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んなこたーない

選出作品 (投稿日時順 / 全7作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


(無題)

  んなこたーない

八月が来て最初の雨は
いつも季節はずれにひどくつめたい

あなたをのせた客船は
すべるように岸からはなれていった
はなやかな号砲も
色鮮やかな紙テープの用意もなく
みずからの影にひきずられるようにして
しずかに岸からはなれていった

たとえば愛が終わるとき
生牡蠣色に塗りつぶされた心が
果たせぬ航海の夢を見送るとしても
ますますひろがってゆくばかりの距りの
そのとりかえしのつかなさに比例して
雨脚はいよいよ強さをましてくるのだ

どのようなちからがあなたを去らせたにせよ
ぼくが泣きたくなるのは
冷めない微熱のその悩ましさのせいではない
ぼくが泣きたくなるのは
この海景のしずけさのせいだ

ファインダー越しに覗いたぼくらの場所は
HereでもThereでもEverywhereでもない
パンフォーカスされた静止画のなかで
雨だけがかわらずに降りつづいている
乾いた八月の雨だけが
いつまでもかわらずに降りつづいている


(無題)

  んなこたーない

彼女は通りを歩いている。
あたらしい長身の恋人と。
覆面レスラーは、オートバイで疾駆する。
ここは最後のFrontier――、
写実は終わった。ぼくは生きよう。



ぼくは生きよう。
クレテックたばこを
たてつづけに何本も吸ったりして。
ペリカンの生態に興味を覚えたら、
そのまま図書館に駆け込んだりしよう。
アンドレ・バザンに
不純な親近感を抱いたかと思えば、
アリバイ工作に画策したり、
ふと、じぶんのいまの年齢に
驚いたふりをしてみたり。
年甲斐もなく、デリケートに髪を逆立てたりして。
ときには、モンローウォークで、
サンシャイン・シティの地下歩道を、
ひとり、悠然と逆行しよう。
だれもぼくに追いつけないように、
ぼくはだれにも追いつけない。
冷酷なゼノン。
ぼくの時空間は、あくまで卵型した
伸縮スポンジにすぎないのだから、
ああ、気がつくと
吐気とともに
未明のタクシーで眠っていたりする。
あるいは、
ステージ上に積み上げられた、
何台もの100Wアンプスピーカーが、
スローモーションで、
背後からなだれてきたりする。
夜には、甲板から
はじめて自由の女神像を見上げる移民のように、
空を仰いで、
幾時間も流星探しに熱中したりする。
宇宙は無限の沈黙だから、
それでも、ぼくが戦慄するのは、
ときおり乱れるパルサーと、
この都市の奏でるタムタムが、
16ビートでリンクするからだ。
眠れぬ夜に、いつまでも目醒めたものたちが、
指鉄砲をポケット越しに乱射するからだ。
16ビートでダダダダダ。
しかし、14歳の終わりころから、
シンコペートを身体全体で覚えてきたぼくは、
スカした表情でうまく立ち回る。
だけどそのとき、ぼくの角質層は、
ひどい粘液性を帯びるだろう。
跳躍と重力が均衡すれば、
ぼくの空中ブランコは、
いつまでも、
虚空に手をさし伸ばすだろう?



ここは最後のFrontier
だれもかれもがDrifter



彼女はあたらしい恋人の前で、
はやくも膝を折るだろう。
オートバイで疾駆するなら、
レスラーよ、覆面よりもヘルメットをかぶれ。
だれもかれもがDrifter――、
ぼくは生きよう。1千万の女たちと、
散文的に、唇と唇を寄せながら。



形而上の信念を捨てろ。
賭けの味気なさを知れ。
大切なものは奪われるのだから、
失意のエクササイズに、時間を割け。


June

  んなこたーない

「いつかある日、(あらゆる)街灯に
          点火されることが忘れられる
    だろう」と
だけ、
書きのこして
ひとりでに椅子は傾いた
カーテンがまぶしげに揺れていた



