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fiorina

選出作品 (投稿日時順 / 全17作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


雨の庭

  fiorina

雨が降ってきた。
やや強い降りになると、雨よけの庇は役に立たず、錆びた鉄の階段は濡れて滑った。手すりを伝いながら彼は一段ずつ慎重に足を運ぶ。古い木造アパートの、二階のとっつきの引き戸が細く開いて、女の顔が覗いた。
女は時折、窓辺の花をすっかり入れ替えた。30センチほどの奥行きの半間のバルコニーで、今雨に打たれているのは、7、8株の丈の高い白と紫のアヤメである。しどけなく開いた大輪の花びらに、雨は容赦なく沁みていき、深い緑の葉を光の雫が間断なく流れる。その窓から、ひと間の和室は深い沼へと沈み、降り続く雨音を遠く追いながら、彼らはひっそりと触れ合い、互いの魂の底に落ちていった。

     * * *

老人は枝折り戸を押して細い道にはいって行く。両側の竹垣から山吹の葉が小道に向かってつんつん伸びている。既に開いた一重の黄色い花びらの間から、無数の固い蕾もまた、先端に蛍のように黄を点している。こうして花々は無言に、次の朝を、季節を、老いの命にも約束する。道の突き当たりに格子窓があり、どこか不釣合いな古びたレエスのカーテンが、中ほどまで垂れている。その下に置かれた青い縁取りのランプが、レエスの複雑な編み模様を浮かび上がらせている。夕闇が迫るにつれ、ランプの芯はオレンジを濃くし、傘のブルーを深くし、白いレエスの影を妖しくしていった。その窓に向かってゆっくりと歩を進める瞬間を、一日のうちで彼は最も愛おしんだ。こうして帰ってくるために、午後の散策を欠かさないのだというようにーー

食卓には、質素だが明るい手の届いた夕食が整えられ、既に食べ物を与えられた老猫が、目を細めて板の間に丸まっている。手伝いの女は、必要な家事を済ませ、食事の支度を終えると、決して彼と顔をあわせることなく帰っていった。その女が来るようになって、庭の景色が少しずつ変わって来た。(雨の庭に欲しいのは・・・)ふいに声がする。



雨の庭に欲しいものは・・紫陽花 芙蓉 ・・ボケ アヤメ ・・・・
     睡蓮 山吹 ・・竹に苔  ・・・・・
  下野 白バラ・・・・秋海棠 と 藤袴



まだ若い、身の定まらない日々に暮らした女がいた。
女は、ある日忽然と彼の元から姿を消し、それが置手紙とでもいうように、窓に吊るした一枚のレエスと青いランプだけを残した。彼は驚き、愁傷し、手を尽くして探索したが、やがて捜すことをあきらめてみると、女の去ったことが至極自然であるのを感じた。ランプの明かりのように、ボウと霞んだ女との日々が、彼の中に喪われていないことも。女は白い一塊の雲で、その頃彼を苛み、滅ぼそうとしていた黒い太陽をつかの間さえぎってくれたのだった。女が去ったとき、再び現れた太陽は、幼年期の白いまぶしい輝きを取り戻していた。彼の耳の奥で、絶えず鳴っていた蝉の羽音は静かな雨の音に変わっていた。



幾人かの女を愛し、生死の離別を重ねた間にも、彼はあの女が思いついては歌うように呟いていた雨の庭の花を、彼の中に降る雨に咲かせていた。(でも、雨の庭に一番欲しいのは・・・)女が言い終わらないうちに抱き寄せた夜に、聞き逃したただひとつの花の名を除いて。

