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山人 - 2018年分

選出作品 (投稿日時順 / 全11作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


シーサイドライン

  山人

海の見える山に行きたいと思った
また、冬に身を投じ、雪まみれにならなければならない
その前に、できるだけ平坦で、広大な場所に行きたかった
もともと、すべての生き物は海からはじまった


コンビニで食料を買い、シーサイドラインに入った
やはり、水平線はごくわずかに曲がり、この星が球体であるという事を示してくれている
清流の涼やかな流れではなく、わずかに濁った冬の海は言葉が見つからないほど巨大だ
波はうねうねと遠くまで続き、細かく刻まれた岩礁が奇怪な形をしている

登山道は参道の延長から入り、標高六〇〇余りの信仰の山へと向かう山道が続いている
行きかう人たちの挨拶が鬱陶しくもありながら、その言葉が身に染みる
老若男女が自由に山頂を目指し、下山していた

大量の汗に山頂の風は冷たく、枯れたススキがなびいている
山頂にも鳥居が設けられ、そこでにこやかに参拝する若いカップルが居た
背中に汗がへばりつき、その不快さを合掌することで和らげようと銀硬貨を投げ入れる
食べるでもなく、飲むでもなく、もう一つ向こう側の峰まで歩きだす

山とはいっても、無雪期は山頂近くまでスカイラインが通り、たくさんの往来があったのだろう
今は通行止めとなり、冬枯れの曇り空と、治癒の希望がない、暗澹たる病巣のような日本海が広がっている
離れた峰まで行く人は稀で、歩くのを楽しむというより
そこに至らなければならないとする義務感のような意思を感じる
峰の中央に、大きな木製の道標がたてられ、その文字は消えかかっていた

登山口に戻ると、再び人のうねりがあった
参道に沿って歩くと、本殿があり、多くの家族・高齢者などが目を閉じ、合掌している
賽銭箱のやや横で、一心不乱に手を合わせ、何かを祈願しているのだろうか、老人はじっと動かずに立っていた

神はきっといるのだろう
大勢の信仰登山者に遭い、挨拶を交わし、神に祈った
しかし、もうそんなに、良いことは無いのかもしれない

車を走らせ、菓子を放り込む
舌にころがる甘さが、瞼の隙間にしみてくる
もう一度、シーサイドラインに立ち寄り、海を見たいと思った


欠片

  山人



血管の中にこびりついた沈黙を
溶液で溶かし
老人は語りをやめない
はきだす口もとから
おびただしい仔虫の隊列が
果てしなく
悲しく
生まれ出ては死亡する


鉄となって身を打ち
子らを放牧し
冬には黙り込み
春まで眠っている

湖いっぱいの酒を飲みつくしても
まだ死ねないでいる
遥かブラジルを懐古する
記憶の隅で希望は残照となる

田参りする道はたそがれて
ススキは細々と
つめたい風に揺れている


蜘蛛

  山人

古いたそがれが落ちている
窓の桟、ガラスの汚れ、あなたの後ろ姿
アリが、本能のまま
きちがいのように動き回っている
坩堝のような夏
アリは動き回ることしか許されていない
私たちはそのように
温度さえ失われた世界の初めから今日まで
きちがいじみた日々を
呪文のように生きていた

手枕で横たわるあなたという置物が居る
セミの声すら失われた夕刻
家屋の中には数えきれない溜息が滞り
か細い体躯の蜘蛛がそれを齧っている


ウサギ狩り

  山人

朝、息は白く冷たい
夜雪が降り、ウサギの足跡はついた筈だ
心の中の鉛は骨に入り込んでいる
だが、浮き足立つ朝の輝きは止めることができない
ウサギ狩りだ

猟場に着いた
車の中から銃を下ろす
頼むぞ銃よ
アンバランスな姿勢でカンジキを付け雪に踏み入る
キラキラと雪がダストのように舞う
まぶしい光線に心が躍る
今日はウサギ狩りだ
はらわたを出すための皮剥ぎのナイフは持ったし
ウサギを入れるビニール袋も二枚持った
自分で握った無骨な握り飯も三つ用意してきた
あとは獲物があれば良いだけだ
厭なことはとりあえず何処かに置いていこう
冬枯れの木々には綿のような雪が付いている
僅かな風でそれがふわりと落下する

