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PULL. - 2008年分

選出作品 (投稿日時順 / 全5作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「 ふかづめ。 」

  PULL.




一。


 キイチのつめは、はやく伸びる。あたしが知っているおとこの中でいちばんはやく、伸びる。いくらふかく切っても、ものの一週間もすれば、しろくてほそいあの指先に、つんっ。と伸びて出る。
 だからあたしはキイチの、つめを切る。
 つめを切られるとき、キイチは、かたくなる。
「こわいの。」
 とあたしが聞くと、
「ちょっとね。」
 とキイチは答える。
「おとこなんだからこわがらないでよ。」
 とあたしが言うと、
「おとこだってこわいものはこわいんだよ。」
 とキイチは言い返す。
 キイチはあたしの前だと、弱虫で、少し頼りない、おとこになる。そんなおとこは、キイチが、はじめてだった。
 
 つめは、ひと指ずつ、切ってゆく。
 指はつめたく、こわがっている。
 ととのった甘皮のあたりが、紫色に、こわがっている。
 左の親指、次に人差し指。と順に切ってゆく。
 つめはやわらかい。つめ切りの先で挟むと、するりと落ちる。
「切れたよ。」
 とあたし。
「うん。」
 とキイチ。 
 指が、ふるえている。
「また切るよ。」
「うん。」
「もっと切るよ。」
「うん。」
「こわくいないでしょ。」
「ううん。」
 つめは次々と、するりと落ちた。

 中指は、最後に切る。
 どうして中指を残しておくのかと、キイチに聞かれたことがある。
 あたしは答えた。
「好きな、指だから。」
 キイチは真っ赤な顔をして、黙ってしまった。
 あたしの手の中のつめたい指は、やがてあたたかく、ゆるやかに、なった。




二。


 キイチのことを話すと、シタ子はいつも、嫌な顔をする。
 おんながおとこのつめを切っている。その図式が、シタ子は気に入らない。ダンソンジョヒだと、ジョセイベッシだと、シタ子は言う。いつも言う。
 だからあたし、首を、横に振る。
 あたしシタ子に首を振って、
「ちがうの。」
 と言う。
「そんなんじゃないの。」
 と言う。
 だけどシタ子、わからない。
 シタ子、溜息をつく。首を、横に振る。おおきく振る。
「わからない。そんなこと、あたしには…わからない。」
 わからない。シタ子、わからない。あたしに指を差し出すとき、キイチがどんなにかたくなるのか。わからない。だからあたしの手の中の、キイチの指がどんなにつめたくて繊細なのか。わからない。そうしていると、あたしの胸がどれだけ高鳴るのか。わからない。やわらかい。シタ子よりもやわらかい、キイチのつめが、どんなふうに切れて、落ちてゆくのかも、わからない。だからあたしが、いつもふかづめにすることも、すごくふかづめにすることも、わからない。痛がるキイチを見て、あたしがよろんでいることも、わからない。だからシタ子、わからない。シタ子は、わからない。シタ子には、わからない。わからない。わから、ない。
 
 シタ子は、キイチのことを話すと、嫌な顔をする。
 だからあたし、いつもキイチことを話して、聞かせる。




三。


「やすり。」
 と言うキイチの声は、ざらざらしている。どこが、とは言えないけれど、いつもとちがう。ざらざらしてる。
「もう一度言って。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
 キイチはあたしに言われれば、何でもする。何度でもする。だからすぐに覚える。うまくなる。
 なのに何度言ってもキイチの「やすり。」は、ざらざらしている。
 なめらかに、ならない。

「やすり。」
 またキイチが言う。
「やすり。」
 もう一度言う。
「やすり。」
 いつもとちがう。
「やすり。」
 ざらざらしてる。
「やすり。」
 なめらかにならない。
「やすり。」
 キイチの、
「やすり。」




四。


 なめらかにする。
 切ったままのつめは、ちくちくしている。つめ用のやすりを使って、なめらかにする。
 やすりで撫でると、キイチはびくんっと、からだをふるわせる。
 キイチが、かたくなる。
 つめに、やすりを当てる。かるく挽くと、削れたつめが、はらはらと、落ちる。また挽くと、またはらはらと、落ちる。挽くごとに、つめは、さらにふかづめになってゆく。やがて指先からちりと、血が、にじみ出す。キイチはかたい。あたしはきつく、やすりを当てる。キイチのつめと、指を削る。なめらかにする。なめらかに、する。
 