コーヒーカップの底に沈んだ
よく晴れた日の
青い空から、
雨つばめがさかさまに墜ちてくる
身を乗り出して
砂に埋もれる恋人の、淫らな
シルエット
その膕を渡る風
を見た

(フェルナンドは軽やかに境界線を跨いでゆくのだ)



ときには
刻々とせばまる陽だまりのなかで、
リボンがほどけることもあった
「てのひらの<June>、それさえも」
濡れそぼる翼の一撃が
だれかの捕鳥網と重なりあって
それから
永遠に離れていった



花綵の陰から、
  航海の巣から、
フェルナンド! フェルナンド!
「日没の街に
 明かりを絶やさぬために
 ぼくらは管制塔のように興奮し、
 植栽試験場のように、ひとりずつ
 他人の卵から孵るのだ」

目のくらむほどに、まばゆい「その、
 けばだつ火災」が
<Soundtracks>

「日は短く、
 夜は長くなる
 思い出せ」



室内を洗い
天井をながめ
それから
ゆっくりと立ち上がり
身を乗り出した

フェルナンド
いまにもほどけそうな
夕凪の水面に
さかさまに墜ちてくる街の明かりが、
いっせいに灯るのを
見た
フェルナンド
かざすてのひらに、いまもまだ
まぶしげに揺れている
のを、見た


Time is moneyまたは放蕩息子の歌える

  んなこたーない

*朝の歌

Time is money
と知りながら、
I'd spend my whole life sleeping
ねむりつづけた。
夢の中では、
鍵穴越しに稲妻が垂直に走るのが見えた。
盗んできたレズビアンの人魚を犯そうとした。
彼女は抵抗せずに、ただ何かを叫んだが、
その声は雷鳴にかき消され、目覚めたあとになってから、
彼女が唖であることに、突然思い当たるのだった。

9:00 a.m.
寝過した朝は、いつもきまって
底抜けに晴れあがっている。はなだ色。たいらかな空。
どんなにつまらない夢もけっして安価な買い物ではないよ。
Time is moneyである以上、
無償で手にしたものなどひとつもないのだ。
しかし、たとえ一期が夢だとしても、
狂うかわりにまじめくさって、
いまは駅の構内を走り抜けるぜ、
乗り逃がした通勤快速は夢なんかじゃないんだからね。

走れ、走れ、度重なる遅刻が減給対象であろうとなかろうと、
TimeをMoneyに兌換するため、
I've been working like a dog
ステットソン! 犬は人類の忠実な友だよ、
放蕩息子もときには吠えるぜ。
こんにちは、すばらしきパイプカットの広告塔!
吠えないときには、放蕩息子も
利殖のHow to本を手にとるよ、
離職した同僚たちに電話をするよ。
「御機嫌よう! 生きているにしても倒れているにしても――、
 それでも、億万長者になって金の使い道に困るような時があったら、
 いつでも遠慮なく連絡してくれ」
むろん誰からも連絡は来ない。
個人から大企業まで、暇の押し売りなら事欠かないが、
TakeとはGiveするためのいわば消極的な承認にすぎない、
と言ったのは誰か。
誰に言われたわけでもないが、
I spent my whole life guessing
Time is moneyである以上、
人づきあいにも貸し借りは極力避けてきたのだ。
あらかじめ別れは済んでいる……
その原則を律儀に守り通してきたのだ。
おかげでひどく印象の薄い男になったが、
放蕩息子は幽霊のようなものだから、
こうして満員電車で足を踏まれる恐れはないのである。
長生きするさ、人類が幽霊を抹殺するまで。
こんにちは、瑕疵ある新婚生活の貸借表!