     * * *

暮れ残った庭に向かってひとり箸を動かしていると、また声が聞こえる。彼は耳を澄ます。いつの間にかまた雨が降り始め、猫が目を開いて彼を見ている。(お前も聞いたのかい?あの声を)彼は問いかけ、自らうなづいたが、老猫はむしろ彼の心を聴いているのかもしれなかった。
その一夜を雨は降り続け、明け方になって止んだ。子どもがわっと泣いた後の眼に映す世界の美しさが庭に満ち渡っている。いつの間にか、群生する青い竹と竹の間に、新たに一元の水引草が植えられていた。丸い水滴を宿した尖った竹の葉を縫って、朝の光が水引草の赤い点々を浮かび上がらせている。一度雨に沈み、光によってふたたび蘇ったそのあまりにも鮮やかな朱は、彼岸とし岸をつなぐきづなのように、懐かしい痛みを、彼の瞳に滲ませた。


早春

  fiorina

水脈が 震えながら
その行方を探している

私は迎えに行った
小さい夜に

ー私は感じる
大地はどのように春を耐えるか

月光を誘う
密やかなざわめきを宿して 梢は
 どのように眠りに触れていくか

輪郭を持たないおまえの季節を
憧れが
どのように苦しめているかーー


夜半に

  fiorina

   いさかいのあと
   夜半に林檎をむいて
   夫と食べる
   少し傷んでいて甘い


   にんげんも
   この方がおいしいかしらって言ったら わらった
   一九年いっしょに転がっていて
   わたしたち
   すこしだけおいしくなったのか


   あなたにも
   傷や汚れを厭う季節があって
   あのころはふたりして
   沈黙の しぶい果汁をなすりあった


   傷んだ林檎のとなりの林檎が
   触れあった一点から
   いつしか損なわれていくように
   まろやかになってしまったね
   耐えきれずに


   今夜
   変色したその一切れを
   黙って口に運ぶ
   あなたのなにげなさは
   わたしが
   獲得したものなのか
   うしなったものなのか


   いさかいのさなかに
   忘れられない記憶の夜をたぐり寄せて
   わたしが黙りこむと
   すさんだ視線のさきをそらす口調で
    (いつか観た映画の)
   「死の棘」みたいだねっていったりするから
   わたしは
   表情をくずせないまま
   和んでしまう
   そんなわたしたちの棘は もう
   死を孕まない?


   なじんだ暮らしの舌に
   ときおりしみる記憶のように
   とがった夜の先端が
   そっと触れているものが
   歳月という厚い実に抱かれた種子のような
   かなしみと やさしさを
   思い出させるなら


   皮膚のうちがわに棘を包んで
   すこし病んでいること
   すこし傷ついていることは
   わたしたちの希望だ


祈り

  fiorina



かまどの火がはぜる 早朝のくりや(台所)で
家のあちこちに祭ってある神と仏に手を合わせる

ご飯が炊きあがると
真鍮の高台の小さな器に六つ
こんもりと盛り上げ
朝ごとに供えた
おなかの空かないらしい神様たちの残りを
温かいおひつの隅に戻して食べるのが
祖母と母の朝食だった

一年に一度
神や仏の道具はていねいに縁側に運ばれ
父の手で白い液体をかけて磨かれる
子どもたちも手伝った

傾いていく家で
思いがけない現金が残った年、仏壇だけが豪華になった

そんなにまでしても
不運は次々と家を襲った
世代が代わって明るい兆しのように生まれた子どもも
二つになったばかりで海に浮かんで発見され、
傍らにいた小さい兄が、心を病んでいる
暗い影は今も、大きな瓦屋根を覆っている
その周辺で諍いを重ねた大人たちは
皆仏壇の中に入って
祈りは形ばかりが残って

朝夕に遠く近く
手を合わせ続けた祖母と母
あれは何処に届いたのだろう

甘えん坊で怒りん坊だった私の兄は
悲しいほどやさしくなった


  *


異国の町で
私のあだ名は「ひとりぼっち」だった
バスの窓から家々の庭に見とれ、終点で降りると
決まって山道に一人取り残されている

けれども
木々の間から
深い瞳のような空が現れるとき
祖母や母の祈りが
祈りを知らずに育った私の上に
ふいに降り下るのを知った
走り過ぎるバイクの群れが
「ボン・クラージュ!(頑張れよ)」と声をかける

