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PULL.

選出作品 (投稿日時順 / 全9作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「 蠢く土。 」

  PULL.




ひとりの頃は辛かった。
仕事を終えた夜は、
いつも罪の意識にさいなまれ、
眠れず、
飲めぬ大酒を喰らい、
やっと落ちた夢の中でも、
責められた。

ある日、
数が増えた。
全部で十四人いた。
わたしは、
いつものように穴を掘り、
いつもよりも大きく深く穴を掘り、
いつものようにそこに彼らを落とした。
上から土を掛け、
わたしは鼻歌を歌い、
いつもより多い仕事を終えた。
土はしばらく蠢いていたが、
やがて止まった。
その夜は酒も飲まず、
ただ眠った。
眠れた。

しばらくして、
また数が増えた。
もう数は数えなかった。
わたしは、
覚えたばかりの重機を使い、
穴を掘った。
大きく深く穴を掘った。
そこに彼らをひとりずつ突き落とし、
上から石灰を撒いた。
石灰に灼かれた彼らは、
激しく悶え踊り狂うので、
わたしは鼻歌を歌い、
上からさらに、
石灰を撒く。
やがて土を掛けると、
彼らは悦ぶ。
悦びのあまり涙を流し、
目を石灰に灼かれ、
彼らは踊り狂い、
よろこび、
悦ぶ。
埋めた後の土からは湯気が昇り、
蠢いている。
わたしは、
それを最期まで見届けて、
わたしの家に帰る。
玄関では娘がわたしを出迎え、
上がったばかりの小学校でのことを、
あれやこれやと話す。
学校には彼らはひとりもいない。
娘はそれを気にもしない。
やがて夕食が出来たと、
妻がわたしと娘を呼びに来る。
また給料が上がる。
そう伝えると、
妻は喜んだ。
妻のお腹は大きく膨らんでいて、
その中には、
娘の妹がいる。
「ねえ今日、
 また動いたの。」
そう言って、
妻はお腹をさする。
彼女たちは知らない。
わたしの仕事を知らない。






           了。


「 蟹。 」

  PULL.




朝起きると、
夫の蟹を食べる。
水のきれいな土地で生まれ育った夫の蟹は、
沢蟹に似た味がして、
なかなかの珍味である。
蟹は大抵、
夫が寝ている間に、
湧いて出る。
一度などはひどく寝坊をして、
夫の顔の右側面に蟹が、
びっしりと張り付いていたこともある。
あの朝はすべての蟹を食べるのに、
一時間近くも掛かり、
さすがのわたしも夫の蟹が少し嫌いになった。

蟹を食べ終えると、
夫は目覚める。
新婚の頃と変わらない、
いつもの朝のキスを交わし、
夫はキッチンで、
ふたりの朝食を作ってくれる。
夫の作るプレーンオムレツはおいしく、
蟹でもたれたわたしの腹を、
やさしく、
いたわってくれる。

夫を送り出すと、
わたしは家にひとりになる。
ひとりに、
なると、
誰もいないキッチンの隅やそこかしこから、
蟹が、
わさわさと、
湧いて覗いているような、
そんな気分になることもある。
そんな気分の時は、
少し化粧をして、
夫には見せない顔になって、
外に出掛ける。

蟹は外にもいる。
蟹を張り付かせたまま出歩く男も、
近頃は増えてきた。
蟹たちはわたしを見つけると、
ぶくぶくと泡を噴き、
わたしを、
誘う。
わたしは慎重に指を出し、
すれ違いざまに、
釣り上げる。

釣り上げた蟹は、
近くのホテルでじっくりと味わう。
街中でじかに味わうのも時にはいいが、
それなりに人目も気になるし、
何より、
外では時間が掛けられない。
やはり味わう時は、
じっくりと時間を掛けて味わいたい。

若い、
ファーストフードで育った蟹は、
夫のそれとは違い、
ひどく、
舌に残る。
そのあまりの後味の悪さに、
わたしはいつも後悔する。

前に、
遠い海の向こうから来た蟹を、
食べたことがある。
褐色の甲羅のその蟹は、
とても濃厚でどろりとしていて、
今まで食べたどの蟹よりも、
おいしかった。
あの味を思い出すたび、
わたしの指は悪戯になり、
また蟹を、
釣り上げる。

夫は蟹のことを知らない。
いや、
男たちは誰も、
蟹のことを知らない。

わたしたち女は、
女だけで集まって、
蟹について話すことがある。
そんな時、
わたしたちは、
わたしたちがどれだけ満たされていないのか、
ひどく、
確認し合うのである。






           了。


「 コワレ。 」

  PULL.



