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  1. 65 : [返信]  玄こう ('16/11/03 02:25:44 *1)

        
     主体を喪失した詩文
     述語形式のみで書かれた物を読むとそうして、実体を失い現象論にばかり収斂されていく有り様、そんな詩の世界観をみる。……(*)

     我々は、(詩も言葉も)=(絶対性や信や実…などが言葉として希薄なまま、多くの物事に接し生きて暮らしている → 相対的な配置ばかりを我々は感じ考え、それらを当然の世界観としそうしたなかから産まれる美意識。

     一般投稿板のある作品にもたまたま、先日(*)と似た内容のレスをさせてもらいましたが
     一度、発起人さんにもこの問いかけについて、どう感じ考えてられるのか。をお訊ねしたくレスさせてもらいました。
     こちらの作品もですが、述語形式だけを書き連ねていく仕方について、そうした詩文に、私はかなり否定的までもいかないが、けっこう懐疑的な考えを持っています。

     イメージを描写する、頭のなかで思い巡らす、錯綜、読者各々が自由に楽しんで読んでくだされば、という。そうした「イメージの娯楽装置として」今や、詩がある。


     掴みどころのない、ウヤムヤで朦朧としたものが、塁塁と産出される。読む側もそんなものが好まれがちだ。そんな詩がたいへん多いし、たいへん好まれているようですが、

     そうした作品にも、いや自分も、ある一面いい部分もあるだろうし、が正直。それだけではダメだろな。と感じ考え思い悩む。

     長くそのへんに疑問を抱きながら、なんか『抜けている』、日本の詩や現代詩になんか足りないものがある。だが決定的な確信が持てないまま長く悶々としていますね。

     そのへんを批判できている方。今の詩の批評人で、そうした論評をやっている方。できたら教えて欲しいぐらいです。(まぁ自分で探しますが。)


     勿論、詩という分野に囚われず言語社会、言語思想と並んで、そこらでも考えていくべき根本課題だろうな。と私なんか考えていますが。

     みつとみさんは、その辺(*)についてどんなふうに考えていらっしゃるのか、ご返答できたら………、と。(ご無理でしたら無理にはお願いできません、スルーしていただいても、かまいません。)

     今回、この作品の中身に言及しませんで、どうもすみません。
     不躾なレスで、失礼しました。

  2. 64 : [返信]  玄こう ('16/08/12 20:48:51 *3)

     二回頑張って読みました。率直に申しますと私読者は、この詩に感想を促したいほどの好さや、誰かに読ませたいために批評を付すことや、詩のなかから何か?、輝かしいものを掘り起こしたい、掘りあてたい、という解説も、出来ない、したくもない作品でした。

     すみません酷評になると思う。

     詩の流れが一環しているようで一環していない。
     “詩の流れが一環していないようで実は一環している。”という後者の、良い意味での詩の文体の流れが非常に弱い気がします。
     云いかえるなら、“詩の文体が貫徹し、きちんと流れている。”そうした流麗さがこと足りないと感じました。

     センテンスを部分的に具体的に挙げて、それを示すほどのことでもないですが、その要因のひとつとして、一文一文を精確に記そうとする素振り、にあろうかと思います。

    >指が くらがりの底に 沈んでいきます/あなたに 知ってほしくて/わたくしの肌を うすく一枚そぎます/そうして あなた の 指 が しずむ とき/わたくしの腕に 目がひとつ生まれます/わたくしの肌が そがれるとき/わたくしの脚に 鱗が一枚うまれます/わたくしが たくさんの目をもつ魚となったとき/あなたは/ひとつの洞窟につつまれた湖となって/暗い底から光をたたえます

     詩に出演するあなたとわたくしとが水面で言葉とともに戯れる様子。こうした文でも感じるのです。特に目に付いたのは、>ひとつ、一枚、たくさんの、ひとつの、まるで後からくっ付けたような数詞が散見される。たいへん煩いものに感じました。

     誰しもよく知る形容詞をふんだんに詩に使い込むことはあまり、私は詩においても、いろいろな文書スタイルにおいても、あまりイタダケナイのでは?と考えています。


     浮き沈みや憂いなど、水というものから、人の心象や水からくれる美しい現象を、詩に書きたくなるものですが、
     まぁこの題は、水でないほうがいいかもしれません。『鍾乳洞にて』とか『地底湖』、具体的事物をタイトルに、私ならするだろうと思います。詩のそれ自体があまりにも朦朧としており観念的でもあるため、タイトルと詩内容とにメリハリをつける工夫があったほうが、読者に興味を抱かせることができるかもしれない、と気がします。
     水という普遍性を詩にしたければ、こんな作品ではまだまだ、たどり着けないだろうと思う。


