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zero - 2013年分

選出作品 (投稿日時順 / 全4作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


遡及

  zero

僕は、僕たちは、みんなは、間違えてしまったのだ!
僕は、僕たちは、みんなは、失敗してしまったのだ!
僕は、僕たちは、みんなは、小鳥たちの声にさいなまれている。

そりゃー自信はありましたよ、根拠ですか? そんなもんなかったね。鏡があれば光を跳ね返しますよね。それと同じですよ。俺たちがいればどんなことでもやっていける。そりゃー不可能なことくらいあるとは思っていましたよ。宇宙にだって限界があるし、大体俺の体だってせいぜい身長180cmくらいだし!笑 それを超えることはできないよね。そんなのわかってたよ。俺の母ちゃんが俺の母ちゃんだってことと同じくらいわかってたね。まあでもわかるってことがくせもんでね、色んなわかり方があるじゃないですか、なんかあれっすよ、木の葉っぱがいつの間にか池の上に落ちてて、池がその表面で何か薄いものが接触したことを、寝ぼけ眼で感じる、くらいのわかり方でしたね。要するにわかることに他人が挟まってこなかったんですね。他人に視線を投射して、それが跳ね返ってきて、他人から声が届いて、その内容を混ぜ込んで、そういうのがなかった。なんか自分が自分の井戸みたいな感じで!笑 いやでも、間違えるってのは、なんか正解がほかにあるみたいな言い方じゃないですか。それちがうと思うんすよね。正解なんてどこにもないんじゃないんですか? あったら教えてくださいよ。だから本当はすべてが正解で、だから俺たちは、派手に間違えたと同時に、根本的に正しかったんですよ。間違えた! とか騒いでるとき、本当は間違えたなんて思っちゃいない。間違えた! って言葉は常に正しいし。でもあれなんすよ、自分を社会的な意味で殺すのって大事じゃないですか、社会とかいうわけのわからん法則体と比べて、そん中で間違えた! って叫ぶの重要じゃないですか。まず、自分にもう立ち直れないくらいの烙印押せますよね。これは自分をかたわにするくらいの衝撃ですよ。それに、社会に復讐できるじゃないですか。だって、社会の中で間違えたってことは、自分が社会と大きく食い違ったってことですよ。それは絶対社会の中へと跳ね返っていく。だから、俺は間違えた! って叫ぶ必要があるんすよね。それは、俺に非があるみたいだけど、自分が悪いってのを装って、同時に社会に対する異議申し立てをしてることになりませんかね? 俺と社会は違うんだよ、しかもそれは俺が社会を知らなかったわけじゃなくて、社会を内側に摂取したうえで、それでも違う、仕組みが違う、成り立ちが違う、そういう切実な叫びを発することなんですよ。いわば、相手に従順であることによる抵抗、相手を立てることによる復讐、それをやってるわけですね!笑

僕は、僕たちは、みんなは、不本意にも正しかった。


シベリウス 交響曲第六番第四楽章

  zero

 階段が、坂が、川が、ゆっくりと幅を狭めて、水から炎へ、その蔓の雨から暴風に向かって、感覚を遠く、近く、また遠くへと、ねじれた船舶の直線をたわませて、神殿は太陽を覆した、階段が、また階段へと、大理石の二〇歩分を削った後の山猫、山猫が哄笑する、高く、低く、レンガのように、残る静けさのひびの川岸に宿る球体としての追悼

(上端と下端とが繊毛で縁どられて 中央部に歯のようなものが乱立する 短さの力さえ分からない反戦の夜は終わった 傷だらけの朝焼けの空の窪みから次の窪みまで 杉と岩と鳥と家とそれらの分母から染み込んでくるやかましい産褥 お前たちの机と机の意志と机の意志の引用に俺は手を結んで耐えている)

 弱くて縮れている、そして憂国の被害を楽しんでいる、さらに北へと移住し、落魄し、高騰する、欅の大腿部をなぞって、そのざらつきと健やかな痛みと反復を、鹿々の睥睨と比較し、平行に、垂直に、よこたわる、都市の第一層の一階の屋根まで立ち上り挫折し、今度は昇天し殲滅される、都市の塔が展開され組み立てられ再び空となった、旅人よ、旅人よ、大旅人よ

(尖端部で気流が拡散するのを小箱にまとめ込む 小箱を彩る未来の神々の毛髪の匂いに焚きつけられた四角と五角との苛め合い 始まった瞬間に始まりが終わりまた新たな始まりが始まった 脂肪が開闢し骨格が無化しそこから斜めに伸びた途中の五億光年が切り立つように話し合っている)

 大地が、大地とその下層にある無数の遺伝子たちが、遺伝子とその上層にある唯一の松の木が、いくつも巨大な十字を切り、二個の清潔な宗教を食した、空にまで行かないその途中の風のすみかに、鳥とその羽の捜索が、雲とその塵の改革が、製鉄工場で射出されたまま鋳造に至る憂鬱を凌いでいる、巨大なバクテリアからその無意識の高熱を噂にすると、鋭く固まった山猫の足音が叛乱し、撞着する

