#目次

最新情報


北 - 2017年分

選出作品 (投稿日時順 / 全11作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


琵琶湖疎水扁額史會

  

さくら淡く電燈に透けながら
ほどけるをみる
※1)萬物資始 :すべてのことがこれによって始まる

もこそに馳せた大陸は
※2)気象万千 :千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい
帯状に弛む疎水の門をくぐり
あかりまるく落ちるを知る
※3)寳祚無窮 :皇位は永遠である

長等山のトンネルを抜け
四ノ宮の船だまりで時の歩み蒼白に微睡む
※4)廓其有容 :悠然とした大地のひろがりは奥が深く悠久の水をたたえる

飛沫の余波(なごり)山麓に乗りあげ
月光の果てで、時と混じりあう
※5)仁以山悦智為水歓 :仁者は知識を尊び知者は水の流れをみて心の糧とする

※日御山に沓を遺し
陽はのぼり※御廟野に影を縫う
※6)隨山到水源 :山にそって行くと水源にたどりつく
永遠を呼び醒すこゝろの逝くすえは
琴線をかき鳴らしている
わたしは琵琶湖うまれ
わたしは琵琶湖うまれ
季節の袖で風を拭う

*************

花冷えに春嵐の舞踏をみるを
新緑、水盤に移り映える

※7)過雨看松色 :時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる
※8)美哉山河 :なんと美しい山河である為政者の徳と国民の一致が大切である

古都を燈すあかりの配列は

※9)藉水利資人口 :自然の水を利用して人間の仕事に役立てる
※11)一身殉事萬戸霑恩 :明治35年、田邊朔郎、※蹴上に第1疏水殉職者慰霊碑を私費建立す

蹴上に水は京を禊ぎつづけている
螺旋状に編み込まれたねぢりマンポを潜れば
まもなく4000本の躑躅が花をつけているのを観る

※10)雄觀奇想 :それは見事なながめとすぐれた考えである
※12)亮天功 :民を治めその所を得さしめる

我、大陸黄土に霞むをみる




※参考

※1萬物資始
第2疏水 (取入口)
久邇宮邦彦 筆
すべてのことがこれによって始まる

※2氣象萬千
第1疏水第1トンネル東口 (大津側)
伊藤博文 筆
千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい

※3寶祚無窮
第1疏水第1トンネル (内壁)
北垣国道 筆
皇位は永遠である

※4廓其有容
第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)
山縣有朋 筆
悠久の水をたたえる
悠然とした大地のひろがりは奥が深い

※5仁似山悦智為水歓歡
第1疏水第2トンネル (東口)
井上馨 筆
仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする

※6隨山到水源
第1疏水第2トンネル (西口)
西郷従道 筆
山にそって行くと水源にたどりつく

※7過雨看松色
第1疏水第3トンネル (東口)
松方正義 筆
時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる

※8美哉山河
第1疏水第3トンネル (西口)
三条實美 筆
なんと美しい山河であること
為政者の徳と国民の一致が大切との含意

※9藉水利資人口
疏水合流トンネル (北口)
田邊朔郎 筆
自然の水を利用して,人間の仕事に役立てる

※10雄觀奇想
ねじりマンポ (南側)
北垣国道 筆
見事なながめとすぐれた考えである

※11一身殉事萬戸霑恩
田邊朔郎 筆
明治35年 田邊朔郎が私費建立した第1疏水殉職者慰霊碑(蹴上)

※12亮天功
第2期蹴上発電所 (入口)
久邇宮邦彦 筆
民を治めその所を得さしめる

※日御山
京都府 京都市山科区にある山の名前。(天智天皇が行幸した折「日の山」と 名付けたことから「日ノ山(日御山)」呼ばれている。) 京都で最古の宮「日向大神宮」がある。
※御廟野(御廟野町)
京都府 京都市山科区にある地名。天智天皇陵がある。
※蹴上
京都府 京都市東山区にある地名。蹴上浄水場や蹴上インクラインがある。


蒼ざめし

  

我が頭骸骨をさわりたい
目玉がはまっていたところから
外を覗き込んでみたい
穏やかに昇天している無量の言魂がみえるだろう

我が墓石を前に、
我が頭蓋骨を両腕に鎮めている
あちらの人間も、こちらを見ている
あちらとこちらの境界で、互いに気不味いではないか
胡座の裡にどっしりと座り、

人目を気にせず

ああ、我が頭蓋骨を抱きしめていたい

出かけるのは深夜、我が頭蓋骨のとなりに腰かける
星林は夜景に埋もれ、街明りは絶景を見下ろしている
もう、帰るところがないのである
宙も大地もないのである
雨風を凌ぐ、
家に設計図はいらないのである
あちらもこちらも、
同じ社会構造になってしまう

ひとり静かに死んでいたいのである

我が頭蓋骨を抱きしめ、
ほんとうに最後までよくがんばった
心臓も労ってやりたい (火葬してしまった
せめて墓を建ててやりたい (心臓に名前がなかった
今さら申し訳ないと思う
四十九日、心臓を靖子と名づけ呼ぶことにした

*

靖子、我が片恋の女
あちらでは、
一言の会話さえ、交わしたことがなかった
しかし、今なら告白できる気がする

暦の境界に靴を脱ぎ
ここから飛び降り貴女の跡を追うのだ

靖子、靖子さん

この勇気はいったいどこから湧いてくるのか
こちらで貴女へ伝えられなかった恋情を、
あちらで貴女に伝えること叶うであろうか・・

そう思うと、


靖子がどきどきする


蛾と心

  