     みつとみさんは男性と察するが、男性がイロケを出すと、詩でも歌詞でも小説でも、読むとどうしてもナヨナヨしたものが多い。
     明治や大正の女性の詩や小説はそうしたイロケを書いてもそこには必ずといっていいが、貫徹するものがある。女性の持つ弱さのなかから、女性の持つ精神や意識の強さが、内面から書かれているものを読む。
     ヘタなベタなイロケは、男性が小説や詩で書かないほうがよいのではないか?と思う。よほどの才能や気質がない限り、やらないほうがよいのでは?と思う。

     酷評になってしまい失礼しました。

  3. 61 : [返信]  玄こう ('16/08/29 00:53:52 *21)

     人を壁の前に立たせ、ストロボを放つポートレート写真のようで、行きかう街の人らにみえる光背をみるようで、あるいは中世ヨーロッパの教会の天井壁画を思わせるようで……、モーリス・ユトリロが後ろ姿の小人ばかりを建物の隙間に描いた絵画を思い出させたり

    様々な光景が(絵的に)よみがえってくる。

     どんなショットからこの詩が出来たのかは私にはわからないが、車のなかからの感じもするし、街を歩きながらの感じもするし、様々な光景が『動的に』織り込まれている。

     ただ動的でありながらも描く言葉が絵的であり、しかも文面に描く様々なモチーフの距離間に眩惑させられる。絵的でありつつも、常識的な遠近法を覆えしていくようなところもある。

    以下追記、8/30/22:25

    >そのうしろ背の壁に/白い顔が浮かびあがっている/まっすぐ見ている眸に/群れのひとたちの歩き出しに/くすむ羽をすぼめている/
    >行き交うひとたちには気づかれない/そのあおざめた空には/遠くうすくのびる雲が逃れている/そのうしろ背が舞っている/

     この二連を読んでも景観も状況も掴みにくく読む者を眩惑させる。

     冒頭の指示代名詞、“その”、目の前に居るのその者のの“その後ろ背”という対人の背中をやはり考える(感じる)。それは鏡の自分かもしれないし自分の目の前の誰かかもしれない。
    次にこんな言葉が続く。
    >の壁には白い顔が浮かびあがっている”。
    作者はタイトルや書き出しを読者の注意を欺くように(意表をつくように)持っていっていく。
    その“壁”がゆくゆく
    >“空があり遠くうすくのびる雲が逃れている。”
    という広がりかたでつづる。この“逃れている”という一語は、読者の心境やこの文面の感覚的広がりを暗喩しているように感じる。
     絵的な専門用語でオールオーバーというのがあるが、人が絵画や写真をみるとき、額縁やフレームの“外縁”の広がりに想像力をかきたててていくように仕向ける手法というのがあるが、そんな技法を詩的に用いているように感じた。

    次の連では、
    >小さい点の旋回に羽根の白さが落ちていく/空のペットボトルのなかに/乾いた風の音がこもっている//胸のこげた臭いを/コートの襟に隠して/眉をひそめてさまよっている/街角で配りものをする肩に/触れてはわるいから
    >空が雲に覆われて/湿り気をふくんだ風に/ひとが通り過ぎても気づかれない/街の表示がはがれ落ちた死角で/影がひとついなくなった/

     “後ろ背”というタイトルを以下でも読者にちらほら見せながら、ここから具体的な馴染みのあるモチーフが詩のなかにいくつも書き込まれていく。
    “ペットボトル、コート、配りもの、靴、帽子、(看板や標識?‥)“
    身近に接し触れるこうした物を、触覚し共感できるいくつもの名辞が目白押ししてくれている。

    >“胸のこげた匂いをコートに隠して”
    (喫煙者の私なんかはよく体感する。)
    >“靴のかかとを気にして/膝をまげて深い帽子を落とす”
    (まだそんな動作を一度もやったことはないが、マイケル・ジャクソンじゃないが、そんな振り付けで一度ポエトリリーディングでやってみなくなった。笑)

     この連で私は作者のなんらかの性格をみる。外見をあまり目立たすことのないよう抑制し外着のファッションに気をつかいながら、街に出て散歩にほっつくのが専らみたいな作者の性格を感じたりもする。
    イキです。笑)