息が荒くなり汗がにじむ
雪の斜面にウサギの足跡がある
ウサギは夜行性だから今頃は何処かの木の袂に潜んでいる筈だ
時々足を停め意味もなく周りを見る
猟中に無意識に周りを観察する癖だ
ウサギの足跡が途切れている
(カムフラージュ痕)
きっとあの辺にいるのだ
銃に装弾を込め少しづつ近づく
ウサギがいつ出るのか、どう出るのか
張り詰めた空気を手繰り寄せる
ウサギはダッシュする
呼吸を止め照星を合わせる
銃を振る、本能で冷ややかに引く、雪山に銃声が響く
走りながらパタリと落ちる、動かなくなる
ウサギは血を吹き出させ、断末魔に向かい足や手を痙攣させている
近づくと目を見開き、事切れたウサギが雪面に横たわっている
溜息を一つ雪の上に落とす
腹の毛を少し毟る、ナイフを付き立て腹の皮を裂く
温かい臓物が顔を出す
胃袋をしっかりと掌で掴み、腸もろとも雪の上に放り投げる
横隔膜を指で破り、肺に溜まった血を雪の上に撒く
黒く固まりかけた血が雪の上に散らばる
ウサギの腹を雪の上に腹ばいにさせ、しばらく休む
ウサギの命は奪われ、俺は救われた
継続していた緊張感は元に戻り、静かなだけの風景が再び訪れる
ゲームはリセットされたのだ

サクッサクッと雪山をカンジキで歩く
殺されたウサギの死骸の暖かさを背中に感じる
そう自分は罪人
いつまで何処まで歩いた所で罪は消えない
このまま、この白い無垢な雪山と同化出来たならどんなに良いか
不意に魂がふわりとした直後、ウサギはダッシュする
ポンポーンと連発で長閑な銃声を響かせる
やはり長閑だったのだ
ウサギはいとも簡単に逃げて行き、かすりもしない
ウサギは生き延びた
その後もウサギを追っていく
でも心の中で、もうウサギは獲ることは出来ないとの結論を出している
体はだるいし足は重い
雪は腐ってきて重量を増やしたからだ
むなしい猟だった
獲物はあったが冴えない日だった
背中のウサギは硬くなって冷たい
太陽も白い雪山を照らし続け
いささか疲れたように西日を照らしている
ウサギはもういない
頼むからいないで欲しい
重い足取りを引きずる事をもっと楽しみたい


背中のウサギには悪い事をした
もうどんな宗教でも生き返らせることは出来ない
まだ温かみが残るウサギは吊るされて裸んぼうに剥かれた
ズットンガランと鉈で背中や腿をぶち切り鍋に放り込まれる
死んでウサギ鍋になってしまったウサギを齧る
まるで自分を食っているようだ
逃げ場のないウサギを獲って食っている
雪山に自らの逃げ場を失った感情を放り出し
それをただ集めてまた体に戻している


石 風 洗濯物 部屋

  山人

道端の石に夢があるのなら
もっと明るくひかるだろう
考えた挙句
石はあんな風に黙り込んでいるのだ

風はいつも姿を見せない
あなたの心のように
風圧を押しつけては
ここにいるよと示すだけ

洗濯物は物憂げに
上空の曇り空を眺め
部屋の
誰も見ていない
テレビを一瞥する

部屋は四角く区切られていて
そこに人が丸く住んでいる
隅には置き去りにされたおもいが
埃となっている


山林にて

  山人



蒸す日だった
私たちは山林の中の枯葉の上で
一服をしている
同僚の、ほぼ禿げた頭部が汗に光り
涼風が渡っていく

目の前の葉では
太さ一ミリに満たない、尺取虫が
長い首を伸ばし
次に着地する場所を
鼻をふくらませて嗅いでいる
途中の足をカットされたその妙な生き物は
前足にたどり着き安堵するとともに
また同じことを繰り返す

葉の端では
一匹の蜘蛛がそそくさと動き回り
それとともに小さな尺取虫は
葉の裏側へすっと隠れた

あたりを見れば
今年流行のチャドクガ毛虫が徘徊し
行先もないくせに動き回っている

メマトイがしきりに目の周りを五月蠅くし
いやがらせする
ブユは細かく舞っている
不快の塊だ
エゾハルゼミは狂っているから
疲れを知らない

みな、それぞれに
生きていることにすら気づかない
死を気にするでもなく
これからの事だけのために
螺子を巻かれている

前方の同僚の禿げ頭がゆらりと動き
ヘルメットが被られると
私たちの一服が終わる

風はまた止み
爆音が身を包む
私たちもまた虫のように
我を忘れる


二月からのこと

  山人


平易な朝と言えばいいのだろうか
ひさびさに雪除け作業もなく道路は凍っている
稜線には水色の空がのぞいている

声を枯らし、鬱陶しい汗が肌着を濡らし
昨日の日雇いはきつかった
だだをこねていた中国人の子供が
にこやかに礼を言ってくれたのが唯一の救いだった

気持ちはいつも
揺らいでは落ち、昇り、また降下していく中で
私は今日、遠出のための準備を終えた

遠方まで出向き、私は私の存在意義のために動こうとしている
この先どんなふうに未来は動くのだろう
豊穣の未来のために
私は利口な農夫になれるのだろうか

新しい種を求めて
私は遠出する



まだ夜も明けない朝
また目覚めてしまった
玄関をあけ、階段を降りる
道路には闇にたたずんだ外灯がある
何かが舞っている
羽虫のような生き物
排尿をしながらそれを眺めていると
細かい雪だった
外灯の後ろ側には月があるのに
闇はしずかに
月光とともにそこにあった

