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田中宏輔 - 2012年分

選出作品 (投稿日時順 / 全22作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


陽の埋葬

  田中宏輔




目の前に一本の道が現われた。

この道を行けば、海に出る。

ほら、かすかに波の音が聞こえる。

見えてきた。

海だ。

だれもいない。

天使の耳が落ちていた。

また、触れるまえに毀れてしまった。

錘のなかに海が沈む。

この海を拵えたのは、天使の耳だ。

忘れては思い出される海の記憶だ。

生まれそこなった波が、一本の道となる。

この道を行けば、ふたたび海に出る。


*


月の夜だった。
わたしは耳をひろった。

月の光を纏った
ひと揃いの美しい耳だった。

月の渚、
しきり波うち寄せる波打ち際。

どこかに耳のない天使がいないか、
わたしはさがし歩いた。


*


──どこからきたの?

海。

──海から?

海から。

──じゃあ、これを返してあげるね。

すると、天使は微笑みを残し、


*


月の渚、
翼をたたんだ天使が、波の声に、耳を傾けていた。

月の渚、
失くした耳を傾けて、天使は、波の声を聴いていた。

月の渚、
波の声は、耳の行方を、耳のない天使に囁いていた。

月の渚、
もう耳はいらない、と、天使が無言で呟いていた。


陽の埋葬

  田中宏輔




汚れた指で、
鳥を折って飛ばしていました。

虚ろな指輪を覗き込むと、
切り口は鮮やか、琺瑯質の真っ白な雲が
撓みたわみながら流れてゆきました。

飛ばした鳥を拾っては棄て、拾っては棄てた、
正午の日曜日、またきてしまった。

雨ざらしの陽の剥製。
屋根瓦、斑にこびりついた鳥糞。
襤褸を纏った襤褸が、箆棒の先で
鳥糞の塊を、刮ぎ落としていました。

あれは、むかし、家に火をつけ、
首をくくって死んだ、わたくしの父ではなかったろうか……。

手の中の小さな骨、
不思議な形をしている。

羽ばたく鳥が陽に擬態する。

わたしは何も喪失しなかった。

一度だけだという約束の接吻(狡猾な陽よ!)

わたしの息を塞いで(ご褒美は、二千円だった)

頽(くずお)れた空に、陽に溺れた蒼白な雲が絶命する。

──だれが搬び去るのだろうか。

壜の中の水(腹のなかの臓腑(はらわた))
水のなかに浮かび漾う壜の中の水の揺れが
わたしの脳も、わたくしの頭蓋の中で揺れています。

わたしのものでない、
項(うなじ)の上の濃い紫色の痣(その疼きに)
陽の病巣が凝り固まっている。

あの日、あの日曜日。
わたしは陽に温もりながら
市庁舎の前で待っていました。

花時計の周りでは、憑かれたように
ワーグナーの曲が流れていました。

きょうも、軒樋の腐れ、錆の染みが、瘡蓋のように張りついています。

窓枠の桟、窓硝子の四隅に拭き残された埃は
いつまでも拭き残されたまま、ますます厚くつもってゆきます。

陽は揺り駕籠の中に睡る赤ん坊のように
──わたしの腕の中、腕枕の中で睡っていた。

二時間一万六千円の恋人よ、
だれが、おまえの唇を薔薇とすり替えたのか。
だれが、おまえの花瓣に触れたのか。

さはつてしまふ、さつてしまふ。

拭き取られた埃が、空中に抛り投げられた!

陽の光がきらきらと輝きながら舞い降りてきた。
──陽が搬ぶのは、塵と、埃と、飛べない鳥だけだった。

嬰兒(みどりご)は生まれる前から跛(びつこ)だった(この贋物め!)

口に炭火を頬張りながら、ひとり、わたしは、微笑んでいました。

噴き上がる水、散水装置、散りかかる水、
煌めくきらめきに、花壇の花の上に、小さな虹が架かる。
水の届かないところでは、花が死にかけている。
痙攣麻痺した散水装置が象徴を花瓣に刻み込んでいます。

かつて、陽の摘み手が虹色に印ぜられたように
──わたくしも、わたしも、その花の筵の上を、歩いてみました。

垣根越しに骰子が投げられた!

陽は砕け、無数の細片となって降りそそぐ。

、 、  、   、    、     、      、


 、  、   、    、     、      、


  、   、    、     、      、


貫け、陽の針よ! 貫け、陽の針よ!

陽の針が、わたしを貫いた。

市庁舎の屋根の上に集(すだ)く鳥たちが

一羽ずつ、一羽ずつ、陽に羽ばたきながら

陽に縺れ落ちてゆく。

コンクリートタイルの白い道の上に

骨の欠片、微細片が散りかかる

散りかかる。

陽の初子は死産だった。

わたしは手の中の骨を口に入れた。

わたしは思い出していた。

あの日、あの日曜日、

わたしがはじめて

陽を抱いた

日のこと

を──

そうして、
いま、陽の亡骸を味わいながら
わたしは、わたしの、息を、ゆっくり、と、ふさいで、ゆき、まし、た、



*



三月のある日のことだった。
(オー・ヘンリー『献立表の春』大津栄一郎訳)

死んだばかりの小鳥が一羽、
樫の木の枝の下に落ちていた。
ひろい上げると、わたしの手のひらの上に
その鳥の破けた腹の中から、赤黒い臓腑が滑り出てきました。

わたしは、その鳥の小さな首に、親指をあてて
ゆっくりと、力を込めて、握りつぶしてゆきました。

その手触り……

そのつぶれた肉の温もり……

なぜ、わたしは、誑(たぶら)かされたのか。

うっとりとして陽に温もりつづけた報いなのか。

さやうなら、さやうなら。

粒子が粗くて、きみの姿が見えない。

死んだ鳥が歌いはじめた。

木洩れ日に、骨となって歌いはじめた。

──わたしの口も、また、骨といっしょに歌いはじめた。


三月のある日のことだつた。
(オー・ヘンリー『献立表の春』大津栄一郎訳、歴史的仮名遣変換)

木洩れ日に温もりながら、
縺れほつれしてゐた、わたしの眠り。
葬埋(はふりをさ)めたはずの小鳥たちの死骸が
わたくしの骨立ち痩せた肩に
その鋭い爪を食ひ込ませてゆきました。

その痛みをじつくりと味はつてゐますと、
やがて、その死んだ鳥たちは
わたしの肩の肉を啄みはじめました。

陽に啄ばまれて、わたくしの身体も骨となり、
骨となつて、ぽろぽろと、ぽろぽろ
と、砕け落ちてゆきました。

陽の水子が喘いでゐる(偽りの堕胎!)

隠坊(おんばう)が坩堝の中を覗き見た。

──陽にあたると、死んでしまひました。

言ひそびれた言葉がある。
口にすることなく、この胸にしまひ込んだ言葉がある。
何だつたんだらう、忘れてしまつた、わからない、
……何といふ言葉だつたんだらう。
すつかり忘れてしまつた、
つた。

死んだ鳥も歌ふことができる。

空は喪に服して濃紺色かち染まつてゐた。

煉瓦積みが煉瓦を積んでゆく。

破れ鐘の錆も露な死の地金、虚ろな高窓、透き見ゆる空。

わたしは、わたしの、死んだ声を、聴いて、ゐた。

水甕を象どりながら、口遊んでゐた。

擬死、仮死、擬死、仮死と、しだいに蚕食されてゆく脳組織が
鸚鵡返しに、おまえのことを想ひ出してゐた。

塵泥(ちりひぢ)の凝り、纏足の侏儒。

隠坊が骨学の本を繙きながら
坩堝の中の骨灰をならしてゐました。

灰ならしならしながら、微睡んでゐました。



*



樹にもたれて、手のひらをひらいた。

死んだ鳥の上に、木洩れ陽がちらちらと踊る。
陽の光がちらちらと踊る。

鳥の死骸が、骨となりました。
白い、小さな、骨と、なり、ました。

やがて、木洩れ陽に温もったその骨は
手のひらの上で、から、ころ、から、ころ、

から、から、から、と、ぶつかりあいながら
輪になって舞い踊りはじめました。

わたしは、うっとりとして目をつむり
ただ、うっとりとして

死んだ鳥の歌に、
じっと、耳を、傾けて、いま、した。



*



何を見ているの?
──何を、見て、いたの?


何も。


嘘!


窓の外。


見ちゃだめだよ。
──ぼく、連れてかれちゃうよ。


えっ?


振り返ると、シーツの上には、
残り香の、白い、小さな、骨が、散らばって、いま、した。



*



──羽根があれば、天使になるの?

そうだよ。
でも、いまは、毀れてるんだ。

──その腕に抱えてるのが、翼なんだね。

そう、抱いて、あたためてるんだよ。
つめたくなって、死にかけてるからね。

──でも、ぼく、そのままの、きみがいい。

そのままの、ぼくって?

──優しげな、ただの、少年だよ。

そして、天使は、腕をひろげて
もうひとりの、自分の姿を、抱きしめました。


マールボロ。

  田中宏輔



彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


王國の秤。

  田中宏輔




きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。


みんな、きみのことが好きだった。

  田中宏輔



ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神さまはいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。


頭を叩くと、泣き出した。

  田中宏輔



カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki。ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。


むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。

  田中宏輔



枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片角の鹿を見たのは。
蹄の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。


高野川

  田中宏輔



底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた


千切レタ耳ヲ拾エ。

  田中宏輔



ベルゼク、ダッハウ、ビルケナウ。

このあいだ、阿部ちゃんの勤めてる旅行会社が
収容所体験ツアーを組んでた。

現地の施設で実体験できるなんて
とってもステキ。

ひとつに砕ける波。

ぼくんちのインコは
いくら教えてやっても、九九が憶えられなかった。

鼠だったっけ?
どんなことでも、三歩も歩けば、忘れてしまうっていうのは。
それって、いいよね。

前に、中国の刑法史だったか、刑罰史の本を読んでたら
宋代の宝典に、『金玉新書』というのがあると書かれてあった。

べつに、
ただそれだけのことだけど。

パプアニューギニア。

あっ、パプアとニューギニアの間に・が入るんだっけ?
入んなかったっけ?

吉田くんちは、首狩り族だった。
先週の火曜日に転校してきた。

べつに好きなタイプじゃなかったけど
たまたま隣の席だったから
いちばん最初に、ぼくが友だちになったってわけ。

ただ、それだけなのに
吉田くんは
ぼくがうんちするところを覗く。

家に帰っても
吉田くんは、ぼくんちに勝手に上がって
ぼくがうんちしてるところを覗く。

ぼくも鍵をかけないで
ドアを開けたまま
ぼくがうんちしてるところを覗かせる。

そういえば、ジミーちゃんが、こんなことを言ってた。
はじめに言葉ありき、ってあるでしょ。
光あれ、っていう、この言葉自体が、神さまなの。
旧約のなかで、アブラハムの前に顕われたり
ノアの前に顕われたりした神の言葉が
新約の中で、イエス・キリストとなって
ふたたび顕われたの。

そう?

ああ、目がチクチクする。

大きい蟻が小さい蟻を食べている。
それは禁じられてはいない。

インディアンの女たちが、子どもたちといっしょに
捕虜たちを拷問する。

バラバラのバッタが美しいわけ。

それは、きみの獲物じゃなくて
ぼくの獲物だ。

さ迷える口唇刺激。

空は点だった。

井戸の底で
マナイがつぶやく。

ひとりがぼくを孤独にするのか、
ひとりが孤独をぼくにするのか、
孤独がぼくをひとりにするのか、
孤独がひとりをぼくにするのか、
ぼくがひとりを孤独にするのか、
ぼくが孤独をひとりにするのか、

3かける2かける1で、6通りのフレーズができる。

まるで、シロツメグサのよう。
まるで、ケイちゃんの脇にできた良性腫瘍のよう。

新しい恋人ができたら
まず、はじめに、足で踏む。

いま、抽選でスペインに行ける。
スペインに行ったら、火刑裁判が受けられる。
異端審問で、いろんな拷問が受けられる。

そこで、神さまがいることを教えられる。


タコにも酔うのよ。

  田中宏輔



最初の出だしはこうよ。
ポプラ並木に寒すずめが四羽、
正しく話してると、
うつくしい獣たちが引き裂くの。
クレープが好きだと言ったわ。
魚座の男が好きだとも言ったわ。
鉄分の多い多汁質の声でね。
漆塗の灰皿。
だれにも使えない。
はじめてのセックスは、公衆便所だった。
一足(いっそく)の象の背に乗せられて
蟻の歌をつぶやいていた。
七つまでの夢。
お兄さんの貯金通帳に貢献してた。
お兄さんの手の指は、五本あった。
両方合わせて。
もちろん、返さなくて済むものなら、
返さない方が得だわ。
眉毛の禿げた出っ歯のドブネズミに惚れられて
タクシーに飛び乗ったの。
分別って、金銭感覚のことかしら。
お昼に、二回ほど抜いてやったわ。
まるで鍾乳洞のつららのように。
いったい、ぼくは
きみに何をしてあげられるんだろう。
ひたすら盲目になる。
セックスなんて簡単だし。
キッスだって平気よ。
アメリカに行くのが夢なの。
英語なんて話せないけどね。
夢さえあれば幸せよ。
ねえ、これで、ほんとに詩になってるの?
こんなものだって、詩だって、言い張るヤツがいるよ。
わたしにもできることがある。
自分を忘れて、
着物を燃やすところを見つめている。
ぼくにできることって何だろう。
みんな、わたしに惚れるのよ。
一枚の枯れ葉が
玉手箱の背中にくっついてる。
風の手が触れると
くるくると、
 くるくると。
とうに、
蟻の歌は忘れてしまったけれど。
でも、もう二度と、
手首を切ったりなんかしないわ。
もう少し、
あと、もう少しで、夢がかなうの。
かなえてみせるわ。
玉手箱。
手あたりしだいに
鹿とする。


こんなん出ましたけど。

  田中宏輔



!!!!!!!!!!!!! マッチ棒
/ですか?
きみのおできと、ぼくのおできを交換しよう。
ブツブツ交換しよう。
空を見上げれば、空がある。
そら、そうやわ。
きみを見つめればブツブツがある。
きみ、ブツブツやわ。
王は死んだ魚のように美しい。
死んだ魚は王のように美しい。
蝶が蜘蛛を捕らえる。
蜘蛛が蝶に捕らえられる。
知性とは、天の邪鬼である。
同じものを違うものとして見、
違うものを同じものとして見るのだから。
七月の手のひらのなかで
みるみるうちに、蚯蚓がやせてゆく。
あれって、ノブユキじゃない?
ぼくが似ていると判断した以上、
それは本物はノブユキである。
奇跡は起こらない。
あれって、ノブユキじゃないの?
たとえ、ぼくが出会ったノブユキが、
正真正銘、本物のノブユキでも
ぼくが似ていると判断した以上、
それは本物のノブユキではない。
あれって、ゼッタイ、ノブユキだよ。
奇跡はかならず起こる。
神さまに著作権はない。
タダ働きなのだ。
神さまにしか著作権はない。
ザクザク、お金が入ってくるのだ。
日記帳を開いて
きょうの神さまに点数をつけてあげる。
神さまもまた、日記帳を開いて
ぼくに点数をつけてくれる。
むかし、むかし、あるところに
スーパー・ガッチリ体型(通称SG系)の
おじいさんとおじいさんが
仲良くいっしょに暮らしておりました。
ある日、ひとりのおじいさんが、
火にくべるためのおじいさんたちを狩りに山に行き
もうひとりのおじいさんが、
たくさんの汚れたおじいさんたちを洗濯するために川に行きました。
山に入った方のおじいさんは、
山のなかで迷っていたおじいさんたちの指をポキポキと折り曲げ
おじいさんたちの枯れ木のような手足を、つぎつぎと鉈で叩き切り
縄でひとつにくくって、背中に背負って家に帰りました。
川では、もうひとりのおじいさんが
命乞いをしてひざまずくおじいさんたちを、つぎつぎと岩に叩きつけて
血まみれになったおじいさんたちの顔を、
さらにざらざらの岩肌にこすりつけては
破けた皮膚のあいだに鋼鉄製の鉤爪をひっかけて
ベリベリと生皮をひん剥いていきました。
そのうち、川の上流から
ぶくぶくに太ったひとりのおじいさんが
どんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。
すると、もうひとりのおじいさんは
その太ったおじいさんを水から引き上げ、
自分たちの家に連れて帰りました。
そして、先に家に帰っていた、
山に行っていた方のおじいさんとふたりで
重い重い大きな斧を振り上げ
川から引き上げたぶくぶくに太ったおじいさんの頭上目がけて
思いっ切り、振り下ろしました。
すると、そのぶくぶくに太ったおじいさんは、
畳のような大きさのまな板の上で、まっぷたつになりました。
何かは、考えるためにある。
何かがあるために、考える。
パルメニデスの「思惟(しい)することは存在することと同じだ。」という言葉について
この言葉があらわす真の意味を考えないこと。
笑いたければ、笑えよ。
自分で笑え。
笑えるときに、笑えよ。
自分を笑え。
天国は激しく求め合う。
天国は激しく求め合う。
燃える義足!
ニセの足。
気が歩く。
違う。
木が歩く、と書いて、木歩という名前の俳人がいた。
富田木歩という名前の俳人だ。
足が悪かったらしい。
たしか、木でできた義足を使っていたと思うんだけど
前にも、「話の途中で、タバコがなくなった。」という詩のなかに書いたんだけど
むかし付き合ってたエイジくんの顔に似た顔の俳人だ。
関東大震災のときに、焼け死んだそうだ。
いったんは、友達に助けられたそうなんだけど
その友だちに背負われて助けられたそうなんだけど
あとで、その友だちとはぐれて、焼け死んだという。
燃える義足!
ニセの足。
奇跡は起こらない。
奇跡はかならず起こる。
ガラガラ、ガッシャン、ガシャン、ズスン、ピィー。
雷が鳴った。
こんなん出ましたけど。
!!!!!!!!!!!!! マッチ棒
/ですか?
蝶が蜘蛛を捕らえる。
蜘蛛が蝶に捕らえられる。
王は死んだ魚のように美しい。
死んだ魚は王のように美しい。
ぼくが雷に親近感を持っているのは
かつて、ぼくが雷であったことの名残であろうか?
鬱病のハーモニー。
きみの名前で考える。
言葉が、わたくしを要約する。
なにを省いて、なにを残すのか。
言葉が、わたくしを約分する。
なにをなにで割るのか。
魔術師、手術中。
魔術師、手術中。
呪文のように繰り返す。
呪文のように繰り返す。
あるいは、ただの早口言葉のように。
繰り返されるから呪文になるのだ。
おはようございます。
こんにちは。
お疲れさまでした。
お先に失礼します。
さようなら。
ただいま。
おやすみ。
天国は激しく求め合う。
天国は激しく求め合う。
七月の手のひらのなかで
みるみるうちに、蚯蚓がやせてゆく。
もう、かんべんしてください。
こまるわ、わたし。
ブヒッ。
間違うことが、わたしの仕事。
棒も歩けば犬にあたる?
裏切ることが、わたしの仕事。
一歩の道も、千里からー。
くるくるくるぅ、くるくるくるぅ。
トラは、くるくるとまわるとバターになったけど
ぼくは、くるくるまわったら、なにになるんだろう?
魔術師、手術中。
魔術師、手術中。
こんな、バカみたいな詩を書いていると
むしょうに、フランシス・ジャムの詩が読みたくなる。
人間らしい気持ちを取り戻したくなるのだろうか。
「わたしは驢馬が好きだ……」を読む。
可愛い少女(をとめ)よ、云つておくれ
わたしは今 泣いてゐるのか 笑つてゐるのか?
堀口大學の訳はいい。
ぼくは、女でもあって、少女(をとめ)でもある。
ぼくにも、ジャムのこころが泣いているのが見える。
そうして、ぼくも、ジャムになって、泣くのだ。
ジャムになって、泣いているのだ。
笑いたければ、笑えよ。
でも、自分で笑え。
笑えるときに、笑えよ。
でも、自分を笑え。
しっぺ返しは、かならず来る。
おもしろいほど、来る。


木にのぼるわたし/街路樹の。

  田中宏輔



ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。


反射光。

  田中宏輔



 幾つものブイが並び浮かんだ沖合、幾つものカラフルなパラソルが立ち並んだ岸辺。その中間に、畳二枚ほどの広さの休憩台がある。金属パイプの支柱に、木でできた幾枚もの細長い板を張って造られた空間。その空間の端に、ぼくは腰かけていた。岸辺の方に目をやりながら、ぼくは、ぼくの足をぶらぶらと遊ばせていた。
 まるで光の帯のように見える、うっすらと引きのばされた白い雲。でも、そんな雲さえ、八月になったばかりの空は、すばやく隅に追いやろうとしていた。
 
 きみは、ぼくの傍らで、浮き輪を枕にして、うつ伏せに寝そべっていた。陽に灼けたきみの背。穂膨(ほばら)んだ小麦のように陽に灼けたきみの肌。痛くなるぐらいに強烈な日差し。オイルに塗れ光ったきみの肌。汗の玉が繋がり合い、光の滴となって流れ落ちていった。眩しかった。目をつむっても、その輝きは増すばかり。ぼくの目を離さなかった。短く刈り上げたきみの髪。きみのうなじ。一段と陽に灼き焦げたきみのうなじ。オイルに塗れ光ったきみのうなじ。光の滴。陽に照り輝いて。きみの身体。きみの肩。きみの背。きみの腰。光の滴。みんな、陽に照り輝いて。トランクス。きみの腕。きみの脚。きみの太腿。きみの脹ら脛。光の滴。みんな、みんな、陽に照り輝いて。
 ただ、手のひらと、足裏だけが白かった。
 
 おもむろに腰をひねって、ぼくはきみの背中にキッスした。すると、きみは跳ね起きて、ぼくの身体を休憩台の上から突き落とした。なまぬるい水。ぼくは湖面に滑り落ちた。すりむいた腕、きみに向けて、わざと怒った顔をして見せた。きみは口をあけて笑った。その分厚い唇から、白い歯列をこぼしながら、笑っていた。

きみの衣装は裸だった。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくは、きみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは眩しげに目を瞬かせた。振り向くと、湖面に無数の銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみの身体を抱いて、湖面に飛び込んだ。