*夜の歌

凍てついたケヤキの木が、
十二月の鈍い電飾にさらされている。
まばらになった葉のざわめきは、きらめく結晶となって
氷雨のように地面を濡らしている。
みんな、ここに詩人がいるよ!
それというのも、いまだ書かれていないもの、
それはみずからを不可能にするものであり、
かれはそれを書くことによって、おのずと破滅者の、預言者の、
相貌を帯びてこざるをえないのだ。
ああ、ここには批評家さえいる!
疲れたこころとからだは、あらゆる文学に敵意を燃やす、
暖をとるために。書記形式のモナド、モナド、モナド。
残業明けの感傷的な時刻をやり過ごし、
放蕩息子は家路を急ぐぜ、
I'll spend my whole life sleeping
犯しそこねたレズビアンの人魚に、
まだ別れは済んでいないんだからね。


恋の終わらせかた

  んなこたーない

 停車場では
ねむりたくない
 雪の降る体育グランドに
三脚カメラが立っていて

 あの人たちは
バナナの皮をむいている
 ばしゃばしゃと泥水に手をひたし
ぼくらはガードレールをこえた

 あれはいつのことだっただろう
何曜日? 何時何分?
 だれも知らない
たえず赤信号に監視され

 スプーン曲げの要領で
きみはぼくをなだめたけれど
舌ばかりがだらっと垂れていて
しびれていた

うす青い草のいんきのにおいに
それはなぜ?
やさしさは癌細胞のようなものだから
ぼくらは浴室で背骨を磨いた

 きみをむしばむ
虫歯のようにありふれたもの
 歯科医のようにありふれたもの
その正体をぼくは知りたい

 なのに鉤が折れ 鉤が折れるたび
パイプ椅子らがゲラゲラ笑い
 きみはすさまじい速度で枝葉をひろげ
みずからの茂みで毒草を育てた

 いっそ太陽氏の自我にはうんざりするね
サイレンが砂絵を吹き消せば
 玉葱の汁が襲撃してくる
教えて 雲に歯型をつけたのはだれ?

 川岸の鉄線が錆びるころには
歯車みたいに羽虫が飛び交う
 精巧な時のチクタクのなかで
ぼくらは溶接の火花をながめた

 それでもエスカルゴ型した耳の奥から
聞こえる 幽霊たちのタップダンスが
 物陰にひそんだぼくらの身体が
乳白色に液体化すれば

 なのに夜空は検眼表 何も見えない
何も答えない どうして?
 どうして? と炭酸は弾けるけれど
棒杭に身をあずけ 白い息を数えていよう

 まるで触れればぼろぼろ崩れる壁に
なったような気分だ
 でたらめに神経叢をなでられて
踏切のところで ぼくらは

 ぼくらの悪い遺伝ともども別れを告げた
きっといまでも
 汚物のうえで足を踏み鳴らせば
氷片がきらきら光るのに 地球は回るのに

 あの人たちはバナナの皮をむいている
いわば倒立する亀のシルエット
 よりも悪趣味に
ぼくらの恋は脱臼したのだ

 ぼくらの恋は脱臼したのだ
一息でタバコを灰にしてみても
 「手は欲望を反映している」
ならば扁平野郎は死ぬまで勝手に

 抱きあっていろ! これからだぞ!


ベースボール

  んなこたーない

最初は平凡なライトフライだと思った。
しかし打球は八月の太陽に吸い込まれると、思いのほか、その滞空時間を伸ばした。
右翼手がスローモーションでそれを見送る。
やがて白球は静まり返った観客席の中段あたりに落下した。
時間がふたたび溶解するのは、それからしばらくしてである。
逆転サヨナラだった。
鷹揚にグランドを一周する背番号24に、ぼくらは惜しみのない喝采を送った。
ぼくは6歳。隣で弟を肩車しているのは、今は亡き若い父である。
もうぼくは彼の顔をうまく思い出すことができない。
ぼくは母の膝の上に座っている。まだ若く、髪が長い頃の母である。

父の人生は送りバント失敗のようなものだった、と、ぼくは考えている。
ぼくは16歳。毎朝、駅前へ抜ける道の角を曲がるたび、そこに面した家の飼犬に吠えられている。
父が大学紀要に載せた「戦前・戦後におけるヴァレリー受容とその変移」は無味乾燥としていて読むに耐えない。
葬儀の間中、弟はなんども欠伸を噛み殺している。
その様子を錯覚したのか、ひとびとは憐れみに胸を打たれているようだ。
数年ぶりに会った母は、すでに苗字が変わっていて、敬語でぼくに話しかけてくる。
A failure――、ぼくは呟いてみる、A failure――、と。