    続く終の連では

    >その曲げたただひとつの背に/街の空が引っ掻き傷をつくる/還っていくひとたちには気づかれない/建物の影に消えていく/うしろ背にまたたく光がまぶたを開く/

     終わりの詩文で再び読者の視点をズームさせ、
    >街の空が背中に掻き傷をつくる。
    に、初回の一連二連の景観に読者を戻していくセンテンスを感じる。


    (特に私なんかは、写真機で風景なんかを撮影するときに、絞りの開閉で、モチーフや背景 (前景〜遠景の)“距離感”をなくしていくことをやるが、ミツトミさんが詩文面でそうした手法を幾重もちりばめているのを感じるのだ。)→(子どもの絵をみるとよくわかるが、子どもの絵って人の頭がでかかったりする。これってその子からしたら頭や顔のほうがその人の手や足なんかよりよくみているからだろう。みんな子どもの絵は頭がでかい。)→(人が外部から教えられる絵の遠近法を子どもはくつがえしていくというあれだ。)→(私ら大人には描くことができない絵を子どもは描くことができる。)
    ↑そういうものをこの詩で読んで、自分もそんな詩か書けたらと思っているのだがまだまだ書けない。笑。)


    詩に戻す。

    この終わりの連のなかの
    >“その曲げたただひとつの背に”
    “その後ろ背の壁に”とある冒頭文に再び読者の意識を結ばせ、“その後ろ背”の頭に“ただひとつ”と付け加えられている。

    ここではじめてその作者にとっての“後ろ背”というものがいかなるものか?が、を末文で閉じる。

    >“またたく光がまぶたを開く”

    “閉じる”としないで“開く”と置く。その一語がミツトミさんの瞳なんだろう…か、と、(作者を想う。)

    この詩、私はけっこう好きでした。発起人バトルのひとつの詩として捨てられず何度も読みこの機に一度アップさせていただきました。

    何度もレスを書き替えてしまい、失礼しました。m(__)m。




    発起人さんもどんどん詩を投稿してください。レス感想送ります。

  4. 6 : [返信]  玄こう ('16/08/10 20:11:29 *5)

    はじめまして、いとうさん
    片便りの詩レスですが、感想批評をちょっと綴ります。

    >とかげの足音を拾っていくと/「かげろう」と呼ばれる/庭で行き詰まった/兄さん/あれは生き別れの兄さん いいえ/姉さんだったかもしれない/が、/見えたりもする

    とかげって艶(ナマメ)かしい緑をしていたり、土の色に似た影四つ足が窓を縦走る様子を見たりもします。
    とかげもカメレオンのように変幻自在に色を同化させていける能力があるのかしら。ここの初連では家族の兄や姉が出てきて同じ住まいのあばら家で同じような顔色していた兄弟なんかな?、と読んで感じました。
    何回かこの作品を読みましたが、名辞の性格を、ご自身のセンスでバトンを繋げているように感じます。


    >とかげの足音
    など私は聞いたことはないけれど想像してみたくなる。
    >拾っていく
    この詩文を、植字や足跡のように喩えて、綴ろうとしていることを、この二文で暗に示しているように感じました。


    >通りすがりの犬に/犬ころと名前をつける 犬ころ/犬畜生でも良かったかもしれない/猫なんて名前はつけない/自由ではないから

    とかげに続き次の二連では、犬と猫とが登場してきた。犬猫のような動物は名前なんかなくとも、自由気ままにそのあばら家をほっつき歩いているのだね。

    >あばら家は何かの手違いのように/窓のようなもので区切られていて/その揺らぐ影から/臭い立つものの名前を/聞いたことがあるような/気がしているような

    ↑とにかくいとうさんは、覚えのある懐かしい家の、あばら家にやってきて

    >自由と臭い消しはよく似ている/兄さんがそう言っている/姉さん/だったかもしれない/も、/揺らぎ始めていて/とかげは最初から/とかげの足音でしかなく/犬ころもやはり/揺らぎ始めていて/私の足には根が/生え始めていて/私の足音が/拾われるのを待っている/そこにいる/根を生やしている/とかげのように

    ↑“イヌやトカゲ”“伊藤家”の古家には未だ、住みついているイヌ とかげ。
    当時の兄や姉が犬や蜥蜴となって未だ いとう家の古家に居た…という、
    そんな妄想物語が詩に込められているのかしらね。