湖面で蒸発する光のなかに。


夏の思い出。

  田中宏輔





白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と


陽の埋葬

  田中宏輔





インインと頻(しき)り啼く蝉の声、
夏の樹が蝉の声を啼かせている。

頁の端から覗く一枚の古い写真、
少年の頬笑みに指が触れる。

本は閉じられたまま読まれていった……


II

日向道、帰り道、
水門のかたほとり、睇(めかりう)つ水光(みずびかり)。

すこし道をはずれて、
少年たちは歩いて行った。

だれも来ない楡の木の下蔭、
そこはふたりの秘密の場所だった。

あわてものの象戲(チエス)のように
鞄を抛り投げて坐った。

「きょう、学校でさ、
 脈のとり方を習ったよね。」

何気ないふりをして腕に触れる。
脈拍は嘘をつくことができなかった。


III

あれは遠足の日のことだった。
車内に墜ちた陽溜まりを囲んで、

騒ぎ疲れた子どもたちが
みんな、とろとろと居眠りしていた。

ふたりは班が違っていたけれど、
となりどうしに坐って微睡んでいた。

自分たちの頭を傾け合って、
頭と頭をくっつけて、

ふたりは知っていた。
眠ったふりをして息をしていた。

透きとおるものが
車内を満たしていた。

ふたりだけの秘密。
少年の日。


IV

だれが悪戯(いたずら)したのか、
胸像の頬に赤いチョーク。

部屋の後ろに掲げられた
木炭画スケッチ。

変色して剥がれかかっている。
まるで乾反葉(ひそりば)のようだ。

器に盛られた果物たちの匂い、
制服の下にこもった少年たちの匂い。

すでに何人かは
絵の具を水に溶いていた。

眼は椅子の上、
じっと横顔ばかり見つめていた。

叱り声が飛ぶ。
背後に立つ美術教師の影。

はっとする級友たち、
耳を澄ます木炭画たち。

違った絵の具を
絞り出してしまった。




あの夏の日も、
あの少年たちの頬笑みも、

束の間の
通り雨のようなものだと思い込もうとして、

ほんとうの気持ちに
気がつかないふりをして

通り過ぎてしまった。

午後の書斎、
風に揺れるカーテン。

インインと頻り啼く蝉の声、
夏の樹が蝉の声を啼かせている。

頁の端から覗く一枚の古い写真、
少年は、いつまでも微笑んでいた。


『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。

  田中宏輔



こんなこと、考えたことない?
朝、病院に忍び込んでさ、
まだ眠ってる患者さんたちの、おでこんとこに
ガン、ガン、ガンって、書いてくんだ。
消えないマジック、使ってさ。
ヘンなオマケ。
でも、
やっぱり、かわいそうかもしんないね。
アハッ、おじさんの髪の毛って、
渦、巻いてるう!
ウズッ、ウズッ。
ううんと、忘れ物はない?
ああ、でも、ぼく、
いきなりHOTELだっつうから、
びっくりしちゃったよ。
うん。
あっ、ぼくさ、
つい、こないだまで、ずっと、
「清々しい」って言葉、本の中で、
「きよきよしい」って、読んでたんだ。
こないだ、友だちに、そう言ったら、
何だよ、それって、言われて、
バカにされてさ、
それで、わかったんだ。
あっ、ねっ、お腹、すいてない?
ケンタッキーでも、行こう。
連れてってよ。
ぼく、好きなんだ。
アハッ、そんなに見つめないで。
顔の真ん中に、穴でもあいたら、どうすんの?
あっ、ねっ、ねっ。
胸と、太腿とじゃ、どっちの方が好き?
ぼくは、太腿の方が好き。
食べやすいから。
おじさんには、胸の方、あげるね。
この鳥の幸せって、
ぼくに食べられることだったんだよね。
うん。
あっ、おじさんも、へたなんだ。
胸んとこの肉って、食べにくいでしょ。
こまかい骨がいっぱいで。
ああ、手が、ギトギトになっちゃった。
ねえ、ねえ、ぼくって、
ほんっとに、おじさんのタイプなの?
こんなに太ってんのに?
あっ、やめて、こんなとこで。
人に見えちゃうよ。
乳首って、すごく感じるんだ。
とくに左の方の乳首が感じるんだ。
大きさが違うんだよ。
いじられ過ぎかもしんない。
えっ、
これって、電話番号?
結婚してないの?
ぼくって、頭わるいけど、
顔はカワイイって言われる。
童顔だからさ。
ぼくみたいなタイプを好きな人のこと、
デブ専って言うんだよ。
カワイイ?
アハッ。
子供んときから、ずっと、ブタ、ブタって言われつづけてさ、
すっごくヤだったけど、
おじさんみたいに、
ぼくのこと、カワイイって言ってくれる人がいて
ほんっとによかった。
ぼくも、太ってる人が好きなんだ。
だって、やさしそうじゃない?
おじさんみたいにぃ。
アハッ。
好き。
好きだよ。
ほんっとだよ。


ロミオとハムレット。

  田中宏輔



プロローグ


  コーラス登場

いにしえより栄えしヴェローナに、
モンタギューとキャピュレットという
互いに栄華を競う、二つの名家がありました。
ヴェローナの領主エスカラスは
己の地位の安泰を考えて、
両家の一人息子と一人娘を婚約させました。
ところが、その婚約披露パーティーの夜、
事もあろうに、モンタギューの息子ロミオは
デンマーク王子のハムレットに一目惚れ。
それでも、婚約者のジュリエットは
ロミオのことを諦めることができませんでした。
得てして、恋はままならぬもの。
観客の皆様も、我が身におかれて
とくと、ご覧なさいませ。



第一幕

  第一場 ヴェローナ。ヴェローナ領主エスカラス家邸宅内、エスカラス夫人の部屋。

  (エスカラス夫人、扇子をパタパタさせて、エスカラスの前に立っている。)

エスカラス夫人 今夜ですわね。

エスカラス あちらを立てれば、こちらが立たず、こちらを立てれば、あちらが立たず。モンタギューとキャピュレットの両家の板挟みとなって、これまでどれだけ神経をすり減らしたかわからん。しかし、それも今夜でおしまいじゃ。わしが取り持って、両家の一人息子と一人娘を結婚させてしまえば、万事はうまくゆく。今夜、キャピュレット家で催される婚約披露パーティーには、ヴェローナ中の有力者たちが招かれる。正念場じゃ。おまえもしっかり頼むぞ。

エスカラス夫人 ご存知ですわね、今夜のためにドレスを新調しましたの。

エスカラス (呆れたように)まあ、せいぜい着飾っておくれ。

エスカラス夫人 それにしても、あのパリスが、もう少ししっかりしてくれていたら、と思わずにはいられませんわ。

エスカラス 言うな、あの女たらしのことは。親戚でなければ、とうにこのヴェローナから追放しておるわ。いったい、何人の女の腹をはらませたことか。それにな、あのパリスがキャピュレット家の娘と結婚したとしても、わしの地位が安泰するというわけではないのじゃ。この街の半分には、モンタギュー家の息がかかっておる。もしも、わしがモンタギュー家よりもキャピュレット家の方に肩入れすることになってみろ、身内となったからには肩入れせんわけにはいくまいし、そうなれば、モンタギュー家から、どのような厭がらせを受けるかわからんぞ。反乱が起こるとまでは言わんが、わしの地位が不安定なものになることは目に見えておる。

エスカラス夫人 政治のことは、わたくしにはわかりませんわ。

エスカラス 身を飾ることのほかは、と言うべきじゃな。

エスカラス夫人 まっ。(と言って、動かしていた扇子を胸にあてて止める。)

エスカラス このイタリアでは、陰謀という名前の犬が歩き回っておる。その犬に咬みつかれんようにするには、己自身が犬になることじゃ。

  (扉をノックする音。エスカラスの返事を待って、召し使い登場。)

召し使い 手紙をお持ちいたしました。(エスカラスに手紙の束を渡す。)

エスカラス (その中から、一通を取り出して)これは、ハムレット殿宛のものじゃな。お持ち差し上げろ。(と言って、召し使いにその手紙を渡す。)

召し使い 承知いたしました。

  (召し使い退場。)

エスカラス夫人 そういえば、ハムレット様とオフィーリア様も、今夜のパーティーにご出席なさるのでしょう?

エスカラス ご身分を隠されてな。それはもう、ぜひに、とのことじゃ。そう申されておられた。いつか、あらためて紹介しなければならんだろうがな。



  第二場 ヴェローナ。エスカラス家邸宅内、賓客用客室。

  (ハムレット、召し使いから手紙を受け取る。召し使い退場。)

ハムレット (差出人の名前を見る。)ホレイショウからか。何、何(封蝋を剥がし、手紙を読み上げる。)『こころよりご敬愛申し上げますハムレット王子殿下へ 殿下がエルシノア城を去られ、故郷であるデンマークを後にされてからもうひと月にもなりましょう。ヴェローナに着かれてすぐに、二人のともの者を帰されて、殿下の叔父上、現国王クローディアス陛下も、殿下の母君、ガートルード王妃様も、ずいぶんと、ご心配なさっておられるご様子です。また、ポローニアス殿も、殿下とごいっしょにデンマークを離れられたオフィーリア嬢のことを心配なさっておいでです。殿下が、亡き父君、先王ハムレット陛下を追想され、悲嘆の念にくれていらっしゃいますことは、先刻承知いたしております。ですが、――あえて、ですが、とご注進させていただきます――いつまでも悲しみの中に沈んでおられてはなりません。王位第一継承者たる王子殿下のなさることではありません。人民より愛され、臣下より慕われておられる殿下であります。オフィーリア嬢とごいっしょに、一刻も早く、デンマークに戻られますようお願い申し上げます。臣下一同、首を長くしてお待ち申し上げております。命ある限り殿下に忠誠を誓いしホレイショウより。』(手紙をテーブルの上に置き、オフィーリアの顔を見て、再び手紙に目を落とす。そして、独り言のように)亡霊のことについては、何も触れていなかったな。

オフィーリア (不安そうに、ハムレットの顔をのぞき込む。)亡霊ですって?

ハムレット あっ、いや、何でもない。それより、今夜のパーティーには、どのドレスを着ていくことにしたのかな?

オフィーリア (ドレスの話を持ち出されて、顔に微笑みが戻る。洋服箪笥の中から、藤色のドレスを選んで、ハムレットに見せる。)これを着て行くことにしましたわ。

ハムレット 紫の仮面に藤色のドレスか。それでは、そなたに合わせて、わたしは紺の服を着て行くことにしよう。

オフィーリア それは、ハムレット様の黒い仮面にも似合っておいでですわ。

ハムレット それにしても、そなたは、お父上のポローニアス殿のことが気にかからないのかい?

オフィーリア わたくしのことなど、心配なさるはずがありませんわ。むしろ、お父様は、わたくしと顔を合わせることがなくって喜んでいらっしゃるでしょう。

ハムレット そんなことを言うものじゃないよ。きっと、心配なさっておられるはずだ。

オフィーリア いいえ。お父様は、わたくしのことが大嫌いなのですわ。そして、わたくしは、その何層倍も、お父様のことが大、大、大嫌いですの。

  (ハムレット、沈痛な面持ちになる。)

オフィーリア (ドレスを置いて、ハムレットのそばに寄る。)ごめんなさい。ハムレット様の前で。ここでは、お父様のことを忘れようとなさって、ずっと陽気に振る舞っていらっしゃったのに……。

ハムレット (首を振りながら)いや、いいんだ。

オフィーリア ほんとうに、ごめんなさい。

ハムレット (さらに沈痛な面持ちになって)いいんだよ。いいんだ。

  (暗転、その刹那、「よくはない!」という野太い叫び声。)



  第三場 回想場面。デンマーク。エルシノア城、城壁の楼台。

  (舞台の隅。胸壁の書き割りを背景に、鎧兜を身に纏った亡霊の姿が浮かび上がる。)

亡霊 よくはないぞ! なぜ、わしの敵(かたき)を打たん?

  (ハムレットの上に、スポット・ライトがあたる。)

ハムレット 敵(かたき)を、ですって?

亡霊 そうじゃとも、ハムレット。昨夜も告げたはず、余は汝の父の霊である。余の妃を手に入れんがため、余の命を奪いし汝が叔父、クローディアスに復讐せよ。

ハムレット そのような話は信じられません。昨夜も、わたしはそう申し上げました。

亡霊 余の言葉を信ぜよ。余の話を最後まで聞け。汝が叔父、クローディアスは、余が庭で午睡をしておる間に、余の耳の中にヘボナの毒液を注ぎ込んだのじゃ。

ハムレット 父上は毒蛇に咬まれたと聞いております。

亡霊 嘘じゃ!

ハムレット 父上が睡っておられたパーゴラで、その毒蛇が見つかっております。

亡霊 罠じゃ!

ハムレット 葬儀の際の、叔父上のあの悲しみの表情、あの涙は真であったと思います。

亡霊 偽りじゃ!

ハムレット 偽りであってもかまいません。

亡霊 何じゃと?

ハムレット よしんば、それが、嘘や偽りであってもよろしいと申し上げたのです。

亡霊 何と。

ハムレット いずれにせよ、父上の命はそう長くはなかったのですから。

亡霊 どういう意味じゃ?

ハムレット ここ、半年の間、梅毒の症状がすっかりひどくなられて、父上は狂われてしまわれたのです。

亡霊 そちは、余が狂っておったと申すのか?

ハムレット 狂っておられたとしか思えません。あれほど父上に忠誠を尽くした臣下たちを、つまらぬことで追放なさったり、処刑なさったりして。

亡霊 余はデンマークの王である。

ハムレット それゆえに恐ろしい。狂気が、王という一人の人間の中に棲まうとき、数多くの罪のない者が犠牲になるのです。

亡霊 どうしても、余のことを気狂い呼ばわりするつもりじゃな。

ハムレット 臣下の中で、ひそかに謀反の声を上げる者がおりました。

亡霊 クローディアスもそう申しておったが、余に刃向かう者などおらんわ。

ハムレット お調べになったのですか?

亡霊 調べるまでもない。そちはクローディアスに騙されておるのじゃ。

ハムレット 騙されてはおりません。反乱が計画されていたことは事実です。

亡霊 余がクローディアスに殺されたことも事実じゃ。

ハムレット それが事実であっても、わたしには叔父上に剣を向けることはできません。

亡霊 余のことを愛してはおらぬのか?

ハムレット 父上を愛する愛よりも、叔父上を愛する愛の方が強いのです。

亡霊 余の耳が聞いておるのは、そちの口から出た言葉か?

ハムレット 正直に申したまでのこと。さらに正直に申すれば、わたしは、父上のことなど、まったく愛してはおりませんでした。

亡霊 何じゃと?

ハムレット 父上は、ご自分がどれだけ自分勝手で傲慢な人間であるか、おわかりにはならないのですね。

亡霊 おお、この世の中には、親子の愛ほど強いものはないと思っておったのに……。

ハムレット いいえ、この世の中には、親子の憎しみほど強いものはないのです。父上の自分勝手で傲慢な振る舞いに、これまでどれだけ厭な思いをしてきたことでしょう。生前は、ただ父上のことが恐ろしくて、おっしゃるとおりにしてきたまでのこと。霊となられたいまは、父上のことなど、ちっとも恐ろしくはありません。なぜなら、わたしの手が父上の躯に触れられないのと同様に、父上もまた、わたしの躯に触れることができないからです。

亡霊 そちもまた、クローディアスの手にかかって死ぬがよい。

ハムレット 叔父上は、前にも増して、わたしに優しくしてくれています。母上もまた叔父上と再婚なさって、この上もなく幸せそうにしておられます。

亡霊 おお、わが息子、わが弟、わが妃よ。汝ら呪われてあれ! 地獄に墜ちるがよい。

  (鶏の鳴く声が聞こえる。一度、二度、三度。)

ハムレット 父上の方こそ、硫黄の炎が噴き出る場所に戻られるべき時でありましょう。

  (舞台の隅から立ち去る亡霊。城壁の書き割りが引っ込み、舞台が明るくなる。)

オフィーリア どうかなさったの?

  (ハムレット、その声に躯をビクンとさせる。)

ハムレット あ、いや、ただの立ちくらみだよ。(机に手をついて、椅子に腰掛ける。)

オフィーリア 夜まで、まだ時間がありますわ。それまでお休みになられてはいかが?

ハムレット そうしよう。



第二幕

  第一場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、大広間の舞踏会場。

  (二人の給士、招待された人たちにグラスを渡していく。)

エスカラス あらためて、ここで、モンタギュー家のロミオとキャピュレット家のジュリエットの二人を皆さんに紹介しましょう。(と言い、間に立って、二人の肩に手を置く。そして、ロミオの顔を見て)皆さんもご存知のように、彼はヴェローナでも評判の好青年であり、徳の高い、行いの正しい若者であります。(ジュリエットの顔を見る。)彼女もまた、聞きしに勝る美貌と、その品のあるしとやかな立ち居振る舞いによって、非常に高い人気を博しております。そこで、両家と縁のある、わたくし、ヴェローナの領主エスカラスが二人を引き合わせてみたのです。すると、案の定、二人は相手のことを気に入りました。そして、二人は幾度となく会ううちに、結婚の約束をするまでに至ったのです。今夜は、この二人が、皆さんを前にして誓いの言葉を申し述べます。聞いてやってください。皆さんの耳が証人となります。ではまず、将来の花婿となるロミオの口から誓いの言葉を聞かせてもらいましょう。

ロミオ ここにお集まりの皆さん、わたしは皆さんの前で誓います。わたしは、彼女、ジュリエットと結婚いたします。たとえ空に浮かぶ月が砕けても、わたしたちの愛は決して砕けません。砕けることなどないでしょう。

エスカラス (ジュリエットを見て)そなたの方は?

ジュリエット わたくしも誓います。たとえ太陽が二つに割れても、わたくしたちのこころは一つ、決して二つに割れることはありません。

エスカラス お聞きのとおりです。何とも羨ましい話ではありませんか。まだ恋人のいない若い人の耳には、ほんとうに羨ましい話でしょうな。わたくしのような年老いた者の耳にさえ、そうなのですから。今夜のこの婚約披露パーティーを仮面舞踏会にしたのは、まだ恋人のいない若者が、相手を見つけることができれば、という趣向からです。では、皆さん、存分に楽しんでください。この若い二人の婚約を祝って、そして、キャピュレット家とモンタギュー家の両家の繁栄と、このヴェローナのますますの発展を祈って乾杯しましょう。

  (一同、グラスを上げて乾杯する。楽士たち、演奏。一同、踊り始める。)

パリス (オフィーリアの前に立って)わたしと踊っていただけますか?

  (オフィーリア、傍らにいるハムレットの方を見る。ハムレット、うなずく。)

オフィーリア わたくしでよろしければ。

  (パリス、オフィーリアの手をとって舞台の中央に導く。そこで、二人、踊る。)

モンタギュー夫人 あそこで踊ってらっしゃるのは、確か、エスカラス様のご親戚の方じゃなかったかしら?

ジュリエット ええ、確かに、あの方はパリス様ですわ。

ロミオ いっしょに踊ってらっしゃるご婦人は、エスカラス様のところのお客様ですね。

モンタギュー夫人 お連れの方はどこに?

ジュリエット (窓の外を見つめているハムレットの方に顔を向けて)あそこに。

  (窓の外を亡霊が横切る。ハムレット、扉を開けて外に出る。)

ロミオ 様子を見てきましょう。気分が悪くなられたのかもしれない。

  (ロミオ、ハムレットの後を追って外に出る。暗転。)



  第二場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、中庭。

  (仮面を外したハムレットが後ろ向きに立っている。ロミオが背後から近づく。)

ロミオ ご気分でも悪くなられたのですか?

ハムレット (ロミオの声に驚いて)えっ。(と言って振り返る。)

ロミオ 驚かせてすいません。ご気分でも悪くなさったのかと思って声をかけました。

ハムレット ああ、いえ、大丈夫ですよ。

ロミオ でも、お顔の色が月のように真っ白ですよ。

ハムレット 亡くなった父のことを思い出してしまって(と言って、窓明かりを指差し)あそこから逃げ出してきました。

ロミオ そうでしたか……、できることなら、ぼくも逃げ出してしまいたい。

ハムレット どこからですか?

ロミオ ぼくの運命からです。ジュリエットとの婚約、ジュリエットとの結婚という、ぼく自身の運命からです。

ハムレット (笑って)悪い冗談です。

ロミオ 冗談ではありません。

ハムレット (真剣な表情になる。)あなたは、ジュリエット嬢のことを愛していないのですか?

ロミオ 愛しておりません。今夜の婚約披露パーティーは、モンタギュー家とキャピュレット家の名誉と富が一つに合わさったことを、世に示すために催されたようなものなのです。

ハムレット ジュリエット嬢は、あなたのことをどう思っているのでしょうか?

ロミオ 愛してくれているようです。

ハムレット あなたも彼女のことを愛するようになるかもしれません。

ロミオ いいえ。おそらく、ぼくが彼女のことを愛することなどないでしょう。

ハムレット なぜですか?

ロミオ ぼくには、女性を愛することができないからです。異性に対して、性的な興味が、まったくないからです。

ハムレット 女性とは未経験ですか。

ロミオ 未経験です。

ハムレット 未経験であるということが、あなたを女性恐怖症にしているのではないでしょうか。しばしば、そういう若者がいます。経験さえすれば、それまでの女性恐怖症が、嘘のように消し飛んでしまいますよ。

ロミオ 確かに、ぼくは女性恐怖症かもしれません。でも、それとは関係ありません。ぼくは、同性である男性にしか、性的な興味が持てないのです。

ハムレット それもまた、あなたの思い過しであると考えられませんか?

  (ロミオ、突然、ハムレットに抱きつく。ハムレット、とっさのことに驚いて、
ロミオを抱き返してしまう。ジュリエット、扉を開けて、抱き合った二人を見る。)

ロミオ ぼくは臆病です。ぼくは、普段とても臆病なのです。ですが、いまは違います。いまは、勇気を出して、あなたに愛を告白することができます。

ハムレット (ロミオの躯を離して)わたしは、それにこたえることができません。

ロミオ さきほど、はじめてお顔を拝見したとき、ぼくは、ぼくの胸の中に、何か重たいものが吊り下がったような気がしました。そして、こうして、月の光の下であなたとお話しているうちに、それが恋であったということに気がついたのです。

ハムレット わたしは、あなたの恋にこたえることができません。わたしは、婚約者といっしょに、今夜、ここにやってきたのです。

ロミオ もしも、お一人でやってこられたとしたら?

