中学生の頃母の背中を抱きしめたことがある
大きく見えていた背中は一人の小さな女の背中だった
母子家庭で
大黒柱として働いてきた母の背中
俺の腕の中で小さく収まっていた
疲れと睡眠不足が母の奥から感ぜられ
この中の小さな温もりさえ
消え入りそうな微かさで
オンボロ壁の静けさに巻かれていた
幼い頃見た夜空はまだ広かった
打ち上げられた花火の割れる音を聞いてはいた
食卓の上へ味噌ラーメンを並べていくと
親子はそこで向かい合っては厳かに
「いただきます。」と言った
夜のママの店はもう潰れかけていて
ためいきはただ夜よりも深く
シャッターから漏れていた
その頃真夜中の川を
魚が一匹跳んだ
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おでん
選出作品 (投稿日時順 / 全6作)
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夜
彼女の名前は愛という
いつの日か
彼女の手を愛した
何かを一つ奪うように
愛の欠片でも
彼女の手はいつも僕のポケットにあった
枯れていく日々が
今よりも愛しく思えるなら
砂漠の上の砂は
毎日形を変えている
彼女の足を愛した
雲よりも巨大な太陽が
西日の姿へ変貌する
白いベッドの上で
彼女の足を
指でなぞった
時計の針は着実に
時計の針を腐らせている
彼女の唇を愛した
冷たい
冷たい唇に
何度も唇を擦りつける
真夜中
ガードレールの続く海沿いの道
外灯の光に
彼女の頭の
小さな影が伸びている
氷
ぼくは
雑踏の中に
不安を抱きました
雑踏の中からゆっくりと
せり上がってくる 何か
透明な 頭
冬
青空は 涼しげに
ボールの影を 遥か彼方の
小さな町に 投げています
ふいに
コンクリートの壁に
足を止め
氷のボールを
触るように
顔と肩が
ひりついています
あの日
お父さんは
青空に 倒れ落ちました
来る日も来る日も
ぼくは
雑踏の中で
何かを気にしながら
生きています
影役
水でできたドアに白い花を挿し入れると
丘の上でまぬけな老人が死んでいた
汚れた街路樹の囁きに耳をすましては
タイヤの跡を舐めるように這いずり回り
1+1=5だと思い込みつづけ
間違えている自分にいっさい気づかずに
青空のまんなかで雲にぶつかって死んだのである
しかし彼はそれでよかったのだし
そうしなければならなかった
このまぬけな老人は常に酔い続け
影役に回り
いつまでたっても空を飛ぶ鳥のまねをして
だれもいない海に全力で向かう
そうやってなんもない自分の心を
まるで呪うように這いずり回り
空を飛ぶ鳥の踝を掴むのだ
だが顔面に白い糞をかけられ
ついには街路樹の囁きに踏み潰され
死んでしまった
死んでしまったのである
彼の身体は冬の寒さに張り裂けて
枯葉と水滴と変化して
光のある埃を纏いながら
アスファルトの真下に流れていった
だがアスファルトがそれを嫌がり
真横へ回避してしまった
彼は最後まで気づかないのだろう
そうして彼は最後にこう思いながら
無に還る
“1+1=68だ”
しかし本当は、本当の答えは2でもなくて
彼自身そのものだったのだ
虫籠
ガラスの壁に、手を触れて、彼は見る、音もなく、蠢く、群集を。一人一人に、足音はつかない、そうして、忙しなく、いつまでも、蠢いている。真昼の、静かな都会、鳥が、空を、飛んでいる、ような気がする。駅のホームに、彼は立つ。ドアが開く、彼は入る。乗客の、誰もが、目を閉じて、蝶のいる、虫籠を、抱き抱えている。彼は、そうして、音もなく、茫洋と、微睡んでいる。真昼の、静かな都会を、音のしない電車が、駆けている。
不安の記録
ひとつの顔が落ちてある。 あなたはそれを見なかったことにするだろう。 その顔が自分の顔に瓜二つだったとしても。 あなたは階段をのぼる。 ひとつひとつの足音はあなたの足音だろうか? 階段の段差は、妙に大きくなったり、妙に小さくなったりする。 あなたはドアを開ける。 それはつまり何を意味するだろうか? ドアを開ける、という単純な動作が何を意味するのか、あなたは考えてみる、ふりをする。 今考えたことは、ドアを開ける、その行為それ自体が、希望に満ち満ちているものと、あなたはそういうことにする。 あなたは風呂に入る。 それなのにあなたはますます震える。 あなたは風呂が恐ろしくて堪らない。 あなたは風呂のことばかり考えている。 風呂、それは人生のスパイスなりや? 気がつくと、あなたは夜空を見上げている。 (勿論、服は着ていますよ。) 星の一つ一つが、妙に輝いて見えるのは、やっぱり夜空が怖いからなのだろう。 星の一つ一つがなければ、あなたは夜空を見上げることもできなかっただろう。 あなたはひとつの不安である。 あなたはあなたを喰い散らかしてしまう。 そうしてこの話は逆転する。 あなたは不安が好きだった。 不安のとても濃い色が、あなたを旅人にする。 不安はとても冷たそうだけれど、本当はとっても温かいものだと、あなたは生身で知るだろう。 不安とは人工的な感情の一種であるか、あなたはそれを確かめることができるだろう。 どこから光が漏れているかで、あなたはその不安の完璧さを知るだろう。 あなたの(あなたの?)不安はあなたを疲れさせるが、あなたの好きなところへと連れて行ってくれもするし、この世の地獄へと連れて行きもする。 あなたはやはり不安はとても恐ろしいものだと再認識する。 この世にあってはいけないものだと、臆病者のあなたは言うだろう。 あなたは不安を見つめている。 不安を? どこにもない、目に見えない不安を、あなたは見つめることができる。 その不安はあなたのものではないから。