 あぶない!そう思ったときにはもう突き飛ばされていて、コワレていた、かしゃん。音がして、包み中のわたしが、コワレ、ていた。コワレたのでみるみる中からわたしが漏れ出し、包みに、染みをつくる。染みは、わきゃわきゃと喋りながら満ちしたたり、わきゃっ。と地面に落ちる、落ちた、とどうじにまたわたしはわきゃわきゃと、喋り、満ちて、まわりをぐるぐるとまわりながら踊り出す、踊りは随分と騒がしく、わきゃわきゃとしていて、これはまた随分とコワレたな、と少し遠くのことのように思った。そう思っていると、声がした。突き飛ばした男が、こちらを見ていた。男は、大丈夫ですか、随分とひどくコワレてしまいましたが…とか細い声で言った。これが大丈夫に見えますか、ひどいですよ、コワレてますよ、どうしてくれるんですか、ときつい調子で返すと、男はしみじみ、地面のわきゃわきゃを見て、申し訳ない、ほんとうに申し訳ない、とくり返し、ほとほと困り果てたように溜息をひとつ、ついた。わたしはわきゃわきゃとおとこのまわりにも満ち満ち、ぐるぐると、踊る。踊る。そうしていると通行人のひとりがのぞき込み、ああ…これはひどい、ひどいコワレようだ、あんたこれ弁償してもらいなよ、と言った。すると別の通行人が、こないだ見たコワレじゃあ丸ごとぜんぶ弁償してもらったらしいよ、と言い。また別の通行人が、泣き寝入りは駄目よ、出合い頭のコワレだからってあきらめちゃ駄目、コワレた分はきっちりもらいなさい、ぶんどりなさい、やっつけてやりなさい、と言った。そうよ!、とどこかの通行人が相槌を打ち、そうだ!、とさらにどこかの通行人が相の手を入れた。相の手と打ちはまたたく間に広がり、すぐに人だまりができた。人だまりの口は、口々に、コワレたコワレた、と言い、その隣の口がまた、コワレた、と言うのだった。

 男は、小さく、なっていた。
 男は、コワレた、と言われるごとに溜息をひとつ、つく。なので、ひとつつくごとに男は、小さくなり、溜息ごとに、一まわり、萎んでゆくのだった。やがて男は手に乗るほどの大きさになり、わきゃわきゃと踊るわたしの中で、しくしくと泣き出した。泣くほどに男の涙は大きくなり、わんわんと大粒の涙と鼻水をたらし、泣きじゃくった。泣きじゃくるもので涙はかわくこともなく流れ落ち、水たまりになった。水たまりではぱしゃぱしゃと、音を立て、またさらにわたしがコワレ、激しく、踊りまわり。男はそれを見るのでなおのこと涙を流し、またコワレれてしまったまたごめんなさいまたごめんなさいと、か細く、謝るのだった。
 何だか、かわいそうな気分に、なりはじめていた、あの…とりあえず、納めるものがあれば、それで、ひとまずのあいだはしのげますので、と言うと、男が、こちらを振り返った。ほんとうですか、とか細く聞くので、ほんとうです、と答えると、ほんとうですね、とまたか細く聞かれ、ほんとうにほんとうです、とまた答えた。ほんとうなんだ、ほんとうなんです、ありがとうございます、いえどういたしまして、と会話は続き、気がつけば人だまりもまばらになり、皆口々に、何だつまらねえけんかにもなりゃしねぇ、袖振り合うも多生の縁いやぁいい和解だった、後はお熱い若いふたりにまかせて邪魔者は帰るとしますか、それではおたっしゃで、さらば、また合う日まで、アデュー、と言い言い、通行人に戻っていった。

 急に、あたりは静かになり、わきゃわきゃというわたしの喋り声だけが、やけに大きく、聞こえた。なのに相変わらずか細い声で、男は、この近くに、ぼくの家があるので、そこに行けば何か納まるものが、あると思います…あるといいです…ごめんさいごめんなさい、と小さくなった体を、さらに小さくして、言うのだった。その小さい姿を見ていると、どうにも、こちらが悪いことをしているような気にもなり、わかりました、そこへ、連れて行ってください、とらしくもなく気を利かせ、努めて明るく言うと、男は、なぜか頬を赤らめ、さらにか細く、こ…こちらです、と歩き出した。わきゃっ。男に続き、わたしが、わきゃわきゃとついてゆく。小さく、なった男の足取りは、やはり小さくて、いつまで経っても男の家には、辿り着かなかった。途中何度か、男を手の上に乗せてゆくことも考えたが、さっきの男の赤い頬が気になり、最後まで手を出すことはなかった、ようよう辿り着いたころには、日はとっぷりと暮れて、すっかり夜になっていた。
 
 男の家には、ながく、居た。
 男の家にあったものはどれも、わたしには納まらず、また、男が外から持って帰ってくるものにも、わたしは納まりきらず、そうこうしているうちにずるずると、とどまることになり、気がつけばながく、ながいということがどれぐらいのことなのか解らぬほど、ながく、居た。男はもう小さくはなかったが、ときおりこちらを見ては、ふかく、溜息をつき、涙を流した。それは出合ったときの溜息とはどこか違い、わきゃわきゃと、涙の下でコワレ遊ぶわたしの踊りも、どこか、いつもとは違っているのだった。
 ある夜、男が入ってきた。男はぎこちない手つきでほどこし、もぐり込み、しばしの後、果てた。生ぬるい感触を残し、入ってきたときよりも小さくなって出た男は、か細い声で、あいしてる、と言った。意味が解らずにいると、男は見掛けによらぬ強いちからで抱きしめ、また、あいしてる、と言った。あいしてる、あいしてる、男は、飽きることもなく続け、息ぐるしいほどのちからで抱きしめ、また、入ってくるのだった。わきゃ、わきゃっ、まわりではわたしが踊り出し、交わりの中をぐるぐるとまわり、まわり、踊り続けた。
 踊りは、朝まで続いた。
 その夜以来、男は毎晩のように、入って、きた。ときには、こちらから導く夜もあり、そんな夜はことのほか、男は悦んだ。またしばしば男とは、事変わる夜もあったが、それでも男は嬉しいようであり、よく応え、交わりを続けた。そうしてながいときが過ぎ、さらにながいときが過ぎた。わたしは、相変わらず納まることはなかったが、とりたてて不満な様子を見せることもなく、毎晩踊り、まわり、交わり、続けた。男は、いつしか夫と呼ばれるようになり、おとうさんになり、おじいちゃんになり、ある朝、死んだ。