ハムレット それでも、わたしは、あなたの恋にこたえることができません。なぜなら、わたしは同性愛者ではないからです。あなたを愛することはできません。

ロミオ でも、ぼくには、あなたの表情の一つ一つから、あなたが、ぼくに好意をもって、お話しくださっていることがわかります。

ハムレット あなたのように若くて美しい青年から真摯に愛を告白されれば、だれもが悪い気はしないでしょう。わたしが、あなたに好意をもって、何の不思議があるでしょう。しかし、だからと言って、わたしが、あなたの恋にこたえていると早合点してはなりません。

ロミオ (独り言のように、俯いて小さな声で)早合点、ですか……。

ハムレット そろそろ、戻りましょう。

ロミオ その前に、あなたのお名前をお教えください。

ハムレット そう言えば、まだ名乗っておりませんでしたね。ハムレットです。

ロミオ ハムレット様! (と言うやいなや、ハムレットの唇に接吻する。)

  (ハムレット、バランスを崩しかけて、思わずロミオの肩をもってしまう。二人のことをずっと見てきたジュリエット、扉の中に入る。ハムレット、ロミオの躯を押し離す。オフィーリア、ジュリエットとほとんど入れ違いに中から出てくる。)

ハムレット 戻りましょう。(と言って、オフィーリアの方を振り返る。)

  (オフィーリア、ハムレットとロミオの二人に微笑む。)



  第三場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、ジュリエットの部屋。

  (ジュリエット、母親のキャピュレット夫人の膝の上に顔を伏せて泣いている。)

キャピュレット なぜ、ロミオが身持ちが堅いと評判だったのか、よくわかった。

キャピュレット夫人 (娘の背中をさすりながら)あなた(と、夫に声をかける。)

キャピュレット よりにもよって、娘の婚約者が同性愛者だとは!

キャピュレット夫人 いっそ、婚約解消いたしましょう。

ジュリエット (顔を上げて)いやです。わたくしはロミオ様をお慕い申しております。

  (と言って、ふたたび顔を伏せて泣く。一際大きな声で。)

キャピュレット (夫人に向かって)婚約解消はだめだ。二人がいずれ結婚するということは、ヴェローナにいる者なら、知らない者はいないのだ。それに、婚約解消ということになれば、たとえロミオのことを公表したとしても皆が皆、それで納得するという保証はないのだ。わがキャピュレット家の支持者も多いが、モンタギュー家の支持者も多い。ジュリエットの方にこそ問題があるのだと、ありもしない理由を作る輩が出てくるに違いない。わが娘が、そのような侮辱を受けてよかろうものか! よかろうはずがあるまい。まして、これは、ジュリエット一人の問題ではない。わが キャピュレット家の名誉にも関わることなのだ。

キャピュレット夫人 (夫に向かって)では、結婚させるのですね。

ジュリエット (母親にすがりついて)お母様……。

キャピュレット 結婚させるにしても(と言って、ひと呼吸置く。)

キャピュレット夫人 (娘を抱き締めて)結婚させるにしても(と、夫の言葉を継ぐ。)

キャピュレット このままでよいのか、それともよくないのか、それが問題だ。



第三幕

  第一場 ヴェローナ。僧ロレンスの庵室。

  (早朝、ロレンスが薬草を薬棚に仕舞っているところ。扉をノックする音。)

ロレンス はい、はい、おりますですよ。(と言って、扉を開ける。)

ロレンス これは、これは、キャピュレット様。

キャピュレット ロレンス殿、今日はぜひお頼みしたいことがあってまいったのですが。

ロレンス はあ、――で、それは、いったいどのようなお頼みごとでございましょう。

キャピュレット 実は、家で飼っている子馬が死にかけておりましてな。

ロレンス (うなずいて)ええ。

キャピュレット 娘がそれを見て、とても悲しんでおるんですよ。

ロレンス そうでしょうな。お可哀相に。――で?

キャピュレット それでですな。親であるわたしには、娘が悲しんどる姿など見ちゃおれん、というわけですわ。(ロレンスの顔を覗き込む。)

ロレンス それは、ごもっともなお話です。お気持ち、お察し申し上げます。――で?

キャピュレット ――で、ですな。その子馬を薬で楽に死なしてやりたいと思いましてな。

ロレンス なるほど、なるほど。それで、ここに、やってこられたというわけですか。

キャピュレット そのとおりです、ロレンス殿。そういった薬を調合する資格のある者は、ここヴェローナでは、ロレンス殿、あなた、ただお一人ですからな。

ロレンス 公式には、ですよ。闇で作っておる者がおりますから。

キャピュレット しかし、ロレンス殿ほどに優秀な調合師はほかにはおらんでしょう。娘には、子馬が自然に死んだと思わせたいのですわ。薬殺したとわかれば、娘の悲しみが倍加するに違いない。餌をやってすぐに死ぬようなことがあっては疑われてしまう。そのようなことがないように薬を調合できるのは、あなたをおいてほかにはいない。作っていただけますかな?

ロレンス お作りするのは造作もないこと。ほかならぬキャピュレット様のことですから、すぐにでもお作りいたしましょう。キャピュレット様なら、安心してお渡しできます。ですが、これだけはお約束ください。その薬は、その死にかけた子馬にだけ使うということを。ほかの目的には絶対に使用しないでください。

キャピュレット お約束しましょう。ほかの目的には一切、使用しません。

ロレンス もう一つ、お約束ください。その子馬を薬殺した後、薬が入っていた壜は、直ちに、こちらに返しにきてください。壜の中に残った薬を、万一、だれかが誤って飲んだりするようなことがあるといけませんから。

キャピュレット お約束しましょう。事が済み次第、すぐに持ってまいりましょう。

ロレンス では、お昼過ぎにおいでください。

  (キャピュレット、うなずいて部屋を出てゆく。)



  第二場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、応接間。

  (キャピュレット夫妻、ハムレットとオフィーリアを自宅に招いて談笑している。)

キャピュレット夫人 (ハムレットとオフィーリアの二人に向かって)では、お二人も婚約なさったばかりなのですね?

ハムレット そうです。

キャピュレット わたしの娘とロミオの二人をごらんになって、どうお思いですかな?

ハムレット お似合いのカップルだと思います。お二人とも、花のようにお美しい。

  (キャピュレット夫人、オフィーリアの顔を見る。)

オフィーリア ええ、まさしくジュリエット様は白い百合、ロミオ様は赤い薔薇のようですわ。

キャピュレット (二人に微笑んで)そんなに褒められては、花に申し訳ない。

  (ハムレットとオフィーリアの二人、微笑み返す。)

キャピュレット あとで、娘にも聞かしてやりましょう。先ほども申しましたように、昨夜の疲れが出たのか、いまは部屋で休んでおりますが、そのようなお褒めの言葉を耳にすれば、すぐにでも元気になるでしょう。

ハムレット お大事になさってあげてください。

オフィーリア ご心配ですわね。

キャピュレット (うなずいて)せっかく、お二人におこしいただきながらに……、せめて 挨拶だけでもさせようと思ったのですが、眠っておりましたので。

ハムレット どうぞ、お気兼ねなく、お嬢さんを休ませてあげてください。

キャピュレット夫人 ところで、ハムレット様は、乗馬やフェンシングのほかに、何かご趣味はおありですの?

ハムレット 詩を書いています。

キャピュレット 詩を?

ハムレット ええ。

キャピュレット夫人 ぜひ、お聞かせいただきたいですわ。

ハムレット 拙いものですけれど、よろしかったら。

キャピュレット ぜひ。

ハムレット では、短めのものを、一つ。

  (ハムレット、深呼吸すると、眉間に皺をよせ、目をつむって詩を暗唱し始める。)

     死に
     たかる蟻たち
     夏の羽をもぎ取り
     脚を引きちぎってゆく
     死の解体者
     指の先で抓み上げても
     死を口にくわえて抗わぬ
     殉教者
     死とともに
     首を引き離し
     私は口に入れた
     死の苦味
     擂り潰された
     死の運搬者
     私
     の
     蟻

  (暗唱し終わると、耳を傾けていた三人が拍手する。)

キャピュレット すばらしいですな。

キャピュレット夫人 すばらしかったですわ。

ハムレット そうおっしゃっていただけて光栄です。

キャピュレット夫人 でも、とても怖い感じの詩でしたわね。いつも、そのような詩をお書きになってらっしゃるのかしら?

ハムレット (笑って)人を驚かすのが好きなんですよ。

オフィーリア いつも驚かされていますわ。

キャピュレット夫人 まあ。

キャピュレット 喉が渇かれたでしょう。何か飲み物を持ってこさせましょう。

  (と言って、用意してあった飲み物をもってくるよう、召し使いに言いつける。)

キャピュレット ヴェローナには、いつまでおられるおつもりですかな?

ハムレット まだ、しばらくいるつもりです。

キャピュレット夫人 ごゆっくりなさってください。ヴェローナはいいところですわ。

ハムレット (オフィーリアを見て)彼女の父親のことが心配ですが……。

キャピュレット (ハムレットの顔を見ながら)ハムレット殿は、お優しい方ですな。(と言って微笑み、オフィーリアの方を向く。)親が子を思う気持ちをよくお知りだ。

  (召し使い、銀盆の上に、飲み物を載せて登場。)

キャピュレット (銀盆の上を指差して)わたしと妻にはパープルの方を。ハムレット殿にはブルー、オフィーリア殿にはレッドの方を。

  (四人が飲み物を手にする。)

オフィーリア (ハムレットが手にもったグラスを見て)ブルーの色がとてもきれいね。

ハムレット (キャピュレットの方を向いて)グラスを取り換えてもよろしいですか?

キャピュレット (困惑した面持ちで)え、ええ。もちろん結構ですとも。

  (交換される二つのグラス。キャピュレット、息を呑んで、オフィーリアの口元を見つめる。オフィーリア、ゆっくりとグラスを傾ける。暗転。)



第三場 ヴェローナ。エスカラス家邸宅内、賓客用客室。

  (ハムレット、ベッドの上に横になったオフィーリアの肩を揺さぶっている。)

ハムレット おお、オフィーリアよ、オフィーリアよ! なぜ、そなたは目を覚まさぬのか? なぜ、目を覚まさぬのか、オフィーリアよ!

  (ロミオ登場。その背後から、亡霊の姿が現われる。)

ロミオ ハムレット様、どうなさったのですか?

  (ハムレット、振り向く。)

ハムレット (驚いて叫ぶ。)出ていけ、亡霊よ!

ロミオ わたしです。ロミオです。

  (亡霊、ロミオの背後に隠れる。)

ハムレット おお、ロミオ殿。すまない。オフィーリアが、オフィーリアが目を覚まさないのです。目を覚まさないのですよ。息はあるのですが、かすかに、息は。

ロミオ 一体、何があったのですか?

ハムレット いいえ、何も、何もありません。キャピュレット殿のところから戻ると、急に眠くなったと言ってベッドに横たわったのです。しかし、しばらくして様子を見てみたら、躯が冷たくなっていて、目を覚まさないのですよ。

ロミオ (ベッドに近づきながら)それは大変だ。

  (ハムレットの目が、亡霊の姿を捉える。)

ハムレット おお、亡霊よ、亡霊よ! 立ち去れ、立ち去れ、立ち去るがいい。(と叫んで手を振り上げる。)

ロミオ (振り上げられたハムレットの手をもち)ハムレット様、落ち着いてください。どうか、落ち着いて、よくごらんになってください。(と言って、自分の背後を振り返る。)亡霊などおりません。(ハムレットの手を離す。)

ハムレット (亡霊を指差して)そなたには、その亡霊の姿が見えないのか?

ロミオ (ふたたび、振り返り見る。)見えませぬ。

ハムレット あれは幻ではない。あれは幻ではない。あれが幻なら、このベッドの上に横たわるオフィーリアの姿も幻だ。おお、そして、このわたしの姿も幻だ!

ロミオ しっかりなさってください、ハムレット様。

  (と言って、ロミオは手を伸ばしてハムレットの手を握ろうとするが、ハムレットは、その手を振り払う。)

亡霊 (皮肉っぽく)しっかりなさってください、ハムレット様? 余のことを気狂い呼ばわりしたおまえが、気が狂っておるのじゃ。

ハムレット わたしの気が狂っているというのか?

ロミオ (首を振って)そんなことは申しません。

  (亡霊の躯とロミオの躯を押し退けて、ジュリエット、登場。ハムレットの躯に体当たりする。ハムレットの白いシャツが鮮血に染まって赤くなる。)

ロミオ 何ということを。(と言って、ジュリエットの手からナイフを取り上げて、床の上に投げ捨てる。そして、ハムレットの躯を抱え起こす。)

ジュリエット わたしが愛しているのはロミオ様、ただお一人。ロミオ様も、ただわたくし一人を愛してくださらなければならないのよ。

ロミオ (凄じい形相で)尼寺へ行け! そなたの姿など、二度と目にしたくない。

ジュリエット ロミオ様!

ロミオ 尼寺の道へと急げ! 急がねば、わたしにも罪を犯させることになるだろう。その血に汚れた手を挙げて、神に許しを乞うがいい。もしも、神が、真に慈悲深きものなら、そなたを赦しもしよう。しかし、わたしは赦さない。赦すことなどできはしない。

  (ジュリエット、泣きながら走り去る。亡霊も立ち去る。ロミオ、ハムレットの躯を抱き締める。舞台の上、溶暗しながら、するすると幕が下りてゆく。)





参考文献
シェイクスピア「ハムレット」大山俊一訳
シェイクスピア「ロミオとジュリエット」大山俊子訳


In The Real World。/どこからも同じくらい遠い場所。

  田中宏輔




 濫読の時期は過ぎた、といえるのかどうか、それはわからないけれど、少なくとも、一日に一冊は読むという習慣はなくなってしまった。ヘミングウェイの作品のタイトルではないが、何を見ても何かを思い出す、とまではいかなくとも、本を読んでいると、だいたい、二、三ページもいかないうちに、まあ、ときには、数行ごとに、まれには、数語ごとに、本を伏せて、あるいは、栞をはさんで本を閉じ、思い出そうとしているものの正体がはっきりするまで、しばしのあいだ、思いをめぐらすことが多くなってきたのである。このとき、目を閉じていることはあまりなくて、おおかたは、目のまえにあるパソコン二台を見つめながらのことが多いのである。手前のパソコンはネットにつねに接続してあって、自分のものや他人のもののブログやツイッターやミクシィやfacebookや文学極道の詩投稿掲示板や文学極道のフォーラムなどのページを開けていることが多く、後ろのパソコンはDVDやCDを再生させるために開けていて、つねに映像か音楽が流れている。起きているあいだに、この二台のパソコンのスイッチが切られることは、まずなくて、寝るまえに、精神安定剤と睡眠導入剤を服用するまでつきっぱなしである。ここ五、六年ばかりのあいだ、処方されるクスリは同じもので、ラボナ、ロヒプノール、ピーゼットシー、ワイパックス、ハルシオンの五錠である。きょうの夜から一錠、ロゼレムが増える。このクスリは大丈夫だろうか。薬局のひとの話では、このロゼレムというクスリは、一年まえに開発されたクスリで、睡眠のリズムを整えるものらしく、ほかの五錠のクスリのように、脳に直接アタックするものではないとのことだった。そうか、ほかの五錠のクスリは、脳に直接アタックするのか、怖い話だなと思ったのだが、六、七年ほどまえのあるときに、睡眠障害がひどくなって、そのとき服用していたクスリでは眠れなくなったので、かかりつけの神経科の医師に相談すると、ジプロヘキサというクスリを処方されてのんでみたのだが、十六時間昏睡してしまった。十六時間も眠っていると、体調がおかしくなるのだとはじめて知った。目がさめたとき、ものすごくしんどくて、まったく身体を動かすこともできず、手でさえ動かすこともむずかしくて、指先に力も入らず、これはどうしたことだろうと思って、さらにはっきり目がさめるまで、おそらくはそれほど時間は経っていなかったのであろうが、自分の感覚的な時間では、一時間以上ものあいだ、指をふるわせて、正常な感覚が戻るのを待っていたのであった。しばらくたって、ようやく指の感覚が戻ってきたときでも、身体はまったく動かせなかった。まるで一挙に体重を何十倍ほども増したかのような感じで、身体が重たくて重たくて仕方なかったのである。じょじょに身体の感覚が戻るのに要した時間がどれほどだったのか、正確にはわからないが、目がさめてから、現実時間で一時間以上は経っていただろう。自分の感覚では、数時間以上だった。ようやく時計を見ることができたときには、驚かされた。眠っていた時間は、どう計算しても、十六時間以上あったのである。新しく処方されたジプロヘキサのせいだと思い、その日のうちに、通っている神経科医院に行き、処方してもらった先生に、この症状を報告すると、先生は、「クスリが合わなかったみたいですね。」とおっしゃるだけで、「あのう、このクスリ、こわいので、捨てておきます。」と、ぼくの方から言わなければならなかった。万が一、変な気を起こして、ぼくがそれを大量にのむことができないようにである。まあ、医院に行くまえに、捨てていたのだけれど。大量のジプロヘキサを服用したら、簡単に死ねるからである。医院に行くまえに、パソコンでジプロヘキサのことを調べたら、血糖値の高い患者が服用すると死ぬことがあって、死亡例が十二例ほどあったのである。ぼくも血糖値が高くて、境界性の糖尿病なのだが、神経科の医師には、ぼくの血糖値が高いことは話してなかったのである。ときどき、捨てなかったらよかったなと思うことがある。いつでも死にたいときに死ねるからだけど、いや、やはり、どんなに身体が痛いときにでも(心臓のあたりがキリキリ痛むことがあるのだ)、神経がピリピリするときにでも(側頭部やこめかみの尋常でない痛みに涙が出ることがあるのだ)、膝が痛くて脚を引きずっているときにも、また、いま嗅覚障害でにおいがほとんどわからないのだが、そういったことにも、意味があると思って、思い直して、自ら死ぬんだなんて、なんていうことを考えるのだろう、この痛みから見えるものの豊かさに思いを馳せろと自分に言うのだが、言い聞かせるのだが、それでも、ときどき揺れ戻しがあるのである。そういうときには、こころが元気になるように、本棚から適当に本を選んで抜き取り、それを読むことにしている。けさ選んで抜き取って手にした本は、岩波文庫から出ているボルヘスの「伝奇集」というタイトルのものだった。買ったときの伝票の裏に、つぎのようなメモをしたためていた。1999年8月14日、土曜日、午後12時27分購入、と。ぼくは、手にしたボルヘスを読むことにして、BGMに、ピンクフロイドの WISH YOU WERE HERE のCDを、後ろのパソコンに入れて再生させた。読みはじめてすぐに、本の2ページ目、プロローグの最後の行、というよりも、そのプロローグが、ボルヘスによって書かれた、つまり、書き終えられた、という、いや、もっと正確に言えば、ボルヘスが書き終えた、と書きつけている日付に目が引きつけられたのであるが、引きつけられて、はた、と思い至り、読んでいたボルヘスの「伝奇集」を伏せた。


一九四一年一月十日、ブエノスアイレスにて


 ぼくの誕生日が、一九六一年の一月十日であることは、以前に、「オラクル」という同人誌に発表した詩のなかに書いたことなので繰り返すのははばかれるのだが、発表される場が違うこと、また、発表される媒体そのものが異なることから、ふたたび、ここで取り上げることにする。ぼくが、ぼくの第一詩集の奥付に書きつけた、ぼくの誕生日の日付が、一九六一年一月十二日であるのは、ぼくの父が、ぼくの出生届を出しに役所に行った際に、その提出した書類に、ぼくが生まれた日付ではなくて、ぼくが生まれた日付を書く欄に、その書類を提出したその日の日付を書いて出したからなのだが、このいきさつについては、何年か前に、実母からぼくに連絡があるようになって、はじめて知ったものであるが、それは、すなわち、ぼくの父が、ぼくを長いあいだ、ずっと欺いてきたということである。そのときには、強い憤りのようなものを感じたものの、その父も少し前に亡くなり、いまぼくも五十一歳になって、あらためて考え直してみると、父が自分の過ちを訂正することなく、そのまま放置していたおいたことも、父が父自身の人生に対して持っていた特別な感情、これをぼくは何と名づければよいのかまだよくわからないのであるが、何か、「あきらめ」といった言葉で表せられるような気がするのであるが、かといって、「あきらめ」という、ただ一つの言葉だけでは書き表わせられないところもあるような気もする父のこころの在り方を思い起こすと、当時、ぼくの胸のなかに噴き上げた、あの怒りの塊は、いまはもう、二度と噴き上げることはない。なくなっている。もしかしたら、ぼく自身のこころの在り方が、いまのぼくのこころの在り方が、生きていたころの、とくに晩年の父のこころの在り方に近づいているからなのかもしれない。いや、きっと、そうなのであろう。いまになって、そう思われるのである。不思議なものだ。ボルヘスの本を取り上げなければ、こんなことなど考えもしなかったであろうに。
 伏せたボルヘスの本に目をやると、それをひっくり返して、ふたたび目を落とした。


一九四一年十一月十日、ブエノスアイレスにて


 一月十日ではなかったのだった。いったい何が、ぼくに、一月十日だと読み誤らせたのであろうか。無意識層のぼくだろうか。それとも、父の霊か、ボルヘスの霊だろうか。まさか。だとすると、ボルヘスの言葉は、霊的に強力なものであることになる。そういう作品をいくつも書いているボルヘスではあるが。
 ふと気がつくと、スピーカーからは、 Shine on Crazy Diamond の Part I の出だしが流れていた、ピンクフロイドのこのアルバムのなかで、ぼくがいちばん好きなところが流れていた。





 きょうは、何だか、あさから、気がそわそわしていた。気持ちが落ち着かなかった。きのう、ことし出す詩集の「The Wasteless Land.VII」の二回目の校正を終えて、出版社に郵送したからかもしれない。やるべきことはやった、という思いからだろうか。読んでいたボルヘスの本に革製のブックカヴァーをかけて、リュックのなかに入れて、出かける用意をした。
 阪急電車のなかで、ボルヘスのつづきを読んでいると、42ページから43ページにかけて、つぎのような文章が書かれていた。