裸に冷やされた仕事場の戸を開け
電灯をともし ヒーターを点ける
マグカップに白湯を注ぐ
数回 息を吹きかけて
口の中に湯を回す
無味な湯が口中をころがり
私の芯へと落下していく

もうすぐ夜が明けるだろう
失われた時間が次第に元に戻ってくる
でもまだ三月だ



闇の西の空に赤みがかった月が浮いている
未だ目覚めない命の群落は音を立てていない
傍に立つ電柱の静けさとともに
小池にそそぐ水の音が耳から浸透してゆく

夜半に目覚め再び眠りに落ちて
めずらしく夜が明けてから外に出た
やわらかい空気が皮膚に触れる
包まれていると感じる
あらゆるものに理不尽さを感じながらも
四月に抱かれるように
すこしだけ腑に落ちる

新しい物語のために四月はおとずれ
感傷は三月に見送る
夢はまだ終わったわけではないよと
君に言いたい気がする



物語のはじまりにも慣れ
風の速さも感じられるころ
あかるみを帯びた月がはじまる
大きく風を飲み込む鯉が
初夏の結実を促すように泳いでいる

命の蓋がひらかれる
スイッチを入れられた生き物たちはうごめきまわり
生をむさぼっている

五月は裸の王様だ
どんな生き物も性器を陳列し
淫靡な香りと誘惑の痴態を広げている

農民は田へ田へと
呪文のようにリピートし
土のにおいにおぼれている

車は疾走し続ける
五月の空気は錬金術師
後方のナンバーには
「五月」と記されているかのように



六月の雨音が聞こえる
今は空のうえで
六月の雨が育ち
きっともう
豊かに実りはじめているのだろう

誰もが六月の雨を待っている
やさしく皮膚に染み入り、
あらゆるものを平坦に均し
雨は果実のように地面に注ぐ

やさしさや安らぎは
雨から生まれ
やがて血液の中に混じり込んで
やわらかなあきらめともに
人ができてゆく



七月の
少しむっとした空間があった
上空ではまだ
とぐろを巻いた怪物が
大きく交尾をしているという

集落のはずれは
言葉を使い果たした老人のようで
かすかに草は揺れ
どことなく
小さな虫が飛翔していた

他愛もない会話の中で
使い古しの愛想笑いを演じ
私は居場所のない場所に居たのだった

なにもかもが濁っていた
七月の
まだ梅雨空の上空は
肥大した内臓のようで
大きく膨らんでいた

さび止めをし忘れた
私のねじが
コロコロと
助手席に上に
転がっている



深い霧がうっすらと見える
まだ明けきれない朝
ニイニイゼミの海が広がり
その上をヒグラシがカナカナカナ、と
万遍なく怠惰が体を支配し
私はその中をぷかりぷかりと泳いでいる

上空には巨大なウミウが舞い
血だるまの現実がホバリングしているが
私の心は心細いマッチ棒のようで
ぶすりぶすりと煙い火をかすかに灯している

私は
またこのように道を失い
いつ来るともしれない
風を待っている

八月はまたやってくる
夏の痛々しく残酷な暑さは
あらゆるものを溶かし崩してゆく

釈然とするものが何一つない真夏の炎
それはすべてを燃え上がらせ
骨も髄も溶かし
念じたものをも溶かしてゆく



あらゆる裸を晒し続けた真夏だった
饒舌にまくしたてる命の渦
夏はすべてをあらわにし
やがて鎮火した

隔絶された山岳の一角で
口も利かず
私は一人で作業をしていた
何も無いその佇まいの中で
私は何と戦っていたのだろう
でも確かに戦っていたのだった

少なくとも日没は一時間は早まった
夕暮れ近い山道を登り返す時
うすい靄がオレンジ色に差している

ホシガラスが滑空し叫ぶ
断崖を蹴るように降下し
再び上昇した
いくつか濁った声を出し
私の上を飛んだ

額に灯火されたランプのもとには
蛾や羽虫が擦り寄り
光源に酔っている
ヒキガエルのこどもが
のそりと動く

わたしも彼らも
きっとどこかに帰るのだ
ねぐらへ棲み処へと

ザリッ
スパイク長靴が石とこすれあう音が
九月の夜の山道に
孤独に響いた



空が重く垂れさがっている
泣きそうな重い空気が
地面に着陸しそうになっていた
野鳥は口をつむぎ
葉は雨に怯えている
狂騒にまみれたTVの音源だけが
白々しく仕事場にひびく

