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Migikata (右肩) - 2012年分

選出作品 (投稿日時順 / 全9作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


君と僕と君と僕と君

  右肩

   (1)

 どんな人生にも本質的な差異はありません、と平気で言う「君」とテニスをしている。

 跳ね上がったボールが緑の金網を越え金網の向こう、工務店の建物の二階、その窓の高さまで。落ちる力を蓄えるまでボールは上がり、「君」は半身を捻ってラインまで下がる。

 読者よ、次の場面を予想しなさい。たとえ言葉の上であろうと打ち返されたボールをまた打ち返すとすれば、ラケットから腕と肩へ、シューズから足首へ膝へ腰へ、心臓から肺へ筋肉の血流へ、衝撃は伝播する。テニスコートから随分離れた空間に、木星という巨大な質量のガス体がもし実在するのならば、そういう想像力に衝撃は伝播する。予想しなさい。

 「君」のガットが黄色いフェルトとゴムに包まれた、一・八気圧の球体を捉える。ボールがポクンと音を発する。世界が再創造される!さあ、来るぞ。

   (2)

 人間は生命という宿痾の、そのひとつの局面であるようです。と、「君」はアイスクリームの匙を舐めて笑った。金の匙。光るものを舐めることは良いことだ。

 僕はとても幸せだ。窓の外は春の日の雪。レストランの閑散とした広い駐車場に柔らかい陽光が射す。高層の強風に流されてここまで来た雪が、今は無風に近い空間をゆっくり降りてくる。

 形の崩れた大粒の結晶が、生きるもののように光の中を動き回る喜び。地表の放射熱で瞬く間に消え失せるはずの雪片が、斜めに飛び、微妙に浮き上がり、上下左右に錯綜して音楽を楽しんでいる。暫く音楽を楽しんでいる。
 
 父が死ぬ喜び。母が死ぬ喜び。僕も死ぬ喜び。僕が死んだずっと後、僕の知らない何処かで「君」も死んでしまう喜び。ぽろろん、とピアノが鳴る。

 「小さくて温かくてもぞもぞするものが、抱き上げられて胸に眠る喜び。」と「君」は言って、アイスクリームが載るグラスの縁をかちんと匙で叩く、金の匙で。このレストランは冬枯れのブナ林に囲まれている。

 読者よ、知っているね。「君」が総ての読み手の核心に言及していることを。胸郭のリボンを解き、ラッピングペーパーを開き、上蓋を持ち上げていることを。その中には無邪気なものがひっそりと鼓動し、或いは今すぐにもぺちゃんと潰れてしまいそうなこと。そのことも。


パノラマ

  右肩

 西武デパートの地下でおにぎりを二つ、紙パックのオレンジジュースを一つ買った。あなたはそれからエスカレーターへは乗らず、脇の長い階段を上り地上へ出た。早春。高層ビルの輪郭に雪催いの空が連続して視界が埋めたてられてしまう。ここは大気の層の最下層だ。もうすぐ十一時半になり春の雪が舞い、それから十二時になると雪がやむ。二時。三時。たちまち一日は終わり、次の日もまた次の日も終わる。そのうちに世界もすんなりと終わる。そういうことを予感しているのか、街を歩く人々は冷え冷えと濡れており、雑踏の街路も冷たく湿る。

 大通りから裏路地へ入った。エステサロンとバーが入る雑居ビルの一階に、時々利用するコンビニエンスストアがある。あなたは、先日通販で浄水器の交換用カートリッジを取り寄せた。それを思い出して、セカンドバッグから振り込み用紙の入った封筒を取り出し、ストアに入るとそのままカウンターへ行き代金の振り込みを済ませる。

「いらっしゃいませ。」
「三八〇〇円になります。」
「四〇〇〇円お預かりします。」
「二〇〇円のお返しと、こちら控えになります。」
「ありがとうございました。」

 昼食はもう買ってあるから、それだけで店を出て劇場へ向かう。シェイクスピアの史劇が一時からの開場を待っている。今あなたがいるところとは少し隔たった場所で、役者たちはもう鬘を被り化粧を終えてしまった。物語という大きな岩が山の頂でゆっくりと傾ぎ始めているようだ。やがて激しい崩落が、あなたの真横の席に座る人を押し潰し、人間の潰れた感情の飛沫があなたの頬や上着に点々と付着するはずだ。そういう我慢ならない事態になる前に、あなたはロビーの片隅で、ひっそりと昼食を済ませるべきなのだ。

