#目次

最新情報


リンネ - 2010年分

選出作品 (投稿日時順 / 全9作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


  リンネ

 目を覚ますと、部屋の中に嗅いだことのある匂いが充満していた。どうやらドアの隙間から流れてきているようで、いつからしていたのかは分からなかった。目が痛くなるような甘い匂いだ。時計を見れば、三時である。きっと妻が菓子でも作り始めたに違いない。私はまだぼんやりとした頭で、妻が何を作っているのかを想像し始めた。
 カシャカシャと小気味よく擦れ合う金属の音が聞こえる。これは小麦粉をタマゴと混ぜて練り上げる音だろうと思う。しばらくすると、まな板をたたく音が聞こえてくる。ミキサーの回転音が響いてきたところで、ほぼ見当がついた。熟したバナナの甘ったるい匂い。妻が作っているのは、どうやらバナナケーキに間違いなさそうだった。
 そう思ったそばから腹が鳴り始めた。どれくらい食べていなかったのだろうか。手元の鏡を見れば私はかなり痩せているようだった。私は伸びをしてベッドから立ち上がり、匂いのするほうへとぼとぼと歩いた。ドアノブがやたらとひんやりしているように感じた。私はゆっくりと部屋を出た。
  
 狭い廊下の突き当たりに、見知らぬ男が立っていた。予期せぬ出来事に無防備な私は、哀れな犬のように後ずさりながら部屋に戻った。震えながらドアを閉じる。
 あいつはだれだ。当然のように疑問に思う。髪は光沢をもって捲し上げられ、男は黒いスーツを着ていた。どこまでも真っ黒のスーツ。その部分だけ空間がそがれたかのように黒かった。しかし、そもそもどうして私はあれが男だと分かったのだろうか。壁のほうに向かってうつむいていたため、顔の様子は分からなかった。それでも、あれは男だろうし、その顔は私よりも整ったものだろうという気もした。あいつはだれだ。
 たとえばあの男は訪問販売員かもしれない。たしかに、あの小奇麗な身のこなしはそういう胡散臭さを感じさせた。しかし、そうだ、なぜあの男は靴を履いていたのだ!人の家に土足ではいる販売員があろうか!いつのまにか男に対する恐怖がどうしようもない怒りに変化しつつあった。ここは私の家ではないか。なぜ私が隠れていなくてはいけないのだ。久しぶりに高揚した鼓動に、半ば新鮮な快感が沸いてくる。
 私は男を怒鳴り散らしてやろうとばかりに、勢い任せでドアを開いた。

 しかし、この家の主人だろうか、向こうの部屋から出てきた男が、顔を歪ませてこちらを睨みつけている。何か言いたいのか、口をもごもごとタコのように滑らかに動かしているが、声がまるで出ていない。真っ赤に高潮した顔を見ていると、こちらまで情けない気持ちになってくる。だが、その男の持つある種の異物感が、この家にフィルターをかけ、家は余計に静かになったような気がした。まるで母親の体中のようにゆっくりとしていて、耳元の血管を流れる血液の音すら聞こえ始めてきた。
 髪の長い女が台所で何かを作っている。尋ねれば、バナナケーキだということだった。甘ったるい匂いが部屋に充満している。家は完全に閉め切られているようだった。もしかすると、匂いをできるだけ満喫しようという意図でもあるのかもしれない。あるいは家に入ったものを逃さないためか。
 いつの間にか日は落ちかかって、西日が部屋に差し込んでいた。
 気がつけば、女の顔に生えた産毛が日の光を受けてきらきらと光っている。女の視線は落ち着きなく私の足元を見ていた。下を見ると、私は靴を履いたまま上がりこんでいるらしかった。申し訳ない気がし、すぐに脱いで謝った。女は非難する様子をまるで見せず、いいんですよと私を許し、バナナケーキを勧めてきた。
 どうして私はここにいるのだろうか。何かを売りにきたのだろうか。きっとそうだろうと思う。しかし、ここは居心地がいいし、女も私を拒む様子はない。もう少しここにいてもいいだろう。私は誘われるがままダイニングの椅子に座り、女の作ったケーキを食べ始めた。バナナケーキは皿の上で山のように積まれている。
 背後では先の男が、今度は全身をタコのように躍らせて何かをしきりに訴えている。


