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zero - 2012年分

選出作品 (投稿日時順 / 全5作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


無題

  zero

海はどこに隠れた? こんなにも空は涼しく、こんなにも山は遠慮しているのに。/それが教授と愛人との踏みならされた日々の果実のような疑問だった。/僕は居てはいけない人間なんです。あらゆる部屋、階段、交差点、肉体、それが僕を許してくれないのです。それは羞恥と言ってもいい。あるいは、執着、焦慮。/学生は低いソファーに居心地悪そうに座りながら、ふと天井のさらに上部の構造の、その隙間に圧倒されて転倒。/教授の研究室の本棚は金属製で、木製であることと決闘したかった夜に運び込まれた。本棚に次から次へと並べられる数学の本たちの体温に、蛍光灯の光はそっと思いを寄せた。/私、私の感情を見失ってしまったの。愛と憎しみだけではなくて、名前のない感情をいくつも貴方に抱いているわ。/愛人は少し汚れた窓のそばにそっと立って、そして船は? 貿易は? 風は?/教授は試験の採点に様々な定理との確執を詰め込んだ。答案用紙の罫線の上を滑る血の粒子たちの嗚咽、衝突。/私はねえ、生まれたときから革命を繰り返してきたのだよ。歩くという革命、しゃべるという革命、その他。え? それは滅亡だって? 君はなかなか優秀だ。/教授は短く刈り込んだ清潔な髪形をしていて、学生はそれと競うようにだらしなく長髪を鍛え続けた。/そして、やはり、海は? 海流は? 海溝は? 疑問のとばりは濃く三人を彩った。/僕が思うには、人生なんて一個のリンゴの実よりも柔らかい。人生なんて星明かりの残滓のような淡いものなんです。だがやけに鉄分を含んでいる。僕の中では砂利と化す鉄分です。/学生は愛人が自分にも好意を寄せていることを知っていた。だが学生から愛人へと向かう小道にはいくつもの放置自動車やがれきや廃墟や丘が据え付けられていた。学生には愛される資格もなければ適格もなかった。

三人は海へと向かった。海と言ってもむしろ講堂だった。むしろ市街地だった。むしろ衛星だった。むしろ山林だった。それらの存在が織りなす液体の集積、それが海だった。/潮風の匂いの中には、いくつもの輝き続ける死が整列しているようで、私は子供の頃の記憶に誘拐されてしまうわ。/コンクリートの崖の上で、微細な波が寄せては返すのを、教授はその力学に思いをはせながら、愛人はその光彩に思いをはせながら、学生はその下の深淵に思いをはせながら、/海に向かって修辞を投げてみようじゃないか。海が滝や湯気や川や氷や宇宙に変換される、その変換の速度を記述しようじゃないか。/僕は海に苛立つんです。まず大きさに嫉妬する。冷たさが怖くて腹が立つ。そして、何でいつまでも存在し続けるんだ。海よ、死ね!/遠くの空のふもとに固着されたかのような小さな船たちの抒情が、学生の眼鏡には降り積もっていた。/美佐ちゃん、昨日と今日と、一年前と、すべてが何でこんなに膨らんでいるんだろう。君と会ってから、私は一つの公理に追い抜かれた気がしている。/先生でも振り向くことがあるんですね。私はいつも先生の背中ばかり見ていた気がしていますよ。その背中にいくつもの地図を刺繍しました。悲しみとか絶望とかありとあらゆるものを。/先生と美佐さんは一つの行動だったと僕は思っています。いつも動き続けていて、僕みたいな静止してしまっている人間からすると、台風のようにかっこよかった。/三人とも海底に身を沈めたかった。教授はその意志の発狂ゆえに、愛人はその言葉の失踪ゆえに、学生はその存在の浅さゆえに。