波の蛍光灯にはりついて
小さな母が
影を見つめている
どこから飛来してくるのか
波は知れない

未だ夜の明かりに求められる
138億年前の爆発
母に光の形をとどめ
その、荒々しい波が
私の大脳皮質を凸凹に踏み潰す

手足や道具から
人間の主語や意味が〓げ
母は微笑みながら降り積もる
性善や性悪が波を支配し
現象がここにある

研ぎ澄まされた私の触覚の
視界が保有している権限は
闇の隅々に鎮み行使される
微かに震える波動が子宮に打ち寄せ
希望は最後まで動かないでいる


草花ノート

  



春から初夏に咲く草花 (山野草) を野外観察しました。好みの生体を選び、その花の名と、その花言葉と、そのときに連想した言葉を貼り合わせました。


ゝ観察した草花とその花言葉のリスト

・タビラコ
花言葉:秘かな楽しみ

・ヤブヘビイチゴ
該当なし

・ヘビイチゴ
可憐、小悪魔のような魅力

・カタバミ
喜び、 輝く心、母のやさしさ

・タチツボスミレ
小さな幸せ、つつましい幸福

・キランソウ
追憶の日々、健康をあなたに

・ナズナ
あなたにすべてをお任せします

・ハナニラ
悲しい別れ

・ホトケノザ
調和

・クサフジ
生命力の旺盛な

・カラスノエンドウ
小さな恋人達、喜びの訪れ、未来の幸せ

・シロツメクサ
私を思い出して、幸福、幸運、復讐

・キツネノボタン
嘘をつくなら上手に騙して

・オドリコソウ
快活、陽気、隠れた恋

・カキツバタ
幸運は必ず来る、幸せはあなたのもの

・キショウブ
信じる者の幸福、私は燃えている

・ハハコクサ
いつも思う、温かい気持ち、いつも想っています

・シロバナタンポポ
私を探して、そして見つめて

・ハルジョオン
追想の愛

・ケマンソウ
あなたに従う

・ササユリ
清浄、上品、純潔

・ワスレナグサ
真実の愛、私を忘れないで

・ツルアリドオシ
無言の恋

・オカタツナミソウ
私の命を捧げます



ゝ草花の観察中に連想した言葉のメモ

・ゆれる
・あなたはあつい
・微量の乙女心のこる
・焦げくさい三月の手紙
・畦道の空
・夢をしている
・道標
・幻が停車している
・ああ、父よ
・その色
・わたしたちの弟は、話し下手な
・里山の血
・もしくは
・土の故郷
・幸せの探しかた
・占った
・あてずっぽ
・四月を摘む
・栞にはさんだまま
・ここにいないということ
・くすぐったい
・すべてのいないということの意味
・風を帯びた
・ほら、あなたの母性
・ごらん、これは水死体
・あれが焼死体
・来世もわたしたちいちりんの(ね
・一寸法師はあとすこしのところでカマキリに食べられました
・緑命の五月
・神社の水
・人間が果物を食べる
・人の味がする
・母乳のふるさと
・涙は海の母
・世界自然遺産は既に死んでいる
・パンダこそ蟄居する自然の姿
・笛の音遠ざかる
・草花は死に切れない
・生き返らない生命
・誰かに枯らされるまえに
・ト、ヘンのまえ
・潔く自害して果てる



ゝ草花の観察中に連想した言葉に草花の名を添えました

ゆれる・タビラコ
・ヤブヘビイチゴ
あなたはあつい
・カタバミの
微量の乙女心のこる
焦げくさい三月の手紙
・タチツボスミレ
畦道の空
・ナズナが
・キランソウの夢をしている
道標
・ハナニラの
幻が停車している
ああ、父よ・ ホトケノザ
・クサフジ色
わたしたちの弟は、話し下手な
・カラスノエンドウ
里山の血
もしくは
土の故郷
幸せの探しかた
を占った
・シロツメクサ
あてずっぽのクローバー
四月を摘む
そして、栞にはさんだ
ここにいないということ
・キツネノボタン
すべてのいないということの意味
くすぐったい
風を帯びた、・オドリコソウ
ほら、
あなたの母性
ごらん、
これは水死体 ・カキツバタ
あれが焼死体 ・キショウブ
来世も
わたしたち
いちりんの・ハハコクサ
一寸法師は
あとすこしのところで
カマキリに食べられました
・シロバナタンポポ
緑命の五月
神社の水 ・ハルジョオン
人間が果物を
食べると
人の味がする
母乳のふるさと・ケマンソウ
涙は
海の母
世界自然遺産は既に死んでいる
パンダこそ
蟄居する自然の姿
・ササユリの笛
遠ざかる
・ワスレナグサ
草花は死に切れない
生き返らない
生命は・ツルアリドオシ
誰かに枯らされるまえに
ト、ヘンのまえで
潔く自害して果てる・オカタツナミソウ



ゝ草花の観察中に連想した言葉と草花の名に花言葉を添えました

ゆれるタビラコ (秘かな楽しみ、調和
ヤブヘビイチゴ (小悪魔のような魅力
あなたはあつい
カタバミの (喜び、 輝く心、母のやさしさ
微量の乙女心のこる
焦げくさい三月の手紙