●●●●の回帰

  リンネ

 ようやく着いたかと安心していたが、よくよく見れば全く別の場所にいるようなのである。四階建ての白い建物が横一列に四棟並んでいる、というところは同じなのだが、果たしてこんなにツヤのある壁だっただろうか。屋根の色もなんとなく鮮やか過ぎて、印象派画家の描いた絵をそのまま立体化したような見た目である。
 どうもオカシイ。よく知っている気もするし、まるで見覚えがない気もする。キツネに抓まれるというのはこういう気分なのだろうか。たしかに同じ団地内であることは確かなようだが、もう一度辺りを見回してみても、どうにも違和感を感じる。あんな公園はあったろうか。小さな子が砂場で立っているが、あれは見覚えのない子だ。
 だが、その子の着ていた黄色いTシャツが妙に気になる。しばらく心なしに見つめていると、次第にTシャツの輪郭がぼぉっと崩れていく。やがて蛍の光のようにぼんやりと千切れ、夕暮れの薄暗い空気へ染み込んで消えてしまった。……どうも、少し眩暈がする。
 ともかく、ここが私の知る場所であるなら、左から二番目の棟の三階が私の家なはずだった。
 
 『●●●●』
 いや、確かに私の家である。なんとなく表札の名前が他人のもののようにも感じるが、●●●●は私の名前のはずだ。ほっとして家に入ろうとドアを回すが、鍵が閉まっていた。(カギハドコダッケナ) 両手でジーンズのポケットをまさぐるが、何も入っていない。尻側のポケットにもなかった。カバンを開いてしばらく探すと、暗い底の方に落ちていたカギを見つけた。
 しかし、開かなかった。どうやらカギが違うようだ。ということはつまり、ここは私の家ではないのだろうか。だが表札には私の名前がある。ますます様子がおかしい。何度も言うが、キツネに抓まれたような気分である。私はわけが分からず、その場でぼんやりとドアを眺めていた。
 (ドコカラドコヘカエルノカ?)思えば最近、私は帰宅することに強烈な嫌悪感を感じていたように思う。私は、何度となく家に帰る。こうして、どこからきたのかもわからず、ただ家に帰るだけの、なんとも矛盾した行動。痙攣のように繰り返される運動。振動。帰宅する、私は帰宅する。その脊髄反射。(ダカラワタシハ、キタクシナイヨウニ、キタクスルノダ。)

 「こんにちは」
上の階から誰かが降りてきた。「こんにちは」と私は奇妙に腰をかがめて会釈をする。
 「どうなさったんですか?」
私のことを知っているような口の利き方だった。「いや、どうにもないのです」と私は答える。
 「はあ」
といってその人は下の階に下りていく。嗅いだことのある香水の匂いがした。

 私はあの人に聞くべきだろうか。ここはXX町4丁目ですか。私の名は●●●●ですか。あなたは私を知っていますか。このカギはこの家のカギですか。あなたの名前はMさんでしたよね。ええ、おっしゃるとおり私は●●●●です。あの公園にいる子は私の子ですか、それともあなたの子でしたっけ。あなたはどこから来たのですか。え、上から?(ジャア、ワタシハドコカラ?)

 「すいません」
先の人が戻ってきた。
 「私が帰るまでこの子を預かっていてくれませんか」
公園にいた子である。そうだった、この子はMさんの子供だった。「ええ、もちろん」私は笑いながら答える。
 子供を残して、その人はまた階段を下りていった。

 どうやら、はっきりとしてきた。あの人はやはり上の階のMさんで、この子はMさんの子供だ。たしか今年で四歳になるはずだった。いつも黄色いTシャツを着ているので、黄色を見ると必ずその子の顔が浮かんでしまう。そして、やはり私の名前は●●●●なのである。記憶は連想によって甦ってくる。さっきまで感じていた朦朧感が、蒸発するようにじわりと消えていく。おもむろにカギを挿して回してみると、今度は当たり前のように開いた。私は次第にはっきりとしていく意識で玄関に入った。黄色いTシャツが駆け足で家に入っていく。ふと、私は壁に掛かった絵画に目をやる。
 意識ははっきりとしている。記憶は連想によって甦ってくる。しかし、この絵は私の記憶に何も訴えかけてこない。だが無理もなかった、それはフレームだけの絵だったのだ。フレームがあるからそこに絵がある、というわけではないのである。
 「こっち、きて」家の奥で黄色いTシャツの子供が柔らかく手招いていた。私は招かれるまま、一歩一歩とその子の方へ近づきながら、今後自分にはもう何一つ蘇る記憶がないのではないかと、妙な気分に浸りつつあった。それはしかし、思いのほか不安ではなかった。