 西武デパートの地下で、あなたのおにぎりとジュースを会計した三十代の女性は今、バックヤードで同僚の二十代の男性社員と黙って見つめ合っている。恋が始まった。やがて破綻する、未来のない恋だ。

 あなたは劇場正面の入り口へ向け、広い階段を上る。風が強い。円柱に巻き付いたクロムメッキの装飾用金属バンドに、色の薄い曇天が映る。階段を昇る十数人が風の音に合わせて肩をそびやかす。まだ寒いからだ。

 その階段の脇に立って、詩集を売ろうとしているのが僕だ。足元に小さなバッグを置き、中に十数冊の本を入れている。詩集の題名と「二千七百円」と値段を書いた、A4サイズのホワイトボードを首から下げ手に一冊を掴んで、階段を上り下りする人の前に突きだしている。愛想良く笑っているが、駄目だ。八分後に関係者に通報され、排除されることになる。公共の場を無許可で商業活動に使ってはいけない。あなたは僕に気づかない。大部離れたところを登っていく。

 「ブルータス、お前もか」という台詞が既に用意されている。カエサルがポンペイウス劇場の柱の下に倒れ伏すとき見た景色、失われた死者の視界の断片は今飄々と空を漂い、わずかな雲の隙間にきらめいている。東京市場の株価は大きく上下動している。架空の価値がやがて形を結ばなくなる。経済の柱が折れ、世界を支えるものもまた失われてしまう、死者の見た映像のように失われてしまう。

 あなたはそういうことを少しも思わないで立ち止まり、セカンドバッグの奥に押し込まれているチケットを探してみる。薄桃色の封筒に入ったまま二つ折りにされているはずのチケットだ。気候は循環し「そういえば池袋には桃の花の匂いが充満している」と雑踏の中の誰かが言っている。ただし、どんなに気になっても発話の主を特定することはできない。桃の花の匂い?もちろん少しもない。

 ロビーの自動販売機コーナーの横。長椅子に腰を下ろし、目立たないように紙袋からおにぎりを取り出していると、イタリアにいるはずの兄からあなたの携帯電話に着信がある。観劇のシートについたら開演前に電源を切るべき携帯電話。それが、ジャケットの内ポケットでマナーモードの振動を伝えようとしている。あなたの姿勢がちょうど携帯電話と身体の間に隙間を作り、なおかつ、凪いだ海のさざ波に似た人のざわめきが、あなたに着信を気づかせなかった。

 イタリアから兄が帰還していることを、この時あなたは知らない。兄に恋人がおり、彼女が生まれてほどない男の子を抱いていることも、男の子の頭頂、まだ薄い和毛の間に小さく鋭いピンクの突起があることも。何もかも知らないということの甘さ、それはオレンジジュースの甘さと少しも異なることがない。

 何処の誰とも永遠に知られることのない人が呟いていた桃の花の匂い。それも恐らく甘いのであろうが、存在しないものの存在しない匂いの内実について誰もあえて言及することはないだろう。


私はトカゲ

  右肩

 三錠分の言葉を呑み込もうとしていた。言葉の内実がそっくりえぐり取られて、喉を下っていく気配がある。言葉の内実をそっくりえぐり取って、喉を下していったので。
 まず一錠、のど仏のあたりがコクン。
 食道を下るものの、食道を下る様子をよく見ようとしたら、山崎さんの手を握ったまま、私の視界は内側へ反転し、山崎さんに、
「あら、三白眼。ん?白目。白目剥いてるよ、八重ちゃん面白い」と笑われてしまった。
 二錠め。三錠め。
 そんなことを言われたって、山崎さん、山崎理恵さん、あなたの内側だって、わたしが見ているものとおんなじ。こんなふうにピンクでねとねとして、うんと不愉快にしめってる。
 わかる?
 何かが身体に入る、それは頭を貫通する銃弾のようにはスマートに入り込まない。ダン、パパッ、プシューッとはいかないの。