一二三

  zero

何を残していくべきか、何を食べなければならないのか、どのような回転数が一番ふさわしいのか、そんな問いたちを浜辺の光の中へそっと解き放つ。浜辺はやがて郊外となり市街地となり事務所となる。そこからさらに遠く、海を隔てた大陸の平民たちの暮らしが目に浮かぶ。自転車、コンクリート、木材、自動車、信号、砂埃、時計、机、星のない空、観葉植物、人のいた形跡。人々はすべて痕跡であり、痕跡同士が呼びかけあい、痕跡のためにいくつもの工業製品が作られ商業が発達する。彼もまた一つの複雑な痕跡として、痕跡として完成するために、今日もまたサービス業の痕跡に身をうずめようとする。ああ、人々の外観はなんて美しいんだ! すべてがわずかに流動する固定性の中で統制されている。統制され、その動きや反応まですべてにおいて制度によって彫り込まれた人々は何もかもが美しい。あいさつの仕方、話すときの所作・態度、すべてにおいて二人称や三人称との闘いの痕が刻まれている! 事務補助職への応募。これもまたあなたであり彼らである官庁との闘いだ。履歴書を筋書き通りに書き、そこに自分の差異を巧妙に取り入れる。「私」の偏差は死滅するために膨張し、彼はそれを殺さない程度に傷害する。彼と社会は彼を傷害するにあたって共犯関係を築いている。知能犯であり愉快犯であり確信犯であり、なにより完全犯罪だ。彼の共犯となる社会は絶対に居場所がわからない。浜辺の波と展望台は結局一人称の砦ではなく、それは居場所のつかめない三人称がいつのまにか造形した作品群に他ならない。彼はその固有性の沃土をなるたけ普遍性のやせた土地へと分け与えた。そのため固有性の作物の一部は死んだが、普遍性と固有性が交配して、彼そのものにも二人称と三人称が植え込まれた。そもそも交わらないはずの「私」と「あなた」と「彼ら」が、言語や振る舞いを通じて共通の回路素子で交信しあうようになる。さて、明日は面接だが、もはや一枚岩となった一・二・三人称が和解の地点を見いだせるのは明白だろう…


  zero

お前はついに来なかった
その足音をどこかに葬り去ったままで
俺が自分の嘘を屠殺するこの広場まで
稲は刈られ 柿は熟し
だがお前は来なかった
来なかったという銀河を巻き
来なかったという未来を提げ
これらの嘘はすべて
風のように気まぐれな
二人の間のゆがんだ距離を経て
お前に手向けられたものなのに
大気に水が混じり
空の火が淡くなり
俺の嘘はあらゆる方角を経て
嘘の方角はきしんだ欲望へと集まり
欲望の集まりはお前の口の中へ
俺が傾きお前が支え
その下を無数に流れて行った嘘を
それでもお前は見殺しにするのか
俺のすべての嘘はお前のすべての死児
お前の死児への祈りも俺のついた嘘だ
お前はついに来なかった
俺はお前の死児である嘘たちを焼く
焚火を焼くようにのどかに
怒りに身を狂わせながら