ナルシス・ナルシス・

  リンネ

 さて、どうやら人々はひどく急いでいるようである。こんな瓶の中でいったい何を急ぐ必要があるのだろうか。誰も立ち止まる気配を見せない。ともかく、誰もがせかせかと動き回っているので、なんとなく活気のある風景ではある。――それにしても、瓶の中に人が住んでいるなんて! 
 Nは、そのことに驚くというより、どことなく不安だった。しかし、途方に暮れる思いに陥りながらも、彼はその不可思議な瓶の観察を続けている。
 なるほど、いくら瓶の中とはいえ、これだけのスペースがあれば何らかの動きは取れそうである。誰かがこうするというとき、どこかにこうしないという人が現れる。このとき一方の人の動きに隠れてしまう人ができるが、こうして生まれた陰影がこの瓶独特の世界観を作り出すようだった。瓶の内部では、様々な人物が交錯して現われ、一時一時に見え方が変わっていく。それはまるで万華鏡のような具合である。
 しかし、どうも変な気持ちだった。Nはいつのまにか、瓶の住民の存在が妙に鼻についてきていたのである。異世界とでもいえるような場所で生活する彼らに対して、こちらから一方的な嫌悪感を抱くというのは、なんともおかしな話ではないか。そんな理不尽なNは、きっとどうしようもなく愚かな奴なのだろう。だが、そうやって自分の内面の醜さを確信しつつも、彼はやはりその瓶の観察を続けるのであった。
 ガラスの表面に映り込む、Nの間延びした顔の向こうで、住民はせっせと動き回っている。まるで、泳いでいないと死んでしまうカツオのようである。瓶を軽く振ってやると、底に溜まっていた埃のような粉が舞い上がった。瓶の中では人々が無関心にそれを見上げている。住民たちの活動の一切が止まり、それに沈黙が続いた。
 立ち止まる人々の中に、見覚えのある女がいた。若々しく、蟻のような光沢のある黒髪が、背筋の半分くらいまで伸びていた。それがどことなくエロチックである。肌が白いのだが、それは美しいというよりも、むしろ頼りなさげで、色素のない白という感じだった。Nは、その女の顔がよく見えるようにと、引き出しから虫眼鏡を取り出して瓶に顔を近づけた――が、やや手間取ったせいか、すでに人々は元のようにせかせかと動き始めていた。あの女はどこにも見当たらなかった。瓶のふたを開ければ、匂いだけでも微かに残っているのではないかと思ったが、別の女のものかもしれないことを考え、それはやめた。
 Nは気を沈ませた。自分の愚鈍さに眩暈がする。どうも今日は悲観的になりすぎるようだった。たかが瓶の中の人物ごときに、なぜこうも――Nは久しぶりに外の空気が吸いたかった。そして、まるで水中を浮上する泡のように無自覚な足取りではあったが、しばらくしてようやく彼はその部屋を抜け出したのである。

 昨晩降った雪で、外の景色は青白くなっていた。雪はまだぱらぱらと降っており、道行く人はみんな傘を広げている。道路ではチェーンを巻いた車が、何かを潰す音を残して走っていた。途中、今日は自動車があまりに無関心に走っているではないか、などという変な感傷に襲われた。雪景色で町がひと際静まり返っていたせいだろうか、あの車のうちのどれかには、よもや一台くらい無人で走っているものもあるのではないか、とまで訝る始末である。Nは、どこにも行く予定などないのに、ひどく焦った歩調で通りから通りを抜けている。次第に見覚えのなくなっていく町並みに快感を覚え、Nの足取りは溺れるように速まっていく。町はのっぺらぼうのように表情を失い、Nはただ夢中になってその中を歩いている。道を。道を? 町が見えない。
 いつのまにかNは帰宅している。なにやらテーブルに置かれた瓶を掴んで、それをまっすぐ上に放り投げた。もう何も考えることがなかった。後のことは何も知らない。何かの割れる音がする。それが女の叫び声に聞こえる。なぜか、おお、それはNの声にも似ている。
 そのことに気が付く私とは、なかなか冷静な奴である。
 部屋は再び沈黙している。


私たちの食卓

  リンネ

 朝、日差しが差し込んで、私は目覚めました。いつもと同じように、なかば夢見心地でトイレへ向かうと、ドアの隙間から明かりが漏れています。私は一人暮らしでしたので、これはおかしいと思いました。ためしにノックをしてみると、カンカン!と、金属をたたくような音が返ってきます。仕方がないので少し待っていると、やがてトイレを流す音が聞こえて、中から誰かが出てきました。 
 驚くことに、それは私でした。といっても私はここにいるので、正確に言えば、私そっくりの誰かです。胸があわ立つような気分がしました。何か言うべきだったのですが、そいつは影のようにするりとリビングのほうへ過ぎ去ってしまいました。仕方がないので、私もまずトイレで用を済ませることにしました。 
 一度トイレに入ると、じわじわと不安な気分が沸いてくるようでした。あいつはいったい誰なんだろう、あまり自分にそっくりなので、私は私であることの自信をなくしてしまいました。強烈な吐き気が咽喉にのぼって、私は慌てて便座に屈み込みます。溜まった水に映る顔を見て、私は思わず息を飲みました。
 私は、私ではありませんでした。見知らぬ女の顔が、ぼおっと水面に揺れています。はっとして、(私は男なのですが)股間に手を当ててみると、本来あるはずのものが確認できません。そういえば、胸が異様に膨らんでいます。肌はきめ細かくなって、まるでプラスチックのようです。何かとんでもないことが起きている、そんな予感がしました。ですが、それもあまりに突然のことだったので、私は動揺さえすっかり通り越して、妙な確信へたどり着いてしまいました。つまり、私はもともとこの女だったのだと、そんな風に感じたのです。