夕暮れの町におりると
行き過ぎる若いふたり連れが
「ひとりぼっち」と、ささやいては振り返る
優しくもなく 冷たくもなく


  fiorina

さようならの せなかを押した

 海がいってしまった
  魚たちがのこされた

そこに 海が あったことを
かなしいめがおしえる

ごめんね
どうしてやることもできない
 ふるえを止めること
 乾いた目をとじること


せめて 
魚よ

おまえに声があればいいのに
記憶があれば

そのちいさな頭に満ちている海

さいごの痙攣がやむまで うたうといいよ


  むかし ここに うみがあった
   いつか しぬことをしらずに
     わたしは うまれた


【シャルロットの庭】

  fiorina



英国キューガーデンの一隅に
夏季だけその扉を開く小さな庭がある
広い園内を歩き疲れた頃 偶然たどり着いたのだ


入り口に置かれた木の長いすに
銀髪の婦人が斜めに腰掛けて 新聞を読んでいた
古い手紙を読むにふさわしい 夕暮れの
人気のない庭


痩せた少年の庭師が
紫の花株を手に
花をおいてはすこし離れて眺め
新しい場所を物色していた


一足踏みいるごとに 私は胸そこからの感嘆の声を呑み
足の疲れを忘れていった


流れていない音楽が
詩人の瞳が
死んだ恋人たちの 笑い ささやきが
一刻ごとに訪れては
去っていく


花のいろの沈んだ華やぎ
門柱
白いオブジェ
藤棚のトンネルを抜けると 小径は小高い丘へと続き
ふいに凍てついた遠景を見せる
重い雲が彼方の光りを包んでいた


2001年9月12日
新聞を読む人の眼が 何を見ているかしっていた


私たちを襲うもの


その予感も
起きてしまうことへの戦慄も
不意に自身がその渦中に置かれることも
遠く知ることも


此処でなら
私は・・・


いつか最も美しい場所も瓦礫になる


此処でなら
わたしはいい


ひとに用意された惨劇を知りながら 何一つ変えることができないとしても
それが起きるに相応しい 最も美しい場所をあらかじめ用意すること


此処でなら と死者が思い
あなたとなら滅びようと 場所がほほえむ
私の庭を領土として拡大する
そこに生きる時間を注ぐ


それが私の報復だ


春の手紙

  fiorina

     さよならの風景は
     あまりにも似ているから
     昨日桜の樹の下で
     だれに手を振ったか
     わからなくなる
     郵便配達が燃やした手紙が
     風に吹かれて
     わたしに届いた
     燃えるよりほかに
     仕方のなかった文字が
     煙になって流れてきた
     紙の上にあったときよりずっと上手に
     わたしはそれを読んだ
     郵便配達の使命は
     手紙を配達しないことだ
     届かない一通の手紙から
     文字は溢れつづける
     けれど
     その手紙をだれが書いたのか
     わたしは知らない
     もう知りたくない


黒子(ほくろ)

  fiorina

父はきょうも縁側にいる。秋の薄い陽が射す柱にもた
れて、おかえりと笑う。

雨が降っていた。四角い荷を負って薬売りが来た。父は
棚から下ろした朱い箱を薬売りにさしだした。
その箱のいくつか欠けた薬のために、薬売りは金を請求
した。父は窮し引き出しをあさった。払いはするが箱を
引き取ってくれと苦々しくいった。薬売りはあとじさり
した。へらへらと去ろうとした。父は怒りたち、胸底の
塊をことごとく怒りにかえて、烈しくかなしく雨に打た
れる薬売りを罵倒した。薬売りは逃げ去って朱い箱のそ
ばに父は残された。