無題

  zero

僕には心がないのです、この充実ですか、これは何か砂糖菓子のような余分なものでしかないのです、ただ甘いだけでそこで閉じてしまいます、あなたはそんなに死にたいのですか、死にたいと言いたくて、死にたいと口にするたびに生きたくなるようでもあり、何かの滝でしょうか、なだれ落ちていく、その後の空白しかあなたを生かすことができない、空と草、洞窟と海、このような類義でも対義でもない斜な関係ばかりですね、首を吊るよりも山で凍死した方がいい、そんな二者択一よりももっとたくさんの選択肢があるではないですか、大体僕がこんなことを書いているのも無数の死を指し示すために過ぎません、言葉の機械性、経験の二重性、世界の孤立、あらゆるところに既にひびが入っていて、ひびどころではない死が、語ることも経験することも存在することもできないものとして、例えば国家試験や近所の結婚、火事騒ぎ、そんなものそれ自体として梳き込まれているのです、僕の心は重なれば重なるほど薄くなっていきます、生きるとは心を重ねて薄くしてしまいには消し去ってしまうことです、あなたは頭の中で他人の声が聞こえるのですか、すごく冷静な声で「親父を殺してしまえ」とあなたに告げて、あなたはその声がとても嫌なのですか、それがあなたの現実というひとつの直角ならば、僕はその直角をまるめていくつもの紐をつくるでしょう、御覧なさい、僕の優しさがこんなに雨に濡れています、光っています、重く冷たく、雨と雨でないものとの隙間に入り込もうとして、アクセル、ブレーキ、速度計、たくさんの都市があなたを取り囲んでいます、僕はそのたくさんの都市を、さらにたくさんの風音で包んでいきましょう、人格というのはひとつの季節に過ぎません、ひとつの人格が移ろえば、景色も温度も変わります、違った花が咲きます、人格の抜け殻からいくつもの国家が立ち昇りました、国家とは夢の物質です、暴力とは菫の媚態です、人々は政治を何度も書き直して、推敲して、権力という書物に溢れるばかりの署名をしたのです、政治は技術の一塊であり、人々から政治から国家から政治から人々へと技術の桂冠が潮を更新しながら、あなたは国家の内燃機関へ手紙を出したのですか、旧交を温めるため、内燃機関の顔面へと文字の没落していくもろもろの要因を噴射したのですか、国家を生きるために自然を生きる必要があると僕は思います、国家の規範と自然の規範の両方に指を捧げながら、今日もマクドナルドは憂鬱なのでしょう、制服を纏った店員の抑え気味な化粧の下でよく動く筋肉の果てから、フライドポテトを揚げるネットの手さばき、大きな看板、簡素なテーブルと椅子、僕とあなたは列に並んで苛立ちを会話でごまかしながら、しばらくしてカウンターに置かれたカードを見ながら注文、飲み物をもってテーブルへ移動し、食べ物がしばらくしてやってくる、何かが突き刺さっていましたね突き通していましたね、僕とあなたとマクドナルドと国家と、その何かにはまた何かがくるまっていて、その何かの上にさらに何かが経過したでしょう、0.932467年以上前のことです、僕は昔、体中に力を入れて歯を食いしばることがとても気持ちよかったのです、祖父母の過干渉のストレスがあったのでしょう、何か排泄するかのような気持ちよさでした、それからいくつの雲が僕の頭上を通り過ぎたでしょう、何匹の蜘蛛が僕の家の庭で鳥に食われたでしょう、年齢は罪です、年を重ねるのは恥ずかしいことです、大きな陥落がテレビで流される度に僕はそこに自らの慙愧を重ね合わせました、少女との恋がありました、何度も目が合いました、目が合うたびに体中が狂おしく甘くなったのです、でも僕は恋を禁止していました、だが禁止していたのは相手の少女であり社会であり政治でありそれらの共謀と延々と過去を無の箱へと落としていく作業、その箱を僕は今部屋の隅の棚の上に置いているのです、オルゴールが時間を切り裂きその快楽に逆に切り裂かれるそういう箱です、箱を彩る輪郭に刷り込まれているのは、僕の欲情が垂らす一滴の汗、箱が懐かしいのは箱との距離を勘違いしているから、告白します、僕のすべての断定は勘違いでした、僕のすべての理解は13度くらい傾いていたのです、あなたは自分が生きていることを確かめたくて腕を切ったのですか、血が出て来てやっと自分が生きていることを実感できたのですか、僕も過去の自分が生きていることを確かめたくて、しばしば想像を膨らませるのです、東京都板橋区の狭い路地を自転車でこいでいるときの自分、その水銀のような統覚と雨のような身体、記憶と想像の二つの長所にあいさつを重ねながら、過去に僕が生きていたことを確かめることで、現在の自分が居てもいいような気がするのです、過去がなかったら今の自分は不当です、悪です、過去があるから現在は正義なのです、さて未来を想像してみましょうか、未来に挨拶して握手して会話していつの間にか未来と入れ替わりましょうか、ところが未来は出入り禁止です、僕の城下町には入れません、なぜかというと希望という厄介な病気に罹っているからです、希望によって皮膚がただれた泣きそうな少年が僕の未来です、少年と僕とは戒護者立会いの下でガラス越しに接見するのです、未来という少年は永遠に服役しなければなりません、生きている実感、それは多様な仕草で人々の口のあたりに貼りつきますね、孤独ですか、それは何を指しているのですか、例えば世界で初めて生まれたエネルギーは孤独だったでしょうか、孤独とは挫折あるいは挫折未遂、孤独な人間の周りにはあまりにも美しい情念が広がっています、孤独な人間は空間を飾り過ぎるのです、だから虚しくなる、挫折する、人間は美しい関係未遂を繰り広げることで、その論理的背後である孤独に再び修飾されるのです、部隊が編成されます、兵士が行進します、戦争の演習が幾度もなされます、あなたが復讐心に駆られて相手に反撃する、それは戦争と同じではないですか、口喧嘩と撃ち合い、どちらも同じ回路の上を走っていく超越同士の衝突でしょう、僕は昔よく喧嘩をしました、素手の喧嘩です、一度警察に通報されて、取り押さえられて、尋問されて、釈放されて、警察官の体を支えている大地には権力の肥料がまかれていました、警察官の制服には国家の押し付けがましい苦悩が焼き印されていました、行政の意思決定における上司と部下との確執が僕に烙印を押すべきか流れに流れていったのです、あなたは何もかもが嫌なのですか、あなたの中には複数のあなたがいて、それらのせめぎあいが絶えざるストレスを生んでいるのですか、そしてそれを発散するために、酒を飲んでは暴れ、そしてそれを後悔するのですか、僕には嫌悪する資格がありません、嫌うことによって築かれた小さな丘の上で自足していると、いつの間にかその丘が奈落だという現実と幻想の折衷物に背筋をまさぐられてしまうのです、僕は好んで分裂しますが、分裂した木の枝や小宇宙や活字がそれぞれに愛し合い絡みあってしまうのです、僕はこの分裂してもなお生き伸び続ける自己愛が怖い、そしていつもの自分のキャンバスからはみ出る快楽と苦痛は、もはや自分が描かれる場所がないという香りのようなものにはじき出され、暴れることによって不在になることの手触りはどんどん増殖してしまいました、あなたは入院するのですか、病院による監視の粒によってあなたは穴だらけになるでしょう、近所の噂話の壁によってあなたは水平の重みを感じるでしょう、病人を隔離する制度がその目的の純粋さを失い社会の感情と政府の権力によって泥まみれになる現場においてなおもあなたは自分の存在を叫び続けることができますか、