 トイレを出ると、真っ先にあの男のいる方へ向かいました。男はダイニングテーブルに座って、手の関節に何かを塗っています。差込む朝日がその男に反射してよく見えません。肌が妙にギラギラと光っています。もちろん、人間の皮膚はあんなに光を反射しないはずです。近寄って見ると、どうやら男の肌は金属のように光沢をもった特殊なものでした。

 「おい、K子。」男が言いました。
 「何?」私は思わず答えました。(もちろん私の名はK子ではないのです。)
 「そろそろ子供も生まれるんだし、安静にしてるんだぞ。」

 たったいま気付いたのですが、私は妊娠しているようなのです。お腹が急にずっしりと重たく感じました。まるで鉛を詰められたような気分です。お腹の子も、もしかしたら金属製なのかもしれません。 
 私はいつものように台所へ戻り、ゆっくりと朝食の支度に取り掛かりました。お腹の中では赤ん坊が、空腹を訴えて泣きはじめたようです。このいささか不自然な世界に、私はめまいがしてきました。どよりとバランスを崩して反り返ると、男が私を素早く抱きとめました。男の磨かれた顔が私を覗いています。その顔に私の顔が映りこんでいました。私は紛れもなく、K子でした。
 とすればどうやら、泣いている赤ん坊が、もしかすると本当の私かもしれない。そうだとしても、それにだれが気がつくでしょうか? 私はまだ生まれてもいないのです。
 けれどそれがかえって、私を安心させたのかもしれません。私は穏やかに泣き止んで、眠りが一瞬のうちに、あたりを包みこんでいます。
 どこからともなく、家族の団欒が聞こえてきて、私はゆっくりと夢を見はじめていました。


正午

  リンネ

 そこには、証明写真の撮影機が立っていた。ボックス型のよく見かける何の変哲もないものだ。奇妙なのは、それが設置されている場所である。なぜ公園の真ん中に置いてあるのか。

 私は昼食にいつもここを利用している。だいぶ早めに来ているので、自分の他にはまだ誰もいない。公園には一面、白い砂が敷かれていて、そのせいで日の光が強烈に反射している。だからだろうか、ここにいると、妙な陶酔感を味わう。きっと、足元から照らされて、その浮力をなんとなく感じ取っているからだろう。ただ、理由などたいした問題ではない、ともかく、それは心地よいのだ。
 その撮影機は円形の公園の、ちょうど中央に設置されていた。明らかに周囲の景色から浮いていて、見ているとなんだか居心地が悪い。なるべく気にしないようにしながら、隅にあるベンチに座ってそそくさと昼食をとり始めた。

 いつからか、思い出せないが、私は夢を見ている。窓のない窮屈な廊下。その先は暗闇に消えている。歩き続けていると、向こうからろうそくの炎が近づく。危なげで、消えてしまいそうな明かり。人だ。宙吊りになっている。ろうそくはその人に握られている。私に気がつくと、わざとらしくほほえんだ。だから私も笑おうとする。が、顔が引きつって、できない、その人は左右に揺れはじめる、ろうそくの明かりが半円を描く、私もゆらゆらと、静かに動き始める。
 さかさまの人と踊るのは初めてだ。お互い上下があべこべで、思うようにいかない。強引に相手を引っ張りまわす。すると顔が擦れ合い、とたん、いきおいよく炎が爆ぜた。まるでマッチだ、燃えながら、左右に揺れあう、そしてさかさまの愛撫。
 いきなり、私は落下した。いや、そうではなくて、相手が浮き上がっていく、気づけば天井が消えている、みるみるうちに遠のきながら、その人が何かを叫ぶ、それはほとんど聞こえない、オモイダシテ、と言ったような気がした、だが、私にはどうしようもなかった。