 三白眼をくいっと渋谷の白昼に戻す。
 視界を取り戻すと物や現象を束ねる意識の箍が緩む。緩んで動く。
 くいくい。くくいくい。
 つまり、巨大な掌で揺すられるような感じで、街の構図も比喩的に振動したってわけ。うん。
 だからね、私ね、山崎さん、あなたに縋り付くようにしてずるずる崩れ落ちてるでしょ。いやん。何か色っぽい。あなたの柔らかいお腹に顔を押し当てて、下腹に向かってずるずるっといくと、股間から微かにあなたの尿の匂いもして。私は気持ちよくきもちよく内と外の刺激を反転し、やや攻撃的にそれを受容して山崎さん、あなたとあなたの渋谷を、ピンクでねとねとして生暖かい暗闇へ力任せに突っ込んだんだ。と。ゴトン。アスファルトに頭が落ちました。柔らかくありません。あいたた。
 とても赤みがかって、そして真っ暗。
「八重ちゃん、ヒトしてないよ。ヒトと言えないぞ、今。あの、もしもし。死ぬの?あなた死ぬことにしたの?」
 違うな、山崎さん。主観に死はありません。自分自身の死は神話的に創作されたもので、個人の中で不断に再創造されなきゃなんないから、つまり概念として存在するにすぎないんだ。知らないでしょ?理恵さん。
 死なないよ、私。死ぬつもりありませんから。

 身体を置いたまま、理恵さん、山崎理恵さん。あなたを残して私は渋谷の匂いを歩いてます。
 カレーの匂い、鶏肉を焼く匂い。それから麺を茹でるふわっとした湯気、その匂い。まだある。牛革のバッグの皺の寄った匂い。真っ新な衣服の匂い。もちろん人間やそうでない生き物の皮膚と様々な分泌物、排泄物の匂いも濃厚だ。都市の下水網、そのさらに地下にある水脈、地殻の下にもやもやと予感されるマントルの灼熱も。みな匂う。
 それらがまるで水彩の染みのように滲んで入り混じっている。聴覚もない視覚もない、肌触りすらない世界だけれど、私は確かに地表にいるし、私は確かに数万メートルの気圏の果てにいる。わかった。広大な出来事の総体が私でありました。
 改めまして、こんにちは。みなさん。

 私はトカゲです。目を閉じたトカゲ。目を閉じたトカゲの魂。目を閉じたトカゲの魂の、そのしっぽにあたる部分。
 私はこんなにわかりやすい神話として生まれたんだ。
 イザナギは今、天の御柱にじょうろで水をやっています。はしけやしまだきも小さき御柱に雨は降りつぎ風やまず陽はそそぎつつかげりつつ春の真ひるとなりにけるかも。
 空の高みまで湧き上がった砂塵。砂粒が水蒸気の凝結を身に纏い、地へ向かって鎮められていく。鎮まっていく。時間はトカゲの背に乗って、無明の湿地を進んでいます。
 泥の中に浅く浸るしっぽ。S字形に曲がったしっぽ。振り上げられてすぐ落ちてちゃぽといいしなまた動く。
 私の性欲は造山活動で隆起し、低粘度の熔岩を吹き上げながら愛している愛していますと泣いています。山崎理恵さん、あなたを。あなたのことを。
 愛していると。
「八重ちゃん、八重ちゃん。あなたここにいるじゃない。よかった。よかったよ。八重ちゃん、もうここにいないかと思ったよ」
 山崎さんは泣いている。
 私の頭を膝にのせて、体を深く折り曲げている。幾筋もの長い髪の毛が夜の扇状地に広がり、鼻をすするあなたの表情は歴史の彼方、朧に紛れて見えない。
 いいんだよ、泣かなくて。

 でも私はトカゲのしっぽ。
 渋谷は緩やかな谷間に身を潜めた極ささやかな建築物の時間的不連続帯でしかありません。
 理恵さん。あなたも私も。


視座 〜もしくは「哀傷」〜

  右肩

 梅雨雲に僅かな濃淡があり
 鳥が平野を突っ切って飛ぶ
 早い
 三羽が飛んでいる

 この景を任意の点Pとして
 年数ミリの単位で
 中心点Pの円軌道上に推移し
 世界は終末へ収束しつつあるが
 時間の総量は、まだ
 全世界
 全金融機関のもたらす
 通貨流通量をもってしても
 購いきれぬほど
 巨大である