 葬式を、出した。
 式は盛大なもので、参列するものたちの列は向こうの端まで続き、その涙は川となり、海まで流れた。泣き虫のおとうさんらしいいいお葬式だったと、娘たちは口々に言い、泣いた。娘は三人、生まれた。生まれたときから娘たちは、男に、近かった。ときを経れば変わる、そう定められたものたちだった。おまえは変わらないねぇ、おまえはいつまで経っても変わらないねぇ、死ぬ前の晩も、男はそう言って、撫でてくれた。もう随分とながいあいだ、男とは交わしていなかったが、それでも男は毎晩のように抱きしめ、あいしてる、あいしてるよおまえ、とか細く、続けるのだった。朝になり、冷たい感触で覚めたとき、男はもう、そこにはいなかった。わきゃ…わきゃ…男の抜け殻をつつくわたしの声が、ひどく、遠くに聞こえた。涙は、出なかった。葬式のあいだも、泣くことはなかった。わたしはわきゃ…わきゃ…と、沈んだ、声を上げ、男の棺のまわりをぐるぐると、まわり、まわり、まわり、続けた。それを見て娘たちはまた泣き出し、父親そっくりの涙を、こぼした。娘たちは最後まで、男に近く、おかあさん、と呼んでくれたことはなかった、確かに産み落とし、確かに産み落とされたもので、あったはずなのに、娘たちは、遠い、相容れないものたちであった。それはコワレたわたしが、男の、どのものにも納まらなかったことと、どこか似ていた。だがそれでも、相容れないものは、相容れない、娘とは、そういうものだった。

 気がつくと随分と、居ついて、いた。近ごろは孫たちが、ひ孫を連れて遊びに来るようになった。ひ孫たちはことのほかわたしになつき、日が暮れて眠くなるまで、縦に横に、ひっぱったりのばしたりして、遊んだ。ひ孫たちは無邪気で、残酷で、まだ何も知らぬ、いたいけな存在であった。ひ孫たちは皆、大きな目を目をさらに大きくして、こちらを見る、ひいおばあちゃんどうして違うものなの、いつから違うの、コワレちゃったの、どうしてずっとコワレているの、と矢継ぎ早に言う、答えずにいると、その小さい手で、ねえどうして、どうして、と上に下にわたしをひっぱり、飽きると、つまんない、と投げ捨てる、そしてしばらくすると、また、わたしを掴み、右に左に振りまわし、ひいおばあちゃんはどうしてひいおばあちゃんなの、おばあちゃんはみんな死んじゃったのに、どうしてひいおばあちゃんなの、と言うのだった。娘たちは、皆死んで、男と、同じ墓に入った。風の心地よい朝には、男と娘たちが好きだった花を持って、参ることもある。そんな日の夜には、男の肌のぬくもりを想い出し、眠れなく、なる。あいしてる、あのか細い声が、もう一度聞きたく、なる。わきゃ…また沈んだ、声で、わたしが喋り出し、踊り出す。あいしてる、あいしてるよおまえ、男は何度もそう言ったが、あいしてくれているか、と聞いたことは、なかった。もし聞かれていたら、どう答えただろうか、あいしていたのだろうか、解らない、ながく、あまりにもながく、すべてが経ち過ぎてしまった。だが聞きたい、もう一度、あの男のか細い声で、あいしてる、その一言が、どうしても聞きたい、眠れ、ない。

 また、さらにながいときが、いくつも過ぎた。ひ孫たちはもう随分とながい前に、死んだ、その子たちや孫たちやひ孫たちも皆死んで、最後のひとりも、ふたつながいときの前に、死んで、絶えた、残ってしまった、誰も、いない、はるか向こうの果てまで見渡してみても、残っているものは、もういない。いない。皆絶えてしまった。このままずっと、すべてが果てるまで、残り、変わらずに続いてゆくのだろうか、そんなことを考え出して、もう随分とながいときが過ぎていた。ながいときは、終わることがなく、コワレることも、なかった。遠くで、大きい、音がした、音は、広がり、響き、どこまでも揺さぶった。やがて、夜がなくなり、空がなくなり、ながい、無限の朝の中、すべてが、なくなった。だがそれでも変わることなく、ときは流れ、わたしはここに、居る。今でも、わたしはわきゃわきゃと、喋り、満ちることが、ある。耳を澄まし、その意味を探ろうとするのだが、それはようとして掴むことが、できない。




           了。


「 ふかづめ。 」

  PULL.