父は歌を詠んだ。療養所から歌の便りを寄せた。我が家
の山の青い蜜柑のことなどもうたった。こどもの知らな
い文字がいくつかあった。意味もたいていはわからなか
った。わからないままノートの新しいページに書き写し
た。その歌も写したノートもいつか失った。

ゆるされて家にもどった父は、どこからか内職を請け負
ってきた。居間の隅に積みあげた竹細工のさびしい光景
を祖母は厭い、背を丸めて余念ない、父の鮮やかな指の
動きを、祖父は憎んだ。祖父と祖母のこころは見えない
力で他の家族に伝播した。

また父はどこからか山羊を買ってきた。朝夕に、海辺の
道を山羊と歩んだ。日暮には手を蹴られつつ乳をしぼっ
た。その草の匂いのする乳を、鍋に温めて皆にふるまっ
た。

父は風呂に入るのを好んだ。風呂上がりに静かに横たわ
るのを好んだ。その白い肌のほくろを、父の全身にまつ
わりついて娘は数えた。ほくろは百もあった。それは遥
か幼い日の記憶。いま父は、ひっそりとしまいの湯に入
る。しまいは七番目。七番目に皆もう入ったかときいて
から入った。七番目であっても風呂に入るのを好んだ。
父は美しかった。

父は七十一にして逝った。病院と家とを往き来して、七
十一まで生きた。けれど兄姉の、五人の孫をついに抱か
なかった。ほほえんでさびしい距離を置き続けた。その
最後のひと月を思いがけず健康体と保証された。うつる
病を脱したと告げられた。父は驚喜し、体を鍛えようと
した。母に数かずの夢を語った。死の前のひと月を生き
た。

父の心臓はひそかに弱っていた。ある夜更けひとり起き
だして何ごとか酒にまぎらしていた。それは痛みだった
か不安だったか。その朝に果実をのどに詰まらせて父は
死んだ。

父の骨はなめらかに白い。その白い骨の一点にしみのよ
うなものを見つけた。病んだしるしの黒いあと、とだれ
かつぶやいた。ほのじろい生の日のさまざまな記憶、そ
の一点に集って、ああ、ここにまだひとつほくろがある
と、わたしは思う。


  fiorina


     ありよ

     命を守るために
     おまえに与えられた毒は
     そんなもので よかったのか

     わたしの指先を
     小さく刺しただけで
     バラバラになったおまえ
     おまえの不意打ちを ゆるす暇さえ
     わたしに与えず

     一度の嘘を
     あのひとは ゆるさなかった

     寂しさのなきがらになるまで
     わたしに与えられた毒を
     使ってはいけなかったのだ

     どんな命も
     そこにつながる 弱いところを持っている
     その傍らに
     ひかる武器がおかれているのだ
     少量の毒が

       おつかい

     と囁くように

     あなたの指先を
     小さく刺しただけで
     バラバラになったわたし

     わたしの不意打ちを ゆるすひまさえ
     あなたに与えず


段階

  fiorina


     また死んだ・・


       死体がつぶやいた


     どうしてこんなに
     なんども死ぬんだろう
     死は一回だと おもっていたのに

     ということは
     遠いむかし死んだおばあちゃんも
     今でもまだ ときどき死んでいるのかな
     そのたびに少し苦しんで


     いつになったら
     もう死なない死がくるかしら
     なんて 首かしげながら


     よろこびがある間は
     生まれつづけたように
     くるしみのある間は
     死につづけていくんだろうか    愛も


     おばあちゃん
     何度もなんども 死にながら
     あとからいくね
           わたしも


     何度もなんども 生まれながら


(無題)

  fiorina


【PARIS】



中世クリュニュー美術館で
膝小僧を抱いて床に座り
女性館員の説明を聞いている小学生の一群れがあった


 質問はありませんか?