 巨大な塊である

 その総体の一部としての自覚を持ち
 腕時計も外さずに
 ひとつの個体が野に斃れると
 転がった首の視界に
 ネジバナの螺旋は殊に精緻だ

 茎に沿って花の作る小径を
 救済がぐるぐると
 空へ登り
 救済はぐるぐると
 そのまま降りてくる
 虫媒のない孤立した自家受粉が
 花の遺伝子を次世代に
 繰り越すだろう

 悲しいことに
 この視座から感知する世界は
 清澄に過ぎる
 可能性は可能性のまま
 奥行きのない二次元に固着される
 親しい人が亡くなるとき
 遠く離れた場所でその声を聞く、と
 多くの人が語るが
 ここからは、それらは
 記憶の逆流、もしくは
 不正確な疑似シンクロニシティとして
 確述される
 海に落ちる氷河の先端のように
 人は
 広大な不可知の領域へと
 永久に失われるのだと


 読者であるあなたに
 耳もとで囁くのならば
 人が
 永久に失われたあと
 どうなるかというと

 「それきりだ」



*** *** *** 以下訂正前 *** *** ***

 梅雨雲に僅かな濃淡があり
 鳥が平野を突っ切って飛ぶ
 早い
 三羽が飛んでいる

 この景を任意の点Pとして
 年数ミリの単位で
 円軌道上に推移し
 世界は終末へ収束しつつあるが
 時間の総量は、まだ
 全世界
 全金融機関のもたらす
 通貨流通量をもってしても
 購いきれぬほど
 巨大である

 巨大な塊である

 その総体の一部としての自覚を持ち
 腕時計も外さずに
 ひとつの個体が野に斃れると
 転がった首の視界に
 白ネジバナの螺旋は実に精緻だ

 茎に沿って花の作る小径を
 救済がぐるぐる
 空へ登り
 救済はぐるぐると
 そのまま降りてくる
 虫媒のない孤立した自家受粉が
 アルビノの遺伝子を次世代に
 繰り越すだろう

 悲しいことに
 この視座から感知する世界は
 清澄に過ぎる
 可能性は可能性のまま
 奥行きのない二次元に固着される
 親しい人が亡くなるとき
 遠く離れた場所でその声を聞く、と
 多くの人が語るが
 ここからは、それらは
 記憶の逆流、もしくは
 不正確な疑似シンクロニシティとして
 確述される
 海に落ちる氷河の先端のように
 人は
 広大な不可知の領域へと
 永久に失われるのだと


 読者であるあなたに
 耳もとで囁くのならば
 人が
 永久に失われたあと
 どうなるかというと

 「それきりだ」


まだ見られる・もう見られない

  右肩

 両腕を真っ直ぐ垂らして、直立していました。左も右も、瞼はずっと開いたままでした。
 北半球の一角では巨大な雲が連なりきれずに途切れ、ややあって空間に青い領分が拓かれてゆくのでした。その光景を直接見ることができたわけではないのですが、そういう認識がどうもここら辺りにあったのです。
 もし雲というものが、三十数度の傾きで上を眺める視線の、その先を遮り続けるのなら、次のように言うこともできるでしょう。
「遮られた視界の、遮られた論理の向こうに実際にあるものは、月ではなく、こことそっくり同じ地球であるはずです。」と。
 今は、そういう無根拠な推論が、健康な咀嚼のように記述されています。愛とはそうしたものだ、と無根拠に推定しているから、だからそんなこともできるのでした。
 車のステアリング・ホイールの外縁は、フィクションとして記述されたもう一つの地球と同じ、円の外周の体裁をとります。エンジンをかけたら車を出しましょう。夜、荒野の一本道を何処へともなく走り去って行くために。もちろん車に乗っているのでは不特定の何処かへと去ることはできません。自分の乗る車から置き去りにされてみて、取り残された誰かとして見送るのですね。
 直立して見送るもの。瞼を開いたまま見送るもの。どうしようもなく地表に棲むもの。
 その頭蓋の中には、知覚の中枢として白い芋虫が収まっています。柔らかな体が薄い皮膚にきゅうきゅう押し込まれ、はちきれてしまう恐怖に自らもがく、そんな生き物です。腹の下部には退化して用をなさない脚。たらたらと吐き続けられる糸。この虫の容積の大部分は腸に占められており、食い破られた葉の断片が溶解しながら長い腸をゆっくりと移動していきます。いくぶん比喩的ではありますが、これはつまり時間というものの顕現です。
 こことあちらとの境目で歌姫は歌いました。こことあちらの境目は、霧の立ちこめる海が空に溶け出しているように不分明です。歌姫は次のような歌詞で歌っています。