一。


 キイチのつめは、はやく伸びる。あたしが知っているおとこの中でいちばんはやく、伸びる。いくらふかく切っても、ものの一週間もすれば、しろくてほそいあの指先に、つんっ。と伸びて出る。
 だからあたしはキイチの、つめを切る。
 つめを切られるとき、キイチは、かたくなる。
「こわいの。」
 とあたしが聞くと、
「ちょっとね。」
 とキイチは答える。
「おとこなんだからこわがらないでよ。」
 とあたしが言うと、
「おとこだってこわいものはこわいんだよ。」
 とキイチは言い返す。
 キイチはあたしの前だと、弱虫で、少し頼りない、おとこになる。そんなおとこは、キイチが、はじめてだった。
 
 つめは、ひと指ずつ、切ってゆく。
 指はつめたく、こわがっている。
 ととのった甘皮のあたりが、紫色に、こわがっている。
 左の親指、次に人差し指。と順に切ってゆく。
 つめはやわらかい。つめ切りの先で挟むと、するりと落ちる。
「切れたよ。」
 とあたし。
「うん。」
 とキイチ。 
 指が、ふるえている。
「また切るよ。」
「うん。」
「もっと切るよ。」
「うん。」
「こわくいないでしょ。」
「ううん。」
 つめは次々と、するりと落ちた。

 中指は、最後に切る。
 どうして中指を残しておくのかと、キイチに聞かれたことがある。
 あたしは答えた。
「好きな、指だから。」
 キイチは真っ赤な顔をして、黙ってしまった。
 あたしの手の中のつめたい指は、やがてあたたかく、ゆるやかに、なった。




二。


 キイチのことを話すと、シタ子はいつも、嫌な顔をする。
 おんながおとこのつめを切っている。その図式が、シタ子は気に入らない。ダンソンジョヒだと、ジョセイベッシだと、シタ子は言う。いつも言う。
 だからあたし、首を、横に振る。
 あたしシタ子に首を振って、
「ちがうの。」
 と言う。
「そんなんじゃないの。」
 と言う。
 だけどシタ子、わからない。
 シタ子、溜息をつく。首を、横に振る。おおきく振る。
「わからない。そんなこと、あたしには…わからない。」
 わからない。シタ子、わからない。あたしに指を差し出すとき、キイチがどんなにかたくなるのか。わからない。だからあたしの手の中の、キイチの指がどんなにつめたくて繊細なのか。わからない。そうしていると、あたしの胸がどれだけ高鳴るのか。わからない。やわらかい。シタ子よりもやわらかい、キイチのつめが、どんなふうに切れて、落ちてゆくのかも、わからない。だからあたしが、いつもふかづめにすることも、すごくふかづめにすることも、わからない。痛がるキイチを見て、あたしがよろんでいることも、わからない。だからシタ子、わからない。シタ子は、わからない。シタ子には、わからない。わからない。わから、ない。
 
 シタ子は、キイチのことを話すと、嫌な顔をする。
 だからあたし、いつもキイチことを話して、聞かせる。




三。


「やすり。」
 と言うキイチの声は、ざらざらしている。どこが、とは言えないけれど、いつもとちがう。ざらざらしてる。
「もう一度言って。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
 キイチはあたしに言われれば、何でもする。何度でもする。だからすぐに覚える。うまくなる。
 なのに何度言ってもキイチの「やすり。」は、ざらざらしている。
 なめらかに、ならない。

「やすり。」
 またキイチが言う。
「やすり。」
 もう一度言う。
「やすり。」
 いつもとちがう。
「やすり。」
 ざらざらしてる。
「やすり。」
 なめらかにならない。
「やすり。」
 キイチの、
「やすり。」




四。


 なめらかにする。
 切ったままのつめは、ちくちくしている。つめ用のやすりを使って、なめらかにする。
 やすりで撫でると、キイチはびくんっと、からだをふるわせる。
 キイチが、かたくなる。
 つめに、やすりを当てる。かるく挽くと、削れたつめが、はらはらと、落ちる。また挽くと、またはらはらと、落ちる。挽くごとに、つめは、さらにふかづめになってゆく。やがて指先からちりと、血が、にじみ出す。キイチはかたい。あたしはきつく、やすりを当てる。キイチのつめと、指を削る。なめらかにする。なめらかに、する。
 
 なめらかになる頃、キイチの指は血塗れで、あたしの手は、血で、汚れている。
 あたしは舐める。
 ぺろぺろと舐める。きれいになるまで舐める。血は、つめたくてかわいている。きれいになると、キイチの指の血を、舐める。指の血は新鮮で、あたたかい。舌先を、つめと肉の間に、捻り込ませる。びくんっ。からだをふるわせ、キイチが呻く。
「痛いの。」 
 あたしは聞く。
「うん。」
 キイチは頷く。
 たまらなくなる。
 指に、歯を立てる。
「痛いでしょ。」
「うん。」 
 血が、なめらかに、あふれ出す。