  zero



冷たい水のような闇をかき分けて
叫びだす一歩手前の植物たちを
いつまでも一歩手前でとどめるために
踏みしめて歩く
冷たい水のような闇の水圧は高く
わずかに届く水溜りの薄明かりさえも
何も映さないために表面を枯れさせる
この闇がすべてへとつながる結節点で
夢は氷のように凝集している



家の裏手の狭い道路を走っていると
太陽は右上に容赦なく照っていた
国道へ向かう果樹園の間の道でも
太陽は追いかけてきた
追いかける太陽をさらに追いかける者へと
花束の痕跡をくれてやり
二度と追いかけるなと自分の体で太陽を遮る
光の始原は隠れていろ
私は背中で逆に太陽を追い続ける



幾年の風雨が溶け込んだ民家の壁にも
人を手なずけてしまった自動車の窓にも
太陽は砂のように流れ落ちる
吊し上げられた太陽は
構成されることも処刑されることもなく
ただその夥しい光で無数の分子たちに呼びかけている
分子はさらに原子に呼びかけ
原子は太陽に呼びかけ
円環が円環のままに



シュレッダーにかけられた美しい哲学も
空港で踏みつけられた時計の神経も
郵便に紛れ込んだ一粒の生命体も
残らずお湯の湖に浸していく
足から尻、腹から肩へと
気圧と水圧の嶺の接する所へと
宴は際限なく皮膚に飲まれていき
夜は切れ切れに口から指し示され
ふと、誰かが沈黙するのが聞える



朝の闇が凍った意識のようだ
くしゃみをする
季節の変わり目の寒さに対応しきれずにだと
だが朝の物音が血液を模倣しているようだ
それに朝の家具ははっきりと目覚めすぎていて
朝の月は空から飛び出しそうだ
そんな朝にくしゃみをする
そんな朝をくしゃみする
私も凍るためには必要な手続き



冬は日記帳の中に書き込まれた一筋の金属
あなたの髪が放つ表情から消し去られた温度を厳しくゆるします
冬は改札口に突き刺さった一羽の小鳥
あなたの指先がこれから描こうとする愛に正しく謝ります
冬は未踏の森の奥に開かれた匂いたちの店
あなたの目が話している素朴な矛盾に小さく頷きます



まず幸福をゆるし
次は殺人をゆるした
そして笑顔をゆるし
さらには権力をゆるした
それはすべて、すべてを緩すため
幸福の発熱に理性を与えくつろがせ
殺人の甚大な余波に文脈を与えくつろがせ
笑顔の与えすぎな余剰を削ってくつろがせ
権力の硬直した監視から身を隠しくつろがせた



花が咲き乱れていた
僕の体の中に
僕は内側から花の美しさに冒されていった
例えば晴れた正午の切っ先に
花が蠢く、光をまき散らす
花はとても美しいので僕はとても苦しかった
やがて花は醜く枯れていき
僕はようやく花の苦しみから放たれる
そして花は実となり苦しみはもう殻の外に放たれない