    名前から連想させていく調子の言葉遊び。
    その辺りがなかなか、面白いと思いました。

  5. 22 : [返信]  玄こう ('16/07/24 19:06:23 *6)

    >― 楽あれば苦あり 苦あれば楽あり そう呟いて生活を、な 描き続けた。ずっと、ずっと。・・・・
    はじめまして、批評ができるよう、こちらで訓練させてください。

    冒頭の恩師の言葉と、湯船に浸かるご自身と、この詩を綴るもう一人のご自身とが、ひとつの短い詩のなかに居てて、読者は彼や彼女の語りや想いを聞き分け、読みわけることができ、渾然とした三つ巴のパート、ソプラノ(湯船の彼女)、テノール(詩を執筆する現場の彼女)、アルト(恩師の忘れられない言葉)。詩のなかで歌われている、そんな想像を巡らしながら読む。

    『過去、今、未来』をも、ひとつの短い詩のなかに、読む人の心の内に『現在化させていく』こと。
    けっこう気を使っています。私は詩においてかなり意識しながら書いたりしますのですが、なかなかできない。だから、そんなところを読んで感じとれて、そういうふうに詩が書ける人を尊敬し学びたいところです。

    >心の汚れは  、 水性か
    という詩句が面白かった。

    湯舟に浸かる腕を私は
    筆のように叩きつけて
    ながら師を思い出して
    詩をこうして書いてい
    るんだぞ。そんな内実
    そんな情景が、
    伝わってきました。

    あと
    2016-07-19 (火)
    (平川綾真智)さんの記事
    読ませてもらいました。

    今は、たいへんかもしれないが、乗り越えてください。あなたのこれからの執筆活動もよろしくお願いいたします。


    読ませていただきました。

  6. 63 : [返信]  玄こう ('16/07/17 15:27:41 *4)


     はじめまして、みつとみさん。どうぞ、よろしく。

     諸感を付すことが、詩を書かれた方に直ぐ様伝えられるため、たいへん効率がよいですが、テクスト的に読み、たいへん躊躇もいたしますが。上から



    >ちぎった耳のような暦の頁があり

     独白する調子で記述します、まずはこの一行について。みみ、こよみ、こう、という音の連鎖が耳に残る。“ちぎった耳”が千切った和紙を暗喩している。

    >自分は大丈夫、と/微笑むけれども/通り過ぎる風の縁に/ふれると/沈黙してしまうのは/「まだ 傷がなくなったわけではない

     作中の主人公の内面を語らせていますが、『今・ここ』で何を言っているのか、自覚できない、心の迷いや不安が、詩の全体でそうした語りが執拗なまでに続く。思いやる相手を、疑心暗鬼になりながら自己本意に「……、(……、詩全体で執拗なまでに語らせていく。繊細に移り行く葛藤を、恋歌歌謡曲、和歌演歌、日本古典文学などにある、以下スルー。

    >水面(みなも)に和紙がすべり落ち 白い影を浮かべる

     夜か薄闇時の情景を思い浮かべる。“水面”→気圏と水圏の境、“通りすぎる風の縁”→風という空気の流れさへ縁どること。
     そうした境界面やエアポケットのような(エアポケット;そこだけが周囲と違ってあるべきものが無い、あるいは何かが欠落している、といった状況の比喩的表現。;)には何か未知なるものがそこに潜んでいて、新たな創造性がそこから生まれてくる、あるいは行為する機転を与えるものに思う。
     通りすぎる風の縁に話者が沈黙する。水面に白い和紙が滑り落ちる。という情景から。

    >正しさとは何なのか/少なくても「自分は間違っていないと/いくら訴えても だれも耳をかたむけて/うなずいてはくれないのは/夜中の電車が走り去る音と/風の音が 胸に共鳴するからか

     語調が堰をきった調子で少し早口になり始まる。私が正しいと思っても耳をかたむけてくれない、うなずいてくれない、ということへの苛立ちが主人公の心の内にあり、>正しさとは何なのか、その答えにならない応えは、時間や気流に乗り、耳の音に互い共鳴し合うなかで、正しさの消息を断つ、