五。


 聞いて、みたことがある。

「ほかのひとにはどんなことをされていたの。」
「ちがうこと。」
「どんなふうにちがうこと。」
「もっとちがうこと。」
「もっとちがうって、こんなこと。」
「ちがう。」
「じゃあどんなこと。」
「ちがうこと。」
「ちがうことをしたひとは、何人いたの。」
「しらない。」
「どうしてしらないの。」
「わからない。」
「これはしってる。」
「しってる。」
「そのひとはこんなことした。」
「しない。」
「そのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「そのほかのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「じゃああたしはどうしてするの。」
「わからない。」
「もっとされたいの。」
「わからない。」
「どうしてわからないの。」
「わからない。」
「なんにもわからないの。」
「ちがう。」
「じゃあなにがわかるの。」
「ちがうこと。」
「ちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「もっとちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「どうしてこんなことされたいの。」
「わからない。」
「あたしはどうしてこんなことをしているの。」
「わからない。」

 わから、ない。




六。


 知っている。
 キイチの指は、あたしを知っている。あたしの指よりも、知っている。指は、なめらかに入ってくる。キイチは少し、痛そうな顔をする。あたしの中は酸性で、ふかづめの指を、溶かす。溶けてゆく。痛そうなキイチ。溶けた指は、さっきよりもなめらかに、ふかく、入ってくる。キイチは、指は、あたしの知らないあたしを掻き回し、入って、くる。
 じくじくする。
 あたしの中がじくじくと、する。






           了。


「 犬雨。 」

  PULL.




 窓の外がうるさいのでカーテンを開けると、案の定、犬が降っているのだった。雨粒たちはみな、犬の姿をしていて、降り落ち、地面に当たると、きゃいんきゃいんと啼いて弾け数粒の、子犬になるのだった。耳を澄ますと、屋根に落ちた犬が爪を立てて、屋根瓦の上を滑り落ちてゆく音が、右に左に聴こえる。遠くで、排水溝に吸い込まれてゆく犬の、遠吠えが、する。飲みかけのティーカップの中の犬たちが、そわそわと波立ち、わたしのからだの中の犬たちが高く、呼ぶ声がする。眼から逃げ落ちた犬が。
 床に、ちいさく弾け、弾けた子犬がわたしの脚にちいさく、いくつも噛み付く。傷口からは赤い犬が流れ出し、赤い犬は猛烈な勢いでわたしに噛み付き、わたしの中をどこまでも駈け、昇った。

 からだの隅々まで犬になり、満たされたわたしは駈けていた。どこまでもずぶ濡れになりながら、激しい犬雨の中をただひたすら犬身的に、駈けて、いた。時折どこかで聴いたことのある、名前で、呼ばれることもあったが、その名前のことは、ようとして思い出せなかった。だからその名前で呼んだものに噛み付き、喰い殺した。犬死にしたものたちの肉は犬雨に打たれ、犬たちの、餌になった。
 犬雨はなお激しくなり、街の向こうではいくつもの遠吠えが、こだましている。






           了。


「 ムーフールー。 」

  PULL.



 夕暮れ近くになってムーフールーが海を見たいと言い出して、海に行くことになった。海辺の街とはいってもこの坂の家からは、海はすこし遠い、なので車で行くことも考えたが、思いなおし、自転車で行くことにした、ひさしぶりに引っぱり出してみた自転車は、やっぱり空気が抜けていて、すかすかのタイヤをぽむぽむしてムーフールーが邪魔をする。
 ムーフールーを脇にどけ、空気入れでしゅかしゅかと空気を入れる。しゅかしゅかするごとにムーフールーはぽっぺたを膨らまし、しゅかしゅかと拗ねる、わたしはそれに構わずもくもくと、さらにしゅかしゅかするのでムーフールーもしゅかしゅかと、膨らんで拗ねる、ぜんぶ入れ終わったころにはムーフールーしゅかしゅかのぱんぱんで、指でつつくと、
「ぷぅう。」
 と息を吐き出してちいさく、もとのおおきさになった。


「ほら行くよ。はやく乗って。」
 戸締まりに手間取るムーフールーに声を掛け、わたしは漕ぎ出す。一歩漕ぐごとに坂を駈け上がってくる海からの風が、わたしをうけとめてくれる、心地よい、潮の香が髪を撫でてゆく、後ろから、鍵を咥えたムーフールーがぽむぽむと追い掛けてきて、カゴに乗る、
「ぽしゅ。」
 一直線に坂を駈け下りる、もう漕ぐ必要はない、ごうごうと風が耳もとで囁いている、食いしん坊のムーフールーがもふもふと頬張り風を食べている、その顔が赤い、夕焼け色に染まっている、
「あれ、見てみなよ。」
 坂の途中で自転車をとめる、カゴから身を乗り出したムーフールーが、
「きゅぅ。」
 と息を飲む。
 街が、夕焼けに燃えている。眼下に広がるものすべてが夕焼けに染まり、その向こうできらきらと波打ち、なお燃える海の上で、おおきく眼を開けた太陽がゆらいでいる、
「じゅっ。」
 太陽が海に触れる、波がひたひたと太陽を舐める、音を立てて冷えてゆく、風がすこしつめたくなり、太陽が、ゆっくりと今日の眼を閉じる、さっきまで夕焼けに燃えていたのが嘘のように、街が暗く、夜の瞼に包まれる、まっ暗の空を見上げムーフールーが低く、喉を鳴らす、
「るぅー。」
 振り返ると坂の上から、わたしたちを見下ろすように月が昇り、ゆるゆると眼を開ける、ぽぅっとした月明かりがあたりを照らし、それを合図にしてぽつぽつと、街に明かりが灯ってゆく、
「るぅーるぅうーぃ。」
 ムーフールーが泣いている、
「るぅーぃ。」
 泣き声が風に乗り、坂の上の月をまあるく撫でて、夜の瞼の向こうに広がってゆく、わたしはムーフールーを抱き上げて、くしゅくしゅしたほっぺたに頬ずりをする。