悪臭を放つ越冬害虫が空を切る
その憎悪にあふれた重い羽音が
気だるく内臓に湿潤するのだ
不快な長い季節の到来を
喜々として表現している

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
不快な空間はあらゆる場面でも
途切れることがなく存在してゆく

十月はあきらめの序曲
乾いた皮膚をわずかに流れるねばい汗
かすかな望みを打ち消す冷たい風音

風景はさらに固まり続けるだろう
思考は気温と共に鬱屈し乾いてゆく
ひとつふたつと声にならない声を発し
ねじを巻くのだ



男に足はなかった
有ったのは、たった一つの脳と心臓だけだ
脳と心臓からやがて手が生え、足が伸び
それらが男に足され、人になる
十一月の肌寒い雨の日
男はのっぺりとした顔をして歩き出す
友もなく、鉛筆の芯のような思いだけで
歩いているのだった
雨降りの山道は
一人姥捨て山への階段のようで
目的地に行こうとする
あきらめに似た感情だけだった
息が上がり心臓は早鐘を打ち続けるが
かまわず男は登り続けた
やはり、頂きには誰も居なかった
霧に浮かんだ道標と祠が男を迎えた
たしかに男は何かを捨てた
いや、捨てなければならないのだと悟った
汗まみれの帽子を脱ぎ、合掌した



首を失った生き物のように、残忍に打たれ
転がっているのは私だった
十一月の刃物が寒さとともに研がれ、この加齢した首を削いだ
十二月、私の頭上にあるのは妄想という球体
腐れかけた妄想がその中に入り込み、浮かんでいる

失われてゆく季節、失われた私
水に名が無いように、私の名も失われ
このように、丸い球体となって、殺がれた私を見ている

木は失意し、空は失速する
草は瘡蓋を置き去りにし、すべての血はうすくなる
時間は歴史となり、眼球は軽石となる

十二月は無造作に私を葬る
影を作ることも忘れた冬が
名もない私を狩る


雪原の記憶

  山人

 私は警察署に来ていた。
あれだけ面倒くさい手続きやら、身辺調査やらをクリアし、ようやく手に入れた銃と所持許可であったが、止める時はなんの造作もないものだ。
書類手続きに慣れていない新任の警察官は、書き方がわからないらしく、たびたび席を外していた。
すでに分解された銃の一つを手に持ち、銃身に唇を当てた。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした。

 
初雪が降り、融けたり消えたりを何度か繰り返し、根雪となる。
あたりの雑木は雪に覆いつくされ、山々の起伏がはっきりとしてくる。
深夜に雪が降り止み、朝方にはウサギの活動痕が目立つ頃である。
ウサギは夜行性で、夜に活動する。夜、食餌のために小枝の先の冬芽を求めて出歩く。
また、一月を過ぎると既につがいを形成するようだ。
餌を食べたり、つがいの相手を探したりとあちこちを動き回る。キツネやテンなどの天敵から逃げたりする時間帯でもある。
夜が明ける前に、ウサギは寝屋と呼ばれる場所を選び身を隠す。
ほぼ同じ区域に生活しているが、寝屋は一定ではない。
寝屋の特徴は雑木が傾斜した根元の雪の中をシェルターとして利用するのである。
シェルターを確保し、日中はそこでじっと休み夜を待つのだ。
 当地区では、ウサギは古くから冬場の貴重な蛋白源として、狩猟が広く行われていた。
昔は、全域の男達が銃を所持してた時代があったという。
自然が豊かで製炭や薪燃料として木が適度に伐採され、キノコや木の実が豊富に実り、豊かに物質循環が行われていた時代である。
すなわち、山に住む獣にとっても豊かな食料を手にしていたのである。
山では多くのウサギが獲れ、子供の頃の記憶では週に一度はウサギ汁を食べていた。
 最近では、銃規制も厳しく、銃所持者の高齢化にも拍車がかかり、狩猟を行う人は激減していた。
当地区の猟人も最低年齢が既に四十を越えていた。しかしながらマタギや狩猟の伝統を守ろうとする少ない人達によって、今でも猟は続けられている。
 深夜、雪がほどよく降り、朝から晴れ上がった日はウサギ猟に適している。
夜、雪が降らない時は、極めてウサギの活動痕が多くなる。つまり足跡が多過ぎて居場所の特定が難しくなる。
深夜、適度に雪が降れば、余計な活動痕は失せ、寝屋に近い部分の足跡が残る。
寝屋に入る前にウサギは独特のカムフラージュ痕を残す。寝屋の手前から徐々に足跡のリズムが少し乱れ、とぼとぼしたような足跡を残す場合が多い。悩み痕だ。
適当なシェルターが決まると、シェルターの前を通り過ぎ、一定の距離で停止し、回れ右をしシェルターに入り込む。ウサギの足跡が忽然と消え入る箇所があるのだが、こういう場合は得てして近隣に潜んでいる場合が多い。ただ、場合によってはこういうカムフラージュ痕を幾度も繰り返している場合もあり、百戦錬磨の狡猾なウサギも多い。
 ウサギを追っていると、奇妙なことに気付く。寝屋に潜むウサギが危険を感じると、まず逃げるのだが、それをどんどん追っていくと再び同じ地形に戻るのである。これはウサギ自身も意識しているわけではなく、一種回帰性といった本能なのだろう。確実に逃げるのだが、ふと立ち止まり追っ手の位置を長い耳で聞き耳を立て判断するのだ。
 私は単独猟が好きだった。猟場を選択し、コース、居場所や地形を選び、場所を特定する。そして如何に効率よく捕獲するために、どう近寄り、どうシェルターからウサギを追い出してやるか考えるのである。それらがうまく一致した時に、初めて捕獲が可能となる。