 マリアよ、あなたという性別のないマリアよ
 あなたは産むものになるべく生まれたの
 されたこと したこと見たこと見られたことを
 みんな細かく区切りなさい
 細かく細かく区切ったら
 もう何もかも許されず、まだ何もかも許される
 主よ、母に先立つ子よ


私たちもあなたたちも、彼ら彼女らも、みな眼鏡を探す

  右肩

 あるはずのない眼鏡を探して手を伸ばしていますね。枕の脇は探しましたか?洗面台の隅、歯ブラシ立ての辺りはもう探ってみたでしょうか?机の上、モニターのすぐ下のところ。昨日着た綿ジャケットの胸ポケット、そこも確かめてみるべきかも知れません。内ポケットにもなかったら、もっと手を伸ばさなければいけなくなります。
 長い廊下の向こうの部屋、さらに向こうの部屋。薄暗闇をたどっていくと、夫のような妻のような人物がソファに沈み込んでTVを見ていたり、息子のような娘のような人物が裸で立ち尽くしていたりするかもしれません。その鼻先を掠めるようにして伸びる腕。探される眼鏡。眼鏡は何処にあるのかと、家の庭先の十薬の茂みをかき分けます。処暑の日の太陽がようやく勢いを失い傾いていく。今日の日輪は西に没して死に、もう二度と甦らない。闇がやってきます。密生する草の葉の根元辺りは既に十分に暗く、生まれたての蟋蟀がほの白く蠢いています。湿った土の上に眼鏡はあるでしょうか?ありません。
 ここまで描かれた、一枚の絵のような世界に安住していたら眼鏡は見つからない。それはわかる。約束のメモが幾枚も破り捨てられ、あるいはシュレッダーで処分され、もう眼鏡があっても読むときは訪れません。そもそも、約束されたその日はやって来ないのです。粉々になった木や、石やコンクリート。くすぶっている燃えさしや、今まさに燃えているものから黒い煙が立ち登っている。悲鳴が上がっている。言葉がもつれて痙攣している。そういう街の路上ならば、必ず眼鏡は見つかるのです。それもわかっていることでした。
 愛し合うときには眼鏡を外します。より官能的なキスのためには鼻も邪魔ですが、それ以上に眼鏡が邪魔になります。息に曇った眼鏡、その蔓が耳からずれて、甘くくぐもった声を聞きながら記憶の深みに落ちていったのでしたね。忘れていたことはすべて、すすり泣きが思い出させてくれます。どんよりとした暗い瞳が、壊れかかった建物の窓やベランダから、いくつも、こちらを眺めていたのでした。すすり泣く声は表に立つ人の背後、部屋の奥に隠れている人たちの、その喉の深いところから漏れてきているに違いありません。でも、こちらは仰向けに斃れてしまっているので、それが何処の誰のものか、ついにわからないままで終わります。
 斃れた身体の近くを探ってみても、ほんの数センチくらいの差で眼鏡には届かないはずです。数センチは長い。やがて身体の中に滑り込ませた指は剥き出しになった骨に行き当たるでしょう。眼鏡ではありません。今となっては眼鏡はあるはずのないもの、あってはいけないものなのです。
 さて、空の高いところでは凝結した水の粒子が、ようやく目に映るほどの密度で白くもつれあいながら、いくつかの大きな形を描いています。冷温の強風にさらされる大気の高層で、その一部は筆で刷いたように毳立って。この雲の有様が愛というものだ、ということが段々と誰にもわかってくるのでしょう。
「雲を感じるのには、眼鏡も眼球もいらない。肉体のどの部分も必要とされません。」
 そういうふうに聞かされると、それはそれでいいような気もしてくるから不思議です。ね?