 なめらかになる頃、キイチの指は血塗れで、あたしの手は、血で、汚れている。
 あたしは舐める。
 ぺろぺろと舐める。きれいになるまで舐める。血は、つめたくてかわいている。きれいになると、キイチの指の血を、舐める。指の血は新鮮で、あたたかい。舌先を、つめと肉の間に、捻り込ませる。びくんっ。からだをふるわせ、キイチが呻く。
「痛いの。」 
 あたしは聞く。
「うん。」
 キイチは頷く。
 たまらなくなる。
 指に、歯を立てる。
「痛いでしょ。」
「うん。」 
 血が、なめらかに、あふれ出す。




五。


 聞いて、みたことがある。

「ほかのひとにはどんなことをされていたの。」
「ちがうこと。」
「どんなふうにちがうこと。」
「もっとちがうこと。」
「もっとちがうって、こんなこと。」
「ちがう。」
「じゃあどんなこと。」
「ちがうこと。」
「ちがうことをしたひとは、何人いたの。」
「しらない。」
「どうしてしらないの。」
「わからない。」
「これはしってる。」
「しってる。」
「そのひとはこんなことした。」
「しない。」
「そのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「そのほかのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「じゃああたしはどうしてするの。」
「わからない。」
「もっとされたいの。」
「わからない。」
「どうしてわからないの。」
「わからない。」
「なんにもわからないの。」
「ちがう。」
「じゃあなにがわかるの。」
「ちがうこと。」
「ちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「もっとちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「どうしてこんなことされたいの。」
「わからない。」
「あたしはどうしてこんなことをしているの。」
「わからない。」

 わから、ない。




六。


 知っている。
 キイチの指は、あたしを知っている。あたしの指よりも、知っている。指は、なめらかに入ってくる。キイチは少し、痛そうな顔をする。あたしの中は酸性で、ふかづめの指を、溶かす。溶けてゆく。痛そうなキイチ。溶けた指は、さっきよりもなめらかに、ふかく、入ってくる。キイチは、指は、あたしの知らないあたしを掻き回し、入って、くる。
 じくじくする。
 あたしの中がじくじくと、する。






           了。


「 犬雨。 」

  PULL.




 窓の外がうるさいのでカーテンを開けると、案の定、犬が降っているのだった。雨粒たちはみな、犬の姿をしていて、降り落ち、地面に当たると、きゃいんきゃいんと啼いて弾け数粒の、子犬になるのだった。耳を澄ますと、屋根に落ちた犬が爪を立てて、屋根瓦の上を滑り落ちてゆく音が、右に左に聴こえる。遠くで、排水溝に吸い込まれてゆく犬の、遠吠えが、する。飲みかけのティーカップの中の犬たちが、そわそわと波立ち、わたしのからだの中の犬たちが高く、呼ぶ声がする。眼から逃げ落ちた犬が。
 床に、ちいさく弾け、弾けた子犬がわたしの脚にちいさく、いくつも噛み付く。傷口からは赤い犬が流れ出し、赤い犬は猛烈な勢いでわたしに噛み付き、わたしの中をどこまでも駈け、昇った。

 からだの隅々まで犬になり、満たされたわたしは駈けていた。どこまでもずぶ濡れになりながら、激しい犬雨の中をただひたすら犬身的に、駈けて、いた。時折どこかで聴いたことのある、名前で、呼ばれることもあったが、その名前のことは、ようとして思い出せなかった。だからその名前で呼んだものに噛み付き、喰い殺した。犬死にしたものたちの肉は犬雨に打たれ、犬たちの、餌になった。
 犬雨はなお激しくなり、街の向こうではいくつもの遠吠えが、こだましている。






           了。


「 ムーフールー。 」

  PULL.