タチツボスミレ (小さな幸せ、つつましい幸福
畦道の空
ナズナ (あなたにすべてをお任せします
キランソウの (追憶の日々、健康をあなたに
夢をしている
道標
ハナニラの (悲しい別れ
幻が停車している

ああ、父よ、ホトケノザ (調和
クサフジ色 (生命力の旺盛な
わたしたちの弟は、話し下手な
カラスノエンドウ (小さな恋人達、喜びの訪れ、未来の幸せ
里山の血
もしくは
土の故郷
幸せの探しかたを占った
シロツメクサ (私を思い出して、幸福、幸運、復讐
あてずっぽのクローバー
四月を摘む
そして、栞にはさんだ
ここにいないということ
キツネノボタン (嘘をつくなら上手に騙して
すべてのいないということの
くすぐったい意味

風を帯びた、オドリコソウ (快活、陽気、隠れた恋
ほら、あなたの母性
ごらん、
これは水死体 カキツバタ (幸運は必ず来る、幸せはあなたのもの
あれは焼死体 キショウブ (信じる者の幸福、私は燃えている
来世もわたしたち
いちりんのハハコクサ (いつも思う、温かい気持ち、いつも想っています
一寸法師は
あとすこしのところで
カマキリに食べられました

シロバナタンポポ (私を探して、そして見つめて

緑命の五月
神社の水 ハルジョオン (追想の愛
人間が果物を
食べると
人の味がする
母乳のふるさと ケマンソウ
(あなたに従う
涙は海の母

世界自然遺産は既に死んでいる
パンダこそ
蟄居する自然の姿
ササユリの笛の音 (清浄、上品、純潔
遠ざかる
ワスレナグサ (真実の愛、私を忘れないで
草花は死に切れない
生き返らない
生命はツルアリドオシ (無言の恋
誰かに枯らされるまえに
ト、ヘンのまえで
潔く自害して果てるオカタツナミソウ (私の命を捧げます



ゝ草花の観察中に連想した言葉と花言葉を本来在った場所に戻しました

ゆれる調和、秘かな楽しみ
小悪魔のような魅力
あなたはあつい
喜び、 輝く心、母のやさしさ
微量の乙女心のこる
焦げくさい三月の手紙

小さな幸せ、つつましい幸福
畦道の空
あなたにすべてをお任せします
追憶の日々、健康をあなたに
夢をしている道標
悲しい別れ
幻が停車している

ああ、父よ、調和よ
生命力の旺盛な
わたしたちの弟は、話し下手な
小さな恋人達、喜びの訪れ、未来の幸せ
里山の血
もしくは
土の故郷
幸せの探しかたを占った、私を思い出して
幸福、幸運、復讐、あてずっぽのクローバー
四月を摘む
そして栞にはさんだ
ここにいないということ
嘘をつくなら上手に騙して
すべてのいないということの意味

くすぐったい風を帯びた
快活、陽気、隠れた恋
ほら、あなたの母性
ごらん、これは水死体
幸運は必ず来る、幸せはあなたのもの
あれは焼死体
信じる者の幸福、私は燃えている
来世もわたしたち
いちりんの温かい気持ち
いつも想っています
一寸法師は
あとすこしのところで
カマキリに食べられました

私を探して、そして見つめて

緑命の五月
神社の水 追想の愛
人間が果物を
食べると
人の味がする
母乳のふるさと
あなたに従う涙は
海の母

世界自然遺産は既に死んでいる
パンダこそ
蟄居する自然の姿
清浄、上品、純潔の笛の音
遠ざかる
真実の愛、私を忘れないで
草花は死に切れない
生き返らない
生命は無言の恋
誰かに枯らされるまえに
ト、ヘンのまえで
潔く自害して果てる私の命を捧げます


タビラコと仏の座のロゼット

  


早春から、春の七草のひとつタビラコをよく見ます。それはロゼットの状態で冬を越したタビラコが茎や葉を伸ばし花を咲かせている姿です。
(ロゼットの状態で冬を越した)このロゼットとは植物が地面に対し茎は短く葉は這いつくばるような形態で中心から放射状に生えていることをさして云います。語源は八重咲きの薔薇の花の姿「rosette」より連想されたと伝えられています。植物がロゼットを形成する理由は用途によってさまざまですが、身近に見れるものではキク科のタンポポがあります。
合唱曲「タンポポ」の歌詞の中で「雪の下の故郷の夜、冷たい風と土の中で。」と歌われているのは冬越しするタンポポのロゼットのことでありましょう。タンポポのロゼットはこの歌詞のように根は土の中で、葉は(冷たい風)土の上で冬を越します。
又、タンポポの種子についても申しあげませば、種類や固体により差はありますが、カントウタンポポの種子は9月から10月の時期頃に発芽することが多いといわれています。中には種子の状態で冬越しする丈夫な個体もあるかもしれませんが、タンポポにとっては冷たい冬が訪れる前に発芽し、ロゼットの状態で冬越しをする方が何かと都合が良いのかも知れません。