(ここから二歩進んで御覧なさい 右足でも左足でも頭でもかまわない その二歩に至る運動から落とされていく影の移ろいから変えられていく地面の温度から費やされていくお前の覚醒 青春の圧接された変電器具の配線の赤と青の色の隙間に束ねられた神殿の釘 死ぬのかな 死ぬのかな どこまでも伝染していけ戒厳令)

 踊る、脚を曲げ、手を曲げ、体を斜めに、体を回転させ、呼吸の流れを妖しい天気の名のもとに、腕の筋肉の開発と再開発から滴ってきた脳の休息、睡眠、悪夢、搾取、一つ一つの茎を折っていく仕草に絡み取られた後にしがみついた哀悼、再び躓き始めた冬の一時間

(融合する暇もないまま代わりに化合した 乗車券に記名されたことと母の日に離婚されたことと衰弱の果てに皆勤賞をもらったことと 横にされたカラーボックスに足をかけ すぐ近くにある山頂にさらに一足 そこから四個目の恒星に志願したが手続きは破棄された 小哲学を切り刻み刻まれた後に残った牛の香りにいつまでも漂っている)


ふたつの終焉

  zero



美しいものは汚されるためにあるのです。隠されたものは暴かれるためにあるのです。邂逅のように、再会のように、死別のように、僕はどのような重力とともにでもこの映像の糧の中を泳がなければならなかった。歴史の埃によって彩られてあるために一層美しい、伝来の白磁が善人によって路上で割られた。それぞれの破片はとたんに険しく人を傷つけるものとなり、それまでの滑らかな形体を失い、雑踏と喧騒とあらゆる無関心によって研ぎ澄まされてすべての声を吸収した。少年であるということは、大地から生え出たままの内側であるということだ。美しくふさがった光の体に歴史の血液を引き込んで、本質的に何物も裂けたり欠けたりしないということだ。裏庭ではユズリハの勝気なたたずまいと冗長な葉が風景の局部にささやかな表現を燈していた。街路では友人と会う約束をしたのだが遅れそうになって速足で歩く主婦が子供への愛情と夫への愛情を混ぜ込んでしまった。大使館では外交官が他国の外交官に向かって国家の意思をその舌と声帯の湿り気の中に腐敗させていった。そのようないくつもの、いくつもの絡まり、つまり社会システムは僕の何もかもを見通していたが、僕にとって社会とは常に背後であった。気配を感じる場所、悪寒を感じる場所、ふと手を添えられる場所であって僕の宇宙を超えていた。その背後に忍び寄ってきて悪口雑言の限りをつくす壊れたブリキのおもちゃがあり、僕が振り向いてもすぐさま背後に回られるので僕は堂々巡りをしながら社会からやって来た奇妙な来訪者の悪口雑言をすべて却下したつもりでいた。しかしブリキのおもちゃはいつの間にか牛になりその黒い眼に満々たる憎しみを湛え、さらにはいつしか虎となりその体重で僕は大きく突き飛ばされた。僕の背後ではこのように社会がむくむくと黒い煙を吐いており、やっと僕は社会を振り返ることができた! だがその瞬間、舞台は劇場、振り向いた視界には満員の人たちがてんでに僕のことを嘲笑している、大笑いしている、嘲笑は釘となり僕の全身に打ち込まれ、嘲笑は鋏となり僕と人々との親愛の鎖を断ち切った。そうして愛は、包み込む無垢な仮想された愛は、僕の心の重量とともに死んだ。少年は少年である条件と権利と義務と背後を失った。もはや僕は美しくも秘められてもいなかった、すべてが貫通され吟味され貶められ、品評の対象となり、愛の盾などという盲目の装置は消え、貫通してくるものから防御するため自身の皮膚を新たな悪意の盾としなければならなかった。美しいものは汚していこう、隠されたものは暴いていこう……!