不敬にも彼は父祖伝来のイスラム教を信じていないが、しかし陰暦一月十日の夜も明けるころ、イスラム教徒とヒンズー教徒との争いに巻きこまれる。


 またしても、一月十日である。いや、プロローグのところでは、十一月十日であったので、またしても一月十日ではなかったのであるが、しかし、またしても一月十日である、と思われたのである。プロローグのところでは、はじめに見たときに、一月十日と、見誤っていたのであった。そのため、まるで胸のなかに、ものすごく重たいものが吊り下がったかのように感じられたのであった。
 西院駅から阪急電車に乗り、梅田駅に向かっていたのだが、桂駅を越えてしばらくしたころ、ふたたび、「一月十日」という記述を目にした。


一月十日の二枚の絵が


「一月十日」という言葉がある42ページと50ページの、ページの耳を折り、リュックのなかにしまうと、腕を組んで、すこしのあいだ、眠ることにした。幼いころから、乗り物に乗ると、すぐに居眠りする癖があったあのだが、ただ、子どものころのように、完全に熟睡するということはめったになくなっていて、いまでは、半分眠っていて、半分起きている、といった感じで居眠りすることが多くて、本能的なものなのか、それとも、ただ単に生理的なものなのか、その区別はよくわからないのであるが、目的の駅に着く直前に目が覚めるのである。不思議といえば、不思議なことであるが、このことについては、あまり深く考えたことはない。が、もしかしたら、意識領域のものではなくて、無意識領域のものが関与しているのかもしれない。あるいは、意識領域と無意識領域との遷移状態といったものがあるとすれば、その状態にあるところのものと関与しているのかもしれない。
 電車の揺れは、ほんとうにここちよい。すぐにうとうとしはじめた。





 廊下に立っている連中のなかには、ぼくのタイプはいなかった。体格のいい青年もいたが、好みではなかった。ぽっちゃりとした若い男の子もいたが、やはり好みではなかった。ミックスルームと呼ばれる大部屋に入って、カップルになった男たちがセックスしているところを眺めることにした。二十畳ぐらいの部屋に十四、五組の布団が敷いてあって、その半分くらいの布団のうえで、ほとんど全裸の男たちが絡み合っていた。ほとんど全裸のというのは、ごく少数の者は腰にタオルを巻いていたからである。以前にも目にしたことのある、二十歳過ぎぐらいのマッチョな青年が、中年のハゲデブと、一つの布団のうえで抱き合っていた。あぐらをかいて、じっと見ていると、肩先に触れてくる、かたい指があった。首を曲げて見上げると、背の低い貧弱な身体つきをしたブサイクなおっさんが、薄暗闇のなかで、いやらしそうな笑顔を浮かべていた。ぼくは、おっさんの手を(ニヤニヤしながら、そのおっさんは、ぼくの肩の肉を、エイリアンの幼虫のように骨張った堅い指でつかんでいたのだ)まるで汚らわしいものが触れたかのような感じで振り払うと、立ち上がって、足元で、はげしく抱擁し合うマッチョな青年と中年のハゲデブの二人のそばから離れた。二日前に、友だちのシンちゃんに髪を切ってもらって、短髪にしていたせいもあって、この日も、ぼくはよくモテた。いつだって、ぼくはモテるのだが、髪を切ったばかりのときは、格別なのである。しかも、この日は、ぼくと同じような、短髪のガッチリデブという、自分の好きなタイプとばかりだった。二週間前の土曜日にも、ここに来て、すごくタイプなヤツとデキて、つきあう約束をしたのだが、きょうは、そいつが仕事で会えないというので、ぼくも実家に戻っているよと嘘をついて、連絡をし合わないようにしていた。多少の罪悪感もあるにはあったが、そんなものは、すぐにも吹き飛んで、フロントに行き、券売機で宿泊の券を買って、従業員に手渡した。来たときには、泊まることなど考えてはいなかった。サウナだけのつもりだったのである。
 十年前ほどまえに、同人誌の「オラクル」に、ノブユキとはじめて出会ったときのことを書いた。


ノブユキとは、河原町にある丸善で出会った。二人は同じ本に手を伸ばそうとしたのだ。


 こんな文章を書いていたのだが、じっさいのところは、ここ、梅田にある北欧館というゲイ・サウナのなかで出会っていたのである。「オラクル」を読んだ人のなかには、ノブユキとぼくが丸善で出会って、同じ本に手を伸ばそうとしていた、などという、まるで少女マンガのなかに出てくるような、ぼくの作り話を信じた人もいるかもしれない。祖母は、よく、嘘をついちゃいけないよ、と言っていた。嘘をつくと、死んだら地獄に行くことになると。地獄に行くと、鬼に、長い長い棒を、くちのなかに入れられるよ、とよく言われていた。つぎからつぎにセックスの相手が現われた。夜中の二時をまわっても、部屋だけではなくて、廊下にまであふれて、腰にタオルを巻いただけのほとんど全裸の男たちがたむろしていた。遅くなると、土曜日だからか、酒気を帯びた男たちの割合が増えるのだが、ゲイ・バーによった帰りにでも来たのだろう、ぼくが出会った青年も酒くさかった。廊下に並べて置いてある椅子に座っていたその青年のすぐ隣に腰かけ、股をすこしずつ開いていって、自分の膝が相手の膝に触れるようにしていった。彼は、ぼくの膝が彼の膝に近づいていくのを、眠たそうな目で追っていた。ぼくの膝が彼の膝に触れる直前に、彼は、ぼくの顔を見て、コクリとうなずいて見せた。ためらう必要がなくなったぼくは、彼の膝に自分の膝を強く押しつけながら、彼が伸ばしてきた手をギュッと握った。彼の方もまた、ぼくの手をギュッと握り返してきた。ぼくと同じぐらいに彼も背が高くて、体格もガッチリしていた。訊くと、学生時代にラグビーをやっていたらしくて、いまでも会社のクラブでつづけているという。ぼくたちは、空いている布団を探しに、大部屋のなかに入って行った。土曜の深夜は、愛し合う男たちで、いっぱいだった。布団は、一つも空いていなかった。ぼくたちは、部屋の隅に立って、抱き合いながらキッスをした。セックスが終わってシャワーを浴びに行くカップルが布団から出て行くのを待ちながら。ぼくは青年とキッスした。キッスは、セックスぐらいに、いや、セックスよりも、もしかすると、キッスの方が好きかもしれない。キッスしてるから、すぐに布団が空かなくてもいいと、ぼくは思っていた。しばらくすると、そばにあった一組の布団が空いた。セックスが終わると、身体をパッと離して、タオルを巻きながら薄暗い部屋を出て行く若い二人を見送っていると、彼がぼくの手を引っ張った。彼の方が布団に近かったからであろう。ぼくたちはタオルケットをかぶって抱き合った。主よ、名前はツトムといって、二十四歳だという。年下の彼の方が積極的で、ぼくをリードしようとするので、そのことをヘンだと言って、不満そうな顔をして見せると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、年下とか、年上とか、そんなん関係ないやろ、と言って、ぼくの両手をつかんで、それをぼくの頭の上にやって、押さえつけると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください。わが王、わが神よ、ぼくの口のなかに右の手の人差し指と中指を入れ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、ぼくの両足首を持って、ぼくの身体を二つに折るようにして、ぼくの足を持ち上げると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、これまでなかに出されたことなんかないんだけど、ツトムくんならいいよ、と言うと、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、オレ、そんなん聞いたら、メチャクチャうれしいやん。えっ、そう? あっ、ああっ、ちょっと痛くなってきた、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、もうちょっとでイクから、がまんしてくれよ、おっ、おっ、おおっ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、私はあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのために、あっ、あっ、いてっ、ててっ、あっ、あっ、あぁ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます、あっ、あっ、ああ、あっ、あぁ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます、あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない、悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない、高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない、あなたはすべて悪を行う者を憎まれる、あなたは偽りを言う者を滅ぼされる、主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる、しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます、主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください、主よ、……






[注記] 終わりに挿入された聖句は、旧約聖書の詩篇・第五篇・第一節─第八節の日本聖書協会の共同訳より引用した。


黒い光輪。

  田中宏輔




I あがないの子羊



I・I 刺すいばら、苦しめる棘


その男は磔になっていた。
目は閉じていたが、息はまだあった。
皹割れた唇が微かに動いていた。
陽に灼けた身体をさらに焼き焦がす陽の光。
砂漠の熱い風が、こんなところにまで吹き寄せていた。
腕からも、足からも、額からも
もうどこからも、血は流れていなかった。
砂埃まみれの傷口、傷口、乾いた
血の塊の上を、無数の蠅たちが
落ち着きなく、すばやく移動しながら
しきりに前脚を擦り合わせていた。
頭の上では、それより多い蠅の群れが飛び回っていた。
蠅が蠅を追い、蠅の影が蠅の影を追っていた。
男の目が、微かに開かれた。
彼と同じように磔になった男のひとりが彼の横顔を見つめていた。
もうひとり、彼の脇に、彼と同じように磔になった男がいたが
もはや彼には首を動かす力もなかった。
磔柱の傍らでは
汗まみれ、泥だらけのローマ兵たちが
サイコロ遊びに打ち興じていた。
襤褸布の塊のような灰色の犬が
見えない目で、真ん中の磔台の男を見上げていた。
犬の目はふたつとも色を失っていて、石のように固まっていた。
突然、俄にかち曇り、一陣の風が吹き荒れた。
砂という砂が、風に巻き上げられた。
真昼間に、太陽は光を失い、夜となった。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」
男が暗闇のなかで叫んだ。
すると、光が戻った。
男は息を引き取っていた。
両脇の死体が片づけられているあいだ
真ん中の磔柱では
件(くだん)の犬が、溝穴にできた血溜まりを嘗めていた。
男の死を見とどけていた女たちのなかから石が投げつけられた。
いくつも、いくつも投げつけられた。
犬にあたり、磔柱にもあたった。
それでも、犬は血溜まりを嘗めつづけていた。
ローマ兵のひとりが、女たちに手を振り上げた。
石つぶてがやんだ。
ひとりのローマ兵が犬を捕まえ
尻尾をつかみ上げて逆さにすると
思い切り地面に叩きつけた。
犬は一瞬の絶叫ののち、左前脚を曲げて
躯を引き擦るようにして、その場を去っていった。
もう女たちも石を投げつけなかった……
……なかった、いなかった。
そこには、ペテロはいなかった。
そこには、アンデレはいなかった。
そこには、ヤコブはいなかった。
そこには、ヨハネはいなかった。
そこには、フィリポはいなかった。
そこには、バルトロマイはいなかった。
そこには、トマスはいなかった。
そこには、マタイはいなかった。
そこには、もうひとりのヤコブもいなかった。
そこには、シモンはいなかった。
そこには、タダイはいなかった。
そこには、ユダはいなかった。
磔台の上の死をはじめから終わりまで見つめつづけていたのは
ガリラヤからつき従ってきたひと握りの女たちと
もの珍しげに見物していたエルサレムの子供たちと
磔の番をしていたローマ兵たちだけだった。





注記

 この第I部のタイトルは、講談社発行のバルバロ訳聖書・新約・一三七ページの注記より拝借した。また、第I部・第I篇のタイトルは、共同訳聖書のエゼキエル書二八・二四にある、「イスラエルの家には、もはや刺すいばらもなく、これを卑しめたその周囲の人々のうちには、苦しめるとげもなくなる。こうして彼らはわたしが主であることを知るようになる」からつけた。頭に戴いたのは、王冠ではなく、いばらの冠であった。イエスの頭上、磔柱の上方には、ピラトの指示によって、「ユダヤの王、イエス」と記された罪標が打ちつけられていた。
 犬は、この長篇詩の狂言回し的な存在で、それが象徴するものは甚だ多義にわたっているが、まずは、アルファベットに注意されたい。DOGが逆さまになると……。この犬を盲目にしたのは、無知蒙昧な民衆の比喩である。また、犬に血を嘗めさせたのは、列王紀の第二一章、第二二章にある、悲惨な最期を遂げた人々の血を犬が嘗めたという記述から。また、これは、葡萄酒を血に喩えた、最後の晩餐におけるイエスの言葉にも符合させたものである。ちなみに、『イメージ・シンボル事典』の「dog」の項を見ると、サイコロの悪い目のことが「イヌ」と呼ばれていたらしい。
「そこには──がいなかった。」と列記したのは、いわゆる十二使徒たちの名前であるが、このうち、ペテロをのぞいて、すべて講談社・少年少女伝記文学館・第一巻『イエス』によった。ペテロのみ、共同訳聖書から採った。ゴルゴダの丘にいたのは、記述した者のほかにも、イエスを訴えた祭司貴族や、律法学者や、ヘロデ・アンティパスに遣わされた者たちや、処刑見物の好きな民衆たちもいたであろう。しかし、彼らも、イエスがきれいな亜麻布に包まれるまではいなかったであろう。これは想像にしか過ぎないが、ローマ兵に命じられ、イエスに代わって十字架を背負ったクレネ人のシモンが、イエスが息を引き取るまで見つめつづけていたのではないだろうか。彼の名前をここに入れたかったのであるが、詩の調子が崩れることがわかったので諦めた。





I・II ヴィア・ドロローサ I


クレネのシモンは          犬が跛をひきな
  坂道を下りながら          がら坂道を
    下りてゆきながら          下りて
      思い出していた          くる
        磔になった男の         …
…         あの男の死に顔を
なぜ          死の間際に浮かんだ
あの男が          あの不思議な死に顔を
自分のことを          頭から離れなかった
ユダヤの王だなどと         シモンの右足が
そんな世迷言をいったのか        小石を一つ
農夫のシモンにはわからなかった       けった
わからなかったけれど、そんなことなど
いまの彼にとってはどうでもいいことであった
 あの男の代わりに十字架を背負わされたところにきた
   あの男が膝を折って蹲ったところだ、とそのとき
     傍らを汚らしい灰色の犬が走り抜けていった
       そいつは跛をひきひき走り去っていった
         シモンの目に、あの男の幻が現れた
           まだ磔にされる前、衣服を剥ぎ
…            取られて裸にされる前の姿
なぜ             であった。シモンが手
あの男              をのべると、ふっ
の幻が目の              と消えた。消
前に現れたのか              えてしま
クレネのシモンには              った
わからなかった。わから             …
なかったけれど、ローマ兵に
強いられて、あの男の代わりに
重い十字架を背負わされたことなど
不運なことだったとは微塵も思わなかった





注記

第I部・第II篇のタイトルについて、『図説・新約聖書の歴史と文化』(新教出版社、M・ジョーンズ編、左近義慈監修、佐々木敏郎・松本冨士男訳)の解説を引用しておく。「ヴィア・ドロロサ(すなわち<悲しみの道>)は旧市街(すなわち中世の都市)を通る道につけられた名で、イエスが<総督の官邸>から<ゴルゴタという所>(マルコ15・16、22)へ十字架を背負って歩まれた道を示し、敬虔な巡礼者たちによって使われる道である。13世紀の修道僧が最初に巡礼者としてこの旅をしたのが、おそらく事の起こりであろう。この道を現代の巡礼者たちは金曜日毎に、<十字架の道行きの留(りゅう)>(The stations of the cross)の各所で、祈祷と瞑想のために立ち止まりながら通過する。」。





I・III ヴィア・ドロローサ II


上がる道も下る道も、同じひとつの道だ。
        (ヘラクレイトス『断片』島津 智訳)


「あんた、さっきから、なに考えてんのさ。」
「いや、なにも、べつに、なにも考えちゃいない。」
「ははん、こっちに来て、あたいと飲まないかい。」
赤毛の男は席を立って、女のそばに腰かけた。
──わたしの顔を知る者はいない。
「ここの酒は、エルサレムいちにうまいよ。」
「ほんとかね。」
男は、中身に目を落として、口をつけてみた。
「よく濾してある。香りづけも上等だ。」
男は一気に呑み干した。
「おやまあ、陰気くさい顔が、いっぺんに明るくなっちまったよ。」
「ああ。ほんとにうまかった。苦みがなかった。」
「ここじゃあ、枝蔓ごと、もぎ取ったりはしないからね。」
──田舎じゃないって、言いたいのか。
「女、なんという名だ。」
「マリアさ。」
──あのひとの母親と同じ名だ。神に愛されし者、か。
「あんたは、なんて言うんだい。」
「ユダだ。ユダ。マリアほどにありふれた名前だ。」
女が身を擦り寄せて、男の胸元を覗き込んだ。
男の手が懐にある財布の口を握った。
「なにか大事なものでも、懐のなかに持ってんのかい。」
──大事なもの? 大事なもの? 大事なもの?
「金だよ。金。金に決まってんだろ。」
「そら、大事なもんさね。」
女が男の膝のあいだに手を滑り込ませた。
財布を握る男の手にさらに力が入った。
女の耳は、三十枚の銀貨が擦れ合う音を聞き逃さなかった。
戸口の傍らで、灰色の毛の盲いた犬が蹲っていた。





II デルタの烙印



II・I 死海にて I


ユダは湖面に映った自身の影を見つめていた。
死の湖(うみ)、死の水に魅入られた男の貌(かお)であった。
その影は微塵も動かなかった。
ただ目を眩ませる水光(すいこう)に
目を瞬かせるだけであった。
──この懐のなかの銀貨三十枚。
──これが、あのひとの命だったのか。
──これが、わたしの求めたものだったのか。
ユダは砂粒混じりの塩の塊を手にとって
彼自身の水影めがけて投げつけた。
水面から彼の姿が消えた。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの目が振り返った。
イエスが、生前の姿のまま立っていた。
ユダはおずおずと手をさしのべた。
(ひと瞬き)
イエスの姿はなかった。
──幻だったのか……
──そういえば、はじめて師に出会ったのも、ここだった。
ユダの歪んだ影像(かげ)が水面で揺らめいていた。





II・II 死海にて II


ユダは湖面に映った自身の影を見つめていた。
死の湖(うみ)、死の水に魅入られた、男の貌(かお)であった。
その影は微塵も動かなかった。
ただ目を眩ませる水光(すいこう)に
目を瞬かせるだけであった。
「友よ。」
「えっ。」
見知らぬ男がユダに話しかけてきた。
「死の湖(うみ)を覗き込んで、いったいなにを見ていたのだ。」
「……、自身の影を。」
「それは死だ。」
「えっ。」
「それは、死自体にほかならない。」
──いったい、この男は何者なんだろう? 死神だろうか。
「それは、おまえの目がこれから確かめることになる。」
ユダは、こころのなかを見透かされているのを知って驚いた。
男は石を手にとって、湖面に投げつけた。
「これで死は立ち去った。私についてきなさい。」
ユダの足は、男の歩みに固く従った。





II・III ヴィア・ドロローサ III


「……、そのとき、わたしは死のうと思っていたのだ。」
薄暗闇のなかで、マリアはユダの目を見つめた。
「じゃあ、そのひとは、あんたの命の恩人じゃないか。」
ユダは、女の豊満な胸のあいだに顔を埋めた。
女の目は、ユダの背後にある星々のきらめきを見つめていた。
「どうして、そのひとを売っちまったんだい。」
無意識のうちに、女の乳房を掴んでいたユダの手に力が入った。
「痛いじゃないか。」
「すまない。」
ユダは顔を上げてあやまった。
女はユダの頭を胸に抱いて、ささやくような小声できいた。
「金が欲しかったのかい。」
「ちがう。そんなものが欲しかったんじゃない。」
ユダは手をのばして、財布を引き寄せた。
「これは約束どおり、おまえにやろう。」
女の手に財布が渡された。
ユダは女の身体から身をはなした。
「行こうか。夜が明けてしまう。」
「あんたも大事なひとを失くしちまったんだね。」
マリアはまだ信じられなかった。
磔になって処刑された男が三日後によみがえるなんて。
そんな馬鹿な話を確かめるためだけに
銀貨三十枚も出す男がいるなんて。
──師よ。いま、わたしは、あなたを確かめにまいります。
ふたりの足は、イエスが葬られた墓穴に向かって
いそいだ。





III 復活



III・I 虚霊


墓穴のなかは、狼でさえ夜目がきかないほどに暗かった。
ふたりは、土壁に手をはわせて手探りしながら歩をすすめた。
奥に行けば行くほど、臭いがきつくなる。
──師は、師は、師は、……
マリアは袖口で鼻のあたりを覆った。
「見えるか。」
「ええ。」
マリアの声は、布を透してくぐもって聞こえた。
目が慣れて、少しは見えるようになった。
「師は、師は、師は、やはり死んでいた。」
ユダの身体が頽れた。
と、突然、狂ったようにイエスの遺体を引っ掴むと
亜麻布を巻きとって裸に剥いた。
「ああ、師よ、師よ、師よ。あなたは死んでいた。」
──やはり、復活など、ありはしなかったのだ。
ユダはマリアの姿をさがした。
マリアは亜麻布を持って立っていた。
「しっ。」
耳のいいマリアが合図した。
ユダはイエスの身体を抱き上げてマリアの背後に身を隠した。
──だれだろう。
マリアは亜麻布を纏って、両手をひろげた。
マグダラのマリアたちが姿をあらわした。
「驚くな。主はよみがえられた。」
マグダラのマリアたちは、御使いの声に驚いた。
「思い出すがよい。主は、おまえたちに約束されたであろう。
 主はよみがえられたのだ。すでにここにはおられない。」
女たちは駈け出すようにして墓穴のなかから出て行った。
ユダはイエスの亡骸を地面のうえに置いた。
「さあ、出よう。女たちが戻ってきてはまずい。」
「その死体は、どうするのさ。」
──持ち出さねばなるまい。
「外に持ち出そう。」
マリアは肩をすくめた。
「わたしが背負って歩く。」
ふたりは墓穴から出た。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの目が振り向いた。
「どうしたのさ。急に振り向いたりしてさ。」
マリアが訝しげに訊ねた。
「いや、なんでもない、なんでもない。さあ、行こう。」
大きさの異なる影が、エルサレムの門の外に消えた。
盲目の犬が、ひょこひょこと、ふたりの後ろからついていった。





III・II 廃霊


登場人物  マグダラのマリア
      ヤコブとヨセフの母マリア
      ペテロ
      ペテロの弟アンデレ
      他の使徒たちのコロス
      大祭司カヤパ
      祭司長と長老たちのコロス