私が直接銃を止めるきっかけになった事件があった。二〇〇六年の事である。
熊狩りの時期になったら、今年こそ参加しようと思っていた。
 熊狩りは、冬眠明けの熊に限って害獣駆除という名目で、数頭の捕獲が許されていた。
熊狩りを行う人は勤め人が多く、平日に熊狩りに出られる人は少ない。複数人でなければ熊の捕獲は出来ない。
熊は他の獣と較べると著しく警戒心が強く、嗅覚・聴覚が敏感だ。また、強靭な骨格や硬い脂肪の皮脂があり、岩場から転がり落ちても怪我を負う事はない。まさにゴム鞠のような体なのだ。しかしながら、薮の中を猛進することができるよう、目は小さく、視力は良くない。
当地では熊のことを「シシ」と言い、熊狩りのことを「シシ山」と言った。
このシシ山は、狩猟人の集大成とも言える猟だ。
チームワーク、勇気、あらゆる力が試される場であった。
 小黒沢地区では、最長老の板屋修三氏の自宅がシシ山の本部であった。
現場のリーダーは最近選任された村杉義男氏。板屋氏は既に八十を越えており、村杉氏も七十近い。村杉氏の補佐や助言役として、私の父や元森林官など五名ほどが取り巻くと言う図であった。
 熊の捕獲には、指示役・勢子・鉄砲場の三種類の役目がある。指示役が熊の位置を把握し、鉄砲場に熊が向かって行くよう勢子に効率よく熊を追わせる。熊が追われて逃げる地形はおおかた決まっていて、鞍部(稜線中の凹んだ場所)やヒド(沢状となった窪み地形)目掛けて移動する。全く障害物のない白い雪の台地を逃げることはなく、薮や木の多い所を逃げる。ウサギなども同じである。上手くいけば台本どおりだが、なにしろ大物猟だから、関わる人の意識は高揚しており、単純なミスも結構ある。また、人の立ち位置で大きく熊の進路が変わることもあり、慎重に作戦を立てる必要がある。
 その日私は、父から「熊が居る」と聞き、本隊から少し遅れて家を出た。ホテル天然館の除雪終了地点に車を止めると隅安久隆が居た。三十代後半で猟友会では一番若い。いつもニコニコしている気さくな独身青年で、地元の建設会社で現場監督をしていた。最近は猟のほうも腕を上げ、ウサギや鴨では一番の獲り頭となっていた。「熊を撃て」と言うが、「いや、俺は勢子が良い」と、自分の持ち場を決めていた。
 私と隅安は遅れて本隊に合流した。熊のおよその居場所は掴めているようだ。大門山塊に白姫(一三六八メートル)というピークがあるが、その一〇〇〇メートル付近に居るとのことだった。隊は十一名、鉄砲場(射手)三名、目当て(指示役)二名、本勢子三名、受け勢子三名という人員配置であった。私達は受け勢子で、最も熊との遭遇が考え難い配置にあった。
 本隊は上白姫沢左岸尾根一〇〇〇メートル付近の熊を囲むように配置された。我々受け勢子は、上白姫沢左岸尾根の左手にある黒禿沢左岸尾根に取り付いた。一番若い隅安は上白姫沢左岸尾根に向かう途中の中腹に待機していた。元森林官の間島洋二と私は、黒禿沢左岸尾根で様子を窺っていた。
 全員が配置につき、勢子の活動が開始された。真山(熊の居場所付近の配置)からなるべく遠いところから勢子を始めなくてはならないので、最初に間島が「鳴り」を入れた。残雪がたっぷり残る山々に、一見のどかな「おーい、おーい」の勢子が響き渡った。続いて勢子鉄砲を数発私が放つ。これものどかに「ポーン、ポーン」と雪山に響いた。やがてイヤホンの無線から慌ただしく「シシ(熊)が動き出した」との無線が入った。それと同時に、今度は真山の下部にいた本勢子たちが「鳴り」に入る。村杉の無線によれば、熊は計画通り射手の方へ向かって進路をとっているとのことだった。私と間島は、熊の捕獲を確信し喜んだ。