           了。


「 ひたひた。 」

  PULL.




一。

 傘を閉じるとひたひたと雨がついてきた。玄関を上がり廊下を渡りそのままひたひたと、家に居ついてしまった、雨は客間ではなく居間に居座りとくとくと、淹れた紅茶を飲んでいる、砂糖はふたつ、家主のわたしよりもひとつ多い、しかもわたしが先月古道具屋で見つけた「とっておき」のティーカップで、わたしよりも先に飲んでいる、ひたひたとしたたかな雨だ。
 ふんっ。と鼻を鳴らし向かいの席につく、雨は慣れた手つきで、もうひとつのティーカップにわたしの紅茶を淹れた、ひとくち飲む、美味しい、こういうところもますますしたたかだ、カップを皿に戻す、かりん、と皿が澄んだ音を立てる、皿は、カップと合うようで合っていない、皿は数年前この家に越した時にお祝いに貰ったもので、その時は揃いのカップが一緒に、ついていた。


二。

 その日。背中を見ながらわたしは、紅茶を飲んでいた、かつて紅茶を友に交わし合った言葉はなく、真正面から見た顔さえも、もう思い出せなかった、ただ何も言わぬ背中だけがずっと、はじめからそうだったようにそこにあって、その日、消えた。
 消える前に何かを。何かも解らないことを言おうとして口を開き、はじめて痛みに気がついた、唇が切れていた、傷口から落ちる血が、薄く淹れた紅茶の色を、ぽたぽたと濃くしてゆく、ティーカップの端が、欠けていた。
 紅茶の色はなおも濃くなり、それを薄めるようにわたしは、涙をこぼしていた。


三。

 ティーカップは季節ごとに替わったが、どれもしっくりは来ず、結局皿だけが、次の季節に残った。


四。

 ひと眼惚れ。とでもいうのだろうか?はじめての体験だった、雨宿りに店に入ってすぐに、眼が合った、奥のレジに持ってゆくと、スポーツ新聞の向こうから店主が眠そうな声で、
「それ、皿ついてないですよ。」
 と言った、
「いいです。買います。」
 そう答えると、店主はスポーツ新聞の端からちらりと、こちらを見て、
「物好きだねあんた。」
 と言い、ぽつり、こうも続けた、
「半額でいいよ。」
「いいんですか?。」
「いいのいいの、雨の日はいつも暇でね。あんた、今日はじめてのお客さんだからさ、いいのいいの、あ…包むもんがない。さすがにあんた物好きでも、このまんま裸じゃ持って帰れないよね、そうだよね、裸はまずいよね、あ…これでいいか。」
 店主はスポーツ新聞の競馬欄をびりりと裂いて、
「どうせこんなもん、その時々の運だしね。運ようん。うんうん。アテにならないよこんなもんは、天気予報と同じでさ、先週も当たらなかったしさ。うんうん。運だようん。」
 とぶつぶつと言いながらそれでも、丁重に包んでくれた、
「大切に使います。」
「いいのいいの。ほらさっさと帰らないと、また雨が強くなっちゃうよ。」
 店を出る前に振り返ると、店主はまたスポーツ新聞の向こうにいた、
「ありがとうございました。」
 頭を下げると、
「いいのいいの。」
 とスポーツ新聞からはみ出した手をひらひらと振って、返してくれた。


五。

 傘を広げると雨音が帰って来た。足下は雨に濡れて、パンプスでは滑って転びそうだったけど、何だか久しぶりにしっくりとした足取りで、歩けた、水溜まりに入るとちゃぷちゃぷと、音がした、歌いたくなった、歌っていた、わたしと、わたしを包み込むすべての雨が、歌っていた、玄関を大きく開けて家に入り、あれ以来はじめて、
「ただいま。」
 と言った、そして悲しくもないのに流す涙があるのだと、知った。


六。

 雨は気がつくと、そばにいる。したたかに、ひたひたと足音を忍ばせそばに来る、ぴたり、肌をつけると雨はあたたかい、雨のあたたかさに満たされてゆくうちにわたしは眠くなる、眠くなり深く、どこまでもひとつぶに落ちるように眠り、ぴたり、降り落ちたように目が醒める、雨がもうひとつぶ、隣で寝息を立てている、わたしは脱がされて裸のままで、雨に抱きしめられている。
 やはりしたたかな雨だなと、今日も思い、想う。




           了。


「 蛇。 」

  PULL.