「ロゼットの短所と長所。」

もちろんロゼットにも短所があります。ロゼットの状態では前述したように茎が短く背丈が低いので、他の大型植物との日光争奪戦では影を背負うことになり、光合成を営む上で非常に不利になります。ですのでロゼットの状態では大型植物が生息できない厳しい環境を選ぶ必要があります。その厳しい環境とは人間の暮らしと営みに近接する水田や畑その畦などです。ロゼットが大型植物と生存競争をしないですむ環境を得れば、背丈が低いという短所も長所に成り替わります。茎を伸ばす必要がないので栄養を貯めておくことができます。地面に対して這いつくばるように生える葉は土の温度を利用し冬の外気温から身を守ることができます。放射状に伸びる葉は隣りの個体と葉が重なり合い光合成を妨げることを未然に防ぎます。
これらの条件はタンポポと同じキク科に属する主題のタビラコにも大凡通用するでしょう。

「タビラコと春の七草。」

タンポポやタビラコ以外にもロゼットで冬越しする植物はたくさんあります。その中で身近なところから論うと春の七草のうちの5種類はこのロゼットの状態になっています。セリ、ナズナ、ハハコグサ、ハコベ、そしてホトケノザ(タビラコ)です。 このキク科のタビラコは大きく分けて3種類存在します。そのうち春の七草として一般的に食されるタビラコはコオニタビラコという種類です。その他にはオニタビラコ、ヤブタビラコという種類があります。

「ムラサキ科のミズタビラコとキク科のタビラコとシソ科のホトケノザ。」

キク科のタビラコとは別にミズタビラコと呼ばれる植物があります。これはムラサキ科の植物で容姿はキク科のタビラコとは大きく異なります。このムラサキ科のミズタビラコの名の由来はコオニタビラコと似たような場所に生息し、開花も同じ時期頃だからではないかと思われます。
タビラコを漢字では田平子と書きます。字から見てとれるようにタビラコは水田の畦道など湿った場所に多く見ることができます。
この田平子とはコオニタビラコをさしています。このコオニタビラコは春の七草では仏の座という名で呼ばれており、食品売り場などで春の七草としてその季節に販売されています。通常、仏の座として市場に流通しているのは前述したこのコオニタビラコでありますが、購入後、花が咲くまで待ってみると、それはコオニタビラコではなくオニタビラコだったという話もあるようです。何れにせよタビラコはロゼットの部分を蓮華座に例え仏の座として呼ぶのが通説です。
又、ホトケノザという名の植物にはキク科のタビラコとは別にシソ科のホトケノザが存在しています。分類上ではキク科のタビラコはシソ科のホトケノザにその名を譲ります。従ってキク科のタビラコは春の七草のときには仏の座(ホトケノザ)と呼び、それ以外はタビラコと呼ぶのが相応しいと思います。


「オニタビラコとコオニタビラコ・ヤブタビラコの違いを花径で見分ける。」

これら3種類のタビラコはいったいどのような花を咲かせるのかと申しますと、みなさん花を見ていちばん目につくのは花弁かと思われますが、花弁の色はすべて黄色です。花弁の枚数については個体によって様々ですが、コオニタビラコの花弁が7枚〜9枚に対しコオニタビラコやヤブタビラコの花弁は18枚と記述している図鑑をみたことがあります。しかし実際には観察時に花弁がいくつか散ってしまっている恐れもありますので、花弁の枚数で種類を正確に見分けるのは非常に難しいと思います。
花径(花の直径)の違いではコオニタビラコやヤブタビラコの花径が1センチなのに対しオニタビラコの花径はひとまわり小さく0・8ミリ程度です。しかしオニタビラコの背丈はコオニタビラコやヤブタビラコよりも大きく20センチから1メートルまで成長し葉の(鋸歯)はコオニタビラコやヤブタビラコよりもギザギザと深裂し葉裏は多毛で鋸歯の先に棘が確認できます。又、オニタビラコには、赤鬼と青鬼があり、葉や茎に赤みを帯びたものをアカオニタビラコと呼び、緑色を帯びているものをアオオニタビラコと呼びます。花弁について少し説明を付け加えておきますと、これらの花弁は一枚がひとつの花です。従ってひとつの花が集まり、我々が目にする花の形を形成しています。これを頭状花と呼びます。

「コオニタビラコとヤブタビラコの違いを葉で見分ける。」

コオニタビラコとヤブタビラコの見分け方を説明をする前に、一度おさらいしておきますとオニタビラコの花径は0・8ミリ、コオニタビラコやヤブタビラコの花径は1センチです。
コオニタビラコの背丈は20センチまで伸びます。一方ヤブタビラコの背丈は大きく40センチまで伸びます。花はどちらも似ており見分けがつきにくいので葉の違いで見分けるようにします。
コオニタビラコの葉裏に毛が生えていませんが、ヤブタビラコの葉裏には毛が生えています。ヤブタビラコの葉はコオニタビラコに比べて鋸歯はやんわりと深く裂けコオニタビラコのような丸みが少なく鋸歯の先端に小さな棘が確認できます。
しかし実際に屋外で観察するとこれらヤブタビラコ・コオニタビラコ・オニタビラコは交雑しているのではないだろうかと思ってしまうくらいにコオニタビラとヤブタビラコを見分けるのは難しく感じています。しかし葉の丸み、棘や毛の有無という点に視点を絞り観察すれば多少見分け易くなると思います。
又、オニタビラコとは異なりヤブタビラコとコオニタビラコには綿毛(冠毛)がないという点は見分けるポイントになりましょう。しかしこれも実際に屋外で観察すると綿毛は見受けられないが葉はオニタビラコのように見受けられる個体と遭遇したりすることがありますので、やはりコオニタビラコの葉は丸く毛がなく鋸歯の先に棘がないという点だけで、これは食用に向いているということを想像しながら見分け判断基準にするのがよいと思われます。