促されて少年が金色の頭を傾けて何かを問うと
めがねの奥から女性館員が静かに答える
少年の甲高い声が中世をゆく
わたしは彼らに背を向け 羨望のパリを旅する
そして問い続ける
旅の間中わたしを幸福にし不安にしている美について


美術館の外で 明るい光を浴びるともう少年は問わない
彼が見たものを
けれど 夕暮れのまちまちで 公園で
無言の解答が彼を包む
郊外で 一つの庭や窓で 木洩れ日で
・・・・音楽で
駈けてくる少女の髪飾りの軽やかさで
レースのカーテンがやさしい重みで訪れを待つ部屋の
密やかさで

     
彼に囁く


 「美は怖るべきものの始めにほかならぬ」*


彼はゆっくりと目覚める
膝小僧を抱いて考える
ここに自分が付け加えることのできるものの
あまりに小さいこと
愛するほか 何も残されていないことを


彼は愛する
この人生を


いつかもっとも小さな断片が
苦悩と甘美さにまみれた彼の生涯として
少年の日に見た一角獣の不思議さで
街の尖塔にそっと付け加えられる日を


夢見る

        *註リルケ「ドゥイノの悲歌」から




【青い村の物語】


スイスとフランスの国境に
名の知れぬ青い花が咲き乱れる村がある
それはどの国にも属していない
わたしの村だからである


わたしが村長であることは誰も知らない
わたしが囚人であることは誰も知らない


「すべてのソリューション(解決)を美を持ってせよ」
これが村のただひとつの法律である


そこでは一日のうち3時間だけ人々が働く
労働人口の90パーセントは庭師
彼らは村内を遠慮がちにめぐり
家人とともに
花の手入れをし
樹の下で
たとえば新しく村に建つ家の
窓の形について議論する
窓辺にどの木を植えると
木洩れ日が最も美しいかについて


ある日
青い花の散る一本の小径を
郵便配達の自転車が一冊の本を積んでやってくる
すべてのソリューションを正義をもってした人の
わたしがそれを読み解くには
一生を2回生きねばならない
そんな本を
作者はわたし以外の人々のために
それを書いたのである


かつてわたしは
ベートーベンの恋人を羨望した
あえない時間に
音楽という贈り物を受け取り続ける幸運を


あるいは
辞書を編纂する言語学者の愛人であったら
と願ったことがあった
未知の言葉に遭遇するたび
辞書のページに彼が現れて
生真面目に講義をする


今わたしは
音楽よりも辞書よりも
幸福な待ち時間を受け取った


わたしの村では
みんな何かしらそのようなものを持っていて
待っている時間は決して腐らない
誰も忘れようとしなくていいのだ


いつか
わたしの愛する正義が深い疲労を感じるとき
この村に
わたしを訪れることがあるだろうか
村の入り口で車を乗り捨て
郵便配達に案内されて


その日のためにわたしは探す
千一夜の女のように 明日に命をつなぐうたを


いや彼はわたしを忘れ
一通の訃報だけが届くだろう
そして
村に青い花が咲き乱れる次の季節のために
わたしは明日生きることを欲するのだ


失語

  fiorina


どんな言葉にも
哀願のような声がか細い手を伸ばしてくるから
私は青草の一つさえ
手折ることをあきらめる


もうひとりの私が
切り通しの道を空にむかって歩く頃
読みかけの本のページで
きみが不幸になっていく
何世紀も前の私を救おうとして


シャルロットの庭*

  fiorina

2001年9月11日の午前、私はパリ発の飛行機でロンドン、ヒース
ロー空港に向かっていた。(隣の席にアラブ系の女性が子ども連れで乗
っていた。)


私がそのことを初めて知ったのは、翌12日、ロンドンの宿を出る時で
、最初はテレビに映っている光景か何を意味するのかまるで理解できな
かった。受付にいた日本女性が説明してくれて、ようやく事件の一部を
知った。


