。波の音も風の音もしない。自分の呼吸の音さえ聞こえない。日が照りつけているのに、わたしは寒い。捨てられた車の中で見た、女の姿を思い出す。思い出すが、どうにもならない。

 わたしが運んだ流木の林がある。はじめ引き上げたときは黒く濡れていたのに、みな白く乾いている。林の向こうには鈍い色の海があり、その上には空白がある。手を伸ばせば空白に届くかもしれない。そう思っていたときもある。咳をしながら、浜辺まで歩いていった。女の声を思い出す。言葉にならない声。閉じた空間に、風が響いているような声。本はあるだろうか、どこへ行けば見つかるだろうか。空き地、道路、砂浜、波、水平線。空の空白と海の深さが混じり合うところ。わたしの胸の空白からも、とぎれとぎれの咳が出る。

文学極道

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