 はっと目を開くと、視界に光が溢れる。突き刺さるような目まいがし、視神経が耐え切れずスパークした、次の瞬間、私は、一枚の証明写真の中にいた。

 向こうに、ベンチが見える。男が力なくうつむいているが、眠っているのかもしれない。私は写真取り出し口の中で、これからのことを考えた。まさか、このまま写真の中にいるわけにもいかないのだ。しかし、どうやら写真には出口もなさそうだし、現状なす術なしというところである。そしてなぜか、頼れるのはあの男ぐらいしかいない、ということが分かっていた。幸い、かれは私に気がついたようだ。弁当を持ちながら、じっとこちらのほうを見つめている。おかしな話だが、かれとここで待ち合わせをしていたような気もする。  
 だが、一方でやはり私は不安である。どうしてもオモイダセないのだ、夢の中で踊った相手は「他人」だったか、それとも「私」だったか、もしそれが他人ならば、私はこう結論する、ベンチにいるあの男こそが現実の私であり、ここにいる私は単なる証明写真に過ぎないと、しかし、もしも踊った相手が私自身だったならば―――さかさまだったのは、どちらの私だろうか?

 私は、その薄っぺらな証明写真を手に取り、覗き込んだ。やにわに写真はするりと手から滑り出し、地面に落ちる間際、吹き消されたように無くなってしまった、思わず落ちたはずの場所を触ってみたが、砂が眩しくて、よく見えない、公園には一面、白い砂が敷かれていて、そのせいで日の光が強烈に反射している、ここにいると、妙な陶酔感を味わう、きっと、足元から照らされて、その浮力をなんとなく感じ取っているからだろう、……まだ、夢は続いているのだろうか。
 正午を過ぎ、公園には、ぞくぞくと人が集まってくる。
 私は気づかれないようにそっと、カーテンをあけ、撮影機の中に入った。


ある徘徊譚

  リンネ

少し遅れているが、それはいつものことである。待ち合わせのレストランまで、バスに乗っている。乗客はすでにほとんど降りてしまった。もうそろそろだろうと思い、手元のブザーに触れると、無数の赤いランプがまったく同時に点灯した。おやッ、なんとなく外を見てみるが、まるで見覚えがない景色である。…レストランはもう通り過ぎてしまったのだろうか。これではますます約束の時間に間に合わない。憂鬱な気分に浸りながら、バスが停止するのを待っていると、運転手がいつのまにか隣に座っていて、

「ぎりぎり、間に合うか?」
「そう、そうかもしれません」
「どこへ行くんだ?」
「もうじき、ですね」

停留所に降りると、あらゆる方向に森が広がっており、途方に暮れてしまった。バス停のポールがくるくると回転していて、何が書いてあるのかまったくわからない。仕方がないので、しばらく木々の隙間を抜けて歩いて行くと、とつぜん視界がひらけて、神社とバスターミナルが現れた。神社はとても長い階段の上にある。どうもそれを登る気にはならなかったので、自分はバスターミナルのほうへ向かった。制服を着た人が二三人いたが、どうしてだろうか、そばに行くと、わッ、と言って近くに掘られた洞窟の中に逃げていってしまった。自分が避けられているのかと思い、しかしその理由がまったくわからず、しばらく一歩も動けないままでいた。友人のAから電話がかかってきたのは、ちょうどそのときである。

「ああ、ちょっと間に合いそうにないよ」
「それは残念だね」
「ほんとうに?」
「ここはどこだろう」
「わからない、もしかしたら、間違えたのかもしれない」
「バスをかい? 残念だね」

話しながら歩いていたら、いつのまにか大きな駅の前にきている。近くにとても大きな路線図の看板が掲示されていて、とりあえず自分が今どこにいるのかを確認してみる。東京だということはわかるが、位置がはっきりしない。どこに書いてあるのだろうか、駅名が見つからないのである。何度も線路を目で追っていくが、何回目かで、そもそもこの駅の名前がわからないということに気がついて驚いた。しかし、友人のAはすでにここがどこかわかっているようで、

「一時間半くらいはかかるな」
「遠いね」
「バスでいけばいい」
「四十分はかかるよ」
「ほんとうに?」
「わからない、ここはどこだろう」
「やっぱり、ちょっと間に合いそうにないよ」

駅の中にはショッピングセンターがあって、服や惣菜やテレビゲームなどの店舗が並んでいる。運よく本屋もあったので、いい地図がないか探してみることにした。手当たりしだいの地図を広げて品定めをしていたら、このあたりの地形が詳細に描かれたものを見つけた。自分は驚くほど嬉々としてそれをつかみ、レジのあるほうへ向かっていく。しかし友人のAはもはやレストランに行くことも忘れて、エスカレーターを登っているので、それがとても頭にくる。もしやッ、と思い、地図を開き、しらみつぶしに探してみると、この駅の中にX…というレストランがあった。それが待ち合わせ場所だという確信はないが、自分は、すでにエスカレーターに乗って上の階へ移動している。どこからか、店内放送が流れているが、よく聞いてみると、それは友人のAの声であった。