舞台・I  エルサレムの町外れ、ある信徒の家
舞台・II  大祭司カヤパの屋敷


舞台・I

(エルサレムの町外れ、イエスの使徒たちが隠れ家にしている、ある信徒の家。早朝。)

アンデレ──目が冴えて眠れなかった。

ペテロ──それは、わたしも同じこと。いや、ここにいる信徒たちはみな同じこと。だれひとりとして眠った者はおらぬ。

アンデレ──じゃあ、兄さんたちも、主が言われたことを信じているのかい。

(ペテロ、言葉に詰まり、空咳。)

アンデレ──信じているのかい。それとも、信じちゃいないのかい。

ペテロ──信じている、信じている、信じているとも。しかし、わたしにどうしろと言うのだ。いったい、わたしにどうしろと言うのだ。

使徒たちのコロス──それは、わたしたちも同じこと。どうすることもできない。いったい、わたしたちになにができると言うのか。

アンデレ──マグダラのマリアたちは、危険を冒してでも、主が埋葬されている墓穴に行くと言っていた。

ペテロ──アンデレよ。わたしたちは、おたずね者なんだぞ。ここにこうしているだけでも、危険がどんどん増していくのだ。きっと、墓穴のまわりは、大勢の番兵たちが見張っていることだろう。

使徒たちのコロス──マグダラのマリアたちが帰ってきたぞ。

(ふたりのマリア、登場。激しい息遣い。)

マグダラのマリア──主がよみがえられたわ。主が約束されたように、三日目になって、よみがえられたのよ。そう御使いが、わたしたちに告げたわ。

ヤコブたちの母のマリア──このふたつの目が証人よ。

使徒たちのコロス──それは、まことか。

アンデレ──それは、ほんとうか。

ペテロ──まあ、待て、アンデレ。

(ペテロ、マグダラのマリアを睨んで、)

ペテロ──マリアよ。番兵たちはどうした。見張りの番兵たちがいただろう。

ふたりのマリア──(声を合わせて)いいえ、いなかったわ。

マグダラのマリア──しかも、墓穴の入り口は開いていたわ。それが何よりの証拠だわ。

使徒たちのコロス──それが、何よりの証拠だ。

ペテロ──待て。パリサイ人たちが、いや、大祭司カヤパの手下どもが主の亡骸を持ち去ったのかもしれないぞ。

(アンデレ、マグダラのマリアの手をとり、)

アンデレ──番兵は、いなかったのだな。

(マグダラのマリア、力強く肯く。)

アンデレ──じゃあ、兄さんたち、ぼくたちも見に行くべきだよ。

ペテロ──罠かもしれん。

(使徒たちのコロス、動揺して、身を揺り動かす。)

アンデレ──何を言うんだ、兄さん。

ペテロ──罠かもしれんと言ったのだ。番兵がいないだなんて、だれが信じるものか。それにな、もしも、主が復活されておられるのだとしたらな、マグダラのマリアたちの目の前にではなく、まず、わたしたちの目の前に御姿をあらわせられるはずだ。

使徒たちのコロス──そうだとも、そうだとも。なぜ、わたしたちの目の前に御姿をあらわせられないのだ。

(ペテロと使徒たちみんな、ふたりのマリアを家の外に叩き出す。アンデレ、腕を組んで考え込む様子を見せる。)


舞台(二)

(舞台は替わって、大祭司カヤパの屋敷内。昼過ぎ。)

祭司長、長老たちのコロス──カヤパさま、例の罪人、ナザレのイエスの死体が盗まれました。

大祭司カヤパ──番兵たちはどうしておったのじゃ。

祭司長、長老たちのコロス──おりませんでした。

大祭司カヤパ──どこに行っておったのじゃ。

祭司長、長老たちのコロス──わかりません。

大祭司カヤパ──なんじゃと。

祭司長、長老たちのコロス──それよりも、カヤパさま。女がふたり、町で変な噂を流しているという知らせが入りました。

大祭司カヤパ──へんな噂とは。

祭司長、長老たちのコロス──例の罪人、ナザレのイエスがよみがえったというのです。

大祭司カヤパ──ばかな。その女たちを捕らえよ。すぐに捕らえよ。そのふたりの女たちの仲間が、例の罪人、ナザレのイエスの死体を盗み出したのじゃろう。そのふたりの女ともども、みな捕らえよ。  

祭司長、長老たちのコロス──みな捕らえましょう。

(ここで、「捕らえよ! 捕らえよ!」の大合唱となり、舞台の上にするすると幕が下りてゆく。)





III・III 偽霊


ユダは目を凝らした。
駱駝を留めて、まじまじと見つめた。
砂漠の真ん中に、林檎の木が一本、生えていたのだ。
林檎の真っ赤な実がひとつ、ぶら下がっていた。
ユダは、それを手にとって、もいでみた。
すると、手のなかの林檎は
たちまち灰となって、掻き消えてしまった。
風のこぶしが、ユダの頬を殴った。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの腹のなかで、ナイフの切っ先がひねられた。
「師よ。」
ユダの腹から、ナイフが引き抜かれた。
「師よ。」
ユダは、砂のうえに、膝を折ってうずくまった。
「師よ。」
三たび、ユダは、男に呼ばわった。
男は、ユダの着物でナイフの血をぬぐい、腰に差した鞘におさめた。
「師よ、あなたは、よみがえられた。いま、わたしの目はたしかめました。」
男の影は、ユダの話を聞いていた。
「師よ、わたしを、おゆるしください。
 あの日、あなたを犬どもに売ったのは、わたしです。
 ああ、いま、わたしは、あなたがゴルゴタの丘で磔になられた
 あなたの苦しみを、いま、いま、……」
男は思い出した。
自分の代わりに十字架につけられた、あのナザレの男の顔を。
「イエスさま、お約束をお守りください。
 ガリラヤで、アンデレたちがお待ちしております。
 おお、主よ、主よ、わたしを、おゆるしください。
 わたしは、ペテロにそそのかされ、あなたを、あなたを、……」
ユダの顔が膝の上に落ちた。
駱駝の背から、ユダの荷物を降ろしながら、男は考えていた。
髭を剃った自分の顔が、磔にされた、あの髭の薄い女のような男の顔に
自分の顔が似ていると。
そういえば、ナザレの男のことは、巷で噂になっていた。
磔にされて死んだはずのあの男が、復活して生き返ったというのだ。
このことを利用してやることができるかもしれない。
バラバは、ユダの死体を後にして立ち去った。
盲いの犬が、ユダの腹から流れ出る血を
飽かずに舐めつづけていた。





参考に。apple of Sodom: ソドムのリンゴ。(死海沿岸に産するリンゴで外観は美しいが食べようとすると灰と煙になったという。Dead Sea apple ともいう。(『カレッジクラウン英和辞典』apple の項目より)。


Still Falls The Rain。 後篇  ──わが姉、ヤリタミサコに捧ぐ。

  田中宏輔




つぎつぎと観客が増えていき、店のなかが立ち見でもいっぱいで
ぼくと湊くんがいるテーブルのすぐそばまで、ひとが立ち見で
女性に連れられた子どもが、まだ5、6歳だろうか、女の子が
赤い子ども用のバッグを肩から提げて、クマの人形、パディントンって
言ったかな、それのグリーンと茶色のチェックのチョッキを着た
クマの人形を手にしていた女の子がそばにきたとき、店主の女性が
椅子をもってきた。その椅子は前述した、大きい中央のテーブルのもので
そのテーブルを壁に片側をくっつけたためにあまったものであった。
女の子がその椅子に腰かけた。まだまだ客は入ってきて、
しかもそれが圧倒的に女性が多くて、いろいろな香水の匂いがした。
ぼくは湊くんに
「なんで、こんなに女性が多いんだろうね。」
「さあ、なんででしょうかね。」
「ビートゆかり人たちの朗読って書いてあったと思うけど。
 ビートって、そんなに女性に人気だったっけ?」
「いやあ、そんなことないですよ。
 どうしてでしょうね。」
このときには、ぼくはまだ、この夜の朗読会の趣旨と
朗読するメンバーのことについて、ヤリタさん以外
ひとりのことも知らないのだった。
湊くんは、佐藤わこさんの詩集を東京ポエケットで買っていて
彼女のことは、間接的にだが、詩のうえでは知っていて
また、その詩集を出している佐藤由美子さんのことも見たことがあると
東京ポエケットでその詩集を売っていたのが佐藤ゆみこさんだったからだが
話をしたということもなくて、ただ詩集を買っただけというので
湊くんもまた、ヤリタさん以外、直接知っているひとはいなかったようだった。
佐藤由美子さんが、イーディさんの本のことを話される前に
佐藤わこさんが、詩の朗読をした。
いただいた詩集の『ゴスペル』を読まれたのかな。
ぼくは、朗読されていく声を耳で追いながら
彼女の詩集の言葉を、目で追っていった。
とてもスマートな詩句で、耳も、目も、ここちよかった。


専門の言葉や常套句を放棄したあとには、何ものも芸術作品の誕生をさまたげはしない。
(トンマーゾ・ランドルフィ『無限大体系対話』和田忠彦訳)


朗読会の途中で扉を開けて入ってくる人たちの様子に目をとめた。


I looked out the window.
(Jack kerouac, On the Road, PART THREE-2, p.183)


窓の薄いレースのカーテンに手を触れ、そっと
押し上げて、窓の外の夜を見ようとするが、真っ暗に近くて
雨が降っているかどうかわからなかったが、


It started to rain harder.
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-3, p.22)


入ってくる人の手に傘が握られ、それがすぼめられているところから、
とうとう、雨が本格的に降り出したことに気がついた。


思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


むかしというのはいろんな出来事がよく迷子になるところでね
(ロバート・ホールドストック『アースウインド』4、島岡潤平訳)


ぼくらは人生に迷子となるが、人生はぼくらの居所を知っている。
(ジョン・アッシュベリー『更に快い冒険』佐藤紘彰訳)


ダイヤモンド・シティーで
迷子になって、嗚咽を漏らしながら
階段を
手すりを伝いおりて来た
あの小さな男の子は
あれからあと、ぼくのことを夢に見ただろうか?
高校生の男の子や女の子たちは
まったく知らない顔と顔をして
階段に腰を下ろして
しゃべくりあっていた。
ハンカチーフをしくこともなく
じかに坐り込んでいた
制服姿の何人もの高校生たち。
お菓子の包みを、そこらじゅうにまいて。
カラフルな包み紙たちは
なぜかしらん、なきがらのようだった。
ぼくらが偶然、階段を使って下りたからよかった。
ぼくは、迷子になっていた男の子のそばにゆき
安心するように
自然な笑顔になれ

自分に呪文をかけて
その男の子に話しかけ
いっしょにいたジミーちゃんが、スーパーの店員を呼びに行った
迷子になった
きみは、ぼくのことを、いつか夢に見るのだろうか?
バスのなかで、母親に抱かれながら
顔をぼくのほうに向けて
ぼくの目をじっと見つめていたあの赤ちゃんも
いつか、ぼくのことを夢に見るだろうか?
ぼくがこれまで出会ったひとたちは
ぼくのことを夢に見たことがあるのだろうか?
ぼくのことを夢に見てくれただろうか?


What will you dream with us?
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.122)


六条院の玉鬘。


What do you want out of life?
(Jack Kerouac, On the Road, PART THREE-11, p.243)


夢の浮橋


What will you dream ?
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.122)


ものをこそおもへ。


See and die.
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.120)


We all will die. We all will see.
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.120)


タカヒロ
ノブユキ
ヒロくん
エイジくん
あの名前をきくことのなかった中国人青年よ
みんな、ぼくを去って
ぼくは、みんなから去って
いま
ここには
だれもいない。
いま
ここには
だれもいない


となると僕の握っているこの手は誰の手か?
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』H,志村正雄訳)


あの白い靴下も感じていただろうか?
ぼくもくやしさを。
ぼくのあこがれを。
ぼくの、ぼくの、ぼくの。
また会えるよね。
きっと、また会えるよね。
まだ会えるよね。
さもあらば、あれ。
ぼくの目に、きみの姿がよみがえる。
高校でも遠足ってあったんだよね。
遠足で、帰りに、ぼくはきみの斜め前の座席に坐ってた。
ちょっと眠かったから
ちょっと寝てたら
「あつすけ寝てるん?」
って、声がして
ぼくは、目が覚めてしまったけど
寝てるん?
っていう
山本くんの声が、そのまま、ぼくに寝たふりをさせてた。
きみは両足をあげてた。
それを甲斐くんが、自分の手のひらの上に載せて
あのガリ勉ガリ男の甲斐くんは
ぼくよりずっと頭がよかった
秀英塾でも、成績がトップだった甲斐くんが
きみの足を持って。
きみの両方の足を持って。
ぼくはきみのことが好きだったから
すごく甲斐くんのことが、うらやましかった。
すごく甲斐くんのことが、嫌いになった。
きみの
「あつすけ」と呼んでくれてたときの声がよみがえる。
声も感じてくれていたのだろうか。
ぼくのくやしさを。
ぼくのあこがれを。
きみの声が直線となって
ぼくの足もとに突き刺さる。
あのときの真っ白い靴下も直線となって
ぼくの足もとに突き刺さる。
あのときの列車といっしょに走っていた窓も
甲斐くんも、先生も、みんな直線となって
ずぶずぶと、ぼくの足もとに突き刺さる。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。
きみは野球部だった。
ぼくはデブだったけど
きみは、デブのぼくより、身体が大きくて
あの白い靴下を
きみの足を持った甲斐くんの声も憶えてるよ。
「しめってる。」
思い出されていく
声が、姿が、風景が
つぎつぎと直線となって
ぼくの足もとに突き刺さっていく。
ずぶずぶと、ぼくの足もとに突き刺さってゆく。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。
さもあらばあれ。
過去の光景が
つぎつぎと直線となって
ずぶずぶと斜めに突き刺さってゆく。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。
あの白い靴下も
階段に座り込んでいた高校生たちも
迷子の男の子も
あの夜の朗読会のヤリタさんの声も
パパも
ママも
タカヒロも
ノブユキも
ヒロくんも
エイジくんも
あの名前をきかなかった中国人青年も
みんな
つぎつぎと直線となって
ずぶずぶと斜めに突き刺さってゆく。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。


認識するとは、現実に対し然り(ヤー)を言うことだ
(ニーチェ『この人を見よ』なぜかくも私は良い本を書くのか・悲劇の誕生・二、西尾幹二訳)


「存在」は広大な肯定であって、否定を峻拒(しゅんきょ)し、みずから均衡を保ち、関係、部分、時間をことごとくおのれ自身の内部に吸収しつくす。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


Dream lover, won't you come to me?
Dream lover, won't you be my darling?
It's not too late or too early.
Dream lover, won't you kiss me and hold me?
Dream lover, won't you miss me and mold me?
(John Ashbery, Girls on the Run. XII, pp.28-9)


夢がまちがってることだってあるのよ
(チャールズ・ブコウスキー『狂った生きもの』青野 總訳)


間違っているかどうかなんて、そんなことが問題じゃないんだ、絶対に間違いのないようにするなんてことは、何の役にも立ちはしない、
(トンマーゾ・ランドルフィ『幽霊』米川良夫訳)


何が「きょう」を作るのか
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・NO、志村正雄訳)


誰がお前をつくったか
(ブレイク『仔羊』土居光知訳)


だれがぼくらを目覚まさせたのか
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)


ぼくらを待ちうけ、ぼくらを満たす夜、
(ジャック・デュパン『蘚苔類』4、多田智満子訳)


眠っているあいだも、頭ははたらいている。
(ロバート・ブロック『死の収穫者』白石 朗訳)


多くの名前が人間の夜をつぶやく
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』シャッフル・カット、飯田隆昭訳)


ぼくらは夢と同じ生地で織られている
(ホフマンスタール『三韻詩(てるつぃーね)』川村二郎訳)


夢はきみのために来たのだ
(ホフマンスタール『冷え冷えと夏の朝が……』川村二郎訳)


「ころころところがるから
 こころって言うんだよ。」


誰が公立図書館を必要とする? それに誰がエズラ・パウンドなんかを?
(チャールズ・ブコウスキー『さよならワトソン』青野 聰訳)


ぼくは、ボードレールが書き損じて捨てた詩句のメモみたいなものが
見てみたい!


愛とは驚愕のことではないか。
(ジョン・ダン『綴り換え』湯浅信之訳)


体験に勝る教えなし。


苦しみによって喜びを知ること
(エミリ・ディキンスンの詩 一六七番、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)


人生を知るためには、何度も何度も
天国と地獄のあいだを往復しなければならないのだ。


努力を伴わない望みは愚かしい
(エズラ・パウンド『詩篇』第五十三篇、新倉俊一訳)


理解は愛から生じ、愛は理解によって深まる。


交わりは光りを生む
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)


野球部だった。
キャプテンは
もうひとりの山本くんだったよね。
ぼくの山本くんは、いつもほがらかに
ニコニコしてた
家は、呉服屋さんだったかな
そいえば
着物が、とってもよく似合いそうだったね。
きみも
ぼくも
おなか
出てたもんね。
なのに
あの日
あのとき
ぼくらは
高校一年生だった
きみは
「あつすけ。
 おれな。
 双子の弟がおってな。
 そいつ
 生まれたときから、ずっと
 寝たままやねん。
 ずっと寝たまま
 目、さましたこと、ないねん。」
とても真剣な
思いつめたようなきみの顔は
なんだか
とても怖かった。
なんで、ふたりっきりになったのか
おぼえてへんけど
そのこと聞いた、ぼくが、どう思ったか
とても怖かったってことしかおぼえてないんやけど
ふだんは
ニコニコして
明るく笑ってた
ぼくの山本くんじゃなかったから
怖かった。
あのときのぼくらは
もうどこにもいないけど
「あのとき」に貼りついたまま
どこかで
いや、
「あのとき」の教室に、いるんやろうなあ。
しょっちゅう
肩を抱かれてたような気がする。
ぼくもデブだったし
きみもデブだったのに
なんだか、ふたりして、ころころしてたね。
きみの顔が
きみが怖かったのは
一度だけだったけど
その一度が
ものすごく大きい一度だった。
あのときのきみも
あのときの顔も
あのときのぼくも
あのときの話も
あのとき、きみが語った双子の弟くんも
あのときの教室も
あのとき、きみがぼくに話した理由も
その理由を、ぼくは知らないけど
理由がなくって
話をするような、きみじゃなかったから
きっと理由はあって
ぼくも
あえて、きみの顔を見て
その理由を見つけようともしなくって
その理由や
なんかも
つぎつぎと直線になって
ぼくの足もとに
突き刺さる。
ずぶずぶと突き刺さる。
突き刺さってくる。
ぼくは
後ずさりする。
そのたびに後ずさりする。


なぜ人は自分を傷つけるのが好きなんだろう?
(J・ティプトリー・ジュニア『ヴィヴィアンの安息』伊藤典夫訳)


白い靴下の山本くんも
双子の弟のことを、ぼくに言ったのは、
自分を傷つけるためだったのだろうか?


Worse, it was traditional to feel this way.
(John Ashbery, Girls on the Run. IV, p.11)


何のための生か? 何のための芸術か?
(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)


イメージのないところには、愛は生まれない。
イメージのないところには、憎しみは生まれない。
イメージのないところには、悲しみは生まれない。
イメージのないところには、喜びは生まれない。
イメージのないところには、いかなる感情も生まれない。
イメージのないところには、いかなる現実も生まれない。
イメージのないところには、いかなる事物・事象も生まれない。
イメージのないところには、世界は生まれない。


イメージは、われわれが直接にそれを知っているものだから本モノである。
(エズラ・パウンド『ヴォーティシズム』新倉俊一訳)


においがするまで、そこに空気があることさえ気がつかないぼくだ。
突然の認識が、なにによってもたらされたのか、考えてみよう。 ひと
晩かかったのだ、この認識に達するまで。ひと晩? そうだ。夜のあい
だに、脳が働いていたに違いない。夜のあいだに、潜在意識が働いてい
てくれたのだろう。記憶にはないが、きっと、あの朗読会のことを夢に
見ていたのだろう。だから、こうして、朝、通勤電車のなかで、突然、思
い至ったのだ。くやしさが、ひとつになった。朗読会に来ていた人たち
のこころがひとつになったのだった。そこでは、くやしさというものが、
共通のもので、みんなをひとつに束ねるロープの役目を果たしていたの
であろう。ひとりひとり、みんな違ったくやしさだったと思うけれど、
くやしいという思いは共通していて、それが共感の嵐となって、あの朗
読会場を包んだのだろう。


詩はなんらかの現実を表現することを職能としない。
詩そのものがひとつの現実である。
(トリスタン・ツァラ『詩の堰』シュルレアリスムと戦後、宮原庸太郎訳)


表現においては、個人の死は個性の死ではない。個性の死が個人の死である。


具体性こそが基本である。現実を生き生きとさせ、「リアル」たらしめ、個人的に意味のあるものにするのは「具体性」なのである。
(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』第四部、高見幸郎・金沢泰子訳)


ぼくは愚かだった。いまでも愚かで浅ましい人間だ。しかし、ときに
は、いや、まれには、それは一瞬に過ぎなかったかもしれないが、ぼく
は、やさしい気持ちでひとに接したことがあるのだ。ぼくのためにでは
なく。そんな一瞬でもないようなら、たとえどれほど物質的に恵まれて
いても、とことんみじめな人生なのではなかろうか?