僕は君と出会って世界が全てわかった気持ちになった
君は無限の海で移ろいゆき汲みつくせない存在だった
だがそれはつまりは「僕」の殻が「僕と君」の殻に変態しただけ
僕と君、二人の対のエゴイズム
僕はその先へ行くために君をまた一人の別の人間として
殻の外側に降り注ぐ雨として捉えなければ



太陽が俺をさえぎり続けた
光と形と熱すべてが俺をさえぎった
なぜおれは復讐してはならないのか
俺を陥れた人々社会
すべてに死を与えることは月も許さない
そこで俺は復讐を諦め太陽の内側に入った
太陽の使者として人々に光を与えた
そしてある時気づく
この権力こそが実は復讐だったのだと



僕は詩を読みます
まだ聴いたことのない音を聴き、まだ見たことのない光を見るために詩を読みます
時には波に乗るようにして、時には地面を掘るようにして詩を読みます
何物でもなく、何物でもあるような未明の形体と融合するために詩を読みます
ある時は机上である時は駅の喧騒の中で詩を読みます



雨滴がどこまでも落ちていき疲れ果てて地上へと身を横たえる
地上の水たまりに映った金木犀は憂鬱を酸素に光合成して曇った空へと進出する
病が椿の木の毛根をめぐり相手を死なすか自分が死ぬか禅問答を続けている
そして雨は霧のようにわずかな音を立てて大気を満腹にし
消化液として風景を溶かす



たった一つの沈殿した「さようなら」を
たくさんの華々しい「ありがとう」で包んで
そうして僕らはいつも無口な天秤のように
血の重さと肉の重さを釣り合わせている
喪失はいつも形のわからないもので
「ありがとう」でどう包んでよいのかわからなくて
本当は天秤も振り切れているのかもしれない



いつも細胞の中で飛び跳ねている歌たちが
遠くからかすかにほのかに聞こえてきた朝
僕は夏の体を食べつくして秋の体を着込む
夏と秋を決めるのは僕ではなく
例えば一匹の羽のちぎれた蛾である
死んでいく者たちが存在を遺していくということ
季節はいつもそのようにして今日も僕の歌を書き換える



言葉というものは積木細工です
単語が一つ一つの積み木で
名づけは僕らの知らないうちに傲慢に冷淡になされています
僕は積木の組み合わせに飽きて
自分で積み木を作ろうと
こんな夕方を「ひろり」と名付けてみました
ひろりは無垢で文脈や同意によって鍛えられてなくて
でも壊すには可愛すぎて



廃屋の屋根をひょいと跳び越えて
バイクの通り過ぎる慌ただしい音が
僕の鼓膜をひょいと跳び越してきた
それは音楽の一つの素子
みるみるうちに増殖し
僕の目の前に交響曲の幻想を描き去っていった
さらにひょいと来るのは永遠に続く虫の声
幾つもの音階に分かれて
協奏曲の綱を絞り出した



労働者よ、君の呼吸からは
いくつの宇宙の成り損ないが
筋肉と汗と書類の星座を作り損なったのだろう
労働者よ、君は疎外されていないしかといって自由でもない
労働することは人間を生み出すこと
身体を生み出すこと
精神を生み出すこと
それらは尊くも卑しくもなく
関係を捕食すること



氷の朝の背後に隠された宝石を
君のヴァイオリンと共に叩き壊せ
その背後では水鳥の内臓が人間の憂鬱を検査している
そんな昼間には大きくなり過ぎた銃口が
君を飲み込もうとするから
すべてを画像の中に宣伝し
労働が労働を無数に呼び込むときに
君は一人の商人であり銃と剣を売っている



物語と歴史のはざまにいくつもの声が重ねられた
歴史は時間と物質でできた朝陽の海だ
黒くて強くていつも広々と開拓している
物語は幻想と連続でできた山中の川だ
町と町、人と人との隙間をいつでも狙っている
美しい物語が醜い歴史と結婚するのは
醜い物語が美しい歴史と結婚するのと同じことだ



僕は詩を書きます
友人と語り合った帰りの車窓からいつまでも眺めていた夕陽を見た後に詩を書きます
他人から書けと言われてそれがいつの間にか血肉にまで滲み入ったとき詩を書きます
人を愛しているとき恥ずかしいから気持ちを分析分解して詩を書きます
挫折の度に苦しく激情に襲われ詩を書きます