「その他の見分け方。」

「オニタビラコ」
・冠毛(綿毛)がある。
・葉や茎を切ると白い乳液がでる。
・花の後、総苞の基部が膨らむ。
※ 総苞とは主にキク科にみられる花序全体の基部を包む苞。萼と似ていますが萼とは呼びません。

「コオニタビラコ」
冠毛(綿毛)がない。
花の後、総苞は円筒形で膨らまない。
花の後、花柄が伸び下に向く。
※ 花柄とは花や実を支える茎のことです。

「ヤブタビラコ」
花の後、総苞が全体的に丸く膨らむ。
花弁の黄色がコオニタビラコに比べやや淡い。


「タビラコと仏の座の名についての様々な意見。」

「〓嚢抄」1446年「運歩色葉集」1548年「連歌至宝抄」1585年では田平子と仏の座が並んで挙げられています。それを「〓嚢抄」に見てみますと、

《或歌には、せりなづな五行たびらく仏座あしなみみなし是や七種》

これには、セリ・ナズナ・ゴギョウ・タビラコ・ホトケノザ・アシナ・ミミナシ、是や7種。とありタビラコ(たびらく)とホトケノザ(仏座)が並んで挙げられているので、ここではタビラコとホトケノザが別種であるように見受けられます。

貝原益軒の「大和本草」1709年に、

《仏の座(ホトケノザ)賤民、飯に加え食う、是れ古に用いし、七種の菜なるべし。一説に仏の座は田平子なり。》

とあります。又、同書には、

《黄瓜菜(たびらこ) 本邦人曰、七草ノ菜ノ内、仏座是ナリ。四五月黄花開く。民俗飯に加ヘ蒸食ス。又アヘモノトス。味美シ、無毒。》

とあります。黄瓜草は4月5月に黄色い花をつけるのですから、この黄瓜菜はキク科のタビラコの仲間のオニタビラコ・コオニタビラコ・ヤブタビラコ、若しくは同じキク科の二ガナ・ハナニガナであると考えられます。しかし、貝原益軒の「大和本草」では、ホトケノザとタビラコという二つの名に対しその見解がどちらも殆ど同じであることに対し、

牧野富太郎「植物記 春の七草」1943年で、

《今日世人が呼ぶ唇形科者のホトケノザを試しに煮て食って見たまえ、ウマク無い者の代表者は正にこの草であるという事が分る、しかし強いて堪えて食えば食えない事は無かろうがマー御免蒙るべきだネ、しかるに貝原の『大和本草』に「賤民飯ニ加エ食ウ」と書いてあるが怪しいもんダ、こんな不味いものを好んで食わなくても外に幾らも味の佳い野草がそこらにザラにあるでは無いか、貝原先生もこれを「正月人日七草ノ一ナリ」と書いていらるるがこれも亦間違いである、そうかと思うと同書タビラコの条に「本邦人日七草ノ菜ノ内仏ノ座是ナリ、四五月黄花開ク、民俗飯ニ加え蒸食ス又アエモノトス味美シ無毒」と書いてあって自家衝突が生じているが、しかしこの第二の方が正説である、同書には更に「一説ニ仏ノ座ハ田平子也ソノ葉蓮華ニ似テ仏ノ座ノ如シソノ葉冬ヨリ生ズ」の文があって、タビラコとホトケノザとが同物であると肯定せられてある、そしてこの正説があるに拘わらず更に唇形科の仏ノ座を春の七種の一つダとしてあるのを観ると貝原先生もちとマゴツイタ所があることが看取せられる》

これを今風に訳しますと、

(現在でいうシソ科のホトケノザを食ってみればわかるだろう、不味い食い物の代表のような植物だ。それでも無理矢理に食べれば食べられないわけでもないけど、これはオススメできないネ。しかし、貝原益軒さんは「大和本草」で、身分の低い人々はこのホトケノザ(シソ科)を飯に混ぜて食うと書いているけれど怪しいもんだ。わざわざこんな不味いものを好んで食べなくても外に出たらこれより美味しい野草がたくさんあるではないか。又、そうかと思うと同書には、ホトケノザ(シソ科)は人日(五節句のひとつ)に食べると書いているけれど、これも間違っている。又、そうかと思うと、同書のタビラコの項に、タビラコは日本の五節句に食べる七草の一つで4月〜5月に黄色い花が咲き、皆はこれを飯に加えて蒸して食べたり、和え物にしても美味しいし毒もないと…。これではホトケノザとタビラコの説明が同じになってしまっているのだが、これは後者のタビラコの方が正しい説明である。又、更に同書には、一説にはホトケノザはタビラコであり、その葉が蓮華座に似ており仏の座のようでその葉は冬から生えている。という文があって、タビラコとホトケノザは同じであると説いているのに、シソ科のホトケノザを春の七草の一つだと言っているなんて、貝原先生も少し迷っておられるようだ。)

牧野富太郎は実際にシソ科のホトケノザを食してみたのでしょう。そして悪列な味を経験しシソ科のホトケノザとキク科のタビラコを区別したうえで、貝原益軒の説に従い黄瓜菜をコオニタビラコと特定しているようです。この特定によるコオニタビラコが春の七草の仏の座として今に伝わっています。