ミライ

  右肩

 僕は未来からやって来た。だからこうして歩いている街は廃墟であり、この空間を埋めて流動する人はみな亡霊である。

 建物の間のわずかな更地や、街路の植え込み、狭隘な公園に見えるひと塊の草の密生。そこに鳴くエンマコオロギだけが、僕にとって直接の知己だ。僕の暮らす未来の荒れ地にも、小さなエンマコオロギがまったく同じ音で羽をすりあわせているからだ。黒い外皮が包む体の中に、さらに微細な歯車をぎっしり内蔵し、それらが忙しく噛み合って動作していることも変わらない。

 僕は都市の遺構を破砕し、激しく繁茂する未来の植生を知っている。巨大な葎や茅、蓬の類、太々と肥えた蔦の蔓。草の葉も茎も奇妙に変形し、輪郭は一つとして滑らかな連続を得ない。
 火災の後に繁茂した陽樹と、それを押しのける陰樹の大木。地に潜るかと思えばたちまち跳ね上がって露出する走り根。その根の支える樹皮のただれた幹も、みな傾きねじ曲がっている。甘酸っぱく淀んだ熱気が地表に垂れ込めて、やがて来る凄まじい勢いのスコールを静かに待つのだ。
 そんな夜にもやはり虫が鳴いている。

 この交差点の信号機の信号部分はやがて焼け落ちてなくなるが、鉄柱だけが頑強に生き残り、夜も昼も真っ黒いシルエットとして直立する。今はまだ美しく点灯する青色燈を眺めながら僕は横断歩道を渡る。左右に停止する車列に転覆した車はないし、何よりどの車にも生きた人間が乗っている。

 正面にあるコンサートホールは一階部分が潰れて地下に陥没し、屋根は半分も原型を留めず内部の客席の上へ崩落してしまう。生き埋めになる人々の、泥と血に塗れた呻き声。程なくその上に大粒の雨が降り注ぐ。死んでしまった人たち、いや、これから死んでいく運命にある人たちよ、みんな、すまない。僕はあなたたちのために何もしてあげないのだから。
 しかし、当面は良い。そうなるのは今日明日の差し迫ったことではない。

 待ち合わせてホールの座席に着いても、あなたははっきり僕の方を見なかった。緞帳の下りている正面の舞台をじっと見据えている。昨日僕とあなたは何かの理由で互いに傷つけ合い、それが今日まで尾を引いているのだ。「怒っているの?」と聞くと「別に。」と答えるだけであなたは頑なに押し黙る。「そう。」とだけ僕は返していた。

 未来から飛ばされてくる途次、僕はあなたの死骸を見ているはずだ。変色した皮膚ののっぺりとした広がりの中にあって、両眼も唇も固着した亀裂に過ぎず、瞼の裏から眼球が、唇の裏から歯が僅かに覗く。感情を移入する余地のない、即物的な造型が持つ不思議に、僕は深く打たれたはずなのだ。そして今、怒りを押し殺すという所作において、あなたはあなたの死骸と良く似た相貌を形作りながら、まったく逆に、生気に満ちあふれて見える。辛いことである。

 而ルニ、女遂ニ病重ク成テ死ヌ。其後、定基悲ビ心ニ不堪(たへず)シテ、久ク葬送スル事无クシテ、抱テ臥タリケルニ、日来(ひごろ)ヲ経ルニ、口ヲ吸ケルニ、女ノ口ヨリ奇異(あさまし)キ臭キ香ノ出来タリケルニ、踈ム心出来テ泣々ク葬シテケリ。其後定基、「世ハ踈キ物也ケリ」ト思ヒ取テ、忽ニ道心ヲ發(おこ)シテケリ。
(『今昔物語集』巻十九・二)

 客席の照明が落ちてから、緞帳が開き演奏が始まるまでの間、僕はあなたにキスすることにした。短く、長いキスだった。あなたは何も言わず、僕も何も言わなかった。僕が何も言わなかったのは、自分がひどく混乱し、しかもその混乱は沼の水面を掠める風、そこに立つ波でしかなく、心の本体は膨大な容量の水の、その総体として暗く沈黙するほかなかったからだ。

 ぼやけた月が凄まじい早さで夜空を渡る。雲ばかりでなく濃紺の虚空も遠山の輪郭も足元の暗闇も、どこも歪んで渦巻いている。堆積する土砂の起伏から幾本ものビルディングが立ち、それらもことごとく漆黒のシルエットだった。言葉もない、文字もない。音はあるが音を聞き取る人がいない。風の音、遠雷、ものの崩落する音、断続する天象地象の揺動の間隙を、コオロギの声が充たしている。

