雨が降ってきた。
やや強い降りになると、雨よけの庇は役に立たず、錆びた鉄の階段は濡れて滑った。手すりを伝いながら彼は一段ずつ慎重に足を運ぶ。古い木造アパートの、二階のとっつきの引き戸が細く開いて、女の顔が覗いた。
女は時折、窓辺の花をすっかり入れ替えた。30センチほどの奥行きの半間のバルコニーで、今雨に打たれているのは、7、8株の丈の高い白と紫のアヤメである。しどけなく開いた大輪の花びらに、雨は容赦なく沁みていき、深い緑の葉を光の雫が間断なく流れる。その窓から、ひと間の和室は深い沼へと沈み、降り続く雨音を遠く追いながら、彼らはひっそりと触れ合い、互いの魂の底に落ちていった。
* * *
老人は枝折り戸を押して細い道にはいって行く。両側の竹垣から山吹の葉が小道に向かってつんつん伸びている。既に開いた一重の黄色い花びらの間から、無数の固い蕾もまた、先端に蛍のように黄を点している。こうして花々は無言に、次の朝を、季節を、老いの命にも約束する。道の突き当たりに格子窓があり、どこか不釣合いな古びたレエスのカーテンが、中ほどまで垂れている。その下に置かれた青い縁取りのランプが、レエスの複雑な編み模様を浮かび上がらせている。夕闇が迫るにつれ、ランプの芯はオレンジを濃くし、傘のブルーを深くし、白いレエスの影を妖しくしていった。その窓に向かってゆっくりと歩を進める瞬間を、一日のうちで彼は最も愛おしんだ。こうして帰ってくるために、午後の散策を欠かさないのだというようにーー
食卓には、質素だが明るい手の届いた夕食が整えられ、既に食べ物を与えられた老猫が、目を細めて板の間に丸まっている。手伝いの女は、必要な家事を済ませ、食事の支度を終えると、決して彼と顔をあわせることなく帰っていった。その女が来るようになって、庭の景色が少しずつ変わって来た。(雨の庭に欲しいのは・・・)ふいに声がする。
雨の庭に欲しいものは・・紫陽花 芙蓉 ・・ボケ アヤメ ・・・・
睡蓮 山吹 ・・竹に苔 ・・・・・
下野 白バラ・・・・秋海棠 と 藤袴
まだ若い、身の定まらない日々に暮らした女がいた。
女は、ある日忽然と彼の元から姿を消し、それが置手紙とでもいうように、窓に吊るした一枚のレエスと青いランプだけを残した。彼は驚き、愁傷し、手を尽くして探索したが、やがて捜すことをあきらめてみると、女の去ったことが至極自然であるのを感じた。ランプの明かりのように、ボウと霞んだ女との日々が、彼の中に喪われていないことも。女は白い一塊の雲で、その頃彼を苛み、滅ぼそうとしていた黒い太陽をつかの間さえぎってくれたのだった。女が去ったとき、再び現れた太陽は、幼年期の白いまぶしい輝きを取り戻していた。彼の耳の奥で、絶えず鳴っていた蝉の羽音は静かな雨の音に変わっていた。
幾人かの女を愛し、生死の離別を重ねた間にも、彼はあの女が思いついては歌うように呟いていた雨の庭の花を、彼の中に降る雨に咲かせていた。(でも、雨の庭に一番欲しいのは・・・)女が言い終わらないうちに抱き寄せた夜に、聞き逃したただひとつの花の名を除いて。
* * *
暮れ残った庭に向かってひとり箸を動かしていると、また声が聞こえる。彼は耳を澄ます。いつの間にかまた雨が降り始め、猫が目を開いて彼を見ている。(お前も聞いたのかい?あの声を)彼は問いかけ、自らうなづいたが、老猫はむしろ彼の心を聴いているのかもしれなかった。
その一夜を雨は降り続け、明け方になって止んだ。子どもがわっと泣いた後の眼に映す世界の美しさが庭に満ち渡っている。いつの間にか、群生する青い竹と竹の間に、新たに一元の水引草が植えられていた。丸い水滴を宿した尖った竹の葉を縫って、朝の光が水引草の赤い点々を浮かび上がらせている。一度雨に沈み、光によってふたたび蘇ったそのあまりにも鮮やかな朱は、彼岸とし岸をつなぐきづなのように、懐かしい痛みを、彼の瞳に滲ませた。
最新情報
fiorina - 2006年分
選出作品 (投稿日時順 / 全9作)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
雨の庭
早春
水脈が 震えながら
その行方を探している
私は迎えに行った
小さい夜に
ー私は感じる
大地はどのように春を耐えるか
月光を誘う
密やかなざわめきを宿して 梢は
どのように眠りに触れていくか
輪郭を持たないおまえの季節を
憧れが
どのように苦しめているかーー
夜半に
いさかいのあと
夜半に林檎をむいて
夫と食べる
少し傷んでいて甘い
にんげんも
この方がおいしいかしらって言ったら わらった
一九年いっしょに転がっていて
わたしたち
すこしだけおいしくなったのか
あなたにも
傷や汚れを厭う季節があって
あのころはふたりして
沈黙の しぶい果汁をなすりあった
傷んだ林檎のとなりの林檎が
触れあった一点から
いつしか損なわれていくように
まろやかになってしまったね
耐えきれずに
今夜
変色したその一切れを
黙って口に運ぶ
あなたのなにげなさは
わたしが
獲得したものなのか
うしなったものなのか
いさかいのさなかに
忘れられない記憶の夜をたぐり寄せて
わたしが黙りこむと
すさんだ視線のさきをそらす口調で
(いつか観た映画の)
「死の棘」みたいだねっていったりするから
わたしは
表情をくずせないまま
和んでしまう
そんなわたしたちの棘は もう
死を孕まない?