「不思議なものだね」
「とても、とても」
「というのもつまり」
「つまり?」
「もうじき、だ」
「ほんとうに?」
「わからない、もしかしたら」
「そのとおりだ」
「夢を見ているのかもしれない」

自分はいよいよレストランへ入って行くが、ほんとうは、もう約束など忘れてしまっている。心のどこかでは、また遠く、あてどもない移動をくりかえす予感が生まれようとしており、だが、そのことに気がつくのは、とうぜん少し遅れてのことである。現に自分は、もうレストランをあとにして、友人のAを追いかけはじめている。しかし、それはまた、いつものことだろう。プラットフォームに電車が到着し、ぎりぎりで駆け込むと、さて、自分はふたたび抑えがたい絶望に襲われているのだ。つまり? これは決して夢ではないのだと、その身をもって実感している、そんな様子なのであった。車内にはたくさんの人が乗り込んできており、友人のAは、それに紛れていつのまにかどこかへ消えてしまった。不思議と静かな車内である。


林檎のある浴室

  リンネ

 自宅の風呂である。いつから浸かっているのか、まるで思い出せない。ひだ状に醜くふやけた指を見れば、どうやら相当の間ここにいたということが分かるが、それにもかかわらず、私は、一向に風呂から出ようという気持ちにならずにいる。
 そしてそれはどうも、すぐ目の前にいる女のせいであるということが分かっていた。向かい合わせに浴中で座っているが、まったく黙りこくっている。何かに怒っているのだろうか。どうしてこのような状況にあるのか分からないが、石鹸の香りに混じって、女の体臭がかすかに感じられ、それが私をこの場に引き止めているようである。

 浴室はしだいにふんふんと湯気に溢れている。その様子がどうもおかしい。両手で必死に扇いでみるが、厚い霧に阻まれて、少しずつ女の顔が見えなくなっていく。そのまま、すぐに目の前がまっしろになってしまった。
 湯気は不思議なことに、鎖骨から上だけを覆っているのだが、むしろ自分はそのことで不安である。私は、さっきまで見ていたはずの女の顔が、すっかり思い出せなくなっていたのだ。浮かんでくるのはまずどうでもよい人の顔ばかりで、思い出そうとするほど、女の顔がそれらに埋もれていく、という、妙な状態になってしまった。

 ふいに、誰かのすすり泣くような声が聞こえ、私はどきりとして耳をすませた。どうやら、その泣き声は、湯船の中から聞こえてくるようである。
 水面の一点をしばらく眺めていると、突然そこから、林檎が一つぬっくりと浮かんできた。これはいったい、どういうことだろう!
 私は手を伸ばし、その林檎に触れようとするが、奇妙なことに、水面に立った波にのって、林檎が自分の手を避けてしまう。何度も掴みかかるが、そのたびにゆるりと見当もしないほうへ逃げていく。そうしているうちに、私はひどく悲しくなってしまい、林檎を見つめたまま、もう何もせずにぼうっとしている。

 女の足がいつのまにか、自分の股間まで伸びている。そのせいで私は、なんとも恥ずかしい気持ちになってしまった。女のほうはそれを察してか、先ほどから、ふたを開けたようにかしゃかしゃと笑っている。その笑い声がますます羞恥心を高揚させ、私のからだは驚くほど紅潮していた。
 湯水の中では、女の素足がうねっている。質感といい、動くさまといい、まるでイカのように滑らかだ。林檎が、波に押されてじっくりとこちらに近づいてくる。私は女の足により、しだいに絶頂に迫りつつあるが、それにつれて、目前の赤く丸い果物が、心なしか膨らんでいくように見えた。そしてよく見れば、その果実の球面には、向こうの女の顔が、そっくりと映りこんでいる! その女の首が、のどやかに、こちらを見てにこにこと笑っていた。

 ああ、これで女の顔が思い出せる、と私は目を細めて覗きこんだ―――が、そのとたんである。私は興奮のあまり、痙攣的に林檎をつかみ取って、あろうことかそのままかぶりついてしまったのだ。するとどうだろう、突然、女の足がよりどころなく、湯船の中をあっちへこっちへと、困惑したように行ったり来たりするではないか。
 私は二口、三口と、繰り返し、林檎をかじった。トマラナイ。トマラナイ。霧はなおも浴室を満たしているが、女ははじめのように、すっかり動かなくなってしまった。
 そんな折、湯船の中から、ふたたび何かがすすり泣く音が聞こえてくる。つまり、新しい林檎が水面に浮上する、という予感の芽生えである。私の視覚は、まだそこに現われる前から、冷たく、丸く太った林檎の姿を想像して、実に無邪気に喜んでいる。
 女はすでにそこにいないが、残り香によって、私はそれに気づかない。だがむろん、それはとりたてて重要なことでもなかった。
 浴室はますます湯気に溢れている。