「黄瓜菜とキュウリグサ・ミズタビラコついて。」

音読という視点に立ち返り眺めると、貝原益軒の「大和本草」に登場する「黄瓜菜」は、牧野富太郎が特定したキク科コオニタビラコではなくキュウリグサ(ムラサキ科)と呼ばれる植物であると考えられるでしょう。このキュウリグサは前述したミズタビラコと非常に容姿が類似しておりこれらは同種として扱われることがあります。しかしキュウリグサ(ムラサキ科)とミズタビラ(ムラサキ科)は別種であるという説が私には色濃いです。

「コオニタビラコではなくヤブタビラコ。」

又、牧野富太郎が特定したキク科ホトケノザであるコオニタビラコは、1862年、飯沼慾斎の「草木図説」のコオニタビラコの図に列記されています。しかしこの飯沼慾斎の「草木図説」のコオニタビラコの図はコオニタビラコではなくヤブタビラコのように見受けられます。

「春の七草は12種、ホトケノザとはオオバコである。」

柏崎永似「古今沿革考」1730年で、春の七草は7種類に限らず12種類あり、尋常なのが七草であり、またその七草のホトケノザとは、オオバコ(シソ目オオバコ科)のことだと記しています。オオバコという植物もロゼットを形成します。このオオバコは生薬として著名です。

「タビラコの本名はカワラケナ、そのカワラケナの昔の名がホトケノザである。」

牧野富太郎 「牧野日本植物図鑑」1940年に、

《小野蘭山時代頃よりしてその以後の本草学者は春の七種の中のホトケノザを皆間違えている、これらの人々の云うホトケノザ、更にそれを受継いで今も唱えつつある今日の植物学者流、教育者流の云うホトケノザは決して春の七種中のホトケノザでは無い、右のいわゆるホトケノザは唇形科に属してLamium anplexicaule L.の学名を有し其処此処に生えている普通の一雑草である、欧洲などでも同じく珍しくもない一野草で自家受精を営む閉鎖花の出来る事で最も著名なものである、日本のものも同じく閉鎖花を生じその全株皆悉く閉鎖花のものが多く正花を開くものは割合に少ない、秋に種子から生じ春栄え夏は枯死に就く、従来の本草者流はこれが漢名(支那の事)を元宝草と謂っているが、これは宝蓋草(一名は珍珠蓮)と称するのが本当である、この事が春の七種中のホトケノザでは無いとすると然ればその本物は何んであるのか、即ちそれは正品のタビラコであって今日云うキク科のコオニタビラコ(漢名は稲槎菜、学名はLampsana apogonoides Maxim.である、このコオニタビラコは決してこの様な名で呼ぶ必要は無くこれは単にタビラコでよいのである、現にわが邦諸処で農夫等はこれをタビラコとそう云っているでは無いか、このキク科のタビラコが一名カワラケナであると同時に更に昔のホトケノザである。(即ちコオニタビラコ〔植物学者流の称〕=タビラコ〔本名〕=カワラケナ〔一名〕=ホトケノザ〔古名〕) 》

とあります。常日頃から野草に接し野草と共に生活する人々の目線に立ちタビラコを眺めていることがひしひしと伝わってきます。このひしひし感を失わないよう引用文をわかりやすく今風に書き直ししますと以下のようになります。

「小野蘭山さんの研究以降多くの植物学者達は春の七草の7種を履き違えて捉えている。更にこの研究を引き継ぐ者達、教育者が云うホトケノザを春の七草の7種に入れてしまっている。
このホトケノザとはシソ科に属していて学名はLamium anplexicaule L.である。欧州でもふつうに見ることができる一野草で、開花しなくても自家受精し結実する閉鎖花として有名だ。日本でもふつうに見ることができるし、これもやはり閉鎖花で開花しているものを見ることは少ないそこらへんに生えているふつうの雑草だ。秋に種を落とし春に咲き夏に枯れる。
従来の学者ときたらこのホトケノザ(シソ科)のことを漢字で元宝草(ツキヌキオトギリ)と呼んでいる。これも間違いである。本来ホトケノザ(シソ科)は漢字では宝蓋草(或いは珍珠蓮)と呼ぶ。
ではシソ科のホトケノザが春の七草の7種に入ってないとするならば何をもって真の仏の座と呼ぶかと云うとそれはタビラコである。今日云うキク科のコオニタビラコ(漢名は稲槎菜、学名はLampsana apogonoides Maxim.である。
しかしコオニタビラコをこのような名で呼ぶ必要はなく、タビラコの名にコオニもオニもヤブも必要なく農夫達が呼ぶようにタビラコと呼べば良いのである。コオニタビラコ・オニタビラコ・ヤブタビラコとは植物学者風の呼び方で、そもそもタビラコはタビラコなのである。これらは農夫達にとってはひとえにカワラケナと呼ばれており、これこそがタビラコの本名である。そしてこのカワラケナの古い呼び名がホトケノザなのである。」

となります。

これは上述した(牧野富太郎「植物記 春の七草」1943年)とほぼ同じことを言っているのですが、シソ科のホトケノザのことを更に詳しく学術的に説明し小野蘭山以降の間違いを指摘しています。閉鎖花とは開花することなく自家受精し結実する植物のことです。他の媒介者に頼らないで受精するので純系に近い性質を保ちます。又、学名と漢名を用いて更につよく小野蘭山以降の間違いを指摘しています。そして後半ではひとえにカワラケナと云うのはタビラコの本名であり仏の座という旧名を持つとも述べています。
このカワラケナとはどのような植物達なのか非常に気になります。