 一閃、鉄砲が響いた。仕留めたのか・・・・。まるでスローモーションを見るように、熊は上白姫沢左岸尾根から隅安のいる斜面に向かって走り出てきた。隅安の近くをかすめるように熊は転げ、私たちの方へ下ってくる。隅安の銃は連続三発熊目掛けて射るが、殆ど当たりはないようだ。熊は私と間島の近く百メートルほどまで近づいてきた。「拓也、撃てっ!」。必死に銃を溜め、熊に射る。これは、隅安が再び熊を射止める為の勢子鉄砲であると共に、真山への勢子鉄砲でもあった。一種の威嚇射撃である。熊は七十メートルまで接近してきた。今度は本格的に射止める射撃に入る。しかし、最近熊を射止めたことがなく(九年前に三十メートル近射で熊を射止めたことはあった)、遠すぎてどこを狙って良いか戸惑いながらの発砲であった。数発撃ち、徐々に当たりを確信した。しかし、酷にも弾切れに。
「間島さん、弾が絶えた・・・・」
「散弾でも何でも良いからぶてや!」
私は必死に散弾を込めて放った。
 熊は沢に入ることなく、再び隅安のほうへ向かって逃げ始めた。熊は隅安を見たのか、彼の三十メートル下の雪と薮の間を進んで行った。間島はしきりに無線を入れて、隅安に熊の位置を教えていた。私からは熊の位置は丸見えだが、隅安からは薮に隠れて見えない状態だ。熊は薮を上へ上へと移動しているので、先回りして熊の真ん前に出て撃てと言う内容の無線だ。隅安も熊を確認したらしく、銃を構えながら薮の中の熊に接近し始めた。あまりにも近くなので、我慢し切れず隅安は数発撃った。何秒もしないうちに、雪の上に熊が現れた。意外に早かったが、あとは隅安が仕留めてくれるだろうと願った。ところが隅安は逃げ始めた。弾切れになり、弾の入れ替えが間にあわなかったようだ。十メートルほど逃げた。しかし熊の野生には敵わない。最後の抵抗で、銃床部分で熊の鼻先を叩いたようだが、彼らの背後には沢の岩肌が迫っていた。
 隅安と熊は、互いに絡みつくように沢の窪みに落下した。同時に大きな雪塊が彼らのいる場所に落ちた。数秒後に熊は我々の間を横切り、途中の沢筋の穴に隠れて姿を消した。
 彼は独身だった・・・故に子供は居ない。それだけが救いであったのか。無線で事故の事を能天気で話している猟友もいる。まだ事故の重大さを皆が解っていないようだ。実際にこの修羅を目撃していたのは私と間島だけだった。
 空は澄みきり青空だ。無線は相変わらずやかましい。私は祈るしかなかった。万に一つの可能性があるとすれば、生きていて欲しいということだけだった。間島は狂ったように、「たかー、たかーっ」と叫び続けながら、彼が落下したと思しき位置に向かって歩いていった。夏のような陽気で暑く、雪は重く粘った。
 「久隆は意識はあるし、自力で立てる」・・・・・。
全身の力が抜けてくるような、奇跡の光のような無線だった。足場の悪い沢を上っていくと、隅安がいた。顔中が腫れあがり、いたるところに血が出ていた。耳は片方の三分の一ほど爪で打たれ欠損していた。皆が集合して、鉄砲場の長井と私が応急処置にあたった。どこが一番痛いかと聞くと、右手の上腕が酷く痛むという。衣服を切り裂いて患部を開けてみると、すっぽりと穴が開き、中の肉が抉られているようだった。頭と上腕に手当てを施し、私のほか二名と下山した。隅安は少し寒いといった。軽いショック症状が出ているのかもしれないと思い、ジョークを言い合ったり衣類を着せたりした。出血はあまりなくて、どれも急所を外れた傷であった。
 ホテル天然館に着くと、警察・救急車や関係者でごった返していた。目撃者ということでもあり、私が警察やマスコミの質問に答えた。小黒沢集落の熊狩りの歴史上で、これだけの事故は初めてだとのことだった。熊と正面で出くわしたが、転んだ弾みで熊が人を跨ぎ、傷ひとつ負わなかったという事はあったらしい。
 今日の事故の責任は誰にあるのか、いろいろと戦犯も上げられた。最初の射手が動いたため、私たちの所に熊が進路をとったとする説。私も戦犯の一人であると言われたのは言うまでもない。ただ、熊狩りで熊を撃つ場合は「なるべく近くで撃て」と言われていたはず。あの場面では、熊は黒い点の野球ボール程度にしか見えなかった。だが、当たらない距離ではない。結局、誰が悪かったのか・・・。あまり深い追求はしないにしようと相成った。
 しかし、熊と言う生き物の凄さを改めて皆が知ることになっただろう。隅安はあれから小1ヵ月も入院し、その後仕事に復帰した。彼を襲った熊は、事故後数時間で穴から出てきたところを捕獲された。