日常的な公園

  リンネ

 Kは鬼ごっこをしているが、妙なことに、およそ鬼と呼べるような人間がどこにも見当たらないのである。そういって悪ければ、Kはすっかり鬼の顔を忘れてしまったのであった。
 ベンチの裏に丸くなって隠れてはいるが、はたして鬼がだれかも分からない状況で、どうしてこれが隠れているといえるのか。実際、向こうのジャングルジムの近くで煙草をくわえている長身の男から、Kの姿は筒抜けであるし、いうまでもなく、このベンチに座っている男の子と老人には、とうに気づかれているはずである。それに、あの女、砂場でしゃがみこんで猫と遊んではいるが、さっきからこちらのほうを横目を流してうかがっているようなのだ。それから、その女の大きく開かれたスカートの垂直線上には、雨合羽を羽織った若い男が立っている。そいつはうつけたように、真っくらな両の目を女の股間のほうへ向けていた。
 いってみれば、どいつもこいつも鬼であるかのようであった。Kにしてみたら、いつのまにかこのゲームに巻き込まれていたのだから、いつそれをやめてしまってもかまわないような気もした。おそらくそれができなかったのは、この遊びをやめたところで、はたして自分は他に何かやることがあるのか、まったく見当もつかなかったからであろう。ともかくKは、しばらくして、このいっかな動きそうもない状況を打開するため、さりげなく公園内を歩きはじめたのであった。鬼を誘って、探り当てようという魂胆である。
 だが、意外にも、だれひとり何の反応も見せないという結果であった。Kなどまるで見えていないかのようなのである。ただし、疑ぐり深いKは、これを鬼の策略であるとまんまと見抜いていたからだろうか、あらゆる人から十分逃げ切れる距離をとって、なおもじっくりと公園中の人々の観察を続けている。
 いやに大人の多い公園である。三つあるブランコは、恰幅の良い中年たちが占領しており、なにやらもっともらしい顔つきで前後に揺れている。公園中央にある広場では、黒いスーツを着たグループと、灰色のスーツを着たグループとが、ボールを投げ合って何かを競っている。それから、公園周りの歩道を、二三十人はいるだろうか、手を繋ぎ列になった初老の男女らが、オモチャのようにぎこちなく歩いている。これを要するに、Kにしてみればだれもが不自然で疑わしいのだった。だが、やはり気になるのは、例の砂場の女である。
 Kは、しゃがむ女が開いたスカートのなかに、奇妙に光るものを見つけたのだ。じりじりと近寄ってそれを確認しようとはするが、いかんせんそこは女の股間である、まんじりと見つめていては怪しまれるのが世の道理であろう。ところが、しばらく躊躇してふらふらした挙句、なんとKは大胆にもその女性のほうへ歩み寄った。いやこれはむしろ、何かKの制御できない力によって引き寄せられた、というのが本当かもしれない。
 Kは、もはや完全に警戒心を失って女に迫っている。しかし、もう少しで何か見えそうというところであった、突然、女の股間が猛烈な光にあふれ、Kの視覚をはげしく貫いたのだ! 閃光に目をくらませながら、Kはその光へと倒れこんだ。


 ―――実は、女の股のあいだには、一枚の鏡がしっとりと収まっていた。そこに太陽が映り込んでいたのだ。Kはあまり眩しすぎて、その鏡に映る、照りかえった自分の顔と、背後に迫る雨合羽の男の姿を確認することができなかった。どうしてすっかり晴れた日に、彼が雨合羽など着ているのか、そんな単純なことに気がつかなかったというところ、明らかにそこにKの落ち度があったといえよう。ジャングルジムでは長身の男が煙草をくわえながら、その入り組んだ鉄の棒にからだをねじり込んでいる。ベンチに座っていた少年と老人が、Kのほうを指差して何かを訴えているようだが、女の悲鳴がそれをかき消してしまい、Kにはまったく聞き取れない。
 Kは鬼ごっこをしていることもとうに忘れて、女を黙らせようと必死に言い繕っている。
 鉄棒に現われたリクルートスーツの女子が、プロペラのようにくるくると回りはじめた。つまり、ゲームが新たな展開を迎えようとしている前触れである。