「カワラケナからみた仏の座。」

小野蘭山「本草綱目啓蒙」1803年で、小野蘭山は仏の座はムラサキ科のものとみなしています。小野蘭山の見解のムラサキ科とは前述したミズタビラコ或いはキュウリグサのことでしょう。これに対し牧野富太郎は「植物学九十年」1956年で、仏の座はカワラケナつまりキク科のタビラコだと述べています。
又、カワラケナをインターネット検索すると、牧野富太郎の見解である(カワラケナとはコオニタビラコの別名。)という記事が圧倒的に多いのですが、その中にカワラケナはムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)とするキラ星の如き記事が見つかりました。この少数意見に視点を合わせてみるとムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)の容姿は、コオニタビラコ(キク科)よりもミズタビラコやキュウリグサ(ムラサキ科)に似ています。
そしてこのムラサキサギゴケもコオニタビラコやミズタビラコ・キュウリグサと同じような水田など湿った場所に生息しロゼットを形成します。

「ふたたび未来に仏の座。」

私は牧野富太郎の

このコオニタビラコは決してこの様な名で呼ぶ必要は無くこれは単にタビラコでよいのである、現にわが邦諸処で農夫等はこれをタビラコとそう云っているでは無いか、

に従い現在のカワラケナの別名はコオニタビラコという通説に
ムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)
ミズタビラコ(ムラサキ科)
キュウリグサ(ムラサキ科)
オオバコ(シソ科)
オニタビラコ(キク科)
ヤブタビラコ(キク科)
の7種を追加したいと思います。
又、更に春の七草の仏の座であろう植物に
オニタビラコとヤブタビラコ(タビラコの別種として)
カワラケナ・黄瓜草・オオバコ(仏の座の別名として)
を含めようと思います。
するとその名称の総数は10に及びます。

・キク科:コオニタビラコ(黄瓜草/カワラケナ)/オニタビラコ/ヤブタビラコ
・シソ科:ホトケノザ
・ムラサキ科・キュウリグサ/ミズタビラコ(黄瓜草/カワラケナ)
・オオバコ科:オオバコ
・ゴマノハグサ科:ムラサキサギゴケ(カワラケナ/黄瓜草)

人日に七草を食する古よりのしきたりを万民の為に保存しようする問いかけに多くの植物に対する人間の答えはひとつでありましょう。あとはイロイロ食するのみです。


※ 毒草として有名なトリカブトは、ゲンノショウコ(薬草)によく似た葉でロゼットを形成します。他の毒草にもロゼットを形成する種が多くあります。


草花ノート あとがき

  

僕の悲しみは暴れ馬のようにのたうち回っているので、
手綱を雑草に委ねました。
雑草はアスファルトの裂け目や、線路の上や、荒地にも、
どこにでも生えているので、悲しみの痛みを癒すにはもってこいです。
少し目線を落とすだけで、彼ら雑草にはいつでも出逢えます。
とても身近に居てくれるので、僕はほんとうにいつも心強いです。
だからとうぜん雑草に対して感謝をしているのですが、
気高い雑草は僕に謝られるのを何時も拒みます。
人間が付けた名前で呼ばれることについても、「なんだかなぁ。」
と思って首を傾げているようです。
又、写真を撮られるのも嫌がっているようです。
それでも僕は花期に入ると写メを撮ってツイッターへ、
名前と一緒に画像をアップするのですが、このときツイッターに
貰ったファボのことを、雑草に知らせても、「なんだかなぁ。」
という感覚を抱いているように思います。
とくにその写真がデジタルカメラの場合は、とても嫌がっているようで、
彼らの言い分によると、そのデジタル画像は永遠に再現だそうです。
それよりフィルムカメラに収め、生命をデジタルのように再現するでなく、
思い出は再生を繰り返し、そしていつか色褪せて尽きろと言うのです。
僕がバイトで仕方なく草刈りしているときも、「許してな。」
と心で念じながら草刈機のスロットルを全開にしながら謝ると、
「なんで謝られる必要があるのかなぁ?こちらとしては謝られると、
許したり、許さなかったりしなくてはならないではないか?そんなの面倒だ。」
と、謝罪も門前払いされてしまいます。その他にも、日差しの強い日に隣に座り日陰を作っても、
光合成の邪魔だ!というような顔をされます。
そんな雑草ですので、僕を操る手綱さばきを想うと、甚だ僕と雑草は相性が悪いように思います。
だけども僕が雑草に手綱を委ねる理由は、これは植物全般に言えることなのですが、
植物を枯らせる、もしくは殺すことは神様でもできないからです。
なぜなら、雑草は誰かに枯らされたり殺されたりする前に、自分の意思で枯れ、
自分から死ぬからです。
ですので花屋の鉢植えの植物であっても誰も枯らすことはできません。
「わたし、すぐ枯らしちゃうの。。」なんて言っている人は、
そうとう酷い思い上がりです。ですから傷つかないでください。
雑草は、他人に罪を被せません。だから僕は安心して、
のたうち回る暴れ馬の悲しみを、手綱が切れるその日まで雑草に委ねているのです。


  