自然環境保護員でもある私は、三月、ネズモチ平を目指し、カンジキで歩いていた。
私の目の前をウサギが飛びだして走りぬけていった。
BOWBOW!、銃をイメージしウサギを撃った。
タイミングよく、ウサギは雪原に横たわり、痙攣をしながら息絶えていた。
私は即座に、腹の毛をむしり、ナイフを突き刺し、横隔膜の中の血を吐かせ、肝臓だけを残し、腸や胃や膀胱を手で取り出して捨てた。
あたたかいというよりも、熱い。先ほどまで生きていた、躍動していた、逃げるという事に集中したウサギの命の末路が未だ温度として残っていた。
私は血液のついた赤い手を雪で洗った。
銃のない私は、想像していた。あたたかい血や、内臓の剥ぎ取られる瞬間を。


労働

  山人

底冷えの日が続いている
夜明け前の除雪車の轟音に目覚め、ドアを開ける
階段のコンクリートの端をなぞるように雪を掻き落とし
雪を運ぶ道具で人力除雪が始まる
ずっともうこんなことをやっている
固い空気が微動するのを感じる時だ

寂れた湖は、波一つなく一隻の知らないボートが浮かんでいる
闇は深い
コトリとした音もなく、永遠と呼ぶにふさわしい水深がある
その無機質な湖に言葉を散らしていく

呪文のようにつぶやき、作業を進める
道路の端には、何度も雪を捨てに往復した足跡が
まるで、何十人が作業したようにその痕跡を残している
かつて、その痕跡に達成感を見出したことがあった
今はもう、それを消し去って降りつくしてほしいと願う

*

無機質で冷徹な冬だ
太陽ははるか彼方にしまい込まれ
あたりは青い狂気に覆われている
狂っているから俺も狂うしかない
さらに燃えてやる
ぶちまけられた現実に愛しくキスしよう
打ちのめされた殴打を抱きしめよう
青く沈んだ痣をなめれば塩辛い鉄の味がする
たしかに無偽に生きた年月だった
その代償は吐息の荒野だ
月を数えた
祈るように木を見つめ
花を瞼にしまい込み
また、おびただしい死骸を積み上げよう

*

雨と曇り空が続いた大寒からうつらうつらとまた雪が舞いだした早朝
まだ相変わらず夜は明けていない
居間のLEDがあまりにも明るすぎて
私の内臓や脳までさらけ出されている
壁際に押し付けられた焦りは、すでに発光することもない
また今日も名もない呪文を唱えながら
毛をむしり取られた獣のように作業する
一日は始まる。そしてまた私は演じ続けるだろう

*

空が重く垂れさがっている
泣きそうな重い空気が地面に着陸しそうになっていた
野鳥は口をつぐみ、葉は雨に怯えている
狂騒に塗れたTVの音源だけが白々しく仕事場に響く

悪臭を放つ越冬害虫が空を切る
その憎悪に満ちた重い羽音が気だるく内臓に湿潤するのだ
不快な長い季節の到来を喜々として表現している

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
不快な空間はあらゆる場面でも途切れることがなく存在してゆく

*

悶々としたものが、地面に近い高さに浮遊している
眼球の奥には、重い飛行物体がうずくように微動し
その微かなエンジン音が俺の体のだるさを助長している
だるい、確かにだるい
まるで俺自身が疲労の塊から生まれ
そのまま、無碍に時間を経過してきたかのようだ
アスファルトに地熱はない
地表が湿り気を帯び、室内の壁際は黙る
景色は前からそこにあったように平然とたたずみ、一枚の絵のようだ