 夕暮れ近くになってムーフールーが海を見たいと言い出して、海に行くことになった。海辺の街とはいってもこの坂の家からは、海はすこし遠い、なので車で行くことも考えたが、思いなおし、自転車で行くことにした、ひさしぶりに引っぱり出してみた自転車は、やっぱり空気が抜けていて、すかすかのタイヤをぽむぽむしてムーフールーが邪魔をする。
 ムーフールーを脇にどけ、空気入れでしゅかしゅかと空気を入れる。しゅかしゅかするごとにムーフールーはぽっぺたを膨らまし、しゅかしゅかと拗ねる、わたしはそれに構わずもくもくと、さらにしゅかしゅかするのでムーフールーもしゅかしゅかと、膨らんで拗ねる、ぜんぶ入れ終わったころにはムーフールーしゅかしゅかのぱんぱんで、指でつつくと、
「ぷぅう。」
 と息を吐き出してちいさく、もとのおおきさになった。


「ほら行くよ。はやく乗って。」
 戸締まりに手間取るムーフールーに声を掛け、わたしは漕ぎ出す。一歩漕ぐごとに坂を駈け上がってくる海からの風が、わたしをうけとめてくれる、心地よい、潮の香が髪を撫でてゆく、後ろから、鍵を咥えたムーフールーがぽむぽむと追い掛けてきて、カゴに乗る、
「ぽしゅ。」
 一直線に坂を駈け下りる、もう漕ぐ必要はない、ごうごうと風が耳もとで囁いている、食いしん坊のムーフールーがもふもふと頬張り風を食べている、その顔が赤い、夕焼け色に染まっている、
「あれ、見てみなよ。」
 坂の途中で自転車をとめる、カゴから身を乗り出したムーフールーが、
「きゅぅ。」
 と息を飲む。
 街が、夕焼けに燃えている。眼下に広がるものすべてが夕焼けに染まり、その向こうできらきらと波打ち、なお燃える海の上で、おおきく眼を開けた太陽がゆらいでいる、
「じゅっ。」
 太陽が海に触れる、波がひたひたと太陽を舐める、音を立てて冷えてゆく、風がすこしつめたくなり、太陽が、ゆっくりと今日の眼を閉じる、さっきまで夕焼けに燃えていたのが嘘のように、街が暗く、夜の瞼に包まれる、まっ暗の空を見上げムーフールーが低く、喉を鳴らす、
「るぅー。」
 振り返ると坂の上から、わたしたちを見下ろすように月が昇り、ゆるゆると眼を開ける、ぽぅっとした月明かりがあたりを照らし、それを合図にしてぽつぽつと、街に明かりが灯ってゆく、
「るぅーるぅうーぃ。」
 ムーフールーが泣いている、
「るぅーぃ。」
 泣き声が風に乗り、坂の上の月をまあるく撫でて、夜の瞼の向こうに広がってゆく、わたしはムーフールーを抱き上げて、くしゅくしゅしたほっぺたに頬ずりをする。




           了。


「 ひたひた。 」

  PULL.




一。

 傘を閉じるとひたひたと雨がついてきた。玄関を上がり廊下を渡りそのままひたひたと、家に居ついてしまった、雨は客間ではなく居間に居座りとくとくと、淹れた紅茶を飲んでいる、砂糖はふたつ、家主のわたしよりもひとつ多い、しかもわたしが先月古道具屋で見つけた「とっておき」のティーカップで、わたしよりも先に飲んでいる、ひたひたとしたたかな雨だ。
 ふんっ。と鼻を鳴らし向かいの席につく、雨は慣れた手つきで、もうひとつのティーカップにわたしの紅茶を淹れた、ひとくち飲む、美味しい、こういうところもますますしたたかだ、カップを皿に戻す、かりん、と皿が澄んだ音を立てる、皿は、カップと合うようで合っていない、皿は数年前この家に越した時にお祝いに貰ったもので、その時は揃いのカップが一緒に、ついていた。


二。

 その日。背中を見ながらわたしは、紅茶を飲んでいた、かつて紅茶を友に交わし合った言葉はなく、真正面から見た顔さえも、もう思い出せなかった、ただ何も言わぬ背中だけがずっと、はじめからそうだったようにそこにあって、その日、消えた。
 消える前に何かを。何かも解らないことを言おうとして口を開き、はじめて痛みに気がついた、唇が切れていた、傷口から落ちる血が、薄く淹れた紅茶の色を、ぽたぽたと濃くしてゆく、ティーカップの端が、欠けていた。
 紅茶の色はなおも濃くなり、それを薄めるようにわたしは、涙をこぼしていた。


