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飯沼ふるい - 2013年分

選出作品 (投稿日時順 / 全5作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


供花

  飯沼ふるい

少女がしゃがみこみ
自分の影を古いアスファルトに垂らしている
路地裏、午後三時、大安の日

アパートの二階
アルミの冷たい窓枠に肘をついて
しばらく一人でぶつぶつ何事かを嘆いている彼女を見ている
いつも誰かしらに親父臭いと言われる
ショートホープ
左手に握られた毒素が苦い

「あなたがそばにいないから」
 ――あなたがそばにいないから。
彼女が嘆いた流行り歌のタイトルのようなことばの上に
厚い雨雲が傾れている
煙草の煙は
そこへ溶け込む遥か手前で散る

もしかすると彼女は
クスリが切れてしまった少女
そういう現代社会の病の表れなのではなく
人の身体を真似た
ことばの陰影なのかもしれない

人でいることに
窮屈さを感じたことばたちが
押し潰された声帯を通して
吐瀉物のように漏れ出ている
そう思うと
善きものへの志向とか
人並みに生きるということとか
なにか道徳的なことが浮かんでは沈む
僕の頭ン中でもことばが衣擦れを起こしているらしい
けれど14mgのタールの中には道徳的なものなど
これっぽちも含まれていない

そして次第に雨が降る
無限の、その一歩手前ほどの意味を孕む雨
それは台所のシンクに詰まっていた汚水だ
死んだ魚の腐肉を浚った水だ
どこかで三年前に生まれた赤子を洗った産湯だ
生きる、ということにおいて
無限の、その一歩手前ほどの意味を孕む雨だ
彼女は雨に濡らされている

華奢な彼女の背中と
それを眺める自分との間に潜む
湿った空気のせいで
古いアスファルトがふやけていく
蜘蛛の食事のように
古いアスファルトはゆっくりと彼女の真っ赤なハイヒールを飲み込んでいく
踝、太もも、下腹部、鳩尾、胸、
彼女の姿を成すものは
しどけなげに降る雨とともに
路地の暗い影の底へ沈んでいく
はなむけに煙草を雨に晒すと
ほの赤い熱源が音もたてずに冷えた

彼女の姿がこの世界のどこにも見えなくなる
雨が止む
似たりよったりのアパートに挟まれた
細い道の遥か向こうで
虹の切れ端が覗いている
向かいの部屋のベランダでは
放置された観葉植物がじっと枯れるのを待っている
彼女のことばの落ちた所は陽炎で滲んでいた
次の煙草に火をつける
路地裏、午後三時、大安の日


野火

  飯沼ふるい

夜は暗い
地平の涯まで
音の無い破砕が続いている

彼は農場の納屋の中で眠ろうとしていた
それが懲罰の為か
彼自身の性癖の為かは
今となっては分からないし
彼の履歴を辿るのは
有りもしない言葉の意味を
解こうとするのに似ている


納屋の隅には
昨年から横たわっている萎びた蝿と
がらんどうの玩具箱とが転げている
くすんだ赤い塗料が剥がれ
捻じれた口を開け
記憶の放たれたブリキの残骸
つまらないその箱は
そのつまらなさの為に
彼を無性に悲しくさせた

起き上がり
彼は
牛酪ナイフで脹脛を削ぐ
肉の裏をナイフの腹が滑る
血が吹く代わり
農場の外れで夜と佇む
老いた一木の松から
黒ずんだ野火が溶け出して
農場の荒れた地の上を
静かに嘗めていく

彼は削いだ肉と足跡を玩具箱へ収め
蓋を閉じる
蓋も容器も
柔らかく湾曲して
もとの形を拒んでいるから
完全には
閉じることが出来ない

火は納屋へも注がれる
土壁が燃え落ちる
鋤や鍬や唐棹が穏やかに倒される
玩具箱も血脈のうねりの中に消えていった
その緩やかな侵食を眺めていた


 眺めていた
 彼は

 新しい朝を思ったかも知れない
 幾度も訪れた町の街灯を思った知れない
 すれ違う老人の皺だれた手頸を思ったかも知れない
 塗りつぶされた白墨の文字の行方を思ったかも知れない

 消えていくものごとと
 それに伴う引き潮のような情緒とを
 少ない思い出の中から呼び起こし
 消えていくものごと
 そのものになろうとしている自分の為に

 彼は
 裏返ろうとしたかも知れない


身体が火の中へ潜ろうとしたその間際
彼が見たのは
火の明かりを吸い
蛍火のような光を帯びて乱れる雪の群像
淡い輝きの一つ一つに映り込んだ
やがて朽ちていくこの世界の輪郭線
その背後に
ただあるだけの暗い夜