    中略

    >あなたは過去というけれど/わたくしにとっては 現在とおなじこと

    >胸の皮を一枚 いえ 暦を一枚破り捨てる/破り捨てた/その一枚の肌に いえ 一枚の紙に/水面にまた和紙がおちる

     主人公の独白がどんどん色濃く綴られ、同じ情景を幾度と綴る。まるで千切り絵をする智恵子のような執拗な愛情を語らせているようだ。ちょっと長い

    後半部分

    >あなたのこころがわからずに/ちぎった暦があり ちぎった傷があり/ちぎった写し絵があり ちぎった布があり/ちぎった文があり
    >そして あなたは叫び
    >(つもる紙が海を覆い尽くしていきました

     『ひきちぎった耳のような暦の紙片が(詩編)がある』→『一枚の和紙が水面にうかぶ』→『つもる紙が海を覆いつくす』
     こうした物語を、こうしたスケールの拡がりかたについてを、しかしこの詩の語り手は

    >「あなたはなにをみて どこにいるのですか

     反駁にも似た問いを投げる。海の眠りから寄り戻すかのように、

    >わたくしのとなりにあなたがいることがわからない/のに/あなたはずるさ故に眠っている

     覚醒のわたしと眠るあなたの離反した二人の間、『ずるさ』とはいったいなんだろうか。『なんで?自分だけ』という嫉妬だろうか。


    ____________

     ひととおり読ませてもらいそんな読解をしました。細かくみていくといろいろ勉強になります。後半の持っていきかたはさほど印象に残りずらく私には感じました。まだまだ叙情詩をいろいろ読み分けられないでいるためかと思います。

     前回の『光の表にて』のほうが軽快なステップを踏んでいて心地よかった。まだまだお試し批評段階なのですが、また機会あれば送ります、では。

    ____________

  7. 4 : [返信]  玄こう ('16/07/17 23:45:22 *6)

    聞き慣れないタイトル
     空無通信
    くうむつうしん

    音色響きがいいじゃない、

    >放棄された埋立地を
    >一体の透き通った者と
    >連れ添って歩く

    彼(詩の語り手)は歩き・
    彼はケシキを綴り・
    『一体の透き通った者と』・

    通信を繰り広げる



    >雑草に覆われはじめた
    >アスファルト面のそこここに
    >立ち昇る無の陥没痕
    >ほつれた放心の縫い跡から
    >冷気が放たれる

    >死の語り部たる永久凍土

    冷たく霜の降りた地に
    朝がた霧が路地を這う
    白い冷気を肌に感じ
    作品の彼は様々に
    光景や情景を見つけ
    思い歩き言葉に描く


    >遺跡化した新造建築物の合間を/一瞬の襲撃が/鳴りとよめかす/コーラ缶の放擲軌道
    >瓦礫の中の坂道を下る中央基線/片道三車線の/三位一体の/空無
    >いら草/コスモス/採り入れられた二番草の茎
    >おまえが通りを行く すると/空無が通り過ぎていく/風が/ただ透き通った風だけが/野を分けていくのだ

    この彼(語り手)は、お前=(一体の透き通った者)と伴に歩きながら、観るケシキに、路の脇の野草に、空無を見出だす。
    『三位一体の/空無』『二番草の茎』とはこの詩の叙事全体を、思想的に支えているかのような秘められたイディオム。

    >風は三度現われる
    >放擲と
    >放心と
    >今再びの放擲と

    (詩の中の)彼は歩き、立ち止まり、また歩く。彼はそうしながら言葉を綴り続けていく。

    >振り仰ぐと
    >身を捩る陽光

    >とりわけ巨大な陥穿の底/放物線上の斜面から/見上げる斜面に逆光を担い/静止する積雲の輪郭

    西の空だろうか?彼が観たものは、

    >一筋の冷光がお前を射る
    >『光の剣に貫かれた者』がその/放物面の焦点位置へと/焦点位置へと/浮遊する/立ち昇る/脱自する

    彼は『一体の透き通った者=お前』と連れ添って歩いていた、このとき、『光の剣に貫かれた者』として、お前は変化(変幻)し立ち現れる。

    >球面収差に歪む視界に
    >現われる
    >再度現われる一本の線

    >待機する場所
    >空無通信


    最後の連に込められたメッセージは何を意味するだろうか?。自らの彼の手のうち(=宇宙)から、上文、全ての詩の言葉(=空無)が、解き放たれる場所がそこにあるかのような。


    >待機する場所
    >空無通信

    最後の二行も、なかなか歯切れがよい。音 色 響き 余韻 が空へと明け放たれていく、潔さクールさが感じられる。



    読んで楽しいひとときでした。どうもありがとうよ。ダーザインさん


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