なじんだ暮らしの舌に
ときおりしみる記憶のように
とがった夜の先端が
そっと触れているものが
歳月という厚い実に抱かれた種子のような
かなしみと やさしさを
思い出させるなら
皮膚のうちがわに棘を包んで
すこし病んでいること
すこし傷ついていることは
わたしたちの希望だ
祈り
かまどの火がはぜる 早朝のくりや(台所)で
家のあちこちに祭ってある神と仏に手を合わせる
ご飯が炊きあがると
真鍮の高台の小さな器に六つ
こんもりと盛り上げ
朝ごとに供えた
おなかの空かないらしい神様たちの残りを
温かいおひつの隅に戻して食べるのが
祖母と母の朝食だった
一年に一度
神や仏の道具はていねいに縁側に運ばれ
父の手で白い液体をかけて磨かれる
子どもたちも手伝った
傾いていく家で
思いがけない現金が残った年、仏壇だけが豪華になった
そんなにまでしても
不運は次々と家を襲った
世代が代わって明るい兆しのように生まれた子どもも
二つになったばかりで海に浮かんで発見され、
傍らにいた小さい兄が、心を病んでいる
暗い影は今も、大きな瓦屋根を覆っている
その周辺で諍いを重ねた大人たちは
皆仏壇の中に入って
祈りは形ばかりが残って
朝夕に遠く近く
手を合わせ続けた祖母と母
あれは何処に届いたのだろう
甘えん坊で怒りん坊だった私の兄は
悲しいほどやさしくなった
*
異国の町で
私のあだ名は「ひとりぼっち」だった
バスの窓から家々の庭に見とれ、終点で降りると
決まって山道に一人取り残されている
けれども
木々の間から
深い瞳のような空が現れるとき
祖母や母の祈りが
祈りを知らずに育った私の上に
ふいに降り下るのを知った
走り過ぎるバイクの群れが
「ボン・クラージュ!(頑張れよ)」と声をかける
夕暮れの町におりると
行き過ぎる若いふたり連れが
「ひとりぼっち」と、ささやいては振り返る
優しくもなく 冷たくもなく
海
さようならの せなかを押した
海がいってしまった
魚たちがのこされた
そこに 海が あったことを
かなしいめがおしえる
ごめんね
どうしてやることもできない
ふるえを止めること
乾いた目をとじること
せめて
魚よ
おまえに声があればいいのに
記憶があれば
そのちいさな頭に満ちている海
さいごの痙攣がやむまで うたうといいよ
むかし ここに うみがあった
いつか しぬことをしらずに
わたしは うまれた
【シャルロットの庭】
英国キューガーデンの一隅に
夏季だけその扉を開く小さな庭がある
広い園内を歩き疲れた頃 偶然たどり着いたのだ
入り口に置かれた木の長いすに
銀髪の婦人が斜めに腰掛けて 新聞を読んでいた
古い手紙を読むにふさわしい 夕暮れの
人気のない庭
痩せた少年の庭師が
紫の花株を手に
花をおいてはすこし離れて眺め
新しい場所を物色していた
一足踏みいるごとに 私は胸そこからの感嘆の声を呑み
足の疲れを忘れていった
流れていない音楽が
詩人の瞳が
死んだ恋人たちの 笑い ささやきが
一刻ごとに訪れては
去っていく
花のいろの沈んだ華やぎ
門柱
白いオブジェ
藤棚のトンネルを抜けると 小径は小高い丘へと続き
ふいに凍てついた遠景を見せる
重い雲が彼方の光りを包んでいた
2001年9月12日
新聞を読む人の眼が 何を見ているかしっていた
私たちを襲うもの
その予感も
起きてしまうことへの戦慄も
不意に自身がその渦中に置かれることも
遠く知ることも
此処でなら
私は・・・
いつか最も美しい場所も瓦礫になる
此処でなら
わたしはいい
ひとに用意された惨劇を知りながら 何一つ変えることができないとしても
それが起きるに相応しい 最も美しい場所をあらかじめ用意すること
此処でなら と死者が思い
あなたとなら滅びようと 場所がほほえむ
私の庭を領土として拡大する
そこに生きる時間を注ぐ