 暗い夜
 彼は

 消えていくものごと
 在り続けるものごと

 その差にあるものを
 彼は
 見つけられただろうか


それから少しして
軒先の小さく丸い氷柱が折れる音を聴いた
凛としたその音は
火に包まれていく彼の感じた
最後の優しさだった

納屋は燃え続け
燃える為の納屋になる
ありったけの怒濤は
誰に聞かれることもなく
 それは確かに無音とも言う
彼の身体をどこかに滅して
夜の深い秒針に紛れていく

そして雪の積もった朝がくる
ほの朱い日差しが
澄み切った雪原を照らして描くのは
少年の美しい鎖骨のような
微妙な陰影
この緩やかな傾斜と砕かれた写実の下で
焼け跡すら残さずに消えたものは
なんであったか
今となっては分からない


言いたかったことはぜんぶ、

  飯沼ふるい

駆けぬけていった少年は
潮の灼けた匂いを残した

かなしい匂いだ
陽炎にゆられる
焦れったい、夢精の残り香

海を見に行くきっかけなら
それで十分だった
そこで心中したり
煙草をくゆらしたり
そのくらいの自由が
欲しいと思えた

4tトラックが待っている
信号を右に曲がれば
狭い路地、長い下り坂
床屋を示す三色の渦巻きを過ぎれば
潮風の匂いは濃くなって
海が見えてくる
良く晴れている
沖合で産まれたての
入道雲はくっきりと白い
足元には、猫の死骸

素知らぬまま海へと誘った彼を
入道雲に見ようとしたけど
雲は雲で変わりようない
彼に言いそびれたことがあったのだけど
言葉は
猫が腐っていく時間の中に
溶けていってしまう

てくてくと坂を下るに連れて
次第に大きくなっていく海が
探し物はなんですかと訊いてくる
たしかに見つけにくい物なのですが
入道雲は、じっとしている


海は
途方もなく穏やかで
外国から来たらしい
プラスチックの漂流物でさえ
憎たらしくも風情を湛えていた

僕も負けじと
風景の一部になろうとして
煙草をくゆらせてみるが
渇ききった喉に
煙草の煙がへばりついて不味い

裸足になって砂を踏みしめる
あたたかくて柔らかい
 あぁ、これは、
言えなかった言葉の感じに
そっくりだ
そう思うと
風(という名詞
匂い(という名詞
次から次へ
淀みなく消えていく
新しい初夏の感じが
皮膚を透かして
胃の腑を不快にあたためる

猫の腐臭も、彼の汗ばんだTシャツも
それらを感じた僕も
過去形に埋もれた、砂

碧い海に呑まれて
それらはいつか新世紀の
新しい呼吸に馴染んでいく、だろうか
青白い空に
置き去りの自分よ

  ここから帰れば
  きっと僕は
  熱にうなされながら
  自慰に耽る

  戻らないため息を悔やみながら
  キスを交わして
  失われた果肉を
  膣に求めて、なんて
  そんな嘘で
  息を荒くして
  何度も繰り返し
  身体中に
  壊疽を拡げる


言いたかった
何も言えなかった


200円のコノテーション

  飯沼ふるい

瞬き、膨れ上がる眠気
カッフェーで向かい合う恋人の
片割れが言う
「モカ」
という音韻に倒されて
睫毛から鱗粉が発火する
それは、春に降る雪のようにこぼれる、というが
一秒の、線分の上に絡め取られて
橙の幼い鱗粉
チリチリ燃える

朝のまだきに生れ指ばら色の曙の女神が
朝食代わりに品書きのインクを卑猥に啜る
朝、たったそれだけの文字を誘拐した文庫本は
閉じたまま
未明の沖で漂っている

カラスが骨のように鳴いているのは
鱗粉の遺り香に惹きつけられているから、らしいが
枯れ枝のような声色は
哲学を勘違いした
死に欠けの震え

夕方、その一つの季節のような時間が
カッフェーの、椅子の陰間で怯えている
眠たい震え

ようやく目を開く
私の詩文が始まる為に
コーヒーと、ハムのサンドイッチを頼む
ほどなくして
ウエイターは
コーヒーと、ゆで卵を運んでくる
文字は予約されていないから
間違えたのはどちらでもない

「この街に晒された透明の密度を女の手首が掻き分ける
 柔らかい仕草の間にも
 この銀河は不断に柩を産み続けているのだから
 反省と土塊にたいして差異はないのだ」

ウエイターは気違いを見る目で
「だ」という濁音で淀んだ私を見る

はっきり言っておく
語彙に埋まっていこうとする
この詩文は
サボタージュとして許容されるような詩への
当てつけでしかないから
慰められているのは誰でもない
あなたでも、私でも。