この身の一大事とばかりの一行目
やはり書き始めるんじゃなかったと後悔する二行目
それでも連結と展開に才を見せびらかそうとする三行目
やっぱり「才走った私」なんてどこにもいなかったと失望する四行目
それでも無様な責任だけは感じて書き抜こうとする五行目
やっと終われると安堵する六行目



蝉がどんどん死んでいるな、何かの比喩のように



人が人を愛するように
僕は例えば一通の被害届を愛したのです
人が人へと恋文を送るように
僕は例えば官公庁へ履歴書を提出したのです
人が人を愛撫するように
僕は例えば法律相談所の机を撫でたのです
人が人を憎むように
僕は例えば整然とした都市計画を憎んだのです
人が人を愛するように…



現実から幻想へと逃れても
幻想まで悲惨であるとき
花々はとても冷酷で
鳥たちは知らない歌を歌っていた
憎しみや復讐が存在理由である、と
そんな悲しい言葉を所有することに慣れたとき
花々の美しさに対抗できるようになった
復讐の動機を遺失して初めて
人々が僕の中に根付き花を咲かせた



ここはどこでもない場所だから
方角もなければ外部もない
僕らは役目を終えて散った花びらのように自由さ
だから国家に歯向かう必要もなければ
国家に従属する必要もない
革命も運動もインテリ気取りも大統領になることも
すべて可能だけれど何の意味も持たない
とりあえず政治も文学も捨てよう



緑色のタヌキが人里を笑いながら通り過ぎて行った
それは救世主が救世主であることをやめた日だった
赤色のペンギンが足元の氷を割って聖句を囁いた
それは現代の十字軍が使命を忘れた日だった
紫色の少女が中心街で大きなラッパを吹いた
それは強い画家たちが一斉に絵筆が目障りに思えた日だった



生きるというただそれだけのことがとても悲しくて
涙が出るほど悲しくて
僕はつと立ち上がると外へと駆け出していったのです
外は小雨で地面は濡れ
僕は蓄えた悲しみを持て余したまま遠くの森を眺めていました
この風景を信じる
そしてこの悲しみを信じるということ
それでも救われない気がして



僕はこの霧の外側にいる
ストラヴィンスキーの覚醒に追いつくために
いくつの星座を解体せねばならないのか
僕はこの体の外側にいる
ストラヴィンスキーの発情を葬るために
いくつの晴れた空を割らねばならないのか
僕はこの詩の外側にいる
ストラヴィンスキーよ、僕に孤独を与えた張本人よ



I'm not a poet because I have ever written many poems.(私は詩人ではない、なぜならこれまでたくさんの詩を書いてきたからだ。)



夜があまりにも静かだったので
僕の脳髄もあまりにもとろけ落ちてしまいそうだったので
ドヴォルザークを聴きました
ドヴォルザークは僕の聴覚なんて局所に集中しているのではなく
宇宙の静寂を別の角度から切り取って来るような響きでした
こんなにも宇宙は何もないのに均衡や軋轢で満ちている



僕は僕たちではなく私たちになっていった
僕も私に姿を変えていった
僕たちが抱いていた自発的で尊い唯一のものを失って
私たちに組み込まれている受動的で機能的で普遍的なものを獲得した
僕の抱えていた孤独や愛もいつの間にかこぼれ落ちて
問いかけ続けていく自己や他者が私を次々と組成してく



僕たちは幾つもの季節を投げ打ってきた
意欲の深い季節や喪失に怯える季節、実り豊かな季節や交通の煩雑な季節
そこから返ってきたとりどりの物質たちに現在を捧げて
僕たちとは誰でありどんな表面であるのか
毛布にくるまれた音楽がいつも僕たちのような気がして
そして僕は僕たちでなくなった



船に乗りましょうとあなたは言った
それより今何時ですか?
私は昔からこういう性格なのですとあなたは言った
それよりここどこですか?
芍薬の花がとてもきれいですねとあなたは言った
それよりあなた誰ですか?
私の気持ちを分かって下さいとあなたは言った
それよりご飯はいつですか?