その足で市内に出かけ、午後にはかねてから行きたかったキューガーデ
ンを訪れた。日本のテレビでしばしば紹介されていた庭園は、広大さは
想像以上だったが、期待したほどの感銘は受けなかった。もっとも、私
がまだ見ていない場所が、かなり残されていたに違いない。夕刻になっ
て、痛い足を引きずり、ほとんど迷子になりながら辿り着いたのが、「
シャルロットの庭」と言う夏期だけその門を開く小さな一角だった。既
に閉園近い庭に観光客らしい人影はなく、かなたに太陽を包んで重い雲
がかかっていた。入り口付近から幻想的な美しさで引き入れるような庭
のたたずまいに、足の疲れを忘れて踏み入った。


木のベンチに銀髪の老婦人が斜めに腰掛けて新聞を開いていた。古い手
紙でも読むに相応しい庭に、それはひどく不似合いな光景だった。新聞
の記事が何であるかは容易に想像が付いた。


庭は美しかった。
さっきまで見てきた場所もそれなりに美しいと言えるのだが、似て非な
る何かが領していた。あまりにも美しい場所というのは、死の気配がす
る。私はその庭を愛した人々の魂や、まだ其処かしこに見開かれたまま
の瞳、死者のささやきを木立の陰や自分の背後に感じた。花々の彩りは
むしろ沈んでいたが、夕暮れを押しとどめる華やかさがあった。


私と老婦人の他にもう一人いた。その庭を任されているらしい園丁だっ
た。彼もまた庭に相応しい美しい金髪の若者だった。けれども、異常に
痩せて蒼白な皮膚の色は、当時話題の不治の病を思わせた。彼は掘り返
した紫の花株を手に持って、新しい場所を物色していた。そう言う単調
な作業が、どのような歓びに溢れたものかを私もいくらか知っている逡
巡を、庭に溶けいるような静かさでくり返していた。おそらく庭は彼の
心の色でもあるのだった。


彼は新聞の記事を知っていただろうか。知っていたとしても、この庭の
中には、その記事の殺伐さは入ってきようがないのだと私は感じた。た
とえ、この場所までもが破壊されるような事態が起こったとしても、こ
の庭に息づいているものを誰も破壊することは出来ない。彼が配置し、
育て、染め上げた心の色を、今というこの瞬間を、誰も破壊することは
出来ないのだと。もし、私の想像通り、彼が不治の病に冒されていると
したら、その憂愁の中に最後の時まで、限りない憧憬として、心として
あることを、シャルロットの庭はやさしく見まもるにちがいなかった。


夜空の彼方

  fiorina

少し遅れて教室に入ってきた洋平先生が言った。

「さっきのクラスでね、一升瓶にためた水を捨てて、みんなで片付けようとしてたんだ。
すると、ひとりの男子生徒が、逆さにした一升瓶のおしりをこうやってぐるぐる回してるんだ。
どうしてそうするの?って聞いたら、
わかりません、ただ、こうすれば早いんじゃないかと思って、というんだよ。」

先生は口をつぐんで、少し頬を紅くした。
生徒たちは、突然の謎のような解答のような話を黙って聞いていた。
そして
洋平先生はきっと、理科の先生であることが嬉しかったんだ、と思った。


        *


数学者と物理学者の偶然の出会いから、遥かなる素数の謎が解明されようとしている。

この宇宙の最も小さいものと最も大きなものが螺旋を描いてつながっている。

星空を見上げる私の目に、

回転する一升瓶の口から光る水流が勢いよくほとばしる。

洋平先生と私たち、あのとき出会ってましたね。

渦巻きって、やっぱり偉大でしたね、と、

認知症を少し患ったあとで亡くなったという先生に語りかける。


(少しなおしました。16/03/09 23:15)
(元に戻しました。16/03/27 16:58 )


永遠の魚

  fiorina

        わずかな時差があるのだ
        あなたの声がとどくまでの一瞬に
        わたしの裏切りがあからさまになる
        夜ごと
        祭りの場にひきよせられて
        わたしを守る沈黙に
        逃げ込めない