コーヒーを啜るが、シガレットはあいにく切らしている
卵の殻を砕き
固い黄身でむせ返る

開くニュウスペイパー
語れば表れるのは私
語られるのを待つ全ての語彙
古い批評で測られる身体

痣を撫でる手のひらのように不吉な
光の淘汰が頬骨を削る、ガサゴソと油脂臭い紙を捲り
これからの天気を眺める、と、既にもう
明日の襞が雲の影からうねり始める
夕立、

その通りだ、
語るべくして振る雨
夕立なのだから、既にもう
朝ではない
何者かに拿捕された、遠距離の弾痕が
報復に出る時間
パナマ帽が排水溝でくるくる回っているのも
突飛に躍り出た、夕方の仕業

コーヒーに脈打つ水紋は
郷里に暮らす誰かの不幸を報せている
これもまた、震え
表面から渇き
内部から濡れる
まだらに弛緩した涙腺が
裏切りを作用して、
コーヒーの色を黒くする、
景色もろとも排水溝へ垂らす、
過去が水平に流れていく、
さよなら、さよなら

あらゆるものがある、雨
あらゆるもののために、雨
濡れそぼった
語彙が読めない
品書きも、ニュースペイパーも
それらの文字が渇いた時が明日だ
手垢もすっかり消えて
真新しい文字が浮かんでいることだろう

その通りだ、
我々は時間の懐に忍び込み
自壊するだけで
比喩のように繰り返す瞬き
裁断された映写機の映す夢
発火する幼い鱗粉、その閃光の突端で
胡桃のように落ちていく午睡
弓なりに撓る一秒を深くする全ての胡乱
あなたでも、私でも
ない、
そのような感覚の内に
母胎を見ている

だからいいか
恋人たちよ
お前らの姿はもうないが
よく聞くがいい
残り数行の詩文として終わろうとする私の
影こそ、君らの醜い歯並びで
繋がれた指先を交感しあう熱なのだ
そしてこの情けない終わりを
笑え!

「お客さま、料金が200円足りません」
「あ、ごめんなさい」


霧の町の断片

  飯沼ふるい



正確な円い輪郭を、灰色に淀んだ空にくっきりと浮き上がらせる
午後の弛んだ日射しも少しばかり傾き始める
根深い霧がこの港町から抜けることはなく
ここでの昼とはほんの少し明るい夜のことを言う



赤茶のレンガで積まれた製氷場の倉庫の向こうで
海猫が気ぜわしく鳴いている
波止場に打ちつけられる波飛沫は
異邦人たちが流す汗と同じ匂いがする

製鉄所のバースを発とうとするタンカーが汽笛を鳴らす
重くて暗い音がいつまでも響く
誰も聴く人などいないのかもしれない
バラスト水を吐き終えても
いつまでもタンカーは進まない



港から少し離れた公園にも
潮風と魚の腐ったような匂いは
鼻を突く濃さを保ったまま運ばれてくる
伸びるに任せっきりの生け垣の向こうでは
年端もいかない男女が、肌に染みつくような腐臭と霧とに混じって
身体を重ね合わせている

夜にはまだ遠いはずの時間
少年の真剣な眼差しが
この町の唯一の灯火のように
ちろちろと燃えている

喉仏もまだ柔らかい少年は上擦った声で呻く
身体の内も外も無くなって
静かなこの町が彼の中に収斂されていく

足元に落ちていた青魚の鱗と
濁った精液が渇いていく様とを眺める彼の目からは
既に灯りが消えていて
少女は口を結んで涙を流し続ける

星のない夜であるはずの時間
二人は灯りのない小道を歩く



この町唯一の駅の待合室には蜘蛛が住み着き、
単線路のホームに旅客列車も貨物列車も訪ねてくる気配は無い
疲弊した無宿の人がやってきて
埃の絡んだ蜘蛛の巣を揺らすまで
ここは無人のままにある

駅前の交差点の信号機はいつも点滅している
すれ違う人々は造花の花束を抱え
急ぎ足でそれぞれの行くべき場所を探す

革靴で歩く足音がくすんだコンクリートに反響して
霧を包んだレジ袋が消火栓にぶつかる

そこかしこにため息が隠されているこの界隈で
そこはかとなく漂うのは
精液の匂いか、港の匂いか



みんなが寝静まる頃
思い出したかのようにタンカーの汽笛が鳴る
霧の声のように響く、音にもならないようなその震えを感じながら
湿ったベッドの中で少年は
あの時の自分の片割れのように涙を流す

霧が深みを増して夜を蹂躙する

文学極道

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