*

目の前の仕事をこなしながら私の脳裏の中には目まぐるしい羽音が飛び交っていた
虫たちは羽音を不気味に立てて下に上に横へと縦横無尽に動き回っていた
私はそれに逆らうでもなく淡々と仕事をこなしていくしか術を持ち得なかった
午後には残照がまぶしく顔を照らし逆光となる
次第に重苦しく体は疲労し私は木に腰掛けて息を吐いた
また冬が来るという真実だけが重く厳しく悲しかった

*

正午近い、この薄光る昼時の、他愛もない、この残酷な時を過ごしているのは私だ
背負ってくれ、と鬆の入った骨の老婆を背に階段を登れば
あたりには散らばった越冬害虫がひらりと身をかわす
まだ死にたくはないのだと、この晩秋の沈黙に漂うのは凍り付いた希望
正午になれば平たく重い時間が降り立ち
むごいほどの静けさは鉛の冬を暗喩する


酩酊

  山人


近所のスーパーに立ち寄り、ワンカップを二個買って
ベンチに座りキャップを開け飲む
公園デビューしたらしい母子がぎこちない笑顔で会話している
たがいの真意を探り合い、刃物を隠し、それでも笑顔が冷たく継続されている
俺はふっと笑った。なぜか笑える
血液が各所に鎮座し始めて、いちめん花畑のような安堵感に満たされて
少しだけ鼓動速度が増した息遣いを楽しむように、その高揚感を感じていた
その液体に美味さを感じるわけではなく
アバウトな低温で中途半端な甘さと辛さを備えたその無色透明でありながら
ややもすると少し色づいた液体がカップを流れ落ち
喉元を通過していく時の断末魔のような動きに快感すら覚えてしまうのだ
ベンチの鉄パイプは錆びていた
錆の匂いは血の匂い
俺の有り余った熱い血がベンチの鉄パイプの錆と同化してゆくのを感じる
 あの公園デビューした母子の若妻の脇はきっと汗にまみれているだろうと想像する
子は母の胸ですやすやと眠っている
どうかあの母子を守ってほしい
俺はそのことだけを願い、二本目のワンカップの最後の一滴を胃に落下させた

愛想笑いをし、他者と別れた母子は安堵の表情を浮かべ
息を吐きだすと不意に俺を見た
一瞥し、そこに不快な視線が落とされ、俺はそれを見逃すことは無かった
これから苦行が続くのだろう、俺と同じような
あたりまえのように、公園の木の葉が舞い始め
これからは冬になるのだと言い始めていた


冬にむかう 三篇

  山人

葉が落ちた一本の木の梢である
小鳥はトリッキーな動きでせわしなく動いている
それぞれの木は葉が落ちて
痛いほどの残照がふりまかれ
すべてが黄金色と言ってもよかった

小鳥は群れと離れてしまったのだろうか
それでも口ばしを幹に突き立てて
ちいさな虫をついばんでいるようだ


正午を過ぎると日は傾き始め
鋭い逆反射の残照が降り注ぐ
影という巨大なものに身をささげるために
いたる木は裸になり口を噤んでいる

私はひそかに木となって
隣の小鳥を眺めている
ときおり狂おしく可憐な声を発しては動き
何かに怯えるように細かくぐぜっている

木から離れた私は歩きだしていた
鋭い初冬の日差しに打たれながら
鈍い痛みを感じていた




浮遊する冷たい空気の
時間を刻む音が聞こえてくる気がした
すべての色が失われた初冬は
まるで剥がれた皮膚
少しだけ血が滲み浮き出ている

すでに骨格すら失われた
白い水平線の向こうには
優しみがわずかに震えている

鼓膜に入り込むのは
生まれたばかりの仔虫の声と
潤沢な餌を持つ生き物たち

彼らの存在は命を持ち
声を発している
私はその傍らで
来る当てもない汽車を待ち続ける



雪が降る
この小さな心臓の真ん中に
冷たい塊を落としに

臓腑の中に冷たい湖を作り
その洞窟に船を浮かべるのは私
血が滞り血流は途絶え
白蝋色の手足とともに
私は武骨に櫂を操る

たとえば雪の粒が
小さな羽虫の妖精だったのなら
そのはらはらとした動きに
笑みさえ浮かべることができるのに
今はこうして
ばらまかれる針の破片のような雪が
私の頭上に降り積むだけだ

声帯すら凍り
ふさがれた唇は発話すらできない
浮遊する、意味のない隠喩が
私の脳片から出ることも許されずにいる

文学極道

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