天界も地界も同じようなものだった。どこまでも収束しようとしていく漸近線からの接触を無限に拒絶するということ。水のかけらも光の房も風のとげも何もかも触れることができない、天上と地下の二つの絶対領域。僕はそこに住んでいたと同時に、そこへ無限に近づいても行った。完全な鉱石と完全な図形と完全な引力が、この人間の薄っぺらい生活空間の上下両方に螺旋を描いて、論理と倫理と権力のあでやかな立体を鋳造した。あらゆる細部、あらゆる差異、あらゆる表情を凌駕する形で、一つの単純な宝玉はその表面と裏面とを天上と地下で分かち合っていた。学問、文学、研究、芸術、道徳、そういったものは、細かな根付きと犀利な構造でもって生活から生え出たものであったが、僕はその優しい連結を観念的に断ち切って、それらを天上と地下の二つの絶対領域に熱と共に閉じ込めた。空虚だが態度と方向だけは豊かだったそのような日々を経て、僕はついに自ら生計を立てなければならなくなった。生計を立てるために、身体のあらゆる部位から鎖を放ち、身近なところからはるか遠くまで、透明なところから濁ったところまで、巻きつき絡みとり、逆に巻き付かれ絡み取られるのを敢行していった。それは、数限りない他者との対決と和睦とすれちがいであり、正確無比な社会との愛に満ちた抱擁であった。人間の生活空間は、僕がそれと対話するに従い、相対的な巨大さを増し、巨大な相対性を増し、僕の天上と地下とも感覚しあい相対化していった。天上にあった硬質な真理やとげだらけの善、吹きすさぶ美はそれぞれの根を暴かれ、生活の土壌に咲く花々となった。地下にあった膨大な憎しみや消えない傷、さびしい特権意識はそれぞれの頭蓋が透視され、生活の洗濯紐にぶら下がる柔らかい物資となった。絶対的なものはもはやどこにもなく、相対的なものを絶対視したという錯誤の苦い現実性だけが砂のように残った。夢や真理や憎しみや外傷よ、すべてにさようなら! 僕はこの際限なく広がる人間の生活のシステムの中をどこまでも分け入っていく食欲で十分希望に満ちている。


  zero

私は実家の南にある野菜畑で産まれた。私は幾重にも重なった肉の皮の中で、羊水に浸されながら、地下にへその緒を差し込んで、水分や養分を吸い上げて少しずつ成長した。その肉塊が十分熟したとき、肉の皮は一枚、また一枚と剥がれ落ちていき、遂には羊水が外へと流れ出し、私は産声を上げた。そのとき、畑には冷たい雨が降りしきっていたが、傘をさした父母がやって来て、私を取り上げ、顔のしわが固まってしまうくらい喜びで満面の笑みを浮かべた。父と母は交互に私を抱き、私の額に接吻し、かつて私を覆っていた肉の皮を拾って、堆肥を作るためのコンポストに投げ捨てた。

母は料理が得意だった。母の土料理には驚くほどヴァリエーションがあった。黒土がベースの料理が多かったが、母は栄養のバランスにこだわっていたし、一日にたくさんの種類の土を食べるのが望ましいと常々思っていた。赤玉土や鹿沼土によって軽みを出したり、逆に荒木田土によって重みを出したり。もちろん、堆肥や腐葉土は子供の成長のためには欠かせない食材だった。母は、土を溶かしたスープに野菜を煮込んだり、粘土をつなぎにして土団子を揚げたり、土を炒めてご飯にかけたり、様々な料理法を用いた。土は主食であり、野菜や穀物は薬味でしかなかった。

私は土を耕すのを生業としている。その土に、キャベツやニラ、白菜などの葉物、大根・人参などの根菜類など、多様な野菜を植えて市場に売り、そのお金で生活している。畑は私の身体の延長である。むしろ、私が畑の身体の延長なのである。畑にいたる道の土の上に立つと、すぐさま私は自らの感覚が広い平面に散らばっていくのを感じる。私は木々の根の張り方を感じるし、水の浸み込み具合を感じるし、光の強さ・色を感じる。畑に入って、鋤や鍬で土を耕すと、自分の体をまさぐっているかのようにくすぐったく感じる。私は畑のどこが肥えていてどこが痩せているか、それを、身体の各部位の具合のように知ることができる。土に肥料をまくと、何か温泉にでも浸かったかのような快さを感じる。そして、私は畑にどのような間隔で、どのような方角へ作物を植えていったらいいかどうかを、脳の論理法則でもって直に導くことができる。

私は生と死との区別がよく分からない。私はそもそも土から産まれているわけであるし、土を摂取して生きているわけであるし、この体が朽ちてもただ土に還るだけである。土はずっと生き続けると同時に死に続けている。だから、私もまた生きると同時に死ぬということを日々行っているのだ。生の充実、これは人間にしかない、とか、理性による自然の支配、これも人間にしかない、とか言われるかもしれないが、春を迎えて一斉に雑草を芽吹かせる畑の歓喜はまさに生の充実であるし、畑の構成や構造はまさに理性であり、それに人間はいつでも土によって支配されているのであってその逆ではない。

そんな私も、短い期間であったが、土と離れて暮らしたことがあった。冷害の年で、作物の実りがあまり良くなかったから出稼ぎに行ったのである。都会での建設現場の仕事は、私を著しく疎外した。食事もまた私を困らせた。土のない生活は、私にとっては身体を失った生活であり、それゆえすぐさま不調になって家に帰ってきた。私は帰宅一番、畑に行って、一番肥えているところの土を口いっぱい頬張り、腹が満たされるまで土を食べ続けた。私は飢餓状態だったのだ。

今日も土の粒子たちはきらめき、ひるがえり、無数の心地よい音楽を奏でている。そして、粒子たちのまなざしの集まる土の各層には絵画的な美が生まれるし、畑における各部位での土の組成や土の固まり具合、湿り具合は、何か彫刻的な美を生み出していると私は感じる。

文学極道

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