 わたしは夜、蛇になって男の躯にもぐり込みたいと願うことがある。わたしは細くしなやかな蛇になり、わたしよりもごつごつとした男の肛門を掻き分けにゅるにゅるとからだをくねらせもぐり込み、この肌の鱗で、ざらざらと腸を擦り粘膜を剥ぎ胃から食道へと抜け男を、突き破るのだ。

 この男はいつもわたしのからだにもぐり込むことを得意としている。そしてざらさらとしたわたしからだの中の様子を、事細かにわたしに話して聞かせるのも得意だ、だからきっとわたしもこの男に、この男の躯の中の様子を事細かに話して聞かせうんざりとさせるのだろう、いや、ひよっとすると男の躯の中の方が居心地が良くなってわたしは出てこなくなるかもしれない、そうしたらこの男はどうするだろうか?内蔵の中でざらざらと動くわたしを宿したままいつもの仕事をし、普段通りの生活を続けるのだろうか?結婚もしていない男の躯の中に宿ってしまったわたしを、果たして母は許してくれるだろうか?また男は自らの躯の中に棲み着いてしまった女を、愛してくれるのだろうか?もし男が他の女と浮気をすればわたしは、男の射精と共に排出されてしまわないだろうか?そうしたらわたしはその女の子宮の中で、宿るのだろうか?やがて生まれてくるだろうわたしはその女とこの男を母と父と、呼ぶのだろうか?そもそもわたしは夜、蛇になれるのだろうか?。

 からだの中は夜だ。わたしのからだの中に太陽はなく、月に一度赤くなる月しかない、男の躯の中のことはまだ知らない、わたしはまだ蛇になったことはなく、もちろんどの男の躯にもぐり込んだこともない、わたしは父も知らない、確かに父の躯の中に宿り排出されたわたしであるはずなのに、わたしにその記憶はない、幼い頃父のことをしつこく訊くわたしに母はただ一言、冷たいひとだったと、言ったのだった、以来わたしの中の父は冷たいひとになった、冷たい、この男の冷たい躯は父を想わせる、わたしは二つに裂けた舌を這わせ男を奮い立たせようとする、男の肌は青く氷のように冷たい、わたしの舌が男の太陽の皺をちろちろと舐める、男が冷たく奮い立つ、なめらかにもぐり込んだ男がわたしの中の月を突き上げる、やがて冷たいものがわたしの中で弾ける、なまあたたかいものが月に、かかる。

 男が来るのはいつも夜だがここの外が本当に夜なのかわたしには解らない。男はわたしをここから出そうとしないのでわたしはわたしのからだに訊いてみるしかないがわたしのからだの中はいつも夜なのでやはりわたしは解らないでも、男の来ない間は昼で男が来るのは夜だと思うことにしている、何故なら男は必ず夕食を持って現れるからだ、夕食は男の食べるものと同じなのでわたしにはいつも少し物足りないがそれを男に言ったことはない、男は傷付きやすい存在で父もそうだったと母が言ったからだ、わたしは母のようにはなりたくなかった、母のようになることはわたしが蛇になれないということだった、蛇になれなかった母は父の体の中に宿ることもできず棲むことも叶わなかった、わたしは母のようになりたくない、わたしは母になりたくない、母になりたくないわたしは男に囚われここにいる、だからここにいるわたしは母ではありえなかったがそれでも時折、男が何故わたしを外に出そうとしないのかと思うこともある、男はわたしを恥じているのだろうか?母になれないわたしを男は、恥じて隠しているのだろうか?ならばわたしも隠さなければならない夜が、男が来る前に。

 この頃は昼も、鱗が生えるようになった。わたしは包丁の背で、魚でするように腕の鱗をこそぎ落とす、ざりざりと鱗が浴室のタイルの上に落ちる、わたしは一枚を摘み電球に透かす、鱗の向こうで眩しく、歪んだ電球が眼球のようにぶら下がってわたしを見ている、大きな、ぐろぐろとした眩しい眼、細長い瞳孔がきゅっと縮まる、見られている、わたしは恐くなり眼をつむりきつく、さっきよりも強い力で包丁の背でからだの鱗をこそぎ落とすざりざりと、鱗が残酷な音を立てて落ちる、次に眼を開けたわたしには鱗ひとつなく、眼球は電球に戻り、つるりとした肌が待っている、わたしは念入りに鱗を拾い集め浴室の排水溝に一枚また一枚と落とす、排水溝は音もなく飲み込みわたしの鱗を吐き出さない、だけどわたしはそれでは安心できなくて排水溝に詰まった髪を溶かす薬品をさらに流し込む、こんなものでわたしの鱗が溶けてしまうのかどうかわたしには解らない、とにかくわたしは安心したかった、一秒でも早くわたしの鱗とあのぐろぐろとした眼のことを忘れて溶かしてしまいたかった、排水溝の向こうからつんとするものが立ち上がる、鼻の奥が痛くなった、なまぐさいものがわたしの胸を通り過ぎた、ざらざらと喉の奥で擦れ溶けてゆく鱗の感触がした、わたしは酸っぱいものが込み上げる口を押さえ逃げるように浴室を出た、鱗の落ちた裸足から伝わる冷たいタイルの感覚が、夕べの男の躯を想い出させた。