三。

 ティーカップは季節ごとに替わったが、どれもしっくりは来ず、結局皿だけが、次の季節に残った。


四。

 ひと眼惚れ。とでもいうのだろうか?はじめての体験だった、雨宿りに店に入ってすぐに、眼が合った、奥のレジに持ってゆくと、スポーツ新聞の向こうから店主が眠そうな声で、
「それ、皿ついてないですよ。」
 と言った、
「いいです。買います。」
 そう答えると、店主はスポーツ新聞の端からちらりと、こちらを見て、
「物好きだねあんた。」
 と言い、ぽつり、こうも続けた、
「半額でいいよ。」
「いいんですか?。」
「いいのいいの、雨の日はいつも暇でね。あんた、今日はじめてのお客さんだからさ、いいのいいの、あ…包むもんがない。さすがにあんた物好きでも、このまんま裸じゃ持って帰れないよね、そうだよね、裸はまずいよね、あ…これでいいか。」
 店主はスポーツ新聞の競馬欄をびりりと裂いて、
「どうせこんなもん、その時々の運だしね。運ようん。うんうん。アテにならないよこんなもんは、天気予報と同じでさ、先週も当たらなかったしさ。うんうん。運だようん。」
 とぶつぶつと言いながらそれでも、丁重に包んでくれた、
「大切に使います。」
「いいのいいの。ほらさっさと帰らないと、また雨が強くなっちゃうよ。」
 店を出る前に振り返ると、店主はまたスポーツ新聞の向こうにいた、
「ありがとうございました。」
 頭を下げると、
「いいのいいの。」
 とスポーツ新聞からはみ出した手をひらひらと振って、返してくれた。


五。

 傘を広げると雨音が帰って来た。足下は雨に濡れて、パンプスでは滑って転びそうだったけど、何だか久しぶりにしっくりとした足取りで、歩けた、水溜まりに入るとちゃぷちゃぷと、音がした、歌いたくなった、歌っていた、わたしと、わたしを包み込むすべての雨が、歌っていた、玄関を大きく開けて家に入り、あれ以来はじめて、
「ただいま。」
 と言った、そして悲しくもないのに流す涙があるのだと、知った。


六。

 雨は気がつくと、そばにいる。したたかに、ひたひたと足音を忍ばせそばに来る、ぴたり、肌をつけると雨はあたたかい、雨のあたたかさに満たされてゆくうちにわたしは眠くなる、眠くなり深く、どこまでもひとつぶに落ちるように眠り、ぴたり、降り落ちたように目が醒める、雨がもうひとつぶ、隣で寝息を立てている、わたしは脱がされて裸のままで、雨に抱きしめられている。
 やはりしたたかな雨だなと、今日も思い、想う。




           了。


「 蛇。 」

  PULL.



 わたしは夜、蛇になって男の躯にもぐり込みたいと願うことがある。わたしは細くしなやかな蛇になり、わたしよりもごつごつとした男の肛門を掻き分けにゅるにゅるとからだをくねらせもぐり込み、この肌の鱗で、ざらざらと腸を擦り粘膜を剥ぎ胃から食道へと抜け男を、突き破るのだ。

 この男はいつもわたしのからだにもぐり込むことを得意としている。そしてざらさらとしたわたしからだの中の様子を、事細かにわたしに話して聞かせるのも得意だ、だからきっとわたしもこの男に、この男の躯の中の様子を事細かに話して聞かせうんざりとさせるのだろう、いや、ひよっとすると男の躯の中の方が居心地が良くなってわたしは出てこなくなるかもしれない、そうしたらこの男はどうするだろうか?内蔵の中でざらざらと動くわたしを宿したままいつもの仕事をし、普段通りの生活を続けるのだろうか?結婚もしていない男の躯の中に宿ってしまったわたしを、果たして母は許してくれるだろうか?また男は自らの躯の中に棲み着いてしまった女を、愛してくれるのだろうか?もし男が他の女と浮気をすればわたしは、男の射精と共に排出されてしまわないだろうか?そうしたらわたしはその女の子宮の中で、宿るのだろうか?やがて生まれてくるだろうわたしはその女とこの男を母と父と、呼ぶのだろうか?そもそもわたしは夜、蛇になれるのだろうか?。