それが私の報復だ
春の手紙
さよならの風景は
あまりにも似ているから
昨日桜の樹の下で
だれに手を振ったか
わからなくなる
郵便配達が燃やした手紙が
風に吹かれて
わたしに届いた
燃えるよりほかに
仕方のなかった文字が
煙になって流れてきた
紙の上にあったときよりずっと上手に
わたしはそれを読んだ
郵便配達の使命は
手紙を配達しないことだ
届かない一通の手紙から
文字は溢れつづける
けれど
その手紙をだれが書いたのか
わたしは知らない
もう知りたくない
黒子(ほくろ)
父はきょうも縁側にいる。秋の薄い陽が射す柱にもた
れて、おかえりと笑う。
雨が降っていた。四角い荷を負って薬売りが来た。父は
棚から下ろした朱い箱を薬売りにさしだした。
その箱のいくつか欠けた薬のために、薬売りは金を請求
した。父は窮し引き出しをあさった。払いはするが箱を
引き取ってくれと苦々しくいった。薬売りはあとじさり
した。へらへらと去ろうとした。父は怒りたち、胸底の
塊をことごとく怒りにかえて、烈しくかなしく雨に打た
れる薬売りを罵倒した。薬売りは逃げ去って朱い箱のそ
ばに父は残された。
父は歌を詠んだ。療養所から歌の便りを寄せた。我が家
の山の青い蜜柑のことなどもうたった。こどもの知らな
い文字がいくつかあった。意味もたいていはわからなか
った。わからないままノートの新しいページに書き写し
た。その歌も写したノートもいつか失った。
ゆるされて家にもどった父は、どこからか内職を請け負
ってきた。居間の隅に積みあげた竹細工のさびしい光景
を祖母は厭い、背を丸めて余念ない、父の鮮やかな指の
動きを、祖父は憎んだ。祖父と祖母のこころは見えない
力で他の家族に伝播した。
また父はどこからか山羊を買ってきた。朝夕に、海辺の
道を山羊と歩んだ。日暮には手を蹴られつつ乳をしぼっ
た。その草の匂いのする乳を、鍋に温めて皆にふるまっ
た。
父は風呂に入るのを好んだ。風呂上がりに静かに横たわ
るのを好んだ。その白い肌のほくろを、父の全身にまつ
わりついて娘は数えた。ほくろは百もあった。それは遥
か幼い日の記憶。いま父は、ひっそりとしまいの湯に入
る。しまいは七番目。七番目に皆もう入ったかときいて
から入った。七番目であっても風呂に入るのを好んだ。
父は美しかった。
父は七十一にして逝った。病院と家とを往き来して、七
十一まで生きた。けれど兄姉の、五人の孫をついに抱か
なかった。ほほえんでさびしい距離を置き続けた。その
最後のひと月を思いがけず健康体と保証された。うつる
病を脱したと告げられた。父は驚喜し、体を鍛えようと
した。母に数かずの夢を語った。死の前のひと月を生き
た。
父の心臓はひそかに弱っていた。ある夜更けひとり起き
だして何ごとか酒にまぎらしていた。それは痛みだった
か不安だったか。その朝に果実をのどに詰まらせて父は
死んだ。
父の骨はなめらかに白い。その白い骨の一点にしみのよ
うなものを見つけた。病んだしるしの黒いあと、とだれ
かつぶやいた。ほのじろい生の日のさまざまな記憶、そ
の一点に集って、ああ、ここにまだひとつほくろがある
と、わたしは思う。
嘘
ありよ
命を守るために
おまえに与えられた毒は
そんなもので よかったのか
わたしの指先を
小さく刺しただけで
バラバラになったおまえ
おまえの不意打ちを ゆるす暇さえ
わたしに与えず
一度の嘘を
あのひとは ゆるさなかった
寂しさのなきがらになるまで
わたしに与えられた毒を
使ってはいけなかったのだ
どんな命も
そこにつながる 弱いところを持っている
その傍らに
ひかる武器がおかれているのだ
少量の毒が
おつかい
と囁くように
あなたの指先を
小さく刺しただけで
バラバラになったわたし
わたしの不意打ちを ゆるすひまさえ
あなたに与えず