ドヴォルザークが血液と交差した日没前
僕はカーテンの隙間に意識の隙間を際限なく送り続けて
それが僅かな光となる度に失望しては体温を高め
音楽は名前を失くして純粋な「彼」に還る
僕は体の各部位の角度を少しずつ歪めていき
水位などという平準化に植物を生やし
再びドヴォルザークと呼ぶ



少年は、CDの最後の曲が鳴り止んだ後の時間が苦手だった
少年はいつもヘッドフォンで音楽を聴いていたが、最後の曲が終わってしばらくするとCDが停止する、そのときのズン、という音が苦手だった
曲が終わってもわずかなノイズは鳴り続けるが、CDの停止と共に真の静寂が来る、それが怖かった



動物が学問のように見えるなんて
僕は頭が狂ってしまったのかと思いましたが
部屋に戻って政治学の教科書を読み始めるとどうも鳥のように飛び立ちそうでしたし
慌てて行政学の教科書を開くと今にも吠え始めそうでした
そこで急に閃いたのです
学問も動物も詩の中では全く置き換え可能だということ



僕がいつもの散歩に出かけると
電線の上に鳥が停まっていました
ところがどうもその鳥は政治学のように見えるのです
鳥と学問の一体どこが似ているのかさっぱりわかりませんが
しばらく歩いていると犬の散歩をしている人が向かってきました
ところがどうもその犬は行政学のように見えるのです



満開の大きな桜の木の下で
試験が行われました
例えば僕が子猫を買ってもよいのかどうか
桜の花々は沢山光を振りまき
僕はそれをじっと見つめていました
試験は限りなく遂行され
その度に僕は合格したり不合格したりしました
桜の花は一つ一つが問いでした
僕のまなざしはそれぞれが答えでした



夢の中に置き忘れられた風景
その中で僕は置き忘れられました
その中では今も風が吹き木々が揺れ
人が悲しんでいるでしょう
どこにでもある宇宙の外れ
その崖の下へ僕は投身しました
崖はいくらでも増え続け
その度に僕は投身しなければならず
そして再び夢の中で僕は自分の死体を撫でています



僕は何でもかんでも都市に見えてしまうのです
田んぼに植えられた稲の苗
あれなんか都市のビル群みたいじゃないですか
水道完備の
山に登ると
鬱蒼と茂った林が都市みたいですね
鳥や虫が郵便の役割を果たし
僕の体も一つの都市です
こんなに精巧な都市はありません
会話は都市同士の話し合い



僕は果樹園から沢山の言葉をもぎ取ってきました
これらの言葉を選別して
梱包して
チラシなども一緒に入れて
宅配業者に送ってもらったのです
送り先はことごとく人の住んでない廃屋にしました
人がいなくても置いてくるように
そして言葉が廃屋の中で熟して腐敗していく
誰にも読まれずに、



僕の街には名前のない店があります
その店の売り物を眺めるのは楽しい
例えば僕がこれまでに忘却した大切な記憶が売られています
例えば僕の恋人への愛情が彫刻になって売られています
例えば僕の名前が名前の食物連鎖でどの位置にあるかの図が売られています
そして勿論僕の名前も売られています



今日、僕の人差し指が描いたひもを結ぶ円軌道は孤独でした
今日、僕の体をどこまでも包んでいた地球の大気は孤独でした
今日、僕の足跡はいくつもいくつも孤独のままでした
今日、あなたから届いた長い手紙は孤独でした
今日、あなたが僕に示したすべての好意は孤独でした



音楽も断ち
ネットも断ち
ひたすら大気を眺め
大気の中を歩いていく
この木も小屋も春の花々も鳥たちも
すべては大気の装飾物
ひたすら大気の動きと色と広がりに滲みこんでいく
私は装飾物になるには若干重すぎ硬すぎるので
深呼吸をし体の力を抜き
ほんの一瞬だけ装飾物として風景に溶け込む



振り返ってみると
僕の人生はきわめて行政的でした
出生届から始まり
幼稚園への入園申し込み
小学校中学校高校の入学・卒業の手続き
20歳で婚姻届
25歳で離婚届
そして来月には死亡届となるでしょう
どうせ癪だから
人生満喫してます届でも出してみましょうか
行政が喜びますから



僕は近くの山に登りながら
不意に気づいてしまいました
この木も草も土も全てが工場で生産された構造だということに
しかもその工場もまた一つの構造なのです
匂いも潤いもなく
ただ解釈を迫る構造に全てが還元されていき
そう言えば僕はその工場で構造のバイトをした事もあったよなあ、と

文学極道

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