花々もなく、人生を折り曲げるほどの歓喜の思い出もなく、ただ学生として生きることが自然な網でもって捕えていく雑草のような物資だけのある部屋から、私は引っ越そうとしていた。引っ越すことの目的や理由、理想的な引っ越し、引っ越しの学的構造化、そんなものは、私の意識の裏側や、他人の意識や、誰の意識も届かない晴れた野原、その辺に転がっていて、私にはただ現実の沈殿物のような引っ越ししか頭になかった。父母が手伝いに来てくれた。家具や段ボール箱を、エレベーター経由で一階に下ろし、そこからトラックまで運んでトラックに積む。掃除も終わり、部屋は一個の、虚ろで清潔であたかも膨張していきそうな空間と化した。荷物を積んで実家へと進むトラックの中で、私は何かをあの空間に置き忘れてきた気がしていた。その忘れ物が、私の過去の身体の流れなのか、私の部屋にまつわる記憶の真意なのか、それとも空間そのもの、その味わいと苦しみなのか、私にはわからなかった。
彼女は駅のターミナルから市営バスに乗った。彼女はバスが少しだけ嫌いだった。アスファルトと乗車口に死のような段差がある。乗った時に椅子がみんな軍隊のようにそっぽを向いている。監獄よりも狭い椅子という空間に冷凍血液のように固まらせられる。揺れを意識しまいと彼女を洗脳する運転手の清潔な罪。だが今日の彼女はむしろバスを好いていた。新しい街の複雑な構造、建物の造作や看板の文字・彩色、枝を払われた街路樹の生々しさ、それらが彼女を、一篇の長編小説のように楽しませた。バスが主人公で、流れていく建物や交差点は、小説内の露光され造形化された出来事のように思われた。印象的な店は新しい登場人物で、バスと恋愛したりするのである。そして彼女は美術館に着いた。地方の美術館の常設展を彼女は愛していた。彼女は一つの絵の前で立ち止まる。その絵には、それぞれの大きさをもった三つの灰色の長方形が無造作に置かれていた。彼女は軽いめまいに襲われた。そこにはあらゆる空間が、つまり、彼女を突き抜けて通路へと屈折していく空間、彼女が過去に深く望んだのだけれどそのまま死んでしまった空間、画家が憎んでいるのだけれど画家の体内に抉り込まれた空間、長方形がほかの絵たちと謀議するための空間が、融合し離別し鋭さを増していた。
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zero - 2011年分
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空間の定義
彫刻家
この地球を彫り上げる彫刻家と
話をする機会があった
「初めまして。僕は日の光のように形を持たないのですが、日の光のように、物の形を影として作り上げます。ですが僕が作り上げるのは影です。影は光を追い越せません。その点あなたの彫り上げた地球はあなたが生まれる以前からありました。地球はあなたを追い越してしまっているのですね。」
「初めまして。私は非常に記憶力の強い空間です。物質というものはいわば空間の死骸でして、すべてを透過する生きた空間が死ぬととたんにそこが物質となってすべての透過を妨げるようになるのです。私は完全に生きた空間でしたが、あらかじめできあがっていた地球と同じように部分的に死んでいきました。そして、地球と同じ物質になったというわけです。その際に死んだ部分の生命のエネルギーで、あらかじめあった地球を、すべてを透過する生きた空間として生き返らせました。だから、今は私が部分的に死んでできた地球のみが物質として存在するのです。」
「なるほど、僕は日の光として、反射することによって物質を作り上げますが、あなたは死ぬことによって物質を作り上げるのですね。ですが反射は物質の運動を追い越せません。それに対して、あなたは物質の運動に先立って運動していますね。」
「私が彫刻家と呼ばれる所以はそこにあります。例えばボールが転がるとき、ボールがもとあった空間は生き返り、ボールが到達する空間は死にます。そのとき私は、ボールが到達する空間からその血液を抜いて、ボールがもとあった空間へとその血液を移動させるのです。私の統御するこの血液の運動こそが、物質の運動に先立っていて、地球上の物質のあらゆる運動・変化を彫刻するのです。」