一の蝶による五の夢景

  リンネ

 i. eating machines / Parantica sita

その日の朝食は、いつものように厚めのトーストが一枚でした。私は表面にのせたバターが溶けていくのを嬉しそうに見ていますが、何かが溶けきらず、パンの上に残ってしまいました。それは生まれたばかりの赤ん坊のように粘液でまみれています。目を疑うようなことですが、どうやら、アサギマダラという蝶の幼虫のようなのです。生きているのでしょうか? ためしに指でつつくと、幼虫は判別しがたい色をした体液を流して、みるみるうちにしぼんでしまい、後には脱ぎ捨てられた服のように、まだら模様をした派手派手しい体皮が残りました。本来キジョランの葉に住むアサギマダラが、なぜこんなところにいたのか、当然それを疑問に思わなければいけないのですが、私はなぜかそのとき、アサギマダラが有毒であるということに頭がいっぱいで、とにかく、そのトーストを食べてはいけないのだ、食べてはいけないのだ、と自分に言い聞かせるのがやっとでした。というのも、私はすでにそのトーストを手に取り、よだれを口いっぱいに溜めて、のどを鳴らしていたからです。

 ii. metamorphosis / Papilio xuthus

二人で赤ん坊のお守りをしていました。赤ん坊が泣きだしたので抱き上げると、おむつに柔らかい便がたまっています。もう一人のお守りはその便に怯え、頭を抱えて震えています。私は、そうっとおむつを剥がして便を処理しました。洗面器に湯がたまっています。藤編みのバスケットをもう一人から手渡されました。中のシーツの上に、さっきとは別の赤ん坊がうつ伏せになっています。不安になり、仰向けにすると、顔がトカゲのようにしわがれていました。急いで洗面器に浸けて揺さぶります。けれどそのせいで、首もとがゴムのように裂けてしまいました。大きく開いた切れ目から、一匹のアゲハチョウが羽を広げて這い出てきます。二人は「救急車を!!」と絶叫しましたが、もはや赤ん坊は洗面器にぷかぷかと浮かぶ、単なるさなぎの殻に過ぎないということが、心のどこかで、にわかに予感として芽生えていました。

 iii. reproduction / **** ****

さて、深い森の中に、スーツを着た男がいました。おかしなことに、その男の背中には大きな蝶の羽が生えているのですが、私はそのことよりも、なぜこんな場所に彼がいるのかが気になりました。自殺願望者かと思ったのです。「気づいたら生まれてた、おまえもそうだろ?」と彼がそういうと、私はいつの間にか何匹もの蝶になって、男とこもごもに交尾をはじめていました。終始淡白であった情事を終えると、男はすぐにどこかへ飛んでいってしまいました。私たちはさっそく、産卵に最適な植物を探していますが、自分たちがどんな種類の蝶か知らないのに、それが分かるはずありません。けれども、もはや私たちにはそれ以外、目的といっていいものがまるでなかったので、何も心配せずに森じゅうを飛び回っているのでした。

 iv. suspended animation / Byasa alcinous

ベッドに寝転んだ赤ん坊のおでこに、手のひらのように大きなジャコウアゲハが留まりました。私は突然のほほえましい光景にうっとりとし、カメラのファインダー越しにそれを眺めています。赤ん坊の白い肌とジャコウアゲハの真っ赤な斑紋のコントラスト、これが素晴らしく美しいのです。しばらくすると、縫い針ほどに細い蝶の口吻が、蜜を探るようにせわしなく赤ん坊の口元へ伸びていきました。私は夢中でシャッターを切りつづけています。しだいに赤ん坊はますます白く、蝶のほうは赤々と鮮血のような色合いを増していきました。しまいには、もはや真っ青になった赤ん坊を残して、毒々しいまでに赤らんだジャコウアゲハが、私のいるほうへ揺れながら飛んできました。何気なくそれを避けると、蝶はそのまましばらくまっすぐに飛んでいき、突然大きな円を描いたと思うと、音も立てずに破裂してしまいました。私は残念に思いましたが、その瞬間がうまく撮れていたか、カメラのモニターで熱心に確認しています。

 v. eating machines / Graphium doson (Papilio mikado)

体中に汗が吹いています。夏、でしょうか。家のベランダから見える公園に、全身にミカドアゲハという蝶をまとっている人を見かけました。あまりたくさんの蝶が留まっているので、顔も見えず、もちろん男か女かも分かりません。人かどうかさえ怪しいものです。昔沖縄の林道で、川辺の地面を吸っている数え切れないほどのミカドアゲハを見たことがありましたが、もしかしたら、あれに集っているミカドアゲハも同じ目的なのかもしれません。目的といえば、蝶は単に水分を求めているのではなく、そこに含まれた塩分などを得るために、ミネラルの豊富な川辺の地面に集まるのです。そう考えると、人間の汗には多くの栄養分が含まれているはずですから、この状況もあながち特殊なことではないといえましょう。おそらく、たくさんの蝶がまとわりつくことで、人間の体温もおのずと上昇し、より豊富な量の汗が出るのですから、これは実に効率のいい作戦であるともいえます。

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.