        うたい
        おどり
        火に追われて
        それでもきらめいていた
        いちずという名の やいば

        あいだけが持つ
        やいばがあるのだ
        やさしさがその刃を研ぐ
        さいごにころすために

        呼ぶこえ
        せめぎあうなみだ
        の いちずを振り回したあとに

        抱く腕は
        じぶんをまもるためにあるのではない
        と 知った

        知ったおんながいちずを捨てた すてた朝
         いちずに泣いた

        やさしさのなきがらよ
        しあわせになってね
        うらぎりが追いつけないつかの間だけ
        まもってあげる
        いのちの砂から
        つめたいあなたを洗う 波うちぎわ

        記憶のとどかぬ 海からの声
        身をていして
        さかなたちが

          いきよ    という

        そのように



               *旧作


フェノ−ルフタレイン

  fiorina




  −この試験管のなかの透明な液体が
   アルカリ性であることを証明せよ−

   試験管に
   一滴のフェノールフタレインを落とす
   液体が桃色に変わると
   アルカリ性は証明される


理科の時間に指名され
試験管の液体を
フェノールフタレインの瓶のなかに
誤って落とした
あっ と先生が叫んだとき
ひと瓶のフェノールフタレインは
桃色に変わった
小さな過失
(実験は成功)
見守るクラスメートの瞳に
アルカリ性は鮮やかに証明され
わたしの記憶に
取り返しがつかない ということの実感が
せつなく刻まれた

   *

「そのとき きみは
幼い手で
きみ自身を証明したんだ
千回試みることのできる量を
一回で使い果たす
小さな過失のふりをしてね」
笑った後で
「瓶のなかの未来をたいせつに」
預言者のまなざしを 残して去った
(さよなら わたしのフェノールフタレイン)


過失が証明したもの


この血のなかに
身を傾けて
未来という瓶に躍り込もうとする
衝動の一滴がある
千回試みることのできる愛だって
一夜で使い切る
心細い一滴がある
その一滴のなかから
なつかしい声が聞こえる

「瓶のなかの未来をたいせつに きみ自身を」

   *

ゆうべ
空いっぱいのフェノールフタレインが
桃色に変わった夢を見た
冒されていく草原を
もう逃げられないふたつの心が
空の色に染まりながら 滅びた


誰かが
何かを証明しようとしたのか
過失のふりをして


泣いて目覚めると
ガラス戸の向こう
透明な朝が置かれていた
新しい 無数のあやまちのために


とおる

  fiorina



とおるの祖母は 大連のおかる
村でおかるばあさんと呼ばれた日
昔日の面影双眸にひそめ
巾着のような口もとを文句ありげにとがらせて
ぜんそくの激しい発作の間も
長キセルを手放さなかった

大連を引き上げ
縁組した養子に嫁を迎え
とおるが生まれた

とおるは
あおい形のいい頭と
澄んだ眼をしていた
小児麻痺で
片足をしゃくるように引きずって歩いた

村の外海に砂利船がきて
クレーンで作業した日
子どもと 守りをする年寄りが
防波堤で見物した

突如
鶏の鳴くような絶叫がこだました
とおるが海に落ちたのだ


わたしは
海に落ちたとおるも
その救いあげられた様子も見ていない
ただ
島を背景にしてクレーンの黒い腕を斜めに突き出した砂利船と
なにかを烈しく呪いながら
防波堤を端から端まで狂ったように走る
おかるばあさんの姿と声を
記憶しているばかりだ

おかるばあさんはとうに逝き
四国の大学に学んでいたとおるが
海に落ちて死んだ
自慢の愛車で自分から落ちていったのだと


とおるの祖母は
大連のおかる
とおるは
あおい形のいい頭と
澄んだ眼をしていた

文学極道

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