ぼくは26歳。代打要員である。
しかし新しく就任した監督は、ぼくの名前すら覚えていない。
ぼくは傍観者の目つきで、グランド上の選手たちの姿を眺めている。
ゲームは一進一退、白熱した緊張感と共に回を重ね、そして誰もぼくの名前を知らない。
ぼくは控え室の鏡の前で素振りをはじめる。
「誰にでも、生涯忘れられない一球がある」
それはかつて父がぼくに教えてくれた唯一の人生哲学である。
「誰にでも、生涯忘れられない一球がある」
内角高めに喰い込んでくる剛速球をイメージしながら、ぼくはもう一度バットを振った。
芯で捉えた打球は、緩やかな放物線を描くと、そのまま満員の観客席を越え、場外の彼方へ飛び去っていった。
ぼくは26歳。来月には妻の出産予定が控えている。
そうして、できるだけ高く
バットを放り投げたあとで、ぼくは、
ぼくの背後で沸き起こる、聞こえないはずの大喝采に、
しばらくのあいだ、耳を澄ましてみるのである。


ある邂逅

  んなこたーない

 梅雨のあけきらぬ、むし暑い、凪いだような午後である。

 植栽試験場にしのびこんだ私は、整然と植えられた草花の、咲きはじめた花弁に手を触れていた。
 「もうじき満開ですね」
 声がしたと思うと、老女は私のすぐそばまで来てかがみこんだ。
 まだ五分咲きといったところだが、しなだれた葉の色褪せた内側から、肉厚の花弁が濃淡をまじえながら漏斗状に折り重なり、見ていると、かすかな風にも反応するのか、たえず揺れ動いているようである。
 「なんだか生きているみたい」
 「身悶えているのよ。欲望に関しては動物よりも植物の方が露骨なものね」
 老女の言葉は私には耳新しく響いた。精緻な形態となった、欲望の塊。
 「なんていう名前の花なのかしら」
 老女はそれには答えず、にっこり笑うと手近なところから花を一輪むしりとり、素早い動作でそれを口へと運んだ。
 「あら」
 驚いた私の声にも老女は一向に頓着する様子はなく、平然と咀嚼をつづけている。それがあさましい行為に思えて、私はたまらず目をそらした。
 「ごめんなさいね、あさましくて。でも歳をとるといろいろ箍がはずれてきてね、まあ痴呆の一種でしょう」
 老女はうかがう姿勢になったが、その表情には華やかな艶があり、瞳をまぶしげにうるませて、身体にはなお不遜な線が折り畳まれている。
 「退行現象っていうんじゃないかしら。いずれにしたって、はしたないわ」
 「あなただっていまにそうなるわよ。それに言ったでしょう、花は身悶えているのよ、って。綺麗だと思ったなら遠慮なく食べてしまばいいのよ」
 私は苦笑した。
 「そう簡単にはいかないわ」
 「あなたはまだ物事を美化して考えているのね」
 老女は立ち上がると、私をうながすように歩きはじめた。しっかりとした足取りである。

 「べつに美化しているつもりはないわ。私だって五十を前にしてそれなりの苦労はしてきたつもりです」
 それはほんとうのことだった。大きな事件でなくともよい、ほんの些細なことであっても、それが日々積み重なってゆくうちに、いつしか、単純に泣いたり笑ったりしてすませるわけにはいかなくなっているーー、長く生きていれば、だれだってそうした事情をいやでも学ばざるをえなくなるものだ。拠りどころのない感情生活の只中で、それでも負担は新たに増えてゆくばかりである。これではわびしさの入り込む余地もない。
 「やっぱりあなたは弱虫なのね。それで彼のことが懐かしいの」
 「懐かしいというのとは違うわ」
 老女は疑わしげな目で私を見た。嘘をついたつもりはなかった。 