「なるほど、僕が日の光として生きた空間を透過するとき、常に僕を翻弄する流体があると思っていたら、それが空間の血液だったのですね。今日はお話できて楽しかったです。またお会いできるといいですね。」
「そうですね。」
僕は新しい理解の温流を浴びながら
理由のない義務感に駆られて
椅子から立ち上がった
老彫刻家は煙草の灰を灰皿に落とした
灰が熱を失っていく速度で
表情を無防備な状態に戻し
二度とこちらを見なかった
僕は家具が豊かに配置された部屋を出て
玄関のステップを降りた
頭上には日の光が降り注ぎ
足元には地球があった
宛てられる
本の続きが読みたいと思ったので
部屋を出て外へ向かう
ポストの裏側に続きは書いてあった
また続きが読みたくなったので
デパートへ行く
エレベーターの壁に続きは書いてあった
(僕だってこんな風に書かれているのだ)
部屋で人を待っていた
その人がやってきたので
慌てて窓から逃げる
今度は林で人を待っていた
その人がやってきたので
見つからないように
林の奥へと入っていく
(僕だってこんな風に待たれているのだ)
食べたいものがいくつもあって
何を食べるか迷ってしまったので
食べたくないものを食べることにする
食べられるものと食べられないものでは
食べられないものの方が好きだ
食べられないものを食べたいのだが
僕には食べる資格がなくて
(僕には消滅する資格もない)
フランスに行きたいと思ったので
フランスがやって来た
ルーヴル美術館は
うまい具合に動いてくれて
僕は部屋の椅子に座ったまま
すべての作品を見ることができた
(僕だってこんな風に動いているのだ)
儀式
手首の上をながれてゆく触覚を足の裏に溜める。肌からにじみでる殺意が皮脂に溶け込んでしまうのは、私の内なる単子が水を吸った海綿だからだ。水色の球面を幾度となくめぐり、針をうしなった摩擦力。角の取れた立方体。私は右手を挙げて、「冬に哭く者」を呼びとめる。もはや目線はつま先を追わずに、はぐれてゆく雲の投影だけが私のいらだちを終わらせる。もはや哭かないそれは、乳房に蒼い火をともして私に盃を手渡す。水平面からあふれ出る泪が、大地へと、私へとこぼれ落ち、蒸気となって眼のなかへ吸い込まれる。遠いなぎさで虹色の泡が砕ける。私は泪の盃を飲み干す。それは、動物のおさえつけられた欲動からにじみ出た濁酒。植物の凍結への覚悟が結んだ清酒。冬空にうがたれた坑道の秘奥にてそれが涙腺へと受け止めた酒醪だ。私の胃のなかで逆巻くその液体は、それぞれのはじけとぶ音素へと姿を変え、孤独で塗りかためられた私の肉壁を透過する。数限りない段差を弧状にのりこえて、すべての凍えるものへと快楽を運んでゆく。外なる木々に目撃されたときのように、私は均衡を失する。世界中の土壌のおもてに、熱素が殻をやぶり、融けだす。
手首の上をながれてゆく触覚にはもはや場所をあたえない。殺意は見知らぬ湿った森のなかで殺されてしまった。紫の線分を二往復して、葉の裏の虫たちを呼び寄せる私には、いくつもの小さな文字が届けられる。私は左手を挙げて、「鍵を産む者」を呼びとめる。私の兄弟は頭からくずれてゆく、今日もまた極地へと旅立ったのだ。螺旋をえがきながら降下するそれをめがけて、私はからの盃を投げつける。盃は空気のにごった流れに侵食されながらしずかに形をうしない、ひとかけらの雪になる。最後の雪に。雪のすべってゆく軌跡を追うようにして、それは私の前へと着地して、七つの瞳の色をなめらかに推移させながら、私に鍵束を差し出す。それは、まだ夢見られたことのない断崖からころがり落ちた砂岩の、偶然の意思によって生成された鉄製のこずえ。人が人を恋う瞬間に、暗い溶液の中に凝固した枝分かれした磁性体。数多くの気まぐれを素材にして、それの城邑にて生み出された符合だ。一つ目の扉を開けると星がめぐった。二つ目で生き物が目覚めた。三つ目で木々が芽吹いた。四つ目で人が死んだ。五つ目の扉の前に来て、私は銃で撃たれたかのようにためらった。そして五つ目の扉を開けると、二人目の私が現れて、私を殺していった。