Look long and try to see.
(Jack Kerouac, On the Road, PART FOUR-1, p.250)


もみの樹はひとりでに位置をかえる。
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)   


変身は偽りではない
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)


事物というものは、見たあとで、見えてくるものである。


ひとつの書き言葉はひとつのイメージ、映像であり、いくつかの書き言葉は連続性をもつイメージである、すなわち動く絵(ムービング・ピクチャー)
(ウィリアム・S・バロウズ『言霊の書』飯田隆昭訳)


イメージが言葉をさがしていたのか、言葉がイメージをさがしていたのか。


Just as a good pianist will adjust the piano stool
before his recital,by turning the knobs on either side of it
until he feels he is at a proper distance from the keyboard,
so did our friends plan their day.
(John Ashbery, Girls on the Run. V, p.11)


好きな形になってくれる雲のように、もしも、ぼくたちの思い出を、
ぼくが好きなようにつくりかえることができるものならば、ぼくは、き
っと苦しまなかっただろう。けれど、きっと愛しもしなかっただろう。
星たちは、天体の法則など知らないけれど、従うべきものに従って動
いているのである。ひとのこころや気持ちもまた、理由が何であるかを
知らずに、従うべきものに従って動いているのである。と、こう考えて
やることもできる。


Lacrimoso, we can't get anything done!
Lacrimoso,t he bear has gone after the honey!
Lacrimoso, the honey drips incessantly
from the bough of a tree.
(John Ashbery, Girls on the Run. IV, pp.10-1)


 ファミレスや喫茶店などで、あるいは、居酒屋などで友だちとしゃべ
っていると、近くの席で会話している客たちのあいだでたまたま交わさ
れた言葉が、自分の口から、何気なく、ぽんと出てくることがある。無
意識のうちに取り込んでいたのであろう。しかも、その取り込んだ言葉
には不自然なところがなく、こちらが話していた内容にまったく違和感
もなく、ぴったり合っていたりするのである。異なる文脈で使用された
同じ言葉。このような経験は、一度や二度ではない。しょっちゅうある
のである。さらに驚くことには、もしも、そのとき、その言葉を耳にし
なかったら、その言葉を使うことなどなかったであろうし、そうなれば、
自分たちの会話の流れも違ったものになっていたかもしれないのであ
る。このことは、また、近くの席で交わされている会話についてだけで
はなく、たまたま偶然に、目にしたものや、耳にしたものなどが、思考
というものに、いかに影響しているのか、ぼくに具体的に考えさせる出
来事であったのだが、ほんとうに、思考というものは、身近にあるもの
を、すばやく貪欲に利用するものである。あるいは、いかに、身近にあ
るものが、すばやく貪欲に思考になろうとしているのか。


This was that day's learning.
(John Ashbery, Girls on the Run. VII ,p.15)


 蚕を思い出させる。蚕を飼っていたことがある。小学生のときのこと
だった。学校で渡された教材のひとつだったと思う。持ち帰った蚕に、
買ってきた色紙を細かく切り刻んだものや、母親にもらったさまざまな
色の毛糸を短く切り刻んだものを与えてやったら、蚕がそれを使って繭
をこしらえたのである。色紙の端切れと糸くずで、見事にきれいな繭を
こしらえたのである。それらの色紙の切れっ端や毛糸のくずを、言葉や
状況や環境に、蚕の分泌した糊のような粘液とその作業工程を、自我と
か無意識、あるいは、潜在意識とかいったものに見立てることができる
のではないだろうか。もちろん、ここでは、蚕を飼っていた箱の大きさ
とか、その箱の置かれた状態、温度や湿度、動静や、適切な明暗の
光線照射時間といった、蚕が繭をつくるのに適した状態があってこそ
のものでもあるが、これらは、自我がつねに 外界の状況とインタラク
ティヴな状態にあることを思い起こさせるものである。


Look long and try to see.
(Jack Kerouac, On the Road, PART FOUR-1, p.250)


すべては見ること
(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)


事物を離れて観念はない。
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)


人間精神の現実的存在を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。
(スピノザ『エチカ』第二部・定理一一、工藤喜作・斎藤 博訳)


すべての物が非常な注意をこめて一瞬一瞬を見つめている
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


事物は事物そのものが織り出した
呪文からのように僕らを見つめる。
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』9.2、志村正雄訳)


幸運は続かないことをすべてのものが語っている
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)   


地上の人生、それは試練にほかならない
(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)


すべてのものにこの世の苦痛が混ざりあっている。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)


あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)


願望の虐む芸術家は幸いなるかな!
(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)


 自分の心を苛むものを書き記すこともできれば、そうすることによってそれに耐えることもできるひと、その上さらに、そんなふうにして後代の人間の心を動かしたい、自らの苦痛に後代の人間の関心を惹きつけたいと望むことができるひとは幸いなるかな
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』18、菅野昭正訳)


これまで世界には多くの苦しみが生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になった
(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)


苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)


創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ
(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)


苦しみは人生で出会いうる最良のものである
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)


私は自分を活気づける人たちを愛し、又自分が活気づける人たちを愛する。
われわれの敵はわれわれを活気づける。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳


わたしの敵たちもわたしの至福の一部なのだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)


苦痛が苦痛の観察を強いる
(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)


苦しむこと、教えられること、変化すること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)


苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・消え去ったアルベルチーヌ、鈴木道彦訳)


人間には魂を鍛えるために、死と苦悩が必要なのだ!
(グレッグ・イーガン『ボーダー・ガード』山岸 真訳)


See and die.
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.120)


聖なる魂等よ、まづ火に噛まれざればこゝよりさきに行くをえず
(ダンテ『神曲』浄火・第二十七曲、山川丙三郎訳)


すべては見ること
(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)


だれかがノイズになっているよ。
こくりと、マシーンがうなずいた。
それは、言葉ではなく、言葉と言葉をつなぐもののなかに吸収されていった。


創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。
(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)


なにそれ?
(ケリー・リンク『飛行訓練』七、金子ゆき子訳)


それ、ほんと?
(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』2、中村 融訳)


ほんとに?
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』1.9、志村正雄訳)


もしも視界を広げたら、ものはすべて似たものばかりだ。
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)


なにものにも似ていないものは存在しない。
(ヴァレリー『邪念その他』P,清水徹訳)


自然界の万障は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


一つの広大な類似が万物を結び合わせる、
(ホイットマン『草の葉』夜の浜辺でひとり、酒本雅之訳)


類似関係(アナロジー)を感知する
(ボードレール『エドガー・ポーに関する新たな覚書』阿部良雄訳)


類似の本能だけが、不自然ならざる唯一の行動指針である。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)


類似の対象を全体的に、また側面から観察すること
(ゲーテ『『プロピュレーエン』への助言』小栗 浩訳)


明白な類似から出発して、あなたがたはさらに秘められた別の類似へとむかってゆく
(マルロー『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)


流れは源を示すもの。
(ジョン・ダン『聖なるソネット』17、湯浅信之訳)


木の葉はいつ落ちたのだろう?
(マイケル・スワンウィック『大潮の道』12、小川 隆訳)


 物質ないし因果性──この二つは同一であるから──が主観の側において相関的に対応しているものは、悟性(ヽヽ)である。悟性はそれ以外のなにものでもない。因果性を認識すること、これが悟性の唯一の機能であり、また悟性にのみある力である。
(ショーペンハウアー『意思と表徴としての世界』第一巻・第四節、西尾幹二訳)


観念の秩序と連結は、ものの秩序と連結と同じである。
(スピノザ『エチカ』第二部・定理七、工藤喜作・斎藤 博訳)


 万物はいかにして互いに変化し合うか。これを観察する方法を自分ののにし、耐えざる注意をもってこの分野における習練を積むがよい。実にこれほど精神を偉大にするものはないのである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第一〇章・一一、神谷美恵子訳)


人間には自分の環境の特徴を身につける傾向がある。
(イアン・ワトスン『寒冷の女王』黒丸 尚訳)


めぐりのものがみな涙を流すとき──おまえもまた涙をながす──そうでないはずはない。
おまえがため息をついているとき、風もまたため息をもらす。
(エミリ・ブロンテ『共感』村松達雄訳)


いままでに精神も徳も、百千の試みをし、道にまよった。そうだ、人間は一つの試みだった。ああ、多くの無知とあやまちが、われわれの肉体となった。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)


およそ世に存在するもので、除去してよいものなど一つとしてない。無くてもよいものなど一つとしてない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・悲劇の誕生・二、西尾幹二訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しない
(ホイットマン『草の葉』ポートマクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語り資子と』入沢康夫訳)


兄弟よ! しかするなかれ、汝も魂汝の見る者も魂なれば。
(ダンテ『神曲』浄火・第二十一曲、山川丙三郎訳)


愛の道は
愛だけが通れるのです。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


魂だけが魂を理解するように
(ホイットマン『草の葉』完全な者たち、酒本雅之訳)


詩人を理解する者とては、詩人をおいてないのです。
(ボードレールの書簡、1863年10月10日付、A・C・スィンバーン宛、阿部良雄訳)


日知庵で飲んでいると
作家の先生と、奥さまがいらっしゃって
それでいっしょに飲むことになって
いっしょに飲んでいたのだけれど
その先生の言葉で
いちばん印象的だったのは
「過去のことを書いていても
 それは単なる思い出ではなくってね。
 いまのことにつながるものなんですよ。」
というものだった。
ぼくがすかさず
「いまのことにつながることというよりも
 いま、そのものですね。
 作家に過去などないでしょう。
 詩人にも過去などありませんから。
 あるいは、すべてが過去。
 いまも過去。
 おそらくは未来も過去でしょう。
 作家や詩人にとっては
 いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」
と言うと
「さすが理論家のあっちゃんやね。」
というお言葉が。
しかし、ぼくは理論家ではなく
むしろ、いかなる理論にも懐疑的な立場で考えている者と
自分のことを思っていたので
「いや、理論家じゃないですよ。
 先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」
と返事した。
いまはむかし。
むかしはいま。
って、大岡 信さんの詩句にあったけど。
もとは古典にもあったような気がする。
なんやったか忘れたけど。
きなこ。
稀な子。
「あっちゃん、好きやわあ。」
先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど
「ありがとうございます。」
という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。
自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど
生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い
こころのなかで、しゅんとなった。
表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。
きなこ。
稀な子。
勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。
しじゅう聞こえる。
「ぼく、疑り深いんやで。」
ぼくは疑り深くない。
むしろ信じやすいような性格のような気がする。
「ぼく、疑り深いんやで。」
勝ちゃんは何度もそう口にした。
なんで何度もそう言うんやろうと思うた。
一ヶ月以上も前のことやけど
日知庵で飲んでたら
来てくれて
それから二人はじゃんじゃん飲んで
酔っぱらって
大黒に行って
飲んで
笑って
さらに酔っぱらって

タクシーで帰ろうと思って
木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと
勝ちゃんが
「もう少しいっしょにいたいんや。
 歩こ。」
と言うので
ぼくもうれしくなって
もちろん
つぎの日
二人とも仕事があったのだけれど
真夜中の2時ごろ
勝ちゃんと
四条通りを東から西へ
木屋町通りから
大宮通りか中新道通りまで
ふたりで
手をつなぎながら歩いた記憶が
ぼくには宝物。
大宮の交差点で
手をつないでるぼくらに
不良っぽい二人の青年に
「このへんに何々家ってないですか?」
とたずねられた。
不良の二人はいい笑顔やった。
何々がなにか、忘れちゃったけれど
勝ちゃんが
「わからへんわ。
 すまん。」
とか大きな声で言った記憶がある。
大きな声で、というところが
ぼくは大好きだ。
ぼくら、二人ともヨッパのおじさんやったけど
不良の二人に、さわやかに
「ありがとうございます。
 すいませんでした。」
って言われて、面白かった。
なんせ、ぼくら二人とも
ヨッパのおじさんで
大声で笑いながら手をつないで
また歩き出したんやもんな。
べつの日
はじめて二人でいっしょに飲みに行った日
西院の「情熱ホルモン!」やったけど
あんなに、ドキドキして
食べたり飲んだりしたのは
たぶん、生まれてはじめて。
お店いっぱいで
30分くらい
嵐電の路面電車の停留所のところで
タバコして店からの電話を待ってるあいだも
初デートや
と思うて
ぼくはドキドキしてた。
勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。
してくれてたと思う。
ほんとに楽しかった。
また行こうね。
きなこ。
稀な子。
ぼくたちは
間違い?
間違ってないよね。
このあいだ
エレベーターのなかで
ふたりっきりのとき
チューしたことも
めっちゃドキドキやったけど
ぼくは
勝ちゃん
ぼくの父が死んだのが
平成19年の4月19日だから
逝くよ
逝く
になるって、前に言ったやんか

それが
朝の5時13分だったのね
あと2分だけ違ってたら
ゴー・逝こう
5時15分でゴロがよかったんだけど
そういえば
ぼく
家族の誕生日
ひとりも知らない。
前恋人の誕生日だったら覚えてるのに
バチあたりやなあ。
まるで太鼓やわ。
太鼓といえば
子どものとき
よく
自分のおなかをパチパチたたいてた
たたきながら
歌を歌ってたなあ
ハト・ポッポーとか
千本中立売通りの角に
お酒も出す
タコジャズってタコ焼き屋さんがあって
30代には
そこでよくお酒を飲んでゲラゲラ笑ってた。
よく酔っぱらって
店の前の道にひっくり返ったりして
ゲラゲラ笑ってた。
お客さんも知り合いばっかりやったし
だれかが笑うと
ほかのだれかが笑って
けっきょく、みんなが笑って
笑い顔で店がいっぱいになって
みんなの笑い声が
夜中の道路の
そこらじゅうを走ってた。
店は夜の7時から夜中の3時くらいまでやってた。
朝までやってることもしばしば。
そこには
アメリカにしばらくいたママがいて
ジャズをかけて
「イエイ!」
って叫んで
陽気に笑ってた。
ぼくたちの大好きな店だった。
4、5年前かなあ。
店がとつぜん閉まった。
1ヶ月後に
激太りしたママが
店をあけた。
その晩は、ぼくは
恋人といっしょにドライブをしていて
ぐうぜん店の前を通ったときに
ママが店をあけてたところやった。
なんで休んでたのかきいたら
ママのもと恋人がガンで入院してて
その看病してたらしい。
ママには旦那さんがいて
旦那さんは別の店をしてはったんやけど
旦那さんには内緒で
もと恋人の看病をしていたらしい。
でも
その恋人が1週間ほど前に亡くなったという。
陽気なママが泣いた。
ぼくも泣いた。
ぼくの恋人も泣いた。
10年ぐらい通ってた店やった。
タコ焼きがおいしかった。
そこでいっぱい笑った。
そこでいっぱいええ曲を知った。
そこでいっぱいええ時間を過ごした。
陽気なママは
いまも陽気で
元気な顔を見せてくれる。
ぼくも元気やし
笑ってる。
ぼくらは
笑ったり
泣いたり
泣いたり
笑ったり
なんやかんや言うて
その繰り返しばっかりやんか
人間て
へんな生きもんなんやなあ。
ニーナ・シモンの
Here Comes the Sun
タコジャズに来てた
東京の代議士の息子が持ってきてたCDで
はじめて、ぼくは聴いたんやけど
ビートルズが、こんなんなるんかって
びっくりした。
親に反発してた彼は
肉体労働者してて
いっつもニコニコして
ジャズの大好きな青年やった。
いっぱい
いろんな人と出会えたし
別れた
タコジャズ。
ぼく以外のだれかも
タコジャズのこと書いてへんやろか。
書いてたらええなあ。
ビッグボーイにも思い出があるし
ザックバランもええとこやったなあ。
まだまだいっぱい書けるな。
いっぱい生きてきたもんなあ


There's so many things to do, so many things to write!
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-1, p.7)


No ideas but in things
事物を離れて観念はない
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン」第一巻・巨人の輪郭 I、沢崎順之助訳)


「物」をじかに扱うこと。
(エズラ・パウンド『回想』新倉俊一訳)


何年前か忘れたけれど
マクドナルドで
100円じゃなく
80円でバーガーを売ってたときかな
1個だけ注文したら
「それだけか?」
って、バイトの男の子に言われて
しばし
きょとんとした。

何も聞こえなかったふりをしてあげた。
その男の子も
何も言ってないふりをしてオーダーを通した。
このことは
むかし
詩に書いたけれど
いま読んでる『ドクター・フー』の第4巻で
「それだけか?」
って台詞が出てきたので
思い出した。
きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。
あんまりきれいやから笑ってしもうた。
きれいなもの見て笑ったんは
たぶん、生まれてはじめて。
いや、もしかすると
ちっちゃいガキんちょのころには
そうやったんかもしれへんなあ。
そんな気もする。
いや、きっと、そうやな。
いっつも笑っとったもんなあ。
そや。
オーデコロンの話のあとで
頭につけるものって話が出て
いまはジェルやけど
むかしはチックとかいうのがあってな
父親が頭に塗ってたなあ
チックからポマードに
ポマードからジェルに
だんだん液体化しとるんや。
やわらかなっとるんや。


「知っている」とは、ひとつの度合いに他ならない。
──存在せんがための度合いに。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』八七、寺田 透訳)


すべては見ること
(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)


吉岡 実 の『薬玉』を
湊くんが東京の神田で見つけてくれました
いま、湊くんから電話があって
神田の神保町に来てるんですけど
『薬玉』
きれいな状態で、3500円ですけど、どうしましょうって。
即答した。
買って、買って、買って。
と言った。
うれしい。
日本人の書いた詩集で
ぼくがいちばん欲しかったもの。


問うのは答を得るためだ。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット諸君を求む』14、那岐 大訳)


そなの?
そだったの?
詩人の役目は、
ありふれた問いに対して、新たな切り口で問いかけ直すことじゃないの?
答え自体が、新たな問いかけになっているのよ。


There were plenty of queers.
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-11, p.73)


どうだろう、ゲイに転向するというのは?
(J・ティプトリー・ジュニア『大きいけれども遊び好き』伊藤典夫訳)


夜には昼に教えることがたくさんあるというし、
(レイ・ブラッドベリ『趣味の問題』中村 融訳)


ぼくはいま詩を生きている。夜はぼくのものだ。
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十八章、浅井 修訳)


だれかがノイズになっているよ。
マシーンが、こくりとうなずいた。
それは言葉ではなく、言葉と言葉をつなぐものに吸収されてしまった。


ウサギがいるよ。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『魔法の眼鏡』第三章、中村 融訳)


弟の夢を見た。
部屋の隅にいて
お茶のペットボトルと
シュークリームのいくつか入った袋を目の前に置いて
弟が座っていた。
まだ小さな子どもだった。
かわいらしい弟を抱きしめて齢をきいた。
「いくつになったの?」
「ななつ」
ぼくは、かわいい弟を抱きしめた。
弟は写真を持っていた。
ぼくが付き合っていた男の子の写真だった。
ただにっこりと笑っている顔だったけれど。
無垢な弟は、ただその小さな手に写真を持っていただけだった。
「あっちゃんのお友だちやで」
弟が笑った。
天使のようにかわいらしい弟だった。
目が覚めた。
弟を発狂させた継母のことを思った。
地獄に落ちて死ねばいいと。
はやく地獄に落ちて死ねばいいと。
いま喘息で苦しんで生きているけれど
もっと苦しんで死ねばいいのだ。
父親は、平成19年に死んだ。
ぼくがこころから憎んでいた人間は
2人しかいない。
第一番目の父親はガンで死んだ。
十分に苦しんだだろうか。
そして弟は
無垢な子どものときの姿にもどって
幸せになって欲しい。
ノドに包丁を突きつけたり
自分の体に傷をつけたり
そんなことは忘れて
かわいらしい子供のときの姿に戻って
天国に行って欲しい。
こんな願いを聞き届けてくれる神さまなんていないだろうけど
ぼくは、こころから願っている。
無垢でかわいらしい弟を抱きしめて
ぼくは泣いた。
自動カメラ。
ヒロくんが
自動カメラをセットして
ぼくの横にすわって
ニコ。
ぼくの横腹をもって
ぼくの身体を抱き寄せて
フラッシュがまぶしくって
終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた
ぼくは立ち上ろうとした
ヒロくんは人前でも平気でキッスするから
イノセント
なにもかもがイノセントだった
写真に写っているふたりよりも
賀茂川の向こう側の河川敷に
暮れかけた空の色のほうが
なんだか、かなしい。
恋人たち
えいちゃんと、ぼく。
「宇宙人みたい」
「えっ?」
ぼくは、えいちゃんの顔をさかさまに見て
そう言った。
「目を見てみて」
「ほんまや、こわっ!」
「まるで人間ちゃうみたいやね」
よく映像で
恋人たちが
お互いの顔をさかさに見てる
男の子が膝まくらしてる彼女の顔をのぞき込んでたり
女の子が膝まくらしてる彼氏の顔をのぞき込んでたりしてるけど
まっさかさまに見たら
まるで宇宙人みたい
「ねっ、目をパチパチしてみて。
 もっと宇宙人みたいになる」
「ほんまや」
もっと宇宙人!
ふたりで爆笑した。
数年前のことだった。
もうふたりのあいだにセックスもキスもなくなってた。
ちょっとした、おさわりぐらいかな。
「やめろよ。
 きっしょいなあ」
「なんでや?
 恋人ちゃうん? ぼくら」
「もう、恋人ちゃうで」
「えっ?
 ほんま?」
「うそやで。
うそやなかった。
それでも、ぼくは
i think of you
i cannot stop thinking of you
なんもなくなってからも
1年以上も
恋人やと思っとった。
土曜日たち。
はなやかに着飾った土曜日たちにまじって
金曜日や日曜日たちが談笑している。
ぼくのたくさんの土曜日のうち
とびきり美しかった土曜日と
嘘ばかりついて
ぼくを喜ばせ
ぼくを泣かせた土曜日が
カウンターに腰かけていた。
ほかの土曜日たちの目線をさけながら
ぼくはお目当ての土曜日のそばに近づいて
その肩に手を置いた。
その瞬間
耳元に息を吹きかけられた。
ぼくは
びくっとして振り返った。
このあいだの土曜日が微笑んでいた。
お目当ての土曜日は
ぼくたちを見て
コースターの裏に
さっとペンを走らせると
ぼくの手に渡して
ぼくたちから離れていった。
期末テスト前だから
放課後に補習をしているのだけれど
そこで、ぼくの板書についての話になって
それから、その板書を消すときの話にうつって
「数学の先生って
 黒板の消し方
 みんないっしょやわ。」
「えっ? 
 そなの?
 ぼくは、ほかの先生がどう消してらっしゃるのか
 見たことないから知らないけど。」
「横にまっすぐいって
 すぐ下にいくの。
 それから反対の方向に
 またまっすぐ横にすべらせていくの。
 だから、さいごには
 黒板に横線がいっぱいできるのよ。」
「ほかの教科の先生は
 横に消していかれないの?」
「英語の先生は斜めに消さはるひとが多いわ。」
「でも、国語だったら、縦が合理的じゃないかなあ?」
なんて話をしていました。
ごくふつうにある話なんだろうけれど
ぼくにはおもしろかった。
「数学の先生が、みんないっしょ」というところが、笑。
100円オババは、道行くひとに
「100円、いただけませんか?」
と言って歩いていたのだけれど
まあ、早い話が
歩く女コジキってとこだけど
あるとき、父親と、すぐ下の弟と
祇園の石段下にあった(いまもあるのかな)
初音という店に入って
それぞれ好きなものを注文して食べていると
その100円オババが、店のなかに入ってきて
すぐそばのテーブルに坐って
財布から100円硬貨をつぎつぎに取り出して
お金を数えていったので
びっくりした。
「あれも、仕事になるんやなあ。」
 と父親がつぶやいてたけど
ぼくは
ぜんぜん腑に落ちなかった。
顔を寄せる3人のものたち。
12時半に寝て
2時半に起き
パソコンを起動し
文学極道をのぞいて
だれか見てくれていたかチェックして
会話のところが
一段行頭落としをしていなかったから
それを直して
またパソコンを切って
部屋を暗くしていたら
うとうとしていたら
さっき
3人くらいのものたちが
部屋にはいってきて
顔を寄せてきたので
わっと思って
照明のスイッチを入れた。
3人の姿はなかった。
怖かった。
むかしはデンキをつけたまま寝てた。
消すと、よくひとの気配がして怖かったからだ。
ひさしぶりである。
しかし、3人は多すぎる。
いままで、もう、何度も、何度も
飛翔する夢を見てきた。
けさも、街のうえを飛んでいた。
きのう寝る前に1錠よけいに精神安定剤を服用したせいか
眠りがここちよかった。
おとつい、テーブルの上においていたクスリが1錠すくなかったのだが
そのときには見つからず
4錠で眠りについたのだった。
おとついの眠りは浅かった。
12時すぎに飲んで3時過ぎに目が覚めたのだった。
しかし、けさは、一度目に目がさめたときは5時くらいで
もう一度、横になっているときに
飛翔する夢を見ていたのだった。
街のうえでは、わりとスピードがはやかったのだが
いつのまにか、砂地のうえを
砂地のつづく地面のうえを飛んでいた。
ゆっくりとスピードが落ちていき
地面すれすれになると
ぼくは手を胸の前にだして
とまる準備をした。
ぼくが地面のうえを浮かんで
地面のほうが動いているような感じに思えた。
手が地面についた
そこで目が覚めた。
そして、ようやく、ぼくは気がついたのだった。
いままで、ぼくが飛翔していたと思っていたのだけれど
ぼくは地面のうえに浮かんでいただけで
街のほうが
砂地の地面のほうが動いていたのだった。
まさしく、そういった感じだったのだ。
これも、ゆっくりとスピードが落ちていき
ぼくが徐々に地面に近づいていったから
わかったことだと思うのだけれど
スピードが異なると解釈が異なるという体験は
おそらく初めてのことだと思う。
少なくとも夢のなかでの出来事を観察してのことでは。
これから、夢も、起きているあいだのことも
より示唆に観察しなければならないと思った。
スピードが、着目する点になることがあるとは
ほんとに意外だった。
紙くずを屑入れにほうり投げた。
丸めた紙くずが屑入れの端っこにあたって転がった。
ぼくは転がらなかった。
しかし、ぼくは、まるで自分が落ちて転がったかのように感じたのであった。
あらちゃんが、ぼくのことを心配して部屋に来てくれたとき
朗読会の帰り、自転車で戻ってくる途中で、西大路丸太町のバス停のベンチの上に
ちょうど切断された頭のような形の風呂敷包みが置かれていたことを話した。
ずいぶん、むかし、ゲイ・スナックにきてた
花屋の店員が言ったことだったか
それとも、本で読んだことだったのか
忘れてしまったのだけれど
切花を生き生きとさせたいために
わざと、切り口を水につけないで
何日か、ほっぽっておいて、かわかしておくんだって。
それから、切り口を水にさらすんだって。
すると、茎が急に目を醒ましたように水を吸って
花を生き生きと咲かせるんですって。
さいしょから
たっぷりと水をやったりしてはいけないんですって。
そうね。
花に水をやるって感じじゃなくって
あくまでも、花のほうから水を求めるって感じで
って。
なるほどね。
ぼくが作品をつくるときにも
さあ、つくるぞって感じじゃなくて
自然に、言葉と言葉がくっついていくのを待つことが多いもんね。
あるいは、さいきん多いんだけど
偶然の出会いとか、会話がもとに
いろいろな思い出や言葉が自動的に結びついていくっていうね。
ああ
なんだか
いまは、なにもかもが、詩論になっちゃうって感じかな。