 それは私が学校を出て地方銀行に勤めだした頃のことだから、すでに三十年ちかく前になる。大学の演劇部で一緒だったKから、押しつけられるように紹介された男があって、それがなにを錯覚したのか、私に熱をあげたらしく、そこにKの計算が働いていたことを承知しながらも、一時は私も落ち着きを失ったものである。
 だが、前後をわきまえない男の行動が、当時、すでに浮わつくだけの色恋などからすっかり卒業したつもりになっていた私には、ひどく幼く不作法なものに見えた。いまとなってはそうした私自身の振る舞いにもたぶんに幼稚な衒いのあったことを認めないわけにはいかないが、そのためもあって、私は彼の要求に積極的に答える気持ちになれず、かといってはっきり突き放すだけの理由もなかったので、しばらく曖昧な状態がつづいた。その曖昧さが、あるいは心地よかっただけなのかもしれない。
 「それでどうしたの」
 「どうもしないわ。よくある話。向こうもいい加減あきらめたのか、だんだん連絡が途絶えて、それっきり」
 それがつい二週間ほど前、人伝てに彼がすでに亡くなっていることを、それも連絡が途絶えてから数年もしないうちに不慮の事故に遭っていたことを知らされて、あらためて当時のことが思い出されるようになったのである。いまになるまでその事実を知らなかったのは、なにも私の迂闊さのせいばかりではないが、数十年ぶりに対面する彼の面影は、色褪せたという形容を通り越して、昔を偲ぶといった気持ちよりも、思いがけない贈り物を届けられたような、なんとも応対しかねるものだった。考えてみると、彼との交際は、その後立ち入った関係になった男たち(そこには世間並みの不貞もあった)に比べても、ほんの淡いものすぎず、じじつ私は彼の存在すら長い間忘れていたのだ。
 「そのわりにあなたには色気がないわね」
 聞き終わると老女はせせら笑った。

 私たちは植栽試験場に隣接している県立公園に足を向けることにした。陽はすでに傾きかけて、煙幕のような雲が残照に輝き、冴えた明暗に区切られた広場にはわずかな人影が見えるばかりである。
 「少しは涼しくなるかしら」
 「そうね、そうすればあなたの頭もいくらか醒めるでしょうね」
 「べつに取り乱してなんかいないわ」 
 そこで老女が立ち止まった。つられて足を止めた私の耳元に、老女は顔を寄せると、
 「来たわよ」と囁き、そっと私の背中を押した。
 むこうから青年が歩いてくる。はっとして私は背筋をのばした。

 「やあ、いま帰りかい」
 「ええ。あなたは?」
 「僕はこれから内田さんのところに行って、明後日のオーディションの説明を聞いてこなくちゃならないんだ」
 「そうなの。こんどは受かるといいわね」
 「さあどうだか。とりあえずは頑張ってみるよ」
 それから私たちはふたりそろって歩きだした。しばらくはとりとめのない会話が続いたが、ふたりともためらうような足取りで、目が合うとどちらからともなく視線をそらした。それでも私は男の笑顔がときおり不自然に強張るのを見逃さなかった。
 公園の出口間近になると、男はそれまでの会話を打ち切り、態度をあらためると、
 「やっぱり気持ちは変わらない?」
 と言った。
 私はなにも答えなかった。
 男もそれをうながさなかった。
 「じゃあもう時間だから、行くね。結果がわかったらそのうち知らせるよ」
 そう言い残すと男は通りを渡っていった。その後ろ姿には、これが最後の別れになることなど夢にも思っていないらしい、不確かで、頼りない、未完成な翳があった。

 私は弱虫なのかしら? 
 ひとり残されて、急に心許なくなった私は、返事を求めるようにいま来た道を振り返った。
 いつの間にか辺りは夜闇に覆われ、おぼろげにかすんだ道のむこうに、人影らしきものは見当たらず、じっとり汗ばむ微熱にも似た六月の一日の終わりの余韻が、ひとしきり胸を騒がせていった。

文学極道

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