 からだの中は夜だ。わたしのからだの中に太陽はなく、月に一度赤くなる月しかない、男の躯の中のことはまだ知らない、わたしはまだ蛇になったことはなく、もちろんどの男の躯にもぐり込んだこともない、わたしは父も知らない、確かに父の躯の中に宿り排出されたわたしであるはずなのに、わたしにその記憶はない、幼い頃父のことをしつこく訊くわたしに母はただ一言、冷たいひとだったと、言ったのだった、以来わたしの中の父は冷たいひとになった、冷たい、この男の冷たい躯は父を想わせる、わたしは二つに裂けた舌を這わせ男を奮い立たせようとする、男の肌は青く氷のように冷たい、わたしの舌が男の太陽の皺をちろちろと舐める、男が冷たく奮い立つ、なめらかにもぐり込んだ男がわたしの中の月を突き上げる、やがて冷たいものがわたしの中で弾ける、なまあたたかいものが月に、かかる。

 男が来るのはいつも夜だがここの外が本当に夜なのかわたしには解らない。男はわたしをここから出そうとしないのでわたしはわたしのからだに訊いてみるしかないがわたしのからだの中はいつも夜なのでやはりわたしは解らないでも、男の来ない間は昼で男が来るのは夜だと思うことにしている、何故なら男は必ず夕食を持って現れるからだ、夕食は男の食べるものと同じなのでわたしにはいつも少し物足りないがそれを男に言ったことはない、男は傷付きやすい存在で父もそうだったと母が言ったからだ、わたしは母のようにはなりたくなかった、母のようになることはわたしが蛇になれないということだった、蛇になれなかった母は父の体の中に宿ることもできず棲むことも叶わなかった、わたしは母のようになりたくない、わたしは母になりたくない、母になりたくないわたしは男に囚われここにいる、だからここにいるわたしは母ではありえなかったがそれでも時折、男が何故わたしを外に出そうとしないのかと思うこともある、男はわたしを恥じているのだろうか?母になれないわたしを男は、恥じて隠しているのだろうか?ならばわたしも隠さなければならない夜が、男が来る前に。

 この頃は昼も、鱗が生えるようになった。わたしは包丁の背で、魚でするように腕の鱗をこそぎ落とす、ざりざりと鱗が浴室のタイルの上に落ちる、わたしは一枚を摘み電球に透かす、鱗の向こうで眩しく、歪んだ電球が眼球のようにぶら下がってわたしを見ている、大きな、ぐろぐろとした眩しい眼、細長い瞳孔がきゅっと縮まる、見られている、わたしは恐くなり眼をつむりきつく、さっきよりも強い力で包丁の背でからだの鱗をこそぎ落とすざりざりと、鱗が残酷な音を立てて落ちる、次に眼を開けたわたしには鱗ひとつなく、眼球は電球に戻り、つるりとした肌が待っている、わたしは念入りに鱗を拾い集め浴室の排水溝に一枚また一枚と落とす、排水溝は音もなく飲み込みわたしの鱗を吐き出さない、だけどわたしはそれでは安心できなくて排水溝に詰まった髪を溶かす薬品をさらに流し込む、こんなものでわたしの鱗が溶けてしまうのかどうかわたしには解らない、とにかくわたしは安心したかった、一秒でも早くわたしの鱗とあのぐろぐろとした眼のことを忘れて溶かしてしまいたかった、排水溝の向こうからつんとするものが立ち上がる、鼻の奥が痛くなった、なまぐさいものがわたしの胸を通り過ぎた、ざらざらと喉の奥で擦れ溶けてゆく鱗の感触がした、わたしは酸っぱいものが込み上げる口を押さえ逃げるように浴室を出た、鱗の落ちた裸足から伝わる冷たいタイルの感覚が、夕べの男の躯を想い出させた。

 眼が醒めると男の胃の中にいる。長いわたしの尻尾はまだ男の腸の中にいて引き抜くと、腸の粘膜が剥がれる感触がした、上の方で男の呻く声がして胃が揺れる、少し男が気の毒になったが毎晩わたしのからだの中の粘膜をさんざん引っ掻き回しもぐり込む男のことを考えると、それも当然の報いのような気になった、尻尾の先で胃壁を突くとさらに激しく男の躯の中が揺れた、胃の内容物が降りかかるどろどろと、夕食の肉じゃがのじゃがいもの横で見覚えある鱗が一枚、溶けていた。




           了。

文学極道

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