 眼が醒めると男の胃の中にいる。長いわたしの尻尾はまだ男の腸の中にいて引き抜くと、腸の粘膜が剥がれる感触がした、上の方で男の呻く声がして胃が揺れる、少し男が気の毒になったが毎晩わたしのからだの中の粘膜をさんざん引っ掻き回しもぐり込む男のことを考えると、それも当然の報いのような気になった、尻尾の先で胃壁を突くとさらに激しく男の躯の中が揺れた、胃の内容物が降りかかるどろどろと、夕食の肉じゃがのじゃがいもの横で見覚えある鱗が一枚、溶けていた。




           了。


「 トカゲの日。 」

  PULL.



一。

 トカゲの日には皮を被る。皮は前の晩から窓際に吊し風を通し、皺を伸ばしておく。ただの革ならまだしもこの皮は生きた皮なので、扱いにはいつも神経を使う。一度ヒトガタの方に吹き出物ができて困ったことがあるが、その時はトカゲの皮の方にも影響が出て、半年間トカゲの日は吹き出物だらけの皮を被ることになった。


二。

 皮を被る前の晩はヒトガタを解き、裸で眠る。トカゲの日はヒトガタの時とは違い、服は身に付けない。
 トカゲの皮だけで出歩き、過ごす。
 だから皮にはヒトガタの時に身に付けた服や下着の跡、それにヒトガタそのものの跡が出る。夫はそんなもの誰も見ていないし気にしていないと笑うが、やはりいくつになっても女である。身嗜みには気を付けておきたい。


三。

 夫が、わたしを求めてくるのはこんな夜だ。さっき誰も見ない気にしないと言っていた舌と同じ、ざらざらとした舌で、執拗にヒトガタの跡を舐め、歯形を付けようとする。わたしはやめてと言うが、夫は構わず、皮の上から跡が出そうな所ばかりきつく、噛む。わたしは身を捩り夫の歯から逃れようとするが、そうすればするほど夫の力は強くなり、強くなればなるほどわたしは身を捩りさらに強く、夫の歯を求めたくなる。
 夫の歯が、わたしを破る、わたしはかたちを忘れずぶずぶと、夫に破られて、ゆく。


五。

 子供は三人卵で生まれ、末の子だけがひとり、ヒトガタで生まれた。卵で生まれた三人はわたしには似ず、育つにつれより、夫に似たものになった。夫に似た子供たちは上から順に巣立ち、それぞれ夫に似たものたちと平凡な、家庭を持った。
 最後にヒトガタで生まれた末の子が残った。
 末の子は上の三人とは違いなかなかかたちが定まらず、苦労した。トカゲの皮を嫌がり、眼を離せばすぐにヒトガタを解き、あいだのものになろうとした。わたしは根気強く、末の子にこの世のことわりや、わたしたちの在るべきかたちについて諭した。時にはお互い声を荒げ、時にはお互い手さえ上げそうになったが、最後には親として子として、何より同じものとして、解り合えたと今では思っている。
 そんな末の子ももうすぐここを出て、自分の家庭を持つことになった。先週連れてきた相手は、わたしや末の子と同じ、似たものたちだった。
 明日は末の子たちと一緒に、トカゲの皮を被り、沼にゆく。


六。

 沼で何をしているのかと訊かれたことがある。
 末の子が生まれてすぐの頃だ。むずかる末の子に乳をやっていると後ろで声がして、そう訊かれた。ねばっこい、はじめて聞く感じの夫の声だった。
 わたしは何もと答え、夫はそうかと言った。
 しばらくしてふり返ると夫の姿はなく、翌朝いつものように出掛けたきり、帰ってこなかった。
 一週間後、ふとふり返るとそこに、夫がいた。一週間前と何も変わらず、まるでそこでずっとそうしていたように、夫はいて、末の子に乳をやるわたしを見ていた。
 あれから四半世紀経つが夫はあの日以来一度も、それについて訊いてこない。はじめは不思議でしかたがなかったが、段々、そういうものなのだろうと思うようになった。
 今日も夫は何も訊かず、トカゲの皮を被るわたしのかたちをじっと見ている。わたしは気付かないふりをしてトカゲの、皮を被る。ぴんと張った皮の上に、夕べの歯形の跡が浮き上がる。見られている。ざらざらとする。皮の下がざらざらと、する。


七。

 出掛けに夫が尻尾を踏もうとするが、いつも上手くいかない。わたしは尻尾の先で軽く夫の足を撫で、扉を閉める。扉の向こうで細く、また帰ってきてくれよという声がした気がする。わたしは尻尾でバランスを取りながら沼に向かって、駈けていた。沼への道は似たものたちで溢れかえっていて、トカゲ臭い。隣に末の子たちがいる。わたしたちは鱗を擦れ合わせ沼へ向かっていっしんに、流れて、ゆく。




           了。

文学極道

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