秋のたちつて虫と羽の韻律をかきくけ焦がすまみ胸も迷いや夕べよ
ひとりらのなかのりるれ独りよがり黄泉のすせそ死なにぬさもみむ
あき空のあかきくけ秋茜さしすせたちつてトンボとまる手とてと手
十五夜お月さま自由の神様うさぎ座お星さま夜の邪魔にぬねのはひ
白いシーツ思いを脱ぎ意味を捨て横にぬねの月あかりでレモネード
カナカナカ、コロコロ、リーンリーン、コトノキミ、スイーッチョン、失、失、失


ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛してます

  

昨夜は鮫と眠りました。
愛で小銭を貢いだ話を聞いてください。
思い出です、交差点に折り重なるアルバムです。
めくると沸騰します。温泉のような、
湯煙はため息です。声を求めて旅に出ます。
まどろみは、緩やかなカーブで、
哀しみは硬水のように隆起していました。
枯葉の船に乗せた宝物は、
海の骸になりました。深く沈んだ遺言です。
私の遺体を十字架に磔。ください。
ヒノキ、香木が良い。
焼香を終えた後、参列者は磔の私とハグをするようにお願いします。
これを「ハグ葬」と名付けます。
中には拒否する人もおられるだろうから、
私と二人きりになれるよう、個室で行うようにお願いします。
それでも、拒絶する方がおられれば、
「後になるほど、ハグで遺体が崩れてゆく。」
お伝えください。
それは、まるでプラネタリウム葬です。
私をプラネタリウムの天井から吊るし、
空中ブランコのように宙を舞い、
大きく弧を描き、揺れる星空から、
舞い降りてくる私を受けとめ、
そして、
ギュッと抱きしめてください。
私は大勢の、一人一人の方々に、
抱きしめていただき、
喜びでボロボロになっているのです。
ボロボロになった身体は、
グズグズになるまで、
その場で煮込み、
最後は、
私をスープにして飲んでください。
砂漠の赤い月のしたで、
深海魚に片足を食われています。
痛いより重い、
お母さん、こんなに敷居が高いとは、
始めて気がつきました。
見えないから形を知る。
見えないから、
見えていないのではなかった。
見えていないことは、
見えていることを離れられないだけだった。
墓地に座って薄暗く脅えている。
もう、どうしようもない。
山も、木も、獣も、この墓標も、
私が作リ出した、
消しゴムで消せる現象でした。
これから、
愛と書いて消せないならば、
海を削り、
メモ帳へ投身します。
消しゴムで消せない名前、
私を受けとめた人達の胸の内へ。


瓶の中

  

表面張力なのか、水面の上に針先を落とせば、
波紋に拡がる緊張が貴女に溢れてゆく。
もしも、星の端末が肉声を受信しているならば、
記憶の原点は振動する希望に雪崩れ込むのだろう。
添えて、なんというありふれた結末、
始まりの向こうは常に心臓へ還ってくるという。
薔薇に刻印される賭博の薫りは、
鎮魂された汗を琥珀に眠らせている。
嗚呼、氷河のような温もりで、
せめて心のひと雫を解きたい。
この世に宇宙が誕生した138億何前の大爆風が、
一枚の枯葉を枝からそっと剥ぎ取ったその慎ましさで、
君と僕を隔てないでください。
骨が血飛沫を浴びるまで、
二人を善悪で隔てないでください。


一途

  

朝からおにぎりの中にひとつだけ赤味がかったのが混じっている気がしていた。昼になってそれは紛れもなく鮭の身の塊だと判明した。箸でふたつに割ってみると中から米粒が少しでてきた。この身はぜんぶほぐしたのか聞くまでもなく他のおにぎりの具はすべて塩鮭だった。漁港の市場で干物を買い七輪で炙り酒の肴に防波堤で釣りをした。あまりにも釣れないので時間はゆっくりと過ぎた。夕暮れになってはじめて竿先がぐいーと波に引き込まれてゆくような感覚がしたので糸を巻くと貝殻が引っかかっていた。夜はその市場で買ったカニと調理道具一式を戸建て式のラブホテルに持ち込んだ。カニの捌き方をスマホで調べカセットコンロと土鍋で茹でた。昆布で出汁をとり茹であがったカニの手足を毟り野菜と一緒に鍋に投げ入れ蓋をした。桃色を纏う電灯は妖しげな蒸気の下で身をほじり、味噌を舐め、甲羅を啜り、最後は卵で綴じあわせた雑炊で〆。密室の固く閉じられた窓をあけると潮風が吹き込んできた。旋回する冷気に生臭い部屋は正気をとり戻し、暗闇が波音一面に拡がっている。


風ハラ

  

空き缶を、蹴飛ばしたような青空に、飛行機雲は、思い出の先端から、もやもやと徐々に薄れ、青へかえってゆく。米粒よりも小さな、人見知りのおっさんの、喜びや哀しみを乗せて、置いてけぼりの遺恨や、知らず知らずに残してしまったマーキングを、拭い残してやいないか、臭いを残してやいないか、風に尋ねながら、歩いてゆくおっさんに、憂いの心は似合わない。生まれた日に旗を立て、続けてきた記念は、もうこの青空の、飛行機雲のように消えればいいと、願いながら、自分というものが、貴方にとって、なんでもなかったという、せめてもの証に、オロナインと絆創膏を、澄みわたる青空の、切り傷や擦り傷に処方して、お大事に、なんかちょっと図々しくないですか?

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.