Other dreams.
(John Ashbery, Girls on the Run. XII, p.28)


You can go.
(John Ashbery,Girls on the Run. VIII, p.17)


まだなにか新しいものがある。
(スティーヴン・バクスター『時間的無限大』16、小野田和子訳)


兎の隣には鹿がいる。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』7、船戸牧子訳)


きみはまたぼくと会うことになる
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』5、友枝康子訳)


こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)


AMUSED TO DEATH。

  田中宏輔



●ゴホン●ゴホン●ある日●風景が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの風景も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにある風景まで●最初に咳をした風景に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ風景がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ風景がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●風景の伝染病が広がって●とうとう●すべての風景が●たったひとつの風景になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ風景じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●吉田くんが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの山本くんも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにいた阿部くんまで●最初に咳をした吉田くんに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●吉田くんが二人●三人●ゴホン●ゴホンとするたびに●吉田くんが四人●五人●ゴホン●ゴホン●六人●七人●と●吉田くんの伝染病が広がって●とうとう●すべての人が●たったひとりの吉田くんになりましたとさ●あれっ●おおぜいの同じ吉田くんじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●納豆のパックが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばのマーガリンも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった活性炭入り脱臭剤のキムコまで●最初に咳をした納豆のパックに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●納豆のパックがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●納豆のパックがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●納豆のパックの伝染病が広がって●とうとう●すべての食べ物が●たったひとつの納豆のパックになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ納豆のパックじゃないの●それにキムコは食べ物じゃないでしょ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ふくとくぷぷぷ●ふくぷぷぷ●ごごんがてるりん●てるてるりん●ごごんがてるりん●てるりんりん●てるてるりんたら●てるりんりん●ふにふにふがが●ふがふがが●ふにんがふがが●ふにふがが●んがんがんがが●んがんがが●ふにふにふにゃら●ふにふにゃら●ふにふにふにゃら●ふにふにゃら●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ぷくちゃくぷぷぷ●ぷくぷぷぷ●ぷくちゃかぷぷぷ●ぷくぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷ●ぷへっ●ぷへっ●ぷぷぷ●ぷへっ●ぺっ●ぺっ●ぺえええ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの音が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの音も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった音まで●最初に咳をした音に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ音がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ音がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある音の伝染病が広がって●とうとう●すべての音が●たったひとつの音になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ音じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの言葉が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの言葉も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった言葉まで●最初に咳をした言葉に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ言葉がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ言葉がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある言葉の伝染病が広がって●とうとう●すべての言葉が●たったひとつの言葉になりましたとさ●あれ●たくさんの同じ言葉じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの意味が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの意味も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった意味まで●最初に咳をした意味に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ意味がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ意味がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある意味の伝染病が広がって●とうとう●すべての意味が●たったひとつの意味になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ意味じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●実際には起こらなかった事が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そのそばのもしかしたら起こったかもしれない事も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●少し離れたところにあった本当に起こった事まで●最初に咳をした実際には起こらなかった事に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●実際には起こらなかった事がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●実際には起こらなかった事がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●実際には起こらなかった事の伝染病が広がって●とうとう●あらゆる事柄が●たったひとつの実際には起こらなかった事になりましたとさ●それって●どうやって見分けんのよ●つーか●一体全体●それって●どういうことよ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの*が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの@も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった[まで●最初に咳をした*に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ*がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ*がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●*の伝染病が広がって●とうとう●すべての記号・文字・数字・アルファベットなどが●たったひとつの*になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ*じゃないの●それに●などって何よ●何か他にあるの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ぼくが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばにいたぼくも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにいたぼくまで●最初に咳をしたぼくに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じぼくが二人●三人●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じぼくが四人●五人●ゴホン●ゴホン●六人●七人●と●ぼくの伝染病が広がって●とうとう●すべてのぼくが●たったひとりのぼくになりましたとさ●あれっ●おおぜいの同じぼくじゃないの●それに●そもそもみんなぼくじゃない●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの風景が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばにいた人も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたら●そのそばにいた人が●最初に咳をした風景に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ風景がふたつできた●でもそのうち●もとは風景じゃなかった方の風景が●ゴホン●ゴホン●咳をすると●もとの人の姿に戻っちゃって●そしたら●もとは風景だった方の風景も●もとは風景じゃなかった方のもとは人だった方の人の姿に似てきて●ゴホン●ゴホンと咳をするたびに●もとは風景じゃなかった方のもとは人だった方の人の姿に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳をするたびに●ふたつの風景は二人の人になったり●二人の人はふたつの風景になったりして●ゴホン●ゴホン●そのうち●咳をするたびに●風景が人になったり●人が風景になったりして●とうとう●どちらがどちらか●わからなくなりましたとさ●あれれー●あなたってば●ただ単に同じフレーズの繰り返しがしたかっただけじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●うれしいが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの楽しいも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●別のところにあった悲しいまで●最初に咳をしたうれしいに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●うれしいがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●うれしいがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●うれしいの伝染病が広がって●とうとう●すべての気持ちが●たったひとつのうれしいになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じうれしいじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばのふたつも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあったみっつまで●最初に咳をしたひとつに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●ひとつがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●ひとつがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ひとつの伝染病が広がって●とうとう●すべての「─つ」が●たったひとつのひとつになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ「ひとつ」じゃないの●それに「─つ」じゃないのもあるでしょ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●仕事帰りにミスド行って●ドーナッツ買って●はああ●くだらない●ドーナッツの輪っかと●ミスドのウェイトレスの顔を交換する●運んだトレイと●聞こえてくる50年代ポップスを交換する●はああ●くだらない●コーヒーは●なんだか薄いしぃ●そのコーヒーカップのシンボルマークと●パパの記憶を交換する●バレンチノ●なんで●はああ●くだらない●違うカフェに寄ろうかな●チチチチチチチ●なんだ●これミルフィー●ムフッ●フフ●ファレル●ねえ●ぼくのこと●愛してる●きょうは●もうほとんど寝てた●きれいになる病気がはやってた●ぼくは何年も前にかかって●ラジオで聞いて●知ってたけど●みんなは●あ●ただ●ぼくたちは●くすくす笑って●みんなは●あ●ただ●ぼくたちは●くすくす笑って●まだたすかる●まだたすかる●マダガスカル●かしら●日曜日にかけた電話が土曜日につながる●ボン・ボアージュ●ディア●きみの瞳が写した●ぼくの叫び声は●まだたすかる●まだたすかる●まだたすかる●タチケテー●イヤン●途中で切れちゃったわ●ファレル●ぼくたちの間では●どんなことでも●起こったわけじゃない●信じられないようなことしか起こらなかった●いまでは信じられないような●すてきなことしか●プフッ●モア・ザン・ディス●パパやママは●ばらばらになったり●またひとつになったりしながら●航海する●後悔する●公開する●こう解する●こう理解する●愛しているふりをすることは大切だ●とりわけ●まったく愛していないときには●おお●ジプシー●あらゆるものが愛だ●愛だ●間●思うに●きみは愛しているふりをしながらでしか●愛することができないのだね●おお●ジプシー●きみは●こう理解する●本当のことを言っているはずなのに●しゃべっているうちに●なんだか嘘をまじえてしゃべっているような気がするのだね●嘘を言っていると●ほんとうのことを言っているような気に●木に●きみになってしまうような気に●木に●きみに●なってしまうような●きみに●なるのだね●それはなぜだろう●交換する●転移させることに意味はない●交換する●転移させることに意味はない●交換する●転移ではない●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●ハインリヒの夢のなかに現われた青い花を置いてみる●プッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●これまでぼくが書いてきたたくさんのぼくを置いてみる●プッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●等比級数的に増加していくうんこを置いてみる●ブリブリ●ププッ●ププッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●さっきテレビで見たベネチアの美しい街並みを置いてみる●フウム●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●人間を置いてみる●もちろん●あらゆるすべての人間を●プフッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●時間を置いてみる●時間というものそのものを●ブッフッフ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●ひとつの波を置いてみる●これって●ちとリリカルでしょ●フニッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●かつてぼくを傷つけたひとつの言葉を置いてみる●フフンッ●だー●道を歩いていて●通りの向こうからやってくる人を●女性だった●車道をはさんだ●向こう側の道に置いてみる●目のなかで●そうなってることをイメージする●うっすらだが●反対側の道から●その人がやってくるのが見える●しかし●こちら側の道でも●向こうの方から歩いてくるその人の姿が目に見える●そこで●今度は●その二人を交換する●二人の映像は●多少濃淡の違いがあったのだけれど●交換すると●その違いが少なくなった●そこでさらに●二人の姿を交換する●二人が近づいてくる●交換する●二人が近づいてくる●こちらの人をあちらに●あちらの人をこちらに●交換する●スピードをあげて●交換する●二人は●ぼくにどんどん近づいてくる●ぼくは二人にすれ違った●ぼくも二人いたのだ●ブフッ●二人は近づいてくる●どんどん●ぼくに近づいてくる●反対側の道にいる人をこちらに置いて●こちらの側にいる人を反対側に置こうとしたら●反対側にいて●ぼくがこちら側に置いた人の方が●消えてしまった●二人は近づいてくる●近づいてくる●どんどん近づいてくる●すると●ぼくの傍らを二人が通りすぎた●通り過ぎていった●ぼくとすれ違って●道はひとつじゃなかったけど●ぼくたちはすれ違ってしまった●反対側の道の向こうには●ぼくの後姿が見えた●振り返ると●その人は二人いて●前を見ると●反対側の道とこちら側の道の上に●ぼくから遠ざかるぼくの後姿があって●ぼくは●ぼくとすれ違う●たくさんの人たちのことを思った●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくは●ぼくとすれ違う●たくさんのぼくのことを考えた●記憶が●蝶の翅のように●ひらいたり●とじたりする●そのスピードはゆっくり●蝶は●記憶を●ひらいたり●とじたり●違った●いや●違わない●わたしは●翅をひらいたり●とじたりして●記憶を呼び覚ます●アー・ユー・クレイジー・ナウ●ぼくは救急車になりたかった●あ●違う●救急隊員に●プフッ●あ●違わくない●うん●まっ●どっちでもいいや●プフッ●交換する●交歓する●交感する●こう感ずる●こう感ずる●パパがママを食卓で食べてる光景●ファレル●ぼくはきみを傷つけたりなんかしないよ●たとえきみが●ぼくに傷つけられたいと望んでも●ただひとつの言葉●たったひとつの単語が●長い文章に●複雑で遠大な意味を与える●海に落とされた一滴のぶどう酒と同じように●ってか●プフッ●パパとママの首を交換する●60歳になったら選べるの●そのまま人間の姿で●あと1年過ごすか●犬の姿となって3年生きるか●って●だとしたら●どうする●パパとママが戻ってきた●戻ってきたパパとママは●ぼくがミルクを入れておいたミルク皿に顔を突っ込むようにして●ミルクを飲んだ●ひとつのミルク皿にはいったミルクを●パパとママは同時に飲もうとして●頭と頭をゴッツンコ●わわんわんわん●わわんわん●だって●プフッ●朝霧をこぶしに集め●樹は●わたしの顔の上にしずくをもたらす●水滴は●わたしの顔面ではね●地面の上にこぼたれた●雨は●と●父は言った●地面に吸われ●地面はまた太陽に温められ●水蒸気を吐き出す●こころとは●地面のようなものであり●思いとは●雨のようなものだ●と●わたしが死んでも●その場所はあり●その場所に雨は降るのだ●と●フォロー・ミー●ファレル●水蒸気は塵や埃を核として凝集して水滴となる●水滴は水滴と合わさって●雨となる●思いもまた●なにかを核として●それは感覚器官がもたらすものであったり●無意識領域で息をひそめていたなにものかであったり●それらがはっきりとした形を取ったものであろう●そのはっきりとした形にさせるもの●その法則のようなものがロゴスであり●そして●そのはっきりとした形を取る前のものも●そのはっきりとした形を取ったものも●またロゴスに寄与するのだから●その区別が難しい●わたしが死んでも●その場所はあり●その場所に雨は降るのだ●と●パパ●絵になる病気がはやってた●最初はやせていくので喜んでいた人もいた●どんなポーズで絵になるか考えた人たちもいた●どんな格好で絵になるか気にしない人もいた●しかし●突然●絵になるので●どんなにポーズをとっても●その望んだポーズで絵になることは難しかった●あとから●他の人の絵に加わる人もいた●自分の親や子供の絵のそばで●恋人たちの絵のそばにいて●彼らの傍らでやせていく自分の姿を見ながら●自分の傍らで絵になった彼らの親や子供や恋人たちの絵を見つめながら●絵になっていく人もいたし●憎んでいる者のそばで●じっと絵になるのを待っている者もいた●ものすごい形相をして●しかし●あとから加わっても●もとの絵にしっくりくるものは少なかった●絵のタッチがどれも異なるものだから●あとから加わるのは●あまりおすすめじゃなかった●絵になる病気●これって●これまで画家たちが●多くの人間を絵のなかに閉じ込めてきた●絵の復讐かな●絵のなかの人物たちの生身の人間に対する復讐なのかしら●ぼくもとうとう絵になるらしかった●最初は●ぼくもおなかがへっこんでよろこんでたんだけど●ううううん●ファーザー●ぼくは●どんなポーズをとろう●とったらいい●ま●どんなポーズでもいいけどね●ああ●あとどれぐらいしたら●絵は●ぼくになるんだろう●てか●あっ●ファーザー●ぷくぷくちゃかぱ●てか●あっ●ファーザー●ぷくぷくちゃかぱ●てか●あっ●あっ●あっ●あっ●きたわ●きたわー●ひさしぶりに●きたわあ●頭にきたのよお●なんで●わたしが謝らなきゃなんないわけ●それに●なによ●あのやり方●直接言いなさい●直接●バカのくせに陰険なのよ●まあ●バカは陰険なものだけど●プフッ●そんなわけで●もう耐えられません●いつも被害を受けるのは●わたしの方ばかり●このまま●やってきたことに対して●たいした評価もあるわけではないのですが●これもオリンピック開催国の事情によると思います●テロの予告も日増しに●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●おとつい●おっと●つい●お●違う歯●あ●違うわ●ちょっと前ね●おとつい●って言葉が好きなの●ううううん●考えごとをしながら歩いてると●車に轢かれそうになって●この感じ●この感じ●この漢字●書けないわ●ひとりでは●にっこりしぼんで●しぼって●しおれて●しおって●でも●運転手がバカだから●ぼくを轢かないで●ワードでなかったら●こんな字●ぜったいに書かないわ●ブヒッ●この感じ●この感じ●この感じよおおおおおおおお●前を歩いてた男の子を●轢いちゃった●の●よおおおおおおおおおおおおお●この感じ●この感じ●この感じよおおおおおお●ぼくの目の外では●その子は●ヘンな音を立てて●道路に●べちゃ●ぼくの目のなかでは●その子は脚のない木の椅子のように立ちすくんで●ギコギコ音を立てて●バタン●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門の夜・マダガスカルの夜は●木になって●気になって●木になって●しかたがなかった●人工肛門・マダガスカルの夜は●ピン札●言葉は●言葉の上に●言葉をつくり●言葉は●言葉の下に●言葉をつくる●ゆきちちゃん●ありがとう●いつまでも●ぼくといっしょにいてね●プッ●宇宙船片手に●ホームステイ●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●精神とは●精神の働きを意味する●あるものに精神があるというのは●対象とするものがあって●それを知覚し●そこからなにものかを統合する作用が起こるということであって●そこからなにものかを統合する作用が起こらない場合●それには精神の働きがない●精神がない●と●言●わ●ざ●る●を●得●な●な●な●な●な●な●な●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●ベイベエ●それより面白いのは●ぼくたちのなれそめ●ぼくと詩との●あー●あ●そう●陶酔間●間●缶●巻●観●冠●感●ね●陶酔感●イッパツで出ろっちゅうねん●あ●あの子は●どうしてるだろ●ヘンな音立てた●あの男の子●ベスト●ぼくがいままで見た子のなかで●いちばんかわいい後ろ姿してた●あの子●太い太ももが●細い太ももって書くとヘンね●書いてないけど●おっきなお尻と●グッド・ミュージックが流れてた●詩には音楽があって●あ●言葉には●音楽があって●でも●きっと詩の音の構造に対してきわめて敏感なぼくの耳は●意味の構造に対しても●きわめて敏感でね●意味の構造に対して敏感だと思ってる詩人のなかに●音の構造に対して敏感な者がどれぐらいの割合でいるのか●たぶん●ほとんどいない●情けないわ●情けないわ●ほとんどの詩人は贋者なのよ●本物は●ぼくぐらいって●そんなの●情けないわあ●ああ●なんで●なんで●なんで●いつも●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●ぼくのほほに●燃えるくちづけ●なぜ●産むものより●生まれるものの方が先に生まれてきたのか●ぼくのために●ただひとりきり●ぼくひとりきりのためだけに●ヘンな音立てた●あの子!