 緞帳が上がり始め、ステージの上の様子が見えて来る。最初に目に入ったのは何本かの奏者の足、それから足の間のバスサクソフォンの一部だった。金色に輝いている。


愛と汚辱と死と詩

  右肩

 俺がこの
 雷鳴轟く国に後ろ暗く帰趨し
 呑み込み難い大目玉を呑み
 破廉恥な音声の円錐形が
 そのとき、あのときのように
 喉に着火し
 糸杉の林よ
 太腿よ
 股間にきらめく悪意の陽射しよ
 お前の記憶のあれに
 黄ばんだ犬歯の鍵盤が
 音階を羅列して揃い
 苦いシンフォニーを噛み千切れば
 頭蓋内部に隆起する漆黒の山脈
 その穢れた稜線を
 火が走り炎の曼珠沙華が奔り
 焼ける天界の大魚、人の
 指
 肉や髪を焼く臭いを纏うお前の指で
 俺は激しく射精し
 一隅も残さず赤光する冥界
 言葉が無闇に鳴り響けば
 切られたあれらの首が
 泥塗れの前頭野に密集するのだ
 これこそ
 胎内の結石に封印される言霊の王国の実体に
 ホカナラナイ


  二度と歩けない足もとに
  微細な死の点が次々に打たれ
  ぽろぽろと
  ばらばらと
  盆地の街が
  やがて時雨れる

  (時雨るるや 地にこまごまと雨の染み)

  夢より軽い雨が
  京都を通り過ぎる
  右手中指の
  爪もまた
  割れている
 
  愛は人のカタチに集積する時間の
  薄暗い破片である
  という着想を得た


悲さんノ極み

  右肩

 僕 は起 ち 上がった
 濡れたコんク
 リートの壁が囲 む徹底的に 冬であるベッ  ドから
 立ち上が っ  たまま泣  いた
 そ  れ はぼ くガこれから ご
 わごワの 凍え  たズぼ ンをはき
 ほ か の多   くの人 人と と
 もに未 明の街ノ狭
 い 通  路を縫っ  て白い夢幻のガ すのたちこ
 めた駅へ行くから行く
 からだ
 着  け    ば巨 大な蒸 
 気機  関車
 に繋がる無蓋貨物車にほ かの 多 く
 の 人人人 とと  もに押し 込 ま 
 れそ  ノ  日  のそノ 時の
 すすけタ すけすけタ スケ ジゅール が 
 はじ ま
 る
 幸せトイフ  ×益 ×液 ○駅 へ
 向 かうもの うつ      向くも
 ノ
 ノ
 ハク ちょうのヨー に
 長 い首デ 

 冬の壁   冬ノ壁   冬の壁  

 デある水面へ 俯く者 の
 汚辱  を君
 知るヤきみ シルや
 ほ か の多   くの人 人と と
 もに ぼ く は
 無蓋貨物車 にノッ 
 て 清潔な
 コウ場 ヘイ く のだ
 (マルい タイ 陽!)
◇お喋りと茶目っ気と愚劣な唄と踊りと精液と排泄物をアウトプットしに行く搾り取られに行く凍えさせられ肉を固く締まらせられるために行く煽てられ罵られ箱に詰められ紐を掛けられるために行くメスとピンセットで三十センチ四方ぶん内腿の皮膚を剥がされるために行く乾いた口に乾いたパンをねじ込まれ口の粘膜をやたらと傷つけられるために行く◇
 空 に鉄輪が回る 雲の
 尻 尾 が巻き込まれ 雲の
 身 体 がヒき 攣れる
  僕ノ手ノ甲に
  有刺鉄条網ノ
  影が映り影に
  影ノ鳥が絡め
  とられている
 僕 ハコ れから
 コウフク と 歓
 楽 を 極メ に行か さ れる
 コウフク の方角 へ スパイク
 で尻をケリ飛  ば  さ  れ 
 ルノ
 ダダガ行かない こと は 許され
 ヌ
 と 自 分 でそう 
 キメて い   る
 アンド ロイド の 恋人と
 脳 の 金属 端子から直接響く音楽
 と (       )を 
 と (       )を 
 与えらレ
 メ に ミ エぬものすべてを
 さくしゅされ テ しまう
 そういうコー
 フク を僕
 は エランだ
 他の 人 は
 選んダ

 ドアを 開 ケ ると
 厚 厚 ク 薄 薄 イ 雲 雲
 ノ下ノ
 此処に
 通信塔が何本も立って視界を塞ぐ
 高周波の一部は可聴領域に漏出し
 耳鳴りのようなものがやまない。

文学極道

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