THE GATES OF DELIRIUM。──万の川より一つの川へ、一つの川より万の川へと

  田中宏輔



 いま、わたしは、西院というところに住んでいるのだが、昨年の三月までは、北山大橋のすぐそば、二十歩ほども歩けば賀茂川の河川敷に行けるところに三年間いた。その前の十五年間は、下鴨神社からバスで数分の距離のところで暮らし、さらにその前の六年間は、高野川の近くにアパートを借りて、学生時代を過ごしていた。それ以前は、東山の八坂神社のそばの祇園に家があって、そこで生まれ育ったのであるが、そこから京都随一の繁華街である四条河原町までは、歩いてもせいぜい十分かそこらしかかからなかった。子供のころから学生時代まで、河原町にはよく遊びに行ったが、その河原町と祇園を挟んで鴨川が流れている。京都の中心を流れているともいえるその鴨川を上流にさかのぼると、二つの支流に分かれる。賀茂川と高野川である。逆に見ると、賀茂川と高野川が合わさって、本流の鴨川になるのだが、白地図で見ると、その形はYの字そのものといった形をしており、まるでビニール人形の股間のように見える。ところが、色のついたカラーの地図で眺めると、二つの川の合わさるところ、その結ぼれには、糺(ただす)の森という、まるで女体の恥毛のようにこんもりと茂った森があり、この森の奥に下鴨神社があり、この森の入り口に河合神社がある。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。」という、よく知られる言葉で序を告げる『方丈記』を記した鴨 長明は、この河合神社の神官の家の出である。二つの川が合わさるところにあるから河合神社というのかどうかは知らない。たぶんそうなのだろう。二つの川が合わさって一つの川になるという、このことは、わたしに、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」という崇徳院の歌を思い出させるのだが、ただちにそれはまた、プラトンの『饗宴』にある、「かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。」(鈴木照雄訳)という言葉を思い出させる。そういえば、イヴの肉は、アダムの肉から引き剥がされてできたものではなかったか。一つの身体が引き裂かれて、二つの身体になったのではなかったか。「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(ノサック『ルキウス・エウリヌスの遺書』圓子修平訳)「確かかね?」(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)「裏切りは人間の本性ではなかったかな?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(リルケ『東洋風のきぬぎぬの歌』高安国世訳)「もし僕たちの行為が僕たちを裏切り、そしてぼくたちの考えも僕たちを裏切って本心を明らかにしないとすれば、いったい僕たちはどこにいるのか?」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)「ああ、私たちは何処に存在する?」(リルケ『オルフォィスに寄せるソネット』第二部・26、高安国世訳)「愛のことは/何もかも知っているのに、その愛を感じられなかった。」(オーデン『戦いのときに』VIII、中桐雅夫訳)「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「人間であることはじつに困難だよ」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)。「それが人生なのよ」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・16、大西 憲訳)。「不潔なのよ!」(ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』16、内田昌之訳)「で、彼を愛してた?」(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)「いうまでもないことだけれど、きれいだったよ、みんな。」(マーク・レイドロー『ガキはわかっちゃいない』小川 隆訳)「すべてをもと通りにしたいのかね?」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳)「どうして二千年前にそうしなかった?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』2、宇佐川晶子訳)「結局のところ、われわれはみな死からよみがえった人間じゃないんですか?」(J・G・バラード『執着の浜辺』伊藤 哲訳)「そうだよ。」(ウィリアム・ホープ・ホジスン『闇の海の声』矢野浩三郎訳)「いやんなっちゃう!」(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)「だれが彼を再生する?」(ジーン・ウルフ『警士の剣』20、岡部宏之訳)「わたしを選びたまえ。」(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)「すごく大きいわね!」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「信じられない!」(クルストファー・プリースト『イグジステンズ』第1章、柳下毅一郎訳)「凄いわ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)。「おかしいわ。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』I・1、宇野利泰訳)「すると、くすくす笑って、おしまい。」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・2、矢野 徹訳)「何のこっちゃ。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』11、伊藤典夫訳)「どうしていつも笑ってばかりいるの?」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「いまのうちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「あんたは、ぼくの世界が好きかい?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・8、冬川 亘訳)「春はまたよみがえる!」(フィリップ・K・ディック『シビュラの目』浅倉久志訳)「そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけれど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。」(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)「一秒の百万分の一という時間も、観念連合繊維束と神経組織の協調には大事なのですわ。」(ハインリヒ・ハウザー『巨人頭脳』3、松谷健二訳)「ナポレオンの象徴は、ハチだった」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)。「おまえの頭は、カエルでいっぱいなんだ。」(ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』第一部・10、伊藤典夫訳)「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳)「そうだ。そのことは蜂の巣によっても証明される」(稲垣足穂『水晶物語』9)。「気でもちがったのかい?」(アイザック・アシモフ『記憶の隙間』6、冬川 亘訳)「蜜蜂が勝手にあんなものを作るのである」(稲垣足穂『放熱器』)。「どうして頭がおかしくなったの?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「それは主観的なことじゃ。」(アンソニー・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)「もうぼくを愛していないのかい?」(E・M・フォースター『モーリス』第二部・25、片岡しのぶ訳)「どうして気がついたの?」(クライヴ・パーカー『魔物の棲む路』酒井昭伸訳)「いやあああ!」(リチャード・レイモン『森のレストラン』夏来健次訳)「ぼくを愛してると言ったじゃないか。」(ジョージ・R・R・マーティン『ファスト・フレンド』安田 均訳)「ぼくがどれだけきみを愛してるか知ってるだろう?」(ピーター・ストラウヴ『レダマの木』酒井昭伸訳)「だったらいったいなんだ?」(スティーヴン・キング『クージョ』永井 淳訳)「ただ一つ、びっくりした」(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)。「人生は驚きの連続だ。」(エマソン『円』酒本雅之訳)「驚きあってこその人生ではないか。」(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)「牛についてなにを知っている?」(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)「牛だって?」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)「ママじゃなくて?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「そうだ、牛じゃ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳)。「その牛の話をしてよ」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)。「じゃあ、もう、さよならだな」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)。「わたしに生まれなさい。」(ロバート・シルヴァーバーグ『確率人間』13、田村源二訳)「もう一度生まれ変ってみなさい」(フエンテス『脱皮』内田吉彦訳)。「何度でも生まれ直すんだ。」(ロバート・シルヴァーバーグ『いまひとたびの生』1、佐藤高子訳)「そろそろ」(レイ・カミングス『時間を征服した男』6、斎藤伯好訳)、「イエズスを呼び出して見せようかね?」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第四章、渡辺一夫訳)「再生にかかってよいかね?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)「しっ」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)、「しいっ。」(ルーディ・ラッカー『ソフトウェア』20、黒丸 尚訳)「もうひとめぐりさせるだけの時間は、まだある」(J・G・バラード『22世紀のコロンブス』第二十六章、南山 宏訳)。「ああ」(スチュアート・カミンスキー『隠しておきたい』押田由起訳)、「どこまで話したっけ?」(アーシュラ・K・ル・グィン『シュレディンガーの猫』越智道雄訳)。そうだ。二つの川が合わさるって話だった。しかしまた、「一、それは二である」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)。合わさって一つとなった川は、また分かれて二つになることもあるだろう。この言葉は、先の長明の言葉とともに、エンペドクレスの「ここにわが語るは二重のこと──すなわち、あるときには多なるものから成長して/ただ一つのものとなり、あるときには逆に一つのものから多くのものへと分裂した。」(『自然について』十七、藤沢令夫訳)といった言葉や、ヘラクレイトスの「万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった言葉を思い起こさせる。そういえば、一人だったアダムが、その身を引き裂かれ、アダムとイヴの二人となり、幾たびか、二つの身体が一つとなり、一つの身体が二つとなって、カインやアベルやその他多くの子どもたちになったのではなかったか。マタイによる福音書の第一章における冒頭のイエス・キリストの系譜も、流れる川の名前を書き留めたもののように思えてくる。また、ヘラクレイトスの言葉といえば、「同じ川に二度入ることはできない。……散らしたり、集めたりする。……出来上がり、またくずれ去る。加わり来たって、また離れる。」(『ヘラクレイトスの言葉』九一、田中美知太郎訳)といった有名な言葉も思い出されるが、以前、テレビで、富士山の雪解け水が支流のひとつに流れ込むのに数百年かかることがあるというのを見たのだが、さまざまな支流が結びついて本流をつくり出すのだから、川のなかでは、さまざまな時間が流れていることになる。何年も前に降った雪や、何ヶ月も前に降った雨が、同じ一つの川のなかに流れているのだ。「河は同じでも、その中に入って行く者には、あとからあとから違った水が流れてくる。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』一二、田中美知太郎訳)。何週間も前に死んだ牛や、何ヶ月も前に掘り出されて凍らされたジャガイモやニンジンたちも、一つのシチュー鍋のなかで、ぐつぐつと煮られる。人間の肉体や精神も同じだ。高校までに習い覚えた国語の知識と、他人の書いたものから適当に言葉を抜き出して引用するという、かっぱらいの技術で、わたしもまた、いま書いている、このような詩稿が書けるようになったのである。「人生とは年月から成り立っているのだろうか、分秒から成り立っているのだろうか」(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)。「果物の話はしたかしら?「(ルーシャス・シェパード『黒珊瑚』小川 隆訳)「ぼくが発見したことがなんだか知っているかい?」(トーマス・マン『ファウスト博士』七、関 泰祐・関 楠生訳)。川には、牛もまた流れるということ。大学院の二年生のときのことである。前日の激しい台風が嘘のように思われる、よく晴れた日の午後のことであった。賀茂川の下流に、膨れ上がった一頭の牛が流れていたのである。アドバルーンのように膨れ上がった牛の死骸が、ぷかぷかと浮かびながら、ゆっくりと川を下っていくのを、恋人といっしょに眺めていたことがあったのである。「牛を見に行こう」(レイ・ブラッドベリ『刺青の男』狐と森、小笠原豊樹訳)。そういえば、わたしがはじめて書いた詩のタイトルは、「高野川」だった。それはまた、一九八九年度発行の「ユリイカ」八月号の詩の投稿欄に掲載されたのだった。そのときの選者は吉増剛造さんで、わたしの初投稿の拙い詩を選んでいただいたのであった。「いい詩だよ、覚えてるかね?」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18・大西 憲訳)。インドでは、「詩人のつくった詩に対する最高の讃辞は、「なんとすばらしい詩であろう、まるで牛の鳴き声のようだ」という」(文藝春秋社『大世界史6』)。「きれいな花ね。」(ジョン・ウィンダム『野の花』大西 尹訳)「牛だ──」(フィリップ・K・ディック『いたずらの問題』23、大森 望訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「花がなんだというのかね。」(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)「花が、何百もの小動物や小鳥を宿している」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』2、岡部宏之訳)。「凍らされて、それがこなごなに砕けちる感じ!」(グレッグ・イーガン『行動原理』山岸 真訳)「そうそれよ」(フィリスコ・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』17、藤井かよ訳)。「本当にいろんなことが起きるのね」(タビサ・キング『スモール・ワールド』1、みき 遙訳)。「頭の中で出来事を再構成しているのだ。」(マーガレット・アトウッド『侍女の物語』23、斎藤英治訳)「ぼくは違った光を見たいんだ」(エリザベス・A・リン『遙かなる光』1、野口幸夫訳)。「経験とは何か?」(バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)「おまえの幸福はこの中にあるのだろうか」(リルケ『リース』I、高安国世訳)。「幸せだったのだろうか?」(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)「幸せな苦痛だった、いまでもそうだ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)。「幸福でないものがあるだろうか?」(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』1、中桐雅夫訳)「たぶん、私の幸せはそこにあった、しかし」(ネルヴァル『火の娘たち』シルヴィ・十四、入沢康夫訳)、「その忘れがたいすばらしい思い出によって、われわれはいつも被害を受けるのだ」(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)。「過去は忘れなさい。忘れるために過去はあるのよ。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・11、川副智子訳)「人は幸せなしでもやっていけるもの。」(ジュリエット・ドゥルエの書簡、ヴィクトル・ユゴー宛、一八三三年、松本百合子訳)「けれどその花は」(ギヨーム・アポリネールの書簡、ルー宛、平岡 敦訳)。「じつを言えば、たいていなにをやっていても楽しいのだ。」(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)「その花は?」(J・T・バス『神鯨』10、日夏 響訳)「なんだかをかしい。」(川端康成『たんぽぽ』) 「上の人また叩いたわ」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)。「きみにいたずらをした男かい?」(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)「幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?」(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳) 「人間はまったくの孤独におかれると死ぬ。」(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)「ひとりにしておいて欲しい?」(ノサック『弟』4、中野孝次訳)「誰がかつて花の泣くのを見たことがあるでしょうか。」(ゲオルゲ『夏の勝利』あなたはわたしといっしょに、手塚富雄訳)「花?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)「花をなぜ放っとかないんだ?」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)「時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)「一秒は一秒であり一秒である。」(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年四月二十八日、浅倉久志訳)「相変わらずぶんぶんうなっとるかね?」(ジョン・ウィンダム『宇宙からの来訪者』大西尹明訳)「ぶんぶんいう以外に罰当たりなことはしやしませんよ」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月二十一日、野口幸夫訳)。「ぼくは詩が書きたかった。」(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)「ぼくは詩人ではない。」(E・M・フォースター『モーリス』第四部・38、片岡しのぶ訳)「もう詩を書く人間はひとりもいない。」(J・G・バラード『スターズのスタジオ5号』浅倉久志訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「だまっててよ、ママ。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「だれにでもできるってことじゃないんだから。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』1、石井桃子訳)「枝にかへらぬ花々よ。」(金子光晴『わが生に与ふ』二)「近くに行ったら、花が自(おのずか)ら、ものを言おう。」(泉 鏡花『若菜のうち』)「花も泣くのだ」(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』60、細美遙子訳)。「子どもたちは花を持ってきてくれるだろう。」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「牛など丸ごと呑みこんでしまう」(R・A・ラファティ『完全無欠な貴橄欖石』伊藤典夫訳)「百合の花だ。」(ネルヴァル『火の娘たち』アンジェリック・第十の手紙、入沢康夫訳)「ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ」(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は……)』渋沢孝輔訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「神がそこにいる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)「と」(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)。「神だって?」(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』31、岡部宏之訳)「神を持ち出すなよ。話がこんぐらがってくる」(キース・ロバーツ『ボールダーのカナリア』中村 融訳)。「まるで金魚のようだ」(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)。「それ、どういう意味?」(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)「意味がなければいけないんですか?」(キャロル『鏡の国のアリス』6、高杉一郎訳)「馬鹿の非難も聞いてみると堂々たるものである。」(ブレイク『天国と地獄との結婚』地獄の格言、土居光知訳)「ぼくが裏切るだろうと期待してはいけない。」(コクトー『阿片』堀口大學訳)「精神はその範囲外にあるものは考えることができない。」(バルザック『セラフィタ』四、蛯原〓夫訳)「だが、考えることをやめてはいけない。」(ポール・アンダースン『脳波』3、林 克己訳)「だから、こんどはなにをする?」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』8、石井桃子訳)「敵打(かたきうち)がしたいのでっしゅ。」(泉 鏡花『貝の穴に河童のいる事』)「してはいけない。」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』5、安東次男訳)「だれもこのことは知っちゃおらんぞ。不意(ふい)うちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「夜は、もはやない。」(ヨハネの黙示録二二・五)「だれかが、ぬすんだんじゃよ。」(A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)。食器棚からコーヒーカップを二つ取り出して振り向くと、カシャ、カシャ、カシャ、連続写真、猿が猿の仔を岩に叩きつけている。頭のつぶれる音が、グシャ、グシャ、グシャ。両手に持ったコーヒーカップに目を落とすと、高速度連続写真、トランプ・カードで、指がポロポロと、ポロポロと落ちていく。まるで熱いアイロンの下の、ミミズと蝙蝠の幸福な出会いのように美しい。おまえたちは取税人である。東に税を払わぬ者がおれば、その者たちの親の首を刎ねよ! 西に税を払わぬ者がおれば、その者たちの子の首を刎ねよ! さらし首よ! 笑い者どもよ! 川はさまざまなものを引き裂き、相結ばせる。吉田くんの家では、ガッチャマンと家庭崩壊が結びつき、劇場映画館では、エイリアンとゾンビたちが手をつなぎ合ってスクリーンに見入っている。伊藤くんちの食卓では、ただパパとママの首が入れ換わっているだけだけど。笑。人間は、生きているうちに、天国にも地獄にも行くのだ。人生のことを知るためには、何度も何度も天国と地獄の間を往復しなければならないのだ。「私たちは離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「われわれは存在すると共に、また存在しないのである。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』四九、田中美知太郎訳)「わかるかしら?」(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)「ぷっ!」(ジャック・ヴァンス『竜を駆る種族』9、浅倉久志訳)「じゃないかと思ってたの。」(マイケル・コニイ『ハローサマー・グッドバイ』14、千葉 薫訳)「それより」(ヘミングウェイ『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』大久保康雄訳)、「コーヒーのお代りは?」(ロジャー・ゼズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)「コーヒー?」(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊池 光訳)。我もまた、ヘラクレイトスに倣いて歌う、万(よろず)の川より一つの川へ、一つの川より万(よろず)の川へと。行く川のほとりはミシシッピー。マーク・トウェインが息子の女装を解除する朝、バーガーショップの見習い店長がピピリンポロンとチャイムを押すと、テーブルの上ではウェイトレスが流れ、鉄板の上では手のひらが叫び、閉所恐怖症の客たちが、躍り上がってコップに落ちる。現実と現実が出合い、一つの非現実となる。虚無と虚無が出合い、一つの存在となる。では、小さな人よ、戦争と戦争が出合って、一つの平和となるのか? 擬態し、擬装する川たち。賀茂川はセーヌに擬態し、セリーヌは鷗外に擬装する。「蜂だ!」(アルフレッド・ベスター『昔を今になすよしもがな』中村 融訳)「もうきたかい?」(スタニスラフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第十四回の旅、袋 一平訳)「蜂の巣のなかの完全共同作業。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)「なぜ蜜蜂は、女王、雄、働き手と分かれていながら、なおかつひとつの大きな家族として生きているのだろう? なぜなら、かれらにとってはそれがうまくいくからだ。」(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』1、矢野 徹訳)。一寸法師は流れ、どんぶりは流れ、桃太郎は流れ、朔太郎は流れ、乙姫は流れ、おじいさんは流れ、おばあさんは流れ、風評は流れ、そうめんは流れ、立て看板は流れ、キャンパスは流れ、大学は流れ、ピンキーとキラーズは流れ、百万のさじは投げられ、太宰は流れ、死のフーガは流れ、ゲロチョンは流れ、ケロヨンは流れる。クック、クック、クッ。川のなかから、受話器を持つ手が現われた。「神聖な牛よ(こいつは、おどろいた)!」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』下・25、矢野 徹訳)「うるわしい雌牛たちよ!」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「神さまは美しい物を、何てたくさんお造りになったのかしら」(プイグ『赤い唇』第二部・第十五回、野谷文昭訳)。「気にいったかい?」(R・M・ラミング『神聖』内田昌之訳)。川よ、瞬時に凍れ! 凍らば、直立せよ! ってか。むかし、3高と3Kって、同じことをさして言ってる言葉だと思ってた。3高ね、3高。「そうね、結婚するんだったら、ぜったい3高よね。高学歴・高収入・高身長の人よね。そのために、バッチシ整形もしたんだからさあ。」「あ〜ら、あたしの彼も3高よ! 高年齢・高血圧・高コレステロールなのよ。そのため、毎日、病院通いなのよ。」ふふん、な〜るほどね。はやく死んでくれってか。笑。産みなおしたろか、おまえらも。「愛の訪れは、こうまで長い年月を待たねばならぬものか。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』II・1、宇野利泰訳)「すべては失われたものの中にある。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「すべてが記憶されていたのか?」(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)「記憶はあらゆる場所にある。」(ウィリアム・ギブスン原案・テリー・ビッスン作『J・M』8、嶋田洋一訳)「時と場所も、失われたもののひとつだ。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)。物質の構成。吉田くんは、山本くんと斉藤さんと水田くんからできている。あの人の鼻水。でも、森本くんと清水くんとの共有結合は、寺田さんと馬場くんとの共有結合よりエネルギーが大きい。あの人の鼻水。ページをめくると、血が出ませんか? 汗にまみれた脇の下では、蟻の塊がうごめいている。脇の下のそのやわらかい皮膚につぎつぎと咬みついていく。わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。わたしのなかに曲がった水が満ちていく。「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。「きみが求めている真実がないってことかな?」と、シンちゃん。出かかった言葉が、ぼくを詰まらせた。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクをなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。遠足の日に履いて行った、まっさらの白い運動靴が、わざと踏まれて汚された。いくら洗っても、汚れは落ちなかった。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。川と川面に映った風景が入れ換わる。そういえば、アドルフ・ヒトラーも、わたしのように、夕闇に浮かび漂う蛍の尻の光に目をとめたことがなかったであろうか? 「まもなくイエスが現われる頃だ。」(ジョン・ヴァーリイ『へびつかい座ホットライン』16、浅倉久志訳)「これから何をするかは、わかっている。」(ウォルター・テヴィス『運がない』黒丸 尚訳)「なぶり殺して楽しむのだ。」(エルヴェ・ギベール『楽園』野崎 歓訳)「知ってるさ。いちどやったことは、またやれる」(ブライアン・W・オールディス『橋の上の男』井上一夫訳)。「だったら、ぐずぐずしてられない」(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』9、中原尚哉訳)。「ついてこい!」(A&B・ストルガツキー『蟻塚の中のかぶと虫』七八年六月四日/地球外文化博物館。夜、深見 弾訳)「楽しもうぜ!」(ピエール・クリスタン『着飾った捕食家たち』そして円(まど)かなる一家団欒の夕餉(ゆうげ)に……、田村源二訳)。







追記

 昨年の四月のことだったでしょうか、四国のとあるところで和尚をしている一人の坊主と知り合いまして、しばらくの間、付き合っていたのですが、月に一、二度、京都に来なければならない用事があるとかで、わたしとはじめて会った日も、その用事を済ませた帰りだったそうです。日の暮れ時に、葵橋の袂にあります葵公園で出会いました。車で来ていた彼は、よくわたしをドライブに連れて行ってくれました。鴨川の源流の一つであります岩屋谷の志明院にも、昨年の五月にたずねたことがありました。五月といいますのに、雲ケ畑の山道には、溶け切らなかった雪が、あちらこちらに点在しておりました。高野川のほうではなく、賀茂川のほうを遡っていったのですね。車で行けるところまで行き、残りの道は歩いて登りました。ふだんあまり汗をかくことをしないわたしのほてった身体を、澄んだ冷たい空気がたちまちさましてくれました。石段を登って境内に入りますと、よりいっそう澄んだ空気が肺に満ちていくような気がいたしました。さらに登って、院のご不動さんが祀られてある洞窟にまいりますと、小さなフンが、あちらこちらに点在しておりました。たぬきとか、いたちとかいったもののフンだったのでしょうか? じっさい、たぬきのフンも、いたちのフンも見たことはないのですが……。あとで、鴨川の源流の一つであります、「飛龍の滝」と呼ばれる、細長い直方体の樋の先から滴り落ちる水を目にしたのですが、まるで山の神がする小便のような印象を受けました。

文学極道

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